北條九代記 卷第十二 後醍醐帝御謀叛
○後醍醐帝御謀叛
天皇は近代の明君、當時の賢王にて、仁慈德澤(とくたく)の普(あまね)き事、一天四海、その恩恵を蒙り、禮讓道義の正しき事、四民六合(りくがふ)[やぶちゃん注:上下と東西南北の六つの方角。天下。世界。六極(りっきょく)。]、かの餘陰(よいん)に託す。然るに近年、鎌倉の有樣、政道、邪(よこしま)に行はれて理非の決断、明(あきらか)ならず、奢侈、甚(はなはだ)盛(さかり)にして、庶民の愁歎を知らず。睿慮萬端、違背して恐れず、勅命諸事、蔑如(べつじよ)[やぶちゃん注:蔑視に同じい。]して守らず。往初(そのかみ)、後鳥羽上皇、御心輕々(かろがろ)しく、遠き慮(おもんぱかり)おはしまさず、天下の權(けん)を武門に奪はれ、王道、漸々(ぜんぜん)衰敗して、今に至りて本(もと)に復(かへ)らず。是(これ)に依(よつ)て、君、大に憤(いきどほり)を含み給ひ、遠くは承久の宸襟(しんきん)[やぶちゃん注:後鳥羽上皇の無念な胸の裡。]を休(きう)し、近くは朝議の陵廢(りようはい)[やぶちゃん注:増淵勝一氏の訳では『朝廷の会議が軽んぜられている』ことと訳されておられる。]を歎き思召(おぼしめ)し、『何如(いか)にもして、東夷高時が不義を討(うつ)て、天下安泰の風(ふう)に皈(き)[やぶちゃん注:「歸」に同じい。]せばや』と思召立ちけるこそ忝(かたじけな)き。相摸守高時が行跡(かうせき)、奉行頭人(とうにん)の政斷、偏(ひとへ)に天道の明德に弛(はづ)れ、佛神の冥眦(みやうし)[やぶちゃん注:現代仮名遣「みょうし」。神仏が怒って睨むことを言う。]に罹(かゝつ)て、人望に背きしかば、諸氏、是を疎果(うとみは)てて、世の亂れん事をのみ願ひける所に、渡に舟を得たるが如く、諸卿(しよきやう)、近侍の輩(ともがら)、君、この御志のましきす事を悦び、一度天下を覆(くるがへ)し、高持を亡(ほろぼ)し、政道を王家に皈(かへ)さんと、内々、主上を勸め奉りければ、主上も睿智を囘(めぐ)らし給ひ、深慮智化(ちくわ)[やぶちゃん注:知力をよく働かせることが出来ること。]の老臣にも、猶、憚り思召して、先(まづ)、日野中納言資朝(すけともの)卿、藏人右少辨俊基、四條中納言隆資、尹(いんの)大納言師賢(もろかた)、平(へい)宰相成輔計(ばかり)に潛(ひそか)に仰合(おほせあは)され、然るべき兵を召(めさ)れけるに、錦織(にしごりの)判官代、足助(あすけ)次郎重成、南都北嶺の衆徒等(ら)、少々、勅命に應じけり。夫(それ)、『衆愚(しゅぐ)の愕々(がくがく)は一賢の唯々(ゐゝ)に如かず』と云へり。何ぞ智慮謀略の輩(ともがら)に勅して異見をも問ひ給はざる。世を愼み給ふ御事はさもあるべし、この大事に臨みて、器量を選び給はざる、是(これ)未(いま)だ時の至らざる所なり。爰に土岐(ときの)左近藏人賴員(よりかず)は六波羅の奉行人齋藤太郎左衞門尉利行が婿なりしが、六波羅へ返忠(かへりちう)して、主上御謀叛の事を告げたりければ、六波羅、大に驚き、元德元年九月十九日に小串(をぐし)三郎左衞門尉範行、山本〔の〕九郎時綱を大將として、軍兵三千餘騎を遣し、多治見が宿所錦小路高倉、土岐が宿所三條堀河へ押寄せ、賴貞、國長を討取りて、關東に飛脚を立ててぞ告げたりける。高時、聞きて、評定、様々なり。「先(まづ)、その密計の張本(ちやうぼん)を召して問はるべし」とて、同二年五月に關東の使、長崎四郎左衞門尉泰光、南條〔の〕次郎左衞門尉宗直、二人、上洛して、權中納言賢朝(すけともの)卿、蔵人右少辨俊基を召捕(めしとつ)て、鎌倉に歸りけり。