中原中也詩集「在りし日の歌」(正規表現復元版)始動 /「目次」まで
[やぶちゃん注:本電子化は昭和一三(一九三七)年四月十五日創元社発行の中原中也(明治四〇(一九〇七)年)四月二十九日~昭和一二(一九三七)年十月二十二日:山口県吉敷郡山口町大字下宇野令(しもうのりょう)村(現在の山口市湯田温泉)生まれ。旧姓は柏村(大正四(一九一五)年改姓)であるが、これは最終的に陸軍軍医であった父謙助が妻のフクの実家と養子縁組した結果の改姓である。この父自身、「小林」→「野村」→「柏村」→「中原」と生涯に三度も姓を変えねばならなかった。その経緯はウィキの「中原謙助」を参照されたい。なお、中也の死因は急性(現在は結核性とされる)脳膜炎で、満三十歳と六ヶ月、ぎりぎり夭折の詩人であった)の没後六ヶ月後の出版となった第二詩集「在りし日の歌」を、可能な限り、正規表現で復元したものである。底本は所持する昭和五八(一九八三)年八月日本近代文学館刊の「名著復刻 詩歌文学館」〈紫陽花セット〉の同詩集を用いた。但し、私の電子データ・ストックの中にある、中原中也記念館館長中原豊氏がかつて電子化されて配布されておられた、同詩集の、歴史的仮名遣表記で漢字が新字体となっているベタ・テクスト・データ「在りし日の歌」(底本は昭和四八(一九七三)年日本近代文学館刊「復刻版『在りし日の歌』」及び昭四六(一九七一)年五月角川書店刊「中原中也全集」第一巻)を加工用に使用させて戴いた(一九九七年七月入手)。ここに御礼申し上げる。但し、この電子データは現在はネット上では入手出来ない模様である。
読みは今まで通り、( )で後に同ポイントで添えた。但し、今回の字体は原著に近い明朝で示すことにした。さらに、今までの私の電子化と異なり、使用可能な旧字フォントは総て使用するため、そちらの使用環境によっては表示されない字が出てくるのはお許しあれ。また、傍点(巻頭の「含羞」に出るが、全体的には極めて少ない)は出来ないことはないのだが、不具合が生ずることが多いため(上手くいっても、後に修正することが難しい上に、デバイスや環境によってズレが生じるらしい)、例外的に太字とし、後注を附すことにした。なるべく字のポイント・字配り・字間も復元するように心がけたが、ブログ・ブラウザでの不具合を考えて、必ずしも正確には再現していない箇所もある。それが極端に異なる場合は注を入れた。また、読みなどの不審な箇所は、所持する新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」(大岡昇平・飯島耕一編)等を参考にして注を附した。また、ネット上ではこれ以上にはないと思う強力な合地舜介氏のサイト「中原中也・全詩アーカイブ」があり、これは各詩篇に解説がついていて、それがまた、非常に鑑賞に有益な情報を提供して呉れている。引用ページ明記の上でこれも参考にさせて戴く。
テクストだけでなく、ヴァーチャルな部分でも復元しておきたく思うので、冒頭に箱・表紙・口絵写真をスキャン画像で表示した。
なお、これは詩集「在りし日の歌」の正規表現の復元電子化を意図したものであるので、私の注は極力、排したいと考えているが、中には作詩背景、表現や特殊な語句で必要な箇所が出てくる。そこは出来得る限り、ストイックに注したいと考えてはいる。なお、このためにブログ・カテゴリ『中原中也詩集「在りし日の歌」(正規表現復元版)』を設けた。【2018年5月20日始動 藪野直史】]
中原中也著
在りし日の歌
創元社
在りし日の歌 中原中也
[やぶちゃん注:箱の表及び背。現物は実際には、背の右側の部分と同様に(ここでは画像読み取りする際、綺麗に正立させることしか意識しなかったので、ガラス画面の縁に寄せたため、殆んど映り込んでいない)、表の斜め縞のデザイン模様の右部分は折り返した四ミリメートル程が、箱の内側に折り込まれてある。]
在りし日の歌 中原中也
[やぶちゃん注:本冊の表紙・背・背表紙。]
中 原 中 也 著
在 り し 日 の 歌
創元社
[やぶちゃん注:扉。]
亡き兒文也の靈に捧ぐ
[やぶちゃん注:扉裏の献辞。次の口絵写真の右頁。以下の写真で間紙(あいし)を透かして見える。文也(ふみや)は、昭和八(一九三三)年十一月(中也二十六歳)に結婚した遠縁の上野孝子(六歳歳下)との間に翌昭和九年十月十八日に生まれた長男。しかし、昭和十一年十一月十日、僅か二歳で小児結核のために急逝した。翌月十二月十五日には次男愛雅(よしまさ)が生まれたが、文也喪失の悲哀は激しく、中也はこの死の直後に幻聴を含むかなり重い精神変調を来している。なお、次男愛雅も中也の没した翌年一月、やはり一歳とわずかで病死している。]
[やぶちゃん注:口絵肖像。以下の目次末尾にある通り、著者十九歳の折りの写真。非常に知られたものであが、ウィキの「中原中也」の同写真のキャプションに、大正一四(一九二五)年、上京した満十八歳頃のもので、銀座の有賀写真館で撮影されたとある。
以下、「目次」を示すが、附しても全く意味がないので、リーダとページ・ナンバーは省略した。]
目 次
在りし日の歌
含羞
むなしさ
夜更の雨
早春の風
月
靑い瞳
1. 夏の朝
2. 冬の朝
三歲の記憶
六月の雨
雨の日
春
春の日の歌
夏の夜
幼獸の歌
この小兒
冬の日の記憶
秋の日
冷たい夜
冬の明け方
老いたる者をして
湖上
冬の夜
秋の消息
骨
秋日狂亂
朝鮮女
夏の夜に覺めてみた夢
春と赤ン坊
雲雀
初夏の夜
北の海
頑是ない歌
閑寂
お道化うた
思ひ出
殘暑
除夜の鐘
雪の賦
わが半生
獨身者
春宵感懷
曇天
蜻蛉に寄す
永訣の秋
ゆきてかへらぬ
一つのメルヘン
幻影
あばずれ女の亭主が歌つた
言葉なき歌
月夜の濱邊
また來ん春
月の光 その一
月の光 その二
村の時計
或る男の肖像
冬の長門峽
米子
正午
春日狂想
蛙聲
後記
(口繪肖像著者十九歲)
裝幀 靑山二郎
[やぶちゃん注:「青山二郎」(明治三四(一九〇一)年~昭和 五四(一九七九)年)は装丁家・美術評論家。中也とは昭六(一九三一)年五月に知り合い、中也が結婚後に四谷区花園町の花園アパートに住んだ際も、同じところに青山も住んでおり、小林秀雄や大岡昇平らがよく訪ねて来て、文芸サークル的雰囲気を成していたようである。]
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