諸國里人談卷之一 諏訪祭
○諏訪祭(すはのまつり)
信濃國諏訪明神は東征守護の神にて、桓武帝の時、田村將軍これを建(たつ)るなり。每年、三月七日、鹿(しか)の頭〔かしら〕七十五、供(けう)す。氏人(うぢびと)の願望にて、何方〔いづかた〕よりと極〔きはめ〕たる事なく、自然と集(あつまる)事、恆例、たがはず。まさに、一つの增減、なし。七十五の内、兩耳の切れたるかしら、一つ、きはめて、あり。それかれ、奇なりとす。
上諏訪祭神 健御名方命〔たけみなかたのみこと〕 下諏訪 祭神 八坂入姫命〔やさかのいりひめのみこと〕
上諏訪に七不思議あり。
官影(みやのかげ) 普賢堂の板壁に、穴あり。紙をあてゝ日にうつせば、下のすはの三重の塔、うつる。其間、一里なり。
社壇雨(しやだんのあめ) 每日、巳の刻に、雨ふる。
根入杉 根、八方へ、はびこる。
温泉 湯山より、おつる所の口をふさげば、湯、落〔おち〕ず。
氷橋(こほりのはし) 冬、諏訪湖、氷る時、「おみわたり」とて、狐、わたりそめて、其後、人馬、氷のうへを通路す。春、又、狐、渡れば、通ひを止(とどむる)。
鹿(しか)の頭(かしら) 祭の時、七十五頭、例年、たがはず。
冨士移ㇾ湖(ふじうつるみづうみ) 湖上に冨士の影、うつるなり。【甲斐一國をへだつ。其間に高山多く有り。】」
すはの海衣が崎に來て見れば冨士の浦こぐあまの釣舩
[やぶちゃん注:以上は既に一度、『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 鹿の耳(5) 生贄の徴』の注で電子化している(底本が異なるので、ゼロから起こした)。リンク先の柳田國男の文章も是非、参照されたいが、当該部を以下に抜いておく。
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日本でも諏訪の神社の七不思議の一つに耳割鹿(ミミサケジカ)の話があつた。毎年三月酉の日の祭に、俗に御俎揃(おまないたぞろ)へと稱する神事が前宮(さきみや)に於て行はれる。本膳が七十五、酒が十五樽、十五の俎に七十五の鹿の頭を載せて供へられる。鹿の頭は後には諸國の信徒より供進したといふが、前は神領の山を獵したのである。其七十五の鹿の頭の中に、必す一つだけ左の耳の裂けたのがまじつてゐた。「兼て神代より贄に當りて、神の矛にかゝれる也」とも謂つて、是だけは別の俎の上に載せた。諸國里人談には「兩耳の切れたる頭一つ」とあつて、何れが正しかを決し難い。兎に角に是は人間の手を以て、切つたので無いから直接の例にはならぬが、耳割鹿で無ければ最上の御贄となすに足らなかつたことは窺はれる。或は小男鹿の八つ耳ともいつて、靈鹿の耳の往々にして二重であつたことを説くのも、斯うして見ると始めて其道理が明かになるのである。
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「信濃國諏訪明神」上社(本宮(ほんみや:長野県諏訪市中洲宮山)・前宮(まえみや:茅野市宮川)と下社
(秋宮(あきみや:諏訪郡下諏訪町武居)・春宮(諏訪郡下諏訪町下ノ原)の四宮がある。四宮の位置は諏訪大社公式サイト内のこちらの地図で確認されたい。同公式サイトの解説は、事典類のようなインキ臭いものではなく、非常にすっきりとしていて一読、なるほど、と感心させられるものなので、以下に引用させて戴く。『信濃國一之宮。神位は正一位。全国各地にある諏訪神社総本社であり、国内にある最も古い神社の一つとされて』いる。『諏訪大社の歴史は大変古く』、「古事記」の『中では出雲を舞台に国譲りに反対して諏訪までやってきて、そこに国を築いたとあり、また』、「日本書紀」には『持統天皇が勅使を派遣したと書かれてい』る。『諏訪大社の特徴は、諏訪大社には本殿と呼ばれる建物が』存在しないことで、『代りに』、『秋宮は一位の木を春宮は杉の木を御神木とし、上社は御山を御神体として拝して』いる。『古代の神社には社殿がなかったとも言われて』いるところから、『諏訪大社はその古くからの姿を残して』いるもので、『諏訪明神は古くは風・水の守護神で五穀豊穣を祈る神』、『また』、『武勇の神として広く信仰され』てきたとある。
