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2018/05/02

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十一年 「百中十首」

 

     「百中十首」

 

 「歌よみに与ふる書」は忽に多くの反響を生じた。旧派の俳人よりも歌よみの側に文字のある人が比較的多かったため、未知の人からの駁論も続々居士の机辺に到ったが、反響は固よりこれにとどまらなかった。三月二十八日漱石氏宛の手紙に「歌につきては内外共に敵にて候。外の敵は面白く候へども内の敵には閉口致候。内の敵とは新聞社の先輩其他交際ある先輩の小言に有之候。まさかにそんな人に向(むき)て理窟をのぶる譯にも行かず、さりとて今更出しかけた議論をひつこませる譯にも行かず困却致候。併シ歌につきてはたびたび失敗の經驗有之候故、今度ははじめより許可を出願して而後に出しはじめしもの、此上は死ぬる迄ひつこみ不申侯候」とある通り、歌論に対する反対者は存外居士の近くにあったのである。

[やぶちゃん注:「文字のある人」私が馬鹿なのか、意味が判らない。「子規居士」原本もこうなっている。「文句」の誤植ではないらしい。「文學」でもおかしい。「文字」文章で説かれた「文学評論」を読み解く知識を持った人の謂いか? よく判らぬ。しかしどうも「文字(もんじ)を用いて相応に文学的な雰囲気のあるもの、それらしく見えるもの(贋物を含む)を拵える人間」の謂いであるらしい。

 

 俳句の問題に関しては全然居士に一任し、何の異見も挿まなかった羯南翁も一朝歌の話になると、自ら加納諸平(かのうもろひら)の歌を好み、一個の意見を懐いているだけに、居士の歌論を頭から肯定するわけに行かなかった。万葉調の歌をよくし、居士の所論に同感するところ多かるべきはずの愚庵和尚も、論調の急激なのに驚いたものか、書を寄せて居士の注意を促した。当時の居士の手紙には羯南翁宛のものが二通、愚庵和尚宛のものが二通伝わっているが、いずれも歌に関する意見の異同を弁じたものである。こういう先輩の意見については居士も予(あらかじ)め慮(おもんぱか)る所があったから、掲載に先(さきだ)って羯南翁の諒解を得たのであろうが、その羯南翁が驚くほど、居士の歌論は激烈だったのである。

[やぶちゃん注:「加納諸平」(文化三(一八〇六)年~安政四(一八五七)年)は江戸後期の国学者で歌人。ウィキの「加納諸平」によれば、『国学者夏目甕麿』(みかまろ)『の子として遠江国で生まれ』た。十八『歳で紀伊国和歌山の医師・加納家の養子となる。本居大平に国学を学び、後に紀州藩の命で『紀伊続風土記』『紀伊国名所図会』の編纂にあたった。また、自身や実父の歌をはじめとする当代の優れた和歌を収めた『類題和歌鰒玉集』を』文政一一(一八二八)年に『刊行、以降日本全国から優れた和歌を募集して『類題和歌鰒玉集』の続編の編纂にあたり』、安政元(一八五四)年までに第七編までを『刊行、地方における歌人・歌壇の振興に尽くした』。安政三(一八五六)年に『紀州藩が国学所を創設すると、その総裁となっ』ている。]

 

 愚庵和尚が羯南翁に与えた手紙を見ると、「餘り言過ぎては所謂口業(くごふ)を作る者にして其德を損する事多からんを恐るゝ也」といい、居士が従来博し得た盛名を累(るい)することになりはせぬかということを憂慮している。居士の得能秋虎氏宛書簡に「自分左程危險には思はねども周圍の人(俳人は除け)が甚だあやぶみ居候處如何にも面白く候。小生如何に愚(おろか)なりとも將(は)た病體なりとも今の歌よみどもには負け申間敷候」とあるのが、当時の空気をよく伝えているように思う。居士は周囲の人の懸念する如く憂慮せず、周囲の人は居士の自ら信ずる如く、その歌における力量を信ぜぬというのが当時の実際であったらしい。

[やぶちゃん注:「得能秋虎」哲学者得能文(とくのう ぶん 慶応二(一八六六)年~昭和二〇(一九四五)年)は哲学者。越中国(富山県)生まれ。明治二五(一八九二)年、東京大学文科大学哲学科選科修了後、第四高等学校・東洋大学・日本大学・東京帝国大学講師を勤め、東京高等師範学校教授となった。秋虎(しゅうこ)は俳号。彼は金沢での『新俳句』一派を牽引した人物であった。]

 

