「仰臥漫録」
「墨汁一滴」連載中は、前年のような気力はないにしても、執筆を妨げるほどの容体もなかったらしく、厄月(やくづき)の五月もまたどうやら通過した。『ホトトギス』にも「死後」「吾寒園の首に書す」「病牀俳話」「くだもの」など、比較的多くの文章を発表している。「くだもの」に関する記憶を叙した一篇は、枯淡の基に精彩があり、過去の事実を語っているにかかわらず、現在その境にあるの思(おもい)あらしむるものであった。俳句の選も中途共選となり、共選も困難になって他の選句の上に「規」の一字を記すのみと変ったが、その後は長く選から遠ざからざるを得なかった。但(ただし)鳴雪翁の許(もと)に催される『蕪村句集』輪講だけは、あとから筆記を閲(けみ)して自己の意見を書加えていたようである。
[やぶちゃん注:「死後」は自己の死・葬送空想の恐怖を諧謔的に反転映像させた怪作である(しかし初読時、私は、度に過ぎたその滑稽に、逆に子規の内奥の絶対的に孤独な真正の死への恐怖を哀しく見たのを記憶している)。新字新仮名なら「青空文庫」等にあるが、国立国会図書館デジタルコレクションの画像の「花枕 子規選集」(大正五(一九一六)年新潮社刊)のそれがよかろう。明治三四(一九〇一)年二月初出。
「吾寒園の首に書す」「吾寒園」はこの年の二月一日に亡くなった、既出既注の子規の幼馴染みの友人竹村鍛(きたう 慶應元(一八六六)年~明治三四(一九〇一)年:河東碧梧桐の兄(河東静渓(旧松山藩士で藩校明教館の教授であった河東坤(こん)の号)の第三子で、河東銓(静渓第四子)の兄)。帝国大学卒業後、神戸師範から東京府立中学教員を経て、冨山房で芳賀矢一らと辞書の編集に従事し、亡くなる前年、女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)教授となった。号は錬卿(れんきょう)・黄塔)の作品で、本篇はその追悼文でもある。
「くだもの」新字新仮名なら「青空文庫」にあるが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(明治三七(一九〇四)年俳書堂刊「子規遺稿 第三編 子規小説集」)の画像から正字正仮名で読める。同年四月初出。]
四月中『寒玉集』の第二編が出版され、五月には『春夏秋冬』の春の部が出た。『春夏秋冬』は『新俳句』に次ぐ俳句の選集で、居士は病をつとめて春の部だけの選抜を了え、序及凡例も自ら草した。この序及凡例は『春夏秋冬』の巻首に掲げられるに先って「墨汁一滴」に掲げられた。
[やぶちゃん注:「春夏秋冬」俳句選集。明治三四(一九〇一)年~明治三六(一九〇三)年刊。春・夏・秋・冬と新年の四季四冊。正岡子規一門による『日本』派の句集。子規が撰した春の部より刊行を始めたが、続刊の三冊は子規の病状悪化のため、河東碧梧桐と高浜虚子の二人が共撰した。全体に定型が守られており、穏やかな安定感に富む絵画的な句が多い(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。同「序」は「墨汁一滴」明治三四(一九〇一)年五月十八日クレジット分に載るが、ここでは一つ、所持する「春夏秋冬」復刻版(全四巻)で翻刻しておくこととする(私は近い将来、この「春夏秋冬」全巻も電子化翻刻したいと考えている)。
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春夏秋冬
序
春夏秋冬は明治の俳句を集めて四季に分ち更に四季の各題目によりて編たる一小册子なり。
春夏秋冬は俳句の時代において「新俳句」に次ぐ者なり。
新俳句は明治三十年三川の依托より余の選拔したる者なるが明治三十一年一月余は同書に序して
[やぶちゃん注:以下の引用部は、原典では全体が一字下げ。]
