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2018/06/30

大和本草卷之八 草之四 鳥ノ足 (イロロ)

 

【和品】

鳥ノ足 一根ニ枝多シ葉形如海松只甚薄褐色

 鋒兩又アリ煮テ可食

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

「鳥ノ足」 一根に枝多し。葉の形、海松〔(ミル)〕のごとし。只〔(ただ)〕、甚だ薄くして褐色なり。鋒〔(さき)〕に兩〔つの〕又〔(また)〕あり。煮て食ふべし。

[やぶちゃん注:益軒の形状解説及び料理法と、ぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」の「イロロ」のページに、『高知県宿毛市では春にとり』、『乾かして年間を通して食べる。とれる量が少なく食用にする習慣のない愛媛県まで取りに行くこともあるという』。『大分県国東市国東町では採取し、乾燥させて市販されている。これを「とりのあし」という』。『また室町時代の「毛吹草」にもこの言葉があり、この点でもイロロ=「とりのあし」というのは面白い』とあって、「毛吹草」の作者江戸初期の俳人松江重頼(しげより 慶長七(一六〇二)年~延宝八(一六八〇)年)は京都の商人であり、本種の食文化が主に西日本であるように思われること、さらに大分県国東市国東町で本種を食べる習慣が現在もあることが、生涯の殆どを福岡で過ごした益軒と強い親和性を示していると感じられることなどから、これは、

褐藻植物門褐藻綱イシゲ目イシゲ科イシゲ属イロロ Ishige foliacea

と同定してよい。田中二郎解説の「基本284 日本の海藻」によれば、イロロは『春に生育』し、『日当たりのよい潮間帯中部の岩上にイシゲ』(イシゲ属イシゲ Ishige okamurae)『やイワヒゲ』(褐藻綱シオミドロ目カヤモノリ科イワヒゲ属イワヒゲ Myelophycus simplex)『とともに群生する。基部は円柱状で大変に細』く、『葉状部は帯状』を成し、『二叉分岐する。潮が引いて乾燥している状態では真っ黒であるが、水に浸かっているときは濃い褐色をしている。時にイシゲの上に着生することがあり、以前はイシゲと同種ではないかといわれたことがあった。乾燥させて刻んで食する。乾燥させても数日生きている。和名は志摩地方の方言に由来する』とある。なお、ぼうずコンニャク氏は先のページの解説で、『関東では「とりのあし」はユイキリのこと』を指すとも述べられている。紅藻綱テングサ目テングサ科ユイキリ属ユイキリ Acanthopeltis japonica の形状はしかし、益軒の解説とは全く一致しないし、そこに書かれたように食することは考えにくい代物である(田中二郎氏の「基本284 日本の海藻」によれば、ユイキリは寒天原藻の材料となるが、他のテングサ類に比すと質が劣るとある)。

「海松〔(ミル)〕」既出の緑藻植物門アオサ藻綱イワズタ目ミル科ミル属ミル Codium fragile。]

大和本草卷之八 草之四 雞冠菜(トサカノリ)

 

【和品】

雞冠菜 順和名抄ニ出タリ其形雞冠ノ如シ食スヘシ紅

 色也附石而生

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

「雞冠菜(トサカノリ) 順が「和名抄」に出でたり。其の形、雞冠〔(とさか)〕のごとし。食すべし。紅色なり。石に附きて生ず。

[やぶちゃん注:刺身のツマでお馴染みの、紅藻植物門紅藻綱スギノリ目ミリン科トサカノリ属トサカノリMeristotheca papulosa。平凡社刊の田中二郎解説の「基本284 日本の海藻」によれば、『Meristotheca は「分かれた+莢(さや)」』、『papulosa 「乳頭状突起のある」』の意(本邦では同属は二種が知られる)で、『先端の枝分かれ形が、ニワトリの鶏冠』(とさか)『のようなのでこの名がある。平面的に広がる肉質のからだは、生長すると折れやす』くなり、同時に『瘤(こぶ)状の突起がたくさん出る』ようになることや、固体変異がかなりあり、時にかなり特異な形状を呈したりし(後の鈴木雅大氏の解説を参照)、『老成した個体と若い個体で』も『形態がいちじるしく異なることがあ』って、和名のように『鶏冠を連想させる形態は若い時期のものである』とある。『生体は紅色であるが、熱湯を通せば、赤い色素が変成して、葉緑素の色が緑色として残る。さらにそれを水にさらすと、すべての色が溶け出して白くなる。これらを乾燥させたものを組み合わせて、「赤トサカ」、「青トサカ」、「白トサカ」の海藻サラダ』三『点セットとして売られている』とある(後の鈴木氏の説明によれば、現在の三色サラダのそれは『海外から輸入したものが主となっているよう』だとある)。また、『煮出して冷やしかためたものは、「トサカコンニャク」と呼ばれて食用になっている』とある。また、サイト「生きもの好きの語る自然誌」の鈴木雅大氏記載の「トサカノリも参照されたい。そうか、もう、これも、日本ではレッド・リストか。

『順が「和名抄」に出でたり』(国立国会図書館デジタルコレクションの「和名類聚抄」(寛文七(一六六七)板)の当該頁画像)。訓読翻刻しておく。

   *

雞冠菜(トリサカノリ) 楊氏漢語抄に云はく、「雞冠菜」【土里佐加乃里。式文に「坂苔」を用ふ。】。

   *]

大和本草卷之八 草之四 鷓鴣菜(マクリ)

 

【外】

鷓鴣菜 閩書曰生海石上散碎色微黑小兒腹中

 有蟲病少食能愈○甘草ト同煎用ユレハ小兒腹中

 蟲ヲ殺ス初生ニモ用ユ

○やぶちゃんの書き下し文

【外】

「鷓鴣菜(マクリ)」 「閩書〔(びんしよ)〕」に曰はく、『海石の上に生ず。散碎〔(さんさい)し〕、色、微黑。小兒、腹中に蟲病〔(ちうびやう)〕有〔るに〕、少し食へば、能く愈〔(い)ゆ〕。』〔と〕。○甘草と同〔(とも)に〕煎じ用ゆれば、小兒〔の〕腹中の蟲を殺す。初生にも用ゆ。

[やぶちゃん注:ここで記されているものの内、本邦産の「マクリ」についての叙述部分のそれ(益軒は「閩書」(既出既注の明の何喬遠(かきょうえん)撰になる福建省の地誌「閩書(びんしょ)南産志」のこと)のそれも全く同一のものとしているのだが)は、

紅藻植物門紅藻植物亜門真正紅藻綱マサゴシバリ亜綱イギス目フジマツモ科アルシディウム連マクリ属マクリDigenea simplex

ではある(問題あり。後注参照)。

 マクリは「海人草」で「まくり」と読ませるのが一般的で、二〇〇四年平凡社刊の田中二郎解説の「基本284 日本の海藻」によれば、分布は『太平洋沿岸南部、南西諸島』で、大きさは高さ十~二十センチメートル、枝の長さは二~六ミリメートル。『日本には本種のみが知られる。カイニンソウ(海人藻)とも呼ばれ、虫下しの薬として、古くからよく知られた海藻である。岩や、サンゴ礁の死んだサンゴの上に生育する。タイドプールなどにも多い。円柱状のからだには多数の毛状の枝があって、それに小型の藻が、数多く付着することがあり、元の藻体の形状が想像できないほど』、『太くなることがある』とある。他の小型藻類が多数付着していて、生態写真ではどこの部分が「マクリ」の本体か、どのような形状かが正直、全く判らぬ写真が実は多い。そんな中で、目から鱗なのが、サイト「生きもの好きの語る自然誌」の鈴木雅大氏記載の「マクリ」である。是非、参照されたい。その薬効成分はカイニン酸で、ウィキの「カイニン酸によれば、『カイニン酸(Kainic acid)は『結晶性の固体で、水によく溶け』る。昭和二八(一九五三)年に『竹本常松らにより、虫下しとして用いられていた紅藻のマクリ(海人草=カイニンソウともいう、学名Digenea simplex)から発見・命名された。これは、カイニン酸が寄生虫の回虫やギョウチュウの運動を』、『最初』、『興奮させ、のち』、『麻痺させることによる』とされ、『この作用は』『カイニン酸がアゴニスト』(Agonist:生体内の受容体分子に働いて神経伝達物質やホルモンなどと同様の機能を示す、本来、当該生物が体内に保持しない「作動薬」のこと。現実に生体内で働いている、特定の受容体(レセプター:receptor)に特異的に結合する物質の場合はリガンド(ligand)と呼ばれる)『としてグルタミン酸受容体に強く結合し、神経を過剰に興奮させることによって起こる。このため、神経科学分野、特に神経細胞死の研究のために天然抽出物及び合成品が用いられている』とある。

 但し、冒頭の漢名表記が「鷓鴣菜」となっている点と、益軒がそのしょっ鼻に「閩書」を引いている点で、実は大きな問題があるのである。

 まず、「ウチダ漢方和薬株式会社」公式サイト内の「生薬の玉手箱」の「【マクリ】」(同社情報誌『ウチダの和漢薬情報』の平成九(一九九七)年三月十五日号より転載されたもの)に、以下のようにある。

   《引用開始》

 一方、マクリは「鷓鴣菜」の名でも知られますが、鷓鴣菜の名が最初に現れるのは歴代の本草書ではなく、福建省の地方誌である『閩書南産誌』だとされています。そこには「鷓鴣菜は海石の上に生え、(中略)色わずかに黒く、小児の腹中蟲病に炒って食すると能く癒す」とあり、駆虫薬としての効果が記されています。

 わが国におけるマクリ薬用の歴史は古いようですが、駆虫薬としての利用はこの『閩書南産誌』に依るものと考えられ、江戸時代の『大和本草』には、それを引いて「小児の腹中に虫がいるときは少しく(炒っての間違い)食すれば能く癒す」とあります。しかし、引き続いて、「また甘草と一緒に煎じたものを用いれば小児の虫を殺し、さらに初生時にも用いる」とあり、この甘草と一緒に用いるというのは『閩書南産誌』にはないので、この記事は古来わが国で利用されてきた方法が融合したものではないかと考えられます。

   《引用終了》

『「大和本草」の記載もあって、何ら、問題ないじゃないか?』と思われるかも知れぬが、別な生薬解説サイト「健康食品辞典」の「鷓鴣菜」を読むと、「鷓鴣菜」は「マクリ」ではないと書かれてあるのである(下線太字やぶちゃん。読点を追加し、アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部も変更させて貰った)。

   《引用開始》

鷓鴣菜(しゃこさい)

 温暖な地域の沿岸や河口付近に分布する海藻コノハノリ科のセイヨウアヤギヌ(Caloglossa leprieurii)の全藻を用いる。かつて鷓鴣菜を日本の駆虫薬である海人草の別名とする説もあったが、海人草は紅藻類のフジマツモ科のマクリ(Digenea simplex)のことである。ちなみに鷓鴣とは中国南部に生息する鶉に似た鳥のことである。

 アヤギヌは一~四センチメートルくらいの紫色の偏平な海藻で、岩や防波堤に付着している。鷓鴣菜は海人草と同様にカイニン酸を含み、鷓鴣菜の煎液には回虫の駆虫作用が認められる。内服による副作用はほとんどないが、とき下痢、悪心、めまいがみられることがある。

 漢方でも駆虫の効能があり、回虫や蟯虫の駆虫薬として、大黄・甘草と配合して用いる(三味鷓鴣菜湯)。また南西諸島から台湾[やぶちゃん注:「に生息する」の脱文か?]、フジマツモ科のハナヤナギ(Chondria armata)を南西諸島ではドウモイと呼んで、古くから駆虫薬として用いていた。その有効成分はドウモイ酸と呼ばれ、カイニン酸より強力といわれる。

   《引用終了》

ここで挙げられているセイヨウアヤギヌ(西洋綾絹)は、

真正紅藻綱マサゴシバリ亜綱イギス目コノハノリ科アヤギヌ連アヤギヌ属セイヨウアヤギヌ Caloglossa leprieurii

であるが、先の鈴木雅大氏の「セイヨウアヤギヌ」を見られたい。見られれば、マクリとは確かに科のタクソンで違う、全く異なった紅藻であることが判る。鈴木氏の解説によれば、本種は『亜熱帯域や熱帯域に多くみられる紅藻類で,日本では沖縄などの南西諸島に分布してい』るとある(リンク先の画像は、驚くべきことに、静岡県南伊豆町青野川青野川(ここ(グーグル・マップ・データ))河口に棲息しているものの発見の個体群なので、この青野川が「セイヨウアヤギヌの北限」あると言いたくなるところなのだが、実は『青野川河口には』昭和三四(一九五九)年に『種子島から移植されたというメヒルギ』(真正双子葉綱キントラノオ目ヒルギ科メヒルギ属メヒルギ Kandelia obovata)の群落があって、所謂、「マングローブ林」を形成しているという。『アヤギヌ類はマングローブ域に群落を形成する「マングローブ藻類」である』ことから、この『移植したメヒルギにセイヨウアヤギヌの藻体あるいは胞子(果胞子や四分胞子)が付着しており』、『それが青野川河口に移入』・『定着したという可能性が考えられます。青野川の紅藻類の分布や生育状況に関する過去の記録は無いので』、『セイヨウアヤギヌがマングローブの移植前から青野川に自然分布していた可能性も否定出来ませんが』、『現在のところ青野川以外の本州太平洋沿岸や四国沿岸でセイヨウアヤギヌが見つかっていないことから』、『人為的な移入の可能性は低くないと思います。種子島及び南西諸島で採集したセイヨウアヤギヌとの比較』、『特にDNA配列を用いた系統地理学的な解析が必要だと思います』とある。うー、楽しそうだなぁ!)。

 以上から、私は、「閩書南産志」所収の「鷓鴣菜」は「マクリ」ではなく、上記の「セイヨウアヤギヌ」或いは、先のサイトの掲げた植生海域が重なる感じのする、

イギス目フジマツモ科ヤナギノリ連ヤナギノリ属ハナヤナギ Chondria armata

を指しているのではないか? と推理するのである。而して「鷓鴣菜」を無批判に「マクリ」と当て読みして難読文字の読みばかり知っていることを自慢する輩は、同時にそれが生物学的には誤謬であることを合わせて学ぶべきであるとも言っておく。ともかくも大方の御叱正を俟つ。

 最後に。……小学校時代、チョコレートのように加工して甘みで誤魔化した「マクニン」が「ポキール」による回虫検査で卵が見つかった者に配られていたのを鮮明に思い出す。……何故なら、私はあのチョコレートのような奴が欲しくてたまらなかったから。そのために秘かにキールをする時には(リンク先はグーグル画像検索「ポキール」! 懐かしいぞう!!)、回虫の卵がありますようにと願ったものだった。……遂にその願いは叶わなかったから、私は今も、あの「マクリ・チョコレート」の味を、知らないのである…………

 

「鷓鴣菜」この「鷓鴣」(しやこ(しゃこ))とは、広義にはキジ目キジ科Phasianidae の鳥のうちでウズラ(ウズラ属ウズラ Coturnix japonica)より一回り大きく、尾が短く、茶褐色の地味な色彩をしたものの一般的な呼称である。狭義にはキジ科シャコ属Francolinusに含まれる四十一種を指すものの、このシャコ類は殆んど本邦に棲息していないから、この「鷓鴣」を日本人は鶉の別称的なニュアンスにイメージするに過ぎぬと私は思っている。因みに、これが「閩書南山志」(「閩」は現在の福建省にあった旧国名)を始めとする、中国(特に南部)での呼称であるとするならば、私は極めて高い確率で、この「鷓鴣」は中国南部・東南アジア・インドに棲息するシャコ属コモンシャコ(小紋鷓鴣)Francolinus pintadeanus に比定してよいと考えている。同種はズバリ、中国では「中華鷓鴣」「中國鷓鴣」と呼ばれているのである。さても迂遠の注になったが、「鷓鴣菜」というのは、その藻体の色からかと思うに、コモンシャコは結構、単体で更地で見ると、まさに小さな紋模様がくっきりしていて「マクリ」「セイヨウアヤギヌ」「ハナヤナギ」のくすんだ地味な色は孰れも似ていない。しかし、考えてみると、コモンシャコはあれで草地に入り込むと、叢の中に溶け込んでしまって、逆にカモフラージュの役割をしている。さても、「マクリ」「セイヨウアヤギヌ」「ハナヤナギ」は植生していても、下手をすると、それを見逃すほど、岩礁の岩に似ているのだ。それを昔の中国の人は、得意の比喩でかく呼称したのではあるまいか?

「散碎」恐らく藻体(小さいが)が拡大して見ると、細かく分岐していることを言っているものと思う。

「微黑」「マクリ」も「セイヨウアヤギヌ」も孰れも微かに黒いと言える。

「甘草と同〔(とも)に〕煎じ用ゆれば」先の「ウチダ漢方和薬株式会社」公式サイト内の「生薬の玉手箱」の「【マクリ】」の解説から、かく混合させて煎じるとして訓読してみた。

「初生」生まれてそう経たない乳児。しかし、乳しか飲まない乳児の消化器の中には寄生虫はいないし、「マクリ」のカイニン酸は乳児には如何なものか? 過剰に与えれば逆によろしくないように思われる。]

2018/06/29

進化論講話 丘淺次郎 第十七章 變異性の研究(一) 序・一 食物による變異

 

     第十七章 變異性の研究

 

 遺傳と變異とは極めて密接な關係のあることで、變異と離れては遺傳の研究は出來ぬ位故、この二つは殆ど同一物の兩面と見倣しても宜しからう。前章には自然に生じた變異が、如何に子孫に傳はるかを述べたが、次には先づ人工的に生活狀態を變じて、或る生物に一定の變異を生ぜしめ、更に之を繁殖せしめて、その變異が幾分でも子孫に傳はるや否やといふ問題に關し、最近の實驗の結果を述べて見よう。

Wineseibutu

[ヴィーン生物學試驗場]

[底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング、補正して用いた。]

 

 抑人爲的に生活狀態を變じて生物體に一定の變異を生ぜしめ、これが子孫に傳はるや否やを實驗することは、生物進化の研究上に最も大切なことであるが、溫度、濕氣、食物の成分、住處の種類などを隨意に變更して生物を餌養するためには、なかなか大仕掛の設備と、之に相當する費用とを要するから、かやうな研究の出來る所は今日まだ甚だ少い。アメリカコールドスプリング、ハーボアの生物進化試驗場、フランスパリー大學の生物進化實驗室等は、當然かやうな設備があつて宜かりさうなものであるが、現今の所では經費等の都合で、まだ一向に出來て居ない。たゞオーストリヤヴィーン大學附屬の生物學試驗場だけは、梢完全にこの種類の研究に適する設備があつて、係の人々も絶えずこの方法による研究に從事して、その結果を報告して居る。この試驗場の建物は、先年ヴィーンに萬國博覽會のあつたときの水族館の跡を利用したものであるが、今では、鳥・獸・魚・蛙・昆蟲類などを、種々の條件の下に飼養することの出來る設備がある。所長はプシブラムといふて「試驗的動物學」といふ四册ものの立派な書物を著した人で、その次にカンメレルといふ極めて熱心な研究家も居る。この試驗場で行ふた研究の報告は、已に數多くあるが、孰れも頗る興味の多いもので、これから述べることも半はこの研究所の産物である。

[やぶちゃん注:「コールドスプリング、ハーボアの生物進化試驗場」コールド・スプリング・ハーバー研究所(Cold Spring Harbor LaboratoryCSHL)。アメリカ合衆国ニューヨーク州ロングアイランドにある民間非営利財団による研究所。生物学・医学の研究及び教育を目的とする。同ウィキのによれば、『最先端の研究で世界的に知られ、ノーベル賞受賞者も出している。有名な港町コールド・スプリング・ハーバー(サフォーク郡ハンティントン町)の名を冠しているが、所在地はその西隣のナッソー』(Nassau)『郡ローレル・ホロー』(Laurel Hollow)『村である』。一八九〇年に『ブルックリン財団が生物学研究所を、また』、一九〇四年に『ワシントン・カーネギー協会が実験進化研究所をこの地に設立したのに始まる。カーネギー協会の研究所は』一九二一年に『カーネギー研究所遺伝学部門となり、遺伝学の発展に大きく寄与した』一九六二年に『両研究所が合併し』、『コールド・スプリング・ハーバー研究所となった』(本「進化論講話」(新補改版第十三版)は大正一四(一九二五)年九月刊。因みに初版は明治三七(一九〇四)年一月刊)。研究所は二十世紀前半には『優生学研究でも知られた。「優生記録所」が置かれ、優生学者チャールズ・ダベンポート』(Charles Benedict Davenport 一八六六年~一九四四年:科学的人種差別論者として悪名が高い)『とハリー・ラフリン』(Harry Hamilton Laughlin 一八八〇年~一九四三年:強力な差別法であるアメリカの優生学法の原案作成者(同法によって、一九七〇年代前半に廃止されるまで、実に六万五千人が合法的な強制的不妊手術を施された)『がここで「劣悪人物の家系に関する研究」を行った。これはアメリカの移民排斥に理論的根拠を与え、ナチスの思想とも無関係でないといわれる。この研究・施設は』一九三五年に『科学的でないと問題にされ』、『閉鎖に至った』。一九四〇『年代には分子生物学の源流となる研究が行われ』、一九四四『年にはバーバラ・マクリントックがトウモロコシのトランスポゾン』(transposon:細胞内に於いてゲノム上の位置を転移(transposition)することの出来る塩基配列)『を発見し』(一九八三年にノーベル賞受賞)。『またマックス・デルブリュックとサルバドール・ルリア(彼らはファージ・グループと呼ばれる)がここをバクテリオファージ研究の中心とし、さらにDNAが遺伝物質であることを示す実験をアルフレッド・ハーシーとマーサ・チェイスが行った』りしている。

「プシブラム」本書刊行当時、「ウイーン科学アカデミー生物学研究所」(英語:Biological Research Institute of the Academy of Sciences in Vienna)所長であったハンス・プリブラム Hans Leo Przibram 一八七四年~一九四四年)。ウィーン生まれのユダヤ人であったため、ナチス政権下、一九三八年五月一日にウィーン大学を追放されてしまう。その後、妻エリザベスととに翌年の十二月にはアムステルダムへ逃げたが、一九四三年四月二十一日に拘束されてナチス・ドイツがベーメン・メーレン保護領(チェコ)北部のテレージエンシュタット(チェコ名「テレジーン」)に置いていたユダヤ人ゲットー(収容所附設)へと移送され、一九四四年五月二十日過労によって衰弱死した。妻はその翌日、薬物自殺した。「試驗的動物學」(Experimental-Zoologie)は最終的に全七巻(一九〇七年~一九三〇年)。以上は本文サイトでは判らず、ドイツ語及び英語の彼のウィキペディアに拠ることで、辛うじて判明した。

「カンメレル」パウル・カンメラー(Paul Kammerer 一八八〇年~一九二六年)はウィーン生まれの世界的に知られた遺伝学者で、獲得形質の遺伝を主張したラマルク説の支持者であった。サイト「研究倫理(ネカト)」のこちらに彼の事蹟が詳しく載る。一九〇二年、二十一歳の時、ウィーンに「生物学研究所」(ドイツ語:Biologische Versuchsanstalt)が創設され、創設時からのメンバーとなった。一九一四年~一九二三年に「生物学研究所」が「ウィーン科学アカデミー」に吸収合併されたが、教授職を維持した。一九二三年には「生物学研究所」を退職、以後、欧州と北米を講演旅行したが、一九二六年八月七日、『ネイチャー』誌にデータ捏造が暴露され(彼が獲得形質の遺伝の例証として実験的に成功したとするカエルの足に生じたとする瘤(拇指隆起:nuptial pads)が、実際には足に墨(India ink)を注入して人工的に作ったものだという指摘)、それから六週間後の九月二十三日、モスクワ大学主任教授・モスクワ科学アカデミー生物実験室学主任に選出されて任地に赴く途中、オーストリア山中で四十六歳でピストル自殺している。]

 