 「歌よみに与ふる書」の内容以上に先輩を懸念せしめたものは、歌における居士の作品であった。居士が和歌の革新を思立(おもいた)ってから、はじめて『日本』に歌を掲げたのは二月二十七日、「六たび歌よみに与ふる書」と「七たび歌よみに与ふる書」との中間である。この歌を発表するに先ち、居士は歌の草稿を知友先輩の間に廻して、百首ばかりの中から十首を選まんことを依頼し、各人の選に成るものをそのまま「百中十首」と名づけて発表した。選者十一人のうち、竹柏園(佐佐木信綱)、徒然坊(つれづれぼう)(阪井久良伎(くらき))、某(陸掲南)、戯道(末永鉄巌)の四氏を除く外は、皆俳人ばかりである。従ってその選むところも何ら縄墨(じょうぼく)にかかわらず、時に突飛に見えるものまでも構わず取入れている。

[やぶちゃん注:「百中十首」国立国会図書館デジタルコレクションのアルス版「子規全集」第六巻のここから、画像で全歌を視認出来る。また、makochi 氏のブログに『「百中十首」解説』としてから三回に亙って、何と、全歌に簡潔な解説を加えたものが読める。「百中十首」の選者は「其一」の俳人白雲(五百木瓢亭)に始まり、「其二」が徒然坊、「其三」が某(なにがし)、「其四」が河東碧梧桐、「其五」が高浜虚子、「其六」が内藤鳴雪、「其七」が俳人梅沢墨水、「其八」が戯道、「其九」が竹柏園、「其十」が俳人石井露月「其十一」が俳人遠人(福田把栗(はりつ)である。しかし、気になるのは、「百中十首」は十一人の選になる全百十首にダブりが全くないということである。これは寧ろ、不自然と言わざるを得ない。宵曲の叙述から見ると、唯一の自筆短歌原稿を回覧し、しかも前の選者が選んだものは外して選ぶとしたとしか考えられず、とすれば、後に廻って来た選者はいい面の皮ではないか。私が最後なら、この選ばれた奇体な短歌群の性質から見て、残りから十首は選べない気がする。十一に分割した歌稿を回したとしても、私は恐らく十首は選べない。この時の選はどのように行われたものか、私には頗る不思議にして大不審なのだが、どなたか御存じの方はお教え願いたい。なお、以下、掲げられる選歌については、本文注に【 】太字で、選者の名を挿入する特別の仕儀を採ったことをお断りしておく

「阪井久良伎」(明治二(一八六九)年~昭和二〇(一九四五)年)は川柳作家。ウィキの「阪井久良伎」によれば、『神奈川県久良岐郡野毛(現在の横浜市中区野毛町)に生まれる。本名、辨(わかち)、父は税関役人であった。共立英語学校、高等師範国文科在籍中より、石城、徒然坊の筆名で漢詩・和歌の投稿を行った』。明治二九(一八九六)年、『報知新聞に入社、翌年新聞『日本』に入社する。『旧派歌人十余家の自賛歌十首』を連載し、この記事は正岡子規の反発を受け、子規の『歌よみに与ふる書』が執筆される機縁となった』。明治三六(一九〇三)年には『『日本』の川柳壇の選者を務め、『川柳梗概』を執筆し川柳の革新運動を始める。同年、井上剣花坊が『日本』に入社し、新川柳を担当したため、『電報新聞』(後に毎日新聞に買収される)で川柳壇を担当した』。明治三七(一九〇四)年には「久良岐社」を創立し、『川柳誌『五月鯉』を創刊した。『五月鯉』は』明治四〇(一九〇七)年に『刊行にゆきづまるが、その後、川柳誌『矢車』の序文に寄稿』、『獅子頭』や『川柳文学』を創刊している。『江戸期の川柳・狂句が滑稽・風刺に偏ったことを改め、風俗詩としての川柳を主張した』。『代表句としては「一寸粋なミッスの通る薔薇垣根」「トタン葺き春雨を聞く屋根でなし」などがある』とある。

「末永鉄巌」既出既注。]

 

 「百中十首」を通覧して著しく眼につくのは、字余りの多いことと、漢語の多く用いられていることであろう。字余りについては「九たび歌よみに与ふる書」にも説があるが、四、五の句、殊に五の句の字余りが多いのは居士が後に歌を評するに当ってしばしば用いた「頭重脚軽」の弊を防ぐためと思われる。漢語を取入れたのは在来の歌のなだらかな調子に対し、むしろ佶屈な強い調子を用いようとしたもので、これには俳句における蕪村の影響――漢語の多かった当時の俳壇の傾向を考慮しなければならぬ。しかし「夜を守る砦の篝(かがり)影冴えて荒野(あらの)の月に胡人胡笳(こか)を吹く」【虚子】「城中の千戸の杏(あんず)花咲きて關帝廟下人市(いち)をなす」【虚子】「官人の驢馬に鞭うつ影も無し金州城外柳靑々(せいせい)」【墨水】[やぶちゃん注:この一首は「百中十首」では『金州戰後』の前書がある。]というようなのになると、いささか漢語調に偏し過ぎた嫌があり、漢詩畠の桂湖村(かつらこそん)氏なども「山里に蠶飼ふなる五畝(せ)の宅麥はつくらず桑を多く植う」【白雲】とか、「こゝろみに君がみ歌を吟ずれば堪へずや鬼の泣く聲聞ゆ」【徒然坊】[やぶちゃん注:の一首は「百中十首」では『金槐和歌集を讀む』の前書がある。]とかいう位ならいいが、あまり沢山用いては困るという注意を与えたほどであった。漢語の問題は字余り以上に先輩の首を傾けしめたに相違ない。

