人魚(松森胤保「両羽博物図譜」より)
人魚(松森胤保「両羽博物図譜」より)
[やぶちゃん注:画像は酒田市立図書館公式サイト内の「両羽博物図譜の世界」のものを用いた。最初に掲げた画像はそのままで、トリミングや補正は行っていないが、二枚目のそれは、図に示された各部のサイズ(これではよく判らぬので)をメートル法に換算した数値を、私が印刷した当該画像に手書きで書き入れたもので、かなりの補正(汚損除去)をしてある。
翻刻は上記の「両羽博物図譜の世界」の「兩羽魚類圖譜」の「海魚部」の「人魚部」「人形屬」「人魚類」「人魚種」に分類された、この頁(①とする。以下同じ)・この頁(②・上記の一枚目の画像頁)・この頁(③)・この頁(④)から人魚について記した部分を採り上げた(記述のみの頁は画像として掲げないので、対照されたい方は、上記リンク先を別ウィンドウでそれぞれ開かれたい)。上記「両羽博物図譜の世界」では、かなりの図について電子化翻刻がなされて付随してあり、本図についてもそれがなされている。但し、カタカナがひらがなに直されており、しかも多くの漢字が新字であるので、加工用に使用させて戴いたものの、一字一句について、総て、一から私が判読し直したものであることを最初にお断りしておく。また、当該の電子化された判読には従えない部分が複数箇所あり(読み易さを考えて確信犯で変えてある箇所が殆んどであり、私の判読では同じようにした箇所も多い)、独自に読み変えた箇所もある。しかし、それは私の判読の趣味嗜好からなのであって、当該判読に異論を唱えたり、批判する意図は全くないので、その異同については特に述べていない。なお、松森は「魚」を「𩵋」と書いているのであるが、この異体字、私自身が生理的に非常に気持ち悪く感じるので、勝手乍ら、総て「魚」とさせて戴いた。]
□翻刻1(原典のまま。【 】は割注様の二行表示)
〈①〉
【兩羽】魚類圖譜第一
海魚部
人魚屬
予人魚ノ事ヲ略論スルニ漢土ニ於テハ秦ノ始
皇カ驪山ノ陵ニ其油ヲ以テ火ヲ點セシト云フ
ヲ始トシテ我カ國ノ雜書俗談ニ掛ルモノ一ト
シテ不經ノ妄説ニ係ラサルモノヲ知ラス從テ
其物ヲ見ルヿ一ニシテ止ラスト雖皆擬物タル
ニ過キス洋人ハ烏有ノ物トナスモ眞ニ故アリ然
ルニ独リ此ニ圖スル所ノ原物ハ毫モ人造ノ跡
ヲ踪スヘキナク殊ニ人面ニシテ隱然トシテ獣
相ヲ備ヘ縱令人造ナラシムルモ決シテ看過ス
可キモノニ非ス依テ暫ク此ニ列ス
〈②〉[やぶちゃん注:「一腰ヨリ下」と「此圖ノ如ク」の間の★部分には、その下に示した画像が入る。原画像から当該部をトリミングしてそのまま示した。縦書であるので、この画像だけは正立画像である。]
人魚類
人魚種
一腰ヨリ下★此圖ノ如ク左ニ曲レリ
一靣ノ長サ二寸二分
一肩巾四寸
一腹巾二寸五分
一イヨリロマテ四寸五分
一ロヨリハマテ二寸五分
一ハヨリニマテ二寸
一ニヨリホマテ寸欠
一ホヨリヘマテ一寸六分
一へヨリトマテ二寸
一ホヨリチマテ一寸
一リヨリヌマテ寸一
[やぶちゃん注:「寸一」はママ。但し、右に何か記号(上下入れ替え?)のようなものがあるようも見える。孰れにせよ、他のサイズと比較して「一寸」でよいと思われるので、「翻刻2」では特異的に「一寸」に代えた。]
一ヌヨリルマテ二寸
一ヲヨリワマテ一寸七分
一カヨリヨマテ三寸
一ヨヨリタマテ三寸
一タヨリレマテ二寸五分
一レヨリソマテ一寸五分
一ツヨリネマテ二寸
一ネヨリナマテ一寸
[やぶちゃん注:「ヲ」に相当するものが判別しにくいが、見開き頁中央の右頁の「ロ」の下方の魚体部の右胸鰭らしきものの生えている根元にある三画目の左払いがないために「ニ」に見えるが、これが「ヲ」である(松森は描いた絵のそこに皺(或いは鰓蓋か)があり、それが「ヲ」で見えにくくしてしまうのを恐れて最終画を記さなかったのだと思う)。「ニ」は順に脂鰭(あぶらびれ)らしきものの右端(頂点)に既に打たれている。]