この兩人は、主上御謀叛の御事を勸め奉りし張本なりと聞えたり。既に關東に下著せしかども、朝廷の近臣なり、才覺優長(いうちやう)[やぶちゃん注:学才に優れていること。]たりしかば、世の誹(そしり)、君の御憤(おんいきどほり)を憚りて、拷問の沙汰にも及ばず、侍所に預置(あづけお)きたり。同七月七日、主上、已に吉田中納言冬房卿を召して、一紙(し)の御告文(おんがうぶん)[やぶちゃん注:「告文」(現代仮名遣「こうぶん」)は自分の言動に虚偽のないことを神仏に誓ったり、相手に表明したりするために書く文書を言う。]を草せしめ、萬里(までの)小路大納言宣房卿を勅使として、關東に差下し、武家の憤(いきどほり)を宥(なだ)め給ふ一策にぞ擬(ぎ)せられける。高時、卽ち、秋田(あいだの)城〔の〕介を以(もつ)て御告文(おんがうぶん)を請取(うけと)り、二階堂出羽入道道蘊(だううん)が申す旨(むね)に依(よつ)て、齋藤太郎左衞門尉利行(としゆき)[やぶちゃん注:底本「後行」であるが、原本に当たって「利行」に訂した。]に讀(よま)しむるに、睿心(えいしん)僞(いつは)らざる處、天の照覽(せうらん)に任(まか)すと遊(あそば)されたる所を讀みける時に、利行、俄に目眩(めくるめ)き、衂垂(はなぢた)りければ、讀果(よみは)てずして退出し、七日の中に、血を吐きて、死ににけり。高時、天慮を憚りけるにや、「御治世(おんぢせい)の御事は朝議に任せ奉る上は、武家、綺(いろ)ひ[やぶちゃん注:口出しをし。]申すべきにあらず」と勅答申して、告文を返し、宣房、上洛あり。俊基は免(ゆるさ)れて皈京あり。資朝卿は佐渡國へ流されたり。
[やぶちゃん注:湯浅佳子「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、この辺りから、有意に「太平記」が参考元資料として使用され始める。本項では巻第一の六項目の「中宮御産御祈之事 付(つけたり) 俊基僞(いつはつて)籠居事」から九項目の「資朝・俊基關東下向〔の〕事 付 御告文(ごかうぶんの)事」が利用されている。
「日野中納言資朝(すけともの)卿」(正応三(一二九〇)年~元弘二/正慶元(一三三二)年)日野俊光の子。後醍醐天皇の信任を得て、元亨元 (一三二一) 年に参議となり、院政をやめて親政を始めた天皇が、密かに計画した討幕計画に同族の日野俊基らと加わり、同三年、東国武士の奮起を促すために下向した。しかし翌正中元 (一三二四) 年九月に討幕の陰謀が漏洩し、六波羅探題に捕えられ、鎌倉に送られ、翌二年に佐渡に流された (正中の変) 。その後、元弘元/元徳三(一三三一)年の後醍醐天皇の再度の討幕計画の発覚 (元弘の乱)した際、配所で処刑された。
「藏人右少辨俊基」(?~元弘二/正慶元(一三三二)年)刑部卿日野種範の子。文保二(一三一八)年の後醍醐天皇の親政に参加し、蔵人となり、後醍醐の朱子学(宋学)志向に影響を受けて、討幕のための謀議に加わった。諸国を巡り、反幕府勢力を募ったが、六波羅探題に察知され正中の変で同族の日野資朝らとともに逮捕された。彼の方は処罰を逃れ、京都へ戻ったが、「元弘の乱」の密議で再び捕らえられて、得宗被官諏訪左衛門尉に預けられた後、鎌倉の葛原岡で処刑された。
