明恵上人夢記 63
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一、其の十三日、かの行法の後、□夢想を轉じて見せばやと思ふに、内野(うちの)の如くなる處にて二三丁許りを隔てて上皇を見奉る。□□□□□隱し奉る。卽時に片方へ行きて諭し□□□□□處に到る。今は此(ここ)にとも□□□□□思ふ。隱しおほせつと□□□□□。
[やぶちゃん注:□は判読不能部分。これだけあると、最早、訳しようがないが、一応、逐語的には訳しておいた。
「其の十三日」ここまでの流れと、前の「62」夢の原注に従うなら、「62」夢の翌日、承久元(一二一九)年七月十三日の夢となる。通常の人間の夢は(少なくとも私の場合は)日を続けて見た夢だからといって、それに同一人物が登場したとしても、それが一連の夢(解釈)として連続しているものではない。しかし、明恵のような特異な人物の場合、その連関性を積極的に認めてもよいようには思う(「積極的に認めなくてはならない」というわけではない)。しかし、この場合、同じ「院」=「上皇」=後鳥羽上皇が登場しているのには、かなり強い強連関性のメッセージが表わされている、と夢を見た明恵自身は当然、考えた。だからこそ、書きとめていると言える。
「かの行法」これ以前で彼が自身に課した「行法」について述べているのは「42」夢であり、十三年前の建永元(一二〇六)年十二月一日より開始している(詳細はそちらを参照)。そこで明恵は、その行法を「宝楼閣法」と「仏眼法」と称しており、「宝楼閣法は二つの刻限に修して、朝と夕、仏眼法も二つの刻限に修し、こちらは後夜(ごや)と」し(私の訳で示す)、「但し、午後の部の始める時刻は孰れも、宵の口を修法の開始としている。これは本修法が基本的には己れ自身のためにする行法であるが故であり、さればこそ、式礼の如く強いて、修するに吉凶の時を占って撰ぶということをしていない。そもそも、これらは遙か以前より私が個人的に行なってきた修法であって、今まで一度たりとも不都合なることはなかったが故である」と述べているから、この午前四時に修めた「仏眼法」の後に一睡した時の夢という風に読める。しかも、この時、明恵はこの「仏眼法」が「遙か以前より私が個人的に行なってきた修法で」、「今まで一度たりとも不都合なることはなかった」私の精神に(即ち、夢にも)活性的な力を持つものであったから、それを修した後に徐ろに夢見すれば、どうも昨日までの夢見の落ち着きが悪いのを、「夢想を轉じて見」ることが出来ると思った=半可通な夢を転じて見てみたい「と思」って、寝に就いた、と読むことが出来るのではあるまいか? 何? 今までだって彼が見た夢は皆、その修法を終えてからの夢だったのではないのかって? それは大きな誤りだ。今までの私の注にも述べているが、彼が見る夢は、休息のごく短い間の観想中のものもあり、時には覚醒時幻覚のようにして見たものも既に含まれているのだよ。そういう半可通なことを言うあんたは、私のこの「明恵上人夢記」を読んできていないことがバレたね……哀しいことに……。
「内野」京都市上京区南西部の旧地名。平安京大内裏のあった所。
「二三町」約二百十八~三百二十七メートル。
「□□□□□隱し奉る」目的語は不詳だか、敬語から後鳥羽院の目から隠したことは判る。
「片方」不詳。少なくとも以下に敬語が全く使用されていない以上、単に後鳥羽院本人の方という意味ではあり得ない。
「諭し」補語(誰に)も目的語(何を)も不詳。]
□やぶちゃん現代語訳(丸括弧内は判読不能部。一部は仮想の自然と思われる語を補ってみた)
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その翌日の十三日のこと、何時もの通りの仏眼法まで総てを終えた後で、
『(さても。どうも昨日までのすっきりしない)夢想を転じて見てみたいものだ。』
と思って一睡した。その時、こんな夢を見た。
大内裏の内野(うちの)のようなところである、二、三町ほど隔てて、後鳥羽上皇さまを見申し上げている。
私は(思わず、( )を)隠し申し上げた。
そして、直ちにとある一方へ行って( )を諭(さと)し、( )の処(ところ)に到ったのである。
その時、
『今は此処(ここ)にとも(に( )であろう)。』
と私は思ったのである。
『よかった。隠し遂(おお)せることができたのだ。』
と( )。……