雪の賦 中原中也
雪 の 賦
雪が降るとこのわたくしには、人生が、
かなしくもうつくしいものに――
憂愁にみちたものに、思へるのであつた。
その雪は、中世の、暗いお城の塀にも降り、
大高源吾の頃にも降つた……
幾多々々の孤兒の手は、
そのためにかじかんで、
都會の夕べはそのために十分悲しくあつたのだ。
ロシアの田舍の別莊の、
矢來の彼方に見る雪は、
うんざりする程永遠で、
雪の降る日は高貴の夫人も、
ちつとは愚痴でもあらうと思はれ……
雪が降るとこのわたくしには、人生が
かなしくもうつくしいものに――
憂愁にみちたものに、思へるのであつた。
[やぶちゃん注:古代までの溯る部分はないが、中也得意の自由な時間遡上を通して、しんしんと降る自然の雪のイメージの中を、過去の歴史の映像が自在にモンタージュされ、時空を超えた惨めな人間たちの儚い人事の憂愁が綴れ織りされている。
「大高源吾」(おおたかげんご 寛文一二(一六七二)年~元禄一六(一七〇三)年二月四日)は「赤穂義士」の一人で播磨赤穂藩主浅野長矩(ながのり)家臣。名は忠雄。源吾は通称。俳人でもあり、子葉と号し、蕉門の榎本其角とも親交があった。大石内蔵助良雄の吉良邸討入りを果たした後、長矩の眠る泉岳寺へ入った際、泉岳寺では彼を知る僧から一句を求められ、
山をさく刀もおれて松の雪
の一句を残している。大石の嫡男で数え十六であった大石主税(ちから)良金(よしかね)らとともに芝三田の伊予松山藩第四代藩主松平定直の中屋敷へ預けられた。彼は松平家預かりの浪士十人の最後に切腹の座についたが、そこで、
梅で吞む茶屋もあるべし死出の山
の一句を残している。松平家家臣の宮原頼安の介錯で切腹。享年三十二(以上はウィキの「大高忠雄」を参照した)。中也は「雪」から雪後の討ち入りを連想すると同時に、俳人としても優れていた彼へのシンパシーもあったのであろうと思われる。サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説によれば、本篇は昭和一一(一九三六)年三月頃の作であるとあるから(初出は同年五月号『四季』)、中也満二十九の直前で、大高の逝った年齢にも近い。
「ロシアの田舍の別莊の……」因みに、ロシア革命でのソヴィエト政権樹立(十月革命)はユリウス暦一九一七年十月二十五日(グレゴリオ暦十一月七日)で、本創作の十九年前になる。ロシアの没落貴族の別荘と雪原のシークエンスの挿入は本篇の夢想を感覚的にもワイドにしている。
「矢來」「やらい」。ここは木を縦横に粗く組んで作った仮囲いの(最早、変革の嵐を防ぐに役立たない)垣根。]