明恵上人夢記 64・65
64
一、夢に、殊勝なる殿に到る。池等、處々二三ありと思ふ。悦びの意の朋友等、之在り。
[やぶちゃん注:クレジットなし。しかし、「63」夢との連続と採り、承久元(一二一九)年七月十三或いは十四日以降の夢としておく。
「殊勝なる」格別に設計されて手入れも行き届いた。
「之在り」「これ、あり」。]
□やぶちゃん現代語訳
こんな夢を見た。
格別に勝れた建築で手入れも行き届いている仏殿に辿りつく。
『心を静謐にさせる池なども、ところどころ、二つも三つも配されているではないか。』
と瞬時に判った。
傍らには、心底から悦びの思いを湛えている朋友らが、ともにあるのである。
65
一、夢に、母堂に謁す。尼の形也。常圓房、其の前に在りと云々。
[やぶちゃん注:クレジットなし。しかし、「64」の連続と採り、承久元(一二一九)年七月十三日或いは十四日以降の夢としておく。本記載を持って、一つのパートが終わっており、以下は連続した記載ではない。但し、次の冒頭には「承久二年 同八月十一日」のクレジット記載があるから、時系列上の連続性は問題がない。
「母堂」明恵は治承四(一一八〇)年正月、数え九歳で母を失っており(病死)、八ヶ月後の九月には父平重国(元は高倉上皇の武者所の武士)が上総で敗死している。因みに、「63」夢で示した、明恵が自身にとって最も安定的で問題のない修法とする「仏眼法」とは、実は密教の女神である「仏眼尊」「仏眼仏母」を観想する修法であり、「仏眼仏母」は般若の智慧を象徴した神格で、仏陀を出生させる母であるともされ、一切諸仏の母とさえされる存在なのである。胎蔵界曼荼羅遍知院中央一切如来知印の北方、並びに釈迦院中央釈迦牟尼仏の北方列第一位に在って、菩薩形で結跏趺坐している。息災延命を祈る修法の本尊とされる。河合隼雄氏は「明惠 夢に生きる」(一九八七年京都松柏社刊)で、この明恵が若き日より強く指向し続けた仏眼仏母との一体感は、強烈にストイックな修行者としての明恵の修行の中にあってさえ、実は『愛人としても体験されたのではないかと思われる。もちろん、ここで愛人といっても、それは母=愛人の未分化な状態であり、性心理學的表現で言えば、母子相姦的関係であったと言える』と述べておられる。この見解に私は激しく共感するものである。ここで明恵の母が尼僧の姿であるのは、実は明恵の永遠の愛人=母=原母=仏眼仏母であることを意味しているのではあるまいか?
「常圓房」底本注に『明恵の姉妹の一人』とある。さて、実は河合隼雄氏は「明惠 夢に生きる」でこの短い夢を明恵の特異点の夢として挙げ、分析しておられる(河合氏はこれら「63・64・65」夢を同一時制内で見たものと捉え、建保七年(一二一九)七月十三日の夢と推定されておられる)。ここでは、それを総て引用させて戴く。
《引用開始》
常円房は明恵の姉妹である。この夢は数多くの明恵の夢の記録のなかで、唯一つ、彼の母と姉妹が出現している珍しい夢である(父親の夢は一つも記録されていない)。これは非常に珍しいことで、特に明恵のように十九歳という若いときから夢を記録していると、たとえ両親が死亡していても、夢には両親が少しは顔を出すものである。九歳のときに乳母の夢を見ているが、あるいは、十九歳までは彼も家族の夢をよく見たのかも知れない。十六歳で出家したとき、釈迦が父に、仏眼仏母が母になって、肉親としての父母は、彼の内界においてあまり意味をもたなくなったのであろう。ところが、ここでは突如として、母がその娘と共に登場している。
これは女性との「結合」を経験し、以後のより深い世界へと突入してゆこうとする明恵にとって、一度はその肉親に会うことが必要だったということであろう。遠くに旅立つ人が両親に挨拶に帰るように、このようなことは夢に割とよく生じることである。これは時に妨害的にはたらき、深層への旅立ちや、未知の女性との接触を、何らかの方法で肉親(特に母親)が妨害する夢として生じてくる。
明恵の場合は、そのような意味でなく挨拶、あるいは、慰めの意味で母に会ったのであろう。母は既に尼になっていて、仏門に帰依している。明恵は安心して深層への旅を志したであろう。
《引用終了》]
□やぶちゃん現代語訳
65
こんな夢を見た。
母上に謁する。
母上は尼の姿なのである。
そうして、その場には私の姉(妹)の常円房が、母上の前にいるのである……。
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