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2018/05/17

進化論講話 丘淺次郎 第十五章 ダーウィン以後の進化論(5) 五 ローマネスとヘルトヴィッヒ

 

     五 ローマネスヘルトヴィッヒ 

 

 所謂新ダーウィン派の説に反對する學者はなかなか大勢あつて、專門の學術雜誌上で之を攻擊した人も餘程澤山にあるが、纏まつた書物を書いて、その中でウォレースヴァイズマン等の説を駁したのは、イギリスローマネスドイツヘルトヴィッヒなどである。また近頃ではヘッケルの後を次いでエナ大學の動物學教授になつたプラーテもその著「淘汰説」の中にヴァイズマンの説を排斥して居る。

[やぶちゃん注:「ローマネス」ジョージ・ジョン・ロマネス(George John Romanes  一八四八年~一八九四年)はカナダ生まれのイギリスの進化生物学者・生理学者。ウィキの「ジョージ・ロマネス」によれば、『比較心理学の基盤を作り、ヒトと動物の間の認知プロセスと認知メカニズムの類似性を指摘した。姓は』ローマネスや『ロマーニズとも表記される』。『彼はチャールズ・ダーウィンの学問上の友人の中でもっとも若かった』(ダーウィンより三十九歳歳下)。『進化に関する彼の見解は歴史的に重要である。彼は新たな用語「ネオダーウィニズム」を提唱した。それはダーウィニズムの現代的に洗練された新たな形を指す用語として、今日でもしばしば用いられている。ロマネスの早すぎる死はイギリスの進化生物学にとって損失であった。彼の死の』六『年後にメンデルの研究は再発見され、生物学は新たな議論の方向へ歩み出した』。『ロマネスはカナダのオンタリオ州キングストンで、スコットランド長老派の牧師ジョージ・ロマネスの三男として生まれた。二歳の時に両親はイギリスに帰国し、彼はその後の人生をイギリスで過ごした。当時の英国の博物学者の多くと同様、彼も神学も学んだが、ケンブリッジで医学と生理学を専攻することを選んだ。彼の一家は教養があったが、彼自身の学校教育は風変わりであった。彼はほとんど学校教育を受けず、世間について知識がないまま』、『大学に入学し』、一八七〇年に卒業した。『最初にチャールズ・ダーウィンの注意をひいたのはケンブリッジにいるときであった。ダーウィンは「あなたがとても若くて大変嬉しい!」と言った。二人は生涯』、『友人でありつづけた。生理学者マイケル・フォスターの紹介で、ロマネスはユニバーシティ・カレッジ・ロンドンのウィリアム・シャーペイとジョン・バードン=サンダーソンのもとで無脊椎動物の生理学について研究を続け』、一八七九年、三十一歳の『時にクラゲの神経系の研究を評価され、ロンドン王立協会の会員に選出された』。『しかしロマネスの、経験的なテストよりも、逸話的な証拠を重視する傾向は心理学者ロイド・モーガンによって警告され』てういる。『青年であった頃、ロマネスは敬虔なキリスト教徒だった。そして最後の病気の間に、いくらか』、『信仰を取り戻したようであるが、彼の人生の半ばはダーウィンの影響によって不可知論者であった』。『彼が晩年に書いた未完の原稿では、進化論が宗教を捨てさせたと述べている』。『ロマネスは死去する前にオックスフォード大学で公開講座を開始した。それはしばらく後にロマネス・レクチャーと名付けられ、現代でも引き続き行われている』。一八九二年の『初回には首相グラッドストンが、第二回には友人のトマス・ハクスリーが講義を行った。テーマは科学だけでなく、政治、芸術、文学など幅広い。チャーチルやルーズベルト、ジュリアン・ハクスリー、カール・ポパーなども講義を行っている』。『ロマネスは』、『しばしば進化の問題に取り組んだ。彼はほとんどの場合、自然選択の役割を支持した。しかし彼はダーウィン主義的進化に関する次の三つの問題を認めた』。『自然の中の種と人工的な品種の変異の量の違い。この問題は特にダーウィンの研究に関連する。ダーウィンは進化の研究に主に家畜動物の変異を扱った』。『同種を識別するために役立つ構造は、しばしばどんな実用的な重要性も持たない。分類学者は分類の目安にもっとも目立ちもっとも安定した特徴を選んだ。分類学者には役に立たなくても、もっと生き残りに重要な形質があるかも知れない』。『自由交配する種がどのようにして分裂するかという問題。これは融合遺伝に関する問題で、ダーウィンをもっとも困らせた問題である。これはメンデル遺伝学の発見によって解決され、さらに後のロナルド・フィッシャーは粒子遺伝が量的形質をどのように生み出すかを論じた』。『ダーウィンはその有名な本のタイトルに反して自然選択がどのように新種を造り出すのかを明らかにしなかったが、ロマネスはこの点を鋭く指摘した。自然選択は』、『明らかに適応を作り出すための「機械」であり得たが、新種を造り出すメカニズムは何か』? という疑問への『ロマネス自身の回答は「生理的選択」と呼ばれた。彼の考えは、繁殖能力の変異が親の形態の交雑防止の主な原因で、新種の誕生の主要な要因である、ということだった』但し、『現在、多数派の見解は地理的隔離が種分化の主要な要因(異所的種分化)で、交雑種の生殖能力の低下は第二以降の要因と考えられている』とある。