 凡そ生物は生れたてより死ぬるまで常に外界に圍まれ、外物に接して居ること故、これより直接の影響を受けて、各個體の形狀に一定の變化を生ずることは極めて普通な現象である。例へば、同一の木より生じた種でも、一つを肥えた地に蒔き、一つを瘦せた地に蒔けば、生長してからの形は甚だしく違ふ。また地面に植ゑれば十間[やぶちゃん注:約十八メートル。]以上にも成るべき大木の苗でも、之を小さな植木鉢に植えて置けば、何年過ぎても僅に一尺位により延びぬ。鳩は常に堅い種子を食ふもの故、之を磨り碎くために、胃の壁の筋肉が大に發達して居るが、或る人が數年の間柔かいものばかりで鳩を養つた後に解剖して見ると、胃の筋肉が著しく退化し、壁は甚だ薄くなつて居た。またその反對に、鷗の類は常に柔い魚肉を食ふて居るが、或る人が之に穀物を食はせて數年の間飼つて置いたら、胃の壁が厚くなつた。蛙の蝌蚪[やぶちゃん注:「おたまじやくし(おたまじゃくし)」。]に植物性の食物ばかりを食はせて置くと、動物性の食物を與へたのに比べて、殆ど二倍位も腸が長くなる。同一種の生物でも、その生活狀態の異なるに隨つて、生長後の形狀に著しい相違の生ずることは、これらを見ても直に解るが、若しもこの變異が少しも子孫に遺傳せぬものならば、次の代にはまた先代と全く同一の出發點から蹈み出し、發生中に外界から同樣の影響を受けて、終に親と同樣な形までに生長するだけで、その變異が代々積つて著しくなることは決してない理窟である。之に反して、若し幾分かなりとも、斯かる變異が子に傳はるものならば、次の代には既に出發點から多少その性質が具はつてあること故、これより生ずる個體に對して外界から先代と同じだけの影響が附け加はつて來れば、その結果は尚一層著しい變異となつて、代々少しづゝ一定の方向に進むわけになる。實際孰れであるかは、長い間の爭いであつたが、今日までに知られた事實から推すと、斯かる變異の中で少くも或る種類だけは確に遺傳するやうである。

 

     一 食物による變異

 

 凡そ動植物の身體組織をなせる成分は、常に新陣代謝して暫時も止むことなく、昨日食つた滋養分は、今日は既に筋肉・神經等の一部となり、今日筋肉・神經等を成せる物の一部は、明日は最早分解して老廢物となつて體外に排泄せられてしまふ。我々人間もその通りで、生れたときは僅に八百匁[やぶちゃん注:三千グラム。]程のものが、二十貫[やぶちゃん注:七十五キログラム。]もある大きな人間になるのは、全く新陳代謝に於ける物質出納の不平均から生じた結果である。されば生物が暫時同一の形狀を保つて居る所を見ると、恰も岩石・鑛物等の如き無生物が、常に同一の形狀を保つのと同じやうに思はれるが、その存在する有樣を調べると全く違ふ。岩石・鑛物が昨年も今年も全く同一な形を保つて居るのは、之を成せる分子が、そのまゝに止まつて動かず、外から入つて來る分子も無く、外へ出て行く分子も無く、昨年あつたまゝの分子が、今年も尚その處に止まつて居るからであるが、動植物が昨日見ても今日見ても同じ形を保つて居るのは、全く之とは別で、外界からは絶えず新規に物質が入り來り、體内よりは絶えず物質が出で去つて、たゞ物質の出入の額が略相均しいから、形狀が變じないだけである。その有樣は恰も河の形は昨日も今日も同じでも、流れる水が暫時も止まらぬのと少しも違はぬ。而して生物の體内に入り來り、暫時生物の身體を造る物質は何かといへば、卽ち食物であるから、食物の異同が生物體に直接に著しい影響を及ぼすことは、毫も怪しむべき事でない。

 同一の親から生れ、初めは全く同一の性質を具へて居た二疋の動物でも、一疋には滋養分を澤山に與へ、一疋には粗末な餌を食はせて養つて置けば、終にはその間に著しい相違が生じ、體格の弱・大小、毛の色艷等まで相異なつたものとなることは、常に我々の經驗する所で、富豪の飼犬と飼主のない野犬とは、誰が見ても直に解り、貴族の飼馬と百姓馬とも、一見して明に違ふて居るが、或る勤物は食物次第で毛の色の全く變ずるものがある。例へばウォレースの報告によれば、ブラジルに産する一種の鸚哥[やぶちゃん注:「インコ」。]に鯰[やぶちゃん注:「なまづ(ななず)」。]の脂を食はせると、緣色の羽毛が赤色または黃色に變ずるが、土人はこの事を知つて居るから、隨意に羽色の違つた鳥を造る。また印度には非常に羽毛の美しい一種の鸚鵡があるが、この鳥の羽色を常に美しからしめるには、一定の特殊の食物を與へて置かねばならぬ。その他、鶸[やぶちゃん注:「ひわ」。]の類に麻の種子を食はせれば、羽毛が漸々黑くなり、「カナリヤ」に胡椒の實を與へれば、黃色が益濃くなることは、既に人の知る所である。これ等はたゞ從來の經驗からいひ傳へたことであるが、近頃態々行つた實驗の結果によつても全くその通りで、胡椒の實を食はせれば、鶸・「カナリヤ」に限らず、鷄・鳩の如きものでも、やはり著しく羽毛に變異を生ずる。但し生長し終つた鳥に與へたのでは格別に効能はない。まだ一度も羽毛の拔け變らぬ前の雛に食はせると、以上の如き結果が必ず生ずる。また、リスリンやアニリン染料などを餌に混じて食はせて見たれば、各何時も羽毛の色に多少の影響を及ぼした。

[やぶちゃん注:「ウォレース」複数回既出既注。第二章 進化論の歷史(5) 五 ダーウィン(種の起源)」の本文や私の注、第十二章 分布學上の事實(7) 六 ウォレース線、及び第十五章 ダーウィン以後の進化論(4) 四 ウォレースとヴァイズマン等を参照されたい。但し、以下の鳥の羽毛の人工的変異形成の出典は不詳。

「鶸」既注であるが、再掲しておく。スズメ目スズメ亜目スズメ小目スズメ上科アトリ科ヒワ亜科 Carduelinae に属する鳥の中で一般的には種子食で嘴の太くがっしりした小鳥の総称。英語の「フィンチ」(finch)は、以前は、ヒワ亜科に似た穀食型の嘴をもつ他の科の鳥もひっくるめた総称として用いられたため、現在でもヒワ亜科でない別種の鳥にも英名「フィンチ」の残っている種が多い。ヒワ亜科には約百二十種が含まれ、ユーラシア・アフリカ・南北アメリカに広く分布し、日本でもヒワ亜科カワラヒワ属マヒワ Carduelis spinusなど十六種が棲息する(なお、「ヒワ(鶸)という和名の種は存在しない)。孰れも穀食型の短く太い嘴を持ち、主に樹木や草の種子を摂餌する。一般に雌雄異色で、雄は赤色又は黄色の羽色を有する種が多く、日本の伝統色である鶸色は、先のマヒワの雄の緑黄色に由来した色名である(以上は主に小学館「日本大百科全書」を参照した)。

「リスリン」グルセリン(glycerin:油脂の加水分解によって脂肪酸とともに得られる無色透明で甘みと粘り気のある液体)の発音の訛り。

「アニリン」アニリン(aniline/ドイツ語:Anilin)特異な臭気をもつ無色油状の液体。空気や光に触れると、褐色を呈する。合成染料の原料として重要であるが、有毒。]

 

 昆蟲類に關しては、以上と同じやうな實驗が種々ある。先年アメリカテキサス州から、山繭蝶の一種の蛹をスウィス國に持つて來た所が、翌年それから生じた幼蟲に、本國に於けると少し異なつた樹の葉を餌に與へたので、形狀も色も大に異なつた蝶が之から出來た。素性を知らぬ昆蟲學者は、之を以て全く別種に屬するものと見倣した位であるが、その幼蟲時代の食物は何かといへば、本國に於ては胡桃の一種で、スウィス國に持つて來てからも、やはり胡桃の少し異なつた一種を食はせたばかりで、食物の相違は實に僅少であつた。幼蟲時代の食物の相違によつて同一種の蝶でも、色彩・斑紋等に著しい相違の起る例は、尚この外にも澤山に知られてある。ヨーロッパに産する一種の尺蠖[やぶちゃん注:「しやくとり(しゃくとり)」。]は、種々の菊科植物に附いて、その葉を食ふが、幼蟲の色はその附く植物の種類に隨つて異なり、白い花の咲く菊に附けば白色、赤い花の咲く菊に附けば赤色となる。また毛蟲の一種には、その留まつて居る枝の色と同一な色になるものがある。

[やぶちゃん注:「山繭蝶」「蝶」となっているが、「山繭蛾」、昆虫綱鱗翅(チョウ)目ヤママユガ科 Saturniidae 或いはヤママユ属 Antheraea に属するヤママユガ類の一種であろう。

「尺蠖」尺取虫(しゃくとりむし)のこと。昆虫綱鱗翅(チョウ)目シャクガ(尺蛾)上科シャクガ科 Geometridae に属する蛾類の幼虫を総称する語。詳しくは私の和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蚇蠖(シャクトリムシ)の注を参照されたい。]

 

 植物界に於ては、滋養分の相違が個體の形狀・性質に直接の影響を及ぼすことは更に一層明瞭で、その例は實に數へ盡されぬ程ある。ダーウィンアメリカの「たうもろこし」をヨーロッパに移せば、初め高さ二間[やぶちゃん注:三メートル六十四センチメートル弱。]もあるものが、翌年には一間半[やぶちゃん注:二メートル七十三センチメートル弱。]位となり、その翌年には更に低くなり、果實の方も著しく變化して、三年目にはアメリカ産のとは全く異なつたものになつてしまふことを、その著書の中に掲げたが、滋養分を種々に調合して、玉蜀黍を培養して見ると、誰に見せても確に別種かと思ふ程に相異なつたものが、幾通りも出來る。この他、園藝家や植木屋に就いて、その經驗談を聽けば、培養法によつて植物に甚だしい相違の生ずる例は、幾らでも知ることが出來よう。

[やぶちゃん注:ダーウィンの以上の「著書」は不明。「種の起原」かと思っていたが、どうも見当たらない。識者の御教授を乞う。]

 

 

[    豐年魚

(イ)鹹水産(ロ)淡水産]

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング、補正して用いた。次の「豐年魚の尾端の變異」も同じ。「鹹水産」は「かんすいさん」で塩分を含んだ塩水産の意。通常なら、「海水産」でよいのだが、ここは主体が陸封された、塩水湖を指すので、かく解説しておいた。]

 

 

[豐年魚の尾端の變異]

 

 風土・氣候等の異同によつて、植物に著しい變異が起るのと同樣に、海産の動物は、水中の鹽分の多少によつて、隨分甚だしい變異の生ずる場合がある。その例として最も著名なのは、シュマンキェウィッチといふロシヤ人の實驗にかゝる豐年魚の變異である。抑豐年魚といふのは夏日水田などに生じ、腹を上に向けて水の表面を澤山に泳ぎ廻る小さな蝦に似た下等の甲殼類であるが、豐年魚といふ名前は、曾て之を東京で賣り步いた金魚屋等が勝手に附けたもので、實は決して魚類ではない。日本には之を産する處が方々にある。さてロシヤには海の一部が海から離れ、陸に圍まれて湖水の如くになつた處が幾らもあるが、流れ込む水または蒸發する水などの割合によつて、鹽分の度は各相異なつて、鹽の甚だ濃い湖もあれば、また鹽の極めて淡い湖もある。豐年魚は元來、淡水の中ばかりに産する動物であるが、かやうな湖の中を搜すと豐年魚に似ながら梢異なつた種類が住んで居る。動物學者は之を普通の豐年魚とは別屬のものとし、その中を更に數種に分けるが、鹽分の度の違ふ湖に産するものは、形狀も必ず多少異なつて居る。そこで、シュマンキェウィッチは斯く鹽度の異なる處に必ず違つた種類の産するのは、或は鹽の多少が直接に身體に影響を及ぼした結果では無からうかとの疑を起し、實驗によつて之を調べて見た。その方法は先づ鹽分の濃い水の中に住む種類を養ひ、飼養器の中一滴づゝ淡水を加へ、極めて徐々と鹽分を薄めたのであるが、鹽分が薄くなるに隨つて身體の形狀が變じ、特に尾端の形が全く變つて、終には常に淡い鹹水の中に住んで居る所のものと同一な形狀を呈するに至つた。而してこの形狀を呈するものは、從來學者が全く別種と見倣して居たものである。それより尚淡水を增し、鹽分を減じて、眞に純粹な淡水にしてしまうたれば、その中に居た動物は淡水中に産する普通の豐年魚と全く同一なものに變じた。斯かる面白い結果を得たので、更にこの試驗を逆の順序に試み、豐年魚の飼つてある水の中に、鹽水を一滴づゝ加へて徐々と鹽水を增して見た所が、前の實驗と丁度反對に、漸々鹹水産の種類を隨意に造ることが出來た。尤も之は同一の個體が斯く變化した譯ではない。形狀がかやうに著しく變化するには數代を要したが、決して淘汰の結果でないことは勿論である。貝類にも鹽分の濃い所で育てれば三寸四寸にもなるが、淡水の混じた所では僅に一寸といふやうなことがあるが、これ等も恐らく鹽分を增すか、減らすかしながら養殖したら、一代每に變異の著しくなることを實驗することが出來るであらう。

[やぶちゃん注:「豐年魚」甲殻亜門鰓脚綱サルソストラカ亜綱 Sarsostraca無甲(ホウネンエビ)目ホウネンエビ科ホウネンエビ属ホウネンエビ Branchinella kugenumaensis。但し、これと以下の解説は本邦産の代表種であって、ここに出るそれは、ホウネンエビ属ではあるが、別種の可能性が高い。以下、ウィキの「ホウネンエビより引く。『日本では初夏の水田で仰向けに泳いでいるのがよく見かけられる』。『体は全体的に細長く、体長は』十五~二十ミリメートル『程度。身体を支えるような歩脚をもたず、分類名が示すように鰓脚と呼ばれる呼吸器を備えた遊泳脚のみをもつ。体色は透明感のある白色だが、緑を帯びた個体、青みを帯びた個体も見られる。頭部には左右に突き出した』一『対の複眼と触角、口器をもつ。第一触角は糸状で頭部の前方へ短く伸びる。第二触角は雌では小さく、雄では繁殖時に雌と連結するための把握器として大きく発達している。雄の頭部の大きさの半分程もあるので、雌雄の区別は一目で分かる』。『頭部に続く体は多数の鰓脚をもつ胸部と、鰓脚のない腹部に分かれる。胸部は』十『節以上あり、各節に』一『対ずつほぼ同じような形状の鰓脚がつく。雌では胸部の最後部に卵の入る保育』囊『があり、腹部に沿って突出する。腹部は細長く、最後に一対の尾叉がある。尾叉は木の葉型で平たく、鮮やかな朱色をしている』。『通常は腹面を上に向けた仰向けの姿勢で、水面近くや中ほどの位置でその姿勢を保ってあまり動かないか、ゆっくりと移動しているのがみられる。常に鰓脚を動かし、餌は鰓脚を動かした水流で、腹面の体軸沿いに植物プランクトンなどの有機物を含む水中の懸濁物を口元に集めて摂食している。 外敵が近づいた時などには瞬間的に体を捻って、跳躍するように水中を移動することがある。その行動は素早く、また体色が周囲に紛れやすいことから、捕獲は意外と難しいが、走光性があるので、夜に照明を当てると比較的』、『容易に捕獲できる』。『水田の土中で休眠していた卵は春、水が張られた後水温が上昇すると一斉に孵化する。最初の幼生はノープリウス』(Nauplius)『と呼ばれる形態で体長』一ミリメートル『たらず、やや赤みを帯びた体色で、三対の付属肢をもつ。その後幼生は脱皮を繰り返し、次第に体節と鰓脚を増やし細長く成長すると同時に、遊泳に用いられた第二触角は小さく目立たなくなって、成体と同じ姿となる』。『繁殖時には、雄は雌の後方から追尾し、把握器を伸ばして雌と連結する。把握器の先端は枝状に分かれた複雑な形状になっており、雌の身体に雄の身体をしっかりと固定することができる。雌を把握した雄は体を曲げて交接し、その後もしばらく連結したままで生活する。 受精卵は保育のうに保持された後水底にばら撒かれ、成体はその後死亡する。卵はすぐに孵化することはなく、土中で卵の状態のまま休眠し冬季の低温に耐える。この卵は乾燥させて貯蔵することも可能であり、このような長期の乾燥に耐える現象をクリプトビオシス』(cryptobiosis)『とよぶ。この現象は、クマムシ』(既出既注)『やネムリユスリカ』(双翅(ハエ)目長角(カ)亜目カ下目ユスリカ上科ユスリカ科ユスリカ亜科属 Polypedilum ネムリユスリカ Polypedilum vanderplanki)『などと同様に二糖類のトレハロース』(trehalose:グルコースが由来の二糖の一種。高い保水力を有する)『を含有することが深く関与している』。『和名のホウネンエビは豊年蝦の意味で、これがよく発生する年は豊年になるとの伝承に基づく。ホウネンウオ、ホウネンムシの名も伝えられる』。『地域によってはタキンギョ(田金魚)という呼び名もあるようである。尾が赤いのを金魚にたとえたことによるらしい』。『属名の「Branchinella」は「鰓脚(さいきゃく)類の」という意味で、このホウネンエビが「鰓(えら)状の脚」をもっていることを示している。なお、中国ではこの学名から「鵠沼枝額蟲」とも呼ばれている』。『水産上の利用はなく、同所的に生息する同じ鰓脚綱のカブトエビ類が水田の除草役とされるのとはちがい、農業に有用な動物として利用されることもないが、かみつくことも』、『稲に害を与えることもない無害な生物である』。『このように人間との関わりのほとんどない小動物であるが、水田に多数発生し』、『その姿が興味を引いたためか、前述のように各地に呼び名が残るなど』、『古くから存在は知られていた。江戸時代には観賞用に取引されたこともあったようだが、寿命が短いので採集して水槽にいれても長くは観賞できない』。

「シュマンキェウィッチ」不詳。識者の御教授を乞う。]

 

 前の「たうもろこし」の例でも今の豐年魚でも、一代每に一步一步變異の度の進んで行くのは、如何に考へても外界から受けた影響がその一代に止まらず、次の代まで傳はり、そこへ更に同じ影響を蒙つて、次第に積り重なる結果と見倣すの外に途はなからう。若し外界から生物體に及ぼす影響が、その一代だけに限り、決して次の代に關係せぬものとすれば、アメリカの「たうもろこし」をドイツヘ移して、第一代目に質が變じて丈が低くなることは宜しいが、第二代目に至つて、何の淘汰もないに係らず、更に一層原種より遠かつたものと成るのは何故であるか、到底説明の仕方があるまいと考へる。

 

諸國里人談卷之三 白峰

 

    ○白峰(しろみね)

讃岐國河野郡(かうのこほり)也。人王七十五代崇德院(しゆとくゐん)を祠(まつ)る。今以〔いまもつて〕、靈氣つよくましまし、種々の奇特(きどく)多し。崇德院、此松山に左迷(さまよひ)給ひし時、松が浦にて御つれづれに貝を拾はせ給ひて、

 松山の松が浦風吹〔ふき〕よせばひろひてしのべ戀わすれ貝

と詠じ給ひしより、此浦の貝に、「松」の字、「山」の字を現(あらは)す、と也。これを「戀忘貝(こひわすれかひ)」と号す。長寬二年に御寶算四十六歳にして、此所にて崩御し給ひし也。西行法師、參詣しける時、陵(みさゝぎ)、鳴動す。于ㇾ時(ときに)、和歌詠じて納めければ靜(しづま)りける、となり。

 よしや君むかしの玉の床とてもかゝらん跡は何にかはせむ

[やぶちゃん注:第七十五代天皇崇徳天皇(元永二(一一一九)年~長寛二(一一六四)年)/在位:保安四(一一二三)年~永治元(一一四二)年)は保元元(一一五六)年七月の「保元の乱」で後白河方に敗れて讃岐へ配流と決まり、同月二十三日、鳥羽から船で讃岐国へ下った。参照したウィキの「崇徳天皇」によれば、『天皇もしくは上皇の配流は、藤原仲麻呂の乱における淳仁天皇の淡路国配流以来、およそ』四百『年ぶりの出来事』で、『同行したのは寵妃の兵衛佐局と僅かな女房だけ』で、『その後、二度と京の地を踏むこと』なく、八年後の長寛二年八月二十六日(一一六四年九月十四日)、四十六歳で崩御している。一説には、京からの刺客である三木近安によって暗殺されたともされる』。「保元物語」に『よると、崇徳院は讃岐国での軟禁生活の中で仏教に深く傾倒して極楽往生を願い、五部大乗経(『法華経』・『華厳経』・『涅槃経』・『大集経』・『大品般若経』)の写本作りに専念して(血で書いたか墨で書いたかは諸本で違いがある)、戦死者の供養と反省の証にと、完成した五つの写本を京の寺に収めてほしい』、『と朝廷に差し出したところ、後白河院は「呪詛が込められているのではないか」と疑ってこれを拒否し、写本を送り返してきた。これに激しく怒った崇徳院は、舌を噛み切って』、『写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と血で書き込み、爪や髪を伸ばし続け』、『夜叉のような姿になり、後に生きながら』、『天狗になったとされている。崩御するまで爪や髪は伸ばしたままであった。また崩御後、崇徳の棺から蓋を閉めているのにも関わらず』、『血が溢れてきたと言う』。一方、「今鏡」の『「すべらぎの中第二 八重の潮路」では、「憂き世のあまりにや、御病ひも年に添へて重らせ給ひければ」と寂しい生活の中で悲しさの余り、病気も年々重くなっていったとは記されているものの、自らを配流した者への怒りや恨みといった話はない。また配流先で崇徳院が実際に詠んだ「思ひやれ 都はるかに おきつ波 立ちへだてたる こころぼそさを」(『風雅和歌集』)という歌を見ても、悲嘆の感情はうかがえても』、『怨念を抱いていた様子はない。承久の乱で隠岐国に配流された後鳥羽上皇が、「われこそは にゐじま守よ 隠岐の海の あらきなみかぜ 心してふけ」(『遠島百首』)と怒りに満ちた歌を残しているのとは対照的である』。『崇徳院は、配流先の讃岐鼓岡木ノ丸御所で国府役人の綾高遠の娘との間に』一男一女を『もうけている』。「保元の乱」が『終結してしばらくの間は、崇徳院は罪人として扱われた。それは後白河天皇方の勝利を高らかに宣言した宣命』『にも表れている。崇徳院が讃岐国で崩御した際も、「太上皇無服仮乃儀(太上皇(崇徳上皇)、服仮(服喪)の儀なし)」(『百錬抄』)と後白河院はその死を無視し、「付国司行彼葬礼、自公家無其沙汰(国司を付けてかの(崇徳上皇)の葬礼を行い、公家よりその沙汰なし)」(『皇代記』)とあるように国司によって葬礼が行われただけで、朝廷による措置はなかった。崇徳院を罪人とする朝廷の認識は、配流された藤原教長らが帰京を許され、藤原頼長の子の師長が後白河院の側近になっても変わることはなかった。当然、崇徳院の怨霊についても意識されることはなかった』。ところが、安元三(一一七七)年になると、状況が『一変する。この年は延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀が立て続けに起こり、社会の安定が崩れ長く続く動乱の始まりとなった』。公卿三条実房の日記「愚昧記」の安元三(一一七七)年五月九日の条には『「讃岐院ならびに宇治左府の事、沙汰あるべしと云々。これ近日天下の悪事彼の人等所為の由疑いあり」とあり、以降、崇徳院の怨霊に関する記事が貴族の日記に頻出するようにな』り、同「愚昧記」の五月十三日の条に『よると、すでに前年には崇徳院と藤原頼長の怨霊が問題になっていたという』。前年安元二年には『建春門院・高松院・六条院・九条院が相次いで死去し』、『後白河や忠通に近い人々』も『相次いで死去したことで、崇徳や頼長の怨霊が意識され始め、翌年の大事件続発がそれに拍車をかけたと思われる。崇徳の怨霊については』、権大納言藤原経房の日記「吉記」寿永三(一一八四)年四月十五日の条には『藤原教長が崇徳院と頼長の悪霊を神霊として祀るべきと主張していたことが記されており、かつての側近である教長が』、『その形成に深く関わっていたと見られる。精神的に追い詰められた後白河院は怨霊鎮魂のため保元の宣命を破却し』、同年八月三日には「讃岐院」の院号が「崇徳院」に改められ、頼長には正一位太政大臣が追贈され』ている。同年四月十五日には、「保元の乱」の『古戦場である春日河原に「崇徳院廟」(のちの粟田宮)が設置された』(この廟は「応仁の乱」後に衰微し、天文年間(一五三二年~一五五五年)に平野社に統合されている)。また、『崩御の直後』、『地元の人達によって御陵の近くに建てられた頓証寺(現在の白峯寺)に対しても』、『官の保護が与えられたとされている』。『怨霊としての崇徳院のイメージは定着し』、近世、上田秋成の「雨月物語」(安永五(一七七六)年上梓)の巻頭を飾る怪談の傑作「白峯」や、滝沢馬琴の「椿説弓張月」(文化四(一八〇七)年)から同八年(一八一一年)にかけて刊行)などでも『怨霊として描かれ、現代においても』、『様々な作品において怨霊のモチーフとして使われることも多い』(但し、本「諸國里人談」の刊行は、それらよりも前の寛保三(一七四三)年)。しかし、『その一方で後世には、四国全体の守り神である』、『という伝説も現われるようになる』。「承久の乱」で『土佐国に流された土御門上皇(後白河院の曾孫)が』、『途中で崇徳天皇の御陵の近くを通った際』、『その霊を慰めるために琵琶を弾いたところ、夢に崇徳天皇が現われ』、『上皇と都に残してきた家族の守護を約束した。その後、上皇の遺児であった後嵯峨天皇が鎌倉幕府の推挙により皇位に就いたとされている。また、室町幕府の管領であった細川頼之が四国の守護となった際』も、『崇徳天皇の菩提を弔って』後に『四国平定に乗り出して成功して以後、細川氏代々の守護神として崇敬されたと言われている』。『明治天皇は』慶応四(一八六八)年八月十八日に、『自らの即位の礼を執り行うに際し』、『勅使を讃岐に遣わし、崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させて白峯神宮を創建し』ており、私の知る限りでは、太平洋戦争勃発直後、昭和天皇は崇徳天皇陵に勅使を遣わし、崇徳の霊が連合軍へ加担せぬように祈請しているはずである。陵(みささぎ)は「白峯陵(しらみねのみささぎ)」として香川県坂出市青海町(おうみちょう)にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「松山の松が浦風吹〔ふき〕よせばひろひてしのべ戀わすれ貝」これは崇徳院の詠歌なんぞではなく、百年以上前の藤原中納言定頼(長徳元(九九五)年~寛徳二(一〇四五)年)の「後拾遺和歌集」の「巻第八 別」に載る一首で(四八六番)、