「四條中納言隆資」(正応五(一二九二)年~正平七/観応三(一三五二)年)大納言四条隆顕の孫。正中・元弘(げんこう)の二度の討幕計画に孰れも関わり、建武政権では有力公卿となった。南北朝分裂後も後醍醐天皇に従って吉野に赴き、南朝で従一位権大納言に昇った。観応三/正平七年の五月、男山八幡で足利義詮軍と戦い、戦死した。
「尹(いんの)大納言師賢(もろかた)」(正安三(一三〇一)年~正慶元/元弘二(一三三二)年)は花山院師信の子。参議・権中納言を経て、大納言となる。「元弘の乱」では後醍醐天皇の身代わりとなって比叡山に登ったが、発覚、笠置で幕府方に捕らえられて出家、後に下総の千葉貞胤にお預けとなり、三十二で病死した。
「平(へい)宰相成輔」平(たいらの)成輔(正応四(一二九一)年~正慶元/元弘二 (一三三二)年)。父は権中納言惟輔。嘉暦二(一三二七)年に参議となり翌年には丹波権守を兼任。後醍醐天皇の討幕運動に参加し、元徳二(一三三〇)年四月一日には瀬尾兵衛太郎に検非違使大判事中原章房を暗殺させている(討幕の秘計の漏れることを恐れた天皇の命令によるされる)。しかし討幕計画が漏れ、元徳三/元弘元年八月二十五日、皇居の中で万里小路宣房とともに六波羅の兵に捕縛され、翌年五月に鎌倉へ護送されたが、その途中、相模早河尻に於いて処刑された。
「錦織(にしごりの)判官代」錦織俊政(にしごりとしまさ ?~元徳三/元弘元(一三三一)年)は朝廷方の武士。院の判官代を務めた。後醍醐天皇の笠置挙兵に加わり、六波羅方の包囲軍七万と戦った(元弘の乱)が、九月二十八日の六波羅の奇襲により、行宮(あんぐう)が陥落した際、自刃した。特異な姓から見て、「承久の乱」に際して上皇方に加わり、六波羅の北条泰時の陣営に討ち入って死んだ錦織義継(にしごりよしつぐ ?~承久三(一二二一)年:近江出身で後鳥羽上皇の母七条院の家司(けいし)であった)の後裔ではないかとも思われる。
「足助(あすけ)次郎重成」足助重範(あすけしげのり 正応五(一二九二)年~正慶元/元弘二(一三三二)年)の父で、三河国加茂郡足助庄を拠点とした武家足助氏の六代目惣領の足助六郎次郎貞親(重成)。ウィキの息子の方の「足助重範」によれば、『飯盛山城主であった父貞親が、後醍醐天皇の倒幕に参加するために京都に入ったが、共謀者の土岐頼員が事を漏らしたため』、『六波羅探題に露見』、『父は土岐頼兼、多治見国長らとともに少数の軍勢で交戦したが』、『戦死、あるいは自刃して果てた(正中の変)』とある(太字下線やぶちゃん)。折角だから、続けて息子の方も記しておく。『弓の名手としても知られ』た『重範は、父の後を継いで』、「元弘の乱」の際には、前に出た『錦織俊政らと共に後醍醐天皇方に味方した』同年九月の「笠置山の戦い」では、『天皇の元へ最初に馳せ参じ、幕府方の大軍を相手に強弓を以』って『荒尾九郎・弥五郎兄弟を討ち取るなど』、『奮戦したが、笠置山の陥落後』、『捕縛され』翌二年五月三日、『京都六条河原で処刑された』とある。
「衆愚(しゅぐ)の愕々(がくがく)は一賢の唯々(ゐゝ)に如かず」増淵氏の訳文では『多くの愚か者がやかましく述べたてることは、一人の賢人が静かに『はい』と答えることに及ばない』とある。この故事成句は一般には「太平記」の巻第十六で、新田義貞に楠正成が用いる戦さの覚悟の要諦として語り諭す語として知られるものであるから、ちょっと筆者は筆が早って滑っている感じがする。「北條九代記」の終りが近いところで、まさに「衆愚の愕々」的な焦りででもあろうか?
