進化論講話 丘淺次郎 第十五章 ダーウィン以後の進化論(4) 四 ウォレースとヴァイズマン
四 ウォレースとヴァイズマン
[ウォレース]
[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像を明度を上げて補正して使用した。裏の字が透けるため、補正を加えた。本図は学術文庫版では省略されている。(以下のヴァイズマンも同前)。]
ウォレースはダーウィンと同時に自然淘汰説を發表した人で、後にまた「ダーウィン説」と題する書を著して生物の進化を通俗的に論じたから、進化論の歷史に於ては最も有名な一人であるが、その説く所はダーウィンに比べると、甚だしく違つた點が幾つもある。その主なるものを擧げれば、ダーウィンは自然淘汰以外にも尚生物進化の原因があると明言して、後天的性質の遺傳をも認めて居るが、ウォレースは全く後天的性質の遺傳を否定し、自然淘汰以外には生物進化の原因はないやうに説いて居る。またダーウィンは人間も他の獸類と同じ先祖から起り、同じ理法に隨つて進化し來つたもので、身體の方面に於ても精神の方面に於ても、他の獸類と同じ系統に屬すると論じたが、ウォレースは進化論は他の生物には一般に適するが、人間には當て嵌まらぬ、人間だけは一種特別のもので肉體の方は他の獸類と共同の先祖から降つたが、精神の方は全く別の方面から起つたものであると説いて居る。その他、動物の彩色の起源、雌雄淘汰の説などに就いても、種々意見の違ふ所があるが、こゝにはたゞ自然淘汰に關することだけを述べて見るに、ウォレースの考では、生物の進化し來つたのは全く自然淘汰のみの働による。それ故、動植物の有する性質は、如何に些細な點でも、必ず今日生存上に必要であるか、或は昔一度必要であつたもので、一として生存競爭上に無意味なものはない。たとひ一個の斑點、一本の線と雖も、自然淘汰の結果として今日存するのであるから、必ず競爭上有功であつたものに違ひないとのことであるが、之は實際如何であらうか。我々は今日の不十分な生態學上の知識を以て、動植物の或る性質を捕へて、之は生存競爭上確に無益なものであるとの斷定は勿論出來ぬが、如何に些細な點でも必ず生活上有益なものであるといひ切ることもまた決して出來ぬ。昔何の役に立つか解らなかつた構造・彩色等も、生態學上の研究が進むに隨つて、その功用が知れた例は澤山にあるが、さりとてこれらより推して、總べての構造・彩色は悉く生存競爭上に一定の意味を有するものであると論ずる譯には行かぬ。ウォレースの著したダーウィン説といふ書物は、野生動物の變異性のこと、動物の彩色のことなどに關しても、種々面白い事項が載せてあつて、確に研究者の一讀を價する書ではあるが、前に掲げた二點に就いては、議論が頗る怪しいやうに思ふ。
[やぶちゃん注:「ウォレース」アルフレッド・ラッセル・ウォレス(Alfred Russel Wallace 一八二三年~一九一三年)については一度注しているが、再掲し、少し補足しておく。以下、ここで丘先生が言及している点をウィキの「アルフレッド・ラッセル・ウォレス」に拠って補ったが、詳しくはリンク先を通読されんことを強く望む。『イギリスの博物学者、生物学者、探検家、人類学者、地理学者。アマゾン川とマレー諸島を広範囲に実地探査して、インドネシアの動物の分布を二つの異なった地域に分ける分布境界線、ウォレス線を特定した。そのため時に生物地理学の父と呼ばれることもある。チャールズ・ダーウィンとは別に自身の自然選択を発見した結果、ダーウィンは理論の公表を行った。また自然選択説の共同発見者であると同時に、進化理論の発展のためにいくつか貢献をした』十九世紀の『主要な進化理論家の一人である。その中には自然選択が種分化をどのように促すかというウォレス効果と、警告色の概念が含まれる』。『心霊主義の唱道と人間の精神の非物質的な起源への関心は当時の科学界、特に他の進化論の支持者との関係を緊迫させたが、ピルトダウン人ねつ造事件の際は、それを捏造を見抜く根拠ともなった』。