頑是ない歌 中原中也
頑 是 な い 歌
思へば遠く來たもんだ
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた
汽笛の湯氣(ゆげ)は今いづこ
雲の間に月はゐて
それな汽笛を耳にすると
竦然として身をすくめ
月はその時空にゐた
それから何年經つたことか
汽笛の湯氣を茫然と
眼で追ひかなしくなつてゐた
あの頃の俺はいまいづこ
今では女房子供持ち
思へば遠く來たもんだ
此の先まだまだ何時までか
生きてゆくのであらうけど
生きてゆくのであらうけど
遠く經て來た日や夜(よる)の
あんまりこんなにこひしゆては
なんだか自信が持てないよ
さりとて生きてゆく限り
結局我ン張る僕の性質(さが)
と思へばなんだか我ながら
いたはしいよなものですよ
考へてみればそれはまあ
結局我ン張るのだとして
昔戀しい時もあり そして
どうにかやつてはゆくのでせう
考へてみれば簡單だ
畢竟意志の問題だ
なんとかやるより仕方もない
やりさへすればよいのだと
思ふけれどもそれもそれ
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた
汽笛の湯氣や今いづこ
[やぶちゃん注:サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説によれば、昭和一〇(一九三五)年十二月(中也満二十八)の作で、翌年一月号『文藝汎論』初出とする。
「十二の冬のあの夕べ/港の空に鳴り響いた/汽笛の湯氣(ゆげ)は今いづこ」「十二の冬」は「十二」(数え)が正確ならば、大正七(一九一八)年となる。山口師範附属小学校小学校四年生である(この歳の四月にそれまで在籍していた下宇野令(うのれ)小学校から山口県立山口中学受験のためにこちらに転校した)。新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」の年譜の同年の記載に、『一時、科学に懲(こ)り、発明家を夢みて』父の『病院から試薬を持ち出し、実験に耽ったりした』とあり、またこの頃、『防長新聞』や『『婦人畫報』等に短歌を投稿』している。『学校には「矢鱈に何ということなしに心惹かれていた女教員」がいて、彼女の茶色の袴(はかま)を恋しい気持ちで眺めていた』とあるだけで、この「十二の冬のあの夕べ」、とある「港の空に鳴り響いた」「汽笛の湯氣(ゆげ)」の音や映像を解明してくれる事実や事件やそれを匂わせる事蹟は記されていない。ただ、私はまず、この「十二」というのは七五調の韻律上から選ばれた〈それらしい記号〉なのではないかと疑っている。「十」や「十三」「十六」ではだめなのは明白である。しかも、いかにも事実らしく聴こえる「十二の冬」という年齢・季節といい、限定された或る秘密めいた一日(ひとひ)の「あの夕べ」といい、潮の匂いの漂う「港の空」といい、そこに劈ざくように「鳴り響いた」船の「汽笛」と、その「湯氣(ゆげ)」の視聴覚上のリアリズムに、我々は具体な、どこかの港の夕暮れの情景や、なんとなく妖しい雰囲気の実画面を描きがちになる。しかし私はこれは全くの彼の幼年幻想とその終わりというものの仮想イメージなのだと思っている。則ち、これら「十二の冬のあの夕べ」や「港の空に鳴り響いた」「汽笛の湯氣」続く二連の「雲間」の「月」やは、すべてが、一人の、頻りに尖(とん)がったポーズをしたがる少年が、早々と大人の真似(或いはをし、パイプなど銜えて、詩人のマドロスとして、退屈で不満に満ちた世俗世界におさらばし、何か面白いことが出来そうな荒海(それは怪しい科学実験でも非生産的な発明でももっと非生産的なる芸術やら文芸でも/でこそよい世界である)へと向かいたいと夢想した〈幼年幻想/詩人幻想の「時空」に於ける記号〉なのだと思うのである。
「それな」「な」は強調して念を押す間投助詞。
「竦然」(しようぜん(しょうぜん)」は「ひどく恐れるさま・慄(ぞ)っとして竦(すく)むさま。
「今では女房子供持ち」これが創作された昭和一〇(一九三五)年十二月当時は妻孝子と結婚後二年目、長男文也(昭和九年十月十八日生まれ)は一歳二ヶ月であった。
「こひしゆては」「戀ひしゆては(こひしゅては)」。恋しゅうては。恋しさがつのってくる状態では。
「我ン張る」「頑張る」。]