「ヘルトヴィッヒ」オスカー・ウィルヘルム・アウグスト・ヘルトウィヒ(Oskar Wilhelm August Hertwig(一八四九年~一九二二年)はドイツの発生学者・細胞学者。イェナ・チューリヒ・ボン各大学で医学・動物学を学び、イェナ大学では先に出たエルンスト・ヘッケルに師事した。一八七五年イェーナ大学講師となり、六年後に教授に就任、その後、ベルリン大学の解剖学及び進化学教授となった(一八八八年~一九二一年)。受精に於いて、精子と卵子のそれぞれの細胞核が合体することを発見し、また、生殖細胞が造られる際の細胞分裂で、染色体の数が半減し、受精によって元の数に戻ることを明らかにした。これらの発見は、形質の遺伝を決定する物質が染色体に存在することを示唆するものであり、遺伝学の形成に大きな影響を与えた。また、発生学での業績も多く、胚を構成する個々の細胞の性質は、その細胞に含まれる物質によってではなく、それが胚全体の中で占める位置によって決定されると主張した。進化に関しては、獲得形質の遺伝を認め、淘汰説を批判している(以上は主に「ブリタニカ国際大百科事典」に拠ったが、以下は「岩波生物学辞典」第四版・小学館「日本大百科全書」及びドイツ語ウィキ()等を参照に付け加えた。後文で言及されるからである)。彼の弟リチャード・ウィルヘルム・カール・テオドール・リッター・フォン・ヘルトウィヒ(Richard Wilhelm Karl Theodor Ritter von Hertwig 一八五〇年~一九三七年)も動物学者で、兄とともに多くの研究を行った。ケーニヒスベルク(現在のロシア領カリーニングラード)・ボン・ミュンヘンの各大学の教授を歴任、兄とともに体腔説を提唱した。また、無脊椎動物の諸類、特に原生動物の研究から細胞学の研究に進んだ他、カエルの性に関する研究なども行っている。一八九一年に書いた動物学の教科書Lehrbuch der Zoologieは名著の誉れが高い。

「プラーテ」ルートヴィッヒ・ヘルマン・プラーテ(Ludwig Hermann Plate 一八六二年~一九三七年)はドイツの動物学者。ヘッケルの後を継いでイェナ大学教授(一九〇九年)となり、ヘッケルの創設した「系統博物館」館長となった。輪形動物・軟体動物及びその他の無脊椎動物の系統論的研究を行い、環境の定向的変化との関係に於ける定向進化に注目、「定向淘汰」の語を作った。但し、彼は一方で優生学や人種(民族)衛生学に強い関心を持ち、これは彼をして、ナチズムの反ユダヤ主義政策を積極的に推し進める役割を担ってしまった。]

 

Romanes[ローマネス]