人魚【干燥物ノ写眞】
[やぶちゃん注:これは図のキャプション標題。]
〈③〉
此ノ人魚ハ安政三年寫眞スル所ヲ明治十六年一月
八日ニ覆寫スルモノナリ其産所ハ詳ナラスト
雖モ其頃ヨリ我カ庄内ノ物トナレリ初メテ見シ
時ハ圖ノ如ク顏靣及指間胸骨ノ邊ニモ薇綿(ゼンマイ)ノ
如キ毛アリシガ二十七年カ程ヲ歴テ昨年再タ
ヒ之ヲ見シ時圖ニ在ル所ノ細毛ハ剝脱殆ト尽ク
ルニ至レリ
又云自然ノ物ニシテハ独不都合ナルモノアリ
人ノ胸尽キタランニハ魚ノ腹之ニ屬スベキノ理
ノ如シ然ルニ否セス人胸尽テ魚胸次ク理果シ
テ如何ントス
一明治十六年七月二十六日ノ郵便報知新聞ヲ見ル
[やぶちゃん注:上の「一」は原文では本文全体より一字分飛び出ている。]
ニ云神奈川縣下久良岐郡根岸本牧村ノ漁父田
沼九十郎カ三四日跡金澤沖ニ於イテ漁業ノ際綱
[やぶちゃん注:「綱」はママ。「網」の誤りであろう。「翻刻2」では特異的に「網」とした。]
ニカケテ引キ揚ケタル魚ハ體ノ長サ二尺五寸ニ
テ頭ハ猿ノ如ク顏靣ノ模樣ハ人ニ彷彿トシテ
全身ニ黒キ短毛ヲ生ジ尾ハ疊針ヲ十二本列ヘ
種タルガ如クニシテ【胤保案スルニ是レ全ク尾ノ骨ヲ云フナル可シ】蹼ニモ
【胤保案スルニ鰭ト云ハスシ蹼ト云フヲ見レハ通常ノ鰭ニ非ルコトヲ知ヘシ】中本ノ
大針アル異形ノ魚ナレハ怪シトテ其ノ趣キヲ戸長役
場ヘ屆ケ出シト云フ胤保案スルニ亦此レ人魚ノ
一ナルヘシ頭ハ猿ノ如ク顏靣ノ模樣人ニ彷彿
トシテト有ルハ尤要所ナリ人靣ニシテ蓋シ獣相
[やぶちゃん注:「要所」は初め「腰所」と書いたものを、「月」の上をごちゃごちゃとして消してあるので、かく表記した。]
ナルモノナルヘシ予カ此ニ圖スル所ノモノモ
〈④〉
則前ニ誌スカ如ク隱然トシテ獣相ヲ備ヘ天造
ノ妙人工ノ及ハサル所ヲ有ス
因ニ云フ橘ノ南溪カアラワス所ノ西遊記ニ日
向ノ國カノ山中ニ於テ兎路(ウチ)弓ヲ以異物ヲ斃ス
全体全ク女ニシテ裸体色白ク髮黒ク人間ニ異
ナラスト雖獣相アリ之ヲ山女トスルヨシ見エ
タレト人悉之ヲ疑フモ予ハ其ノ獣相ノ字アルヲ
以テ其眞物ヲ見シコト有ルモノニ非レハ知ルヿ
能ハサル所ト信シ倂セテ其ノヿノ虚談ニ非ルヲ
信スルナリ
□翻刻2(カタカナをひらがなにし、諸記号を加え、一部に読み易さを考えて( )で歴史的仮名遣で読みを添え、送り仮名や語を添えた整序版)
〈①〉
「【兩羽】魚類圖譜」第一
海魚部
人魚屬
予、人魚の事を略論するに、漢土に於いては、秦の始皇が驪山(りざん)の陵に其の油を以つて火を點ぜしと云ふを始めとして、我が國の雜書俗談に、掛るものを、一つとして不經(ふけい)の妄説に係らざるものを、知らず。從つて、其の物を見ること、一(いつ)にして止(とど)まらずと雖(いへ)ど、皆、擬物(まがひもの)たるに過きず。洋人は、烏有(ういう)のものとなすも、眞(まこと)に故あり。然るに、獨り、此(ここ)に圖する所の原物は、毫(がう)も人造の跡を踪(のこ)す[やぶちゃん注:本字には「あと・あしあと」などの意しかなく、このような意味はないが、こう読むしかない。]べきなく、殊に人靣(じんめん)にして、隱然として、獣相(じうさう)を備へ、縱令(たとひ)、人造ならしむるも、決して看過(くわんか)すべきものに非ず。依つて、暫く、此に列す。
〈②〉[やぶちゃん注:サイズは、それぞれの下に《 》でメートル法換算値を示した。]
人魚類
人魚種
一 腰より下、「★」、此の圖のごとく、左に曲れり。
一 靣(かほ)の長さ、二寸二分。《6㎝7㎜弱》
一 肩巾(かたはば)、四寸。《約12㎝》
一 腹巾(はらはば)、二寸五分。《7㎝6㎜弱》
一 イよりロまで四寸五分。《13㎝6㎜》
一 ロよりハまで二寸五分。《7㎝6㎜弱》
一 ハよりニまで二寸。《6㎝》
