明恵上人夢記 62
62
七月十二日か
一、夢に、將に史廳を出でむとす。然るに、心に任せて怖畏無し。其の夜、院之中に見參に入らむと思ふ。
[やぶちゃん注:「60」夢を私は建保七年二月二十九日とした。これがそれに繋がるものとすれば、承久元(一二一九)年七月十二日の夢となる。この年は建保七年であったが、四月十二日(ユリウス暦一二一九年五月二十七日)に改元している。因みに、前にちょっと述べたが、この年は年初の建保七年一月二十七日(一二一九年二月十三日)に鶴岡八幡宮社頭にて第三代鎌倉幕府将軍源実朝が公暁に暗殺されている。或いは少なくとも「55」以下の夢の意味には、この事件の影が潜んでいる(分析の際の解釈素材としての潜在性がある)可能性もないとは言えないとは私は考えている。
「史廳」(してう(しちょう))はよく判らぬが、これは直後に「然るに、心に任せて怖畏無し」というのだから、出たその「史廳」なる場所は、通常の人なら怖れ畏まってすごすごと退出する場所と採って初めて文意が(そことは)繋がると思う。とすれば、私はこれは、検非違使(京都の犯罪や風俗取締りなどの警察・裁判業務を統括担当した長官)が執務を行う役所を略称する「使廰」ではないかと読んだ。但し、初めは左右衛門府内(後に左のみ)に置かれていたが、それも、ウィキの「検非違使」によれば、『平安時代後期には』『検非違使庁における事務は』検非違使別当(検非違使庁長官。同疔を統括するものの、実務の責任者である検非違使ではない。ここはウィキの「別当」に拠った)『の自宅で行われるようになった』。『平安時代末期になると』、『院政の軍事組織である北面武士に取って代わられ、更に鎌倉幕府が六波羅探題を設置すると』、『次第に弱体化し』た、とある。さても、六波羅探題は、ご存じの通り、この二年後の承久三(一二二一)年に後鳥羽院が起した「承久の乱」の後に、幕府がそれまでの京都守護を改組して、京都六波羅の北と南に設置した出先の警察・裁判機関(但し、「探題」と呼ばれた初見は鎌倉末期で、それまでは単に「六波羅」と呼ばれていたであり、まさにこの夢の前後の時制が、京の武装警護集団や刑事警察・裁判機構が幕府側の管理主体へと大きく移行される過渡期の前史に当たっていることが判る(ここではウィキの「六波羅探題」も参照した)。
「院」この時制が正しいならば、後鳥羽上皇の院政期である。明恵は建永元(一二〇六)年に後鳥羽院から栂尾山高山寺の別所を賜わっており、先の「56」夢では、自身の自信作「摧邪輪」を後鳥羽院に進上しようとしている点から見ても、彼が後鳥羽院と親しみ、直接に接触する機会が多かったことが判る。とすれば、この夢は実は、明恵が何かを後鳥羽院に奏するために、確信犯の覚悟を持って(それが現実の朝廷方懲罰機関である「史庁」がシンボルするものである)、後鳥羽院に「見參」しようとしていると読め、私はそれは、後鳥羽院へある諫言するためであったのではないか、と読む。即ち、後鳥羽院が近い将来、鎌倉幕府執権北条義時に対して討伐の兵を挙げようとしていることを、明恵は感じ取り、それを諫めるための「見參」ではないと読むのである。「承久の乱」の発生は承久三(一二二一)年五月十四日は後鳥羽上皇による北条義時追討の院宣に火蓋を切る。わずか二年後である。そもそも、この年初の実朝暗殺以降、幕府と朝廷の関係は急速に悪化し、幕府からの宮将軍の要請も後鳥羽上皇の拒絶にあっているのである。しかし、明恵にそれを後鳥羽院が明かしたり、口を滑らすことは考え難い。しかし、聡明にして鋭い明恵はそれを第六感的には漠然と感知し得た。されば、この夢は、おぞましき朝廷方の完敗と三上皇らの配流に終わる「承久の乱」の予知(警戒)夢なのではないか? と私は思うのである。]
□やぶちゃん現代語訳
62
(承久元年七月十二日のことか)
こんな夢を見た。
今しも、私は大きな覚悟を持って、世間に怖れられている検非違使庁の門を胸を張って出ようとしているのである。しかし、私は心にまかせて、そうした朝廷の武威に対し、何らの畏怖も、これ、全く感じていないのである。
歩きながら、
『今夜、後鳥羽院の御殿の中(うち)に、拝謁するために入ろう。』
と強く思っていた。……
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