『イギリスの社会経済の不平等に目を向け、人間活動の環境に対する影響を考えた初期の学者の一人でもあり、講演や著作を通じて幅広く活動した。インドネシアとマレーシアにおける探検と発見の記録は』「マレー諸島」(The Malay Archipelago:1869)として出版され、十九世紀の『科学探検書としてもっとも影響力と人気がある一冊だった』。『ダーウィンはウォレスの論文が基本的に自分のものと同じであると考えたが、科学史家は二人の差異を指摘している。ダーウィンは同種の個体間の生存と繁殖の競争を強調した。ウォレスは生物地理学的、環境的な圧力が種と変種を分かち、彼らを地域ごとの環境に適応させると強調した。他の人々はウォレスが種と変種を環境に適応させたままにしておく一種のフィードバックシステムとして自然選択を心に描いているようだと指摘した』。一八六七年に『ダーウィンは、一部のイモムシが目立つ体色を進化させていることについて自身の見解をウォレスに話した。ダーウィンは性選択が多くの動物の体色を説明できると考えていたが、それがイモムシには当てはめられないことを分かっていた。ウォレスはベイツと彼が素晴らしい色彩を持つ蝶の多くが独特の匂いと味を持つことに気付いたと答えた。そして鳥類と昆虫を研究していたジョン・ジェンナー・ウィアーから、鳥が一部の白い蛾は不味いと気付いておりそれらを捕食しないと聞いたことも伝えた。「すなわち、白い蛾は夕暮れ時には日中の派手なイモムシと同じくらい目立つのです」。ウォレスはイモムシの派手な色は捕食者への警告として自然選択を通して進化が可能であると思われる、と返事を書いた。ダーウィンはこの考えに感心した。ウォレスはそれ以降の昆虫学会の会合で警告色に関するどんな証拠も求めた』。一八六九年に『ウィアーはウォレスのアイディアを支持する明るい体色のイモムシに関する実験と観察のデータを発表した。『警告色は、ウォレスが動物の体色の進化へ行った多くの貢献のうちもっとも大きな一つである。そしてこれは性選択に関してダーウィンとウォレスの不一致の一部でもあった』。一八七八年の『著書では多くの動植物の色について幅広く論じ、ダーウィンが性選択の結果であると考えたいくつかのケースに関して代替理論を提示した』。一八八九年に刊行した「ダーウィニズム」(“Darwinism: An Exposition of the Theory of
Natural Selection, with Some of Its Applications”(「ダーウィニズム:自然淘汰理論の解説、及びその適用例」)。ここで丘先生が「ダーウィン説」として示しているものである)では、『この問題を詳細に再検討している』。この「ダーウィニズム」では『自然選択について説明し』、『その中で、自然選択が二つの変種の交雑の障害となることで生殖的隔離を促すという仮説を提唱した。これは新たな種の誕生に関与するかも知れない。このアイディアは現在ではウォレス効果』(Wallace effect)『として知られている。彼は』一八六八年という『早い時点で、ダーウィンへの私信で自然選択が種分化に果たす役割について述べていたが、具体的な研究を進めなかった。今日の進化生物学でもこの問題の研究は続けられており、コンピューターシミュレーションと観察によって有効性が支持されている』。一八六四年には「人種の起源と自然選択の理論から導かれる人間の古さ」(“The Origin of Human Races and the Antiquity of Man Deduced from the