「東征守護の神にて、桓武帝の時、田村將軍これを建(たつ)るなり」これは全く誤った聞書きで、古社である諏訪明神に失礼な記載である。ウィキの「諏訪大社」によれば(下線やぶちゃん)、『祭祀が始まった時期は不詳。文献上は』「日本書紀」の持統天皇五(六九一)年八月の条に『「信濃須波」の神を祀るというのが初見であ』り、『古くから軍神として崇敬され、坂坂上田村麻呂が蝦夷征伐の際に戦勝祈願をしたと伝えられる』とあって、田村麻呂が桓武天皇に重用されて征夷大将軍として蝦夷征伐に出たのは延暦二〇(八〇一)年(二月十四日進発・「日本略記」には同年九月二十七日、「征夷大将軍坂上宿禰田村麿等言ふ。臣聞く、云々、夷賊を討伏す」とある)のことである(但し、先立つ八年前、延暦一二(七九三)年に、当時の征夷大将軍であった大伴弟麻呂(おとまろ)の副使(副将軍)として同行、蝦夷征討の従軍経験はあった)。
「健御名方命〔たけみなかたのみこと〕」ウィキの「タケミナカタ」によれば、「古事記」では『大国主神(オオクニヌシ)の御子神で、事代主神(コトシロヌシ)の弟神とする』。『しかし』、『大国主神の系譜を記した箇所にはタケミナカタの記載がないため』、『母は明らかでない』。「先代旧事本紀」の「地祇本紀(地神本紀)」では、『大己貴神(大国主)が高志沼河姫(こしのぬなかわひめ)を娶って生まれた一男が建御名方神であるとする』とある。「古事記」では彼は『葦原中国平定(国譲り)の場面で記述されている。これによると、建御雷神(タケミカヅチ)が大国主神に葦原中国の国譲りを迫った際、大国主神は御子神である事代主神(コトシロヌシ)が答えると言った。事代主神が承諾すると、大国主神は次は建御名方神が答えると言った』。『建御名方神は巨大な岩を手先で差し上げながら現れ、建御雷神に力競べを申し出た。そして建御雷神の手を掴むと、建御雷神の手は氷や剣に変化した。建御名方神がこれを恐れて下がると、建御雷神は建御名方神の手を握りつぶして放り投げた。建御名方神は逃げ出したが、建御雷神がこれを追い、ついに科野国(信濃国)の州羽海(すわのうみ:諏訪湖)まで追いつめて建御名方神を殺そうとした。その時に、建御名方神はその地から出ない旨と、大国主神・八重事代主神に背かない旨、葦原中国を天つ神の御子に奉る旨を約束したという』。但し、この話は「日本書紀」には『記載されていない』。
「八坂入姫命〔やさかのいりひめのみこと〕」誤まり。建御名方神の妃神は八坂刀賣命 (やさかとめのみこと)で、八坂入姫命はその妹の名とされるものである。ウィキの「八坂刀売神」によれば、『記紀神話には見られない神であり、諏訪固有の神とも考えられる』とあり、『父は天八坂彦命であり』、『妹に八坂入姫命がいるとされる』ともある。但し、「入姫」と「刀賣(売)」の文字や発音はどこか近似的で、間違えてもおかしくはない。
諏訪湖の御神渡は、上社に祀られている建御名方神が下社の八坂刀売神の下を訪れる際にできたものであるという伝説がある。
「上諏訪に七不思議あり」「諏訪法人会」公式サイト内の「諏訪の七不思議」によれば、諏訪に古来より伝わる七不思議伝承があり、これに関わる形で、別に『七木・七石という霊木霊石があ』ったという。『これらは鎌倉末期の文献に「上社物忌令」に見えているのが最初であると』される『が、諏訪地方に於ける宗教思想の期限は』、『遠く』、『石器時代に於ける原始的』信仰にまで溯る『ことができる』もので、この七不思議とそれに関連する名数も、そうした古代信仰としての『自然崇拝、動植物崇拝、呪物崇拝等であったと考えられ』るとある。以下、そこに出る「諏訪の七不思議」を、まず、引く。
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①湖水御神渡
『諏訪湖の御神渡のことであり、湖の氷が南北に割れる、その割れた方向によりその年の富凶を知る、湖氷の御渡は上社の神が下社の女神の許に通い給うのだ』、『という信仰がある』。