「土岐(ときの)左近藏人賴員(よりかず)」(生没年未詳)は別に舟木頼春(とふなきよりはる)とも称した武家土岐氏一門の舟木氏当主。ウィキの「土岐頼員」によれば、元亨四(一三二四)年九月、『鎌倉幕府に反発していた後醍醐天皇の倒幕計画を妻に漏らしたことで露見し』、「正中の変」を引き起こした人物。「太平記」の巻一の「賴員囘忠(かへりちう)事」に『よると、頼員も同族の多治見国長らと共に倒幕計画の参加者であり、無礼講という体裁で幾度も開かれた倒幕密議に加わっていた。ある夜、妻との別離を惜しみ、倒幕計画を告白する。妻は六波羅探題評定衆の奉行であった父・斎藤利行へ事の次第を告げ、利行が六波羅探題へ急報したことにより』、九月十九日には、驚愕の倒幕謀議が『幕府の知るところとな』った(下線太字やぶちゃん。この章では頼員が確信犯で漏らしたことになっているのと、微妙に違う)。『幕府は機先を制し、小串範行・山本時綱に軍を率いらせ、上洛していた土岐惣領家に属する従子、もしくは従兄弟の土岐頼兼(従兄、もしくは伯父の土岐頼貞の十男)や多治見国長』及び『足助氏の当主の足助貞親(加茂重成)を討伐させた。国長らは寡兵で奮戦したが、討ち死に、あるいは自害したという』とある。
「「齋藤太郎左衞門尉利行」斎藤利行(?~嘉暦元(一三二六)年)は六波羅探題奉行人。先に注した通り娘は土岐頼員(舟木頼春)の妻であった。以上の没年はウィキの「斎藤利行」によるものであるが、とすると、後に出る後醍醐天皇の告げ文を読んで一週間後に死んだというのは、嘘ということになる。
「返忠(かへりちう)」主君に背いて敵方に通じること。裏切り。なお、一旦、背いた者が再び忠義を尽くすことにも用いる。無論、ここでは筆者は前者で用いている。
「元德元年九月十九日」正中元年の誤り。というより、元亨四年という方が正確。元亨四年は十二月九日に改元して正中となるからである。因みに元亨四年九月十九日はユリウス暦一三二四年十月七日である。
「小串(をぐし)三郎左衞門尉範行」(生没年未詳)は当時、六波羅探題北方を担当していた北条範貞の家臣。
「山本〔の〕九郎時綱」生没年不詳であるが、個人サイト「南北朝列伝」のこちらの最後に彼の解説が載り、『詳細は全く不明だが、恐らく「正中の変」時点での六波羅探題常葉範貞』(前注の北条範貞のこと。彼は北条氏極楽寺流の支流常盤流の当主で常葉範貞とも呼ばれた)『の被官(家臣)ではなかったかと推測される』とあり、元亨四(一三二四)年九月、『後醍醐天皇とその側近らによって進められていた倒幕挙兵計画が発覚、六波羅探題は悪党討伐のためとして兵を集め、』十九『日早朝に兵を動かして計画に参加していた土岐頼兼・多治見国長の京屋敷を急襲した。「太平記」によると』、『三条堀川の土岐頼の屋敷を襲撃したのが山本時綱だった。時綱は大軍で押し寄せては逃げられることもありうると考え』、『軍勢を三条河原に待機させ、中間二人だけを連れて自ら土岐邸に侵入、起床したばかりで整髪をしていた頼兼を』、『いきなり』、『襲った。時綱は頼兼と切り結んで庭に誘い出したが、そこへ軍勢も駆けつけてきたため、頼兼は部屋に逃げ込んで切腹』、『時綱は頼兼の首を刀の先に貫いて六波羅に帰還したという(以上、「太平記」による。ただし「太平記」では「土岐頼貞」となっている)』。『ただし』、『花園上皇の日記によると』、『いきなりの襲撃ではなく』、『事前に何度か出頭を求めたが、やがて土岐側から矢を射かけてきたため』、『攻撃にかかったとされている』。なお、ネット上の情報によれば、武田信玄に仕えた山本勘助は、伝によれば、この九郎時綱を子孫ともされるらしい。
