老いたる者をして ―― 「空しき秋」第十二 中原中也
老いたる者をして
――「空しき秋」第十二
老いたる者をして靜謐の裡にあらしめよ
そは彼等こころゆくまで悔いんためなり
吾は悔いんことを欲す
こころゆくまで悔ゆるは洵に魂(たま)を休むればなり
あゝ はてしもなく涕かんことこそ望ましけれ
父も母も兄弟(はらから)も友も、はた見知らざる人々をも忘れて
東明(しののめ)の空の如く丘々をわたりゆく夕べの風の如く
はたなびく小旗の如く涕かんかな
或(ある)はまた別れの言葉の、こだまし、雲に入り、野末にひびき
海の上(へ)の風にまじりてとことはに過ぎゆく如く……
反歌
あゝ 吾等怯懦のために長き間、いとも長き間
徒(あだ)なることにかゝらひて、涕くことを忘れゐたりしよ、げに忘れゐたりしよ……
〔空しき秋二十數篇は散佚して今はなし。その第十二のみ、諸井三郞の作曲によりて
殘りしものなり。〕
[やぶちゃん注:太字「はたなびく」は底本では傍点「ヽ」。サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説によれば、本詩篇は昭和三(一九二八)年十月に創作されたとする中原中也の友人関口隆克(たかかつ 明治三七(一九〇四)年~昭和六二(一九八七)年:教育者(文学者や作家ではない)。新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」の年譜によれば、中也は、この昭和三年五月下旬からの一時期(翌年一月までか)には下高井戸の彼の下宿で共同生活をしているとある。後に文部官僚や開成学園中学校・高等学校校長となったようである)の証言があるとされ、以下、非常に細かい当時の中也の置かれていた状況が仔細に語られてあるので、本詩篇の読解に大いに参考になる。是非、一覧されたい。少なくともここで言い添えておいてよいと思うことは、この連禱(事実は長歌と反歌という万葉集的歌型)めいた詩篇(元は群)は、当時の中也の置かれていた心理状態と関係するのではないかという点である。上記新潮社版「中原中也」の年譜などを見ると、この昭和三年五月十六日には父謙助が死去(同年三月十五日に往診先で倒れた。胃癌であった)しているが、見舞いのために病床には二度帰郷しているのに、葬儀には着る学生服がなかったために帰郷していない。同時期、小林秀雄と別れた長谷川泰子に再び近づくが、拒絶される。しかし恋慕止まず、同年十二月に詩篇「女よ」を書き、『以後、逃れつづける泰子に対して絶望的な恋愛詩を書くという、苦悩の中から生まれた豊かな詩作の次代が始まる』とある(新潮社版の編者は大岡昇平・飯島耕一であるが、年譜の編者は名義が示されていない)。その詩篇「女よ」はまさに本詩篇と共時的に書かれたもので、ある種、本篇の心内反転鏡像のように私には見えるので、参考までに以下に掲げておく。底本はその新潮社版に載るものを用いたが、恣意的に漢字を正字化した。
*
女よ
女よ、美しいものよ、私の許(もと)にやつておいでよ。
笑ひでもせよ、嘆きでも、愛らしいものよ。
妙に大人(おとな)ぶるかと思ふと、すぐまた子供になつてしまふ
女よ、そのくだらない可愛いい夢のままに、
私の許にやつておいで。嘆きでも、笑ひでもせよ。
どんなに私がおまへを好きか、
それはおまへにわかりはしない。けれどもだ、
さあ、やつておいでよ、奇麗な無知よ。
おまへにわからぬ私の悲愁(ひしう)は、
おまへを愛すに、かえつてすばらしいこまやかさとはなるのです。
さて、そのこまやかさが何處(どこ)からくるともしらないおまへは、
欣(よろこ)び甘え、しばらくは、仔猫(こねこ)のやうにも戲(じや)れるのだが、やがてそれに飽いてしまふと、そのこまやかさのゆゑに
却(かへつ)ておまへは憎みだしたり疑ひ出したり、つひに私に叛(そむ)くやうにさへもなるのだ、
おゝ、忘恩なものよ、可愛いいものよ、おゝ、可愛いいものよ、忘恩なものよ!
*
因みに、サイト「中原中也・全詩アーカイブ」のこの「女よ」の詩篇の電子化と解説を見ると、こちらでは詩篇(表記の一部が以上とは異なる)末に『(一九二八・一二・一八)』のクレジットがある。これは本詩篇「老いたる者をして」創作期から二~三ヶ月圏内の後の日付である。
「靜謐」「せいひつ」。静かで落ち着いていること。
「裡」「うち」。
「洵に」「まことに」。
「涕かん」「なかん」。
「はたなびく」やや意外な感じがするかも知れぬが、これは一般的な単語ではない(私も使ったことがないし、「日本国語大辞典」にも載らない)。中也が傍点を打ったところからも、韻律上からの確信犯の奇体な造語のように思われる。「小旗の如く」から「旗靡く」と漢字を当てたくなるが、それはあり得ない。「旗」は「はためく」のであって「棚引(たなび)く」のではないからである。
「こだま」木霊。谺。
「とことはに」これ一語で形容動詞ナリ活用の連用形(古くは「とことばに」上代語からある)。漢字表記するなら「常(とことは)に」である。永遠に変わらないさま。
「怯懦」「けふだ(きょうだ)」。臆病で気が弱いこと。意気地(いくじ)のないこと。
「徒(あだ)なる」「儚(はかな)いさま」或いは「無駄で無用なさま」。
「諸井三郞」(明治三六(一九〇三)年~昭和五二(一九七七)年)は作曲家。東京生まれ。東京帝国大学卒業後、ドイツに渡ってベルリン高等音楽学校で学び、昭和九(一九三四)年に帰国、交響曲・協奏曲を作曲し、後続の作曲家らを育てた。戦後は文部省で音楽教育行政に携わり、東京都交響楽団長・洗足学園大教授を勤めた。新潮社版年譜によれば、中也は昭和二(一九二七)年一月(十九歳)で前年末の一時帰郷から東京へ還った際、河上徹太郎(明治三五(一九〇二)年~和五五(一九八〇)年:文芸評論家・音楽評論家)と知り合い、同年十二月に『河上の紹介で、作曲家諸井三郎を知り、新進作曲家の音楽団体「スルヤ」に近づく』とあり(スルヤは「Surya」で、サンスクリット語の「太陽神」を意味するという)、サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説には、『この詩に、諸井三郎が曲を付け』、昭和五(一九三〇)年五月『の「スルヤ」第』五『回発表会で演奏され』たとある。]