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2018/05/26

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十二年 「曙覧の歌」

 

     「曙覧の歌」

 

 三月に入ってから久々に「病牀譫語(びょうしょうせんご)」という随筆を『日本』に掲げつつあった居士は、その稿の了らぬうちに、「曙覧(あけみ)の歌」なるものを載せはじめた。居士が実朝以後においてすぐれた歌人を求めんとし、作品を点検しては失望を繰返していた消息は、「曙覧の歌」冒頭にある数行の文字がよくこれを伝えている。

[やぶちゃん注:「曙覧」橘曙覧(たちばな あけみ 文化九(一八一二)年~慶応四(一八六八)年)は幕末の歌人・国学者。ウィキの「橘曙覧」より引く。身近な言葉で日常生活を詠んだ和歌で知られる。『越前国石場町(現・福井県福井市つくも町)に生まれる。生家は、紙、筆、墨などや家伝薬を扱う商家で、父親は正玄(正源とも表記)五郎右衛門。彼は長男として生まれ、名は五三郎茂時。後に、尚事(なおこと)、さらに曙覧と改名する。橘諸兄の血筋を引く橘氏の家柄と称し、そこから国学の師である田中大秀から号として橘の名を与えられた』。二『歳で母に死別』、十五『歳で父が死去。叔父の後見を受け、家業を継ごうとするが、嫌気をさし』、二十八『歳で家督を弟の宣に譲り、隠遁。京都の頼山陽の弟子、児玉三郎の家塾に学ぶなどする。その後、飛騨高山の田中大秀に入門し、歌を詠むようになる。田中大秀は、本居宣長の国学の弟子でもあり、曙覧は、宣長の諡号「秋津彦美豆桜根大人之霊位」を書いてもらい、それを床の間に奉って、独学で歌人としての精進を続ける。門弟からの援助、寺子屋の月謝などで妻子を養い、清貧な生活に甘んじた。当初足羽山で隠遁していたが』、三十七『歳の時、三ツ橋に住居を移し、「藁屋」(わらのや)と自称した』。四十三『歳の時、大病をし、名を曙覧と改めた』。安政五(一八五八)年には、「安政の大獄」で謹慎中の松平慶永(文政一一(一八二八)年~明治二三(一八九〇)年:第十六代越前福井藩主。号の「春嶽」の方が知られる。幕府が朝廷の勅許なしでアメリカとの日米修好通商条約を調印した際、徳川斉昭らとともに登城をして抗議したことを不時登城の咎とされて強制的に隠居させられて謹慎の処罰を受けていた。後、文久二(一八六二)年四月に幕政参加を許された)『の命を受け、万葉集の秀歌を選んだ。曙覧の学を慕った春嶽は』元治二・慶応元(一八六五)年、『家老の中根雪江を案内に「藁屋」を訪れ、出仕を求めたが、曙覧は辞退した』。慶応四年八月二十八日(一八六八年十月十三日)に亡くなったが、この十日後、明治に改元された。『橘曙覧の長男、井手今滋(いましげ)は父の残した歌をまとめ』、明治一一(一八七八)年に「橘曙覧遺稿 志濃夫廼舎歌集」(しのぶのやかしゅう)を編纂した。正岡子規はこれに注目』、ここにある通り、明治三二(一八九九)年、『日本』紙上に『発表した「曙覧の歌」で、源実朝以後、歌人の名に値するものは橘曙覧ただ一人と絶賛し、「墨汁一滴」において「万葉以後において歌人四人を得たり」として、源実朝・田安宗武・平賀元義とともに曙覧を挙げている。以後、子規およびアララギの影響下にある和歌史観において重要な存在とな』った。「志濃夫廼舎歌集」には『「独楽吟」(どくらくぎん)がある。清貧の中で、家族の暖かさを描き、次のような歌がある』。

 

たのしみは妻子(めこ)むつまじくうちつどひ頭(かしら)ならべて物をくふ時

たのしみはまれに魚烹(に)て兒等(こら)皆がうましうましといひて食ふ時

たのしみは空暖(あたた)かにうち晴(はれ)し春秋(はるあき)の日に出(い)でありく時

たのしみは心にうかぶはかなごと思ひつゞけて煙艸(たばこ)すふとき

たのしみは錢なくなりてわびをるに人の來たりて錢くれし時

 

以上の引用歌は所持する「橘曙覧全歌集」(一九九九年岩波文庫刊)と校合した。

 以下は国立国会図書館デジタルコレクションの大正一一(一九二二)年アルス刊「竹里歌話 正岡子規歌論集」の「曙覧の歌」(全文が読める)と校合した(「曙覧の歌」は「青空文庫」のでも読めるが、新字新仮名である)。底本では頭の一字下げがなく、全体が二字下げである。前後を一行空けた。]

 