一 ニよりホまで寸欠(たらず)。《3㎝未満》
一 ホよりヘまで一寸六分。《4㎝8㎜》
一 へよりトまで二寸。《6㎝》
一 ホよりチまで一寸。《3㎝》
一 リよりヌまで一寸。《3㎝》
一 ヌよりルまで二寸。《6㎝》
一 ヲよりワまで一寸七分。《約5㎝》
一 カよりヨまで三寸。《約9㎝》
一 ヨよりタまで三寸。《約9㎝》
一 タよりレまで二寸五分。《7㎝6㎜弱》
一 レよりソまで一寸五分。《4㎝5㎜》
一 ツよりネまで二寸。《6㎝》
一 ネよりナまで一寸。《3㎝》
「人魚」【干燥物の写眞。】
〈③〉
此の人魚は、安政三年、寫眞する所を、明治十六年一月八日に覆寫するものなり。其の産所は、詳かならずと雖(いへど)も、其の頃より、我が庄内の物となれり。初めて見し時は、圖のごとく、顏靣及び指の間、胸骨の邊りにも、薇綿(ぜんまい)のごとき毛ありしが、二十七年が程を歴(へ)て、昨年、再び、之れを見し時、圖に在る所の細毛は、剝げ脱け、殆んど尽くるに至れり。
又、云はく、自然の物にしては、獨(ひと)り、不都合なるものあり。人の胸、尽きたらんには、魚の腹、之れに屬すべきの理(ことわり)のごとし。然るに、否せず。人、胸、尽きて、魚、胸、次ぐ理(ことわり)、果して如何んとす。
一、明治十六年七月二十六日の『郵便報知新聞』を見るに、云はく、『神奈川縣下久良岐(しもくらき)郡根岸本牧(ほんもく)村の漁父田沼九十郎が、三、四日跡(まへ)、金澤沖に於いて漁業の際、網にかけて、引き揚げたる魚は、體の長さ、二尺五寸《約62㎝》にて、頭は、猿のごとく、顏靣の模樣は人に彷彿として、全身に黒き短毛を生じ、尾は疊針を十二本列(なら)べ種(し)きたるがごとくにして【胤保、案ずるに、是れ、全く尾の骨を云ふなるべし。】、蹼(みづかき)にも【胤保、案ずるに、「鰭」と云はずして「蹼」と云ふを見れば、通常の「鰭」に非ざることを知るべし。】中本(ちうほん)の大針(おほばり)ある異形の魚なれば、「怪し」とて、其の趣きを戸長役場(こちやうやくば)へ屆け出でしと云ふ。胤保、案ずるに、亦、此れ、人魚の一つなるべし。頭は、猿のごとく、顏靣の模樣、人に彷彿として、と有るは、尤も要所なり。人靣にして、蓋(けだ)し、獣相なるものなるべし。予が、此に圖する所のものも、〈以下、④〉則ち、前に誌すがごとく、隱然として、獣相を備へ、天造の妙、人工の及ばざる所を有す。
因みに云ふ、橘の南溪があらわす所の「西遊記」に、『日向の國、かの山中に於いて、兎略弓(うぢゆみ)を以つて、異物を斃(たふ)す。全体、全く女にして、裸體、色、白く、髮、黒く、人間に異ならずと雖も、獣相あり。之れを「山女(やまをんな)」とする』よし、見えたれど、人、悉く、之れを疑ふも、予は、其の「獣相」の字あるを以つて、其れ、眞物(しんぶつ)を見しこと有るものに非ざれば、知ること、能(あた)はざる所と信じ、倂(あは)せて、其のことの虚談に非ざるを信ずるなり。
[やぶちゃん注:一九八八年八坂書房刊の磯野直秀先生の解説になる「博物図譜ライブラリー 2 鳥獣虫譜 松森胤保[両羽博物図譜の世界]」に載る本図について、磯野先生は、『この「人魚」図は、サルの頭骨とスズキ型の魚の骨格を継いだものらしい』(これは当該書の巻末に「文献」として挙げてある、一九八八年発行の『ミクロスコピア』五巻三号に載る「松森胤保『両羽博物図譜』、その一 海の魚」に拠る見解と思われる)『が、よほど精巧にできていたとみえて、多くの「人魚」を偽物と否定した胤保も、これは本物と受け取った。人魚の実在を信じていたのは胤保の古さを示すが、彼独特の分類体系』『にとって不可欠の存在だからでもあったことを理解する必要があ』り、『「二つの種類のあいだには必ず中間の種類が存在する」というのが彼の根本理論で、したがって人間と魚との間に人魚が存在することが、彼の理論にとっては重要な証拠だったのである』と述べておられる。