   讚岐へまかりける人につかはしける

 松山の松の浦風吹きよせば拾ひて忍べ戀忘れ貝

である。「松山の松の浦」は歌枕であるが、「まつ」に恋人(ここは都を擬人化したか)を「待つ」を畳みかけて掛けた。「戀忘れ貝」は、「その貝を拾えば、恋の苦しさを忘れさせる」という伝承によるもので、「土佐日記」にも出るが、私は特定の貝を指すとは思われない。標準和名の斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ目マルスダレガイ超科マルスダレガイ科ワスレガイ亜科ワスレガイ属ワスレガイ Cyclosunetta menstrualis があるが、貝類蒐集をする私にとっては全く「忘れ貝」のイメージとは程遠い無骨なものであり、同種を古典の「恋忘れ貝」とするのには大いに抵抗がある。しかしまた、一方で、しばしばピンク色の「桜貝」、代表種ではマルスダレガイ目ニッコウガイ科サクラガイ属サクラガイNitidotellina hokkaidoensis のことだとして、ご丁寧に写真まで添えてまことしやかに解説している国語の諸先生もいたりするのであるが、これは浅薄なロマン主義的趣味であって、それも逆に、私には全く従えない。寧ろ、恋を忘れられる呪物(類感呪術)としてのそれは、万葉以来の、ぴったりと合うべき(逢うべき)二枚貝の殻の片方が失われてしまったそれに他ならない。

「此浦の貝に、「松」の字、「山」の字を現(あらは)す」貝殻の表面に、ということ。ありがちなシミュラクラ(Simulacraとしては判らぬではない。

「寶算」天子を敬ってその年齢をいう語。聖寿。聖算。

「西行法師」(元永元(一一一八)年~文治六(一一九〇)年)は、保延六(一一四〇)年(二十三歳)に出家するが、それから二十八後の仁安三(一一六八)年(満五十歳)に四国への旅立ち、讃岐国善通寺(現在の香川県善通寺市)に一時、庵を結んだとされ、この折り、旧主崇徳院の白峰陵を訪ね、その霊を慰めたと伝えられている。「參詣しける時、陵(みさゝぎ)、鳴動す。于ㇾ時(ときに)、和歌詠じて納めければ靜(しづま)りける」はただの伝承。

「よしや君むかしの玉の床とてもかゝらん跡は何にかはせむ」「山家集」の「下 雜」に載る(一三五五番)が、「山家集」のこの前の二首も含めて、以下に示す(一九六一年岩波古典文学大系版に拠る。前書はブラウザでの不具合を考え、恣意的に改行した)。

   讃岐に詣でて、

   松山の津と申(まうす)所に、

   院おはしましけん御跡(おんあと)

   たづねけれど、

   形(かた)も無かりければ

 松山の波に流れて來し舟のやがて空しく成(なり)にける哉

 松山の波の景色は變らじを形無(かたな)く君はなりましにけり

   白峯と申(まうし)ける所に

   御墓(みはか)の侍りけるにまゐりて

 よしや君昔の玉の床(ゆか)とてもかからん後は何にかはせん

   *

「玉の床」は皇居のこと。]

諸國里人談卷之三 彦山

 

   ○彦山(ひこさん)

豐前國田川郡(たかはこほり)にあり。豐前・豐後・筑前に其(その)根(ね)、跨(またが)りて、大山〔おほやま〕也。「十の谷」・「四十九の窟(いはや)」あり。一の谷(やつ)を「玉谷(たまや)」といふ。霊泉、涌出(ゆうしゆつ)す。是を飮(のめ)ば諸病を治(ぢ)すとなり。又、國家、變ある時は、此水、濁ると云〔いへ〕り。三(みつ)の嵩(たけ)は、鼎(かなへ)のごとく、三神、跡を垂(たれ)給ふ。北岳(ほくがく)は天忍穗根尊(あまのおしほねのみこと)、中岳(ちうがく)は伊弉冉尊(いさなみの〔みこと〕)、南岳は伊弉諾尊(いさなきの〔みこと〕)也。徃古(わうこ)より守護入(しゆごい)らずの山なり。金鳥井(かねのとりゐ)より上る事、六十二町也。祭禮、二月十五日。

[やぶちゃん注:「伊弉冉尊」の「冉」は①が「册」の最終画の上部中央に左右閉鎖(貫かず)で横画が入るもの、③が「冊」で同様の奇体な字体であるが、一般的な「冉」で示した。

「彦山」現在の福岡県田川(たがわ)郡添田町(そえだまち)と大分県中津市山国町(やまくにまち)に跨る英彦山(ひこさん)。標高千百九十九・七メートル(本文に出る「南岳」)。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「英彦山」によれば、『羽黒山(山形県)・熊野大峰山(奈良県)とともに「日本三大修験山」に数えられ、山伏の坊舎跡など往時をしのぶ史跡が残る。山伏の修験道場として古くから武芸の鍛錬に力を入れ、最盛期には数千名の僧兵を擁し、大名に匹敵する兵力を保持していたという』。『この山を根拠とする豊前佐々木氏が領主であり、一族からは英彦山幸有僧という役職も出していたとの記録がある。英彦山はその後、秋月種実と軍事同盟を結んだため』、天正九(一五八一)年十月、『敵対する大友義統』(よしむね)『の軍勢による焼き討ちを受け』、一『ヶ月あまり続いた戦闘によって』、『多くの坊舎が焼け落ち、多数の死者を出して大きく勢力を失った。大友氏の衰退後は、新領主として豊前に入った細川忠興が強力な領国経営を推し進めたため、佐々木氏とともにさらにその勢力は衰退したという』。『なお、豊前佐々木氏は添田の岩石城を居城としていた。豊臣秀吉による九州征伐の際には秋月氏方として香春岳城に続いて攻撃され、一日で攻め落とされたが』、『滅ぼされず、細々と生き残っている。巌流島の決闘で有名な佐々木小次郎は』、『この豊前佐々木氏の出身であり、またその流派・巌流は英彦山山伏の武芸の流れをくむとする説がある』。『その説によれば、巌流島の決闘自体が、宮本武蔵を利用して当主である小次郎を殺害させることによる、細川氏の豊前佐々木氏弱体化工作であったという』。『山伏集落についての詳細は不明であったが』、平成二七(二〇一五)年、『添田町が行ったレーザー測量によって』、『集落跡地とみられる場所を複数個所、確認した』。『「英彦山三千八百坊」と言われていたが』、『測量結果から』八百『箇所・三千人規模の集落があったと推測される』とある。また、『彦山豊前坊という天狗が住むという伝承があ』り、『豊前坊大天狗は九州の天狗の頭領であり、信仰心篤い者を助け、不心得者には罰を下すと言われている』とし、『英彦山北東に建てられている高住神社には御神木・天狗杉が祀られている。また古くからの修験道の霊地で、全盛期には多くの山伏が修行に明け暮れた』とあって、少なくとも戦国時代前半までは、ここが修験道の梁山泊的な道場として治外法権的空間であった雰囲気が伝わってきて、さればこそ後に出る「守護入(しゆごい)らずの山」の謂いも腑に落ちる。なお、私の「杉田久女句集 255 花衣 ⅩⅩⅢ 谺して山ほととぎすほしいまゝ 以下、英彦山 六句」も是非、読まれたい。

「豐前・豐後・筑前に其根、跨りて」厳密には狭義の英彦山(福岡県田川郡添田町及び大分県中津市山国町)は孰れも旧「豐前」国であるが、「豐後」(宇佐市・中津市除く大分県の大部分相当)・「筑前」(福岡県西部相当)に山塊「の根」が「跨」っているというのは、地図を見れば腑に落ちる。というより、ウィキの「英彦山」によれば、そもそもが英彦山『山域は』今も『福岡県と大分県の県境未確定地域』なのである。

「玉谷(たまや)」「霊泉、涌出す」とは玉屋神社(般若窟)である。ここ(グーグル・マップ・データ)。しばしばお世話になる御夫妻のサイト「神社探訪 狛犬見聞録・注連縄の豆知識」の「玉屋神社(般若窟)」によれば、ここにある「般若岩」の説明版には(リンク先の画像から翻刻)、『この岩穴の中には、不増不滅の清水をたたえ』、『世の中にもしも事変がある時は、水がにごると言われています。ここで法蓮上人』(弘仁(八一〇年~八二四年)の頃の英彦山を中興した僧)『が祈って如意の玉を得たという伝説があり、大和の金剛山、近江の竹生島の水と共に日本の三霊水だとも言われています』とある。同神社の祭神は猿田彦大神で、この神社が英彦山開山の地とされる。

「北岳」千百九十二メートル。ここ(国土地理院図)。

「天忍穗根尊(あまのおしほねのみこと)」現行の英彦山神宮の主祭神としての表記は「正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)である(同神宮公式サイトで確認)。ウィキの「アメノオシホミミ」によれば、「古事記」では、天照大神と素戔嗚命の誓約の際、素戔嗚が天照の勾玉を譲り受けて生まれた五人の皇子の長男で、勾玉の持ち主である天照の子としている。「日本書紀」の一書では次男とされ、高御産巣日神(たかみむすびのかみ)の娘で萬幡豊秋津師比売命(よろづはたとよあきつしひめのみこと)との間に天火明命(あめのほあかりみこと)と瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を儲けた。『葦原中国平定の際、天降って中つ国を治めるよう』、天照から『命令されるが、下界は物騒だとして途中で引き返してしまう』。建御雷神(たけみかづちのかみ)らに『よって大国主から国譲りがされ、再び』、忍穂耳命に『降臨の命が下るが』、彼は『息子の』瓊瓊杵尊にそれを負かすように進言し、結局、瓊瓊杵尊が「天孫降臨」することになるのである。『名前の』「正勝吾勝」は『「正しく勝った、私が勝った」の意』であり、「勝速日」は『「勝つこと日の昇るが如く速い」または「素早い勝利の神霊」の意で、誓約の勝ち名乗りと考えられる』。また「忍穂耳」は『威力(生命力)に満ちた稲穂の神の意である』とある。言っておくが、本邦の神話の神の名は勿論、民俗学で村を「ムラ」としたり、「晴」「褻」を「ハレ」「ケ」とやらかして学術用語だと思い込んでいるお目出度い輩や、日本語なのに沖繩方言をカタカナ表記するのが当たり前と思っている大衆を、私は甚だしく嫌悪する人種である

「中岳」千百八十メートル。英彦山神宮の本社上宮があるピーク。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「南岳」既に述べた最高峰。ここ(国土地理院図)。

「金鳥井(かねのとりゐ)」「銅(かね)の鳥居」で、現在の福岡県田川郡添田町大字英彦山に現存する、寛永一四(一六三七)年に佐賀藩主鍋島勝茂によって建立された、英彦山神宮にある青銅製の鳥居(二の鳥居。一の鳥居は現存するが、通行出来ない)。柱の周囲は約三メートル。鳥居正面の「英彦山」の扁額は享保一四(一七二九)年に霊元法皇によって下賜されたもの。国指定重要文化財。

「六十二町也」約六キロ七百六十四メートル。現在の登山サイトの記録データを見ると、「銅の鳥居」起点で片道実動距離が約六キロメートルであるから、かなり正確である。

「祭禮、二月十五日」現行、少なくとも英彦山神宮ではこの日や旧暦の日時でも、特に祭儀は行われていない。不審。]

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十五年  最後の厄月

 

      最後の厄月

 

 五月五日から居士は「病牀六尺」を『日本』に掲げはじめた。然るにその七日から容体が思わしからず、十三日に至って未曾有の大苦痛を現じた。厄月の五月はここに至ってもなお居士を脅(おびやか)すことを已めなかったのである。十四日は比較的無事であったが、前日の反動で非常に弱り、十五日の朝は三十四度七分という体温が少しも上らなかった。もう居士もあきらめて、前年秋秀真氏の造った石膏像を取上げ、その裏に「自(みづから)題(だいす) 土一塊牡丹生けたる其下に 規 明治三十五年五月十五日」と書きつけたほどであったが、午後からは次第に苦痛が薄らぎ、あたかも根岸三嶋神社の祭礼であったので、豆腐汁、木(き)の芽和(あえ)の御馳走に一杯の葡萄酒を傾ける。祭の句が八句も出来るという風で、どうやら危険を脱し得た。

[やぶちゃん注:「病牀六尺」では「五」(後の末尾クレジットは五月十日)に(例の初出で翻刻、二箇所で句点を挿入した)、

   *

○明治卅五年五月八日雨記事。

昨夜少しく睡眠を得て昨朝來の煩悶稍度を減ず。牛乳二杯を飮む。

九時麻痺劑を服す。

天岸醫學士長州へ赴任の爲め暇乞に來る。序に予の脈を見る。

碧梧桐、茂枝子[やぶちゃん注:「しげえこ」。]早朝より看護の爲めに來る。

鼠骨も亦來る。學士去る。

きのふ朝倉屋より取り寄せ置きし畫本を碧梧桐らと共に見る。月樵の不形畫藪[やぶちゃん注:「ふけいぐわそう」。]を得たるは嬉し。其外鶯邨畫譜[やぶちゃん注:「わうそんぐわふ」。]景文花鳥畫譜、公長略畫など選り出し置く。

午飯は粥に刺身など例の如し。

繃帶取替をなす。疼痛なし。

ドンコ釣の話。ドンコ釣りはシノベ竹に短き糸をつけ蚯蚓を餌にして、ドンコの鼻先につきつけること。ドンコ若し食ひつきし時は勢よく竿を上ぐること。若し釣り落してもドンコに限りて再度釣れることなど。ドンコは川に住む小魚にて、東京にては何とかハゼといふ。

鄕里松山の南の郊外には池が多きといふ話。池の名は丸池、角池、庖刀池、トーハゼ(唐櫨)池、鏡池、彌八婆々の池、ホイト池、藥師の池、浦屋の池など。

フランネルの切れの見本を見ての話。縞柄は大きくはつきりしたるがよいといふこと。フランネルの時代を過ぎて、セルの時代となりしことなど。

茂枝子ちよと内に歸りしが稍〻ありて來り、手飼のカナリヤの昨日も卵産み今朝も卵産みしに今俄俄に樣子惡く巢の外に出て身動きもせず如何にすべきとて泣き惑ふ。そは糞づまりなるべしといふもあれば尻に卵のつまりたるならんなど云ふもあり。予は戲れに祈禱の句をものす。

  菜種の實はこべらの實も食はずなりぬ

  親鳥も賴め子安の觀世音

  竹の子も鳥の子も只ただやすやすと

  糞づまりならば卯の花下しませ

晚飯は午飯と略同樣。

體溫三十六度五分。

點燈後碧梧桐謠曲一番殺生石を謠ひ了る。予が頭稍惡し。

鼠骨歸る。

主客五人打ちよりて家計上のうちあけ話しあり。泣く、怒る、なだめる。此時窓外雨やみて風になりたるとおぼし。

十一時半又麻痺劑を服す。

碧梧桐夫婦歸る。時に十二時を過る事十五分。

予此頃精神激昂苦悶已まず。睡覺めたる時殊に甚だし。寐起を恐るゝより從つて睡眠を恐れ從つて夜間の長きを恐る。碧梧桐らの歸る事遲きは予のために夜を短くしてくれるなり。

   *

とある(全文)。

『十五日の朝は三十四度七分という体温が少しも上らなかった。もう居士もあきらめて、前年秋秀真氏の造った石膏像を取上げ、その裏に「自(みづから)題(だいす) 土一塊牡丹生けたる其下に 規 明治三十五年五月十五日」と書きつけたほどであった』これは「病牀六尺」の「九」(後の末尾クレジットは五月十八日)に出る。やはり全文を初出で示す。

   *

○余が病氣保養の爲めに須磨に居る時、「この上になほ憂き事の積れかし限りある身の力ためさん」といふ誰やらの歌を手紙などに書いて獨りあきらめて居つたのは善かつたが、今日から見ると其は誠に病氣の入口に過ぎないので、昨年來の苦みは言語道斷殆んど豫想の外であつた。其が續いて今年もやうやう五月といふ月に這入つて來た時に、五月といふ月は君が病氣の爲め厄月ではないか、と或友人に驚かされたけれど否大丈夫である去年の五月は苦しめられて今年はひま年であるから、などゝ寧ろ自分では氣にかけないで居た。ところが五月に這入つてから頭の工合が相變らず善くないといふ位で每日諸氏のかはるがはるの介抱に多少の苦しみは紛らしとつたが、五月七日といふ日に朝からの苦痛で頭が惡いのかどうだか知らぬが、兎に角今までに例の無い事と思ふた。八日には少し善くて、其後又た天氣工合と共に少しは持ち合ふてゐたが十三日といふ日に未曾有の大苦痛を現じ、心臟の鼓動が始まつて呼吸の苦しさに泣いてもわめいても追つ附かず、どうやらかうやら其日は切拔けて十四日も先づ無事、唯しかも前日の反動で弱りに弱りて眠りに日を暮らし、十五日の朝三十四度七分といふ體溫は一向に上らず、其によりて起りし苦しさはとても前日の比にあらず最早自分もあきらめて、其時恰も牡丹の花生けの傍に置いてあつた石膏の肖像を取つて其裏に「自題。土一塊牡丹生けたる其下に。年月日」と自ら書きつけ、若し此儘に眠つたらこれが絶筆であるといはぬ許りの振舞、其も片腹痛く、午後は次第々々に苦しさを忘れ、今日は恰も根岸の祭禮日なりと思ひ出したるを幸に、朝の景色に打つてかへて、豆腐の御馳走に祝の盃を擧げたのは近頃不覺を取つたわけであるが、併し其も先づ先づ目出度いとして置いて、扨て五月もまだこれから十五日あると思ふと、どう暮してよいやらさぱりわからぬ。

○五月十五日は上根岸三島神社の祭禮であつてこの日は每年の例によつて雨が降り出した。しかも豆腐汁木の芽あえ[やぶちゃん注:ママ。句も同じ。]の御馳走に一杯の葡萄酒を傾けたのはいつにない愉快であつたので、

  この祭いつも卯の花くだしにて

  鶯も老て根岸の祭かな

  修復成る神杉若葉藤の花

  引き出だす幣に牡丹の飾り花車[やぶちゃん注:「だし」。]

  筍に木の芽をあえて祝ひかな

  齒が拔けて筍堅く烏賊こはし

  不消化な料理を夏の祭かな

  氏祭これより根岸蚊の多き

   *]

 

 「病牀六尺」を読んで著しく目につくのは、絵画に関する文字の多いことである。常時居士の目に触れた絵画は主として木版刷の画本であったが、居士はこれによって病牀徒然の時を銷(しょう)すと共に、何らか語るべきものをその裏[やぶちゃん注:「うち」。]に見出し得たのであった。居士の画本を見るのは必ずしも画の鑑賞のみにとどまらぬ。座右の画本から鶴を画いたものを探し出して、その趣向を比較して見たり、広重の「東海道続絵(つづきえ)」には何処にも鳥が画いてないが、五十三駅の一枚画を見ると、原駅のところに鶴が二羽田に下りており、袋井駅のところでは道ばたの制札の上に雀が一羽とまっていた、ということを発見したりする。文鳳(ぶんぽう)、南岳(なんがく)の「手競画譜(しゅきょうがふ)」のうち、文鳳の画十八番について一々こまかな説明をしているところもあるが、あれなどは居士が如何に画本を楽しんで見ていたかを語るもので、殆ど画を読むの域に達しているかと思う。

[やぶちゃん注:『広重の「東海道続絵(つづきえ)」には何処にも鳥が画いてないが、五十三駅の一枚画を見ると、原駅のところに鶴が二羽田に下りており、袋井駅のところでは道ばたの制札の上に雀が一羽とまっていた、ということを発見したりする』「病牀六尺」の「卅五」(後の末尾クレジット「(六月十六日)」)の箇条書きの中の一条。『鳥づくしといふわけではないが』(太字「鳥づくし」は原典では傍点「●」)のという書き出しで始まるアフォリズム風超短編エッセイ群七篇である。以下の本文の太字は原典では傍点「◦」

   *

一、廣重の東海道續繪といふのを見た所が其中に何處にも一羽も鳥が畫いてない。それから同人の五十三驛[やぶちゃん注:これで「つぎ」と読ませているらしい。]の一枚畫を見た所が原驛[やぶちゃん注:これで「はらじゆく(はらじゅく)」と読ませているらしい。]の所にが二羽田に下りて居り袋井驛[やぶちゃん注:これで「ふくろゐじゆく(ふくろいじゅく)」と読ませているらしい。]の所に道ばたの制札の上にが一羽とまつて居つた。

   *

この「廣重の東海道續繪」というのは、知られた歌川広重の代表作「東海道五十三次」のヴァージョンの一つ。天保三(一八三二)年に初めて東海道を旅した広重が、その途中に写生した沿道の風景を版画にし、翌年、保永堂と仙鶴堂の合梓(ごうし)で「日本橋朝之景」から、順次、開版して行き、天保五年一月に五十五枚のシリーズを完成した。途中で保永堂が版権を独占したらしく、同版元のものが『保永堂版』と呼ばれ、二十種に亙る東海道シリーズの中でもこれが最も知られたものであり、子規の言っている「五十三驛」というのがその保永堂版である。ウィキの「東海道五十三次浮世絵では、三種に大別される「保永堂版」・「行書版」・「隷書版」の全五十五図を比較しながら細部まで見ることが出来るが、

●「保永堂版」の、

「原驛」はこれ(田中の鶴であるが、正岡子規には悪いが、この富士の中腹には別に十七羽の鳥影が列を成している。子規が「これも鶴だからいいんだ」とぶつくさ言うのなら、まあ、それはそれでいいが

「袋井驛」はこれ制札の上に非常に尾の長い鳥(それもその尾はピンと上を向いている!)。しかし、これは私には雀には見えない

である。因みに、試みに私も以上の三種を一枚一枚、総て見てみたが、確かに、「保永堂版」には上記の二枚だけにしか鳥は描かれていないようだ。但し、「保永堂版」ではない、

●「行書版」ヴァージョンでは(以下のリンクは総てウィキの「東海道五十三次浮世絵の各個画像)、

・「日本橋」に遠景を飛ぶ様式化した千鳥模様風の鳥が五羽(朝烏か)

・「川崎」は大型の鷺が二羽

・「鞠子」に三羽(これは絶対に確かな雀)

描かれており、

●「隷書版」ヴァージョンでは、

・「大磯」(鴫立庵)に立つ一羽

・「興津」の廻船の帆の彼方に列を成す有意な数の鳥影(シルエット)

・「白須賀」の海上に二十羽の列を成す鳥影

・「桑名」の渡舟の帆の彼方に多数の鳥影

が描かれていて、個体数でなら、「隷書版」に鳥は断然、多く描かれている。子規が見た「東海道續繪」というのは、これら「保永堂版」・「行書版」・「隷書版」完本の出る前の、単発で出していたものか?(刷りの悪さや劣化が想起される) 法政大学図書館の「正岡子規文庫」(子規の旧蔵書)を見たが、残念ながら、これらの絵図は含まれていなかった。

