小泉八雲 神國日本 戶川明三譯 附やぶちゃん注(38) 佛敎の渡來(Ⅰ)
佛敎の渡來
日本の古代の宗敎が、あらゆる他の敵對異國の信仰の移入に對して反對を示した。その反對の如何なるものであつたかは、今や明らかに解つた事であらうと思ふ。家族が祖先禮拜の上に基礎を置き、村邑が祖先禮拜に依つて治められ、氏族又は部族團體も祖先禮拜に依つて支配せられ、又最高の支配者が、他のあらゆる祭祀を一つの共通な傳統の中に結合する所の祖先祭祀の、高い神官であり又同時に神であるとすれば、根本的に神道に反對する如何なる宗敎の宣布も、社會組織全體に對する一つの攻擊と見做されるのは當然の事でなければならない。これ等の事情を考へて見れば、佛敎が、初期の幾つかの鬪爭の後(その一つは流血の戰ひであつたが)、第二の國民的信仰として受け入れられたのは不思議に思はれるかも知れない。併し佛敎の根本義は本質的に神道の信條と相容れないものではあるが、佛敎は、印度、支那、朝鮮、その他隣接諸國に於て、如何にしたら執拗な祖先禮拜を支持してゐる諸國民の精神的必要に合致し得られるかを知つて居たのである。然らざれば、頑固な祖先禮拜は疾うの昔に佛敎の潰滅を果たしてゐたであらう、と云ふのはその廣大な幾多の征服は凡てソ連禮拜の人種の間に行はれたものであつたからである。印度に於ても、支那に於ても、朝鮮に於ても、――又暹羅[やぶちゃん注:「シンラ」。タイ王国の旧称。]に於ても、緬甸[やぶちゃん注:「メンデン」。ミャンマー(旧ビルマ)のこと。]に於ても、安南に於ても――佛敎は祖先禮拜を驅逐しようとは力めなかつた[やぶちゃん注:「つとめなかつた」。]のである。何處でも佛敎は自分を社會上の習慣の敵としてでなく、友として受け入れさせた。日本でもそれは大陸諸國でその發展を確實にしたと同じ政策を採つたのである。それで日本の宗敎狀態について、多少でも明確な觀念を得ようと思ふならば、この事實を心に止めて置かなければならない。
日本の書物で現存して居る最も古いものは――恐らく神道の祭典(祝詞)に關するものを除けば――第八世紀以來のものであるから、祖先禮拜以外に宗敎の形式のなかつた古い時代の社會狀態は、臆測に依つてそれを知るの他はない。支那朝鮮の影響が全然無かつた事を想像して始めて、吾々は所謂神代に存した物の狀態の漠然たる考をつくり得るのである、――そして何れの時代にこれ等支那朝鮮の影響が働き始めたかと云ふ事を決定するのは困難な事である。儒敎は佛敎に先んずる事可成り前であつたらしい。そしてその發展は、組織力として、遙かに急速であつた。佛敎は、紀元五五二年頃、始めて朝鮮から傳つて來た。然しその傳道はあまり多くの功果をあげなかつた。第八世紀の終り頃に、日本の政治の全體の組織は、儒敎の影響を受けて、支那式に改められた。然し第九世紀に入らぬ中に、佛敎は事實全國に擴がり始めたのであつた。そして結局それは國民生活を蔽ひ、あらゆる國民思想にその色彩を與へた、而も尙ほ、古代の祖先祭祀の異常な保守思想――他と融合する事を阻むその固有の力――は、一八七一年の佛教廢止の際に、この二つの宗教が容易に分かれたと云ふ事で例證される。凡そ千年の間も、文字通りに佛敎に壓倒された後、神道は忽ちにその昔の素朴に戾り、その最も古い奉祭の不變の形を再建したのである。
[やぶちゃん注:「一八七一年の佛敎廢止」明治新政府が神道を国家統合の基幹にしようと意図し、一部は神道の国教化をも目論んだ(神祇官を再興し、古代の祭政一致の制度を復元しようとしたが、結局これは頓挫した)が、その中で行われた、旧来、永く行われていた神仏習合を改めるために、神仏分離を強行、その中で一連の法令が出され、神社に付属していた多くの寺院が分離・廃絶を余儀なくされた。それはさらに狂気的な廃仏毀釈運動を引き起こし、仏教寺院や付属建物(墓石を含む)・仏像(石仏を含む)・仏具が取り壊されたり、廃棄されたり、二束三文で売却され、優れた作品が海外に多数、流出した。地域差があるが、県知事や地区管理の役人の中には成果を上げて政府の受けを狙い、苛烈に行った連中も多く、私が調べた、ある島嶼部では、寺院が放火されて焼失、寺僧も暴行を受けて殺されそうになって追放されていたりしている。鎌倉の鶴岡八幡宮でも多数の別当寺の仏教関連の大きな建築物が破壊され、貴重な仏像類も多数、流出してしまっている。細かく見ると、慶応四年三月十七日(一八六八年四月五日)に神祇事務局は、諸国神社に仕える僧形の別当・社僧に復飾(=還俗)を命じており、これが神仏判然令(神仏分離令。狭義には、ここから明治元年十月十八日(一八六八年十二月一日)までに出された太政官布告・神祇官事務局達・太政官達など一連の通達を総称する)の始まりとされ、ついで同月二十八日太政官令で、権現などの仏語を神号とする神社の調査と、仏像を神体とすることの禁止を全国に布告している。