獨身者 中原中也
獨 身 者
石鹼箱には秋風が吹き
郊外と、市街を限る路の上には
大原女が一人步いてゐた
――彼は獨身者(どくしんしや)であつた
彼は極度の近眼であつた
彼はよそゆきを普段に着てゐた
判屋奉公したこともあつた
今しも彼が湯屋から出て來る
薄日の射してる午後の三時
石鹼箱には風が吹き
郊外と、市街を限る路の上には
大原女が一人步いてゐた
[やぶちゃん注:太字「よそゆき」は原典では傍点「ヽ」。謂わずもがなであるが、これは回想詩である。サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説に、この一篇は昭和一一(一九三六)年四月の創作とあるからである。「大原女」(おほはらめ(おおおはらめ))の描写から、新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」の年譜に添うならば、大正一二(一九二三)年三月に県立山口中学校第三学年を落第し、四月に京都の私立立命館中学へ転校してから、大正十四年三月に大学受験を目指して上京するまで(早稲田大学の受験をしようとしたが、中学修了証書がないために手続き出来ず、日本大学には試験場に三十分も遅刻して会場に入れて貰えず、結局、どこにも入学出来なかった)の閉区間のシークエンスと取り敢えずはとれる(満十六歳から十七歳まで)。しかし、実はその間の大正十三年の四月に、京都の演劇グループで知り合っていた俳優長谷川泰子(明治三七(一九〇四)年~平成五(一九九三)年:中也より三つ年上で、この当時は満二十歳直前)と同棲を始めており、この上京も泰子と一緒であったから、彼の「獨身者」を文字通り、馬鹿正直に受け入れるとすれば、大正一二(一九二三)年三月から翌年四月までの一年余りが回想対象時期するのが正確となろう。
「判屋奉公」印刷屋のことであろうが、中也がそんな仕事に従事して給金を得ていたことは年譜その他の資料からは窺えない。識者の御教授を乞う。]