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2018/05/16

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十一年 散文における新天地 / 明治三十一年~了

 

     散文における新天地

 

 『ホトトギス』第二巻第一号は十月に入って発行を見た。色刷の表紙、石版の裏画(うらえ)、写真版の口画、すべて面目一新した上に、紙数も松山時代に比べるとよほど多くなった。居士がこの号のために筆を執ったものは、次のような多種類に上っている。

[やぶちゃん注:「『ホトトギス』第二巻第一号は十月に入って発行を見た」発刊日は十月十日(後掲する同号目次画像内のクレジットに拠る)。

「色刷の表紙、石版の裏画」「ホトトギス」社公式サイトこちら(両画像有り。但し、モノクロームによれば、表紙は下村為山の「月」をモチーフとしたもの裏絵(私はどうも「画」を「え」と読むことを好まない)は中村不折の「螽とり」の絵で、右欄外に「先へ先へ行くや螽の草うつり 樗堂」と印刷されてある洒落たもの(後に示す同サイトの同号目次から、宵曲も後で述べているが、「写真版の口」絵というのも、下村の「豐年」と中村の「菌狩」(「きのこがり」のことであるが、後の子規の作品に合わせて「たけがり」と訓じているようだ。後の本文でもそうルビがある)の絵のそれであることが判る)。この句は松山の酒造業者で俳人であった栗田樗堂(くりたちょどう 寛延二(一七四九)年~文化一一(一八一四)年)の句。樗堂は加藤暁台に学び、近世伊予第一の俳人と讃えられた俳人で、小林一茶・井上士朗らとも親交があり、子規も彼を「過去四國一の俳人」と賞賛したという。樗堂の事蹟はこちらにリンク先の別ページを含めて非常に詳しい。必見。

「紙数も松山時代に比べるとよほど多くなった」上記サイトの「過去の俳誌より」の第一号を見ると(全頁画像閲覧可能)、本文は三十七頁。第一巻二十号の目次を見ると、推定で二十数頁しかない模様である。第二巻第一号は不明だが、目次(以下のリンク先の画像を参照)が上下二段目一杯に亙っていることから推しても、相当なページ数であることは間違いない。なお、以下については、同じ目次画像で表記(作者を含む)を確認してここのみ正字化し、記載されていない別なメンバーの書いたものも、概ね私が【 】に入れて補足してみた。新規まき直しの初号の雰囲気を味わって戴きたいがためである。前後を一行空けた。]

 

 【祝詞(鳴雪)】

  ほとゝぎす第二卷第一号の首に題す(某)

  古池の句の辨(獺祭書屋主人)

 【蕪村句集講義(鳴雪・子規・碧梧桐・虛子・墨水】

  俳諧無門關(俳狐道人前)

 【雜話(坂本四方太)】

  小園の記(子規子)

  土達磨(つちだるま)を毀つ辭(子規子)

 【淺草寺のくさぐさ(高濱虛子)】

[やぶちゃん注:ここに『募集俳句』欄が入り、「蜻蛉」と題した「子規選」・「螽」と題した「四方太選」・「きりぎりす」と題した「霽月選」・「蚯蚓鳴」(みみづなく)と題した「虛子選」となっている。]

 【東京俳况】

 【各地俳况】

 【夜長の欠び(五百木飄亭)】

 【文學美術漫評(白雲・九鳥山人・ねずみ)】

 【新體詩(四篇)(虛子・竹の里人)】

 【和歌(十九首)(碧梧桐・竹の里人)】

[やぶちゃん注:以下の二篇は後の宵曲の記載から、前者「花賣る歌、豐年の歌」(これこれ)が上記の新体詩の、後者「蕈狩」(これ。以上のリンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの「子規全集」第六巻の画像)が和歌の欄のものである。]

  花賣る歌、豐年の歌(竹の里人)

  蕈狩(たけがり)(竹の里人)

  朝顏句合(くあはせ)(子規判【碧梧桐・虛子】)

[やぶちゃん注:以下は「附錄」の部。但し、目次ではただ『俳句分類』とあるのみである。これは先からの分載であるから、宵曲の記すものが、内容的には正確であると思う。]

  俳句分類乙號(獺祭書屋主人)

 

 この外従来の「輪講摘録」を「蕪村句集講義」と改めて、その筆記も居士が書いているし、「文学美術漫評」の中にも「ねずみ」の名で何か書いている。正に三面六臂の働(はたらき)である。居士は最初虚子氏に対して「初(はじめ)は俳句が主になること勿論であるが少くも韻文だけは包含して置きたい、今少し小生をして望ましめば初めから新体詩と歌と俳句と平等にやって行きたい(小説などはあってもなくても善い事として)。しかし俳句さえ困難なのだからとてもその外は覚束ない、やはり俳句八分その他二分位で始めねばなるまい」[やぶちゃん注:ここは引用元が不明であり、以下、「いっていた」とあるから、正字化を見送って、ママとした。]といっていたが、その割合はともかく、文学の範囲はほぼ予定通り備っているといわなければならぬ。

