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2018/05/14

御伽百物語卷之六 木偶人と談る

御伽百物語卷之六

 

     木偶(もくぐう)人と談(かた)る

 

Mokuguu_2

 

[やぶちゃん注:挿絵は「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」のものを、左右合成し、上下左右中央の枠や雲形の一部を除去して使用した。しかし、原画が中央の分離部で連続性を無視した致命的なミスを犯しているため、よく見ると、足が截ち切れたりしている。しかしまあ、「木偶」(木製の人形)というなら、それはそれでよかろうかい。]

 

 城南(せいなん)壬生(みぶ)の邊に玉造善藏といふものあり。生得の心ばへやさしく、手跡算勘(さんかん)の道に長じ、儒のむねとする所を學びつたえ、佛者のつねに説くの經意(きやうい)を窺ひ、あまねく人のする程の事、學ばずといふ事なく、其(その)道の頤(おきろ)をきはめずといふ事なし。萬(よろづ)につきて才幹なりけるまゝに、近邊の者ども、珍しき人におもひ、此德になつきて馴れむつびけるゆへ、酒宴遊興のむしろに交りをなし、圍碁將棊(いごしやうぎ)の會(くわい)にも、かならずと招かれて、朝暮(てうぼ)たのしみの中(なか)に年月を經(ふ)る身とぞなれりける。

[やぶちゃん注:「城南(せいなん)」通常は「城南の離宮」の略で、現在の京都市伏見区鳥羽にあった白河・鳥羽上皇の離宮「鳥羽殿(とばどの)」を指すが、ここは京都御所(京城)或いは二条城の南の一般名詞の意である。

「壬生」現在の京都市中京区西部の一地区。東は大宮通、西は西大路、北は三条通、南は松原通までの地域(この附近(グーグル・マップ・データ))。地名は、古来より、湧き水が多かったことから「水生」と呼ばれたことの転化。平安京の壬生大路 (現在の壬生川通付近)が東寄りを南北に通る。低湿なため、明治期まではセリ・ミブナなどを産する近郊農村であった。

「玉造善藏」不詳。

「算勘」算木(さんぎ)の占いによって考えること。]

 

 是れに親(したし)く語りける友の内、苗村寸鐵(なむらすんてつ)といひしもの、五十にあまりける迄、子なき事を悲しみ、洛中洛外の神社、いたらぬ隈なく、驗者(げんじや)と聞(きこ)ふる方には、悉く、あゆみをはこび、およびがたき願(ぐわん)など立てて、さまざまと祈りけれども、終に夢ばかりのしるしもなくて、思ひ歎きける折しも、其ころ、東山泉涌寺(せんゆじ)の奧にあたりて、稻荷塚とかやいふ所を見出だし、洛中の貴賤、これ一と足を空にし、心をひとつにして、色々の願ひをかけ、思ひ思ひの望みを乞ひ、あるひは終宵(よもすがら)、法施(ほつせ)をまいらせ、または、七日まいりの志をおこしなど、面々のちからを盡しけるに、みなみな、ねがふ所、かなひて、悦(よろこび)の眉をひらく事、渡りに船を得たる思ひ、商人(あきびと)の主(ぬし)を得たるがごとく也と聞きて、

「いざや、我もそこにあゆみをはこびつゝ、せめて露ばかりの示現(じげん)にもあはゞ、子ありとも、子なしとも、それを此世の思ひ出にせばや。」

の心、おこりけるまゝ、善藏をさそひて、

「道すがらのはなし伽(とぎ)に。」

とうちつれつゝ、まふで初(そめ)ぬ。

[やぶちゃん注:「苗村寸鐵」不詳。

「東山泉涌寺(せんゆじ)の奧にあたりて、稻荷塚とかやいふ所」泉涌寺(現行では「せんにゅうじ」と読まれることが多い)は京都市東山区泉涌寺山内町(やまのうちちょう)にある真言宗東山(とうざん)又は泉山(せんざん)泉涌寺。ここ(グーグル・マップ航空写真)。「稻荷塚」は不詳。伏見稲荷はここの南東の少し離れた位置にあるが、「奥」というのは泉涌寺寺域の北・東・南方の後背である山地を指すのであろう。