無論、狭義の意味での「人魚」は存在しないから、彼の認知は決定的な誤りではあるのだが、これはある意味、ダーウィンの進化論的な系統的変遷の認識に繋がる〈ミッシング・リンク〉の捉え方としては面白いものだと私は思う。但し、磯野先生のスズキ型の魚というのには疑問がある。図を見ても判る通り、下半身の魚体部には、明白な脂鰭が見られるからである。脂鰭はサケ(サケ目 Salmoniformes)及び同じサケ目のマス類やアユ(キュウリウオ目 Osmeriformes)などの背鰭と尾鰭との間にある肉質状の特殊な鰭で、多くの海水産魚類や河川遡上性のそれらである、条鰭綱棘鰭上目スズキ目 Perciformes の魚類には見られない鰭だからである。捏造したとして、わざわざ脂鰭を附けたとしても、長い年月の間には、それは容易に脱落してしまう可能性が極めて高いと思われ、私は寧ろ、脂鰭を持つサケ・マスの大型個体の乾燥個体を猿の木乃伊(ミイラ)に繫いだと考えるのが妥当であると考える。
「秦の始皇」中国最初の秦の皇帝である始皇帝(紀元前二五九年~紀元前二一〇年/在位:紀元前二二二年~紀元前二一〇年)。
「驪山」中国、西安の東、陝西(せんせい)省臨潼県城の東南にある山。標高千三百二メートル。山麓に温泉があり、秦の始皇帝はここで瘡を治療し、即位して直ぐに、ここに自身の陵墓建設に着手している。その規模は格段に大きく、「史記」によれば、始皇帝の晩年には、同地区への阿房宮の建築とともに、その作業のため、徒刑者七十万人が動員されたともされる。ウィキの「始皇帝」によれば、『木材や石材が遠方から運ばれ、地下水脈に達するまで掘削した陵の周囲は銅で固められた。その中に宮殿や楼観が造られた。さらに水銀が流れる川が』百『本造られ、「天体」を再現した装飾がなされ、侵入者を撃つ石弓が据えられたと』され、『珍品や豪華な品々が集められ、俑で作られた官臣が備えられた』。『これは、死後も生前と同様の生活を送ることを目的とした荘厳な建築物であり、現世の宮殿である阿房宮との間』八十『里は閣道で結ばれた』。一九七四年に『井戸掘りの農民たちが兵馬俑を発見したことで、始皇帝陵は世界的に知られるようになった』。『ただし、始皇帝を埋葬した陵墓の発掘作業が行われておらず、比較的完全な状態で保存されていると推測される』。『現代になり、考古学者は墓の位置を特定して、探針を用いた調査を行った。この際、自然界よりも濃度が約』百『倍高い水銀が発見され、伝説扱いされていた建築が事実だと確認された』とある。なお、ここは唐の玄宗皇帝が楊貴妃のために華清宮を建てたことでも知られる。
「其の油を以つて火を點ぜし」これもよく知られた伝承であるが、これは海産の大型哺乳類(クジラやジュゴン等)等から得たものであろうと私は推測する。
「不經(ふけい)」常軌を逸し、道理に外れていること。
「烏有」(うゆう:現代仮名遣)は「烏(いづく)んぞ有らんや」の絶対反語の意で、全くないこと。何も存在しないことを指す。
「獨り」副詞。一つだけ。
「人靣」「人面」に同じい。
「隱然」表面にははっきりとは表われないが、陰では強い実在性や影響力を持っていることを指す。
「縱令(たとひ)、人造ならしむるも、決して看過(くわんか)すべきものに非ず」仮にこれが人の手によってでっち上げられたものであったとしても、だからと言って決して(人魚の存在を)否定してよいものではない。
「列す」書き綴る。
「安政三年」一八五六年。
「寫眞」実物を写生すること。
「明治十六年」一八八三年。
「覆寫」複写。再度、写し直したもの。
「庄内」出羽国田川郡庄内(現在の山形県鶴岡市)。既に述べた通り、安政三年当時、松森は庄内藩支藩の出羽松山藩付家老(就任は文久二(一八六二)年)であった。
