北條九代記 卷第十二 安藤又太郎叛逆
○安藤又太郎叛逆
元亨元年十二月、相州高時が計(はからひ)として、常盤駿河守範貞を京都に上洛せしめ、六波羅に居(す)ゑて守らしめ、北條英時を鎭西の探題とす。高時が管領、長崎入道圓喜、既に老耄(らうまう)の氣(け)あるに依て、子息新左衞門尉高資に管領を讓りて[やぶちゃん注:底本は「讓」は「護」であるが、特異的に訂した。]隠居しけり。高資、大に奢(おごり)を極め、國家の政道を雅意に任せ、萬民の愁憂を思計(おもひはか)らず、重欲無道なるを以て、諸將、請侍、恨(うらみ)を含み、憤(いきどほり)を懷き、その逆威(ぎやくゐ)を振ふ事を、目覺しく思はぬ人はなし。爰に前代義時の世に、奥州津輕に居置(すゑお)かれし安藤八郎が末葉に、五郎三郎某(なにがし)と、同名又太郎助淸(すけきよ)と云ふは、從父昆弟(いとこ)にて、門族を相續し、鎌倉の命(めい)を守りける所に、領地に付きて、境目を論じ、互に怒を起し、中、不和になりければ、雙方、是を鎌倉に訴へ、長崎新左衞門尉に賄(まひなひ)を入れて、下知を待つ所に、高資、過分の財寶を雙方より取りければ、是に依(よつ)て、理非の決斷、更に日を重ね、月を越えたり。かの兩人、中々、退屈して、訴論を捨てて津輕に歸り、一味與黨の溢者(あぶれもの)を招集(まねきあつ)め、兩家、相別れて、軍(いくさ)に及び、關八州の騷動となる。高時、聞きて、使を遺し、雙方を宥(なだ)めらるゝに、其令命をも用ひず、終に五郎三郎は討たれたり。郎從、家人等は散々になる。又太郎助淸、年來の本望は遂げたりけれども、鎌倉の仰(おほせ)を背きける上は、行末、然るべからず。又、「如何樣(いかさま)にも子細あるべし。」と聞えければ、又太郎、思ひけるやう、『鎌倉より、討手を下され、手籠(てごめ)になりて死なんよりは、運に任せて、世の中を騷(さはが)し、重欲不道の長崎高資に、年比の恨(うらみ)を散じて死なばや。』と思ひければ、一味同心の輩を語(かたら)ふに、鎌倉に恨ある者、我も我もと馳集(あせあつま)り、七、八百人になりしかば、我が館(たち)に要害を構へ、近郷の土民・百姓等が貯へ置きたる米穀を奪捕(うばひとつ)て、館に運入(はこびい)れければ、兵粮(ひやうらう)は卓散(たくさん)[やぶちゃん注:「澤山」。豊富にあること。]なり、要害は嚴かりけり。鎌倉より討手を下して攻めらるれども、寄手の軍勢のみ、多く亡びて、仕出したることもなく、退屈してぞ覺えける。城中に強きを見て、山林嘯聚(せうじゆ)の惡黨共、四方より來て、寄手の陣に夜討(ようち)を致し、打立て、追拂(おひはら)ひける程に、鎌倉へ使者を遣し、加勢を請うひけれども、高資は、「何程の事かあるべき。」とて、取合(とりあ)はず、是ぞ、天地の命(めい)を革(あらた)むべき危機の始(はじめ)なる。『北條家の元祖義時の世より、數代相續して、四海八方、鎌倉の下知を守りて、忠義をこそ存じけれ、背く者は無(なか)りしに、長崎高資が政道、邪(よこしま)なる故に、武威、忽ちに輕(かろ)くなりける驗(しるし)なり。』と、古老、深慮の諸將諸士は、歎き思ふも多かりけり。
[やぶちゃん注:「元亨元年十二月」元亨元年は一三二一年。但し。「十二月」は「十一月」の誤り。
「常盤駿河守範貞」北条範貞(?~正慶二/元弘三年五月二十二日(ユリウス暦一三三三年七月四日))は極楽寺流の支流の常盤流の当主。父は、北条重時の曾孫である時範。ウィキの「北条範貞」によれば、『北条貞時が得宗家当主であった期間内』(一二八四年~一三一一年)『に元服し、「貞」の偏諱を受けたとみられる』。正和四(一三一五)年、『引付衆に任じられ』、『幕政に参画』、翌五年に従五位上に昇進し、元応二(一三二〇)年には『評定衆に補充され』ている。この元亨元年から『六波羅探題北方に任命され』て『上洛し』、元徳二(一三三〇)年に『北条仲時と交替するまで』、九『年間』、『務めた。同年、帰還した鎌倉で三番引付頭人に就任し』ている。なお、彼が駿河守に任ぜられたのは、これより八年後の元徳元(一三二九)年である。「太平記」によれば、『新田義貞による鎌倉攻めに際し』、『東勝寺合戦』で『他の北条一族と共に自害して果てた』。同じく、「太平記」では『北条貞将と共に六波羅探題留任の要請を謝絶したこと、謀叛の廉で捕らえられた二条為明への尋問を行い、為明の披露した歌を聞き、無実であると裁定を下して釈放したことなどが記されている』とある。
