秋の日 中原中也
秋 の 日
磧づたひの 竝樹の 蔭に
秋は 美し 女の 瞼(まぶた)
泣きも いでなん 空の 潤(うる)み
昔の 馬の 蹄(ひづめ)の 音よ
長の 年月 疲れの ために
國道 いゆけば 秋は 身に沁む
なんでも ないてば なんでも ないに
木履の 音さへ 身に沁みる
陽は今 磧の 半分に 射し
流れを 無形(むぎやう)の 筏は とほる
野原は 向ふで 伏せつて ゐるが
連れだつ 友の お道化た 調子も
不思議に 空氣に 溶け 込んで
秋は 案じる くちびる 結んで
[やぶちゃん注:「磧」「かはら」。河原。川辺の水が枯れて砂や石が多い場所。
「竝樹」「なみき」。並木。
「泣きも いでなん」「美し」い「秋」であるが、その「空」は「今にも泣き」出し「も」しそうに見える、雨を降り出させそうな「空」の比喩ではある。「女の 瞼(まぶた)」はその形容表現の反側的な配置であろう。しかし、この「女」はただの比喩ではなく、詩篇全体に「女」の影を詩想全体に及ぼすための、確信犯的な企(たくら)みと私は踏んでいる。
「長の」「ながの」。
「年月」「としつき」と読みたい。
「いゆけば」「い行けば」。「い」は語調を調える接頭語。
「なんでも ないてば」「てば」は「と言へば」の音変化したものが、係助詞風になったもの。相手の言葉を改めて話題として示す意。「何でもないと言おうなら、確かに」。
「なんでも ないに」「に」は接続助詞で逆接の確定条件。「何でもないのだけれども」。
「木履」「ぼくり」。通常は下駄を指す。ここも実際には主人公と「連れだ」って国道を歩いている男の「友の」「お道化た」「調子」の「カラン! コロン!」という、乾いた軽快にして滑稽な、その下駄の「音」が現実の音なのであろうが(だから副助詞「さへ」を用いているのである)、しかし、ここではまた、第一連で比喩表現で匂わされた「女」の感覚的イメージから、主に少女が用いた、材の底を刳(く)り抜いて後ろ側を丸くし、前の方は前のめりに仕立て、漆で黒や赤に塗った駒下駄(こまげた)の一種の「ぽっくり」「ぼっくり」の音をも、読む者の意識の中に響かせようとしているのではないか? と私は読みたくなるのである。
「流れを 無形(むぎやう)の 筏は とほる」「筏」は「いかだ」であるが、ここは実際に筏が通っているのでは、無論、ない。それは「無形の」「筏」=不可視の筏=漂泊する詩人の魂のようなものの換喩であろう。それは直下で「野原は 向ふで 伏せつて ゐるが」という擬人法を用いている辺りからも漂ってくるのである。
「秋は 案じる くちびる 結んで」――唇をむつかしく「ぎゅっつ」と結んで、あれこれと、男の詩人たち(この友もまた詩人であろう)を考えあぐまさせるのであるよ、「秋は」――と私は採る。その反側として艶っぽい「女」のイメージが詩の背後に潜んでいると私は採るのである。そも「秋」である。「淮南子(えなんじ)」(前漢の淮南王(わいなんおう)劉安の撰になる思想書。二十一編が現存する。道家・陰陽家・法家などの諸学派の説を総合的に記述編修輯したもの)の「繆稱訓(びゅうしょうくん)」に言う、「春女思、秋士悲、而知物化矣。」(春、女は思(かな)しみ、秋、男は悲しみ、而して「物化」(万物の無常の変化)を知る。)のである。]