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像を明度を上げて補正して使用した。裏の字が透けるため、補正を加えた。本図は学術文庫版では省略されている。] 

 

 ローマネスは今より三十四年ほど前に「ダーウィン及びダーウィン以後」と題する三册續の書物を書いた。その第一册にはダーウィン自身の説いた通りを紹介し、先づ生物進化の證據を列べ、終りに自然淘汰説の大要を述べたもので、圖畫なども澤山に插し入れ、その頃の最も新しい材料を選んで用ゐ、文句も極めて平易に書いてあるから、進化論の一般を知りたい人が始めて讀むには最も適當な書物であらう。實はダーウィン自身の書いた「種の起源」を讀むよりは、先づこの書を讀んだ方がダーウィンの説が明瞭に解る位である。第二册にはダーウィン以後の進化論が述べてあるが、その大部分はウォレースヴァイズマンとの説の批評で、所謂新ダーウィン派の議論の穩當でない所を指摘してその誤れる點を明に示して居る。第三册目はたゞ或る假説を述べてあるだけで、最も重要な部分ではない。ローマネスは今より三十二年前に僅に四十六歳で世を去つた。上述の書物の第三册目は、死後友人の手で纏めたものである。

[やぶちゃん注:「ダーウィン及びダーウィン以後」一八九二年から一八九七年まで五年かけて刊行したDarwin, and after Darwin。] 

 

 ローマネスがこの書の中に書いたことは、たゞダーウィン自身の説を紹介し、ダーウィン以後に出た進化に關する學説を批評しただけで、別に新しい説を發表したのではないから、こゝには改めて述べる程のこともないが、その要點を摘んでいへば、やはりダーウィン自身と同じく生物の進化は自然淘汰と後天的性質の遺傳とによつて起るとの考であつた。ローマネスは特に心理學の方面に興味を持ち、「動物の智惠の進化」・「人間の智惠の進化」・「動物の知力」などといふ書物を著したが、孰れも頗る面白いものであつた。若し長命であつたならば、更に有益な研究が出來たであらうと思ふと、彼が比較的若くて死んだことは實に惜まざるを得ない。

[やぶちゃん注:「動物の智惠の進化」一八八三年刊のMental evolution in animals, with a posthumous essay on instinct by Charles Darwin(「動物の精神上の進化、及びチャールズ・ダーウィンの本能に関する死後に刊行されたエッセイについて」)。

「人間の智惠の進化」一八八八年刊のMental evolution in Man

「動物の知力」以上の著作より前の一八八一年に刊行したAnimal Intelligence(「動物の知能」)。] 

 

 ドイツにはヘルトヴィッヒといふ有名な生物學者が兄弟二人あつて、兄はベルリン大學に、弟はミュンヘン大學に教授を務めて居るが、その中、兄の方は先年初めに「細胞と組織」と題し、後に「生物學通論」と改めた極めて興味ある書物を著し、その中に「生物發生説」といふ假説を掲げた。この假説は實驗上確に知れたことだけを基として、餘り甚だしく想像を加へてない故、ヴァイズマン説の如く細かい所まで完結したものでもなければ、またかの如く著しい特徴もないが、或はそれだけ眞に近いものかも知れぬ。全體、この書は頗る面白く出來て居るが、全く專門的のもの故、一通り組織學・細胞學・發生學等を修めた者でなければなかなか解りにくい。その中の生物發生説も同樣で、その大部分は全く細胞・組織等に關することであるが、ヴァイズマンとは反對で、生物の身體を生殖物質と身體物質とに分ける如きことを爲さず、後に子となる部分も、他の働きを爲す體部も、最初は全く同性質であるが、發生の進むに從い、その間に次第に相違が生じて相別れたものであると論じ、隨つて遺傳に就いての説もヴァイズマンとは正反對で、やはりヘッケルローマネススペンサー等と同じく、親が外界から受けた身體上の影響は確に子孫にも傳はると論じて居る。

[やぶちゃん注:『兄の方は先年初めに「細胞と組織」と題し、後に「生物學通論」と改めた極めて興味ある書物を著し』前者は一八九二年から一八九八年まで五年をかけて刊行したDie Zelle und die Gewebe、後者はそれの第二版に当たる一九〇六年刊のAllgemeine Biologie。] 

