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2018/05/11

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十一年 「足立たば」「われは」

 

    「足立たば」「われは」

 

 七月の何日であるかわからぬが、居士は夕方から車に乗って出遊を試みた。「日頃のつれづれを慰めんとある夕車に載せられて兩國向嶋などうちめぐるに見る者皆珍らかなる心地しければ」という前書で、八首の歌が七月三十日の『日本』に出ている。越えて八月八日「夕涼み」という題で『日本』に掲げた文章は、この時の事を記したものである。歌と文章と相俟って見ると、その時の様子の思いやらるるものが多い。居士は両国を渡って川沿に吾妻橋の方へ向いながら、「上げ汐溢れんとして夕風波だつ中を人のぬき手きつて泳ぐを見るに、物おそろしき心地に先づ肝潰るゝは我ながら氣の衰へたるよ」といっている。「風起る隅田の川の上げ汐に夕波かづき泳ぐ子等はも」という歌はこの事を詠んだので、足立たぬ身を車で運ばれる居士にして、はじめて「物おそろしき心地に先づ肝潰るゝ」という心持が起るのであろう。

 向嶋は明治二十一年に居士が一夏を過し、「七草集」を草した処である。月香楼は依然としてそこにあり、昔の人もそこに住んでいる。居士はこの帰途、今戸の灯の近くつらなり、大きな三日月の入らんとして駒形堂にかかっているのを見、十年前の自己を顧みて懐旧の情に堪えなかった。

 

 我昔住みにし跡を尋ぬれば櫻茂りて人老いにけり

 月細き隅田の川の夕間暮待乳(まつち)を見ればむかし偲ばゆ

 

 「十年前の夏の三日月此夕」というのはこの時の懐旧の句であるが、やはり歌の方がよく情懐を現しているようである。

[やぶちゃん注:この折りの全八首はこれ(国立国会図書館デジタルコレクションのアルス版「子規全集」第六巻(短歌)の画像。以下、無記のリンクはそれ)。

「待乳」現在の東京都台東区浅草にある、浅草寺の子院の待乳山本龍院(ほんりゅういん)(元は天台宗。第二次世界大戦後に本山の浅草寺が独立して聖観音宗の総本山となったため、本院も現在は同宗)。ここ(グーグル・マップ・データ)。本尊は歓喜天(聖天)・十一面観音で、江戸の昔から「待乳山聖天(まつちやましょうでん)」と称され、隅田川河畔の小高い丘である待乳山にあることから、曾ては周囲が見渡せ、江戸時代には多くの文人墨客がこの地を訪れている。この寺には浅草名所七福神の内の毘沙門天が祀られてある。参照したウィキの「本龍院」によれば、『待乳は、真土とも書き、この辺り一帯は泥海だったが、ここだけが真の土であったことを由来とする説がある』とあり、「待乳」は単なる洒落た当て字の可能性が高い。]

 

 八月中は歌を作ること最も多く、『日本』に発表した回数も十二回に及んでいる。「戯道・種竹(しゅちく)・不折諸氏黑田侯に倶して富士へ登ると聞えければ」とか、「わが庭」とか、「日暮里諏訪神社の茶店に遊びて」とか、「灼くが如き暑き日に雪の圖をかけて」とかいう風に、一(ひとつ)の場合なり光景なりを詠んだものが多くなったこと、「讀杜詩(としをよむ)」の題下に「石壕吏」「秋興八首」「新婚別」などの詩を歌に移したことなども、従来といささか趣を異にしているが、それよりも更に注意すべきものは、猟官熱(りょうかんねつ)を嘲った「蒼蠅の歌」とか、「足立たば」とか、「われは」とかいう種類のものである。これまで『日本』に掲げられた居士の歌は、俳句における一題十句と同じく、或題目によって起る連想を片端(かたはし)から歌にしたので、むしろその変化をよろこぶ傾向が多かったから、一首一首の間に連絡がないのみならず、全体として見ても別に纏ったものがあるわけではない。然るに「蒼蠅(さうよう)の歌」以下のものに至っては、連想の赴くままに歌をつらねることは同じであっても、そこに小環を貫く大環の如きものがあり、全体が或一つのものになっている。前後して『日本』に出た「雲の峰」とか、「團扇」とかいう歌に比べて見れば、その点は明(あきらか)になることと思う。

 

