子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治三十一年 『ホトトギス』東遷
『ホトトギス』東遷
三十一年後半の出来事として、特筆すべきものは、『ホトトギス』の東遷であろう。『ホトトギス』は創刊以来一年たったところで、巳に一度停頓の状を示したことがあった。極堂氏が多忙のため『ホトトギス』の仕事に鞅掌(おうしょう)[やぶちゃん注:忙しく立ち働いて暇のないこと。「鞅」は「担う」の意。]することが出来ず、編輯を他人に任そうかといって来た時である。居士はこれに対して種々の意見を具陳し、「何にもせよ小生はたゞ貴兄を賴むより外に術なく貴兄もし出來ぬとあれば勿論雜誌は出出來ぬことと存候」といい、また「一時編輯を他人に任すはよろしけれど到底それは一時のことにして再び貴兄の頭上に落ち來るは知れたことと存候」ともいっている。同じ手紙の中に「然れども東京にて出すには可なり骨が折れて結果少くと存候。畢竟松山の雑誌なればこそ小生等も思ふ存分の事出來申候」ということがある から、東遷の事は多少問題に上ったのかも知れぬ。
[やぶちゃん注:「極堂」正岡子規の同年の友人で、当時、海南新聞社員であった柳原極堂。既出既注。『ほとゝぎす』(創刊時はひらがな表記。カタカナ書きの『ホトヽギス』への改名は四年後の明治三四(一九〇一)年十月からで、則ち、この明治三十一年時点では『ほとゝぎす』であるので注意が必要)は「明治三十年 『ホトトギス』生る」に出た通り、明治三一(一八九七)年一月十五日に彼が松山で創刊した。]
居士が『ホトトギス』の第四巻第一号に書いた文章によると、それから半年ほどたって、何分にも忙しくて困るが、雑誌は東京で引受けてやらぬか、ということを極堂氏からいって来た、東京でやるなどということは思いもよらぬので断ったが、当時帰郷中であった虚子氏が引受けてやることを思い立ち、居士に相談して来た、という経緯が述べてある。『ホトトギス』東遷の事はこの時決定したのである。
二十六年の『俳諧』二十七年の『小日本』、居士の関係した新聞雑誌は皆早く挫折した。居士の念頭には常にこの事があったから、三度目の『ホトトギス』が出なくなるということについては、居士は人知れぬ苦痛を感ぜざるを得なかった。虚子氏に答えた長文の手紙にはこういう一節がある。
[やぶちゃん注:底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。底本の本表記は口語文の書簡であるため、歴史的仮名遣が総て現代仮名遣に書き換えられてしまっている。何時もの通り、原本「子規居士」に拠って正字化を含めて復元した。]
今一つ氣になつて居るのは『俳譜』といひ『小日本』といひ小生の關係した物は盡く失敗に終つた、尤も小生が自ら發起した者は無い。小生自ら發起した事があるならそれは小生の生命と終始すべきものであるけれ小生はなかなか發起などせぬ、併し幾ら他人に誘はれたものでも三度となると少しは小生の男にもかゝる。『ホトトギス』は三度目ぢやけれ代りの雜誌が出來りや格別、さうでなければどうかして倒さぬやうにと心がけて居る。それであるから今度の計畫に就いても二の足を蹈む次第ぢや。併し男ぢや、只貴兄の決心次第ぢや。
[やぶちゃん注:「小生自ら發起した事があるならそれは小生の生命と終始すべきものであるけれ小生はなかなか發起などせぬ」「けれ」以下の繋ぎはママ。已然形の逆説用法だが、不全。当時の松山方言かも知れぬが、後の方の順接法の「ぢやけれ」はすんなり読めるので、私には不審。]
居士は『ホトトギス』の存続について異常な執著を持っている。しかし自分でやって行くという段になると、幾多躊躇逡巡すべき理由がある。虚子氏に念を押すのはそれがためで、「つまり貴兄と小生と二人でやって行かねばならぬ、若し小生病氣したら貴兄一人でやらねばならぬ、貴兄病氣したら小生一人でやらねばならぬ」その決心がついているかどうか、というのである。春以来此較的工合がいいといっても、居士の状態はそう平穏なわけでほない。「數日前寒暖計が九十五度に上つた、暑いのはそれ程苦まぬ小生も餘り苦し過ぎると思ふて驗溫器を取ると卅八度七分あつた。卅八度七分の熱を熱と知らないで天気の熱いと間違へて居る位ぢやけれ平生いかに苦に馴れて居るかは分るであらう、苦に馴れるといふほいつも苦んで居るといふ事ぢや」という位であった。極堂氏に発行を続けるように賴んだだけでも、一種の責任を感じて前より原稿を書くのに努力する居士としては、この病体を提げて絶対責任の地位に立つことを躊躇するのは、むしろ当然といわなければならぬ。
[やぶちゃん注:検温器の方の彼の体温三十八度七分は摂氏であるが、寒暖計の方は華氏。華氏「九十五度」は摂氏三十五度。]
けれども『ホトトギス』の東遷は遂に実行された。はじめはこの機会に雑誌の名も改め、面目一新するつもりであったらしいが、結局いい思いつきもないため、『ホトトギス』[やぶちゃん注:くどいが、正しくは『ほとゝぎす』。]の名を継続して、松山で出た間の二十号までを第一巻とし、東遷後を第二巻と改むることに落着いた。
[やぶちゃん注:「『ホトトギス』の名を継続して」くどいが、正しくは『ほとゝぎす』。後の改題が『ホトヽギス』というただのカタカナ変更である以上、私はここは正しく書かなければ意味をなさぬと思うのである。残念なことに原典の「子規居士」でも同様に処置してしまっており、「ゝ」「ヽ」も正字化されてしまっているから、同俳誌の標題変遷過程を事前に全く知らない読者は困る。これは私にとっては下らない指摘ではなく、重大な疑義なのである。]
『ホトトギス』東遷の事が決してから、居士が各方面に発した手紙を見ると、殆どどれにも『ホトトギス』に関することが記されている。「死地に踏み込む心持」といい「死を決し申候」というような言葉が見えるのも、居士にあっては決して誇張の言ではない。それだけ将来の責任を予想してかかったので、軽々に著手せず、一大決心を要した所以もここに存するのである。一度決心した以上は、雑誌の体裁から原稿の取捨に至るまで、悉く居士自身当らなければならぬ。中村不折、下村為山(いざん)(牛伴(ぎゅうはん))両氏の口画(くちえ)が意に満たぬため、画き直しを頼んだりする事件もこの間に起っている。何事もいい加減に配すことの出来ぬ居士は、不折氏の書いてくれた広告の文字まで、自分で書き改めたものに替えるほどの熱心さであった。
[やぶちゃん注:「中村不折」既出既注。
「下村為山(牛伴)」(慶応元(一八六五)年~昭和二四(一九四九)年)は洋画家・俳人。後年は俳画(近代南画)へ転身して、その第一人者となった。松山藩士の次男として松山城下に生まれ、明治一五(一八八二)年に上京し、本多錦吉郎・小山正太郎(彼の起した不同舎では後輩に前の中村不折がいた)に洋画を学び、同郷の正岡子規と知りあって俳句を嗜むようになり、俳諧研究に手を染め、彼の絵画に於ける写生論が、逆に子規の俳句革新に大きい影響を及ぼしたとされる。中村不折とは同門の双璧と讃えられた。]
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