Theory of 'Natural Selection”)という論文を発表し、『進化理論を人類に適用した。ダーウィンはこの問題についてまだ述べていなかったが、トマス・ハクスリーはすでに』「自然の中の人間の位置」(既注済み、一八六三年に刊行した“Evidence as to Man's Place in Nature”(「自然界に於ける人間の位置に関する証拠」)のこと)を『発表していた。それからまもなく』、『ウォレスは心霊主義者となった。同時期に彼は数学能力、芸術能力、音楽の才能、抽象的な思考、ウィットやユーモアは自然選択では説明できないと主張した。そして結局、「目に見えない宇宙の魂」が人の歴史に少なくとも三回干渉したと主張した。一度目は無機物から生命の誕生、二度目は動物への意識の導入、三度目は人類の高い精神能力の発生であった』。『また』、『ウォレスは宇宙の存在意義が人類の霊性の進歩であると信じた。この視点はダーウィンから激しく拒絶された。一部の史家は自然選択が人の意識の発達の説明に十分でなかったというウォレスの信念が直接心霊主義の受容を引き起こしたと考えたが、他のウォレス研究家は同意せず、この領域に自然選択を適用するつもりは最初から無かったのだと主張した。ウォレスのアイディアに対する他の博物学者の反応は様々だった。ライエルはダーウィンの立場よりもウォレスの立場に近かった。しかし他の人々、ハクスリー、フッカーらはウォレスを批判した。ある科学史家はウォレスの視点が、進化は目的論的ではなく、人間中心的でもないという二つの重要な点で新興のダーウィン主義的哲学と対立したと指摘した』。以下、「進化理論史におけるウォレスの位置」の項。『進化学史ではほとんどの場合、ウォレスはダーウィンに自説を発表させる「刺激」となったと言及されるだけであった。実際には、ウォレスはダーウィンとは異なる進化観を発展させており、彼は当時の多くの人々(特にダーウィン自身)から無視することのできない指導的な進化理論家の一人と見なされていた。ある科学史家はダーウィンとウォレスが情報を交換し合って互いの考えを刺激し合ったと指摘した。ウォレスはダーウィンの』一八七一年の「人間の由来」(“The Descent of Man, and
Selection in Relation to Sex”(「人間の由来と、性に関連した選択」))で、『もっとも頻繁に引用されているが、しばしば強く同意できないと述べられている。しかしウォレスは残りの生涯を通して自然選択説の猛烈な支持者のままであった』。一八八〇年までに『生物の進化は科学界に広く受け入れられていた。しかし』、『自然選択を進化の主要な原動力と考えていた主要な生物学者はウォレスとアウグスト・ヴァイスマン、ランケスター、ポールトン、ゴルトンなどごく少数であった』とある。彼はしばしばダーウィンによって埋もれさせられた(貧乏籤を引いた)と同情されるが、私はこれは多分に彼の心霊主義への執拗な偏頗が齎した自業自得であると考えている(次段以降で丘先生も指摘しておられる)。彼に就いては、「ナショナルジオグラフィック」(二〇〇八年十二月号)の「特集:ダーウィンになれなかった男」が詳細にして核心を突いており、お薦めである。]
尚ウォレースの説に就いて不思議に感ずるのは、その結論である。ダーウィン説の最後の章を讀んで見ると、「生物の進化し來る間に自然淘汰で説明の出來ぬことが三つある。卽ち第一には無機物から生物の生じたこと、第二には生物中に自己の存在を知るものの生じたこと、第三には人類に他の動物と全く異なつた高尚な道德心の生じたことであるが、これらは如何に考へても自然の方法で發達したものとは思へぬ。必ず物質の世界の外に靈魂の世界があつて、そこから生じたものに違ひない」と書いてあるが、かやうな論法は事物を理解しようと勉める科學の區域を脱して、最早宗教的信仰の範圍に蹈み込んだものと見倣されねばならぬ。さればこの書は表題に「ダーウィン説」とあるが、その内容はダーウィンの説とは大に異なり、人類の進化に關することに就いては、全くダーウィンとは反對の説が載せてあるから、この書を先に讀む人は彼此[やぶちゃん注:「かれこれ」。]相混ぜぬやうに注意せねばならぬ。