『文鳳(ぶんぽう)、南岳(なんがく)の「手競画譜(しゅきょうがふ)」のうち、文鳳の画十八番について一々こまかな説明をしているところもある』「病牀六尺」の「六」(「(五月十二日)」分)。ここ(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)。「文鳳」は河村文鳳(安永八(一七七九)年~文政四(一八二一)年)で、山城国出身で優れた人物画や山水画で知られた。ウィキの「河村文鳳」によれば、『歌川国芳』、『歌川国貞、渓斎英泉など後代の浮世絵師等にも大きな影響を与えた。俳句にも秀でており』、『上田秋成、与謝蕪村等と交遊し、俳画も好んで描いた。生前は有力絵師の一人でだったようで』、『文鳳原画による』「文鳳畫譜」・「帝都雅景一覽」・「文鳳漢畫」・「文鳳山水遺稿」などの画譜類が十『種類以上』、『出版されているが、なぜか現存作品は極めて少ない。速い運筆による人物画を得意とし』たとある。「南岳」は渡辺南岳(明和四(一七六七)年~文化一〇(一八一三)年)。京都の人。円山応挙の高弟で「応門十哲」に数えられた。美人画を得意とし、後年には尾形光琳に私淑し、その技法も採り入れている。後、江戸に出て、円山派の画風を伝える一方、谷文晁や酒井抱一らとも交遊した。この「南岳文鳳手競畫譜」というのは文化八(一八一一)年刊らしいが、稀覯画譜らしい。]

 

 「如何にして日を暮すべきか」これが居士の大問題であった。従来楽しみとしていたことも、かえって皆苦しみの種になった。畢竟周囲と調和することが甚だ困難になったので、「麻痺剤の十分に効を奏した時はこの調和がやや容易であるが、今はその麻痺劑が十分に効を奏することが出來なくなつた」というのである。「情ある人我病床に來つて余に珍しき話など聞かさんとならば、謹んで余は爲に多少の苦を救はるゝことを謝するであらう。余に珍しき話とは必ずしも俳句談にあらず、文學談にあらず、宗教、美術、理化、農藝、百般の話は知識なき余に取つて悉く興味を感ぜぬものはない」と居士はいっている。「病牀六尺」の材料は訪客の話頭から生れたものも少くないが、それにしても範囲が実に広汎である。忽(たちまち)にして釣の話、忽にして能の話、忽にして水難救済会の話、信玄と謙信との比較が出るかと思えば、演劇界の改良はむしろ壮士俳優の任務であるというような議論も出る。あるいは庭園を論じ、あるいは盆栽を論じ、芝居と能との比較を論じ、あるいは女子教育の必要を論じ、あるいは飯炊(はんすい)会社を興さんことを希望するなど、殆ど応接に遑がない。あらゆる楽(たのしみ)は変じて苦となる居士の境涯において、こういう活力が那辺に蔵されているか、不思議というより外に適当な言葉は見当らぬようである。

[やぶちゃん注:「麻痺剤の十分に効を奏した時はこの調和がやや容易であるが、今はその麻痺劑が十分に効を奏することが出來なくなつた」「情ある人我病床に來つて余に珍しき話など聞かさんとならば、謹んで余は爲に多少の苦を救はるゝことを謝するであらう。余に珍しき話とは必ずしも俳句談にあらず、文學談にあらず、宗教、美術、理化、農藝、百般の話は知識なき余に取つて悉く興味を感ぜぬものはない」「病牀六尺」の「四十」(「六月二十一日」)。ここ(国立国会図書館デジタルコレクションの初出画像)。

「釣の話」複数箇所あり、ドンコ釣りは前の注で出したが、「二十九」(六月十日)が所謂、「釣尽くし」の章段である。以下、リンクが面倒なので、初出ならば国立国会図書館デジタルコレクションのこちら、新字新仮名でよいならば「青空文庫」のこちらで、各自、章番号などで探されたい。

「能の話」思いの外、多い。「十五」(五月二十七日)で狂言との歴史的絡みに触れ、「三十三」(六月十四日)では現代(当代)能楽界へ苦言を呈し、「五十二」(七月三日)では能と近世以降の芝居の比較論など(宵曲の言う「芝居と能との比較を論じ」)、快刀乱麻の体(てい)を成す。

「水難救済会の話」「三十四」(六月十五日)。

「信玄と謙信との比較」「三十六」(六月十七日)。

「演劇界の改良はむしろ壮士俳優の任務であるというような議論」「三十七」(六月十八日)。

「庭園を論じ」「四十六」(六月二十七日)。

「盆栽を論じ」「五十一」(七月二日)。

「女子教育の必要を論じ」「六十五」(七月十六日)から「六十七」(七月十八日)まで連続している。

「飯炊(はんすい)会社を興さんことを希望する」「飯炊」は「炊飯」に同じい。飯炊きを専門にする業者である。「七十三」(七月二十四日)。]

 

 居士の枕頭にはかつて「古白曰来」の下に書かれた千枚通しがある。「俳句分類」に従事していた時分は、毎日五枚や十枚の半紙に穴をあけて綴込まぬことがなかったため、錐の外面は常に光を放ち、極めて滑(なめらか)であった。或日ふと取上げて見ると、錐は全く錆びてしまって、二、三枚の紙を通すにも錆に妨げられて快く通らぬ。居士はここにおいて「錐に錆を生ず」の歎を発し、英雄髀肉(ひにく)の歎に比せざるを得なかった。―――「病牀六尺」の中にはこういう箇所もある。

[やぶちゃん注:『「古白曰来」の下に書かれた千枚通し』既に「古白曰来」の私の注で本文全部を電子化し、画像も載せてある。

「或日ふと取上げて見ると、錐は全く錆びてしまって、二、三枚の紙を通すにも錆に妨げられて快く通らぬ。居士はここにおいて「錐に錆を生ず」の歎を発し、英雄髀肉(ひにく)の歎に比せざるを得なかった」「四十九」(後の末尾クレジット「(六月三十日)」)。初出で全文を翻刻する。一部は底本の書き込みに拠ったもので示し、一箇所、句点を追加した。

   *

○英雄には髀肉の嘆といふ事がある。文人には筆硯生塵[やぶちゃん注:「ひつけんちりをしやうず(ひっけんちりをしょうず)」。]といふ事がある。余も此頃「錐錆を生ず」[やぶちゃん注:太字は初出底本では傍点「◦」。]といふ嘆を起した。此の錐といふのは千枚通しの手丈夫な錐であつて、之を買うてから十年餘りになるであらう。これは俳句分類といふ書物の編纂をして居た時に常に使ふて居たもので其頃は每日五枚や十枚の半紙に穴をあけて、其書中に綴込まぬ事はなかつたのである。それ故錐が鋭利といふわけでは無いけれど、錐の外面は常に光を放つて極めて滑らかであつた。何十枚の紙も容易く突き通されたのである。それが今日不圖手に取つて見たところが、全く錆てしまつて、二三枚の紙を通すのにも錆の爲に妨げられて快く通らない。俳句分類の編纂は三年ほど前から全く放擲してしまつて居るのである[やぶちゃん注:下線太字は初出底本では傍点「ヽ」。]。「錐に錆を生ず」といふ嘆を起さゞるを得ない。

   *

因みに、「髀肉の嘆」は、三国時代の蜀の劉備が、長い間、馬に乗って戦場へ行かなかったため、腿(もも)に無駄な肉がついてしまった、と嘆いたという「三国志」の「蜀書先主傳 註」の故事に拠るもので、活躍したり、名を挙げたりする機会がないことを嘆くことを指す比喩。

 以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。後の文末クレジットでは「(六月二日)」分の全文。例の国立国会図書館デジタルコレクションのこの初出切貼帳の画像を視認して校合した。なお、底本「評伝 正岡子規」の「狗子」のルビ「くし」に従った(こう読んでも、無論、構わない)が、私は「くす」と読みたい人間である。なお、これは「趙州狗子」の公案で、これは既に注した。]

 

○余は今迄禪宗の所謂悟りといふ事を誤解して居た。悟りというふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平氣で生きて居る事であつた。

○因みに問ふ。狗子(くす)に佛性(ぶつしやう)ありや。曰、苦。

 又問ふ。祖師西來(そしせいらい)の意は奈何。曰、苦。

 又問ふ。………………………。曰、苦。

 

[やぶちゃん注:「祖師西來の意は奈何」やはり人口に膾炙した(んな評言は公案にとっては死の宣告と同じだ。人口に膾炙した公案など「糞の糞の極み」である)公案の一つ。やはり、私の「無門関 全 淵藪野狐禅師訳注版」から引こう。

   *

  三十七 庭前栢樹

趙州、因僧問、如何是祖師西來意。州云、庭前栢樹子。

無門曰、若向趙州答處見得親切、前無釋迦後無彌勒。

   *

  三十七 庭前の栢樹(はくじゆ)

 趙州(でうしう)、因みに、僧、問ふ、

「如何なるか是れ、祖師西來(せいらい)の意。」

と。

 州云く、

「庭前の栢樹子(はくじゆし) 。」

と。

   *

  三十七 庭の柏(かしわ)の樹(き)

 趙州和尚は、ある時、機縁の中で、僧に問われた。

「達磨大師は、何故、西に行ったか?――禅とは何か?」

 趙州和尚は言った。

「あの庭の柏の樹。」

   *

リンク先では私は敢えて述べていないが、この「柏」は裸子植物門マツ綱マツ目ヒノキ科コノテガシワ属コノテガシワ Platycladus orientalis を指し、この木は中国では棺材として使用されてきた。]

 

 「病牀六尺」の中にはこういう箇所もある。

 居士の病牀における煩悶は、生死出離(しょうじしゅつり)の大問題ではない。病気が身体を衰弱せしめたためか、脊髄系を侵されているためか、とにかく生理的に精神の煩悶を来(きた)すのだといい、死生の問題は大問題ではあるが、それは極(ごく)単純な事であるので、一旦あきらめてしまえば直に解決される、ということを「病牀六尺」に書いたことがある。この「あきらめる」ということについて或人から質問が来た。死生の問題はあきらめてしまえば解決されるということと、かつて兆民居士を評して「あきらめる事を知って居るが、あきらめるより以上のことを知らぬ」といったことと撞著(どうちゃく)しておりはせぬかというのである。居士はこれに対し譬喩(ひゆ)を以て答えた。

 子供が養生のために親から灸を据えられる場合、灸はいやだといって泣いたり逃げたりするのは、あきらめがつかぬのである。到底逃げるにも逃げられぬ場合だと観念して、親のいう通りおとなしく灸を据えてもらう。これは己にあきらめたのである。しかしその間灸のあつさに堪えず、棉神上に苦悶を感ずるとすれば、それは僅にあきらめたのみで、あきらめる以上の事は出来ない。親のいう通りおとなしく灸を据えるのみならず、その間書物を見るとか、いたずら亭でもしているとか、そういう事で灸の事を少しも苦にしなくなれば、はじめてあきらめる以上の域に達するのである。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。初出で校合した。最後に改めて全文を示す。]

 

兆民居士が『一年有半』を著した所などは、死生の問題についてはあきらめがついて居つたように見えるが、あきらめがついた上で夫の天命を楽しんでというような楽しむという域には至らなかったかと思う。居士が病気になって後頻りに義太夫を聞いて、義太夫語りの評をして居る処などはややわかりかけたようであるが、まだ十分にわからぬ処がある。居士をして二、三年も病気の境涯にあらしめたならば、今少しは楽しみの境涯にはいる事が出来たかも知らぬ。病気の境涯に処しては、病気を楽しむという事にならなければ生きて居ても何の面白味もない。

 

 この一段は「仰臥漫録」に「理が分ればあきらめつき可申、美が分れば樂み出來可申候」と書いたところを、更にわかりやすく敷街したもので、前年の「命のあまり」に説かるべくして説かれなかったところを、ここで補足したように思われる。この「あきらめ」と「樂しみ」に関する見解の如きは、居士のような病者にしてはじめて発せらるるものでなければならぬ。

[やぶちゃん注:『病気が身体を衰弱せしめたためか、脊髄系を侵されているためか、とにかく生理的に精神の煩悶を来(きた)すのだといい、死生の問題は大問題ではあるが、それは極(ごく)単純な事であるので、一旦あきらめてしまえば直に解決される、ということを「病牀六尺」に書いたことがある』「四十二」(後の文末「(六月二十四日)」クレジット)の条。以下に初出で示す。引用部のみを明らかにするために、そこのみ、初出と一行字数を同じにした。一部に句点を追加した。平仮名型約物の「こと」(「と」の上に「ヽ」が付着したもの)は正字化した。一部の活字脱字は岩波文庫版を参考に直した。

   *

○今朝起きると一封の手紙を受取つた。それは本鄕の某氏より來たので余は知らぬ人である。その手紙は大略左の通りである。

 拜啓昨日貴君の病牀六尺を讀み感ずる所あり

 左の數言を呈し候

 第一、かゝる場合には天帝又は如來とゝもに

  あることを信じて安んずべし

 第二、もし右信ずること能はずとならば人力の

  及ばざるところをさとりてたゞ現狀に安ん

  ぜよ現狀の進行に任ぜよ痛みをして痛まし

  めよ大化のなすがまゝに任ぜよ天地萬物わ

  が前に出沒隱現するに任ぜよ

 第三、もし右二者共に能はずとならば號泣せよ

  煩悶せよ困頓せよ而して死に至らむのみ

 小生は甞て瀕死の境にあり肉體の煩悶困頓を

 免れざりしも右第二の工夫によりて精神の安

 靜を得たりこれ小生の宗教的救濟なりき知ら

 ず貴君の苦痛を救濟し得るや否を敢て問ふ病

 間あらば乞ふ一考あれ(以下略)

此親切なる且つ明鬯平易なる手紙は甚だ余の心を獲たものであつて、余の考も殆んど此手紙の中に盡きて居る。唯余に在つては精神の煩悶といふのも、生死出離の大問題ではない、病氣が身體を衰弱せしめたゝめであるか、脊髓系を侵されて居る爲めであるか、とにかく生理的に精神の煩悶を來すのであつて、苦しい時には、何とも彼とも致し樣の無いわけである。併し生理的に煩悶するとても、その煩悶を免れる手段は固より『現狀の進行に任せる』より外は無いのである。號叫し煩悶して死に至るより外に仕方の無いのである。たとへ他人の苦が八分で自分の苦が十分であるとしても、他人も自分も一樣にあきらめるといふより外にあきらめ方はない。此の十分の苦が更に進んで十二分の苦痛を受くるやうになつたとしても矢張りあきらめるより外はないのである。けれども其れが肉體の苦である上は、程度の輕い時はたとへあきらめる事が出來ないでも、なぐさめる手段がない事もない。程度の進んだ苦に至つては、啻になぐさめる事の出來ないのみならず、あきらめて居ても尚あきらめがつかぬやうな氣がする。盖しそれは矢張りあきらめのつかぬのであらう。笑へ。笑へ。健康なる人は笑へ。病氣を知らぬ人は笑へ。幸福なる人は笑へ。達者な兩脚を持ちながら車に乘るやうな人は笑へ。自分の後ろから巡査のついて來るのを知らず路に落ちてゐる財布をクスネンとするやうな人は笑へ。年が年中晝も夜も寐床に橫たはつて、三尺の盆栽さへ常に目より上に見上げて樂しんで居るやうな自分ですら、麻痺劑のお蔭で多少の苦痛を減じて居る時は、煩悶して居つた時の自分を笑ふてやりたくなる。實に病人は愚なものである。これは余自身が愚なばかりでなく一般人間の通有性である。笑ふ時の余も、笑はるゝ時の余も同一の人間であるといふ事を知つたならば、餘が煩悶を笑ふ所の人も、一朝地をかふれば皆余に笑はるゝの人たるを免れないだらう。咄々大笑。(六月二十一日記)

   *

「困頓」は「こんとん」で「疲れ果てること・困り果てること」の意。「明鬯」は「めいちやう(めいちょう)」で「明暢」に同じい(「鬯」も「のびる」の意)。「言葉や論旨がはっきりしていること」を指す。

『この「あきらめる」ということについて或人から質問が来た……」「病牀六尺」の「七十五」(後の文末「七月二十六日」クレジット分)である。太字は初出では傍点「●」。

   *

○或人からあきらめるといふことに就て質問が來た。死生の問題などはあきらめて仕舞へばそれでよいといふた事と、又甞て兆民居士を評して、あきらめる事を知つて居るが、あきらめるより以上のことを知らぬと言つた事と撞着して居るやうだが、どういふものかといふ質問である。それは比喩を以て説明するならば、こゝに一人の子供がある。其子供に、養ひの爲めに親が灸を据ゑてやるといふ。其場合に當つて子供は灸を据ゑるのはいやぢやといふので、泣いたり逃げたりするのは、あきらめのつかんのである。若し又其子供が到底逃げるにも逃げられぬ場合だと思ふて、親の命ずる儘におとなしく灸を据ゑて貰ふ。是は已にあきらめたのである。併しながら、其子供が灸の痛さに堪へかねて灸を据ゑる間は絶えず精神の上に苦悶を感ずるならば、それは僅にあきらめたのみであつて、あきらめるより以上の事は出來んのである。若し又其子供が親の命ずる儘におとなしく灸を据ゑさせる許りでなく、灸を据ゑる間も何か書物でも見るとか自分でいたづら書きでもして居るとか、さういふ事をやつて居つて、灸の方を少しも苦にしないといふのは、あきらめるより以上の事をやつて居るのである。兆民居士が一年有半を著した所などは死生の問題に就てはあきらめがついて居つたやうに見えるが、あきらめがついた上で夫[やぶちゃん注:「か」。]の天命を樂しんでといふやうな樂むといふ域には至らなかつたかと思ふ。居士が病氣になつて後頻りに義太夫を聞いて、義太夫語りの評をして居る處などは稍〻わかりかけたやうであるが、まだ十分にわからぬ處がある。居士をして二三年も病氣の境涯にあらしめたならば今少しは樂しみの境涯にはいる事が出來たかも知らぬ。病氣の境涯に處しては、病氣を樂むといふことにならなければ生きて居ても何の面白味もない。

   *

私は、この子規の答えには「何の面白味も」感じないし、正直、思想もない中国の似非哲人が謂いそうな「糞」のような比喩としか感じない。そのような「樂しみの境涯に」ある人間のところに古白は何故に来たって「曰來」と言うのか? 而も、それを記して告白文学として公開することが「樂しみの境涯にはいる事」であり、「病氣の境涯に處しては、病氣を樂むといふことにな」るのだと言うか? 因みに言っておくが、私は幼少時に左肩関節骨髄部結核性カリエスに罹患している。

2018/06/28

譚海 卷之二 淺野家士大石内藏助等四十七士人墓所の事 附京墨染遊女屋伊賀屋の事

 

淺野家士大石内藏助等四十七士人墓所の事 附京墨染遊女屋伊賀屋の事

○淺野家四十七人の墓所は江戸芝泉岳寺にあり。此外に三箇所有、京都・播州・江州となり。京都は山科郡瑞光院と云(いふ)地中に有、是は往昔淺野家の先祖の母弟(ははのおとと)此寺の住持になられし緣あるゆゑ、四十七人諸家へ御預けの節、瑞光院の當住四十七人の命乞(いのちごひ)のため江戸へ御願に下り候て、諸家の宅へも伺候し、大石内藏助等に對面を遂(とげ)たる時、いづれも後生菩提を弔ひくれ候樣に住持へたのみ、鬢の毛を贈りたるを持歸り、墳墓に築(きづき)たるものと云、瑞光院は禪宗也。又播州なるは赤穗に有、これは淺野内匠頭殿現在の時、海鹽の利を命ぜられ、今に依賴して煮鹽をもちて産業となせるゆゑ、その民は舊主の德を思ふて、江戸泉岳寺のごとくその地に墳墓をたて、四十七人の墓をも模し造るとぞ。又江州なるは大石村と云所に有。此村に大石氏菩提所の寺ある故、其寺に四十七人の墳墓を建(たて)たる也。赤穗・大石村二箇所の經營は、江戸にあるよりは模造も大なる墓也とぞ。又京都伏見墨染の遊女屋伊賀屋と云者の所は、往時四十七人浪人の間、時々遊興せし茶屋なり。其後年月をへて墨染の繁華零落し遊女廢しぬれば、此伊賀屋生産のなきまゝ、大石初め諸士の書殘したる眞蹟を所持せしゆゑ、それを屛風に仕立披露せしまゝ、好事のもの聞(きき)つたへ、伊賀屋處(いがやがところ)へ向行(むきゆき)て酒肴を求め、その次(ついで)に此屛風等を所望し、一見する事になりて、今は是をもちて産業の助(たすけ)とする事に成(なり)たり。四十七人の書籍・詩歌・俳諧の發句等多く有、江戸へも持來りて見し事也。

[やぶちゃん注:「淺野家四十七人の墓所は江戸芝泉岳寺にあり」実際には同墓所には四十八人の墓がある。四十七士が討ち入り(元禄十五年十二月十四日(一七〇三年一月三十日)寅の刻(午前四時過ぎ))から引き揚げる最中、寺坂吉右衛門信行が行方をくらませ(理由不明)、その後、寺坂は姫路藩士となり、討入から四十五年後の延享四(一七四七)年十月六日に亡くなった後、泉岳寺に埋葬された(「譚海」の内容は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の間の奇聞奇譚)。また、もう一人は「松の廊下」の刃傷事件(発生:元禄十四年三月十四日(一七〇一年四月二十一日)巳の下刻(午前十一時半過ぎ)を赤穂に急報した萱野三平重実の墓で、萱野は父と意見がぶつかり、討ち入りに参加出来なったことから、元禄十五年一月十四日浅野内匠頭の月命日を一期と決して自刃して果てた。その後、その志に鑑み、彼等とともに埋葬されたのであった。

「瑞光院」京都市山科区安朱堂ノ後町(あんしゅどうのうしろちょう)に現存する臨済宗紫雲山瑞光院。浅野長矩公の墓(大石良雄建立)と赤穂義士四十六人(寺坂信行の分がないのであろう)の遺髪埋葬の塔を中心とした廟所がある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「地中」「寺中」の誤記ではあるまいか?

