小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(39) 佛教の渡來(Ⅱ)
佛教には多くの形式があり、近代の日本には十二からの主なる佛教の宗派がある、併し今爰處[やぶちゃん注:「爰處」で「ここ」。]では、最も概括的に、一般的な佛教に就いて話せば足りるであらう。一般的な佛教は哲學的な佛教と區別されるものであるが、それに就いては次の章で觸れる事にする。大乘佛教は、何時如何なる國でも、多數の信じ奉者を獲る事が出來なかった。その特有の教義――涅槃の教への如き――が普通の人に教へ込まれたと想ふのは誤りである。人々に教ヘ込ま込まれたのは只だ極めて素朴な心にも解るやうに、又好かれるやうに説かれた教義の種類に渦ぎない。『人見て、法を説け』と云ふ佛教の諺がある――その意味は教を聽者の能力に適應させよと云ふのである。日本では、支那でもさうであるが、佛教はその教を、未だ抽象的觀念に馴らされてゐない大きな階級の人々の心意の能力に順應させなければならなかつた。現在でさへ、民衆は涅槃と云ふ言葉の意味をよくは知らない、彼等は宗教の極簡單な形式だけしか教へられてゐない、これ等の事を考へて見れば、宗派とか教義とかの相違は考へる必娶はないと思ふ。
[やぶちゃん注:「近代の日本には十二からの主なる佛教の宗派がある」小泉八雲は最後で「宗派とか教義とかの相違は考へる必娶はないと思ふ」と述べているが、例えば、藤井正治著「仏教入門」に拠るとする個人サイト内の「日本仏教宗派一覧表」では、法相宗・華厳宗・律宗(以上は奈良仏教(教学系))・天台宗・真言宗(以上は密教系)・融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗・時宗(以上は浄土教)・臨済宗・曹洞宗・黄檗宗(以上は禅宗)・日蓮宗の十三宗を挙げている。この中から八雲が数えなかった融通念仏宗であろうか。私は少なくとも名数に入れない。]
佛教の教が一般民衆の心に及ぼした直接の影響を了解するには、神道には輪𢌞の教へがないと云ふ事を記憶して置かなければならない。前にも云つたやうに、死者の靈魂は、日本の古い考へに從へば、つづいて世の中に存在して居るのである。死者の靈魂は、どうかして自然の目に見えない力と混じり合ひ、且つ自然の力を通じて働いて居るのである。一切の事がこの靈魂の――善惡兩樣の ――仲介に依つて起るのである。生存中惡るかつたものは、死後も尚ほ惡であり、生存中善良であったものは、死後も善神になる、併しいづれにしても兩者共に奉祭を受けるのである。佛教の渡來前は、未來で賞罰を受けるといふ思想はなかつた。何等天國とか地獄とか云ふ觀念はなかった。亡靈や神々の幸福は、生きて居る者の禮拜と供物とに懸かつてゐると考へられてゐたのである。
これ等の古い信仰に對して、佛教は僅にそれを敷衍し、説明する事に依つて、それに關する事を企てた――それを全然新しい知識の下に解釋する事に依つて。則ち變形は成就し得た。併し抑壓は出來なかつた。佛教は古い信仰の全體を受け入れたとさへ云つていい位であつた。この新しい教へは云つた。死者は視界の外に存在を績けると云ふのは眞實だ、それは萬人皆・晩かれ早かれ佛――神の狀態――の路に入るべき運命にあるもの故、神になつたと考へるのは誤りではないと。佛教は神道の大なる神々を、その性賀や位と共に、認めた――而して言ふ、それは佛陀若しくは菩薩の權化であると、かくて太陽の女神は大日如來 Tathâgata Mahâvirokana と同一に視られ、八幡宮は阿彌陀 Amitâbha とに同一に視られた。又佛教は妖魔や惡神の存在をも否定はしなかつた、それ等は Pretas(餓鬼)や Mârakâyikas(魔)と同じに視られた、妖魔則ち Goblin に當たる目本の普通の言葉で言ふ、魔といふ言葉は、今日この同一視された事を想ひ起させる。惡靈に就いては、前世の惡業に依り自業自得で、永遠の饑餓の圈内に追ひ込まれる運命にある Pretas――餓鬼――として考へらるべきであつた。昔いろいろな惡疫の神――熱病、疱瘡、赤痢、肺病、咳、風邪の神――に供せられた生贄は、佛教の是認する所となつて存續した。