 「古池の句の弁」はかつて「芭蕉雑談」において説いたところを、更に委しく、更に歴史的に述べたものである。古池の句の評論としては最も精到なるものの一であろう。「土達磨を毀つ辞」は題名を見てもわかるように、在来の俳文系統に属するものであるが、「小園の記」は居士の手によって新に生れた美文である。こういう種類の文章は居士の従来書いたものの中には見当らない。二、三カ月前に発表された「十年前の夏」と対比しても、その差は明に看取することが出来ると思う。

[やぶちゃん注:「古池の句の弁」「青空文庫」のこちらで新字正仮名で読める。

「土達磨を毀つ辞」同じく「青空文庫」のこちらで新字正仮名で読める。

「小園の記」同じく「青空文庫」のこちらで新字正仮名で読める。]

 この号の為山氏の口画は「豊年」不折氏のは「菌狩(たけがり)」であった。新体詩「豊年の歌」及「蕈狩(たけがり)」の和歌ほ、いずれもこの口画に因んだものである。「俳句分類」の項目と、その次の募集句の題とは必ず同じものが選んである。「俳句分類」は単に古句を示すにとどまらず、作句者に取っては一種の作例にもなっている。こういう点に関して居士は常に周到の用意を怠らぬ人であった。

 多大の努力を覚悟し、多大の努力を払っただけあって、東遷後最初の『ホトトギス』を手にした時は、居士も愉快を禁じ得なかったらしい。虚子氏に寄せた手紙の封筒に「天氣はよくなる雜誌は出來る快々」と書いて来たほどであった。韻文だけは包含して行きたいという最初の予定も、和歌や新体詩は後援続かずの感があり、居士自身も三号までで新体詩の作を絶つような結果になってしまったが、予定以外に新な天地が開拓されたのは散文の方面である。松山時代の『ホトトギス』には時に紀行とか、随筆とかいう種類の文章が見えるだけで、居士もこの方面には手を著けたことがなかった。然るに東遷後は「小園の記」を振出しにして、「車上所見」「わが幼時の美感」という風に、号を逐うてこの種の文章を掲げた外に、毎号「雲」とか「山」とかいう題を課して短文を募っている。一行乃至数行の短文を主としたものであるが、追々長い文章が加わって来て、従来にない自由な表現を試みることになった。後年単行本にするに当って、「小園の記」風のものを『寒玉集』と名づけ、短文の方を『寸紅集』と名づけた。居士の唱道した写生文なるものは、大体この二つの流から生れたので、その端緒は東遷直後の『ホトトギス』に已に見えている。

[やぶちゃん注:「わが幼時の美感」は「青空文庫」のこちらで新字正仮名で読める。]

 

 新体詩にしても『ホトトギス』所載のものは概ね短く、在来の作品のように一篇の趣向が目に立たなくなって来た。その代表的なものとして、最も短い一篇を掲げるならば次の如きものである。

[やぶちゃん注:以下は、国立国会図書館デジタルコレクションのアルスの「子規全集」第六巻のここからの画像で校訂した。]

 

   芒(すすき)老ゆ

 芒老いて菊はつぼむ

 萩を刈りて菊は開く

 白き薔薇に晴るゝ小雨

 葉雞頭に散る夕榮(ゆふばえ)

 蝶來らず居らざる蜘(くも)

 靜かなるは秋行く園

 くさる落葉うるほふ土

 四十雀はひそかに在り

 病みて三年庭を蹈まず

 窓にもたれ景を弄す

 雲は過ぐる上野の杉

 山氣骨にしみて寒し

 

 押韻の迹はここにも見えるが、眼前小園の風物の外、何者も取入れていない。こういう傾向を更に進めて行ったら、あるいは写生文に併行(へいこう)すべき写生詩が生れていたかも知れぬ。居士がこの辺を限りとして新体詩に遠ざかったのは、そういう野心を捨てたというよりも、病牀筆硯多忙の結果、余力が及ばなくなったものと解すべきであろう。

 この年後半における『ホトトギス』以外の仕事はあまり多くない。歌の調子を論じた「五七五七七」とか、『心の花』の歌を評した「一つ二つ」とか、天長節に因んだ「賀の歌」とかいうものが『日本』に掲げられてはいるが、前半期の歌論の華々しかったのに此べるとやや寂寞の感がある。『日本』に出る歌も九月以後は著しく減少した。上野元光院に月を見、「立待月」百句を『日本』に掲げた時も、俳句ばかりで文章はなかった。『日本人』に寄せた新体詩「菊合せ」は一年ぶりの作品であったが、これ以後『日本人』には何も出なくなっている。他の方面の仕事が減少したのは、『ホトトギス』に精力を傾注したために外ならぬ。

[やぶちゃん注:『天長節に因んだ「賀の歌」』「天長節」と前書した八首のか(国立国会図書館デジタルコレクションのアルスの「子規全集」第六巻の内。前書はこの前のページ末にある)。]

 

 三十一年は多事であったにかかわらず、居士の身辺は比較的無事であった。年末に虚子氏の贈った鴨を室内の盥(たらい)に浮べ、燈下にじっとしている鴨の様子に目を遣りながら、夜遅くまで筆を執ったりするうちに、この年は静(しずか)に暮れてしまった。

[やぶちゃん注:この最後の映像は何かはなはだ印象深い。]

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