 

 またウォレースヴァイズマン等の新ダーウィン派と反對の極端論には、コープオズボーンの等の如き化石學者が主として唱へる説がある。之は所謂新ラマルク派の議論で、生物の進化には自然淘汰位では到底間に合わぬ。寧ろ主として一代每に新に獲た性質が遺傳して進化し來つたのであらうと説いて居る。また之とは別に、生物各種にはそれぞれ進化し行くべき方角が僅め定まつて居て、眞直にその方に向うて進んで行くと論ずる人もある。尚やう々な議論があるが、煩はしいから他は略する。

[やぶちゃん注:「コープ」エドワード・ドリンカー・コープ(Edward Drinker Cope 一八四〇年~一八九七年)はアメリカの古生物学者・比較解剖学者。定向進化論者であり、その仮説「コープの法則(Cope's law)」(同じ系統の進化の過程に於いて大きなサイズの種がより新しい時代に出現する傾向があるとする法則)に名を残している。彼の事蹟はウィキの「エドワード・ドリンカー・コープを参照されたい。

「オズボーン」ヘンリー・フェアフィールド・オズボーン(Henry Fairfield Osborn 一八五七年~一九三五年)はアメリカの古生物学者・地質学者・優生学論者でもあった。ウィキの「ヘンリー・フェアフィールド・オズボーンによれば、一八七七年、『プリンストン大学を卒業後』、『イギリスに渡り、動物学者の』『バルフォア』や『ハクスリーらに師事した。帰国後』、一八八三年、『プリンストン大学の比較解剖学の教授に』、一八九一年には『コロンビア大学の生物学の教授に就任し、また』、一八九六年からは『動物学の教授を務めた』。一八九一年には『アメリカ自然史博物館のキュレーター』(学芸員としての専門職と管理職の兼帯職)『に就任し、自らが長を務める古脊椎動物部門を設置』、一九〇八年から一九三三年の『長きに』亙って『館長を務め、在任中には同博物館に世界最高レベルの化石コレクションを収集した』、一八七七年の『コロラド州とワイオミング州を筆頭に、北アメリカ西部をはじめアジア、アフリカに意欲的に化石発掘団を派遣した』。研究の専門は化石哺乳類(サイ、ブロントテリウム、長鼻類、ウマ)で』、『これらの研究から適応放散、平行進化などの概念を立てた。 また、数多くの恐竜類の命名、記載者としても知られ』、『ティラノサウルス・レックス』(爬虫綱双弓亜綱主竜形下綱 恐竜上目竜盤目獣脚亜目テタヌラ下目 Tetanuraeティラノサウルス上科ティラノサウルス科ティラノサウルス属Tyrannosaurus rex)、『ペンタケラトプス』(恐竜上目鳥盤周飾頭亜目角竜(ケラトプス)下目ケラトプス科カスモサウルス亜科ペンタケラトプス属 Pentaceratops)、『ヴェロキラプトルなど』(テタヌラ下目ドロマエオサウルス科ヴェロキラプトル亜科ヴェロキラプトル属 Velociraptor)は皆、彼の命名になる。『特にデイノドンの可能性があった』『標本に対し、より状態の良い標本に響きもよいティラノサウルス・レックス(暴君竜の王)をあたえ』、『普及させた功績は大きい』。『自身の研究活動や、研究支援活動を通じてアメリカの古脊椎動物学の発展に大きく貢献し指導的立場にあった。本人も大いに自負し』、『時には尊大と思われる行為も行ってはいるが』、『評価は得ている』。『一方で』、『オズボーンの寄与には』、現在は『ほとんど評価を受けていないものもある。化石哺乳類とくに絶滅長鼻類の研究から、今日では疑わしい説とされるラマルキズムに傾倒した定向進化説を支持したことや、そこから派生した優生学に関する活動がこれらに該当する』とある。私は不学にして、かの知られた恐竜の命名者である、この古生物学者を全く知らなかった。]

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