子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治三十一年 俳人のみの歌会
俳人のみの歌会
三月二十五日、はじめて子規庵に歌会を開いた。会する者居士をはじめ、碧梧桐、虚子、露月、墨水、秋竹、遠人(把栗)の諸氏で、秋竹氏の外は悉く「百中十首」の選に当った人ばかり である。十題を課して作歌を試みたが、この記事はどこにも発表されなかった。漱石氏宛の手紙に「先日はじめて歌の會を催し候。會するものは矢張俳句の連中のみ」とあるのはこの事である。居士の企てた最初の歌会であり、何か期するところがあったのかも知れぬが、一回催したきりであとが続かなかった。
『日本』紙上には引続き歌が掲げられた。これらの歌の中には「百中十首」当時に已に出来ていたものもないではなかったが、多くは季節の進むに従って新に詠んで行ったもののようである。一回分の歌が八首に限られているのは、多分『日本』の原稿紙が十八行であった関係であろう。俳句において一題十句を試みたと同じく、同題の下に変化を求め、和歌の内容を豊富ならしめようとした迹が認められる。
故郷の梅の靑葉の下陰に衣浣(あら)ふ妹の面影に立つ
綠立つ庭の小松の末低み上野の杉に鳶の居る見ゆ
夕顏の苗賣りに來し雨上り植ゑんとぞ思ふ夕顏の苗
神鳴のわづかに鳴れば唐茄子(とうなす)の臍とられじと葉隱れて居り
うたゝ寐(ね)のうたゝ苦しき夢さめて汗ふき居れば薔薇の花散る
「百中十首」時代よりも更に自然に近づき、題材を自己の身辺に求めようとする傾向が見える。「神鳴」の歌は「狂體」とあるが、こういう滑稽味は在来の歌人の多く関知せざるところであった。俳諧より脱化し来ったものであろう。
歌論の方も「人々に答ふ」で一段落を告げたらしく、その後暫くの間『日本』に何も由ていない。厄月の五月も無事通過することが出来た。五月二十九日漱石氏宛の手紙に「此頃は庭(には)前に椅子をうつして室外の空氣に吹かるゝを樂み申候」とある通り、天気がよければ庭に出ることを楽(たのしみ)にしていたようである。「椅子を置くや薔薇に膝の觸るゝ處」「若葉陰袖に毛蟲をはらひけり」などとも詠んでいる。一年前の五月とは大変な相違である。
歌に没頭しているように見えた時代といえども、居士は俳句を抛擲(ほうてき)しているわけではなかった。『ホトトギス』には「試問」「輪講摘録」「俳句分類」などを続載する外、「卜筮(ぼくぜい)十句集を評す」とか、「拝啓」などという文章を掲げたこともある。「拝啓」は後の『ホトトギス』によく書いた「消息」の類で、消息文の体を以て近況を伝えたものである。居士が私信以外に病状を細叙したのは、この一篇がはじめであろう。足の立たぬ病牀で仕事を続ける苦痛と不便は少くないが、「物に負けてしまふ事は大嫌ひて、此苦しさに苦しめられながら全く負けてはしまはず、苦しさの中にて出来るだけの仕事を致し居候」ともいっている。「其仕事と申すは固より俳句のみにあらざれども、縱(よ)し俳句ばかりとするも小生の一生(縱令(たとひ)長生するとも)に餘る程の仕事を控へ居候。俳句を作り俳論を草する外に俳句分類に従事致居候。常の人ならば今日の仕事もすんだからこれから人の内へ話しに行かうとか、寄席に行かうとか、散步に行かうとか、酒飮みに行かうとかいふ場合に小生は俳句分類に取り掛り候。今日は日曜だから一日遊んでしまふといふ處ならば、今日は一日分類をやつて遊べといふやうな事に相成候」ともある。歌及歌論を連載する間も、『日本』の俳句は常のように出ていた。一月に「明治三十年の俳句」を掲げた以来、俳論が『日本』に出なくなっただけのことである。
[やぶちゃん注:「卜筮(ぼくぜい)十句集」不詳。]
『ホトトギス』の「試問」は四月に至って「或問(わくもん)」となった。人の問に答えたもので、前の「俳句問答」後の「随間随答」と同じ形式であるが、問の短く答の長いのを特色とする。「或問」は二回で止んだけれども、『ホトトギス』誌上に最も多く筆を執る者は、他の健康者でなしに病牀の居士であった。
『日本』『ホトトギス』以外にも、居士はいくつか書いたものを発表している。雑誌『韻文学』に出た「曝背間話(ばくはいかんわ)」(三月)[やぶちゃん注:「曝背」は「日向ぼっこ」の意。]、『中学新誌』に出た「すゞし」(七月)、『反省雑誌』に出た「十年前の夏」(同)などがそれである。歌に関して『日本』に活動を続ける外、俳句方面の仕事を大体『ホトトギス』に集中し、なおかつ余力を他の雑誌に及ぼす居士の精力は驚歎の外ないが、縦横にその筆を揮(ふる)い得ただけ、この年の居士は健康状態がよかったものと見なければならぬ。
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