「北條英時」北条(赤橋)英時(?~正慶二/元弘三年五月二十五日(一三三三年七月七日)。父は、北条長時の曾孫北条久時。幕府最後の執権となった北条守時の弟。ウィキの「北条英時」によれば、この時、阿曾随時の後を受けて鎮西探題に任じられて博多に赴』いた。『鎌倉幕府討幕運動が九州にまで及ぶと、その鎮圧に努め』、正慶二/元弘三(一三三三)年三月十三日には、『後醍醐天皇の綸旨を受けて攻めてきた菊池武時を』、『少弐貞経や大友貞宗らと共に返り討ちにして敗死させ、さらに英時の養子で肥前守護の規矩高政に』、『菊池氏や阿蘇氏をはじめとする反幕府の残党勢力の追討』を『務めさせ』、三月二十六日には、『松浦氏に大隅・野辺・渋谷などの反幕勢力を攻めさせた』。『しかし』、『このため』に『博多の防備が極めて手薄になり』、四月七日に『安芸の三池氏らを招集』、『博多防衛に当た』らせることとなった。五月七日、『京都で六波羅探題が足利尊氏らによって陥落させられた情報が九州にまで届くと、それまで従順であった貞経や貞宗、さらには島津貞久らが離反して攻め』寄せ、『英時は懸命に防戦したが敗れ』『5月25日に博多にて金沢種時』『をはじめ』、一族二百四十名(三百四十名ともする)『と共に自害した』。『得宗の北条高時など主だった北条一門が鎌倉で自害して滅んだ』三『日後のことであった』とある。『英時は和歌に優れた教養人でもあり、『松花和歌集』や『続現葉和歌集』、『臨永和歌集』などには多くの作が収められ、鎌倉時代末期の九州二条派の和歌界の中心だったという』。『作家の吉川英治は『私本太平記』中で「難治の地である九州で』十『年以上も探題職を務めた英時の能力・人望は余人に秀でていた。後日、足利尊氏が九州で勢いを盛り返した際にも、英時の義弟(尊氏の正室・赤橋登子は英時の妹)であるという点が九州諸豪族の心を動かす一因となったのではないか」と考察している』ともある。
「長崎入道圓喜」既出既注。
「子息新左衞門尉高資」長崎高資(?~正慶二/元弘三年五月二十二日(一三三三年七月四日))は、北条氏得宗家の被官である御内人・内管領で、その先代であった長崎円喜の嫡男。ウィキの「長崎高資」により引いておく。『幕府の実権を握って父と共に権勢を振るった』。ここで記されている時制より少し前、正和五(一三一六)年頃には、父『円喜から内管領の地位を受け継ぎ』、『幕府の実権を握っ』ていたものと思われる。「保暦間記」によれば、元亨2(1322)年頃に発生した、この『奥州安藤氏の内紛に際し、当事者双方から賄賂を受け取り、その結果紛争の激化(安藤氏の乱)を招いたという』。嘉暦元(一三二六)年には、『出家した執権北条高時の後継をめぐり』、『得宗家外戚の安達氏と対立し、高資は高時の子邦時が長じるまでの中継ぎとして北条一族庶流の金沢貞顕を執権としたが、高時の弟泰家らの反対により』、『貞顕はまもなく』(執権就任から僅か十日後であった)『辞任して剃髪、赤橋守時を執権とした(嘉暦の騒動)。嘉暦元年時点で、それまで御内人が就任する事はなかった幕府の評定衆となっている』。元弘元(一三三一)年には『高資の専横を憎む高時』が、『その排除を図ろうとしているという風説が広まり、高資の叔父とされる長崎高頼等、高時側近が処罰される。高時は自らの関与を否定し』、『処分を免れたが、権力を極めた高資に対しては』、最早。『得宗家』『も無力であった』。元弘三/正慶二(一三三三)年五月、『新田義貞に鎌倉を攻められた際、子の高重や北条一族と共に鎌倉東勝寺にて自害して果てた』。
「奥州津輕に居置(すゑお)かれし安藤八郎」「安藤太郎」或いは「安藤太」の誤り。義時の代官として蝦夷管領となったことを指す。ウィキの「安藤氏」の「蝦夷管領」の項によれば、「保暦間記」によれば『北条義時の頃、安藤五郎』『が東夷地の支配として置かれたとされ』るが、「諏方大明神画詞」では、奥州『安倍氏の後胤である安藤太が蝦夷管領となったとされている。これらの史料から安東氏は、鎌倉中期頃から陸奥に広範囲の所領を有した北条氏惣領家(得宗)の被官(御内人)として蝦夷の統括者(蝦夷沙汰代官職)に任ぜられ』、『北条氏を通じて』、『鎌倉幕府の支配下に組み込まれていったものと考えられている』とある『なお、得宗被官としての「階層」は得宗家より送り込まれた津軽曾我氏らより』、『下位であるとする見解』『
