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2018/05/29

諸國里人談卷之一 芝祭

 

     ○芝祭(しばまつり)

出羽國大泥(どろ)村に、每年、四月八日、芝祭といふあり。其所に大き成(なる)池あり。一山(さん)の山伏、池の邊に臨んで祈る時、かたはらの芝、四、五尺ほど裂(さけ)て、池にうかみて、漂泊す。これを「芝舟」といへり。其時、「寬(ゆる)々と遊び給へ」と呼〔よば〕はれば、少時(しばらく)、猶豫す。程なく、本の所へたゞよひ歸りて、地に癒付(いへ〔つく〕)事、前のごとし。ふしぎの祭なり。當所は藥師佛を安置し、一山、四十人ケ寺、みな、山伏持〔もち〕の所なり。此日、近國よりの見物、群集す。

[やぶちゃん注:幾ら探しても、この村名も祭りの名も掛かってこない。「一山、四十人ケ寺、みな、山伏持〔もち〕の所なり」とする「出羽國」の「四月八日」(これは薬師如来の生誕日とされるので探索限定のヒントにはならない)に行われる「芝祭」である。そこには寺或いは堂があってそこに「藥師佛を安置」するという。これはもう、修験道のメッカ出羽三山の御膝元でなくてはなるまい。一つ考えたのは、山形市薬師町にある国分寺薬師堂であるが、ここは山形県でも東方で出羽三山から有意に離れてしまう。とすると、やはりこれはもう、おぞましき廃仏毀釈によって寺としては存在しないのではないか? と考えた。そんなところから条件を絞って見ると、鶴岡市にそれらしいものがあるのが目についた。峰薬師神社(出羽三山)である(山形県鶴岡市羽黒町手向。ここ。(グーグル・マップ・データ)。現在でも羽黒派古修験道を伝える、羽黒山入山の儀式としての「秋の峰入り」がここで続けられていると、こちらのページにある。地図でも見ても宿坊が犇めいており、それらしい感じではある。現在の航空写真を拡大してもても、近くには池はないのだが、しかし、直近の北六十メートルの隣りの地名が「池之頭」なのは大いに気になる。ただ、如何せん、この旧別当寺、寛文元(一六六〇)年の勧請とあって、こんな神秘的な祭りが行われるには新し過ぎる気はする。だって、本書の刊行でさえ、寛保三(一七四三)年だもん。と、ここで識者に投げようかと思ったのだが、今一つ、浮島現象を起こす大きな池をポイントとして調べていなかったことに気がついた。……おや? あれ? 何だ? ここ? 山形県西村山郡朝日町大沼? 「大沼」? 「大泥」と似てね? 旅行サイトの「山形県・大沼の浮島~国指定名勝の小島が浮遊する神秘ののページがえらく詳しい(【2023年7月31日追記:現行、以下に引いた詳しい部分が読めなくなっている。】。『湖面には複数の浮島が遊泳する、美しく神秘的な沼は、まさに秘境の名勝地で』、『湖畔にある周遊道は、南に位置する浮島稲荷神社を起点に続いており、一周約』三十分とあるから、これ「大きななる池」としては十分だぞ。『大沼はその神秘的な景観から、古くから信仰されてきた神池で』千三百『余年もの昔に、修験者によって開かれたとされ』、『歴代の領主や徳川幕府から祈願所とされ、湖畔には浮島稲荷神社が建立。湖面に静かに遊泳する浮島は、その動静から吉凶が占われたといわれ』るともある。『大沼の西側に位置する』出島(浮島ではない)は『雨請壇とも呼ばれ、その昔、日照りが続くと』、『雨乞いの祭壇が設けられ、祝詞を奉じると雨が降ったと』も言われる。ここ大沼は白鳳九(六八〇)年、『修験道の開祖と云われる役小角が発見し、同行していた弟子の覚道に、神池の守護を託したとされ』、『覚道は、湖畔に浮島稲荷神社の前身となる祠を建立し、大沼と神社の別当である大行院の開祖となったと伝えられ』る。『浮島の数は、奈良時代に僧の行基が訪れた頃には』、六十『以上もあったと伝えられ、行基は、大小様々な浮島に、日本各地の国名を名付けたと』いう。『後に大沼の地は、歴代の領主や政権の祈願所となり』、『鎌倉時代には源頼朝、戦国時代には山形の武将である大江氏や最上氏、江戸時代には徳川家の祈願所とな』った。『古来より人々は、大沼に遊泳する浮島に、自身や国の将来を重ね、幸福を祈願してきたので』あったと記す。『大沼の浮島は、西岸一帯にあるヨシの群落が元となり、岸からヨシの地下茎や根が、固まりとなって分離して生まれ』るが、今は特に『戦後の環境の変化によって、十数個に減少した』とある。『地元の方々の目撃情報』によれば、『浮島は無風でも静かに遊泳し、その場でクルクルと回ったり、複数の島が一列に並ぶこともあった』と言い、『朝夕に活発に動くとされ、湧水の流れる出島の向って右側に集まるともいわれ』、『また、まったく動かないこともあり、風の強い日は岸辺に移動していることが多い』ともある。『大沼で年に一度行われる神事に「島まつり」があり』、『この神事は』七月の第三『日曜日に行われ、大沼の湖畔から新たな島を切り出すもの』で、『新たな浮島には、浮島稲荷神社の宮司(大行院の当代)によって、その年の縁起のよい方位にある、旧国名が名付けられ』るそうである。行って見たくなった。実際の動く浮島は、短いが、映像がよい。薬師堂はない。ないが、「大沼」と「浮島」現象はとても強い比定候補地と言える(グーグル・マップ・データ)。

『其時、「寬(ゆる)々と遊び給へ」と呼〔よば〕はれば』浮島(「芝舟」)に向かってひといに呼びかけるように、である。

「少時(しばらく)、猶豫す」その声掛けを理解したかのように、少しの間、その辺りを逍遙するか、或いはそこに凝っと留まっている。

「地に癒付(いへ〔つく〕)」岸や根のある島の、さっき離れた元の場所に、あやまたず、戻って来て、元通りにぴったりと癒合する。]

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