併し改宗した者はかかる害あるものを Pretas(餓鬼)と看倣し、且つ Pretasに捧げられるやうな食物の供物のみを、それ等の神々に供へる事を命ぜられた――それは贖罪のためではなく、亡靈の苦しみを救ふ目的のためであつた。この場合は、祖先の霊魂の・場合と同じく、讀經は寧ろ亡靈のために唱へられるので、亡靈に向つて唱へられるのではないと佛教は定めたのである……。讀者はロオマの舊教が、同じ條件をつけて、昔のヨオロツパの祖先禮拜を、今尚ほ實際に存續さしてゐると云ふ事實を想ひ起すであらう。而して西歐諸國の何處でも、農夫達は尚ほその死者を萬靈節の夜に祭つでゐるのであるから、吾々は何處にもその禮拜が絶滅して居るとは考へ得ないのである。
[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。サンスクリット語のラテン文字転写のそれらの綴りは、総て原典で確認したが、「Mârakâyikas」は「Mârâyikâs」と、「Goblin」は「Gobliw」となっていたので、特異的に原典で訂した。
「大日如來 Tathâgata Mahâvirokana」現行の大日如来の原語「マハーヴァイローチャナ」(「一切を照らし出す、偉大なる(前の「マハー」)存在」の意)のラテン文字転写では「Vairochana」或いは「Mahāvairocana」である。頭にあるのは「タターガタ」(「至上の尊者」の意)で現行では「tathāgata」と転写され、「如来」の意である。)
「阿彌陀 Amitâbha」現行の阿弥陀(如来)の原語「アミターバ」(「量り知れぬ光を持つ存在」の意)は「Amitābha」に、或は別に「アミターユス」(「量り知れぬ寿命を持つ存在」の意)とも称し、そちらは「Amitāyus」と音写する。
「Pretas(餓鬼)」原語「プレータ」の転写「peta」の複数形。現行では「六道の内の餓鬼道に生まれた者」の意。本来の意味は広く「死者の霊」を指したが、仏教で輪廻転生の六道に組み込まれた結果、かく変容した。
「Mârakâyikas(魔)」「マーラ(Māra)」は、釈迦が悟りを開く禅定に入った際に、その瞑想を妨げるために現れたとされる魔神の名で「破壊者」の意である。英文サイトでは「マーラ」の正規表現としてこの文字列を見る。
「Goblin」ゴブリン。西欧で信じられている、森や洞窟に住むという醜い小人の姿をした悪戯好きの精霊。ドイツで「コボルト」(Kobold)、フランスでは「ゴブラン」(Gobelin)と呼んだりする。映画で有名になったグレムリン(gremlin)もゴブリンの一種である。]
併し佛教は舊い奉祭を存續した以上の事を爲したのである。佛教はその奉祭を更に立派なものに仕上げた。その教の下に、新しい麗はしい形式の家庭的祭祀が生まれた。そして近代日本に於ける祖先禮拜の、感動させるやうな詩情は、佛教の傳道者の教化に依つて得られた事を知る事が出來る。日本の佛教に改宗した者達は、その死者を古い意味での神と看倣す事は止めたけれども、努めてその存在分信じ、尊敬と情愛とを以てそれに呼びかけることはした。Pretas の教義が昔の家庭的奉祭を怠る事を恐れる感情に、新しい力を與ヘたと云ふ事は注意に値する。一般に嫌はれたる亡靈は、神道で用ふる言葉の意昧での『惡神』ではないかも知れない。併しながら惡念のある餓鬼は惡神よりも確に恐れられたのである――と云ふのは佛教は餓鬼の加害力を凄じいものと定めたからであつた。各種の佛教の葬式に於て、死者は實際に今でも餓鬼として呼びかけられてゐる――それは憐むべきものであるが、又恐るべき名ものである――これは人間の同情と救濟とを大いに要するものであるが、併し又靈力に依つて供養者に恩返しをする事の出來るものなのである。
[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。以下、底本は一行空け。]
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