「薇綿(ぜんまい)」薇(ぜんまい)。シダ植物門シダ綱ゼンマイ科ゼンマイ属ゼンマイ Osmunda japonica。
「獨(ひと)り」決定的な一点に於いて。
「人の胸、尽きたらんには、魚の腹、之れに屬すべきの理(ことわり)のごとし。然るに、否せず。人、胸、尽きて、魚、胸、次ぐ理(ことわり)、果して如何んとす」私には、よく意味が判らない。「呼吸を掌る胸部が究極に於いてヒトの進化の結果であるとすれば、その以前は魚類の腹部(鰓を指すか?)が元であるはずであるのが理窟というものであろう。ところが、そうではない、則ち、必要でないはずのものが、あるではないか? 胸が人の進化の結果であるはずであるのに、魚類の胸が、それに繋がっているという、この「人魚」の生態的構造の理窟に合わない状況、これは、さても、果たしてどう考えたらいいのか?」という謂いか? より正確な真意を読み取れる方は、是非、御教授あられたい。
「郵便報知新聞」現在の『スポーツ報知』の大元の前身。明治五(一八七二)年七月十五日に前嶋密らによって創刊された新聞。ウィキの「報知新聞」によれば、『草創期には旧幕臣の栗本鋤雲が主筆を務め、藤田茂吉・矢野龍渓(文雄)らの民権運動家が編集に携わったり、寄稿を行ったりした』。明治十年に『西南戦争が勃発すると、当時記者であった犬養毅による従軍ルポ「戦地直報」を掲載し』た。明治一四(一八八一)年に『矢野龍渓は大隈重信と謀って同社を買収』、『犬養毅・尾崎行雄らが入社し、立憲改進党の機関紙となった』。なお、『当時』、『記者だった原敬はこれに反発して退社している』。『政論新聞(大新聞)は自由民権運動の退潮とともに人気が低下』し、明治十九年に『同社に迎えられた三木善八は漢字の制限や小説の連載などを行い、新聞の大衆化を図』ったとあり、その後、明治二七(一八九四)年、『三木善八が社主に就任』し、同年十二月二十六日に『報知新聞』と改題したとある。
「神奈川縣下久良岐(しもくらき)郡根岸本牧(ほんもく)村」現在の神奈川県横浜市中区本牧。この附近(グーグル・マップ・データ)。私はこの近くの神奈川県立横浜緑ケ丘高等学校に最も長く勤務した。私の教員生活の中で、一番、幸せな時代であった。
「三、四日跡(まへ)」「まへ」は推定訓。「前」。
「金澤沖」旧久良岐郡金沢村(現在の神奈川県横浜市金沢区)の沖合。現在の横浜港の南方で、浦賀水道を抜けた狭義の東京湾の湾口の西方海域。
「種(し)き」「敷き」に同じ。
「中本(ちうほん)の大針(おほばり)」不詳。中ぐらいの太さを持った大きな針状の部位を指すか。哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ亜目鰭脚下目アザラシ科 Phocidae の尾部が疾患などによって腐敗し、骨が露わになったものを指すようは思われ、松森もそのようなものとして捉えているように思われる。
「戸長役場」明治初期に区・町・村に設置された行政事務責任者である戸長が戸籍事務などを執った役所のこと。現在の町村役場の前身。
『橘の南溪があらわす所の「西遊記」』医師橘南谿(たちばななんけい 宝暦三(一七五三)年~文化二(一八〇五)年)の紀行。南谿は本名宮川春暉(はるあきら)で、伊勢久居(現在の三重県津市久居)西鷹跡町に久居藤堂藩に勤仕する宮川氏(二百五十石)の五男として生まれた。明和八(一七七一)年一九歳の時、医学を志して京都に上り、天明六(一七八六)年には内膳司(天皇の食事を調達する役所)の史生となり、翌年には正七位下・石見介に任じられ、光格天皇の大嘗祭にも連なって医師として大成した。諸国遍歴を好み、また文もよくしたため、夥しい専門の医学書以外にも、「東遊記」やこの「西遊記」(併せて「東西遊記」と称する)等の紀行類や、随筆「北窓瑣談」等で知られている。ここに出る「山女」は「西遊記」の巻二に載る日向国(宮崎)での聞書き。所持する東洋文庫本で示す(気持ちの悪い新字新仮名であるが)。
