「在りし日の歌」 永訣の秋 / ゆきてかへらぬ ――京都―― 中原中也
永 訣 の 秋
ゆきてかへらぬ
――京 都――
僕は此の世の果てにゐた。陽は温暖に降り洒ぎ、風は花々搖つてゐた。
木橋の、埃りは終日、沈默し、ポストは終日赫々と、風車を付けた乳母車、いつも街上に停つてゐた。
棲む人達は子供等は、街上に見えず、僕に一人の緣者(みより)なく、風信機(かざみ)の上の空の色、時々見るのが仕事であつた。
さりとて退屈してもゐず、空氣の中には蜜があり、物體でないその蜜は、常住食すに適してゐた。
煙草くらゐは喫つてもみたが、それとて匂ひを好んだばかり。おまけに僕としたことが、戸外でしか吹かさなかつた。
さてわが親しき所有品(もちもの)は、タオル一本。枕は持つてゐたとはいへ、布團ときたらば影だになく、齒刷子(はぶらし)くらゐは持つてもゐたが、たつた一册ある本は、中に何も書いてはなく、時々手にとりその目方、たのしむだけのものだつた。
女たちは、げに慕はしいのではあつたが、一度とて、會ひに行かうとは思はなかつた。夢みるだけで澤山だつた。
名狀しがたい何物かゞ、たえず僕をば促進し、目的もない僕ながら、希望は胸に高鳴つてゐた。
* *
*
林の中には、世にも不思議な公園があつて、不氣味な程にもにこやかな、女や子供、男達散步していて、僕に分らぬ言語を話し、僕に分らぬ感情を、表情してゐた。
さてその空には銀色に、蜘蛛の巢が光り輝いてゐた。
[やぶちゃん注:アスタリスク三個のパーテーションはブログでの不具合を考えて原典の配置を再現せず、上に引き上げ、アスタリスク間も短縮しておいた。本篇は昭和一一(一九三六)年十一月発行の『四季』初出(角川文庫「中原中也詩集」(河上徹太郎編)の年譜に拠る)である。この十一月十日に長男文也が二歳で小児結核のために急逝しているが、本篇はそれ以前に書かれたものということになる。中原中也にして非常に珍しい散文詩形式である。京都時代を素材とした幻想的回想である。彼の京都時代は大正一二(一九二三)年三月に県立山口中学校第三学年を落第し、四月に京都の私立立命館中学へ転校してから、大正十四年三月に大学受験を目指して上京するまでの間であることは既に「獨身者」の注で述べたので、そちらを参照されたいが、これも少なくとも先のその「獨身者」的な閉じられた世界を抽出して語っていることから、私はそちらの注で更に限定したのと同様、長谷川泰子と同棲する以前の大正一二(一九二三)年三月から翌年四月までの一年余り(満十六歳から十七歳初めまで)が素材回想の事実上の対象期間であるように思われる。新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」の年譜によれば、転校後は『岡崎あたりに下宿』し、『生まれてはじめて両親のもとを離れ、飛び立つ思いであった。「学校は下宿にばかりゐては胃が悪くなるから、散歩の終点だと思つてかよつた。」という散歩は中也にとって特別の意味を持っており、このころから結婚する前の昭和八年十月に至る迄、毎日毎日歩き通した。「読書は夜中、朝寝て正午頃起きて、それより夜の十二時頃迄歩く」のを日課と』していたとある。『この年』(大正十二年)『の秋の寒い夜に丸田町橋際の古本屋で』「ダダイスト新吉の詩」(高橋新吉(明治三四(一九〇一)年~昭和六二(一九八七)年:中也より六つ年上)の詩集(辻潤編)。この大正十二年二月に中央美術社から刊行していた)『を読み』、『感激。その影響を受けて高橋新吉風の詩を作るようになる。四十編ほど残存、〝ダダイスト〟〝ダダさん〟などの綽名(あだな)で呼ばれ』た、とある。また、泰子との同棲の直前の大正十三年三月には詩人富永太郎(明治三四(一九〇一)年~大正一四(一九二五)年十一月十二日:中也より六つ年上。結核が悪化し、この翌年、酸素吸入器のゴム管を「きたない」と言って、自ら取り去って二十四歳で亡くなった。中也は彼の死に激しい衝撃を受けた。因みに、私は私のサイト内の「心朽窩新館」で彼の全詩篇(三ページある)を遠い昔に電子化している)と知り合い、この後、急速に親しくなっていった。
「洒ぎ」「そそぎ」。
「花々搖つてゐた」助詞なしで繋げているのは韻律からであろう。「搖つてゐた」は「ゆすつてゐた(ゆすっていた)」。
「埃り」「ほこり」。
「赫々」「あかあか」。
「街上」「かいじやう(がいじょう)」。
「停つて」「とまつて(とまつて)」。
「喫つても」「すつても(すっても)」。]