ウォレースはまた先年「宇宙に於ける人類の位置」と題する書を著して、奇怪な説を公にした。その大要をいへば、我が太陽系は宇宙の中心に位する。地球は宇宙の中心の特別の位置にあるから、他の星とは異つて、靈魂を有する人類の發生すべき特殊の條件を具へて居たのであらうといふやうな意味であるが、太陽系を以て宇宙の中心にあるものとは、何を基にして考へたか。現今天文學で知れて居る星の在る所だけを以て、宇宙と見做せば、太陽系がその中央に位するは無論であるが、之は五里までより見えぬ望遠鏡を用ゐて四方を見れば、自身は直徑十里ある圓形の宇宙の中央に位するやうな心持がするのと同じで、實は少しも意味のないことである。往年南アメリカやインド諸島を探險し、「島の生活」、「動物の地理的分布」などを著した人が、老後斯かる論文を公にするやうになつたのは、實に惜しむべきことである。ウォレースは先年九十一歳の高齡で世を去つたが、死ぬときまで絶えず著作に從事して、數多くの書物を公にした。倂し老後の著作は概して平凡なもので、新進の壯年學者の著書に比しては、遙に劣つたやうである。最後に著した「社會的周圍と道德の進步」と題する書物の如きも、現代文明の缺陷を竝べた所は聊か痛快であるが、その救濟の考案に至つては頗る幼稚なやうに感じた。宗教家はウォレースが靈魂を説くのを見て大に悦び、進化論の泰斗、自然淘汰の發見者でさへ靈魂の存在を唱へるから、之は確であるなどというた人もあるが、晩年のウォレースは餘程不思議な方面へ傾いたから、ダーウィンと竝べて論ずることは到底出來ぬ。
[やぶちゃん注:「宇宙に於ける人類の位置」一九〇四年刊の“Man's Place in the Universe”。
「島の生活」一八六九年刊の“The Malay Archipelago”(「マレー諸島」)のことであろう。
「動物の地理的分布」一八七六年刊の“The Geographical Distribution of Animals”。
「社會的周圍と道德の進步」没年の一九一三年刊の“Social Environment and Moral Progress”。
「ウォレースは先年九十一歳の高齡で世を去つた」ウォレスは一九一三年没で、本書は東京開成館から大正一四(一九二五)年九月に刊行されたものである。今までは、いちいちこの注をつけていたが、煩瑣になってきたので、本書の一九二五年刊行をここで覚えて戴きたい。以下ではこうした注は省略する。悪しからず。]
[ヴァイズマン]
ウォレースの如く自然淘汰を以て生物進化のたゞ一の原因と見倣す人々のことを、今は「新ダーウィン派」と名づけて居るが、その最も有名な代表者は、近頃までドイツ國フライブルグ大學の動物學教授を勉めて居たヴァイズマンである。この人は若いときから進化論に心を注ぎ、先に「進化論の研究」と題する有益な書物を著し、今より二十四年前にまた「進化論講義」といふ一部一册の立派な本を書いて、大に進化論を鼓吹したが、嘗て「自然淘汰全能論」といふ小册を公にしたこともある位で、自然淘汰以外には生物進化の原因は決してないとの極端な説を取つて居る。而してかやうな説を取る論據は何であるかと尋ねれば、全く自分の考へ出した一種の遺傳説で、その大要は略々次の如くである。
[やぶちゃん注:「ヴァイズマン」ドイツの動物学者(専門は発生学・遺伝学)でフライブルク大学(正式には「アルベルト・ルートヴィヒ大学フライブルク(Albert-Ludwigs-Universität
Freiburg)。ここ(グーグル・マップ・データ))ドイツ南西部バーデン=ヴュルテンベルク州フライブルク・イム・ブライスガウにある国立大学)動物学研究所所長であったフリードリヒ・レオポルト・アウグスト・ヴァイスマン(Friedrich Leopold August