(畧)元祿にもあらず天明にもあらず文化にもあらず固より天保の俗調にもあらざる明治の特色は次第に現れ來るを見る(畧)しかも此特色は或る一部に起りて漸次に各地方に傳播せんとする者この種の句を「新俳句」に求むるも多く得難かるべし。「新俳句」は主として模倣時代の句を集めたるには非ずやと思はる(畧)但特色は日を逐ふて多きを加ふ。昨集むる所の『新俳句』は刊行に際する今已にその幾何か幼稚なるを感ず。刊行し了へたる明日は果して如何に感ぜらるべき。云々
といへり。果して新俳句刊行後新俳句を開いて見る毎に一年は一年より多くの幼稚と平凡と陳腐とを感ずるに至り今は新俳句中の佳什を求むるに十の一だも得る能はず。是に於いて新に俳句集を編むの必要起る。然れども新俳句中の俳句は今日の俳句の基礎をなせる者宜しく相參照すべきなり。
新俳句編纂より今日に至る僅に三四年に過ぎざれども其間に於ける我一個又は一團體が俳句上の經歷は必ずしも一變再變に止まらず。しかも一般の俳句界を槪括して之を言へば「蕪村調成功の時期」とも言ふべきか。
蕪村崇拜の聲は早くも已に明治二十八九年の頃に盛なりしかど實際蕪村調とおぼしき句の多く出でたるは明治三十年以後の事なるべし。而して今日蕪村調成功の時期といふも他日より見れば如何なるべきか固より豫め知る能はず。
太祇蕪村召波几董らを學びし結果は啻に新趣味を加へたるのみならず言ひ廻しに自在を得て複雜なる事物を能く料理するに至り、從ひてこれまで捨てゝ取らざりし人事を好んで材料と爲すの異觀を呈せり。これ余がかつて唱道したる「俳句は天然を詠ずるに適して人事を詠ずるに適せず」といふ議論を事實的に打破したるが如し。
春夏秋冬は最近三四年の俳句界を代表したる俳句集となさんと思へり。しかも俳句切拔帳に對して擇ばんとすれば俳句多くして紙數に限りあり遂に茫然として爲す所を知らず。辛うじて擇び得たる者亦到底俳句界を代表し得る者に非ず。されど若し新俳句を取つて之を對照せば其差啻に五十步百步のみならざるべし。
明治卅四年五月十六日 獺祭書屋主人
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この時分の居士は寝返りすることも困難になっていた。畳に二三ヵ所麻で簞笥の鐶(かん)の如きものを拵え、これにつかまって寝返りを扶けようという方法を講じたことが、五月十日の事を記した「墨汁一滴」にある。苦痛は想像の外である。
[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの「墨汁一滴」初出切貼帳冊子で電子化しておく(一部で濁点を加えた)。
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五月十日、昨夜睡眠不定、例の如し。朝五時家人を呼び起して雨戸を明けしむ。大雨。病室寒暖計六十二度[やぶちゃん注:華氏。十六・六度。]、昨日は朝來引き續きて來客あり夜寢時に至りしため墨汁一滴を認むる能はず因つて今朝つくらんと思ひしも疲れて出來ず。新聞も多くは讀まず。やがて僅に睡氣を催す。蓋し昨夜は背の痛强く、終宵体溫の下りきらざりしやうなりしが今朝醒めきりしにやあらん。熱さむれば痛も減ずるなり。
睡る。目さませば九時半頃なりき。稍心地よし。ほととぎすの歌十首に詠み足し、明日の俳句欄にのるべき俳句と共に封じて、使して神田に持ちやらしむ。
十一時半頃午餐を喰ふ。松魚のさしみうまからず半人前をくふ。牛肉のタヽキの生肉少しくふ、これもうまからず。齒痛は常にも起らねど物を嚙めば痛み出すなり。粥二杯。牛乳一合、紅茶同量、菓子パン五六箇。蜜柑五箇。
神田より使歸る。命じ置きたる鮭のカン詰を持ち歸る。こは成るべく齒に障らぬ者をとて擇びたるなり。
週報應募の牡丹の句の殘りを檢す。
寐床の側の疊に麻もて簞笥の環の如き者を二つ三つ處々にこしらえ[やぶちゃん注:ママ。]しむ。疊堅うして疊針透らずとて女ども苦情たらだらなり。こは此麻の環を余の手のつかまへどころとして寐返りを扶けんとの企なり。此頃体の痛み強く寐返りにいつも人手を借るやうになりたれば傍に人の居らぬ時などのために斯る窮策を發明したる譯なるが、出來て見れば存外便利さうなり。