「播州なるは赤穗に有」現在の兵庫県赤穂市加里屋にある曹洞宗台雲山(たいうんざん)花岳寺(かがくじ)。赤穂藩主の菩提寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「江州なるは大石村と云所に有」現在の滋賀県大津市大石東にある浄土宗明見山浄土寺のことであるが、「四十七人の墳墓」は、ない。大石家の菩提寺で、大石家歴代の墓とともに四十七士の位牌はあるここ(グーグル・マップ・データ)。従って、「赤穗・大石村二箇所の經營は、江戸にあるよりは模造も大なる墓也とぞ」というのは不審。なお、浄土真宗大谷派宗玄寺の公式サイト「宗玄寺エンタープライズ」の「忠臣蔵にゆかりの地」のページによれば、他に義士一党の墓(供養塔)とされるものは、

・山形県金山町の清竜廃寺跡に出羽新庄城主戸沢家二代上総介が建立した浪士らの供養塔と伝えるものが廃寺跡山中に四十六基。

・京都府京都市上京区の妙蓮寺に片岡源五右衛門の妻が建立したもの。

・兵庫県社町の観音寺(家原浅野家の香華寺)。

・和歌山県高野町の金剛峰寺奥の院に大石内蔵助の依頼で遠林寺の僧祐海と同行した近松勘六・早水藤左衛門によって建てられた浅野内匠頭の供養墓の他、大石頼母助と四十七士供養墓。

などがある。また、サイト「大阪再発見!」の「赤穂義士の墓」によれば、墓ではないが、

・大阪市天王寺区六万体町にある曹洞宗万松山吉祥寺

は(寛永七(一六三〇)年創建)、『創建当時の住職縦鎌師が赤穂藩主浅野主匠頭長矩』『と親しい間柄で、この寺は大坂における浅野家の菩提寺であった。長矩候は参勤交代の折には必ずこの寺院に立寄ったと』されることから、『義士討ち入りの翌年』二『月、大石内蔵助をはじめとする』四十六士が切腹した後、『足軽の寺坂吉右衛門が四十六『士の遺髪、遺爪、鎖かたびら等に銀』十『両を添えて』、『義士の冥福を祈る碑を建ててくれるよう』、『吉祥寺に依頼したもので、浅野本家広島藩の意向もあり、江戸や赤穂よりも先がけ』て、元文四(一七三九)年に『建立されたという』。しかし、昭和二〇(一九四五)年三月の『大阪大空襲で』、『堂宇をはじめ』、『長矩候揮毫の扁額や義士の遺品など』、『全て』が『灰燼に帰し、残るのは墓石のみ』となったとある。現在、墓に浅野内匠頭長矩候の五輪塔、その『右隣に大石内蔵助の墓、左側』に『大石主税の墓があ』って、『更にその周囲を』四十四『士の』戒名『と行年を刻んだ玉垣が取り囲んでいる』とある。寺坂の逸話として、ここに記しておきたい。

「京都伏見墨染の遊女屋伊賀屋と云者の所は、往時四十七人浪人の間、時々遊興せし茶屋なり……」「京都伏見墨染」は現在の京都市伏見区深草墨染町((グーグル・マップ・データ)。京都と伏見を往来する商人や伏見から山科を経て東海道を往還する旅人などで賑わい、江戸中期には墨染寺の門前に芝居小屋や遊里が出来て栄えたが、明治以後、衰退した)であるが、この話は不詳識者の御教授を乞う。]

譚海 卷之二 大坂東照宮御再興の事

 

大坂東照宮御再興の事

○大坂天滿宮境内に東照宮の御社ありしを、安永八年再興あり。修復料壹萬八千兩を大坂町中へ割付(わりつけ)御取立(おとりたて)あり、別當より奉納金の請取書を出し納(おさめ)けるとぞ。其經營もとありし地面より八尺高く築立(つきたて)、僧房等美麗に出來(しゆつたい)せり。別當の庭に松柏數十本あり、根へ土をかくれば枯るゆゑ、大木の根をば石にて穴に築立、石の外を八尺土を置(おき)候由、仍(よつ)て大木も甚(はなはだ)低く見え、甚をかしき庭の樣子に成(なり)たり。猶又出火等の節(せつ)神輿をのけ候御旅所(おたびしよ)生玉(いくたま)に建立(このりふ)あり、同じく美麗に出來せり。此奉納金の鳴(なり)やうやう謐(しづま)りたる所、又々大坂町中濱地御用有ㇾ之間(これあるあひだ)、御取上なされ候よし、もし又入用の者は買上(かひあげ)候金子(きんす)指出(さしいだし)候樣に被仰付(おほせつけられ)候。濱地と申(まうす)はみなみな河岸付(づかしき)の居宅に向ひたる地面にて、土藏建置(たておき)し所なれば、無ㇾ據(よんどころなく)入用(いりよう)の地面なれば、人々買上金(かひあげきん)指出候。右買上金御定(おさだめ)は、居宅の地の沽券直段(こけんねだん)に二割引に被仰付坪割にて御取立被ㇾ成(なられ)候、右上納金指出高(さしだしだか)三十壹萬四千兩と申(まうす)事也。但(ただし)東照宮御社は往時松平下總守殿京都所司代御勤(おつとめ)の時、大坂天滿(てんま)に其藏屋敷ありしを、御願(ごぐわん)ありて初(はじめ)て御社建立ありしと也。

[やぶちゃん注:「大坂川崎東照宮東照宮」江戸時代から明治初期にかけて現在の大阪市北区にあった川崎東照宮。ウィキの「川崎東照宮」によれば、東照大権現徳川家康を祀る東照宮の一社であったが、幕府崩壊と明治維新により廃絶した。『かつての境内には現在造幣局と大阪市立滝川小学校が建ち、滝川小学校正門横には川崎東照宮跡の石碑がある』とある。この附近(グーグル・マップ・データ)にあった。『川崎東照宮は家康一周忌の』元和三(一六一七)年四月十七日、『当時大阪藩主であった松平忠明(家康の外孫)により』、『天満本願寺(別名: 川崎本願寺)の跡地(織田有楽斎の別荘跡地でもあった』『)付近に建立されたが、その背景には大坂の庶民の間にあった豊臣家への思慕の念を払拭する狙いがあったとみられている』。『祭神は東照大権現(徳川家康)ということで、その本地仏は家康自身が信仰していた所縁の厄除薬師如来坐像』であった。『別当寺として神護山建国寺が置かれ、例祭の「権現祭」には』四月十七日『(家康の命日)と』九月十七日『が定められた』。その内、四月十七日の『祭は家康の命日ということもあり、普段は高い塀で囲まれ』、『門を閉ざしていた境内が』、『開放され』、『一般町人にも家康肖像の拝観が許され、一説には約』十『万人もの参拝者が訪れる「浪花随一の紋日」として大坂市中随一の賑わいを見せた』とされ、また、『春・秋両祭の前々日である』十五日からの五日間は『幕命により』、『大坂の各町では家々の軒先に提灯が掲げられ』、『その様は大坂の春と秋の風物詩でもあった』という。『しかし一方で、同社は』、『大坂町人の一部から「胡乱」』(うろん)『(胡散臭い)と思われていたらしいことも記録に残されている』。『川崎東照宮は』天保八(一八三七)年二月十九日(グレゴリオ暦三月二十五日)に起こった「大塩平八郎の乱」で『社殿を焼失し、後に再興したが、幕末の戊辰戦争時には長州藩の陣が置かれ、明治維新により』、『反徳川と豊臣再興の気風が興る中、敷地が造幣寮(現・造幣局)に充てられることとなり』、明治六(一八七三)年、『廃絶した』。但し、この時、『東光院(萩の寺)に本地仏である厄除薬師如来坐像を遷座し、現在は三十三観音堂の本尊となって』おり、『川崎東照宮の本地堂「瑠璃殿」も移築され』、『東光院の東照閣仏舎利殿(あごなし地蔵堂)となっている』。『その他に、東照宮の石灯籠・鳳輦庫が大阪天満宮に移されている』。『なお、「権現祭」は東照宮の廃絶後も天満六組の応援を受けて』、明治四〇(一九〇七)年まで『続き、その後は東光院の「萩まつり道了祭」に受け継がれている』とある。

「安永八年」一七七九年。因みに、当時の大坂城代(大阪城はこの川崎東照宮の大川を挟んだ南東直近である)は常陸笠間藩主牧野貞長である。

「別當」前注にある通り、神護山建国寺。同社廃絶とともに廃寺。

「生玉」現在の大阪府大阪市天王寺区生玉町にある生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)。(グーグル・マップ・データ)。

「此奉納金の鳴やうやう謐りたる所」この奉納金問題がやっと収まったかと思った頃。

「濱地御用」川沿いの土地を当時の大阪では「濱地」と呼んだ。曾根崎新地のひろ氏のサイト「大塩の乱資料館」にある幸田成友著「江戸と大阪によれば、この「濱地」『に建てた納屋を住居地』、『即ち』、『火焚所とすることは厳禁であつた。宝暦七年』()『から浜地冥加銀を納めしめた。総額銀三百六貫目余で、その徴収及び上納は惣年寄の手で取扱つた。浜側に作る納屋は必ず足駄作(ヅクリ)といつて下を囲ふことを許さない。これも河水をさへぎらぬやう』、『との工夫から出てゐる。乞食を追払ふのは火の用心のためであ』った、とある。同ページを見ると、大阪での川筋に関する取り締り事項は「川筋掟」として、微に入り細に入って存在したことが判る。下水道の定期的な浚渫義務に始まり、『塵芥を棄てるものあらば』、『町中に過銭を課する、川筋沿岸に畠を作り又は家を建てゝ商売を営んではならぬ、橋上より塵芥を投ずる者あらば、橋詰両町で捕縛の上、出訴せよと』あり、「川筋掟」の第九条には、『「浜側町境の外、納屋境に垣を結んで岸岐』(がんぎ:河又は海沿いの岸の形式の一つで、石造りで階段状のもの。江戸時代の荷揚げ場の最も普通の形式である)『水際に至らしめ、水汲場に猥』(みだり)『に板を渡し、また流垂形に作物を為すべからず」といひ、第十條に「浜側納屋下を囲ひ、或は非人小屋を掛けて火を焚くあり、速に取払ひ、非人を放逐せよ」とある』とあるのである。この「濱地御用」というのも、そうした幕府(京都所司代・大阪城代)からの河川整備計画の一環の接収であったのであろう。

「沽券」土地や家などを売り渡す際に交わした証文。売り渡し証文。

「松平下總守殿京都所司代御勤の時、大坂天滿(てんま)に其藏屋敷ありしを、御願(ごぐわん)ありて初(はじめ)て御社建立ありし」先のウィキの記載からみると、これは松平忠明(ただあきら 天正一一(一五八三)年~寛永二一(一六四四)年)のことを指すと思われる。但し、彼は「下總守」ではあったが、「京都所司代」になったことはない。川崎東照宮建立の元和三(一六一七)年四月十七日、当時の京都所司代は板倉勝重(天文一四(一五四五)年~寛永元(一六二四)年)で、彼は伊賀守である。京都所司代の一覧を見ても、松平姓の下総守は見当たらない。また、松平忠明なら、天満の関わりも深いことが判る。ウィキの「松平忠明を参照されたい。]

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十五年 「病牀苦語」

 

      「病牀苦語」

 

 居士の「麻痺剤服用日記」は六月二十日からはじまっているが、「これより以前は記さず」とあるから、何時頃から麻痔剤を服用しはじめたものかわからない。その前三月十日から十二日まで記した日記にも已に麻痺剤の事は見えており、二月十五日大原恒徳氏宛の手紙にも「私近來病勢進步每日麻醉劑を用ゐ居候へどもなほ苦痛凌ぎきれず昨今煩悶に煩悶を重ね居候」とあるのを見ると、それ以前からあったことは慥である。一月の容体不穏の時に用いた頓服なるものも、あるいは麻痺剤であったのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「大原恒徳」既出既注。松山在の正岡子規の叔父。]

                                                            

 四月及五月の『ホトトギス』に掲げた「病牀苦語」は、毎日二、三服の麻痺剤を飲んで、漸(ようよ)う暫時の麻痺的愉快を取っている間に、心に浮ぶところを述べたものである。例の秩序なしだと断ってあるけれども、秩序のないことは決してない。病牀における出来事と、居士の心の間題とが綯(な)い交ぜになって、比較的長い章を成している。

[やぶちゃん注:「病牀苦語」は『ホトトギス』明治三五(一九〇二)年四月二十日及び五月二十日発行号に掲載された。新字新仮名であるが、「青空文庫」のこちらで読める。]

 

 「病牀苦語」は先ず肉体の苦痛からはじまる。最初のうちは客の前を憚り、親しい友達の前と知らぬ人の前とでは、多少の差別をしていたようなことも、苦痛が募るに従ってそういう遠慮をする余地がなくなって来る。「野心、氣取り、虛飾、空威張、凡そ是等のものは色氣と共に地を拂ってしまった。昔自ら悟ったと思うて居たなどは甚だ愚の極であつたといふことがわかつた。今迄悟りと思ふて居たことが悟りでなかつたといふことを知つただけが、寧ろ悟りに近づいた方かも知れん。さう思ふて見ると悟りと氣取りと感違へして居る人が世の中にも澤山ある。そいつ等を皆病氣に罹らせて、自分のやうに朝晚地獄の責苦にかけてやつたならば、いづれ皆尻尾を出して逃出す連中に相違ない。兎に角自分は餘りの苦みに天地も忘れ、人間も忘れ、野心も色氣も忘れてしまふて、もとの生れたまゝの裸體にかへりかけたのである」といっている。居士の煩悶は死を恐れるがためではない。むしろ苦痛の甚しいために早く死ねばいいと思う方が多くなっているにかかわらず、宗教家らしい方面の人からは、精神安慰法――死を恐れしめない方法を教えてくれる。「その好意は謝するに餘りあるけれども、見當が違つた注意であるから何にもならぬ」というのである。しかも裸体にかえりかけた居士は、直にそのあとへ左の如く附加えることを忘れていない。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前の部分もこの後も「子規居士」で校合した。]

 

併しかくいへばとて自分は全く死を恐れなくなつたといふわけではない。少し苦痛があるとどうか早く死にたいと思ふけれど、その苦痛が少し減じると最早死にたくも何にもない。大概覺悟はして居るけれど、それでも平和な時間が少し餘計つゞいた時に、不圖死といふことを思ひ出すと、常人と同じやうに厭な心持になる。人間は實に現金なものであるといふことを今更に知ることが出來る。

 

 「病牀苦語」の中には庭に据えた大鳥籠の歴史があり、草花を写生して一々それに歌を讃する記事もある。大鳥籠の最初の周旋者たる浅井黙語氏が、二、三ヵ月のうちに西洋から帰って来ると聞いて、「あるいは面會が出來るであらうと樂しんで居る。默語氏が一昨年出立の前に、秋草の水畫[やぶちゃん注:「みづゑ」と読んでいよう。水彩画。]の額を一面餞別に持て來てこまごまと別れを敍した時には、自分は再度黙語氏に逢ふ事が出來るとは夢にも思はなかつたのである」という一節も、垂死の居士の言として人に迫るものがあるが、それとはまた違った意味で看過しがたいのは家族に関する章である。碧梧桐氏一家の人々が赤羽へ土筆取(つくしとり)に行くに当り、「妹も一所に行くことになつた時には余迄嬉しい心持がした」といい、令妹が帰って来て愉快そうに土筆取の話をするのを聞いて「余は更に嬉しく感じた」とあるのがその一、母堂が碧梧桐氏一家の人と向嶋の花見に行き、「夕刻には恙なく歸られたので、余は嬉しくて堪らなかつた」とあるのがその二である。「内の者の遊山も二年越しに出來たので、余に取つても病苦の中のせめてもの慰みであった。彼等の樂しみは卽ち余の樂みである」と居士は云う。

[やぶちゃん注:「浅井黙語」既出既注の浅井忠は正岡子規の生前に帰国しているので、逢えたはずであるが、幾つか調べてみたが、今のところ、彼が子規を訪れた記事を見出せない。]

 

 家を出でて土筆摘むのも何年目

 病牀を三里離れて土筆取

 たらちねの花見の留守や時計見る

 

などの句が惻々(そくそく)[やぶちゃん注:しみじみと身に沁みて感じること。]として人を動かすのも、この居士のよろこびを直に伝えているためであろう。

 「病牀苦語」は最後に碧、虚両氏と俳句を談ずることが書いてある。その中に「吾々の俳句の標準は年月を經るに從つて愈〻一致する點もあるが、又愈〻遠ざかつて行く點もある。寧ろ其一致して行く處は今日迄に略〻[やぶちゃん注:「ほぼ」。]一致してしまふて、今日以後はだんだんに遠ざかつて行く方の傾向が多いのではあるまいかと思はれる」といい、「芭蕉の弟子に芭蕉のやうな人が無く、其角の弟子に其角のやうな人が出ないばかりでなく、殆ど凡ての俳人は殆ど皆一人一人に違つて居る。それが必然であるのみならず、其違つて居る處が今日の吾々から見ても面白いと思ふのである」というあたりは、晩年の居士の言として頗る傾聴に値する。我見に執するとか、強いて羈絆(きはん)を加えようとかいう痕迹は毫も見えぬ。各人をして各人の賦性(ふせい)のままに、自由に驥足(きそく)を伸(のば)さしめようとするところに、汪洋(おうよう)たる居士の気魄を感ずることが出来る。

[やぶちゃん注:「羈絆(きはん)」「羈」も「絆」も牛馬を繋ぎ止めるものを指す。行動する者を掣肘(せいちゅう)する事柄。制約・規制・束縛のこと。

「賦性(ふせい)」天賦の質。生まれつきの性質。天性。

「驥足(きそく)を伸(のば)さしめ」むというのは、優秀な素質を持っている者がその才能を存分に現わすことが出来るようにしてやることを言う。「驥」は駿馬(しゅんめ)のこと。名馬は大道を疾駆して初めて、その脚力を存分に発揮することが出来るという譬えで、「三国志」の「蜀書龐統(ほうとう)傳」に基づく。

「汪洋(おうよう)」ゆったりとして広大なさま。]

甲子夜話卷之四 31 正月の門松、所々殊る事

 

4-31 正月の門松、所々殊る事

正月門松を設ること諸家一樣ならず。通例は年越より七草の日迄なるが、十五日迄置く家もあり。筑前の福岡候支侯、肥前の佐嘉侯、對馬の宗氏、予が家も同じ。南部盛岡侯、岩城氏【出羽の龜田】なども同じ。又宗氏は門内に松飾あるが、玄關の方を正面に向けて立、松を用る所椿を用ゆ。予が家は椎の枝と竹とを立て、松を用ひず。是は吉例の譯あること也。又平戸城下の町家には每に十五日迄飾を置なり。又大城の御門松も世上とは異るように覺ゆ。今は忘れたり。安藤侯の門松は故事あつて、官より立らると云。此餘聞及ぶには、姫路侯の家中に、もと最上侯に仕たる本城氏は、松は常の如く拵て、表へ不ㇾ立、裏に臥して置く計なり。これは昔、門松を拵たる計にて戰に出、勝利を得たる古例と云ふ。又同家中に、もと名波家に仕たる力丸氏の門松は、一方計に立てゝ、左右には不ㇾ設。就ては上の橫竹なければ、付る飾も無し。是も半ば拵かけ、戰に出でゝ勝利の佳例と云。又直參衆の曽根内匠は竹を切らず、中より下の枝を去り、長きまゝにて立てゝ、末葉をつくる。横に結ぶ竹もこれに同じ【小川町に居と云】。又佐竹侯には門松なし。是も何か困厄の後、勝利の例と云。御旗本衆の岡田氏も門松なし。其故事は未だ聞ず。これは織田家家老の家なれば、古きわけもあるなるべし。又聞く。新吉原町の娼家にては、門松を内を正面に立ると云。是は客の不ㇾ出といふ云表兆なりと。又予が若年の時、上野廣小路の一方は、大抵買女家にて、所謂私窩なり。此戸外にも皆内向きに立たり。其前道は登山の閣老、參政、大目附、御目付など往還あるに、私窠の業を押晴て目立つやうにせしはいかなることにや。その邊寬政中より業を改めて、尋常の商家となれり。

■やぶちゃんの呟き

「殊る」「ことなる」。

「福岡候支侯」この当時存在した福岡藩支藩は秋月藩。

「佐嘉侯」「さが」。佐賀藩主家鍋島氏。

「對馬の宗氏」対馬府中藩藩主家宗(そう)氏。

「是は吉例の譯あること」後に出るような、過去の招福の特異な出来事或いは伝家の伝承に由来するものであるという謂い。

大城」「だいじやう」か。本城の謂いであろう。

「安藤侯の門松は故事あつて、官より立らると云」旧陸奥国の菊多郡から楢葉郡まで(現在の福島県浜通り南部)を治めた磐城平(いわきたいら)藩藩主家安藤氏。これは後の「甲子夜話卷之七」の「安藤家門松の事」で個別に語られている。フライングして本文を示す。特異的に読みを歴史的仮名遣で推定で振った。

   *

7-18 安藤家門松の事

前に安藤侯の門松は、故事あつて官より立ラルゝことを云へり。後此ことを聞くに、或年の除夕(ぢよせき)[やぶちゃん注:大晦日。]に、神君安藤の先某(さきのなにがし)と棊を對し、屢々負たまひ、又一局を命ぜらる。某曰、今宵は歳盡なり。小臣明旦の門松を設けんとす。冀くは暇を給はらんと。神君曰、門松は吏を遣(やり)て立(たつ)べし。掛念(けねん)すること勿れ、因て又一局を對せられて、神君遂に勝を得玉(えたまひ)しと。自ㇾ是(これより)して依ㇾ例(れいによりて)官吏來(きたり)て門松を立つとなり。又今安藤侯の門松を立(たつ)るとき、御徒士目附其餘の小吏來(きた)るに、其勞を謝するに、古例のまゝなりとて、銅の間鍋(かんなべ)[やぶちゃん注:燗鍋。「ちろり」のようなものであろう。]にて酒を出(いだ)し、肴は燒味噌一種なり。これ當年質素の風想ひ料(はか)るべし。

   *

ここに出る「先某」は、夢見る獏(バク)氏のブログ「気ままに江戸♪  散歩・味・読書の記録」の「背中合わせ飾り」(門松④ 江戸の祭礼歳事)によれば(前の磐城平藩藩主家安藤氏の情報もここに拠る)、安藤重信(弘治三(一五五七)年~元和七(一六二一)年:三河出身。徳川家康・秀忠に仕え、「小牧・長久手の戦い」・「関ケ原の戦い」・「大坂の陣」で功を立てた名将。この間、慶長一六(一六一一)年には老中となっている)とある。以下、先に出た対馬藩宗家のそれは「松飾り」ではなく、「椿飾り」と呼ばれたこと、『しかも、門内に玄関を向いて立て』、『これは往来を背中にしているため』、「背中合わせの松飾り」と呼ばれたとある。この筆者『鳥越の平戸藩松浦家では椎の木の枝と竹を立てたため、「椎の木飾り」と』呼んだともある(引用元は三田村鳶魚「江戸の春秋」の「お大名の松飾り」)。

「拵て」「こしらへて」。

「計」「ばかり」。

「門松を拵たる計にて」立てる暇もなく、門の内側、家「裏」(いえうち:本文「裏」は「うら」ではなく「うち」と訓じていよう)に地面に横にして置いたまま「戰」(いくさ)「に出」(い)でたところが「勝利を得た」、その「古」吉「例」に基づく仕儀だというである。

「名波家」上野国那波郡(現在の群馬県伊勢崎市及び佐波郡玉村町)に拠った戦国時代の那波氏のことか。

「不ㇾ設」「まふけず」。

「上の橫竹なければ」意味不明。一本だけ竹を立てるだけで、左右の横に竹を添えないということと採っておく。

「内匠」「たくみ」。

「困厄」難儀。

「新吉原町の娼家にては、門松を内を正面に立ると云。是は客の不ㇾ出といふ云表兆なりと」(「不ㇾ出」は「いでず」だが、「表兆」は読みが判らん。「へうてう」か? 客へ示す予祝(自身の商売繁盛)の呪(まじな)いの意ではあろう)内を正面に立」(たつ)「る」というのは、廓内の往来方向ではなく、見世の入口の左右で廓内へ向けて逆向きに立てるということであろう。門松は「入口」であるから、福たる客には「出口」はない、客が出て行かない、繁盛する、という類感呪術的手法である。前に出した「気ままに江戸♪  散歩・味・読書の記録」の「背中合わせ飾り」(門松④ 江戸の祭礼歳事)には、これも「背中合わせの松飾り」の一例として書かれてあり、『三田村鳶魚は、お大名の松飾りの説明の中で吉原の門松も背中合わせに飾ると書いてい』るとし、『吉原では、松飾りを見世の方に向け』て立てた、『向こう側の店でも同じように立てるので、道の真ん中に背中合わせの形で立てられ』たあり、『そのため、「背中合わせの松飾り」と呼ばれ』たとする。『門松は、店先に相対するように』二~三間(三・六四~五・四五メートル)『離して立てた』とされ、『有名な清元の「北州(ほくしゅう)」に』は(大田蜀山人作詞という)し、

 霞のえもん坂 えもんつくろう初買(がひ)の

 袂(たもと)ゆたかに大門の

 花の江戸町京町や

 背中合はせの松飾り

とあるとあって、『このように門松が立てられてのは、お客さまが外に出ないようにというまじないだったよう』だとする(ここに「甲子夜話」の本条のことも記してある)。また、『この「背中合わせの松飾り」を詠んだ川柳が残されてい』るとして、

 門松を吉原ばかり向こふに見

 松飾り後ろを向ける別世界

と掲げられてある。

「買女家」「ばいぢよや(ばいじょや)」で、非公認の売春宿のことであろう。

「私窩」「しくわ(しか)」。「私窩子(しくわし(しかし))」で「淫売婦・売春婦」のことであるから、ここはその棲み家で同前。後の「私窠(しくわ(しか))」も同じい。

「登山」私は差別化するために「とうさん」と読む。登城(とじょう)のこと。

「閣老」幕府老中の異称。

「參政」各大名の家老の異称。

「業」「わざ」。幕府が禁じている私娼の商売。

「押晴て」「おしはれて」か。「おし」は強意の接頭語、「晴れて」は、正月の特殊な「ハレ」の時の儀式とは言え、非公認の犯罪である売春宿がかくも幕閣や御家人の眼に平然と立ち並んで「目立つやうに」あるのは如何なものか、と過去の静山は感じたと言うのである。

「邊」「あたり」。

「寬政」一七八九年から一八〇一年。静山は宝暦一〇(一七六〇)年生まれで、安永四(一七七五)年二月十六日に祖父松浦誠信(さねのぶ)の隠居により、満十五歳で家督を相続している。寛政の前の天明は一七八一年から一七八九年まで、その前の安永は一七七二年から一七八九年までだから、静山の曖昧宿の不快な記憶は安永後期から天明の初め頃であろうか。

2018/06/27

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十五年 『獺祭書屋俳句帖抄』

 

  明治三十五年

 

    『獺祭書屋俳句帖抄』

 

 明治三十五年(三十六歳)[やぶちゃん注:一九〇二年。子規の没年である。]は来た。この一月二日に唐紙を展べて福寿草を画き、それに添えた文句にもやはり偈(げ)の気味があるから、全文を引用して置く。

