子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治三十二年 「万葉集巻十六」
「万葉集巻十六」
二月二十七日から三月一日まで、三回にわたって居士は「万葉集巻十六」を『日本』に掲げた。歌論の当初において『万葉集』の尊重すべきを論じ、「五七五七七」の中でも調子の問題に関して述べてはあるが、いずれかといえば断片的な見解が多く、やや纏ったものとしてはこの「万葉集巻十六」がはじめである。居士は劈頭先ず「『萬葉集』は歌集の王なり」と喝破し、『万葉』崇拝を以て任ずる真淵を評して「『萬葉』を解せざる者と斷言するに躊躇せざるなり」といっている。真淵は趣向の半面を見て調子の半面を見得なかった、『万葉集』の歌は如何なる凡歌といえども、真淵の歌のように調子の抜けたものではない、いわんや真淵は趣向の半面すらその一部分を得たに過ぎぬ、『万葉』の歌は真淵の歌の如く変化の少いものではない、その証拠は巻十六を閑却しているのでわかる、という論法である。
[やぶちゃん注:「万葉集」の巻第十六(三七八六番から三八八九番までの全百四首で、内訳は長歌八、短歌九十二、旋頭歌三、仏足石歌一首である)は「由縁ある雜歌」の標題で、伝説歌・戯笑歌・民謡及び特定の語句の詠み込み歌など、当時の歌の諸相を見せ、題詞や左注などによって作歌事情を伝える。「万葉集」の第二パートの最終巻とされ、白鳳・平城・天平十六年頃(六五〇年か六六一年か六七二年頃から七四四年頃)までの歌群である(ここは中西進編「万葉集事典」(昭和六〇(一九八五)年講談社文庫刊)に拠った)。
「万葉集巻十六」正岡子規のそれは「青空文庫」のここで正統な正字正仮名で読める。以下の引用は底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。校訂は国立国会図書館デジタルコレクションのアルス刊の「竹里歌話 正岡子規歌論集」の当該論に当たった。「青空文庫」版で校合しないのは、「青空文庫」のブラウザでの表記法及びその縛りを好まないことから、そのデータそのものの信頼性を深く疑うからである。]
眞淵以後『萬葉』を貴ぶ者多少之れ有り。されども其『萬葉』に貴ぶ所は其簡淨なる處、莊重なる處、高古なる處、眞面目なる處に在りて、曾て其他を知らざるが如し。簡淨、莊重、高古、眞面目、此等が『萬葉』の特色たる事は予亦異論無し。『萬葉』二十卷、殊に初の二、三卷が善く此特色を現して秀歌に富める事は予も亦之を是認す。只『萬葉』崇拜者が第十六の卷を忘れたる事に向つて予は不平無き能はず、寧ろ此一事によりて予は所謂『萬葉』崇拜者が能く『萬葉』の趣味を解したりや否やを疑はざるを得ざるなり。
『万葉』尊重は居士の見識であった。而していわゆる『万葉』崇拝者と伍を与(とも)にしなかったのは、更に居士の見識といわなければならぬ。真淵の説で事足るような万葉論ならば、居士は最初から声を大にする必要を認めなかったであろう。
居士は世人が巻十六の歌を採らざる理由を以て趣向の滑稽なる点にありとし、日本人が表に真の滑稽趣味を解せざることに言及した。真面目の趣を解して滑稽の趣を解せざる者は共に文学を誇るに足らぬ、否、滑稽の趣を解せなければ、真面目な趣を解することも出来ない、というのである。殊に巻十六の特色は滑稽に限られたわけではない。「複雜なる趣向、言語の活用、材料の豐富、漢語俗語の使用、いづれも皆今日の歌界の弊害を救ふに必要なる條件ならざるはあらず。歌を作る者は『萬葉』を見ざるべからず。『萬葉』を讀む者は第十六卷を讀むことを忘るべからず」というのが居士の結論であった。
