月 中原中也
月
今宵月は蘘荷(めうが)を食ひ過ぎてゐる
濟製場の屋根にブラ下つた琵琶は鳴るとしも想へぬ
石灰の匂ひがしたつて怖(おぢ)けるには及ばぬ
灌木がその個性を砥いでゐる
姉妹は眠つた、母親は紅殼(べんがら)色の格子を締めた!
さてベランダの上にだが
見れば銅貨が落ちてゐる、いやメダルなのかァ
これは今日晝落とした文子さんのだ
明日はこれを屆けてやらう
ポケットに入れたが氣にかゝる、月は蘘荷を食ひ過ぎてゐる
灌木がその個性を砥いでゐる
姉妹は眠つた、母親は紅殼色の格子を締めた!
[やぶちゃん注:「ァ」「ッ」は後続詩篇の通常表記と大きさを比べて確定した。
「今宵月は」「こよひ」、「つきは」。
「蘘荷(めうが)」は「茗荷」に同じい。被子植物植物門単子葉植物綱ショウガ目ショウガ科ショウガ属ミョウガ Zingiber
mioga。この詩篇全体が、落語の「茗荷宿」などで知られる「茗荷を食べると物忘れがひどくなる」という俗信のパロディとしてあるように思われる。但し、これは「本草綱目」の巻二十六の「菜之一」の「生薑」(同属の生姜(Zingiber
officinale))の記載の中の「弘景曰、『久服少志少智。傷心氣。今人噉辛辣物。惟此最常。故論語云、每食不撤薑。言可常食。但不可多爾。有病者是所宜矣』とあるのを本邦で茗荷に当ててしまった誤りらしく、しかもショウガもミョウガもそのような悪しき成分は無論、含まれてはいない。
「濟製場」「さいせいば」と読む。吉竹博氏の論文「中原中也の身体意識(2)――血について――」(PDF)の注に、中原中也の弟中原思郎氏が吉田熈生編「中原中也必携」(昭和五六(一九八一)年学燈社刊)の中で、『当時の医院には済製場(さいせいば)があった。包帯、ガーゼ、脱脂綿などを洗濯、消毒する部屋である。直径一メートルもある消毒釜に水を入れ、沸騰させ、汚れものを煮沸する。約賓は石炭酸で、蒸気いっぱいの部屋は石灰臭い』とある。これで「石灰」は腑に落ちた。軍医であった中也の父謙助は軍役を退いた後、郷里山口に帰って、大正六(一九一七)年四月(中也十歳)に中原家のある湯田町に併設されていた個人病院(中也の母中原フクの父助之の弟が「湯田医院」として開院していた。助之は三十三で若死しており、フクは政熊の養女となっている)を継いでいる。石川敏夫氏のサイト「詩のある暮らし」の「わたし流 近代詩の読み」の中原中也のパートの「第1部 父への反抗 第1話 奇蹟の子」には、その医院と中原家全体の見取り図が載せてあるが、そこに「済生場」とあるのがそれであろう。
「紅殼(べんがら)色の格子」「紅殼」は赤色顔料の一つ。主成分は酸化第二鉄Fe2O3。着色力が強い。塗料・油絵具の他、研磨剤に用いる。ベンガラ。名称はインドのベンガル地方で多く産出したことから。それに当字したものの訓読みである。ここは単に濃い赤味の褐色を指している。赤黒く塗った入口の格子戸というのは、私は即座に天然痘(疱瘡)除けの色彩を想起する。上記リンク先の見取り図を見ていると、同医院にあった独立棟の病室(或いは使用人や看護婦の住む長屋など)の戸口ではあるまいか? と、ふと思ったりした。
「屋根にブラ下つた琵琶」月の隠喩であろう。
「文子さん」第一連の姉妹の一人であろう。病人か看護婦か使用人か。前の「紅殼色の格子」から、私には家族ぐるみ(付き添い看護の可能性もある)で住んでいるうちの、一少女のようにも思われる。前の石川氏の解説に『父謙助は、湯田が温泉観光地のため、色町で環境が悪いと言って、学校から帰った中也を一歩も外へ出しませんでした。中也はついに自転車にも乗れず、泳ぎもできなかったのです。二時間くらいで予習・復習をやってあとはすることがありません。所在ないので習字をし、絵を描きました』とあり、新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」の年譜(大正七年の条末)にも中也の言葉として『父は私の小さい時から、内から外へは出来得る限り出さなかった。外から来る子供だって、大抵は追ひ帰してしまふのであつた』とあるから、この「姉妹」「文子さん」こそが、彼の数少ない年齢の近い交流相手であったことが判る。或いは、この「姉妹」の「母親」が「格子を締め」るというのは、それさえも大人たちによって遮断されるという、中也自身の異様な孤独感の表出がこの詩全体を覆っているのかも知れぬ。]