*
日向国飫肥(おび)領の山中にて、近き年菟道弓(うじゆみ)にてあやしきものを取りたり。惣身女の形にして、色殊の外に白く、黒き髪長くして赤裸なり。人に似て人にあらず。猟人も是を見て大いに驚きあやしみ、人に尋ねけるに、山の神なりというにぞ、後のたたりもおそろしく、取すてもせず其ままにして捨置きぬ。見る人も無くて腐り果てけるが、何のたたりも無かりしとなり。又、人のいいけるは、是は山女というものにて、深山にはまま有るものといえり。惣(すべ)て彼(かの)辺にては、菟道弓というものを作りて獣を取る事也。けものの通う道をウジという。其道を考え知りて、其所へ弓をしかけ置き、糸を踏めば弓発して貫く機関(からくり)なり。狼、猪なども皆此弓にて多く取得るとぞ。誠に辺国には種々の怪敷ものも有りけり。
但し、九州には天狗の沙汰甚だ稀なり。薩州鹿児島辺にはたえてきかず。四国には天狗多しという。伊勢の辺には別して多し。皆高山には是有る様子なり。かかるたぐいも国々の風土によりて多少あるか。
*
「飫肥」は現在の宮崎県南部日南市中央部にある地区。ここ(グーグル・マップ・データ)。「菟道弓(うじゆみ)」は本文に出る「兎略弓(うぢゆみ)」で、この引用で最早、注する必要はなくなったと考える。
なお、私はご多聞に漏れず「人魚フリーク」で、古くは、
に始まり、
寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」の「人魚」の項
でも考証した。そこではモデル論としては、哺乳綱のジュゴン目(海牛目)Sirenia の
ジュゴン科 Dugongidae のジュゴン亜科ジュゴン属ジュゴン Dugong
dugon(一属一種)
を真っ先に挙げ、以下、同じジュゴン目のマナティー科 Trichechidae マナティー属に属する三種
アマゾンマナティー Trichechus inunguis
アメリカマナティー Trichechus manatus
アフリカマナティー Trichechus senegalensis
も挙げねばならないとし、更に、近代に人類が絶滅させたジュゴン科ステラーカイギュウ亜科 Hydrodamalinae の
ステラーカイギュウ Hydrodamalis
gigas
も、その我々の愚かな行為を忘れないために、掲げた。ステラーダイカイギュウについては、南方熊楠「人魚の話」附やぶちゃん注の私の注13を是非お読み頂きたい。但し、本邦本土にやって来るとなれば、やはり
食肉(ネコ)目 Carnivora のアシカ科 Otariidae のアシカやオットセイ
鰭脚(アシカ)亜目アザラシ科 Phocidae のアザラシ
等もモデル生物として挙げておいた、松森は魚類とヒトの中間型生物の措定を真面目に考えていたのであるが、アーバン・レジェンド(都市伝説)としての人魚伝説は今も頗る健在である。調査捕鯨の関係者の間で噂されると言い、映像にも撮られたとする謎の生物「ヒトガタ」「ニンゲン」「人型物体」……流石に、フリークの私も呆れて物が言えぬ。博物図譜では、非常に優れたものとして、
を電子化注している。未見の方には、特にこれをお勧めする。古典で記事の古さから言えば、
「今昔物語集」の「卷第三十一 常陸國□□郡寄大死人語 第十七」
も見逃せない(これは私の訳注附き)。最近の私の仕儀では、
がある。因みに、私は勝手に、
動物界脊椎動物門哺乳綱正獣下綱サル目(霊長類)サル亜綱サル下目(狭鼻猿類)ヒト科ヒト属ニンギョ(人魚)亜種 Homo nostosalgos sapiens Yabunovich
Tadasky,2008
という学名もつけている。]