「万葉集巻十六」を草してから間もなく、居士はパリ滞在中の福本日南(ふくもとにちなん)に一書を送った。書簡の末に「イタツキニワレハフシヲルフランスノタマノウテナニキミハスムトフ」一首が記されていたのに対し、日南氏が「暫(しばし)待て萬葉十六茶漬飯食ひては語り語りては食はん」と酬(むく)いたのは、遥にパリにあって居士の所論を読み、共鳴するところがあったものであろう。日南氏は愚庵和尚と同じく、居士の先輩の中で最もよく『万葉』を解し、万葉調の歌を詠む一人だったからである。
[やぶちゃん注:「福本日南」(安政四(一八五七)年~大正一〇(一九二一)年)は筑前(福岡県)出身のジャーナリスト。既出既注であるが、再掲しておく。本名は誠。司法省法学校中退。「政教社」同人をへて明治二二(一八八九)年に新聞『日本』を陸羯南らと起した(子規が同紙の記者となるのは、その三年後の明治二十五年)。アジア問題に関心を持ち。明治二四(一八九一)年七月には白井新太郎とともに発起人となり、アジア諸国及び南洋群島との通商・移民のための研究団体「東邦協会」を設立、その後、孫文の中国革命運動の支援にも情熱を注いだ。後、『九州日報』社長兼主筆や衆議院議員(国民党)となった。著作に「元禄快挙録」などがある。因みに、彼の欧州(パリ・ロンドン)への遊学は前年の明治三一(一八九八)年からこの年にかけてであったが、ロンドンでは南方熊楠と出逢い、この時の交遊を描いた随筆「出てきた歟(か)」を後の明治四三(一九一〇)年、『大阪毎日新聞』に連載、これが熊楠を日本に初めて紹介した邦語の記事とされている。
「イタツキ」「勞き・病き」で病気のこと。]
三月十四日、子規庵に歌会を催した。この前俳人ばかりの歌会を開いてから、丁度一年ぶりのわけであるが、この時は俳人側は殆ど加わっていない。香取秀真、岡麓、山本鹿洲、木村芳雨、黒井恕堂の諸氏のうち、恕堂氏の外は皆「新月集」の仲間である。この歌会の記事はどこにも発表されなかったが、居士の「垣」の歌は『日本』に、その他の人の歌の一部は『ホトトギス』に載せられた。
[やぶちゃん注:「木村芳雨」(明治一〇(一八七七)年~大正六(一九一七)年)は福島県生まれの鋳物師で歌人。明治三一(一八九八)年に発足した正岡子規の「根岸短歌会」に当初から参加し、子規没後の歌誌『アララギ』にも関係した。銅印の篆刻に優れた。
「黒井恕堂」不詳。識者の御教授を乞う。「恕堂」は「じょどう」であろう。
「新月集」不詳。識者の御教授を乞う。
『居士の「垣」の歌』この十首(国立国会図書館デジタルコレクションのアルス版「子規全集」第六巻の当該部)。]
三月二十日漱石氏宛の手紙を見ると、『ホトトギス』の原稿などでも、四頁以上のものを書く場合には何時も徹夜する、「小生は前より夜なべの方なれども身體の衰弱するほど愈〻畫は出來ず、夜も宵の口は餘り面白からず、十一、二時頃の頃よりやうやう思想情態活潑に相成候。徹夜の翌日は何も出來ず不愉快極り候。翌夜寐て其又の日は又原稿のために徹夜せざる可らざるやうに相成、月末より月始にかけては實に必死の體(てい)に候」と書いてある。年始以来寒気に悩まされて終日臥褥(がじょく)することも少くないというが、それほど元気がなかったわけでもない。殊にこの二、三日前には車で神田まで出かけ、虚子氏が不在であったため、飄亭氏のところで蒲焼を食べたりした。これが「今年の初旅」とある。それ以前引籠っていたのも主として寒気を恐れたので、病気に累せられたのではなかった。
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