これ以後、全国の神仏混淆の神社から仏教色が総て排除されることとなり、明治三年一月三日(一八七〇年二月三日)に出された詔書「大敎宣布の詔」(たいきょうせんぷのみことのり:天皇に神格を賦与し、神道を国教と定めて大日本帝国を祭政一致の国家とする国家方針を示したもの)が出てより、過激な廃仏棄釈の騒擾は明治七(一八七四)年頃まで続いた。小泉八雲が言っている、この「一八七一年の佛教廢止」というのは、よく判らぬ。また、ウィキの「廃物希釈」によれば、この明治四(一八七一)年には『全体としては大きな反抗もなく』、「神仏分離」は『終息した』としており、また、同年一月五日附の太政官布告では、境内を除いた寺や神社の領地を国が接収して管理するという「寺社領上知令」の布告が出されてはいる。なお、本邦で、太陰暦を廃して太陽暦(グレゴリオ暦)を採用することの詔書が発せられ、太政官布告により公布されたのは、明治五(一八七二)年十一月九日のことで、具体的には旧暦明治五年十二月三日を新暦明治六年一月一日とした。]
併し神道を併呑せんとした佛敎の企ては一時は殆ど成功したやうに思はれた。この併呑の方法は、八〇〇年頃、眞言宗の有名な宗祖、空海則ち『弘法大師』(一般にかう呼ばれてゐる)が考へたものだと云はれてゐる。が、この空海は始めて神道の高い神々は佛の化身であると稱したのであつた。併し、勿論、弘法大師は佛敎政策の從來の例に倣つたまでの事であつた。兩部神道【註一】の名の下に、この神道と佛敎との新しい複合は、帝室の承認と支持とを獲た。爾後到る處で、この二つの宗敎は同一の境內に置かれた――時には同一の建物の內にさへ置かれ、二つは眞に融合したかに見えた。が、その實、眞の融和はなかつたのである――かかる接觸の十世紀もつづいた後、再び二つのものは一度も接したことがないかの如く手輕に分かれてしまった。佛敎が實際永久的な變化を與へたのは、僅に家庭に於ける祖先祭祀の形式に於いてであつたが、それでさへ尙ほ根本的なものでなく、一般的なものでもなかった。或る地方では、それ等の變化も爲されなかつた。そして殆ど到る處で、人民の大部分は神道の祖先祭祀の形式に從ふ方を選んだ。又佛敎に改宗した人の一大階級も、なほ古い信條をつづいて表明して居た。そして佛式によつて彼等の祖先禮拜を實行しながら、別に家庭的に古い神々の禮拜を行つて居た。今日日本の大抵の家には、神棚と佛壇との雙方が見受けられるが、二つの祭祀が同一の屋根の下に行はれるのである【註二】。……然し私がこれ等の事實を記して居るのは、神道の保守的活力を說明するためであつて、決して佛敎宣傳の薄弱な事を指示せんとするのではない。勿論、佛敎が日本の文化に及ぼした影響は夥しいものであり、深大なものであり、また多樣であり、無限でもある。唯、驚くべき事は、永久に神道の息をとめる事の出來なかつたと云ふ點である。多くの著述家達が不注意に言つてゐる事であるが、神道は公式の宗敎として殘つてゐるだけで、一般の宗敎となつたものは佛敎であると言ふのは、全然誤想である。事實、佛敎も神道と同じやうに公式の宗敎となつた。そして貧民の生活と共に上流階級の生活を支配したのである。佛敎は幾多の天皇を僧侶にし、その皇女を尼にした。佛敎は政治家の行動を、法令の性質を、そして法律の執行を左右した。各村邑に於ける管内の佛敎の僧侶は、精神上の敎訓者であると共に、公許の役人であつた。彼は管内の登記簿を預り、且つ地方の重大な事件を當局に報告して居たのである。
註一 兩部といふ言葉は『二つの部門』若しくは『二つの宗敎』の意である。
註二 若しその家が佛敎徒であれぱ、祖先禮拜や葬式は原則として佛式である、併し神道の神々は、眞宗[やぶちゃん注:浄土真宗。]に屬する家を除けば、大槪の佛敎徒の家で祭られてゐる。併し眞宗の信奉者でも多くは同じやうに古い宗敎を奉じてゐるやうである、そして彼等は自分の氏神を有つてゐるのである。
[やぶちゃん注:「兩部神道」(りやうぶしんたう(りょうぶしんとう))は真言系の仏教家によって説かれた神道説で、密教の金剛界・胎蔵界両部の中に神道を組み入れて解釈しようとする神仏習合の思想。その思想的萌芽は行基・最澄・空海に見られ、神祇に菩薩・権現の名称を付すに至った。所謂、本地垂迹説の濫觴である。「仁和寺(にんなじ)流」・「野山(やざん)流」・「三輪流」・「立川(たちかわ)流」・「雲伝(うんでん)神道」等の派もあったが、林羅山が「本朝神社考」(寛永一五(一六三八)年から正保二(一六四五)年にかけて編纂された)で批判して以来、種々の排撃を受け、江戸初期に急速に退潮し、明治以降には完全に禁止され、衰退した。
「眞宗に屬する家を除けば」浄土真宗では「弥陀一仏」に帰依することを信条とする故に、神を祀る必要を認めないからである。現行の浄土真宗各派の公式サイト内で、神棚があれば処分すべき旨を記し、神棚は明治以降の国家方針によって齎された誤りであるというような、トンデモ解説が成されてあるが、無論、浄土宗・浄土真宗草創以前に、各家庭に神棚は遠い昔からあった。]
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