「商人(あきびと)の主(ぬし)を得たるがごとく」商人(あきんど)が御用達の富貴な顧客を得たように。

「はなし伽(とぎ)」話し相手。]

 

 第七日にあたれる夜は、ことさらに潔齊して例の善藏と共にまふでつゝ、その夜は通夜したりけるに、夜ふけ、月かたぶき、松ふく風も心ぼそく、子をおもふ猿の叫ぶ聲、梢にひゞき、いつとなく、馴れこし故郷(ふるさと)のそらなつかしう、過ぎし月日の數はおほふれど、徒(いたづら)に積みし頭(かしら)の雪は、富士のみねにさへ殘さぬといふ水無月の照(てり)にも消(きえ)ゆかで、いやまさるものは身のねがひ、疎(うと)くなり行くは後の世のいとなみなど愚(おろか)に暮(くら)し、身のあやまり迄、つぶつぶと胸にうかび、人しらぬ淚、袖に落ちて物がなしう覺えしまゝ、善藏も袂なる念珠とり出で、靜(しづか)におし摺(す)り、我(われ)も寶前にむかひて、しばらく法施を參らせ、咤枳尼天(だきにてん)の咒(じゆ)など繰り出でたるに、此庵(いほ)のまへに、忽然と、人の來て立てるあり。

[やぶちゃん注:「咤枳尼天(だきにてん)」枳尼天は仏教の天部の神で夜叉の一種とされる。サンスクリット語のダーキニー(神格としての原型はヒンドゥー教或いはベンガル地方の土着信仰に於ける魔女で、裸身で虚空を駆けて人肉を食べるとされた)を音訳したもの。本邦では稲荷信仰と混同されて習合し、一般に「白狐に乗る天女の姿」で表わされ、性的な意味での信仰を受けた。

「我(われ)も寶前にむかひて」善蔵はただの付き添いであるが、苗村の切願に心打たれて、この日は一緒に徹宵の祈願をしたのである。]

 

 年の程八十ばかりにもやあらんと見ゆるが、二尺ばかりの脇指をよこたへ、括頭巾(くゝりづきん)に八德の袖、すこし、しぼりあげたり。善藏きつと見とがめ、

『あやしき有樣かな。とがめばや。』

と思ひけるが、

『まて、しばし。是れも、のぞみある人の、宵より籠り居たるが、曉のつとめせんとて出で來たるにや。』

とさしのぞくに、此老人、善藏にむかひていふやう、

「餘り、此ほど、心ざしを違へず、あれなる寸鐵にいざなはれ、何の望(のぞみ)もなきに、此さびしき山中迄まふで給ふが、いとおしければ、あれなる休み所より招き給ふ人あり。こなたへ來たり給へ。」

といふに、善藏は、何心なく、よき事とおもひて、不圖(ふと)たちけるを、彼(か)の老人、かろがろと善藏をかきおひて、此宮の後(うしろ)のかたへ行くとおもへば、大きなる屋形(やかた)有り。

[やぶちゃん注:「括頭巾(くゝりづきん)」頭の形に合わせて丸く作り、縁を絞った頭巾。老人・隠居などが被った。大黒頭巾。

「八德」俳諧の宗匠や画工などが着用した胴服(どうぶく)。羽織の古称或いは原型であるが、ここは羽織でよかろう。]

 

『こはいかに。此(この)ほど、かゝる所ありとも覺えぬに、如何なる人の住みけるにか。』

と思ふに、表門と覺しき所は、いと強くさしかためて、入るべくもなければにや、少し北の方に、いとひきく、ちいさき穴門(あなもん)のあるより、二人ともに、はい入れば、右につきて、道あり。

[やぶちゃん注:「ひきく」「低(ひき)く」。

「穴門」築地塀(ついじべい)や石垣などを刳り抜いて設けた低い小さな門。埋(うず)み門。]

 

 十間ばかりも行くむかふは玄關なりける。是れよりいらんとするに、さはやかに出でたちたるさぶらひども、七、八人なみ居しが、善藏を見て、みな、ばらばらと數臺におりて敬ひ居たり。

[やぶちゃん注:「十間」十八・一八メートル。]

 