「多治見」多治見四郎二郎国長(正応二(一二八九)年~元亨四(一三二四)年)はは土岐氏(美濃源氏)の流れを汲む饗庭氏一門で、美濃国土岐郡多治見郷(現在の岐阜県多治見市)を本拠としていた武士団。ウィキの「多治見国長」によれば、『惣領家の土岐頼貞の子の頼兼、一族の頼員(舟木頼春)、足助氏の当主の足助貞親(加茂重成)らとともに』、『後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒計画に参加し、日野資朝の招きにより』元亨四年に『京都に入った』が、『頼員がその計画を六波羅探題の奉行の斎藤利行の娘である妻に漏らしてしまったことから事前に露見し、六波羅探題の配下である小串範行によって夜中に急襲を受け』た。先にも引かれていた「太平記」巻一「賴員囘忠事」に『よれば、無礼講による終夜の酒に酔っていたが、この急襲の声に驚いて慌て騒いだ。無防備であったが、共に寝ていた物馴れた遊女の機転により』、『鎧兜を身につけ、寝入っている者を起こすことができたという。国長は頼兼とともに少数の手勢を率いて奮戦したが、最終的には館の裏手を突破されたことから観念し、一族郎党とともに自害して果てた(正中の変)』とある。
「錦小路高倉」現在の京都府京都市中京区中魚屋町高倉通附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「土岐」土岐頼貞(文永八(一二七一)年~延元四/暦応二(一三三九)年)は、清和源氏の流れをくむ美濃を地盤とする有力御家人美濃源氏で、鎌倉幕府から重んじられ、北条氏とも縁を結んでいた土岐光定の七男。母は鎌倉幕府第九代執権北条貞時の娘。後、室町幕府の初代美濃守護となった。参照したウィキの「土岐頼貞」によれば、『母が北条氏出身であったことから、頼貞は若年時は鎌倉で過ごし、そこで禅宗の高僧たちに帰依し、特に夢窓疎石と親交を結んだ。夢窓疎石は美濃に永保寺(多治見市)を開いている。騎射をよくし』、『優れた歌人で』もあった。正中元(一三二四)年に、同じ『美濃源氏の足助貞親(加茂重成)と土岐氏の一族(頼員(舟木頼春)など)が後醍醐天皇の最初の討幕計画(正中の変)に関与し、六波羅探題に察知されて、十男の頼兼、頼員、多治見国長ら土岐一族は追討を受け、自刃して果てて、土岐氏惣領の頼貞も幕府から関与を疑われている』。「太平記」では『頼貞は六波羅探題の兵を相手に奮戦して自害することになっているが』、これは誤りで、『頼貞は生き延び』、『その後の戦乱で活躍し』、『美濃守護となっている』。元弘三(一三三三)年、『後醍醐天皇の詔を受けた頼貞は討幕の挙兵をして、足利尊氏の軍に加わった。後醍醐天皇の親政(建武の新政)では美濃守護に任じられた。以後』実に二百年に亙って、『美濃の守護は土岐氏が継承する』こととなった。『失政が続いた建武新政府に対して尊氏が挙兵すると、頼貞は六男の頼遠と共に尊氏に従い』、『南朝との戦いで数々の戦功をあげた。土岐氏は美濃一帯に一族の支流を配して「桔梗一揆」と呼ばれる強力な武士団を形成し、幕府軍を支える戦力となり、頼貞は「御一家(足利氏)の次、諸家の頭」と呼ばれ』、『室町幕府内で重きを置いた』。『また、禅宗に深く帰依し、美濃国内に数々の寺院を開基させたことでも知られる。八幡神社も頼貞の開基である』とある。
