御伽百物語卷之六 勝尾の怪女
勝尾の怪女
[やぶちゃん注:挿絵は「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」のものを用いた。]
津の國勝尾寺(かちおじ)の前の里を名付けて勝の郷(がう)といへり。此筋はおほく湯治の人、有馬にかよふの海道または西國の大名、武江(ぶこう)に往還の道すぢとして、驛路の鈴も、おとづれを絶(たゝ)ず。是れも繁榮の地なりければ、一村に指おりの富貴者(ふうきしや)とかぞへらるゝものも又おほかりける。
こゝに忠五郎といふ者あり。田畠(でんぱた)あまた持ちて農業を事とし、家は美麗に造りなして、國主參勤の本陣を承りければ、家門、日に添へて榮へ、衣食・眷屬にいたるまで、年ごとに彌(いや)增(まさ)るたのしみをぞ盡しける。
さる程に、忠五郎、一人のむすめをもふけ、是れを育てさせんとて似合(にあは)しき乳母(うば)を尋ねけるに、折ふし、芥川の里に貧家(ひんか)の娘あり、同じ里の農民の家に嫁し、一人の子あり。夫(それ)は高槻(たかつき)の城下に未進(みしん)の事ありて、是れに驅(か)りとられ、人夫となり、在江戸(ざいえど)して、病死したり。かゝりける程に、母子ともに世をわたるべき便(たより)なくなりて、
「いづかたにも、宮仕へせばや。」
とおもふ心つきて、彼方此方(かなたこなた)と、さまよひありきけるを、不憫の事に思ひ、幸い我が子と同じ年なる子持ちなりければ、呼び寄せて我が娘をやしなはせ、母子ともにかくまへ置きけるに、忠五郎が妻も情ある者にて、乳母の子をも、我が子とおなじく、いつくしみ愛して、衣類食物にいたるまで、かならず、一やうにそろえてとらせ、寵愛しけるが、ある時、此妻、たまたま、物へまうでたる歸りに、林檎をたゞ一つ袖にいれて歸りしが、餘り寵愛のあまりに、たはぶれながら、我が子ばかりに此林檎をとらせける時、乳母、大きに怒り、腹たちて、
「今、君がむすめ、やうやう我が世話によりて成長し、四つばかりにもなり、はや、物くはせても、そだつ程になりたれば、我が恩をわすれ給ふよな。何ぞ今までありつるやうに、兩人ひとしくは、したまはざる。我(われ)なくとも、其(その)子あらば、あらせよ。」
と、拳を握り、牙(きば)をかみて、主人の子をとらへ、打ち殺しもすべきありさまに見えしかば、忠五郎夫婦をはじめ、有りあふ者ども、驚き、さはぎ、
「こは、いかに。氣ばし違ひたるか。さほど迄、腹たつる事かは。」
と、先づ、忠五郎がむすめを引きわけ、抱きとりけるに、不思議や、忠五郎が子と、乳母が子と、いさゝかも、違はず、俄におなじ器量になりて、顏貌(あほかたち)、物いひ迄、そのまゝの、乳母が子也。
忠五郎夫婦、あきれながら、何とやらん、恐しくおぼえければ、俄に手をつかね、詞(ことば)をいやしくして、さまざまと詫言(わびごと)し、なだめける時、乳母、やうやう心やはらぎ、主人の子を抱きて、首より足まで撫(なで)おろしけるにぞ、忠五郎が娘のかたちとなりける。
是れに懲りてより、忠五郎、心におもひけるは、
『何さま、此乳母は只ものにあらず、我をたぶらかし欺きて、我が家(いへ)を亡(ほろぼ)さんとする狐狸(きつねたぬき)の災(わざはひ)なるべし。いかにもして殺さばや。』
と思ひ、先づ、しもおとこをかたらひあはせ、ある日ぐれに、乳母一人、門(もん)に立ち居たるを、
『よき折から。』
とおもひ、鍬(くは)を取りのべ、此うばが頭(かうべ)を、
「みぢんになれ。」
と打ち付けさせしに、正しく打ちこみける鍬の飛びかへりて、門の扉にあたりて、扉を半(なかば)うちひしぎたり。
乳母、また、大きに怒り、
「いかに忠五郎。我をおそろしく見、にくき者におもひたりとも、幾度(いくたび)も、かゝる事にて失はるゝ物にてなきぞ。後(のち)に恨(うらみ)ましき心ならば、いかにもして、我を憎み、追ひ、失ふたくみを、せよ。」
とぞいひける。
忠五郎も、今はせんかたなく、おそろしさ、彌(いや)增(まさ)りて、是れより後(のち)は、主(しゆう)のごとく、神(かみ)のごとく、つゝしみおそれて、終に心ざしをそむく事なかりしが、それより十ケ年もありて、乳母も子も、いづくへ行きけるにか、かいくれて、見ゑずなりぬ。また其家もつゝがなく、何のふしぎもなかけるとぞ。
[やぶちゃん注:「勝尾寺」現在の大阪府箕面(みのお)市粟生間谷(あおまたに)にある真言宗応頂山勝尾寺(かつおうじ/かつおじ/かちおじ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。中央南方に有馬温泉を位置させた。
「芥川の里」現在の大阪府高槻市芥川町及びその西を北西から南東に流れる芥川(淀川に合流)一帯であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「高槻(たかつき)の城下」高槻藩の城下。現在の大阪府高槻市市街地。芥川の東直近
。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「未進(みしん)の事」有意な額の年貢の未納。
「驅(か)りとられ」未納分を賦役で代替させられて。
「かくまへ置きける」ここは特に「匿ふ」でとらずともよい。「雇い入れて養っておく」でよい。
「餘り寵愛のあまりに」ママ。くどいが、当時の口語的古文ではしばしば見られる。
たはぶれながら、我が子ばかりに此林檎をとらせける時、乳母大きに怒り、腹たちて、
「我(われ)なくとも、其(その)子あらば、あらせよ」「万一、私が世を去っても、その子が存命であったなら、そのようせよ!」。
「牙(きば)をかみて」ぎりぎりと歯噛みをして。
「手をつかね」手を合わせて拝むように。
「詞(ことば)をいやしくして」言葉づかいも遜(へりくだ)って。
「しもおとこ」下男(げなん)。
「うちひしぎたり」押し潰してしまった。
「幾度(いくたび)も」何度やろうが。
「後(のち)に恨(うらみ)ましき心ならば」これでもまだ懲りずに恨みがましい心を我に持っておるのであったなら。
「たくみ」企(たくら)み。]