Weismann 一八三四年~一九一四年)。十九世紀、ダーウィンに次いで重要な進化理論家であり、同時に自然選択を実験的に検証しようとした最初の一人とされる以上はウィキの「アウグスト・ヴァイスマン」に拠る)。以下は「岩波生物学辞典」第四版の記載に拠る(ピリオド・コンマを句読点に代えた)。『ゲッティンゲン大学で医学を修め、のち』、『ギーセン大学で』『動物の発生学および形態学を学んだ。フライブルク大学の準教授』(一八六六)年、同大教授(一八七一)年となる。『諸種の無脊椎動物の発生を研究したが、眼疾のため』、『主として理論家として遺伝・発生・進化などに関する理論を展開するに至った。彼の考察には遺伝・発生の染色体学説を予見するものが多くある。粒子説(デテルミナント)』(determinant:「決定子」とも称する。ヴァイスマンが生物の遺伝と発生を支配する細胞内の基本の粒子的単位として仮定したもの。彼は単位的構造が順次に「いれこ」となって構成されると考えた。則ち、最小の単位は「ビオフォア」(biophore)であり、これが組み合わさって「デテルミナント」となり、次いで後者が集合して「イド」(Id)となり、さらに「イド」が集って、これが現在の遺伝子概念に対応するが、異なる「デテルミナント」が各種分配されることにより、細胞の分化が起こると考えた点で、遺伝子の同じ組合せが全身の全細胞に配られるという事実と異なっている。ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)『的見解に基づいて生殖質の連続を主張し、獲得形質の遺伝を否定した。進化に関して自然淘汰の理論を拡張適用し』、自説を「ネオダーウィニズム」(neo-Darwinism/ドイツ語:Neodarwinismus)と称した、とある。「ネオダーウィニズム」は丘先生の言われる「新ダーウィン派」と同義で、同辞典によれば、『ダーウィンの学説内容のうち』、『生存闘争の原理だけを強調し』、『変異とその遺伝に関するダーウィンの見解を根本的に改めた』ヴァイスマン『の考え。すなわち、彼は生殖質の独立と連続の思想にもとづき、獲得形質の遺伝、つまり、いわゆるラマルキズム的要因を絶対的に否定した。これがネオダーウィニズムとよばれたが,現代の自然淘汰説も』、『その観念の発展の上にあると見て同様の名でよばれ、現在では主にそれを指す』とある。
「進化論の研究」一八七五年刊の“Studien zur Descendenz-Theorie. I. Ueber den Saison-Dimorphismus der
Schmetterlinge”(「進化論に関する研究Ⅰ:蝶の季節的二型性に就いて」)及び翌年の“Studien zur Descendenztheorie: II. Ueber die letzten Ursachen der
Transmutationen”(「進化論に関する研究Ⅰ:変異の最後の要因に就いて」)であろう。
「進化論講義」一九〇二年にフライブルク大学で行われた講義に基づく“Vorträge über Deszendenztheorie”。
「自然淘汰全能論」一八九三年刊の“Die Allmacht der Naturzüchtung :
eine Erwiderung an Herbert Spencer”。著名なイギリスの社会学者ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年)への回答という形式を採っている。]