 予の初めて歌を論ずる、或人予に勸めて、俊賴集、文雄集、曙覽集、を見よといふ。其斯くいふは三家の集が尋常歌集に異なる所あるを以てなり。先づ源俊賴の『散木奇歌集』を見て失望す。いくらかの珍しき語を用ゐたる外に何の珍しき事もあらぬなり。次に井上文雄(いのうへふみを)の『調鶴集(てうかくしふ)』を見て亦失望す。これも物語などにありて普通の歌に用ゐざる語を用ゐたる外に何の珍しき事もあらぬなり。最後に橘曙覽の『志濃夫廼舍(しのぶのや)歌集』を見て始めてその尋常の歌集に非ざるを知る。其歌、『古今』『新古今』の陳套に堕ちず、眞淵・景樹の窠臼(くわきう)に陷らず、『萬葉』を學んで『萬葉』を脱し、鎖事俗事を捕へ來りて、縱橫に馳驅(ちく)する處、却て高雅蒼老(こうがさうらう)些(いささか)の俗氣を帶びず。殊にその題目が風月の虛飾を貴ばずして、直(ただち)に自己の胸臆(きようおく)を攄(し)く者、以て識見高邁、凡俗に超越する所あるを見るに足る。而して世人は俊賴と文雄を知りて、曙覽の名だに之を知らざるなり。

[やぶちゃん注:「窠臼(くわきう)」(現代仮名遣:かきゅう)は文章・芸術品などを批難する場合に用い、「旧套・紋切り型」の意。「窠」は、木瓜(もっこう)とも称し、瓜(うり)を輪切りにした形に似た文様や紋所を指す。一説には蜂の巣の形ともいう。「臼」はそれを「繰り返し搗き捺(お)した(もの)」というステロタイプのことであろうか。

「俊賴」「源俊賴」(天喜三(一〇五五)年頃~大治四(一一二九)年)は平安後期の歌人。大納言源経信の子。近衛少将・左京権大夫・木工頭(もくのかみ)を歴任、従四位上に至った。白河院より命を受け、「金葉和歌集」を撰している。進歩的で清新な歌風で、勅撰集に約二百首の和歌が選入されている、院政期を代表する大御所的存在であった大歌人。ここに出る「散木奇歌集」は自選歌集。全十巻で千六百二十二首を載せる。大治三(一一二八)年頃の成立。作者一生の総決算ともいうべき家集である。「散木」は俊頼が木工頭であったことから謙遜して称したもの。「小倉百人一首」の第七十四番歌、

 

憂かりける人を初瀨の山おろしよはげしかれとは祈らぬものを

 

や歌学書「俊賴髓腦」(天永四・永久元(一一一三)年成立か)でよく知られる。

「文雄」「井上文雄」(ふみお 寛政一二(一八〇〇)年~明治四(一八七一)年)幕末から明治初めの田安家侍医で歌人。通称は元真。文雄は法号。岸本由豆流(きしもとゆずる)に国学を学び、後、一柳千古(いちやなぎちふる)の門下となり、医師を辞めた後は日本橋茅場町に住んで、歌人として立ったが、維新後、時局諷刺の新聞『諷歌新聞』を発行して明治政府を批判し、幕府や会津藩士に同情する歌を発表したことから、政府に睨まれ、獄に投ぜられたこともあった(老身ゆえ間もなく許されたという)。「万葉集」を理想とした賀茂真淵の説に反対し、「古今和歌集」を尊ぶ香川景樹の説を支持した。江戸派の最後を飾る歌人で、「香川景樹以後の詠み口」とも称された。個性を重視し、用語の自由を主張して和歌の革新を用意したと評される。佐々木弘綱(信綱の父)は彼の門下である。ここに出る私歌集「調鶴集」(慶応四・明治元(一八六八)年成立)は短歌九百十七首・連歌二首・長歌五首を収録する。子規はぼろ糞に言っているが、中には、

 

さくらちり鈴菜こぼるる田舍道これより春も暮れてゆくらむ

 

などの写実的な歌もある(以上は小学館「日本大百科全書」を主として、一部で水垣久氏のサイト「やまとうた」の「井上文雄」を参照した)。

「鎖事」瑣事に同じ。

「高雅蒼老(こうがさうらう)」「蒼老」は対象が年経た、年老いた様子をしていることを言う語であるが、ここは謂わば、「燻し銀」の意でとればよかろう。

「胸臆(きようおく)を攄(し)く者」胸の裡(うち)を表出するところのもの。「攄」(音「チョ」)は「表わす・述べる」の意。]

 