[やぶちゃん注:以下底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。「子規居士」で校合した。割注風のポイント落ち右寄せの箇所は、読みにくくなるので、【 】で同ポイントで示した。最後の二行の【 】は「ン――ン――」の後の、一行の二行割注であることを示すもの。]

 

明治卅五年一月二日朝

 コヽアを持て來い【無風起波】

コヽア一杯飲む【小人閑居不善ヲナス】

 菓子はないかナ【佛ヲ罵ツテ已マズマタ祖ヲ呵(か)セントス】

 もなかではいかんかナ

 いかん鹽煎餅はないかナ

 ない【趙州無字】

 ン――【打タレズンバ仕合セ也】

左千夫來ル【咄牛乳屋】

 御めでたうございます

 同【健兒病兒同一筆法】

 空也せんべいを持て來ました【好魚惡餌ニ上ル】

 丁度よいところで【釣巨鼈也不妨】

空也煎餅をくふ【明イタ口ニボタ餅】

 …………

 …………【空ハ薄曇リニ曇ル何事ヲカ生ジ來ラントス】

 …………

 コヽアを持て來い……蜜柑を持て來い【蜜柑ヲ剝ク一段落】

 ン――ン――【何ラノ平和ゾシカモ大風來ラントシテ天地靜マリカヘル今

        五分時ニシテ猛虎一嘯暗雲地ヲ掩テ來ランアナオソロシ】

 

[やぶちゃん注:最初の断っておくと、「偈」風のパロディであるから、十全には私自身、理解している訳ではない。但し、「無門関 全 淵藪野狐禅師訳注版」の暴挙を成した私には多少判るところは、ある。そういうところだけを注する。悪しからず。

「コヽア」当時、牛乳は一般に独特の臭いが好かれず、子規もココアを入れて飲んでいたらしい。しかも後に「牛乳屋」左千夫が来るのが絶妙の洒落となるのである。

「無風起波」「無門關」の「序」に、「恁麼説話、大似無風起浪好肉抉瘡。」(恁麼(いんも)の説話、大いに風無きに浪を起こし、好肉に瘡(きず)を抉るに似たり。)とある私は「ここに記した以下の説話にしてからが、全く風がないのにあたら物騒ぎな波を立てたり、美しい肌(はだえ)を抉って醜く消えない瘡(きず)をつけるような厄介なものなんである。」と訳した。

「趙州無字」「でうしうむじ(じょうしゅうむじ)」。「無門關」第一に出る、非常によく知られたぶっ飛んだ公案「趙州狗子(でうしうのくす(じょうしゅうのくす))」。趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん 七七八年~八九七年)は唐末の禅僧。「趙州和尚、因僧問、狗子還有佛性也無。州云、無。」(趙州和尚、因(ちな)みに僧、問ふ。「狗子に、還りて、佛性(ぶつしやう)有りや無しや。」と。州云く、「無。」と。)で、私は以下のように敷衍訳した。

   *

 趙州和尚が、機縁の中で、ある僧に問われた。

「犬ころ如きに、仏性、有るや!? 無しや!?」

 ――実は、この僧、嘗てこの公案に対して趙州和尚が既に、「有(ある)」という答えを得ていることを、ある人の伝手(つて)でもって事前に知っていた。――だから、その「有(ある)」という答えを既に知っている点に於いて、その公案を提示した自分は、趙州和尚よりもこの瞬間の禅機に於いて明らかな優位に立っており、その和尚が、「有(ある)」という答えや、それに類した誤魔化しでも口にしようものなら、この超然と構えている和尚を、逆にねじ込んでやろうぐらいな気持ちでいたのである[やぶちゃん注:子規の「マタ祖ヲ呵(か)セントス」とはこの僧の内実をパロったのだと私は思う。]――ところが――

 趙州和尚は、暫くして、おもむろに応えた――

「無。」

   *

である。詳しくは、「無門関 全 淵藪野狐禅師訳注版」を読まれたい。

「打タレズンバ仕合セ也」公案を知ったかぶりしたりして増長慢になって自慢げに応じた者は警策で強かに打(う)たれるのが常。「打(ぶ)たれなかったなら、それだけ、マシ、だぜ」と子規はせせら笑うのである。

「左千夫來ル【咄牛乳屋】」割注は「チェッ! 牛乳屋かい!」。歌人伊藤左千夫は明治二二(一八八九)年から本所区茅場町(現在の墨田区江東橋)で牛乳搾取業を自営していた。ここは但し、軽蔑しているのではない。禅問答によくある、超然としたポーズの一つである。

「健兒病兒同一筆法」「兒」は「男」或いは「人」。仏から見れば人赤子、乳児である。されば、ここは「健兒」が牛乳で壮健な左千夫、「病兒」が子規で、「同一筆法」とは、そんな両極の二人が同じ言葉で年賀の挨拶をしよる、という謂いである。

「空也せんべい」ネットを調べると、塩煎餅とするが、どこのどんなものか、何故、「空也」か判らぬ。上野池の端にあった明治一七(一八八四)年の和菓子屋「空也」(現在、銀座に現存)があるが、少なくとも今は煎餅を扱っていない。識者の御教授を乞う。

「好魚惡餌ニ上ル」意味は分かるが、出典未詳。

「釣巨鼈也不妨」「巨鼈(きよべつ)釣りしなり。妨げず。」か。土産の「空也せんべい」を指すか。ここは素直ということになる。

「明イタ口ニボタ餅」『明(あ)いた口(くち)に「ぼた餅」』。

「空ハ薄曇リニ曇ル何事ヲカ生ジ來ラントス」最後の割注部とともの。年頭、既にして、子規は何か自身の不吉なものを感じているようである。どうというわけではなしに、身体変調の予兆を感じていたのかも知れない(後の本文を参照)。

「五分時」「分時」と同じくごく短い時間、あっという間の意か。

「一嘯」「いつせう(いっしょう)」。一声、吠えること。

「掩テ」「おほひて」。]

 

 年頭は比較的無事であったらしく、

 

 藥のむあとの蜜柑や寒の内

 煖爐(だんろ)たく部屋暖(あたたか)に福寿草

 繭玉や仰向にねて一人見る

 解(げ)しかぬる碧巖集や雜煮腹(ざふにばら)

 

などと詠み、上根岸へ移って来た碧梧桐氏に「移居十首」を示したりしていたが、一月十九日に至り、不安な容体になって来た。特に痛が烈しいというわけではないけれども、どことなく苦痛を感ずる。知友相踵(あいつ)いで到り、夜は必ず誰かが泊って警戒することにしたところ、二十三日には大分気分がよくなった。警戒はこの日で解かれたが、この事あって以来看護輪番を設けることになり、左千夫、碧梧桐、虚子、秀美、鼠骨、義郎の諸氏が交〻(こもごも)その任に当った。午後から出かけて行って、深更まで病牀に侍(じ)するのを例とした。

 一月十六日の『日本』紙上に短歌を募る旨が見えている。居士を中心とする少数同人の歌は、その後も引つづき『日本』「週報」に掲げられていたけれども、一般から募ることは前年一月の旋頭歌以来中絶の形であった。今度の募集は社友三人に嘱してこれに当らしむという規定で、在来のと少しく種類を異にする。一人は病中にあって閲読意の如くならざるを致し、他の一人また事情に妨げられて期日を充す能わずという理由の下に、葯房(やくぼう)氏の選歌だけが紙上に掲載されることになったから、居士もその一人ではあったのであろうが、この三人選は遂に実現せず、「週報」には依然居士の目を通した歌が連載されつつあった。

[やぶちゃん注:「葯房(やくぼう)氏」当時、『日本』の記者であった後の中国文学者で文化勲章を受章した鈴木虎雄(明治一一(一八七八)年~昭和三八(一九六三)年)の歌人としての号。ウィキの「鈴木虎雄」によれば、『新潟県西蒲原郡粟生津村(のち吉田町、現在は燕市に合併)出身』。『妻は陸羯南次女・鶴代』。『上京後、東京英語学校、東京府尋常中学、第一高等中学校で学び』、明治三三(一九〇〇)年に東京帝国大学文科大学漢学科を卒業、『同大学院中退後、日本新聞社、台湾日日新報社、東京高等師範学校(東京教育大学、筑波大学の前身)講師・教授などを経て』、後の明治四一(一九〇八)年に、『新設間もない』、『京都帝国大学文科大学助教授に就任』した。『日本における中国文学・文化研究(中国学)の創始者の一人で、東洋学における京都学派の発足にも寄与した、著名な弟子に吉川幸次郎と小川環樹らがいる。多くの古典漢詩を訳解を著述し、自身も漢詩を多く作』った。『他に、岳父羯南の著作や詩を収めた文集』「羯南文録」『を編んでいる』。「新聞『日本』との関わり」の項。『新聞『日本』には帝大在学中から漢詩・和歌を投稿しており、大学院中退後の』明治三二(一九〇一)年に『入社した。新聞『日本』の漢詩欄の選者で、長善館の門人だった桂湖村の勧めによる。月給は帝大出身者としては薄給の』二十五『円だった。新聞『日本』では「葯房漫艸」を連載し、病に倒れた正岡子規に代わり』、『短歌撰者を務めた。当時は寒川鼠骨と上野に同居しており、子規の「仰臥漫録」によると』、『家賃は』二円五十銭『だったという。子規の没後は根岸短歌会にも出席するようになった』。明治三六(一九〇三)年には『退社して台湾日日新報社へ移るが、日本新聞社との縁は切れず、帰国後の』明治三九(一九〇六)年に『陸羯南の娘と結婚している』とある。]

 

 一月中居士は「『獺祭書屋俳句帖抄』上巻を出版するに就きて思ひつきたる所をいふ」という一篇を口述、虚子、椿堂、鼠骨の諸氏をして筆記せしめた。『獺祭書屋俳句帖抄』上巻は居士の俳句を年代別に抄出したもので、二十五年から二十九年までの分を収めている。居士はそれについて先ず自分の句を選ぶことの非常に難いことから説き起し、各年における俳句の変化などにも言及したもので、一面からいえば明治俳諧史の一部を成すことになっている。居士自身としては自分の幽霊が昔の自分の句を選ぶような心持――病牀の慰みのために、自分一個のために、多くとも十数の俳友に見せる位な心持で選ぶので、「なかなか古人を凌がうなどといふ大胆不敵な野心は持つてゐない」という。そういう心持で過去の句を一々点検した結果、「自分の句は自分が輕蔑して居つたよりも更に下等なものである」と率直に述べているのである。この文章は早速二月の『ホトトギス』に掲げられた。『獺祭書屋俳句帖抄』上巻が刊行されたのは四月になってからであった。

 この春居士は比較的多くの歌を作っている。紅梅の下に土筆などを植えた盆栽を左千夫氏から贈られては詠み、京の人から香菫(においすみれ)を贈られては詠み、碧梧桐氏が赤羽へ土筆を摘みに行くといっては詠むという風に、自在の趣を発揮している。前年山吹の歌を『墨汁一滴』に掲げた時、「粗笨鹵莽(そほんろまう)、出たらめ、むちやくちや、いかなる評も謹んで受けん。吾は只歌のやすやすと口に乘りくるがうれしくて」と附記したが、この春の歌は更に「やすやす」の度を加えているように思う。

 

 くれなゐの梅散るなべに故郷につくしつみにし春し思ほゆ

 つくし子はうま人なれやくれなゐに染めたる梅を絹傘きぬがさ)にせる

 鉢植の梅はいやしもしかれども病の床に見らく飽かなく

 春されば梅の花咲く日にうとき我枕べの梅も花咲く

 枕べに友なき時は鉢植の梅に向ひてひとり伏し居り

     ○

 赤羽根のつゝみに生ふるつくづくしのびにけらしも摘む人なしに

 赤羽根に摘み残したるつくづくし再び往かん老い朽ちぬまに

 つくづくし摘みて歸りぬ煮てや食はんひしほと酢とにひでてや食はん

 つくづくし長き短きそれもかも老いし老いざる何もかもうまき

 つくづくし故鄕(ふるさと)の野に摘みし事を思ひ出でけり異國(ことぐに)にして

 

[やぶちゃん注:「前年山吹の歌を『墨汁一滴』に掲げた時」末尾「(四月三十日)」クレジット分。例の初出で示す。

   *

病室のガラス障子より見ゆる處に裏口の木戸あり。木の傍、竹垣の内に一むらの山吹あり。此山吹もとは隣なる女の童の四五年前に一寸許りの苗を持ち來て戲れに植ゑ置きしものなるが今ははや繩もてつがぬる程になりぬ。今年も咲き咲きて既になかば散りたるけしきをながめてうたゝ歌心起りければ原稿紙を手に持ちて

  裏口の木戸のかたへの竹垣にたばねられたる

  山吹の花

  小繩もてたばねあげられ諸枝の垂れがてにす

  る山吹の花

  水汲みに往來の袖の打ち觸れて散りはじめた

  る山吹の花

  まをとめの猶わらはにて植ゑしよりいく年經

  る山吹の花

  歌の會開かんと思ふ日も過ぎて散りがたにな

  る山吹の花

  我庵をめぐらす垣根隈もおちず咲かせ見まく

  の山吹の花

  あき人も文くばり人も往きちがふ裏のわき

  の山吹の花

  春の日の雨しき降ればガラス戸の曇りて見え

  ぬ山吹の花

  ガラス戸のくもり拭へばあきらかに寐ながら

  見ゆる山吹の花

  春雨のけならべ降れば葉がくれに黃色乏しき

  山吹の花

粗笨鹵莽、出たらめ、むちやくちや、いかなる評も謹んで受けん。吾は只歌のやすやすと口に乘りくるがうれしくて。

   *

前書の「女の童」は「めのわらは」、歌の「往來」は「ゆきき」、「いく年」は「いくとせ」、「我庵」は「わがいほ」。

「粗笨鹵莽(そほんろまう)」「粗笨」は大まかでぞんざいなこと。細かいところまで行き届いていないこと。粗雑。「鹵莽」は元は「塩分の多い土地と草茫々の野原・荒れ果てた土地」の意であるが、そこから転じて、前者と同じく「お粗末なこと・粗略・軽率」の意。

「ひでて」「漬(ひ)でて」。]

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十四年  馬鹿野郎糞野郎 / 明治三十四年~了

 

    馬鹿野郎糞野郎

 

 「仰臥漫録」は十月二十九日に至って一先ず絶え、三十五年三月に三日ほど記事があるだけで、六月以降は麻痺剤服用日記ということになっている。即ち三十四年九月初より十月末までを以て主要なる部分と見るべく、これまで世間に発表された『墨汁一滴』の類に此し、更に瑕瑜(かゆ)掩(おお)わざる居士の真面目が現れているのは、これが日記であり私記であったためで、「仰臥漫録」の貴重なる所以は第一にこの点にあるといって差支ない。

[やぶちゃん注:「麻痺剤」モルヒネ(morphine)。正岡子規のモルヒネ服用は主治医宮本仲(安政三(一八五六)年~昭和一一(一九三六)年)の処方によるもので、明治三二(一八九九)年夏以降の脊椎カリエスの重篤化に伴って始められたものであろう。明治三十五年の「病牀六尺」の「八十六」(文末丸括弧クレジット八月六日分)では(国立国会図書館デジタルコレクションのこの初出切貼帳の画像を視認して翻刻した。太字部は原文では傍点「◦」)、

   *

此のごろはモルヒ子を飮んでから寫生をやるのが何よりの樂みとなつて居る。けふは相變らずの雨天に頭がもやもやしてたまらん。朝はモルヒ子を飮んで蝦夷菊を寫生した。一つの花は非常な失敗であつたが、次に畫いた花は稍成功してうれしかつた。午後になつて頭は愈〻くしやくしやとしてたまらぬやうになり、終には餘りの苦しさに泣き叫ぶ程になつて來た。そこで服藥の時間は少くも八時間を隔てるといふ規定によると、まだ藥を飮む時刻には少し早いのであるが、餘り苦しいからとうとう二度目のモルヒ子を飮んだのが三時半であつた。それから復た寫生をしたくなつて忘れ草(萱草に非ず)といふ花を寫生した。この花は曼珠沙華のやうに葉がなしに突然と咲く花で、花の形は百合に似たやうなのが一本に六つばかりかたまつて咲いて居る。それをいきなり畫いたところが、大々失敗をやらかして頻りに紙の破れ盡す迄もと磨り消したがそれでも追付かぬ。甚だ氣合くそがわるくて堪らんので、また石竹を一輪畫いた。これも餘り善い成績ではなかつた。兎角こんなことして草花帖が段々に書き塞がれて行くのがうれしい。八月四日記。

   *

とあるから、既にこの死の凡そ一ヶ月前頃には服用の習慣性に加えて耐性的様態、常用によって鎮痛・鎮静が利かなくなっている事態が生じてしまっていることが判る。

「瑕瑜(かゆ)掩(おお)わざる」「礼記」の「聘義」に出る孔子の言葉の一節「瑕不掩瑜、瑜不掩瑕、忠也。」(瑕(か)は瑜(ゆ)を掩(おほ)はず、瑜は瑕を掩はざるは、忠なり)。瑕疵(かし:きず)があっても玉石はその美しい輝きを損なうものではなく、美事な光輝が玉石の傷を覆い隠さぬことこそは、曇りなき真心を示す「忠」そのものである、という言説を元とする。美徳と過失の双方を在るが儘に体現して決して隠さぬこと、それが「忠」というものの在り方であるという譬え。]

 

 「仰臥漫録」の初の方には画が多く、俳句も相当記されている。画は固より病牀に見得る範囲の写生であるが、句もまた即事即景を直叙して、淡々たる中に自在の趣を得たものが少くない。

[やぶちゃん注:以下は、「子規居士」で校合したが、そちらはひらがなはカタカナであり(但し、これが原表記)、そこは底本に従ってひらがなのママとした。]

 

 秋一室拂子(ほつす)の髯(ひげ)の動きけり

 病(やまひ)間(かん)あり秋の小庭の記を作る

 病牀のうめきに和して秋の蟬

 朝顏や繪の具にじんで繪を成さず

 秋風や絲瓜の花を吹き落す

   欲睡(ねむりをほつす)

 秋の蠅叩き殺せと命じけり

 臥(ふ)して見る秋海棠の木末かな

 西へまはる秋の日影や絲瓜棚

 筆も墨も溲瓶(しびん)も内に秋の蚊帳

 驚くや夕顏落ちし夜半(よは)の音

 

 人は容易に心の虚飾を去り得るものではない。豊富な天分の所有者が往々にして岐路に迷い、愚者の一道を守るに如かぬ点があるのはこのためである。「仰臥漫録」の句の及びがたいのは、すべてが朗然として一塵をとどめぬ居士の心胸の産物だからであろう。文字や技巧の上からのみ眺めて、平凡と評し去る者があるならば、それはこれらの句の真に蔵する醍醐味を味い得ぬために外ならぬのである。

 十一月二十日になって居士は「命のあまり」というものを『日本』に掲げた。「墨汁一滴」の筆を擱いて以来、はじめての文章である。当時世間の大評判であった『一年有半』を評して平凡浅薄といい、余命一年半の宣告を受けながら、なおこの書を書き、いやしくも命ある間は天職を尽しているのは感ずべきだというような世評に対し、これは見当違いの褒辞で、病中筆を執ってものを書くのは一種のうさ晴しに過ぎぬ、天職を尽したのでも何でもないといったりしたため、一部読者の反感を買ったらしく、『日本』紙上にもそういう意味の投書が何度か現れた。居士の『一年有半』に対する感想は大体「仰臥漫録」に書いたところに尽きており、「命のあまり」はその意味を更に敷衍しようとしたものではないかと思われるが、当時居士の容体は甚だ悪く、「仰臥漫録」の筆さえ執り得ぬ状態であったから、遂に意の如く進行しなかった。ただ居士は前後三回で筆を按ずるに当り、投書に対しても次のように一矢(いっし)酬いている。

[やぶちゃん注:『居士の『一年有半』に対する感想は大体「仰臥漫録」に書いたところに尽きており』前章「古白曰来」を参照。

 以下は、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。校訂は「子規居士」を用いた。]

 

それから又「墨汁一滴」を讀んで同情を表したが、「命のあまり」を讀んであいそをつかしたといふやうな事が書いてあつたと思ふ。余が病氣であるについて同情を表せられる見ず知らずの人が澤山あつて、余は屢〻之が爲に感泣するのである。併しながら「墨汁一滴」を誤解して同情を表せられるやうなのは甚だ迷惑に感ずる。斯樣な同情は早く撤回せられたいものである。

又或人は『一年有半』の成功を余が羨んだとか妬んだとか言ふて居る。さう見られるなら仕方がない。要するに是等の誤解は余の文章の惡いといふよりも、寧ろ其人が余自身を誤解して居るのであらう。

 

誤解した同情は撤回してもらいたいというあたり、特に居士の面目躍如たるものがある。

[やぶちゃん注:大丈夫だ、子規君。私は君に一度として同情したことはないよ。]

 居士が『碧巌集』を読んで興味を感じたのは、三十四年後半の事ではないかと思われる。この年の蕪村忌は子規庵で催すことが出来ないので、道灌山胞衣神社に会場を持って行った。その時の写真を居士の許に齎(もたら)したら、居士は直に筆を執って裏面に次のような文句をしたためた。

[やぶちゃん注:「碧巌集」臨済宗の公案を集「碧巖錄」の別名。正しくは「佛果圜悟(えんご)禪師碧巖錄」。全十巻。宋の一一二五年に完成した。雪竇重顕(せっちょうじゅうけん)が「傳燈錄」千七百則の公案の中から、百則を撰び、それぞれに偈頌(げじゅ:経典等に於いて詩句形式を採って教理及び仏・菩薩を褒め讃える言葉。四字・五字・七字を以って一句と成し、四句から成るものが多い。単に「偈」「頌」とも呼ぶ)を加えて、さらにそれに対し、圜悟が各則毎に垂示(すいじ:序論的批評)・著語(じゃくご:部分的短評)・評唱(全体的評釈)を加えたもの。圜悟の弟子によって編集刊行された後、中国や日本で何度も刊行され、参禅弁道のための宗門第一の書として珍重されて続けている。

「蕪村忌」既出既注であるが、再掲しておく。与謝蕪村は享保元(一七一六)年生まれで、旧暦天明三年十二月二十五日(グレゴリオ暦一七八四年一月十七日)に亡くなっている(享年六十九)。過去の事例を見ると、子規らはグレゴリオ暦の十二月二十五日に合わせて蕪村忌を行っている。

「道灌山胞衣神社」現存しない。胞衣(胎児を包んでいた膜や胎盤など。後産(あとざん)として体外に排出されるが、これは古くから信仰の対象として丁重に扱われた)を祀るために明治二三(一八九〇)年に日本胞衣会社によって建てられた神社。ここにあった茶屋で正岡子規は高浜虚子に後継者になることを断られている。大正時代に入ると、神社はなくなり、鉄道官舎となった、とクバ氏のブログ「次回オフの見どころ」の日暮里、谷中見どころにある。虚子の拒絶に子規は激怒した。明治二八(一八九五)年十二月九日のことで、虚子は小説家に色気があったからである。場所からも、私は即座に大正一五(一九二六)年一月一日発行の雑誌『新潮』に芥川龍之介発表年末の一日秀抜なコーダを思い出す。

 以下、底本では全体が、二字下げ。以下、同じ。「子規居士」で校合した。この部分に関してのみ(後の「題睡猫圖」以下は従わず、私の野狐禪で訓じた。因みに、私は九年前に無門関 全 淵藪野狐禅師訳注版などというものをももものしている)、底本の蜂屋邦夫氏の訓読文をそのまま採った。但し、ルビは歴史的仮名遣で(底本のそれは現代仮名遣)必要と判断したところにのみ振った。]

 

菩薩子喫飯來 (菩薩子(ぼさつし)よ 飯(めし)を喫(きつ)し來たれ)

オ前方腹ガヘツテ一句モ吐ケヌヂヤナイカ

不堪奪飢人之食盈儞空腹 (飢人(きじん)の食(し)を奪ひて儞(なんぢ)が空腹を盈(み)たすに堪へず)

コヽニ天王寺蕪(かぶら)ノ漬物ガアル、コレデモ食ヒ給へ

翻吾溲瓶灑儞頭上 (吾が溲瓶を翻して儞が頭上に灑(そそ)がん)

  咄(とつ)

道(い)へ奈良茶三石ハ蕪ノ漬物ニ イヅレゾ

  道ヒ得ズンバ三十棒

  道ヒ得テモ三十棒

 

[やぶちゃん注:「天王寺蕪(かぶら)」大阪府大阪市天王寺付近が発祥地と伝えられるカブ(双子葉植物綱フウチョウソウ目アブラナ科アブラナ属ラパ変種カブBrassica rapa var. glabra)の品種。この蕪村忌には、この天王寺蕪の「風呂吹き」が毎年、配られたらしい。