ヴァイズマンが始めて遺傳に關する考を公にしたのは、今より四十年[やぶちゃん注:単純計算すると、一八八五年頃になるが、ヴァイスマン]ほども前のことであるが、その後屢々説を改めたゆえ、前のと後のとを比べると、餘程違つた所がある。細胞學上の細い研究に關する學説は暫く省いて、その全部を摘んで述べて見るに、ヴァイズマンは生物の身體をなしてゐる物質を生殖物質と身體物質との二種に分ち、後に子孫となつて生まれ出ずべき物質を生殖物質と名づけ、その他身體の全部をなせる物質を身體物質と名づけて、この二者を區別した。而して生殖物質といふものは、一個體の生涯の中に新に出來るものではなく、生れるときに既に親から承け繼いで來て、子が孫を生むときには、またそのまゝに孫に傳はつて行く。卽ち親が子を生むときには、親の身體の内に在つた生殖物質が親から離れて獨立の個體となるのであるが、その際、親の生殖物質の一部は變じて子の身體となり、一部は變ぜずして、そのまゝ子の生殖物質となる。それ故、今日生物の有する生殖物質といふものは、皆各々その先祖の有して居た生殖物質からそのまゝ引き繼いで來たものである。生殖物質は生物の初から連綿として存するもので、代々生れたり死んだりするのは、たゞ身體物質の方だけであるとの説故、これを「生殖物質繼續説」と名づけた。この考によると、生物の身體は恰も前の代から引き繼いだ生殖物質を後の代に讓り渡すために、暫時これを保護する容器の如きもの故、一生涯の間に如何に身體が外界から直接の影響を被つても、その子は先祖代々の生殖物質から出來るのであるから、之には少しも變化を起さぬ。恰も重箱に傷が附いても、その中の牡丹餅(ぼたもち)に變化が起らぬ如くに、身體物質に起る變化は生殖物質に對して何の影響も及ぼさぬから、親が一生涯の間に得た身體上の變化は、決して子には傳はらぬとの理窟になるが、之が卽ちヴァイズマン説の徽章(はたじるし)とも見るべき「親の新に得た性質は子に遺傳せぬ」といふ考の根據である。
[やぶちゃん注:「ヴァイズマンが始めて遺傳に關する考を公にしたのは、今より四十年ほども前のことである」本書刊行から単純計算すると、一八八五年頃になる。ウィキの「アウグスト・ヴァイスマン」の「進化生物学への貢献」の一八八二年から一八九五年のパートの記載よれば、『ヴァイスマンが獲得形質を最初に否定したのは』一八八三年に『行われた「遺伝について」と題された講義で』、それ以降、彼は『強固な選択万能論者に転向した。彼は生物の全ての特徴が自然選択によって形作られると宣言した』とある。]
斯く生殖物質といふものが、生物の初から今日まで直接に引き續いて居て、代々の個體がその生涯の中に得た新しい性質は少しも生殖物質の方に變化を起さぬとすれば、生物は如何にして今日の有樣までに進化し來つたか、生物には變異性といふものがあるから、自然淘汰も行はれ得るのであるが、この變異性は如何にして生じたかとの問が、是非とも起らざるを得ぬが、之に對するヴァイズマンの答は卽ち雌雄生殖説である。ヴァイズマンの考によれば、雌雄生殖の目的は甲乙二個體の生殖物質を種々に合せて無限の變化を起し、以て自然淘汰に材料を供給することであるが、その論據とする所は、近年急に發達した細胞學的研究、特に生殖作用に關する顯微鏡的研究の結果で、なかなか複雜な議論である。先づヴァイズマンの説を摘んでいへば、「生物の進化し來つた原因は全く自然淘汰ばかりで、淘汰が行はれるためには、生存競爭をなす多數の個體の間に多少の相違が無ければならぬが、この相違は雌雄生殖により、異なつた個體の生殖物質が種々の割合に混ずるによつて生じたものである。生殖物質と身體物質とは常に分かれて居るから、身體物質に生じた變化は生殖物質には關係せず、隨つて子孫に傳はらぬから、生物進化の原因とはならぬ」とのことである。
右の説を實際に照して見ると、なかなか之によつて説明の出來ぬ場合、若しくは之と反對する場合などが澤山にあるが、ヴァイズマンは自分の説を維持し、且これらの場合をも解釋するために、更に種々の假想説を考へ出しては追加した。それ故、之まで人の考へた生物學上の學説の中で、凡そヴァイズマンの説ほど假説の上に假説を積み上げた複雜なものはない。本書に於ては到底その詳細な點までを述べるわけには行かぬが、以上掲げた大體のことだけに就いて考へて見るに、第一身體物質と生殖物質とを判然と區別するのが既に假説である。