「三條堀河」京都府京都市中京区橋西町堀川通附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「同二年五月」増淵氏の訳注によれば、正中元年十月の誤りとする。
「長崎四郎左衞門尉泰光」長崎泰光(生没年未詳)は内管領を輩出した長崎氏の一族で、得宗被官(御内人)として北条貞時・高時に仕えた人物。参照したウィキの「」より引く。「系図纂要」の『長崎氏系図によれば、長崎光綱の弟・長崎高泰の子であるが、同系図の信憑性は決して高くなく、確証はない』とする。『「泰光」という実名は』「御的日記」や「太平記」で『確認ができる。後者は軍記物語という性格上、創作の可能性もあり得るため、これだけで直ちに泰光の存在を認めることは難しいが、一次史料と言える前者でも』、徳治元(一三〇六)年『正月に幕府弓始射手を勤めた人物として「長崎孫四郎泰光」の名が見られるので、実在が認められるとともに通称が「孫四郎」であったことが分かる』。とすれば、延慶二(一三〇九)年正月二十一日の『北条高時の元服』『に際し』、『「なかさきのまこ四郎さゑもん」(長崎孫四郎左衛門)が馬を献上している』『が、これも泰光に比定される』。なお、『通称の変化から恐らく』、『この間に左衛門尉に任官した可能性が高い』。「太平記」では『「長崎四郎左衛門泰光」と表記している箇所がある』『一方で、別の箇所で登場する「長崎孫四郎左衛門」』『については実名を明記していないので、同じく四郎左衛門(尉)の通称を持つ長崎高貞と混同されがちだ』『が、前述の史料からいずれも泰光を指すと考えられる』。『前者は泰光が南条次郎左衛門宗直とともに上洛し、日野資朝・日野俊基を捕縛したと伝えるものだが、実際には』、これは正中元(一三二四)年九月の、所謂、「正中の変」であって、『東使として派遣されたのも別の人物であり』、この両名は元徳三/元弘元(一三三一)年五月五日の「元弘の変」の際に上洛し、『俊基と僧の文観・円観を捕縛した人物』『を挙げたものである』。後者は元弘三/正慶二(一三三三)年に『長崎孫四郎左衛門(泰光)が長崎高重とともに、桜田貞国を大将とする幕府軍に属し』、『新田義貞率いる軍勢と戦った、久米川の戦いの様子を伝える記事であり、鎌倉幕府滅亡の頃までの存命が確認される』、なお、「梅松論」に『よれば、同年の段階で上野国守護代に在任していたという』。建武二(一三三五)年九月、『朝廷は北条氏一門の旧領であった安楽村・原御厨等を伊勢神宮領とする太政官符を発給しているが、その中に泰光の領地であった伊勢国大連名芝田郷・深瀬村が含まれている』『ことから、幕府滅亡後まもなくして泰光の領地は収公されたことになる。幕府滅亡に殉じた』(一三三三年から一三三五年の『間に死去した)可能性は高いが、死の詳細については不明である』とある。
「南條〔の〕次郎左衞門尉宗直」詳細事蹟不詳。
「同七月七日」前の誤りがあるので、正中元年である。