「咄(とつ)」は感動詞。「舌打ち」の音に由来するオノマトペイアから生まれたもの。原義は「激しく叱る際に発する語の「チョッ!」で、禪の公案のやり取りではよく用いられる。]

 

 次のも同じ湯合のものである。

 

 お前ひとりか連衆(れんじゆ)は無いか連衆あとから汽車で來る

 好箇侶伴(りよはん)待チ合セテ共ニ行ケ、謹ンデ懷中ヲスリ取ラルヽ莫(なか)レ、芭蕉蕉村是レ掏摸(すり)ノ親玉

 

 この種の文字は咄嗟の間に成るので、もともと何かに発表するために書くのでないから、どの位あるものかよくわからない。香取秀真氏蔵の左の一篇なども、日次はないけれども、あるいは同じ頃の作ではないかと想像される。

 

  題睡猫圖

金猫兒 飽膏梁

群鼠如盜任跳梁

水仙花下睡方熟

總不管

 滿洲風雲太匇忙

米相場

株相場

  咄

新橋別有相識子

任他妻奴嚙糟糠

 

   睡猫圖(すいべうず)に題す

 金猫兒(きんべうじ) 膏梁(こうりやう)に飽き

 群鼠 如(も)し 盜まば 跳梁に任(まか)す

 水仙の花の下 睡りて方(まさ)に熟す

 総て管(かまは)ず

 滿洲の風雲 太(はなは)だ匇忙(そうばう)なるも

 米相場(こめさうば)

 株相場

   咄

 新橋 別に相識(さうしき)の子(し) 有り

 任他(さもあらばあ)れ 妻奴(さいど) 糟糠(さうかう)を嚙む

 

[やぶちゃん注:「膏梁」肥えた肉と美味い穀物。

「睡りて方(まさ)に熟す」まっこと、今まさに深く熟睡している。

「匇忙」俄かなこと。

「新橋 別に相識(さうしき)の子(し)」新橋芸妓のことを夢想したのであろう。

 

 諷亭氏が三十五年の年頭に居士を訪ねたら、この頃は頻に偈(げ)を稽古しているが、うまくなった、何でも知っているやつを片端から引導渡してやろうと思う、この間花和尚魯智深にやったのがこうだといって、

 

馬鹿野郎糞野郎。一棒打盡金剛王。再過五臺山下道。野草花開風自涼。

 

 馬鹿野郎 糞野郎

 一捧打盡 金剛王

 再過(さいくわ)す 五臺山下(ごだいさんか)の道(みち)

 野草 花 開きて 風 自(おのづか)ら涼し

 

を示したそうである。これもまた三十四年末に成ったものに相違ない。

[やぶちゃん注:「花和尚魯智深」言わずもがな、「水滸傳」の百八人の頭目の一人。本名は魯達、智深は法名。花和尚(かおしょう)は綽名(あだな)。

「五臺山」山西省東北部の五台県にある、文殊菩薩の聖地として古くから信仰を集めている霊山。標高三千五十八メートル。ウィキの「魯智深によれば、魯智深はここの長老智真に見込まれ、師匠自らの一字を取った智深という戒名を授かるが、二度、禁酒の戒を破り、泥酔して寺に帰り、大暴れしたため、智真長老はやむなく破門し、兄弟弟子の智清禅師がいる東京開封府の大相国寺を紹介したが、この際に偈を授けている、とある。]

2018/06/26

諸國里人談卷之三 雲仙嶽

 

    ○雲仙嶽(うんぜんがたけ)

肥前國高木郡(たかきのこほり)の高山(かうざん)、五十町上に普賢嶽(ふげんがたけ)あり。山、常に燃(もへ[やぶちゃん注:ママ。])て跣(はだし)の者は行(ゆく)事、あたはず。地獄と称する所あり。穴數(あなかず)十ヶ所あり。兩所に並びて高〔たかさ〕、五、六尺、黑煙の涌起(わきおこ)る所、「兄弟の地獄」と云〔いふ〕。「酒屋の地獄」は白濁(しろにごり)て米泔(しろみづ)に似たり。「麹屋の地獄」は黃白(きはく)に、靑き土、涌(わく)。麹の色のごとし。「藍屋の地獄」は靑綠にして、藍におなじ。それぞれの色に隨ひて其名ありける。猛火、盛(さかん)にして、等括・大焦熱とも云べし。其流(ながれ)、稍熱(しやうねつ)にして湯のごとくなるに、小魚、多〔おほく〕あり。これ、以〔もつて〕、奇なりとす。梺(ふもと)に溫泉あり。入湯の人、常に絶えず。○當山の伽藍は、文武帝寶元年中、行基草創の地、日本山大乘院滿明密寺(まんみやうみつじ)と号し、三千八百坊、有〔あり〕。塔十九基ありしとなり。天正年中、耶蘇宗門、盛(さかん)に行(おこなはれ)し。僧俗、邪法に陷(おちいる)時、當寺の僧侶、亦、然り。因(よつ)て、破却せられて正法(しやうほう)に歸せざるもの、皆、此山の地獄に墮入(おち〔いり〕)て、今、礎(いしづへ)或〔あるいは〕石佛のみ、僅(わづか)に殘り、やうやうに一ヶ寺の俤(おもかげ)あり。

[やぶちゃん注:「高木郡」正しくは高来(たかき)郡。現在、雲仙岳(最高峰は平成新山標高千四百八十三メートル)及びその一部である普賢岳(千三百五十九メートル)は長崎県雲仙市小浜町雲仙。(グーグル・マップ・データ)。本書が刊行された寛保三(一七四三)年は鎮静期間であったようだが、ウィキの「雲仙岳によれば、凡そ五十年後の寛政四(一七九二)年末から翌年にかけて活動期となり、普賢岳山頂の地獄跡火口より噴火が始まった。三月には普賢岳北東部に溶岩が流れ出し、全長は二・七キロメートルに達し、四月一日には雲仙岳眉山で発生した山体崩壊とこれによる津波災害(「島原大変肥後迷惑」と呼ばれる)によって、肥前国・肥後国合わせて死者・行方不明者一万五千人という、有史以来、日本最大の火山災害となった。その後も噴火は継続、六、七月になっても、時折、噴煙を吹き上げたという。無論、平成三(一九九一)年六月三日大火砕流の衝撃的映像は私には記憶に鮮明に残る。

「五十町」約五キロ四百五十四メートル。現在、登山が解禁となっている普賢岳の日帰りのモデル・コースで往復の総実動距離は約八キロメートルであるから、この数値はいい加減ではない。

「等括」八大地獄の第一とされる等活地獄。殺生を犯した者が落ちるとされ、獄卒の鉄棒や刀で肉体を寸断されて死ぬが、陰風が吹いてくると、また生き返り、同じ責め苦に遭うとされる。

「大焦熱」八大地獄の第七。五戒を破った者及び浄戒の尼を犯した者が落ちるとされ、炎熱で焼かれ、その苦は他の地獄の十倍とされる。

「稍熱(しやうねつ)」不詳。「稍」には「次第に程度が増すさま・一層」の意があるから、どんどん温度が上ってゆくの意か。或いは「硝熱」で激烈な熱反応を起こすの意か。

「小魚、多〔おほく〕あり」

「梺(ふもと)に溫泉あり」雲仙温泉には、舞岡の時に泊まったねぇ。あの時、早朝の旅館の庭を一緒に散歩して雲仙岳を眺めた、担任だった二人の男女は、その後、結婚をした。懐かしい思い出だなぁ。

「文武帝宝元年中」「宝元」は「大寶」の誤り。「宝元」なんて年号は本邦にはない。七〇一年~七〇四年。

「日本山大乘院滿明密寺(まんみやうみつじ)」ウィキの「一乗院雲仙市によれば、大宝元(七〇一)年二月十五日、現在の雲仙の地に文武天皇勅願により温泉山満明寺が開山、同年十一月二日、最初の寺院「大日如来院」が建立され、開基は行基菩薩とあり、『最盛期は瀬戸石原に三百坊、別所に七百坊を有していた』とある。その後、何度か、火災や兵乱による焼失や再建を経たが、寛永一四(一六三七)年の「島原の乱」によって『堂字すべてを焼失』、三年後の寛永十七年に『島原藩主となった高力忠房(摂津守)公の命を受け、遠州浜松鴨江寺より招聘された当山中興弘宥和尚が、「温泉山満明寺一乗院」として復興』、延宝八(一六八〇)年七月には、『松平忠房』『が島原藩主となり』、『正式に「温泉山一乗院」として認可され』、『松平家の家紋である「重ね扇」から扇を一枚取った「一重扇の丸に横一」の寺紋を賜』り(紋としては珍しい十本骨の扇)、『正式に島原藩の祈願所とな』っている。ところが、明治二(一八六九)年、『神仏分離令により』、『当山鎮守四面宮』(しめんぐう/しめみや)『を分離、筑紫国魂神社と』され、廃仏毀釈の嵐の中、『温泉(うんぜん)より南串山』(みなみくしやま)『の歓喜庵(現、一乗院)に本坊を移転』した。『これにより』、『温泉山一乗院本坊は、現在の南串山に定まり、雲仙は飛地境内となり』、『一乗院釈迦堂として法灯を灯すことにな』ったが、昭和五五(一九八〇)年には『雲仙飛地境内の一乗院釈迦堂は新たな宗教法人「雲仙山満明寺」として独立し、一乗院の法類寺院とな』ったことから、『大宝元年行基菩薩開山以来、温泉山(うんぜんざん)と記されてきた霊峰雲仙の称号は雲仙の地を離れ、南串山の温泉山一乗院の山号としてのみ、その名を残す』とある。一乗院は現在の長崎県雲仙市南串山町丙にある。調べてみると、筑紫国魂神社はその後、温泉(うんぜん)神社と名を変えて、現在の長崎県雲仙市小浜町雲仙の湯町にあることが判った。則ち、周辺(グーグル・マップ・データ)の広大な一帯が旧温泉山満明寺であったということになる。

「天正年中」ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年(ユリウス暦一五九二年)。グレゴリオ暦は一五八二年十月十五日から

「耶蘇宗門、盛(さかん)に行(おこなはれ)し。僧俗、邪法に陷(おちいる)時、當寺の僧侶、亦、然り。因(よつ)て、破却せられて正法(しやうほう)に歸せざるもの、皆、此山の地獄に墮入(おち〔いり〕)て」これは雲仙のこの「地獄」で行われたおぞましい切支丹弾圧の一件と、この寺の往古の俤のない縮小を絡ませた、単なる風聞伝承ではあるまいか。事実、そのような同寺の改宗僧が他出したという事実があろうとは、ちょっと思えないからである(そういう事実があるとするならば、是非、御教授あられたい)。ここで行われた切支丹迫害や処刑については、江島達也氏のブログ「アトリエ隼 仕事日記」のかえって日本人への親近感を高めることとなった雲仙地獄でのキリシタン迫害を参照されたいが、そこには、こ『の仏教的にいかにも地獄のイメージと重なるこの場所が、キリシタンの弾圧あるいは大虐殺に使われた最初が、あの「島原の乱」の元凶とも言える悪政者、島原領主・松倉重政の発案によるもので』あったとあり、寛永四(一六二七)年二月二十八日、『パウロ内堀作右衛門ら』十六『人(女、子どもを含む)のキリシタンがここに連れてこられ、裸にされた上』、『首に縄を巻かれて引きずられ、硫黄のたぎる中に投げ込まれて殺され』、同じ年の五月十七日にも『ヨハネ松竹庄三郎ら』十『人がここ雲仙地獄で殺され』たとある。因みに、『その後も』、『残忍な領主や奉行が』、『楽しむかのように続けた雲仙地獄でのキリシタン拷問及び惨殺は当時のヨーロッパにおいて衝撃を持って伝えられて』おり、一六六九年(寛文九年相当)に『アムステルダムで発行されたモンタヌスの「日本誌」に掲載された「雲仙地獄の殉教」図は有名になり』、一六九一年(元禄四年相当)に『パリで再版されたほか』、一七〇五年(宝永二年相当)には『ロンドンで英語版』が、一七二二年(享保七年相当)には『ベネチアでイタリア語版』、一七三七年(元文二年相当)にはアウグスブルグでドイツ語版』、一七四九年(寛延二年相当。既に第九代将軍徳川家重の治世である)に『リスボンでポルトガル語版が出版され、広くヨーロッパ中に知られることとな』ったとある。そうして実は、『当時の為政者の残虐極まりない行いはともかく、ヨーロッパの人たちが関心を寄せたのは、拷問を受け続けたキリシタン達が、命を奪われてもなお信仰を捨てず、むしろよりいっそう強くしたという、その精神性に対してであり、そのことが日本人への親近感を』逆に『高めさせたと』されている、というのである。リンク先には雲仙の「地獄」の写真もある。必見。

「一ヶ寺」先に挙げた旧地にあった一乗院。]

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十四年  古白曰来

 

    古白曰来

 

 十一月六日の夜、居士はロンドンの漱石氏宛に一書をしたためた。「僕はもーだめになってしまった。毎日訳もなく号泣しているような次第だ。それだから新聞建誌へも少しも書かぬ。手紙は一切廃止。それだから御無沙汰してすまぬ。今夜はふと思いついて特別に手紙をかく」という書出しで、この頃としてはやや長い文句をつらねた末、次のように記されている。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。校合には基本、「子規居士」を用いた。原典はひらがな部分はカタカナであるが、ここでは読み易さを考えて底本に従い、ひらがなとした。後の部分も同じ。]

 

鍊卿死に非風死に皆僕より先に死んでしまつた。

僕は迚も君に再會するヿは出來ぬと思ふ。萬一出來たとしても其時は話も出來なくなつてるであろー。實は僕は生きてゐるのが苦しいのだ。僕の日記には「古白曰來」の四字が特書してある處がある。

 

 漱石氏がロンドンにおける動静その他をこまごまと報じて来た長文の手紙は、ひどく居士を喜ばした。「倫敦(ロンドン)消息」と題して二度『ホトトギス』に掲げた上、更に「もし書けるなら僕の目の明いてる内に今一便よこしてくれぬか」と申送ったのがこの手紙なのである。「僕の日記」というのは「仰臥漫録」のことで、「古白曰来」と特記したのは十月十三日の条であった。朝来(ちょうらい)恐しく降った雨がやんで、天気が直りかけた午後二時頃から、居士は俄に気持が変になって、「たまらんたまらんどーしようどーしよう」と連呼する。遂に四方太氏宛に「キテクレネギシ」と電信を打つこととし、母堂が頼信紙を持って車屋まで行かれる。令妹は風呂へ行って不在である。たった一人家の中に残された居士は、硯箱の中にある二寸ばかりの小刀と千枚通しとを見つめながら、頻に自殺することを考える。但(ただし)この錐(きり)と小刀では死ねそうもない。次の間へ行けば剃刀があるので、それさえあればわけなく死ねるのだけれども、そこまで匍(は)って行くことも出来ない。已むなくんば小刀か錐を用いるのだが、何分恐しさが先に立つ。死は恐しくないが苦(くるしみ)が恐しい。病苦でさえ堪えきれぬ上に、死損(しにそこな)って苦しんでは堪らない。小刀を手に取ろうか取るまいかという二つが、心の中で戦っているうちに、母堂はもう帰って来られた……。

  居士はこの心理経過を詳細に記し、

 

逆上するから目があけられぬ、目があけられぬから新聞が讀めぬ、新聞が讀めぬから只考へる、只考へるから死の近きを知る、死の近きを知るからそれ迄に樂みをして見たくなる、樂みをして見たくなるから突飛な御馳走も食ふて見たくなる、突飛な御馳走も食ふて見たくなるから雜用(ざふよう)[やぶちゃん注:こまごましたものに係る費用。雑費。]がほしくなる、雜用がほしくなるから書物でも賣らうかといふことになる……………いやゝゝ書物は賣りたくない、さうなると困る、困るといよゝゝ逆上する。

 

という風に層々(そうそう)と書いて来て、最後に小刀と千枚通しの形を画き、上に「古白曰来」の四字を記したのである。黄泉(こうせん)に帰した知友が幾人もある中に、特に古白の名を挙げた理由は説明するまでもあるまい。

 

 「仰臥漫録」の中にはまた次のような箇所がある。

[やぶちゃん注:一部の漢文部分は読み易さを考え、恣意的に字空けを施した。読みは岩波文庫版「仰臥漫録」を参考に歴史的仮名遣で附した。]

 

天下の人餘り氣長く優長に構へ居候はゞ後悔可致候。

天下の人あまり氣短く取いそぎ候はゞ大事出來申間敷候。

吾等も餘り取いそぎ候ため病氣にもなり不具にもなり思ふ事の百分一も出來不申候。

併し吾等の目よりは大方の人はあまりに氣長くと相見え申候。

貧乏村の小學校の先生とならんか日本中のはげ山に樹を植ゑんかと存候。

會計當而已(あたるのみ)矣 牛羊(ぎうやう)茁(さつとして)壯長而已(さうちやうするのみ)矣。この心持にて居らば成らぬと申事はあるまじく候。吾等も死に近き候今日に至りやうやう悟りかけ申候やう覺え候。瘦我慢の氣なしに門番關守夜廻りにても相つとめ可申候と存候。只時々の御慈悲には主人の殘肴(ざんかう)きたなきはかまはず肉多くうまさうな處をたまはりたく候。食氣(くひけ)ばかりはどこ迄も增長可致候。

兆民居士の『一年有半』といふ書物世に出(いで)候よし新聞の評にて材料も大方分り申候。居士は咽喉(のど)に穴一ツあき候由、吾等は腹、背中、臀(しり)ともいはず蜂の巢の如く穴あき申候。一年有半の期限も大槪は似より候ことゝ存候。乍併(しかしながら)居士はまだ美といふ事少しも分らず、それだけ吾等に劣り可申候。理が分ればあきらめつき可申、美が分れば樂み出來可申候。杏(あんず)を買ふて來て細君と共に食ふは樂みに相違なけれどもどこかに一點の理がひそみ居候。燒くが如き晝の暑さ去りて夕顏の花の白きに夕風そよぐ處何の理窟か候べき。

 

 左の一節もまた右と同じく、十月十五日に書かれたものらしい。

 

吾等なくなり候とも葬式の廣告など無用に候。家も町も狹き故二、三十人もつめかけ候はゞ柩(ひつぎ)の動きもとれまじく候。

何派の葬式をなすとも柩の前にて弔辭傳記の類(たぐひ)讀み上候事無用に候。

戒名といふもの用ゐ候事無用に候。曾て古人の年表など作り候時狹き紙面にいろいろ書き竝べ候にあたり戒名といふもの長たらしくて書込に困り申候。戒名などは無くもがなと存候。

自然石の石碑はいやな事に候。

柩の前にて通夜(つや)すること無用に候。通夜するとも代りあひて可致候。

柩の前にて空淚(そらなみだ)は無用に候。談笑平生の如くあるべく候。

 

 晩年の居士の心持は大体ここに尽きているかと思う。瘦我慢の気なしに門番関守夜廻りでもつとめる、というところまで脱落[やぶちゃん注:脱線。]して、病に管しむ一面極めて平(たいら)かな心を推持し得た。変態奇矯に陥りがちな病人心理と同日の談ではない。「貧乏村の小學校の先生とならんか、日本中のはげ山に樹を植ゑんか」ということは、十月十九日に至り「今日余もし健康ならば何事を爲しつゝあるべきか」という問題となって再び出て来る。「幼稚園の先生もやつて見たしと思へど財産少しなくては余には出來ず。造林の事なども面白かるべきも其方の學問せざりし故今更山林の技師として雇はるゝの資格なし、自ら山を持つて造林せば更に妙なれど買山(ばいざん)の錢なきを奈何」というのである。明日を測られぬ病軀を抱いた居士の眼が、むしろ遠い世界を望んでいたことは、この一事からも想像することが出来る。

 居士が身後の事について記したものは、この数箇条の外に見当らない。「死後」という文章の中に書いたところは、まだ多少の文学的空想が加味されていた。ここにいうところは皆端的である。これらの言は必ずしも遺言と見るべきではないが、この条々は大体歿後においても居士の意志を尊重されたように思われる。

[やぶちゃん注:思うところあって、注は最後に纏める。標題は「古白、曰く、『来(きた)れ』と」と読む。「古白」は俳人で作家、正岡子規の従弟で盟友でもあった幼馴染み藤井古白(明治四(一八七一)年~明治二八(一八九五)年)。既出既注であるが、再掲する。ウィキの「藤野古白」によれば、『本名、藤野潔。愛媛県、久万町に生まれた。母親の十重は子規の母、八重の妹で、古白は子規の』四歳年下。七『歳で母を失い』、九『歳で家族ととも東京に移った』。明治一六(一八八三)年に『子規が上京し、一年ほど子規は、古白の父、藤野漸の家に下宿した』、彼には生来、『神経症の症状があり』、明治二二(一八八九)年には『巣鴨病院に入院、退院後』、『松山で静養した』。この頃、『高浜虚子とも親しくなった』。明治二四(一八九一)年に『東京専門学校に入学し』、『文学を学んだ。初期には俳句に才能をみせたが、俳句を学ぶうち』、その価値を見限り、『小説、戯曲に転じ、戯曲「人柱築島由来」は』『早稲田文学』『に掲載されたが』、『世間の評価は得られなかった。戯曲発表の』一『ヶ月後に、「現世に生存のインテレストを喪ふに畢りぬ。」の遺書を残してピストル自殺し』て果てた。『河東碧梧桐の『子規を語る』には「古白の死」の一章が設けられ、古白の自殺前後の周辺の事情が回想されている。古白はよく死を口にしたが、その前日まで変事を予想させるようなことはなかった。以前から古白は知人がピストルをもっているのを聞いていて撃ちたがっていたが』、『知人はそれを許さなかった。自殺の前日の夜、銃を盗みだし』、四月七日に『前頭部、後頭部を撃った。病院に運ばれ、治療をうけ』たが、四月十二に絶命した。『碧梧桐らが看護にあたったが』、『言葉をきける状態ではなかった。当時』、『子規は日清戦争の従軍記者として広島で出発を待っている時で』死に目に逢えていない。子規の幻覚に彼が現われ、「来たれ」と呼びかけるのは、私は、彼が凄絶な衝動的自殺をしたことと、子規が彼の自死を国内にあって知りながら、大陸へ渡ったことに基づく、子規の強い心的複合(コンプレクス)によるもののように感じている

「十一月六日の夜、居士はロンドンの漱石氏宛に一書をしたためた」宵曲は大部分を引いているが、ここで改めて全文を示す。ネットで発見したこちらの原書簡画像(個人ブログ「文学・歴史散歩」のもの)翻刻した

   *

僕ハモーダメニナツテシマツタ、毎日訳モナク號泣シテ居ルヤウナ次第ダ、ソレダカラ新聞雜誌ヘモ少シモ書カヌ。手紙ハ一切廃止。ソレダカラ御無沙汰シテスマヌ。今夜ハフト思ヒツイテ特別ニ手帋[やぶちゃん注:「てがみ」。]ヲカク。イツカヨコシテクレタ君ノ手紙ハ非常ニ面白カツタ。近來僕ヲ喜バセタ者ノ隨一ダ。僕ガ昔カラ西洋ヲ見タガツテ居タノハ君モ知ツテルダロー。ソレガ病人ニナツテシマツタノダカラ残念デタマラナイノダガ、君ノ手紙ヲ見テ西洋ヘ徃タ[やぶちゃん注:「いつた」。]ヤウナ氣ニナツテ愉快デタマラヌ。若シ書ケルナラ僕ノ目ノ明イテル内ニ今一便ヨコシテクレヌカ(無理ナ注文ダガ)

画ハガキモ慥ニ受取タ。倫敦ノ焼芋ノ味ハドンナカ聞キタイ。

不折ハ今巴理[やぶちゃん注:巴里(パリ)。]ニ居テコーランノ処ヘ通フテ居ルサウヂヤ。君ニ逢フタラ鰹節一本贈ルナドヽイフテ居タガモーソンナ者ハ食フテシマツテアルマイ。

虚子ハ男子ヲ挙ゲタ。僕ガ年尾トツケテヤツタ。

鍊卿死ニ非風死ニ皆僕ヨリ先ニ死ンデシマツタ。

僕ハ迚モ君ニ再会スルヿハ出來ヌト思フ。万一出來タトシテモ其時ハ話モ出來ナクナツテルデアロー。[やぶちゃん注:ここに吹き出しで書き添えたもの(二字程。判読不能)を三重線で消してある。]ハ僕ハ生キテヰルノガ苦シイノダ。僕ノ日記ニハ「古白曰來」ノ四字ガ特書シテアル処ガアル。