②蛙狩(かわずがり)神事(上社)
『諏訪上社の正月元旦(早朝の神事、上社前の御手洗川(みたらしがわ)で元旦朝氷を割って蛙狩りをする。これは「的始め」「生贄始め」として』、『小弓で射って神前にささげる』。
③五穀(ごこく)の筒粥(つつがゆ)(下社)
『正月十四日夜より十五日暁にかけて』、『葦を束ねて米と炊けば、葦の筒の中に粥が入り、葦の中に入った五穀によって作毛の善し悪しを占う』。所謂、全国的に見られる「粥占」神事である。
④高野(こうや)の耳裂け鹿(上社)
『毎年四月十五日酉の祭りがおこなわれるが、その時集まる鹿の中に』、『必ず』、『耳の裂けた鹿がいる』。
⑤葛井(くずい)の清池(せいち)
『毎年十二月大晦日の夜半、一年中』、『上社に捧げた幣を』、『この池に投げ込めば、翌朝』、『遠州の国佐奈岐(さなぎ)の池に浮くという』。
⑥御作田(みさくだ)
『六月十日に田植えをすると』、『七月下旬』、『これを刈り取り、八月一日に神前に供することができ、六十日で実る』。
⑦宝殿(ほうでん)の天滴(てんてき)(上社)
『上社の』宝殿『はどんな干天のおりにも、水滴が落ちるといわれる。雨乞のおりにも』、『この天水を青竹に頂いて帰り、神事をすると』、『必ず』、『雨が降ると伝えられている』。
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また、ウィキの「諏訪大社七不思議」には、以下の上社と下社に伝わる七不思議、重複を除くと、十一の不思議があるとする。
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○上社版七不思議
①元朝(がんちょう)の蛙狩(かわずが)り
蛙狩神事において、御手洗川の氷を割ると必ず二、三匹のカエルが現れる(先に示した蛙狩神事そのものを指すこともある)。
②高野の耳裂鹿
御頭祭(おんとうさい)では神前に七十五頭の鹿の頭を供えたが、毎年、必ず、一頭は耳の裂けた鹿がいたという。ウィキの「諏訪大社」によれば、御頭祭は四月十五日に『上社で行われる祭』で、『現在では、鹿や猪の頭の剥製が使われているが、江戸時代に菅江真澄の残した資料に、白い兎が松の棒で串刺しにされたものや』、『鹿や猪の焼き皮と海草が串に刺さって飾られていたり、鹿の脳和え・生鹿・生兎・切兎・兎煎る・鹿の五臓などが供され、中世になると』、『鹿の体全体が供され、それを「禽獣の高盛」と呼んだという内容が残っている』とある。
③葛井の清池
茅野市・葛井神社の池に、上社で一年使用された道具や供物を大晦日の夜に沈めると、元旦に遠州(静岡県)の佐奈岐池に浮く。また、この池には池の主として片目の大魚がいるとされている。
④宝殿の天滴
どんなに晴天が続いても、上社宝殿の屋根の穴からは一日に三粒の水滴が、必ず、落ちてくる。日照りの際には、この水滴を青竹に入れて雨乞いすると、必ず、雨が降ったと言われる。
⑤御神渡
⑥御作田の早稲(わせ)
藤島社の御作田は六月三十日に田植えをしても七月下旬には収穫できたと言う。六月三十日の田植え神事そのものを指すこともある(下社の同じ名数とは厳密には違っているという)。
⑦穂屋野の三光
御射山祭(みさやまさい)の当日は、必ず太陽・月・星の光が同時に見えると言う。ウィキの「諏訪大社」によれば、御射山祭は『上社の狩猟神事。中世には年』四回、『八ヶ岳の裾野で巻き狩り祭を行い、御射山祭はその中で最も長く』五『日間続いた。青萱の穂で仮屋を葺き、神職その他が参籠の上』、『祭典を行なうことから「穂屋祭り」の名称もある。鎌倉時代に幕府の命で御射山祭の費用を信濃の豪族に交代負担することが決められ、参加する成年期の武士(と馬)はこの祭で獲物を射止めることで一人前の武士、成馬として認められたという』。『またこの祭の起こりとして、南北朝時代の』「神道集」の「諏訪大明神秋山祭のこと」によれば、『「平安時代初期、坂上田村麻呂が蝦夷征討のため信濃まで来た際、諏訪明神が一人の騎馬武者に化身して軍を先導し、蝦夷の首領悪事の高丸を射落としたので田村将軍がとどめを刺すことが出来た。将軍がこの神恩に報いるため』、『悪事の高丸を討ち取った日を狩猟神事の日と定め、御射山祭の始めとなった。この縁日』(旧暦七月二十七日)『になると』、『討ち取られた高丸の怨霊が嵐を起こすといわれる」という伝説を伝えている。現在はこの祭はずっと小規模になっている』とある。