[やぶちゃん注:「胡笳」古く中国北方の異民族胡人が吹いた葦の葉の笛。哀調深いものとして詩文に詠み込まれることが多い。

「桂湖村」既出既注。]

 

 用語を離れた内容の問題についても、「百中十首」の中には、居士がかつて「文学漫言」 の中で述べた「三十一字の俳句」に近いものが少からずある。「後夜(ごや)の鐘三笠の山に月出でて帝大門前雄鹿群れて行く」【白雲】「ゐのしゝはつひに隱れし裾山の尾花が上に野分(のわき)荒れに荒る」【白雲】「餠あげて狸を祭る古榎(ふるえのき)紙の幟(のぼり)に春雨ぞふる」【露月】「朝な朝な掃きあつめたる落椿紅(くれなゐ)腐る古屋の隅に」【戯道】「小鮒取るわらはべ去りて門川の河骨(かうほね)の花に目高群れつゝ」【虚子】というような歌は、このまま直(すぐ)に俳句に移し得るかどうかは第二の問題として、俳諧的要素に富んでいることは事実である。居士の歌が用語の区域を広くし、趣向の変化を求めた点を認められないで、俳人の余技という風に見られがちだったのは、居士が俳壇に盛名を得ていたからに外ならぬ。

[やぶちゃん注:「後夜の鐘」は一日を晨朝(しんちょう)・日中・日没・初夜・中夜・後夜の六つに分けた内の最後の、夜半から朝までの間をいう。その時刻の到来を告げるために撞く鐘。ほぼ現在の午前二時から六時頃に相当するが、鐘を撞いたのは午前四時頃であろう。

「紅(くれなゐ)腐る」「腐る」の読みは「くたる」であろう。

「門川」は「かどかは」(岩波文庫版土屋文明編「子規歌集」で確認)。家の門前の小流れであろう。]

 

 けれども「百中十首」が歌壇の寂寞(せきばく)を破り、清新な空気を注入した点は何人も認めざるを得なかった。

 

霜防ぐ菜畑の葉竹はや立てぬ筑波嶺(つくばね)おろし雁(がん)を吹く頃【白雲】

 人も來ず春行く庭の水の上にこぼれてたまる山吹の花【徒然坊】

 榛(はん)の木に鴉芽を嚙(か)む頃なれや雲山を出でゝ人畑を打つ【虚子】

 病みて臥す窓の橘(たちばな)花咲きて散りて實になりて猶病みて臥す【戯道】

 寐靜まる里のともし火皆消えて天の川白し竹藪の上に【竹柏園】

 風吹けば蘆の花散る難波潟夕汐滿ちて鶴低く飛ぶ【遠人】

 武藏野の冬枯芒婆々に化けず梟(ふくろふ)に化けて人に賣られたり【戯道】[やぶちゃん注:この一首は「百中十首」では『庭先にぶらさげたものを』の前書がある。]

   金州戰後

 山陰に家はあれども人住まぬ孤村の柳綠しにけり【遠人】

 

こういう歌は居士在来の作品に比して新生面を開いているのみならず、自然の趣に富んでいる点において、当時の新派の歌とも色彩を異にする。「百中十首」の出現は、明治歌壇に取っても忘るべからざる事柄であった。

[やぶちゃん注:以上の柴田宵曲が採った短歌の選者を見てみると、面白いことに気づく。それは、宵曲が「某」(陸掲南)と河東碧梧桐の選んだ歌を一首も採用していないということである。確かに、両者の採ったものに、あまりピンとくるものはないが、例えば、羯南が第一に挙げた、

 里川の流れにかけし水車汲みてはこぼす山吹の花

は子規らしい、しかも写生のいい歌と思うし、碧梧桐の採った、

 紅梅の咲けども鎖す片折戸狂女住む宿と聞くはまことか

などは私の好みだ。そうである。この選句にこそ、子規の尻からげの短歌革新のそれよりも、より筆者宵曲の好みの方がよく現われていると言えるのである。]

 

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