 かくて、奧の間に立ちいれば、あるじとおぼしき人は女にて、したには白き御衣(おんぞ)に唐綾(からあや)の裝束(さうぞく)、しおん色の大褂(おほうちぎ)、くれなゐのはかま、めされたるが、木丁(きてう)のほころびより、はれやかに見とをされたるを、少しそばみて、桧(ひ)あふぎをさし隱してより、臥し給へり。その外、なみ居たる女郎(ぢやらう)たち、みな、いろいろの袖口ども、そよめきかさなりて、帳(ちやう)のかたびらより、こぼれ出でたるも、いとなまめかしくなつかし。

[やぶちゃん注:「しおん色」紫苑色。薄紫。

「大褂(おほうちぎ)」「褂」(「うちき」と清音でも呼ぶ)平安時代の女房装束で、唐衣(からぎぬ)の下に着る衣服。多くは袷(あわせ;単衣(ひとえ))仕立てで、色目(いろめ)を合わせて何枚も重ねて着た。普段でも上着しても用いた。ここはその裄(ゆき:着物の背縫いから肩先を経て、袖口までの長さ。肩ゆき)・丈などを大きく仕立てたもの。

「木丁(きてう)」「几帳」。

「ほころび」「綻び」。几帳の掛け布の(後に出てくる「かたびら」)、縫い合わせずに間を透かせてあるところ

「桧(ひ)あふぎ」檜(ヒノキ)の細長い薄板を重ねて、上端を糸で、下端を要(かなめ)で留めた扇。近世の板数は、公卿が二十五枚、殿上人は二十三枚、女子は三十九枚と決まっていた。男子用は白木のままとするが、女子用は大翳(おおかざし)・衵扇(あこめおうぎ)とも称し、表裏ともに美しく彩色して親骨に色糸を長く垂らして装飾とした。

「なつかし」心が引かれる。]

 

 やゝありて、奧より、御めのと[やぶちゃん注:「乳母」。]を出だして、善藏に仰(おほ)せありけるは、

「此度、寸鐵が願ひをかけ、あゆみをはこびつる心ざしさへ、たぐひなく哀(あはれ)とおもふに、今、善藏が何のねがふ事もなきに、寸鐵が心ざし、遂げさせん事をおもひ、もろともに我が前に來たり。夜もすがら、他念なくおこなひすましたる心ばへのうれしければ、寸鐵がねがひをもかなへ、善藏にも貴人となるべき子だねを授けさせ給ふ也。」

とて、御かはらけ[やぶちゃん注:素焼きの盃。]をたびけるなり。

[やぶちゃん注:「かはらけ」素焼きの盃(さかづき)。]

 

 善藏、

『さては。此塚の神叱棋尼天の御示現にこそ。』

と、ありがたくて、淚もそゞろにこぼるゝばかりなれば、數多度(あまたゝび)、盃をかたぶけて醉を催しけるに、最前の老人、

「つ。」

と立ちていで、

「今宵の客人(まろうど)に珍しき放下(はうか)して見せ申さん。」

と、後なる障子をおしあくれば、庭のてい、美をつくしてさまざまと作りなしたるに、山あり、川あり、入海のけしきあり、民の家、軒をならべ、市の店をかざり、繁花なる町の體(てい)もあれば、棟門(むねかど)美々(びゝ)しく、つなぎ馬・乘馬、ひまなく立ちつどひ、いかさま故ありと見ゆるかたもありて、

『目のおよぶ所、心にうかぶ風景、繪にかけりとも、よも、かくは寫さじ。』

とながめ居たるに、程なく、いりあひのかねたそがれの空に音づれ、ねぐらもとむる鳥のね、いそがしく、やゝ暮過ぐる宵の月、ひがしのみねにすみのぼれば、木がらしの風に木々の葉のこりなく吹きつくし、山のすがたやせたりと、いにしへ人の詠(なが)めつるおもかげまで、つくづくと移り來る目のまへに、はやふけ過ぐるにやあらん、遠近(をちこち)の里に打ちつるきぬたの音もしづまり、野寺のかねもひゞきをおさめ、辻の火(ひ)のひかりも、寢入る色、ほそくなりわたるに、何とはしらず、旗指物、袖しるし一やうに鎧ひたる武者五十騎ばかり、いづれも、そのたけ、壹尺四五寸ばかりもやあるらんとおもふ兵ども、つき山の陰より、こなたさまにおしかけたり。