繃帶取替にかゝる。昨日は來客のため取替せざりしかば膿したゝかに流れ出て衣を汚せり。背より腰にかけての痛今日は強く、輕く拭はるゝすら堪へ難くして絶えず「アイタ」を呌ぶ。はては泣く事例の如し。
浣腸すれども通ぜず。これも昨日の分を怠りしため秘結せしと見えたり。進退谷まりなさけなくなる。再び浣腸す。通じあり。痛けれどうれし。此二仕事にて一時間以上を費す。終る時三時。
著物二枚とも著かふ、下著したぎはモンパ、上著は綿入。シヤツは代へず。
三島神社祭禮の費用取りに來る。一匹やる。
繃帶かへ終りて後体も手も冷えて堪へ難し。俄に燈爐をたき火鉢をよせ懷爐を入れなどす。
繃帶取替の間始終右に向き居りし故背のある處痛み出し最早右向を許さず。よつて仰臥のまゝにて牛乳一合紅茶略同量、菓子パン數箇をくふ。家人マルメロのカン詰をあけたりとて一片持ち來る。
豆腐屋蓑笠にて庭の木戸より入り來る。
午後四時半体溫を驗す、卅八度六分。しかも兩手猶冷此頃は卅八度の低熱にも苦むに六分とありては後刻の苦さこそと思はれ、今の内にと急ぎて此稿を認む。さしあたり書くべき事もなく今日の日記をでたらめに書く。仰臥のまま書き終る時六時、先刻より熱發してはや苦しき息なり。今夜の地獄思ふだに苦し。
雨は今朝よりふりしきりてやまず。庭の牡丹は皆散りて、西洋葵の赤き、をだまきの紫など。
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「西洋葵」は思うに、双子葉植物綱ビワモドキ亜綱アオイ目アオイ科 Malvoideae 亜科フヨウ属アメリカフヨウ(草芙蓉(くさふよう))Hibiscus moscheutos(英語: rose mallow:mallow はアオイ科、或いは特にゼニアオイ(Malvaceae 亜科ゼニアオイ属ゼニアオイ Malva mauritiana を指す語)である)辺りではなかろうか。
なお、この前日のリンク先を見られたい。
やはり、この切貼帳はただものではないのだ! 切貼りではなく、何と! 正岡子規自筆(!)と思しい原稿が貼り付けられてあるではないか!
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●墨汁一滴(五月十一日記) 規
試に我枕もとに一包若干の毒藥を置け。而して余が之を飲むか飲まぬかを見よ。
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この文章を原稿で見ると、痛烈である。]
八月二十六日、子規庵に俳談会なるものが催された。突然の催であったが、それでも二十人ばかり集った。前年末の蕪村忌以来、絶えてなかった会合だけに、はじめて居士を見るというだけで満足した人もあったらしい。席上居士は庭前の糸瓜及夕顔の句を五句ほど作り、これを追加の話題にした。
「仰臥漫録」の筆を執りはじめたのは九月に入ってからである。「仰臥漫録」は居士の日記であるが、単純な日記ではない。三度の食事や間食に至るまで、日々の食物が克明に記されているかと思うと、突として何かの感想が出て来る。画があり、歌があり、句がある。居士の日記として現在伝わっているのは、前にもちょっと記したように、二十五、六年と三十年の一部に過ぎぬが、「仰臥漫録」の内容は従前の日記の如きものではない。人間の手に成ったこの種の記録として、「仰臥漫録」ほど真実味に富んだ、しかも興趣の多いものは他に類例が少いのではあるまいかと思う。
[やぶちゃん注:以下、底本では引用は総て全体が二字下げ。何故か、ネット上には「仰臥漫録」の正字正仮名で読めるデータが画像を含めて存在しないので、「子規居士」で校合した。但し、「子規居士」ではひらがながカタカナであるため、読み易さを第一として、底本のひらがなを原則、採用した。なお、一部、底本は引用に増補がしてある。]
絲瓜の花一つ落つ ○茶色の小き蝶低き雞頭にとまる ○曇る ○追込籠のジヤガタラ雀いつの間にか籠をぬけて絲瓜棚松の枝など飛びめぐるを見つける ○鄰家の手風琴聞ゆ