「萬里小路大納言宣房」(正嘉二(一二五八)年~貞和四/正平三(一三四八)年?)は従三位の万里小路資通の子。ウィキの「万里小路宣房」によれば、父が『閑職にあったため、若年のうちは官職に恵まれなかった。大覚寺統の後二条天皇に属して、五位蔵人・弁官を経て蔵人頭・参議を歴任するが』徳治三(一三〇八)年の『天皇崩御後に参議を辞』している。文保二(一三一八)年の『大覚寺統の後醍醐天皇即位を機に、権中納言に復帰』し、正中元(一三二四)年、『後醍醐天皇の討幕計画が発覚した正中の変においては、自ら鎌倉へ赴いて』、『天皇に対する弁明を行い、その後』、『権大納言に昇進』している。元徳三年の「元弘の変」では、二人の『息子(藤房・季房)が討幕に関与したとして六波羅探題に拘束されたが』、翌年四月には『許されて、新帝である持明院統の光厳天皇のもとに出仕するよう命じられた』。『鎌倉幕府滅亡後の建武の新政下では、従一位に叙せられ』、『雑訴決断所の頭人を務め』ている。建武三(一三三六)年一月には『若年の千種忠顕とともに出家しており、新政への不満が集まる中での詰め腹を切らされたものと考えられている』、『後醍醐天皇に従って吉野に赴くこともなく、次男・季房の遺児仲房』『も京都に残ったため、それまで大覚寺統の重鎮であった万里小路家は』、『以後』、『持明院統(北朝)方について活動することになった』。『その後の宣房の消息は明らかでないが、玄孫・時房の日記である』「建内記」の文安四(一四四七)年十月十八日の条には『宣房の遠忌』(おんき:五十回忌以上の年忌をかく呼び、百回忌以上になると五十年ごとに遠忌を行う)『を修する記事が見えるので』、貞和四/正平三(一三四八)年『のこの日に没したと見られて』おり、とすれば、享年九十一であった。『後世、後醍醐天皇の信頼が厚い賢臣として、同じく後醍醐天皇の近臣であった北畠親房・吉田定房とともに「後の三房」と並び称された』。『また、日記として』「万一記」(「万里小路一品記」「宣房卿記」などとも呼ぶ)を『残しており、写本が断片的に現存している。日記を記すことは、当時の公家が政務を円滑に行い、子孫が家名を維持するために必要不可欠な行動であったが、閑職に終わった父・資通が日記を残していないので、万里小路家の公家としての諸規範は宣房に由来するものとされ、宣房は歴代の万里小路家当主の崇敬の対象となった』とある。
「秋田(あいだの)城〔の〕介」幕府の有力御家人であった安達時顕(?~元弘三/正慶二(一三三三)年七月四日)。安達氏の一族で、父は弘安八(一二八五)年の「霜月騒動」で討たれた安達宗顕(むねあき:顕盛の子)である。ウィキの「安達時顕」によれば、『霜月騒動で父宗顕をはじめ』、『一族の多くが滅ぼされたが、幼子であった』彼『は乳母に抱かれて難を逃れた。その後は政村流北条氏の庇護下にあったようであり』、徳治二(一三〇七)年までには、『その当主・北条時村を烏帽子親に元服』、『「時」の字を賜って時顕を名乗ったとされている』。永仁元(一二九三)年の「平禅門の乱」で『平頼綱が滅ぼされた後に安達一族の復帰が認められると、やがて時顕が安達氏家督である秋田城介を継承したが、これを継承できる可能性を持つ血統が幾つかある中』、『時顕が選ばれたのも』、『政村流北条氏、すなわち』、『この当時政界の中枢にあった北条時村の影響によるものとされている』。『史料で確認できるところでは、時顕の初見は』「一代要記」の徳治二(一三〇七)年一月二十二日の条であり、翌徳治三年(後に延慶元年に改元される。その時はユリウス暦は一三〇八年)』『の段階では秋田城介であったことが確実である』。応長元(一三一一)年、第九代『執権北条貞時の死去にあたり、時顕は貞時から長崎円喜と共に』、九『歳の嫡子高時の後見を託された』。文保元(一三一七)年に「霜月騒動」で『討たれた父宗顕の』三十三『回忌供養を行』っている。