 居士が俊頼、文雄についていうところは漫然たる罵倒ではなかった。『散木奇歌集』にしろ、『調鶴集』にしろ、居士は皆精読の上、手抄(しゅしょう)を作っている。自己の敬意を払わぬ作家の者に対しても、この種の労を敢てすることは、「俳句分類」や「俳家全集」が蒼虬(そうきゅう)、梅室らの作品を逸しておらぬのと一般である。ただ『歌よみに与ふる書』において大上段に構えた居士としては、『散木奇歌集』や『調鶴集』で満足するわけに行かない。『志濃夫廼舎歌集』に至ってはじめて論ずるに足るものに逢著(ほうちゃく)したのである。

[やぶちゃん注:「手抄(しゅしょう)」自分の手でオリジナルに選んで、直接、抜き書きをすること。そのように抄録したもの。]

 

 「曙覧の歌」は前後九回にわたり、相当長いものであるが、曙覧の人物と歌とを紹介するにはじまり、その歌に対する批評を以て了っている。居士は「曙覽の貧は一般文人の貧よりも更に貧にして、貧曙覽が安心の度は一般貧文人の安心よりも更に堅固なり」といった。曙覽の「独楽唫(どくらくぎん)」の中に饅頭、焼豆腐を詠じていることについて、陽に清貧を楽んで陰に不平を蓄うる似而非(えせ)文人の到底よくせざるところとし、「彼等は酒の池、肉の林と歌はずんば必ずや麥の飯、藜(あかざ)の羹(あつもの)と歌はん。饅頭、燒豆腐を取つてわざわざ之を三十一文字に綴る者、曙覽の安心ありて始めて之有るべし。あら面白の饅頭、燒豆腐や」と断じたのは、俳句の月並に対するのと同じ見解である。

[やぶちゃん注:正直言うと、私は正岡子規の異常な食欲や喰い振り、それを日記に記しているのが、非常に厭である。不快である。その一点に於いて、私は一時期、子規の書を持ちながら、遠ざけていさえした。これは或いは志賀直哉が妻との性交を日記に律儀に『肉』と記し続けたのと変わらぬほどに不快なのである。しかもそこには美食・贅食レベルのものも往々に含まれており、しかも概ね、自分で金を払わぬ贈りものである。それをまた、母や妹に分けずに一人で全部食ってしまうことが多い。それが甚だ腹が立つのである。ここで子規が曙覧を賞揚した核心は、まさにこの「独楽吟」の食通(贅沢品でなくても食通はあり得る)にこそあったのだと私は確信している。因みに、短歌嫌いの私にしては珍しく橘曙覧は好きである。

「更に貧にして、貧曙覽が安心の度は」先のアルス版では『更に貧にして貧、曙覽が安心の度は」となっているが、後の「貧文人」との附け合いから、この方がいい。

「独楽唫(どくらくぎん)」「唫」は「吟」に同じい。「志濃夫廼舎歌集」の「春明艸 第一集」の中にある同題の「たのしみは」で始まって「~とき」で終わる形式で詠んだ連作五十二首。ここで子規は連続する次の三首を掲げている(ここ)。但し、以下は子規のそこからではなく、先の岩波文庫本を漢字を正字化して示した(子規の表記には一部違いがある)。

 

たのしみは木(こ/き)の芽(め)瀹(に)やして大きなる饅頭(まんぢゆう)を一つほほばりしとき

たのしみはつねに好める燒豆腐(やきどうふ)うまく烹(に)たてて食(く)はせけるとき

たのしみは小豆(あづき)の飯(いひ)の冷(ひ)えたるを茶漬(ちゃづ)けてふ物になしてくふ時

 

「木(こ/き)」「こ」は右ルビ、「き」は左ルビ。「木の芽」山椒の芽。「瀹(に)やして」漬(ひた)して。]

 

 居士は進んで「安心の人に誇張あるべからず、平和の詩に虛飾あるべからず」といい、曙覧を以て盲の誇張虚飾なきものとした。松平春嶽が曙覧を聘(へい)せんとし、曙覧が固辞して応じなかった一事を評して「文を賣りて米の乏しきを歎き、意外の報酬を得て思はず打ち笑みたる彼は、此に至つて名利(めいり)を見ること門前のくろの糞(ふん)の如くなりき。臨むに諸侯の威を以てし、招くに春嶽の才を以てし、而して一曙覧をして破屋竹笋(ちくじゆん)の間より起たしむる能はざりし者何が故ぞ」云々と述べたのは、やがて居士自身世に処する態度に触れて来るものでなければならぬ。

[やぶちゃん注:「門前のくろの糞」「くろ」は「畔」「壠」か。これは、①「田と田の間の土の仕切り・畦」、②「平地であるが、少し小高くなった場所」の意があるが、どうも孰れも「門前の」の形容と繋がりが悪く、ピンとこない。方言の一部で「隅・端」の意があるが、これも画像が逸れてしまい、上手くない。しかし、「日本国語大辞典」を見たところ、「藁などを積み上げたところ」を「うろ」と四国で呼ぶことが判った。私はそれが子規の意識の中にあって、「うろの」を「こんもりと盛り上がった」という形容として使用したのではないかと推理した。大方の御叱正を俟つ。]