●下社版七不思議
①根入杉
秋宮境内の大杉。丑三つ時になると、枝を垂らして鼾(いびき)をかいて寝たという。
②湯口の清濁
八坂刀売命が下社に移る時、化粧用の湯を含ませた綿を置いた場所から温泉が湧き出したという伝承。現在の下諏訪温泉で、この湯に邪悪な者が入ると、湯口が濁ると伝えられている。
③五穀の筒粥
春宮境内筒粥殿で行われる行事。一月十四日から十五日にかけて、炊いた小豆粥で一年の吉兆を占う。
④浮島
たびたび氾濫した砥川(とがわ)にあって、決して土が流れず、無くならなかった島のこと。
⑤御神渡
⑥御作田の早稲
⑦穂屋野の三光
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而して、ウィキの「諏訪大社七不思議」では、現在、一般的な「諏訪の七不思議」は、
①御神渡
②元朝の蛙狩り
③五穀の筒粥
④高野の耳裂け鹿
⑤葛井の清池
⑤御作田の早稲
⑥宝殿の天滴
とする。とすると、以上と本文の七不思議で齟齬するのは、本文最初の「官影(みやのかげ)」という「普賢堂の板壁に、穴あり。紙をあてゝ日にうつせば、下のすはの三重の塔、うつる。其間、一里なり」というものと、最後の「冨士移ㇾ湖(ふじうつるみづうみ)」の「湖上に冨士の影、うつるなり。【甲斐一國をへだつ。其間に高山多く有り。】」で、これは孰れの内容とも近似しない(「湯山」の「湯山より、おつる所の口をふさげば、湯、落〔おち〕ず」は「下社版七不思議」の「②湯口の清濁」と親和性がある。下諏訪温泉は諏訪大社下社(春宮・秋宮)の周辺や諏訪湖湖畔に約二十軒の温泉旅館が現存し、共同浴場である「旦過(たんが)の湯」の源泉は鎌倉時代に寺湯として使われた歴史があることから、開湯はそれ以前と考えられている(ここはウィキの「下諏訪温泉」に拠った)。この「湯山」というのははっきりしないが(東北に丸山という山はある)、地上にちょろちょろと湧き出ているその山の湯口を塞ぐと、温泉全域の湯が止まってしまうというのであろう)。前者が今に伝わらないのは腑に落ちる。その「普賢堂」なるものが、最早、存在しないからである。現在の諏訪大社上社には嘗て神仏習合時代、戦国時代までは元別当寺の神宮寺があって(社伝によれば空海の創建とする)、本宮の周囲に大坊・上ノ坊・下ノ坊・法華寺の上社四寺のほか、多くの坊があって、普賢堂・五重塔・二王門といった伽藍もあったことが絵図によって判っている。私が非常にお世話なっている、s_minaga 氏のサイト「がらくた置場」の「信濃諏訪大明神神宮寺(上宮神宮寺・下宮神宮寺)」にあるこの絵図で見ると、普賢堂は、この絵図上では、障害物なく、五重塔のすぐ左手に描かれてあるから、一里隔たっていても、ピン・ホール・カメラの原理で映って、なんら、これ、不思議ではない。なお、後者は、湖面に映らないまでも、諏訪湖湖岸(北西岸)からは九十八キロメートル弱離れた富士山が実際に見えるのである。葛飾北斎の「富嶽三十六景」の「信州諏訪湖」にもはっきり遠景に富士が描かれている。Hajime HAYASHIDA 氏のサイト「富士山のページ」の「諏訪湖から見る富士」を見られたい(実写真の他、歌川広重「富士三十六景 信州諏訪之湖」や渓斎英泉の「木曾街道六十九次 塩尻嶺 諏訪ノ湖水眺望」も見られる)。
「すはの海衣が崎に來て見れば冨士の浦こぐあまの釣舩」秋里籬島(あきさとりよう)の「木曾路名所圖會」(文化二(一八〇五)年版)の巻之四の「須波乃湖(すはのうみ)」のこちら(早稲田大学図書館古典総合データベースの同書の画像)の右頁末)に出る一首。その本文に若桜宮天皇(誰これ?)御製とも弘法大師作ともする怪しげなものである。]