 足立たば箱根の七湯七夜寐て水海(みづうみ)の月に舟うけましを

 足立たば不盡(ふじ)の高嶺(たかね)のいたゞきをいかづちなして蹈み鳴らさましを

 足立たば二荒(ふたら)のおくの水海にひとり隱れて月を見ましを

 足立たば北インヂヤのヒマラヤのエヴエレストなる雪くはましを

 足立たば蝦夷の栗原くぬ木原アイノが友と熊殺さましを

 足立たば新高山(にいたかやま)の山もとにいほり結びてバナヽ植ゑましを

 足立たば大和山城うちめぐり須磨の浦わに晝寐せましを

 足立たば黃河の水をかち渉り華山(かざん)の蓮の花剪(き)らましを

 

[やぶちゃん注:短歌はもとより、ここでは前文中の歌の前書も特異的に正字化した。単に私の気まぐれである。

「戯道・種竹(しゅちく)・不折諸氏黑田侯に倶して富士へ登ると聞えければ」『猟官熱(りょうかんねつ)を嘲った「蒼蠅の歌」』はで読める。「戯道」ジャーナリスト末永純一郎(鉄巌)。既出既注。「種竹」漢詩人で官僚であった本田種竹。既出既注。「不折」画家中村不折。既出既注。三氏ともに子規の友人。「黑田侯」恐らく、政治家の侯爵黒田長成(ながしげ 慶応三(一八六七)年~昭和一四(一九三九)年:父は筑前福岡藩最後藩主黒田長知。妻は公爵島津忠義の娘清子。黒田長政から数えて福岡黒田家十三代目当主。明治一七(一八八四)年に侯爵を授けられている)と思われる。「猟官」とは官職を得ようとして多くの者が争うことを指すが、思うに、これはこの明治三一(一八九八)年夏の八月十日に行われた第六回衆議院議員総選挙のことを指しているものと思われる。

「わが庭」複数ある。か、これ。叙述の時系列から見て、宵曲の指しているのは後者であろう。

「日暮里諏訪神社の茶店に遊びて」これ

「灼くが如き暑き日に雪の圖をかけて」これ

「讀杜詩(としをよむ)」ここから三部立てで、全二十二首に及ぶ。

「足立たば」これは以下に引かれた八首と読めるが、以下で宵曲が述べる通り、これらの前書は「足立たば」ではないこれで、前書は以下の通り。後に宵曲が示す冒頭の一首とともに示す。正直、宵曲のこうした演出的引用法は私は好かない。この前書と巻頭歌あってこその歩けぬ子規の歌群だからである(自明のそれを後で種明かし風に示すのは厭らしい仕儀としか私には思えないからである)

   *

   徒然坊箱根より寫眞數葉を送りこしける返事に

 三寸の筒を開けばたまくしげ箱根の山はあらはれにけり

   *

「徒然坊」は川柳作家阪井久良伎。既出既注

「われは」

「雲の峰」これ

「團扇」これ

「新高山」台湾のほぼ中央部に位置する標高三千九百五十二メートルの、台湾の最高峰玉山(ユイシャン/ぎょくざん)の日本統治時代(日清戦争後の下関条約によって台湾が清から日本に割譲された一八九五年(光緒二十一年/明治二十八年)四月十七日から第二次世界大戦後のポツダム宣言によって台湾が日本から中華民国に編入された一九四五年(民国三十四年/昭和二十年)十月二十五日まで)の旧称。台湾原住民ツォウ族の言葉では「パットンカン」(「石英」の意)と呼ぶ。標高から判るが、この統治時代の五十年間、富士山は日本の最高峰ではなかったのである。当時、大日本帝国の学校に於いても「日本一の山」として「新高山」が教えられていた事実を認識している現代人は殆んどいないであろう。ここは主にウィキの「玉山(台湾)」に拠ったが、それによれば、『日本統治時代には、明治天皇により』、『富士山よりも高い「新しい日本最高峰」の意味で』「新高山」『と名づけられた。しかし皮肉にも、台湾で最も遅くまで日本に抵抗したのは、新高山の周囲に住むブヌン族の「郡蕃」と呼ばれる一群であり、新高山南面の荖濃渓上流部は』一九三三年に『なって』、『ようやく』、『日本の実質統治下に入ったが』、その前年には『南方の大関山駐在所が襲撃され、日本人警察官』三『名が殺害され』ており(大関山事件)、一九三四年には『東方のラクラク渓上流部で、日本人警察官が殺害され』、『(玉里事件)。また』、一九四一年にも、『遥か南方の北糸䰗』(「ホクシキュウ」と読んでおく)『渓畔の駐在所が襲われ、日本人警察官ら』三『名が殺害された「内本鹿事件」が発生するなど、新高山周辺では終戦に至るまで、日本人側からは「蕃害」と呼ばれたブヌン族による抵抗運動が多発した』。昭和一六(一九四一)年十二月二日に『発令された日米開戦の日時を告げる、大日本帝国海軍の暗号電文『ニイタカヤマノボレ一二〇八』の「ニイタカヤマ」とは、当山のことである』とある。正直、私でさえ、小学生の頃、この暗号の「にいたかやま」とは富士山の暗号だと思っていた。