 

 曙覧の歌が比較的何集の歌に似ているかといえば、いうまでもなく『万葉集』である。曙覧が歌の材料として取り来る者は、多く「自己周圍の活人事(かつじんじ)活風光(かつふうこう)」であって、「題を設けて詠みし腐(くさ)れ花腐れ月」ではない。実地を離れぬ曙覧の歌の中でも、飛驒の鉱山を詠んだ八首の如きは、殊に珍重すべきものであるが、客観的景象を詠ずる点にかけては、新材料を入れた事において、趣味を捉えた事において、『万葉』より一歩を進めると同時に、新言語、新句法を用いた事において、一般歌人よりは自在に言いこなすことが出来た。殊に見る所、聴く所、触るる所悉く歌にする、歌想の豊富なる点にかけては、単調な『万葉』の如きものではない。――居士はこういう風に曙覧を論じて来て、最後に調子の問題に及んだ。全体の調子からいうと、曙覧は『万葉』に及ばず、実朝に劣る、「惜むべき彼は完全なる歌人たる能はざりき」というのである。

[やぶちゃん注:「飛驒の鉱山を詠んだ八首」「志濃夫廼舎歌集」の「松籟艸 第一集」の中の以下。万延元(一八六〇)年、曙覧四十九歳の時、友人の案内で飛驒の銀鉱山の採掘現場を見学した際の、採掘から精錬に至るまでの行程を順に詠んだ連作八首。子規も全首をここで揚げている(但し、前書はカットされている)。以下、先の岩波文庫本を漢字を正字化して示した。

 

  人あまたありて、此わざ物しをるところ、見

  めぐりありきて

日のひかりいたらぬ山の洞(ほら)のうちに火ともし入りてかね掘り出だす

赤裸(あかはだか)の男子(をのこ)むれゐて鑛(あらがね)のまろがり碎(くだ)く鎚(つち)うち揮(ふ)りて

さひづるや碓(からうす)たてゝきらきらとひかる塊(つちくれ)つきて粉(こ)にする

筧(かけひ)かけとる谷水にうち浸(ひた)しゆれば白露(しらつゆ)手にこぼれくる

黑けぶり群(むらが)りたゝせ手もすまに吹き鑠(とろ)かせばなだれ落つるかね

鑠くれば灰とわかれてきはやかにかたまり殘る白銀(しろがね)の玉

銀(しろがね)の玉をあまたに筥(はこ)に收(い)れ荷(に)の緒(を)かためて馬馳(はし)らする

しろがねの荷負へる馬を牽きたてゝ御貢(みつぎ)つかふる御世(みよ)のみさかえ

 

「さひづる」は「から」の枕詞。「手もすまに」手も一時として休めることなしに。]

 

 曙覧の歌は概して第二句が重く、第四句が軽く、結句は力弱くして全首を結び得ぬものが多い。いわゆる「頭重脚軽(とうじゅうきゃくけい)」である。頭重脚軽の歌は『万葉』にないのは勿論、『古今』にもない。徳川時代の末、漸く複雑な趣向を取るに至ってこの風を生じたので、曙覧もまたこれを免れぬ。彼が完全なる歌人たり得ぬのは、調子を解せぬためということになるのである。この調子の問題は居士の最も意を用いたところで、当時の歌壇の多く顧みぬところであった。

 曙覧は居士によって発見された歌人ではないが、大(おおい)に世に顕れるに至ったのは居士の評論が出てからである。居士はとにかくこの人を得て「實朝以後たゞ一人」と称することが出来た。楫取魚彦(かとりなひこ)を「徒(いたづら)に『万葉』の語句を摸して『万葉』の精神を失へる」ものとして斥(しりぞ)け、語句を模せずしてかえって『万葉』の精神を伝えた――思うままを詠んで自ら『万葉』に近づいた曙覧を揚げたところに、居士の進歩的な意見が窺われる。

[やぶちゃん注:以上は、歌」末尾

「楫取魚彦(かとりなひこ)」(享保八(一七二三)年~天明二(一七八二)年)は江戸中期の国学者で歌人。ウィキの「楫取魚彦によれば、『本姓は伊能氏』。『名は景良』。『生れは下総国香取郡佐原(現香取市)。同郷で遠縁の親族が測量家の伊能忠敬(伊能三郎右衛門家)であ』った。『はじめは俳諧をたしなみ、建部綾足の門に入って片歌をつくり、あわせて画を学んだ』。『その後、賀茂真淵に師事して古学を修め、仮名遣いの書「古言梯(こげんてい)」を編集・出版し』、『賀茂真淵の四天王と称揚され』た。]

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