[やぶちゃん注:「放下(はうか)」室町から近世にかけて見られた大道芸の一つで元は田楽法師の伝統を受け継いだ雑芸。曲芸や奇術の類い。

「壹尺四五寸」四十二・四二~四十五・四五センチメートル。]

 

「あれはいかに。」

と見る程に、泉水の橋のもとにて後馳(をくれはせ)の士卒を待ちあはせ、五十騎を二手にわけ、彼(か)の屋形を目にかけ、しのびやかにおしよせ、大手の門に着くとひとしく、

「曳(ゑい)や。」

聲(こえ)を出だし、責め皷(つづみ)を打ち、大手搦手(おほてからめて)もみあはせ、鑓・長刀(なぎなた)・打ちかたな、おもひおもひの得物をおつ取り、

「われ、一。」

と込みいりけるに、屋形の内には動轉の氣色にて、

「すは、夜討(ようち)こそ入りたれ。」

と、上を下へと周章騷(あはてさは)ぎて、弓をとるものは矢を忘れ、太刀はとれども、鞘ながら討ちあひ、

「火をあげよ。」

といへども、誰(たれ)聞きわくべきもあらねば、炬火(たいまつ)のひとつをも、さし出ださず。相詞(あひことば)を辨(わきま)へざれば、何(いづ)れ味方と議(はか)りがたくて、只、おなじ所に、同士うちするばかりなる内、寄手(よせて)は兼て心をひとつにし、筒(とう)の火さしあげ、あい詞(ことば)をつかいて、奧のかたにみだれ入る、と見えしが、何とはしらず、しばしが程に悦びの鯨波(とき)をあげ、手々(てんで)に分捕(ぶどり)の首、かずあまた、さしつらぬき、いさみすゝみて表に出で、行列をほぐさず、もとの道にかへるよ、と見えしが、早、あけわたる星のひかりも、あかねさす日のかげにしらけて、ありつる庭も殘りなく、霧、たちかくし、

『跡なごりおし。』

と見かへりたるに、ありし老人も、たちまち、うせ、稻荷塚のうしろ、とおもひしも、いつの間に歸りけん、寺町誓願寺の地藏堂に、あまたの人形を枕とし、その夜の夢はさめたりとぞ。

[やぶちゃん注:「後馳(をくれはせ)の士卒」後から徒歩(かち)で走ってくる配下の兵卒。

「彼(か)の屋形を目にかけ」「目にかけ」は「目がけて」であるが、ここの鷺水の上手さは、「彼の屋形」というのが、その盆景のような庭にある豪家の屋形であると同時に、それは恐らくは、この屋形のミニチュアと善蔵には見えたのに違いない。則ち、ここで時空間の現実と非現実が善蔵の意識の中で境がなくなっていってしまうのであると私は思う。いわば、幻想的非現実が善蔵の(儒教的な堅固であるはずの)現実世界を侵すところに本話の面白さがあるのではないかと私は思うのである。

「筒(とう)の火」江戸時代に発明された携帯用の特殊な提灯の一種である龕灯(がんどう)の灯であろう。金属製又は木製で桶状の外観をしており、内部は二軸ジンバル(英語:Gimbal:一つの軸を中心として物体を回転させる回転台の一種)構造によって、二本の鉄輪が回転し、内側の鉄輪の中央に固定された蠟燭は龕灯をいかなる方向に振り回しても、常に垂直に立って、火が消えないような構造になっている。正面のみを照らし、持ち主を照らさないことから、強盗が家に押し入る際に使ったとか、逆に目明かしが強盗の捜索に使ったともされることから「強盗提灯(がんどうちょうちん)」とも書かれ呼ばれた(以上はウィキの「龕灯に拠った)。

「寺町誓願寺の地藏堂」中京区新京極通三条下ル桜之町にある浄土宗誓願寺。(グーグル・マップ・データ)。この西直近を南北に走る通りは寺院が多く、現在も寺町通と現在も呼ぶ。地蔵堂は現存するようであるが、「あまたの人形」というのはよく判らない。夭折した児童を弔うための簡素な木造彫像であろうか。しかしだったら、「木偶」とは言わないようにも感じられる。或いは早世した子らの玩具として遺族が供物として捧げた玩具の人形で、ここには当時、そうした供物をすることが盛んであったものか? 識者の御教授を乞うものである。]

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