「華山」現在の西安の東、中国陝西省華陰市にある中国五名山の一つで「西岳」とも呼ばれるホワシャン。標高二千百五十四メートル。ウィキの「華山によれば、『花崗岩が露出した険しい山肌が続く景勝地として知られ』、『道教や仏教などの修行地として利用され』た『歴史的な建造物が点在する』とある。(グーグル・マップ・データ)。この山の東北直下で黄河は直角に折れて北上する。]

 

 阪井久良伎氏が箱根から数葉の写真を送って来た。それに対して「三寸の筒を開けばたまくしげ箱根の山はあらはれにけり」と詠んだことからこの連想ははじまるのであるが、足の立つ望(のぞみ)を失った居士が「足立たば」という空想をつらねるところに、普通の空想と異った響がある。「二荒のおくの水海」は居士が「中禪寺の湖は一たび余が目に觸れしより後、再び忘るべからざるの地なり」といったところであり、「晝寐せましを」という須磨はかつて療養に日を送つた馴染の地である。新領土の台湾を思いやるにつけても、「バナ、食はましを」という希望を述べているのは居士の居士たる所以であろう。「われは」の方は更に一層強く居士の境涯が現れている。

[やぶちゃん注:「中禪寺の湖は一たび余が目に觸れしより後、再び忘るべからざるの地なり」引用元不詳。識者の御教授を乞う。

 以下の「われは」は先に示した。]

 

 世の人は四國猿とぞ笑ふなる四國の猿の子猿ぞわれは

 ひんがしの京の丑寅杉茂る上野の陰に晝寐すわれは

 いにしへの故里人のゑがきにし墨繪の竹に向ひ坐すわれは

 人皆の箱根伊香保と遊ぶ日を庵に籠りて蠅殺すわれは

 富士を蹈みて歸りし人の物語聞きつゝ如き足さするわれは

 吉原の太鼓聞えて更(ふ)くる夜にひとり俳句を分類すわれは

 昔せし童遊びをなつかしみこより花火に餘念なしわれは

 果物の核(さね)を小庭(さには)に蒔き置きて花咲きる年を待つわれは

 

 「富士を蹈みて歸りし人」というのは、黒田侯に供して登山した末永鉄巌、本田種竹、中村不折の諸氏のうちであろう。あるいは蔵沢の竹の画に向い、あるいは病牀に蠅を打ち、あるいは夜更くるまで俳句分類に従事する。居士の姿もいろいろであるが、余念なく線香花火に興じたり、果物の核を庭に蒔いて遠い将来を待ったりしているのは、特に子供のような天真に触れる思(おもい)がある。

[やぶちゃん注:「蔵沢の竹の画」松山生まれの松山藩士で南画家であった吉田蔵沢(ぞうたく 享保七(一七二二)年~享和二(一八〇二)年):松山藩士としては風早郡・間野郡代官や者頭役などを勤めた功労者であり、長く、藩士の鑑と讃えられた。二十歳ぐらいから南画を趣味として精進し、晩年は画材を竹に絞り、「竹の蔵沢」として知られ、その墨竹画は古今独歩の神品とも称された。正岡子規には、

 

 冬さびぬ蔵澤の竹明月の書

 

という句もある。サイト「吟行ナビえひめ」のを参照されたい。]

 

 第一句乃至第五句に同じ言葉を用いて何首も歌をつらねるのは、古人にも例があり、必ずしも居士の創意を以て目すべきでないが、その内容に至っては余人の容易に窺うを許さぬものがある。居士の作品としてのみならず、当時の歌として一新生面を開いたものと見るべきであろう。

 

 

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