○ジヤガタラ雀隣の庭の木に逃げる 家人籠の鐡網を修理す ○蟬ツクヽヽボーシの聲暑し ○日照る ○蜻蛉一つ二つ ○揚羽、山女郎(やまぢよらう)或は去り或は來る ○梨をくふ
というような平穏な観察もある。
[やぶちゃん注:九月九日の条より。
「ジヤガタラ雀」既出既注。スズメ目カエデチョウ科キンパラ属シマキンパラ(島金腹)Lonchura
punctulata。インド・スリランカ・東南アジア・中国南部に分布するが、沖縄・神奈川で侵入が確認されている。画像はウィキの「シマキンパラ」を。]
今年の夏馬鹿に熱くてたまらず、新聞などにて人の旅行記を見るとき吾もちよいと旅行して見ようと思ふ氣になる、それも場合によるが谷川の岩に激するやうな涼しい處の岸に小亭があつてそこで浴衣一枚になつて一杯やりたいと思ふた。
『二六』にある樂天の紀行を見ると每日西瓜を食ふて居る、羨ましいの何のてヽ
大阪では鰻の丼を「マムシ」という由、聞くもいやな名なり、僕が大阪市長になったら先づ一番に布令を出して「マムシ」という言葉を禁じてしまふ。
というような超然たる感想もある。
[やぶちゃん注:九月十六日の条より。
「『二六』にある樂天の紀行」大衆紙『二六新報』に記者で門弟でもあった中村楽天が同紙に載せた紀行記事と思われる。中村楽天(慶応元(一八六五)年~昭和一四(一九三九)年)は播磨国辻井村(現在の兵庫県姫路市)出身の俳人でジャーナリスト。本名は中村修一。ウィキの「中村楽天」によれば、明治一八(一八八五)年に上京し、二十六歳の時、『徳富蘇峰の主宰する国民新聞に記者として入社、のち『国民之友』の編集者となる。国木田独歩と交流し』、『青年文学』を刊行している。三十二歳になって『俳句を学び』初め、子規の『ホトトギス』同人となって『子規門として教えを受け』た。明治三一(一八九八)年、『子規が直野碧玲瓏、上原三川とともに出版した「日本派」最初の類題句集『新俳句』(民友社)の編集や刊行にも尽力する。その後、和歌山新報の記者を経て』明治三三(一九〇〇)年に『秋山定輔の二六新報に入社。そこで主宰した二六吟社が楽天の名を高めることにな』った。『二六新報』の『売れ行きも相まって、与謝野寛(のちの与謝野鉄幹)や伊原青々園、喜谷六花など、多くの作家、歌人、俳人を輩出した。子規亡き後は同門である篠原温亭や嶋田青峰が主宰した『土上』の同人となり、晩年は自身も俳誌『草の実』を創刊、主宰した』。『口が悪く』、『皮肉や毒舌を公言して憚らない人物』で、『実際に伊藤博文首相を侮辱した罪で、禁錮』二『ヶ月の刑を受け』、服役した経験がある。なお、彼は『奇しくも』、『師である子規と同月同日の』昭和十四年九月十九日、七十四歳で没している。]
そうかと思うとまた、自分の喰べる梅干の核(ため)から出発して
貴人の膳などには必ず無數の殘物(のこりもの)があつてあたら掃溜(はきだめ)に捨てらるゝに違ひない、肴の骨には肉が澤山ついてゐるであらう、味噌汁とか吸物とかいふものも皆迄は吸ひ盡してないであらう、斯ういふ者こそ眞に天物(てんぶつ)を暴(ぼう)何とかする者と謂ふべしだ。之を彼(かの)孤兒院とか養育院とかに寄附して喰はすやうにしたら善いだらう。自分の内でも牛乳を捨てることが度々あるので、いつでも之を乳のない孤兒に吞ませたらと思ふけれど仕方がない。何か斯ういふ處へ連絡をつけて過を以て不足を補ふやうにしたいものだ。
兵營や學校の殘飯は貧民の生命であるといふから家々の殘飯も集めて廻るわけに行かないだらうか。さう思ふと犬や猫を飼ふて牛肉や鰹節をやるなどは出來たことでない、小鳥に粟をやるさへ無益な感じがする。
という風に、対社会的な意見となって現れることもある。病牀に釘付にされて寝返りも自由に出来ず、日夜呻吟している人の書くものとは思われない。
[やぶちゃん注:九月十九日の条より。
「天物を暴何とかする」は「(天物を)暴殄(ぼうてん)す」であろう。「暴殄」自体が「天の物を損ないたやすこと」或いは「物品を大切にせず、あたら消耗すること」を言い、「殄」は「尽きる・尽くす・絶つ・悉く」の意である。]