生長した生物の體内には特に生殖のみに働く物質のあることは事實であるが、この物質が先祖から子孫まで直接に引き續くとのことは、實物で證明することも出來ねば、また否定することも出來ぬ全くの想像である。素より學術上には假説といふものは甚だ必要で、或る現象の起る原因のまだ十分に解らぬときに當り、先づ假説によつて之を説明することは、その方面の研究を促し、隨つて眞の原因を見出す緒ともなるもの故、學術の進步に對して、大に有功な場合もあるが、假説はどこまでも假説として取扱はねばならぬ。而して假説の眞らしさの度は之を以て説明し得べき事項の多少に比例するもの故、若し一の假説を以てそれに關する總べての事項を説明することが出來る場合には、差當り之を眞と見倣して置くが至當であるが、それを以て説明の出來ぬ事項が過半もある時には、之を誤と見倣して棄てるの外はない。ヴァイズマンの説の如きは事實と衝突する點も少からぬやうで、今日の所、尚幾多の論者が之に反對を表して居ること故、直に之を取つて推論の根據とするわけには行かぬ。蛙や鷄の發生を調べて見るに、最初の間は生殖の器官もなければ他の器官もなく、全く何の區別もないが、發生の進むに隨ひ、身體の各部が漸々分化し、腦も出來れば、肺も出來、胃も心臟も追々現れ、それと同時に生殖の器官も生ずる。之だけは眼で明に見えること故、確な事實であるが、かやうに分化せぬ前にも生殖物質と身體物質とは全く分れて居て、後に生殖の器官となるべき部には、初から特別な生殖物質が存して居るといふのは單に想像に過ぎぬ。
また雌雄生殖を以て無限の變異を生ずるための手段と見倣すことも頗る受取り難い説である。ヴァイズマンは「雌雄生殖によれば、二個の異なつた個體の生殖物質が組み合つて子の生殖物質が出來るから、斯くして生じた子が自分と同樣な相手を求めて孫を生めば、孫の代には父方の祖父母と母方の祖父母と都合四個の生殖物質が組み合ひ、三代目には八個の個體の生殖物質が組み合ひ、代々益々多數な個體の生殖物質が組合つた結果、生殖物質の種類が無限に出來るが、子孫の身體は總べてその親の體内にあつた生殖物質から生ずるもの故、生殖物質に斯く無限の種類があれば、生れる子孫にも無限の變異が現れる。而してこれ等のものが生存競爭をして、その中最も適するものだけが生き殘るから、その生物の種屬は漸々進化する」と論ずるが、若し個體間の變異が單にかやうにしてのみ生ずるものならば、その變異は如何に多くても、決して一定の範圍を超えることは出來ぬ。先祖の性質を種々に組み合せれば、幾らでも變異を造ることは出來るが、先祖の性質以外のものが新に生ずることがないから、この中から代々どれが選ばれようとも、先祖に見ぬやうな全く別な性質が發達する望はないやうである。尚ヴァイズマンの説に對する批評は、別に後の章に述べるから、こゝには略するが、同説は前にも論じた通り、生物の身體は生殖物質と身體物質との二部より成り、生殖物質の方は先祖より子孫へ直接に繼續し、身體物質の方は一代每に新に生殖物質から分かれ生ずるものであるとの假定を根據とし、この假定を護るために必要に應じて樣々な假説を附け加へたものであるから、若しこの根本の假定が誤であつたとすれば、他の部分は皆これとともに不用と成るべき性質のものである。またヴァイズマンは前以て幾度も論文を發表して、如何なる種類の後天的性質でも子に遺傳する如くにいうた傳來の俗説を見事に敗り終つた後に、生殖物質繼續説を著して、更に理論上から後天的性質の遺傳を否定したから、その功果は著しく現れ、多數の學者は之に化せられて、ラマルク説を全く度外するに至つた。今日親が新に獲た性質は子に遺傳せぬと論じて居る學者は隨分澤山にあるが、皆ヴァイズマンの説を採つて居るのであるから、この説は、ダーウィン以後の學説の中で、確に最多數の人に對して最大な影響を及ぼしたものであらう。
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