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2018/05/22

六月の雨   中原中也

 

    六 月 の 雨

 

またひとしきり 午前の雨が

菖蒲のいろの みどりいろ

眼(まなこ)うるめる 面長き女(ひと)

たちあらはれて 消えてゆく 

 

たちあらはれて 消えゆけば

うれひに沈み しとしとと

畠(はたけ)の上に 落ちてゐる

はてしもしれず 落ちてゐる

 

        お太鼓叩いて 笛吹いて

        あどけない子が 日曜日

        疊の上で 遊びます 

 

        お太鼓叩いて 笛吹いて

        遊んでゐれば 雨が降る

        櫺子(れんじ)の外に 雨が降る 

 

[やぶちゃん注:第三・四連の有意な字下げはママ。サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説によれば、原詩篇は昭和一一(一九三六)年四月(満二十九歳直前か。中也の誕生日は明治(一九〇七)年四月二十九日)の創作と推定されているとあるから、長男文也は昭和九年十月十八日生まれであるから、一歳半あまりで、後半部の「あどけない子」は一見、文也のようにも思われるが、創作時期が「六月」よりも前であり(但し、同解説では本詩篇の初出が昭和一一(一九三六)年の『文學界』六月号であったとあるから、それが発行される梅雨時を意識して詩篇内時制を設定した投稿(依頼原稿ではない。後述)である可能性は非常に高いとは言える)、前の詩篇「三の記憶」の後に配されてある時、自ずと、これも中也自身の幼年期の記憶の中の映像のように私には感ぜられるのである。いや、「中原中也・全詩アーカイブ」のサイト主合地舜介氏もここにそのようなオーバー・ラップを見ておられる。また、何かで読んだが、中也は子どもと一緒に遊ぶよりも、遊んでいる子どもを見ているのが好きだったともいう。しかしそれでも、やはり第四連でモノクロームの映像が後退し、上方の古風な櫺(れんじ)窓からの梅雨の午前の減衰した外光だけが差している部屋で、太鼓を叩き、笛を吹いて遊んでいるのは、独りきりの幼児であり、やはりそれは文也ではなく、あどけない失われた日の詩人自身であると私は思う。因みに、同じく合地舜介氏によれば、本詩篇は翌月の『文學界』七月号で発表されることになっていた第六回「文學界賞」の応募作であったとあるので、「六月の雨」という時制設定は詩想の中の確信犯ではあったと言えよう。しかし、本詩篇は第六回「文學界賞」では選外二席に終っており、『この時の受賞作は、岡本かの子の小説「鶴は病みき」で』、『中原中也が受賞を逃した作品として知られてい』るとある(かの子の、故芥川龍之介との鎌倉ホテルでの避暑生活での交流を素材としたモデル小説「鶴は病みき」も同じ『文學界』六月号に初出している)。それ以外にも、合地氏は、この「たちあらはれて」は「消えてゆく」ミラージュの「眼(まなこ)うるめる」「面長き女(ひと)」を、中也の昔の恋人で、親友小林秀雄と奇体な三角関係にあったことで大いに知られる女優長谷川泰子か、と言い添えておられる。彼女の顔は確かに面長ではある。

「菖蒲」ルビがないことから、「しやうぶ(しょうぶ)」と読んでよかろう。これはつまらぬ注ではない。「菖蒲」と書いて「あやめ」と読ませることが有意に多く(古文では「あやめ」の訓が圧倒的。そもそもが古文では「あやめ」は現在のハナショウブを指したのである)、近代作家の作品でも「あやめ」と訓ずる場合が相当数見られるので、必ず何と訓じているかは厳密な確認或いは確定が常に必要だからである。因みに私は、「あやめ」はその混同が厭なことから決して「菖蒲」とは書かず「綾目」或いは「文目」、「しょうぶ」は「菖蒲」と書く。なお、新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」でも『しやうぶ』と振られてある。因みに、「綾目」と「菖蒲」と「杜若(かきつばた)」の見分け方は、

被子植物門単子葉綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属アヤ
Iris sanguinea →〈花弁内を覗いて見て、網目型の綾目模様があれば、アヤメ

単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属ノハナショウブ変種ハナショウブ Iris ensata var. ensata→〈花弁内に綾目がないことを確認した上で葉に触れて見て、そこに硬い中肋がはっきりと感じられれば、ショウブ

アヤメ属カキツバタ Iris laevigata →〈花弁内に綾目がないことを確認した上で葉に触れて見て、葉に中肋がなく、平滑でぺらっとしていれば、カキツバタ

によって、子どもでも区別ができる。私は高校二年の時、これを植物好きの化学の先生から教えて貰った。その時、私はその化学の先生を初めて尊敬した。自身の専門でない、しかし自身の好きなことを、自信を持ってしかも心から楽しんでいる表情で人に伝えることが如何に素晴らしいことかを教えて下さったからである。しがない国語教師である私が生物学好きであるのもその後天性獲得形質に依ると言える(そう言えば、教育実習を母校でやった時、他の先生から、その化学の先生は酒癖が悪いと耳打ちされた。そこも全くその後の私と同んじだったのだ)。]

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