病苦の問題にしてもそうである。居士は病のために苦しむことは苦しんでも、病のために役せられてはいない。「をかしければ笑ふ。悲しければ泣く。併し痛の烈しい時には仕樣がないから、うめくか、叫ぶか、泣くか、又は默つてこらへて居るかする。其中で默つてこらえて[やぶちゃん注:ママ。]居るのが一番苦しい。盛んにうめき、盛んに叫び、盛んに泣くと少しく痛が減ずる」と『墨汁一滴』にある通り、強いて平気を装ったりはしないが、病に任しながら時に病を離れるところがある。
[やぶちゃん注:「役せられてはいない」「えきせられてはいない」で使役されて、使われてはいない、の意。
「墨汁一滴」からの引用は四月十九日の全条。ここ。]
こんなに呼吸の苦しいのが寒氣のためとすれば此冬を越すことは甚だ覺束ない。それは致し方もないことだから運命は運命として置いて醫者が期限を明言してくれゝば善い。もう三ケ月の運命だとか半年はむつかしいだらうとか言ふてもらひたい者ぢや。それがきまると病人は我儘や贅澤が言はれて大に樂(らく)になるであらうと思ふ。死ぬる迄にもう一度本膳で御馳走が食ふて見たいなどと云ふて見たところで今では誰も取りあはないから困つてしまふ。若しこれでもう半年の命といふことにでもなつたら足のだるいときには十分按摩してもらふて食ひたいときには本膳でも何でも望み通りに食わせてもらふて看病人の手もふやして一擧一動悉く傍(そば)より扶けてもらふて西洋菓子持て來いといふとまだ其言葉の反響が消えぬ内西洋菓子が山のやうに目の前に出る、カン詰持て來いといふと言下にカン詰の山が出來る、何でも彼でも言ふ程の者が疊の緣(へり)から湧いて出るといふやうにしてもらふ事が出來るかも知れない。
という「仰臥漫録」の一節だけ見ても、居士の心境が如何なるものであったかを知り得るであろう。こう書いた居士がこの年の誕生日に当って岡野の料理を取寄せ、平生看護の労に酬いんがため、特に家内三人でこれを食い、「蓋し亦余の誕生日の祝ひをさめなるべし」として会席膳の献立を記しているのを読むと、われわれも涙なきを得ない。
[やぶちゃん注:前の長い引用は九月二十九日の条より。
「この年の誕生日」これは非常に探しづらい。何故なら、この誕生日は旧暦で換算した日であるからである。正岡子規は慶応三年九月十七日(一八六七年十月十四日)で、明治三四(一九〇一)年の旧暦九月十七日は新暦十月二十八日に当たる。ところが、さらに実は、この年はその誕生日の祝いを繰り上げて、前日に祝っており、宵曲の言っている記載は十月二十七日の内容だからである。やや長いが、「仰臥漫録」の十月二七日と二十八日の記事を翻刻する。岩波文庫版を参考にしつつ、恣意的に漢字を正字化した。
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十月廿七日 曇
明日は余の誕生日にあたる(舊曆九月十七日)を今日に繰り上げ晝飯に岡野の料理二人前を取り寄せ家内三人にて食ふ。これは例の財布の中より出たる者にていささか平生看護の勞に酬いんとするなり。けだしまた余の誕生日の祝ひをさめなるべし。料理は會席膳に五品
○さしみマグロとサヨリ 胡瓜 黃菊 山葵
○椀盛 莢豌豆(さやゑんどう) 鳥肉 小鯛の燒いたの 松蕈(まつたけ)
○口取 栗のキントン 蒲鉾 車鰕(くるまえび) 家鴨 蒲鉾 煮葡萄
○煮込 アナゴ 牛蒡 八つ頭 莢豌豆
○燒肴(やきざかな) 鯛 昆布 煮杏(にあんず) 薑(はじかみ)
午後蒼苔來る。四方太來る。
牛乳ビスケツトなど少し食ふ 晩飯は殆んど食へず。
料理屋の料理ほど千篇一律でうまくない者はないと世上の人はいふ。されど病狀にありてさしみばかり食ふて居る余にはその料理が珍らしくもありうまくもある。平生臺所の隅で香の物ばかり食ふて居る母や妹には更に珍らしくもあり更にうまくもあるのだ。
