この小兒 中原中也
こ の 小 兒
コボルト空に往交(ゆきか)へば、
野に
蒼白の
この小兒。
黑雲空にすぢ引けば、
この小兒
搾る淚は
銀の液……
地球が二つに割れゝばいい、
そして片方は洋行すればいい、
すれば私はもう片方に腰掛けて
靑空をばかり――
花崗の巖(いはほ)や
濱の空
み寺の屋根や
海の果て……
[やぶちゃん注:太字「もう片方」は原詩集では傍点「ヽ」。「この小兒」とは精霊「コボルト」(後注参照)の変じた長男文也を具体なイメージの一つとしながら、それが詩の半ばで詩人自身にグラデーションを以ってメタモルフォーゼするかのようである。
「コボルト」(ドイツ語:Kobold:カタカナ音写:コォゥバァルドゥ)はドイツの民間伝承に由来する醜い悪戯好きの妖精或いは鉱山の地霊などの、精霊群を指す汎用名称。ウィキの「コボルト」より引く。『コボルトはドイツ語で邪な精霊を意味し、英語ではしばしばゴブリンと訳される』(Goblin。広く西欧で信じられている、森や洞窟に住むとされる醜い小人の姿をした悪戯好きの精霊の汎称。このドイツの「コボルト」の他、フランスでは「ゴブラン」(Gobelin)と呼んだりする。映画で有名になったグレムリン(gremlin)もゴブリンの一種である)。『最も一般的なイメージは、ときに手助けしてくれたりときにいたずらをするような家に住むこびとたちというものである。彼らはミルクや穀物などと引き替えに家事をしてくれたりもするが、贈り物をしないままだと』、『住人の人間にいたずらをして遊んだりもする。また、一度』、『贈り物をもらったコボルトはその家から出て行ってしまうと言われる。もうひとつあるコボルトのイメージは、坑道や地下に住み、ノームにより近い姿である』『金属元素コバルトの名はコボルトに由来する』が、これは『コバルト鉱物は冶金が困難なため』、十六『世紀頃のドイツでは、コボルトが坑夫を困らせるために魔法をかけて作った鉱物と信じられていたからである』とある。
「黑雲」「こくうん」「くろくも」孰れとも読める。因みに本詩篇の上の定位置に記された第一連・第四連は総てが初行と最終行の頭をカ行音で合わせてある。個人的には、次行の「この小兒」の「こ」と響き合わせて、独特の硬質感(後で地球が割れればいいといい、最終連に花崗岩が出る辺りも含め)を出したい気がするので「こくうん」と私は読みたい。
「そして片方は洋行すればいい」「すれば私はもう片方に腰掛けて」「靑空をばかり――」やや分かり難いが、厭世的詩人は言い放つ。『地球が二つに割れてしまえばいい、割れてしまったら、その一方はどこか遠い宇宙のどことなりへと旅立って(「洋行」)しまえばいい、旅だって俺独りになったなら、その一方は私の足下に残っている、そこで「私は」その片割れの半地球に徐ろに「腰掛けて」「靑空をばかり」眺めて居たい』というのである。さてもこれは私の偏愛する尾形龜之助の、あの詩集「色ガラスの街」(大正一四(一九二五)年十一月惠風館刊。リンク先は私が二〇一四年に作った〈初版本バーチャル復刻版〉)の一篇、
*
不幸な夢
「空が海になる
私達の上の方に空がそのまま海になる
日 ―― 」
そんな日が來たら
そんな日が來たら笹の舟を澤山つくつて
仰向けに寢ころんで流してみたい
*
を私は直ちに想起する。
「花崗」「くわこう(かこう)」。花崗岩。以下、「濱の空」「み寺の屋根」「海の果て」と、かなり具体なロケーションが続くので、この第四連は特定の場所がイメージされていることは間違いないが、不詳。]