正和五(一三一六)年には、十四歳で『執権職を継いだ高時に娘を嫁がせて北条得宗家の外戚となり、また時顕の嫡子高景は長崎円喜の娘を妻に迎え、内管領とも縁戚関係を結んで権勢を強めた』。元亨四(一三二四)年九月に『後醍醐天皇の倒幕計画が発覚し、関与した公家らが六波羅探題によって処罰され、弁明のために後醍醐天皇から鎌倉に派遣された万里小路宣房を長崎円喜と共に詰問し、困惑する宣房が時顕を恐れる様が嘲弄を招いたという』。正中三(一三二六)年三月、『高時の出家に従って時顕も出家し』、『法名の延明を称する。高時の後継者を巡り、高時の妾で御内人の娘が産んだ太郎邦時を推す長崎氏に対し、高時の舅である時顕と安達一族が反対して高時の弟泰家を推す対立が起こり、北条一門がそれに巻き込まれる事態となっている(嘉暦の騒動)。最終的には邦時が嫡子の扱いとなっている』。東勝寺合戦での『幕府滅亡に際し、東勝寺で北条一門と共に自害し』ている、とある。
「二階堂出羽入道道蘊(だううん)」二階堂行藤の子で後に幕府政所執事となった二階堂貞藤(さだふじ 文永四(一二六七)年~建武元(一三三五)年)。ウィキの「二階堂貞藤」より引く。『甲斐国山梨郡牧荘主で』、嘉元三(一三〇五)年には『鎌倉から夢窓疎石を招き』『浄居寺』(じょうごじ)『を再興し』ている。ここに書かれているように、『後醍醐天皇の倒幕計画が露見した正中の変において』は、「太平記」に拠れば、『鎌倉へ送られた後醍醐天皇誓書の判読を止めたという』(「天子が臣下に対して誓書を渡した例は我が国でも中国でも未だ聞いたことがない。軽率に開けてご覧になると、神仏の罰を受けるかもしれない。文箱(ふばこ)は開けずに返すべきである」とした。ここには後醍醐への処罰の寛容を含めた彼の思惑が働いていると私は読む)。元徳元(一三二九)年、『京都では後醍醐天皇と』、『量仁』(かずひと)『親王への譲位を求める持明院統の間で対立が発生し、双方が鎌倉へ働きかけており』、三月には『道蘊(貞藤)が使者として上洛』、『道蘊は持明院統側に有利な独自の調停案を提示しており、北条貞顕は道蘊を批判し』、「太平記」で『は「朝敵の第一」と道蘊評を記している。道蘊の独断に関しては、同年』二『月には政所執事の二階堂行貞が死去し、後任と目されていた道蘊の上洛中に行貞の子貞衡が補任されたことに対しての不満を示したものであるとする指摘もある』。元徳二(一三三〇)年に『引付頭人、守護となっていた甲斐において』、『再び夢窓を招き』、『庄内に恵林寺』『を創建』、翌年には『後醍醐天皇の譲位を促す使者として安達高景と共に上洛し、宮方の楠木正成が挙兵した千早城攻めに参加した』。正慶元(一三三二)年には『政所執事を務め、得宗・北条高時を補佐』した。彼は『鎌倉幕府滅亡後も建武政権に赦されて』、『これに参加し、雑訴決断所所四番衆で北陸道を管轄した。しかし、西園寺公宗による北条氏再興の陰謀に加担したとされ』建武元年十二月二十八日(一三三五年一月二十三日)に『六条河原において処刑され』ている、とある。
「申す旨(むね)」増淵氏は割注で『天皇が武臣に直接告げ文を下された先例はないので、みづから御覧になってはいけません』と主旨を申し上げたと訳しておられる。
「衂垂(はなぢた)りければ」鼻血が垂れてきたので。
「皈京」「歸京」。]
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