諸國里人談卷之一 梅園社
○梅園社(むめぞのゝやしろ)
肥前國長崎丸山に富(とめ)る者あり。平日(つねに)、天滿宮を信ず。大宰府の飛梅(とびむめ)の枯條(かれゑだ)を以〔もつて〕、聖像を彫刻して、朝夕(あさゆう[やぶちゃん注:ママ。])、これを拜す。一日(あるひ)、途中にて、不斗(ふと)、口論に及び、殺されけるが、相手もまた、人を害し、遁るべきにあらねば、則(すなはち)、自殺してけり。かくて、殺されたるもの、夢のごとくにして蘓生(そせい)し、家に皈(かへ)りて、しだいを語り、神像を拜するに、御身(ごしん)に刃(やいば)の跡、あり。それより、血、流れたり。大〔おほき〕に驚惶(きやうくわう)し、是、神の我(わが)難に代(かは)り給ふを知りぬ。「梅園(むめぞの)の天神」と稱し、長崎にあり。元祿年中の事也。
[やぶちゃん注:「肥前國長崎丸山」現在の長崎県長崎市丸山町及び寄合町(この附近(グーグル・マップ・データ))に相当するが、ここは江戸初期から近代まで「丸山遊廓」として知られた長崎の花街であるから、この「富(とめ)る者」もそうした遊廓の経営者である可能性が高い。
「梅園(むめぞの)の天神」丸山町内に現存する。ここ(グーグル・マップ・データ)。長崎市公式観光サイト「あっと! 長崎」内の「梅園身代り天満宮(ウメゾノミガワリテンマングウ)」に、『この天満宮は』、元禄一三(一七〇〇)年に創建された『丸山町の氏神様で、昔から“身代り天神”と呼ばれ親しまれてきた。“身代り”と呼ばれるのは、創建者の安田次右衛門が、ある夜』、『何者かに襲われ』、『左脇腹を槍で刺され倒れたが』、『どこにも傷がなく、その代わりに』、『自邸の祠の天神像が左脇腹から血を流していたことによるのだという。また、丸山の遊女達も身代を“みだい”と呼び、自分の生活に苦労がないことを願って参拝した』とあって、沾涼の記載よりもより具体的である。]