雨の日 中原中也
雨 の 日
通りに雨は降りしきり、
家々の腰板古い。
もろもろの愚弄の眼(まなこ)は淑やかとなり、
わたくしは、花瓣の夢をみながら目を覺ます。
*
鳶色の古刀の鞘よ、
舌あまりの幼な友達、
おまへの額は四角張つてた。
わたしはおまへを思ひ出す。
*
鑢の音よ、だみ聲よ、
老い疲れたる胃袋よ、
雨の中にはとほく聞け、
やさしいやさしい唇を。
*
煉瓦の色の憔心の
見え匿れする雨の空。
賢(さかし)い少女(をとめ)の黑髮と、
慈父の首(かうべ)と懷かしい……
[やぶちゃん注:これも幼年記憶の追幻想の一篇である。
「腰板」(こしいた)とは、建物の壁面の仕上げや構造が上部と下部で異なる場合の下部の壁面を「腰」と称し、その腰の部分に張られた板を「腰板」と称する。腰羽目(こしばめ:壁の下部に板を平らに張ったもの。「羽目」は当て字で動詞「塡(は)める」の連用形由来とされる)としてよく用いられ、壁の下部を保護するとともに意匠的意味を持つ。腰板の上部に「笠木(かさぎ)」を、下部に「添え木」を施すのが通例(小学館「日本大百科全書」他に拠った)。
「淑やか」「しとやか」と読む。
「古刀」音数律のリズムから見て「こたう(ことう)」と訓じていよう。新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」では『刀』でこれなら「かたな」であるが、残念ながら、同書は本詩集「在りし日の歌」を底本としているから、ただの脱字である。
「舌あまり」舌が短くて一部の発音が上手くいかない「舌足らず」の反対で、舌が長過ぎるために同様の現象が起こる、そうした長い舌、などと、まことしやかにネット上に書かれてあるが、「舌足らず」は「舌が短いために発音がおかしいこと」の意ではなく、一部の発音が正常に出来ないことをかく言っているに過ぎない。「舌あまり」は恐らくその方言であろう(但し、「日本国語大辞典」には載らない)。
「鑢」「やすり」と読む。
「煉瓦の色の憔心の」「憔心」は「せうしん(しょうしん)」であるが、一般的な熟語ではない。「憔」は「憂い悩む」であるから「憔悴した心」の状態をさすとは読める。無論、ここは「見え匿れする雨の空」の眼前の暗く重い雨空の感覚的形容であり、謂わずもがな、同時に主人公の心象風景の反転画像である。]