去年の誕生日には御馳走の食ひをさめをやるつもりで碧四虛鼠四人を招いた。この時は余はいふにいはれぬ感慨に打たれて胸の中は實にやすまることがなかつた。余はこの日を非常に自分に取つて大切な日と思ふたので先づ庭の松の木から松の木へ白木棉を張りなどした。これは前の小菊の色をうしろ側の雞頭の色が壓するからこの白幕で雞頭を隱したのである。ところが暫くすると曇りが少し取れて日が赫とさしたので右の白幕へ五、六本の雞頭の影が高低に映つたのは實に妙であつた。
待ちかねた四人はやうやう夕刻に揃ふてそれから飯となつた。余は皆に案内狀を出すときに土産物の注文をしておいた。それは虛子に「赤」といふ題を與へて食物か玩具を持つて來いといふのであつたが虛子はゆで卵の眞赤に染めたのを持つて來た。これはニコライ會堂でやることさうな。鼠骨は「靑」の題で靑蜜柑、四方太は「黃」の題で蜜柑と何やらと張子の虎とを持つて來た。碧梧桐は茶色、余は白であつたが何やら忘れた。食後次第に話がはずんで來て余は晝の間の不安心不愉快を忘れるほどになつた。余は象の逆立(さかだち)やジラフの逆立のポンチ繪を皆に見せうと思ふて頻りに雜誌をあけて居ると四方太は張子の虎の髯(ひげ)をひねり上げながら「獨逸皇帝だ獨逸皇帝だ」などと言ふて居る。實に愉快でたまらなんだ。
帝だ獨逸皇帝だ」などと言ふて居る。實に愉快でたまらなんだ。
それに比べると今年の誕生日はそれほどの心配もなかつたが余り愉快でもなかつた。體は去年より衰弱して寐返りが十分に出來ぬ。それに今日は馬鹿に寒くて午飯(ひるめし)頃には余はまだ何の食慾もなかつた。それに昨夜善く眠られぬので今朝は泣(な)かしかつた。それでも食へるだけ食ふて見たが後はただ不愉快なばかりでかつ夕刻には左の腸骨のほとりが强く痛んで何とも仕樣がないのでただ叫んでばかり居たほどの惡日であつた。
十月廿八日 雨後曇
午後左千夫來る 丈の低き野菊の類を橫鉢に栽ゑたるを携へ來る
鼠骨來る
包帶取換の際左腸骨邊の痛み堪へ難く號泣又號泣 困難を窮む
この日の午飯は昨日の御馳走の殘りを肴(さかな)も鰕も蒲鉾も昆布も皆一つに煮て食ふ これは昨日よりもかへつてうまし お祭[やぶちゃん注:前日の誕生祝いを指す。]の翌日は昔から さい[やぶちゃん注:「采」。]うまき日なり
晚餐は余の誕生日なればにや小豆飯なり 鮭の味噌漬けと酢の物(赤貝と烏賊)の御馳走にて左千夫鼠骨と共に食ふ
食後話はずむ 余もいつもより容易(たやす)くしやべる 十時頃二人去る
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因みに、「春耕俳句会」公式サイト内の「子規の四季 (73) 2016年10月号 子規の誕生日」には、この「仰臥漫録」を引いて、詳しい説明が載るが、その原文を見ると、岩波版とは表記に異同があり、やはり原文を見たい気がしてきた(「仰臥漫録」を電子化したい強い思いがあるのだが、これでは、正規表現のものをどこかで手に入れなくては、という気がした)。「例の財布」については、『子規が「突飛な御馳走」を食べるための小遣錢が欲しくなり、虛子から借りることにした』二十『圓のうちの』十一『圓と、所藏の俳書すべてを讓渡する約束で、岡麓から受け取った前金』二『圓などを入れて寢床の上にぶら下げていたもの。律が縫った赤と黃の段ダラの袋狀の財布に、麓がくれた更紗の錢入れ袋もそのまま入れてあったらしい』とある。さらに『岡野の料理』二『人前を』三『人で食べたとあるから』、一『人前を子規が食べ、母と妹でもう』一『人前を食べたのであろう。豪華な會席膳は、病床で刺身ばかり食べている子規にも珍味であった。まして平生は香の物ばかりで濟ませている八重と律にとっては、この上ないご馳走であったろう』とある。なお、ここで回想される一年前の誕生日祝いは、正しく明治三三(一九〇〇)年十一月八日(旧暦九月十七日)に行われたが、これは既に先の「最後の写真撮影」にも出た部分である。虚子の持って来たのは、所謂、復活祭の卵、「イースター・エッグ」(Easter egg)である。]