がある』とし、また、「日蓮聖人遺文」の「種種御振舞御書」には建治元(一二七五)年)のこととして、『「安藤五郎は因果の道理を弁へて堂塔多く造りし善人也。いかにとして頸をばゑぞにとられぬるぞ。」との記載がある。これを、真言宗に改宗したため』、『アイヌに殺害されたとする意見』『もあるが、この頃』、『元が樺太アイヌを攻撃したことが元史に記録されていることから、ここでいう「ゑぞ」』は、『アイヌではなく広く北方の異民族と解し』、永仁五(一二九七)年五月に、『安藤氏がアイヌを率いて黒龍江流域に侵攻』、『キジ湖付近で交戦となり』、『元に討たれたのではないかと推察する説』『もある。しかし、安藤氏のアイヌに対する支配関係には疑問も出されている』とある。また、『安藤五郎と安藤太の史料から、元来の惣領家であった五郎家と太郎家が並立していたと想定する見解がある』ともあり、『また、西浜安藤氏と外の浜安藤氏の並立を前提に、安藤氏の乱の前に「蝦夷管領」の座が』、『外の浜安藤氏から西浜安藤氏に一時移っていたとする説もある』と記す。
「五郎三郎某(なにがし)」安藤季久(生没年未詳)のこと。鎌倉末期の武将で北条得宗家御内人。ウィキの「安藤季久」によれば、『安藤宗季と同一人物とする見解が有力』だが、『別人とする説もある』。『本姓は安倍』。『従兄弟とも従兄弟の子とも伝わる安藤季長と蝦夷代官職を争い、安藤氏の乱を引き起こした』。『季長との争いは』、文保二(一三一八)年『以前から続いていたと見られている。ここにあるように元亨二年には、『得宗家公文所の裁定にかけられた』ものの、『内管領の長崎高資が双方から賄賂を受け』、『双方に下知したため』、『紛糾したと』される。『季久は、得宗家により』正中二年六月六日(一三二五年七月十六日)に『蝦夷代官職を与えられたが、このこともあり』、『安藤氏の内紛から』、『季長の得宗に対する反乱に繋がったと見られている』。「諏訪大明神絵詞」には『両者の根拠地が明確には書かれていないが、同時代文書によれば』、『季長は西浜折曾関(現青森県深浦町関)、季久は外浜内末部(現青森市内真部)に城を構えて争ったと見られている』一方、『季久の本拠地を西浜とする説』『もある』という。『季長は得宗家の裁定に服さず』、『戦乱は収まらなかったため』、嘉暦元(一三二六)年に『御内侍所工藤貞祐が追討に派遣された』。同年七月、『貞祐は季長を捕縛し』、『鎌倉へ帰還したが、季長の郎党季兼や悪党が引き続き蜂起し』、同二(一三二七)年には、『幕府軍として宇都宮高貞、小田高知、南部長継らが派遣され』ている。翌三年に至って、漸く『安藤氏の内紛は和談が成立し』ている。
「同名又太郎助淸(すけきよ)」安藤季長(生没年未詳)のこと。鎌倉末期の武将で北条得宗家御内人。一部、内容がダブるが、ウィキの「安藤季長」を引いておく。『別名を宗季とする説があるが、多数説は宗季を後述の安藤季久の別名とする』。『父は安藤堯秀(季盛・貞季)や安東季俊とする系図があるが』、『信憑性に乏しく』、『詳細は不明。本姓は安倍』。『蝦夷代官職として津軽地方を中心として宇曾利郷などの地頭代職として得宗領の管理等を行ったが、蝦夷の反乱を抑えきれず、従兄弟とも父の従兄弟とも伝わる安藤季久と蝦夷代官職などを争い、安藤氏の乱を引き起こした』。『季長と季久の内紛と、それが泥沼化したことは、鎌倉幕府に騒乱を平定する力がないことを内外に示し、その威信を低下させることに繋がった』。『安藤氏の内紛は御内人の内紛であり、これを幕府の力だけでは処理しきれず、御家人の助力を得なければならなかったことは、得宗専制の崩壊を象徴するものであったと指摘される』とある。まさに本章で最後に「古老」(幕府古参の老臣)や諸将・諸侍の言っていることそのものである(しかし正直、こちらも、また、引かなかったウィキの「安藤氏の乱」も、結局、同一人物がそのウィキを主に執筆しているようで、内容も表現も三つで甚だダブっていて、一本読めば、それでこと足りる感じではある)。
「從父昆弟(いとこ)」「いとこ」は四文字へのルビ。
「一味與黨の溢者(あぶれもの)を招集(まねきあつ)め、兩家、相別れて、軍(いくさ)に及び、關八州の騷動となる」教育社新書の増淵勝一氏訳の割注では、従兄弟同士の両者の戦闘開始を元亨二(一三二二)年春とする。また、「關八州」は『陸奥五十二郡』の誤りとされておられる。
「子細」ここは「具体的な処罰」の意。]
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