また來ん春…… 中原中也
ま た 來 ん 春……
また來ん春と人は云ふ
しかし私は辛いのだ
春が來たつて何になろ
あの子が返つて來るぢやない
おもへば今年の五月には
おまへを抱いて動物園
象を見せても猫(にやあ)といひ
鳥を見せても猫(にやあ)だつた
最後に見せた鹿だけは
角によつぽど惹かれてか
何とも云はず 眺めてた
ほんにおまへもあの時は
此の世の光のたゞ中に
立つて眺めてゐたつけが……
[やぶちゃん注:二箇所の「猫(にやあ)」の「にやあ」は「猫」に対するルビである。本詩集の詩集本文詩篇の中で、長男文也の死後に詠まれた詩篇は、これが最初であり、文也の死が直截に詠み込まれたものは、これ、一篇のみである。昭和一一(一九三六)年十一月十日、長男文也が二歳余り(昭和九年十月十八日生まれ)で小児結核のために急逝、中也は直後から激しい悲哀悲嘆に陥った。ウィキの「中原中也」等によれば、『中也は』三『日間』、『一睡もせず看病した』。『葬儀で中也は文也の遺体を抱いて離さず、フク』(中也の母)『がなんとかあきらめさせて棺に入れた。四十九日の間は毎日』、『僧侶を呼んで読経してもらい、文也の位牌の前を離れなかった』。翌十二月十五日『に次男の愛雅(よしまさ)が生まれたが』、『悲しみは癒え』ず、『幻聴や幼児退行したような言動が出始めたため、孝子がフクに連絡』、『フクと思郎』(中也の弟。柏村(中原)家四男)『が上京した』。翌年、昭和一二(一九三七)年一月九日、『フクは中也を千葉市千葉寺町の道修山にある中村古峡療養所に入院させ』、『ここで森田療法や作業療法を受け』て二月十五日に帰宅したが、『騙されて入院させられたと』妻『孝子に言って暴れたため、またフクが呼ばれた。文也を思い出させる東京を離れ』、二月二十七日に鎌倉町扇ヶ谷一八一(寿福寺の裏手)へ転居している。本詩篇はそんな中で書かれたもので、以下に続く「月の光 その一」「月の光 その二」とともに「詩三篇」として昭和十二年二月号『文學界』に発表されたものである。
「動物園」サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の「草稿詩篇」の中の「夏の夜の博覧会はかなしからずや」(文也死後一ヶ月後の昭和十二年十二月十二日の日記に記された「文也の一生」に出現する詩)の解説で、「文也の一生」の終りの部分が引用されており、そこに『同じ頃動物園にゆき、入園した時森にとんできた烏を坊や「ニヤーニヤー」と呼ぶ。大きい象はなんとも分らぬらしく子供の象をみて「ニヤーニヤー」といふ。豹をみても鶴をみても「ニヤーニヤー」なり。やはりその頃昭和館にて猛獣狩をみす。一心にみる。六月頃四谷キネマに夕より淳夫君と坊やをつれてゆく。ねむさうなればおせんべいをたべさせながらみる。七月淳夫君他へ下宿す。八月頃靴を買ひに坊やと二人で新宿を歩く。春頃親子三人にて夜店をみしこともありき。八月初め神楽坂に三人にてゆく。七月末日万国博覧会にゆきサーカスをみる。飛行機にのる。坊や喜びぬ。帰途不忍池を貫く路を通る。上野の夜店をみる』とあるから、これは恩賜上野動物園かと思われる。]