書キタイヿハ多イガ苦シイカラ許シテクレ玉ヘ。

 倫敦ニテ   明治卅四年十一月六日燈下ニ書ス

    漱石兄       東京  子規拜

   *

「コーラン」は不折がフランスで、この頃、二番目に師事した、フランス人画家で優れた美術教師でもあったジャン=ポール・ローランス(Jean-Paul Laurens 一八三八年~一九二一年)の訛りであろう。因みに最後の「倫敦ニテ」というのは洒落のつもりだろうか。

「鍊卿」(れんきょう:現代仮名遣)は既出既注の竹村鍛(きたう 慶應元(一八六六)年~明治三四(一九〇一)年二月一日)の号。河東碧梧桐の兄(河東静渓(旧松山藩士で藩校明教館の教授であった河東坤(こん)の号)の第三子で、先に出た河東銓(静渓第四子)の兄)。帝国大学卒業後、神戸師範から東京府立中学教員を経て、冨山房で芳賀矢一らと辞書の編集に従事し、亡くなる前年、女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)教授となった。別号、黄塔。

「非風」既出既注の新海非風(にいみひふう 明治三(一八七〇)年~明治三四(一九〇一)年十月二十八日)は愛媛県出身の俳人。東京で正岡子規と知り合い、作句を始めた。後、結核のため、陸軍士官学校を退学、各種の職業を転々とした。

「倫敦消息」明治三十四年五月と六月の『ホトヽギス』に載った。「青空文庫」のこちらは新字新仮名で気持ちが悪い。国立国会図書館デジタルコレクションの昭和三(一九二八)年漱石全集刊行会刊「漱石全集」第十五巻(「初期の文章及詩歌俳句」)のこちらから正規表現で読める。

「仰臥漫録」の『「古白曰来」と特記した』『十月十三日の条』「仰臥漫録一」の掉尾。私が若き日に読んで(見て)激しい衝撃を受けた箇所である。正字正仮名のそれを入手出来る目途がない今、この際、ここだけでも電子化して示したい。岩波文庫版(一九八三年改版)を参考に漢字を恣意的に正字化して示すこととする。最後のショッキングな(私には強烈だった)絵も添える。なお、底本の行末で改行している箇所で、連続性を疑う部分二箇所で空欄を恣意的に空けたことをお断りしておく。

   *

十月十三日 大雨恐ろしく降る 午後晴

 今日も飯はうまくない 晝飯も過ぎて午後二時頃天氣は少し直りかける 律は風呂に行くとて出てしまうた 母は默つて枕元に坐つて居られる 余は俄に精神が變になつて來た 「さあたまらんたまらん」「どーしやうどーしやう」と苦しがつて少し煩悶を始める いよいよ例の如くなるか知らんと思ふと益(ますます)亂れ心地になりかけたから「たまらんたまらんどうしやうどうしやう」と連呼すると母は「しかたがない」と靜かな言葉、どうしてもたまらんので電話かけうと思ふて見ても電話かける處なし 遂に四方太にあてて電信を出す事とした 母は次の間から賴信紙を持つて來られ硯箱もよせられた 直(すぐ)に「キテクレネギシ」と書いて渡すと母はそれを疊んでおいて羽織を着られた「風呂に行くのを見合せたらよかつた」といひながら錢を出して來て「車屋に賴んでこう」といはれたから「なに同し事だ 向へまで往つておいでなさい五十步百步だ」といふた心の中はわれながら少し恐ろしかつた「それでも車屋の方が近いから早いだろ」といはれたから「それでも車屋ぢや分らんと困るから」と半ば無意識にいふた余の言葉を聞き棄てにして出て行かれた さあ靜かになつた この家には余一人となつたのである 余は左向に寐たまま前の硯箱を見ると四、五本の禿筆(ちびふで)一本の驗溫器の外に二寸ばかりの鈍い小刀(こがたな)と二寸ばかりの千枚通しの錐(きり)とはしかも筆の上にあらはれて居る さなくとも時々起らうとする自殺熱はむらむらと起つて來た 實は電信文を書くときにはやちらとしてゐたのだ しかしこの鈍刀や錐ではまさかに死ねぬ 次の間へ行けば剃刀(かみそり)があることは分つて居る その剃刀さへあれば咽喉(のど)を搔(か)く位はわけはないが悲しいことには今は匍匐(はらば)ふことも出來ぬ 已むなくんばこの小刀でものど笛を切斷出來ぬことはあるまい 錐で心臟に穴をあけても死ぬるに違ひないが長く苦しんでは困るから穴を三つか四つかあけたら直(すぐ)に死ぬるであらうかと色々に考へて見るが實は恐ろしさが勝つのでそれと決心することも出來ぬ 死は恐ろしくはないのであるが苦(くるしみ)が恐ろしいのだ 病苦でさへ堪へきれぬにこの上死にそこなふてはと思ふのが恐ろしい そればかりでない やはり刃物を見ると底の方から恐ろしさが湧いて出るやうな心持もする 今日もこの小刀を見たときにむらむらとして恐ろしくなつたからじつと見てゐるとともかくもこの小刀を手に持つて見ようとまで思ふた よつぽと[やぶちゃん注:ママ。]手で取らうとしたがいやいやここだと思ふてじつとこらえた心の中は取らうと取るまいとの二つが戰つて居る 考へて居る内にしやくりあげて泣き出した その内母は歸つて來られた 大變早かつたのは車屋まで往かれたきりなのであらう

 逆上するから目があけられぬ 目があけられぬから新聞が讀めぬ 新聞が讀めぬからただ考へる ただ考へるから死の近きを知る 死の近きを知るからそれまでに樂(たのし)みをして見たくなる 樂みをして見たくなるから突飛な御馳走も食ふて見たくなる 突飛な御馳走も食ふて見たくなるから雜用(ざふよう)がほしくなる 雜用がほしくなるから書物でも賣らうかといふことになる………いやいや書物は賣りたくない さうなると困る 困るといよいよ逆上する

 

Gyougamanrokukirikogatana

 

   *

「天下の人餘り氣長く優長に構へ居候はゞ後悔可致候。……」以下は「仰臥漫録二」の十月十五日の条であるが、候文で判る通り、これは松山の伯父に宛てた手紙である。

「會計當而已(あたるのみ)矣 牛羊(ぎうやう)茁(さつとして)壯長而已(さうちやうするのみ)矣」は「孟子」の「萬章章句下」の一節。

   *

孔子嘗爲委吏矣。曰、會計當而已矣。嘗爲乘田矣。曰、牛羊茁壯長而已矣。

位卑而言高、罪也。立乎人之本朝、而道不行、恥也

○やぶちゃんの書き下し文

 孔子、嘗つて、委吏(いり)と爲(な)る。曰く、「會計、當(あた)れるのみ。」と。嘗つて、乘田(じやうでん)と爲る。曰く、「牛羊、茁(さつ)として、壯長(さうちやう)さするのみ。」と。

 位、卑しくして言高(げんたか)きは、罪なり。人の本朝に立ちて、道、行はれざるは、恥なり。

   *

「委吏」は穀物倉(ぐら)を管理する下級の村役人。「乘田」牧畜の実地管理をする下吏。「茁」順調に育つさま。「壯長」立派に成長すること。「人の本朝に立ちて」人民を正しく指南すべき朝廷に自ら立って居ながら。

兆民居士の『一年有半』」自由民権運動の理論的指導者として知られる、思想家・ジャーナリストで政治家(衆議院議員)であった中江兆民(弘化四(一八四七)年~明治三四(一九〇一)年十二月十三日)の評論集。かの門弟幸徳秋水が編集し、明治三四(一九〇一)年九月、「生前の遺稿」と副題して博文館より刊行された。同年三月、兆民は喉頭癌のため、余命一年半と宣告された。それより書き始めたもので、書名はこれに由来する。「民権、是れ、至理なり、自由平等、是れ、大義なり」の理義を堅持して、帝国主義や明治国家体制を断罪するなど、政治・経済から思想・文学・科学・人物論に至るまで、『社会百般にわたっての透徹した批判は文明批評家兆民の面目躍如たるものがある。また随所に、進行する病状が淡々とした筆致で誌(しる)されており、「癌との闘いの記録」ともなっている。その病苦との闘いのなかで亡国と国民堕落の状を「国に哲学無き」ことによる』、『と喝破した兆民は、引き続き『続一年有半』を執筆、同年』十『月に刊行したが、「ナカヱニスムス」と自称した壮大な思想哲学大系の完成を後進に託しながら』、十二『月に衰弱のため』、『死去した。解剖の結果は食道癌であった』(以上は小学館「日本大百科全書」に拠る)。彼はまさに子規がかく書いた二ヶ月後に五十四歳で死去するのである。私は正直、こういう正岡子規の噛み付き方が嫌いである。その相手が二ヶ月後に衰弱死した報知を子規はどのような気持ちで聴いたのであろう。「先に死にやがったか、羨ましい」だったのか? 子規の精神不安の根底には、こうした自己中心的なディスクールに基づく潜在的自己呵責感があったのではないかとさえ思えてくる。だからこそ、古白の幻聴が聴こえてくるのではないか? いや、そうしたものが微塵もないと豪語するなら、私はそれこそ子規は人間として『劣り』たる輩と言わざるを得ないと言っておく。

『十月十九日に至り「今日余もし健康ならば何事を爲しつゝあるべきか」という問題となって再び出て来る』前と同様の仕儀で示す。

   *

十月十九日 雨、便通、秀眞去る、また便通、繃帶取替、午飯、まぐろのさしみ、粥四わん、大はぜ三尾、りんご一つ

十六、七歳の頃余の希望は太政大臣となるにありき 上京後始めて哲學といふことを聞き哲學ほど高尚なる者は他になしと思ひ哲學者たらんことを思へり 後また文學の末技(まつぎ)に非るを知るや生來(せいらい)好めることとて文學に志すに至れり しかもこの間理論上大臣を輕視するにかかはらず感情上何となく大臣を無上の榮職の如く考へたり しかるに昨年以來この感情全くやみ大臣たるも村長たるも其處に安んじ公のために盡すにおいて一重の輕重なきを悟りたり

 今日余もし健康ならば何事を爲しつつあるべきかは疑問なり 文學を以て目的となすとも飯食ふ道は必ずしもこれと關係なし もし文學上より米代を稼ぎ出だすこと能はずとせば今頃は何を爲しつつあるべきか

 幼稚園の先生もやつて見たしと思へど財産少しなくては余には出來ず 造林の事なども面白かるべきもその方の學問せざりし故今更山林の技師として雇はるるの資格なし 自ら山を持つて造林せば更に妙なれど賣山の錢なきを奈何

 晚飯さしみの殘りと裂き松蕈(まつたけ)

 この日便通凡(およそ)五度、來客なし

   *]

サイト「鬼火」開設十三周年記念 「槍ヶ岳紀行 芥川龍之介」(芥川龍之介満十七歳の明治四二(一九〇九)年八月の槍ヶ岳山行記録)

サイト「鬼火」の開設十三周年記念(本日)として、

「槍ヶ岳紀行 芥川龍之介」(芥川龍之介満十七歳の明治四二(一九〇九)年八月の槍ヶ岳山行記録)

「心朽窩旧館」に公開した。

本テクストはネット上には未だ電子化されていないと思われ、また、読んだことがある方も非常に少ないと思う。

2018/06/25

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十四年  「仰臥漫録」

 

     「仰臥漫録」

 

 「墨汁一滴」連載中は、前年のような気力はないにしても、執筆を妨げるほどの容体もなかったらしく、厄月(やくづき)の五月もまたどうやら通過した。『ホトトギス』にも「死後」「吾寒園の首に書す」「病牀俳話」「くだもの」など、比較的多くの文章を発表している。「くだもの」に関する記憶を叙した一篇は、枯淡の基に精彩があり、過去の事実を語っているにかかわらず、現在その境にあるの思(おもい)あらしむるものであった。俳句の選も中途共選となり、共選も困難になって他の選句の上に「規」の一字を記すのみと変ったが、その後は長く選から遠ざからざるを得なかった。但(ただし)鳴雪翁の許(もと)に催される『蕪村句集』輪講だけは、あとから筆記を閲(けみ)して自己の意見を書加えていたようである。

[やぶちゃん注:「死後」は自己の死・葬送空想の恐怖を諧謔的に反転映像させた怪作である(しかし初読時、私は、度に過ぎたその滑稽に、逆に子規の内奥の絶対的に孤独な真正の死への恐怖を哀しく見たのを記憶している)。新字新仮名なら「青空文庫」等にあるが、国立国会図書館デジタルコレクションの画像の「花枕 子規選集」(大正五(一九一六)年新潮社刊)のそれがよかろう。明治三四(一九〇一)年二月初出。

「吾寒園の首に書す」「吾寒園」はこの年の二月一日に亡くなった、既出既注の子規の幼馴染みの友人竹村鍛(きたう 慶應元(一八六六)年~明治三四(一九〇一)年:河東碧梧桐の兄(河東静渓(旧松山藩士で藩校明教館の教授であった河東坤(こん)の号)の第三子で、河東銓(静渓第四子)の兄)。帝国大学卒業後、神戸師範から東京府立中学教員を経て、冨山房で芳賀矢一らと辞書の編集に従事し、亡くなる前年、女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)教授となった。号は錬卿(れんきょう)・黄塔)の作品で、本篇はその追悼文でもある。

「くだもの」新字新仮名なら「青空文庫」にあるが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(明治三七(一九〇)年俳書堂刊「子規遺稿 第三編 子規小説集」)の画像から正字正仮名で読める。同年四月初出。]

 

 四月中『寒玉集』の第二編が出版され、五月には『春夏秋冬』の春の部が出た。『春夏秋冬』は『新俳句』に次ぐ俳句の選集で、居士は病をつとめて春の部だけの選抜を了え、序及凡例も自ら草した。この序及凡例は『春夏秋冬』の巻首に掲げられるに先って「墨汁一滴」に掲げられた。

[やぶちゃん注:「春夏秋冬」俳句選集。明治三四(一九〇一)年~明治三六(一九〇三)年刊。春・夏・秋・冬と新年の四季四冊。正岡子規一門による『日本』派の句集。子規が撰した春の部より刊行を始めたが、続刊の三冊は子規の病状悪化のため、河東碧梧桐と高浜虚子の二人が共撰した。全体に定型が守られており、穏やかな安定感に富む絵画的な句が多い(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。同「序」は「墨汁一滴」明治三四(一九〇一)年五月十八日クレジット分に載るが、ここでは一つ、所持する「春夏秋冬」復刻版(全四巻)で翻刻しておくこととする(私は近い将来、この「春夏秋冬」全巻も電子化翻刻したいと考えている)。

   *

春夏秋冬

     序

春夏秋冬は明治の俳句を集めて四季に分ち更に四季の各題目によりて編たる一小册子なり。

春夏秋冬は俳句の時代において「新俳句」に次ぐ者なり。

新俳句は明治三十年三川の依托より余の選拔したる者なるが明治三十一年一月余は同書に序して

[やぶちゃん注:以下の引用部は、原典では全体が一字下げ。]

(畧)元祿にもあらず天明にもあらず文化にもあらず固より天保の俗調にもあらざる明治の特色は次第に現れ來るを見る(畧)しかも此特色は或る一部に起りて漸次に各地方に傳播せんとする者この種の句を「新俳句」に求むるも多く得難かるべし。「新俳句」は主として模倣時代の句を集めたるには非ずやと思はる(畧)但特色は日を逐ふて多きを加ふ。昨集むる所の『新俳句』は刊行に際する今已にその幾何か幼稚なるを感ず。刊行し了へたる明日は果して如何に感ぜらるべき。云々

といへり。果して新俳句刊行後新俳句を開いて見る毎に一年は一年より多くの幼稚と平凡と陳腐とを感ずるに至り今は新俳句中の佳什を求むるに十の一だも得る能はず。是に於いて新に俳句集を編むの必要起る。然れども新俳句中の俳句は今日の俳句の基礎をなせる者宜しく相參照すべきなり。

新俳句編纂より今日に至る僅に三四年に過ぎざれども其間に於ける我一個又は一團體が俳句上の經歷は必ずしも一變再變に止まらず。しかも一般の俳句界を槪括して之を言へば「蕪村調成功の時期」とも言ふべきか。

蕪村崇拜の聲は早くも已に明治二十八九年の頃に盛なりしかど實際蕪村調とおぼしき句の多く出でたるは明治三十年以後の事なるべし。而して今日蕪村調成功の時期といふも他日より見れば如何なるべきか固より豫め知る能はず。

太祇蕪村召波几董らを學びし結果は啻に新趣味を加へたるのみならず言ひ廻しに自在を得て複雜なる事物を能く料理するに至り、從ひてこれまで捨てゝ取らざりし人事を好んで材料と爲すの異觀を呈せり。これ余がかつて唱道したる「俳句は天然を詠ずるに適して人事を詠ずるに適せず」といふ議論を事實的に打破したるが如し。

春夏秋冬は最近三四年の俳句界を代表したる俳句集となさんと思へり。しかも俳句切拔帳に對して擇ばんとすれば俳句多くして紙數に限りあり遂に茫然として爲す所を知らず。辛うじて擇び得たる者亦到底俳句界を代表し得る者に非ず。されど若し新俳句を取つて之を對照せば其差啻に五十步百步のみならざるべし。

  明治卅四年五月十六日   獺祭書屋主人

   *]

 

 この時分の居士は寝返りすることも困難になっていた。畳に二三ヵ所麻で簞笥の鐶(かん)の如きものを拵え、これにつかまって寝返りを扶けようという方法を講じたことが、五月十日の事を記した「墨汁一滴」にある。苦痛は想像の外である。

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの「墨汁一滴」初出切貼帳冊子で電子化しておく(一部で濁点を加えた)。

   *

五月十日、昨夜睡眠不定、例の如し。朝五時家人を呼び起して雨戸を明けしむ。大雨。病室寒暖計六十二度[やぶちゃん注:華氏。十六・六度。]、昨日は朝來引き續きて來客あり夜寢時に至りしため墨汁一滴を認むる能はず因つて今朝つくらんと思ひしも疲れて出來ず。新聞も多くは讀まず。やがて僅に睡氣を催す。蓋し昨夜は背の痛く、終宵体溫の下りきらざりしやうなりしが今朝醒めきりしにやあらん。熱さむれば痛も減ずるなり。

睡る。目さませば九時半頃なりき。稍心地よし。ほととぎすの歌十首に詠み足し、明日の俳句欄にのるべき俳句と共に封じて、使して神田に持ちやらしむ。

十一時半頃午餐を喰ふ。松魚のさしみうまからず半人前をくふ。牛肉のタヽキの生肉少しくふ、これもうまからず。齒痛は常にも起らねど物を嚙めば痛み出すなり。粥二杯。牛乳一合、紅茶同量、菓子パン五六箇。蜜柑五箇。

神田より使歸る。命じ置きたる鮭のカン詰を持ち歸る。こは成るべく齒に障らぬ者をとて擇びたるなり。

週報應募の牡丹の句の殘りを檢す。

寐床の側の疊に麻もて簞笥の環の如き者を二つ三つ處々にこしらえ[やぶちゃん注:ママ。]しむ。疊堅うして疊針透らずとて女ども苦情たらだらなり。こは此麻の環を余の手のつかまへどころとして寐返りを扶けんとの企なり。此頃体の痛み強く寐返りにいつも人手を借るやうになりたれば傍に人の居らぬ時などのために斯る窮策を發明したる譯なるが、出來て見れば存外便利さうなり。

繃帶取替にかゝる。昨日は來客のため取替せざりしかば膿したゝかに流れ出て衣を汚せり。背より腰にかけての痛今日は強く、輕く拭はるゝすら堪へ難くして絶えず「アイタ」をぶ。はては泣く事例の如し。

浣腸すれども通ぜず。これも昨日の分を怠りしため秘結せしと見えたり。進退谷まりなさけなくなる。再び浣腸す。通じあり。痛けれどうれし。此二仕事にて一時間以上を費す。終る時三時。

著物二枚とも著かふ、下著したぎはモンパ、上著は綿入。シヤツは代へず。

三島神社祭禮の費用取りに來る。一匹やる。

繃帶かへ終りて後体も手も冷えて堪へ難し。俄に燈爐をたき火鉢をよせ懷爐を入れなどす。

繃帶取替の間始終右に向き居りし故背のある處痛み出し最早右向を許さず。よつて仰臥のまゝにて牛乳一合紅茶略同量、菓子パン數箇をくふ。家人マルメロのカン詰をあけたりとて一片持ち來る。

豆腐屋蓑笠にて庭の木戸より入り來る。

午後四時半体溫を驗す、卅八度六分。しかも兩手猶冷此頃は卅八度の低熱にも苦むに六分とありては後刻の苦さこそと思はれ、今の内にと急ぎて此稿を認む。さしあたり書くべき事もなく今日の日記をでたらめに書く。仰臥のまま書き終る時六時、先刻より熱發してはや苦しき息なり。今夜の地獄思ふだに苦し。

雨は今朝よりふりしきりてやまず。庭の牡丹は皆散りて、西洋葵の赤き、をだまきの紫など。

   *

「西洋葵」は思うに、双子葉植物綱ビワモドキ亜綱アオイ目アオイ科 Malvoideae 亜科フヨウ属アメリカフヨウ(草芙蓉(くさふよう))Hibiscus moscheutos(英語: rose mallowmallow はアオイ科、或いは特にゼニアオイ(Malvaceae 亜科ゼニアオイ属ゼニアオイ Malva mauritiana を指す語)である)辺りではなかろうか

 なお、この前日のリンク先を見られたい。

 やはり、この切貼帳はただものではないのだ! 切貼りではなく、何と! 正岡子規自筆(!)と思しい原稿が貼り付けられてあるではないか!

   *

 墨汁一滴(五月十一日記) 規

試に我枕もとに一包若干の毒藥を置け。而して余が之を飲むか飲まぬかを見よ。

   *

この文章を原稿で見ると、痛烈である。]

 

 八月二十六日、子規庵に俳談会なるものが催された。突然の催であったが、それでも二十人ばかり集った。前年末の蕪村忌以来、絶えてなかった会合だけに、はじめて居士を見るというだけで満足した人もあったらしい。席上居士は庭前の糸瓜及夕顔の句を五句ほど作り、これを追加の話題にした。

 

 「仰臥漫録」の筆を執りはじめたのは九月に入ってからである。「仰臥漫録」は居士の日記であるが、単純な日記ではない。三度の食事や間食に至るまで、日々の食物が克明に記されているかと思うと、突として何かの感想が出て来る。画があり、歌があり、句がある。居士の日記として現在伝わっているのは、前にもちょっと記したように、二十五、六年と三十年の一部に過ぎぬが、「仰臥漫録」の内容は従前の日記の如きものではない。人間の手に成ったこの種の記録として、「仰臥漫録」ほど真実味に富んだ、しかも興趣の多いものは他に類例が少いのではあるまいかと思う。

[やぶちゃん注:以下、底本では引用は総て全体が二字下げ。何故か、ネット上には「仰臥漫録」の正字正仮名で読めるデータが画像を含めて存在しないので、「子規居士」で校合した。但し、「子規居士」ではひらがながカタカナであるため、読み易さを第一として、底本のひらがなを原則、採用した。なお、一部、底本は引用に増補がしてある。]

 

絲瓜の花一つ落つ 茶色の小き蝶低き雞頭にとまる 曇る 追込籠のジヤガタラ雀いつの間にか籠をぬけて絲瓜棚松の枝など飛びめぐるを見つける 鄰家の手風琴聞ゆ

ジヤガタラ雀隣の庭の木に逃げる 家人籠の鐡網を修理す 蟬ツクヽヽボーシの聲暑し 日照る 蜻蛉一つ二つ 揚羽、山女郎(やまぢよらう)或は去り或は來る 梨をくふ

 

というような平穏な観察もある。

[やぶちゃん注:九月九日の条より。

「ジヤガタラ雀」既出既注。スズメ目カエデチョウ科キンパラ属シマキンパラ(島金腹)Lonchura punctulata。インド・スリランカ・東南アジア・中国南部に分布するが、沖縄・神奈川で侵入が確認されている。画像はウィキの「シマキンパラ」を。]

 

今年の夏馬鹿に熱くてたまらず、新聞などにて人の旅行記を見るとき吾もちよいと旅行して見ようと思ふ氣になる、それも場合によるが谷川の岩に激するやうな涼しい處の岸に小亭があつてそこで浴衣一枚になつて一杯やりたいと思ふた。

『二六』にある樂天の紀行を見ると每日西瓜を食ふて居る、羨ましいの何のてヽ

大阪では鰻の丼を「マムシ」という由、聞くもいやな名なり、僕が大阪市長になったら先づ一番に布令を出して「マムシ」という言葉を禁じてしまふ。

 

というような超然たる感想もある。

[やぶちゃん注:九月十六日の条より。

「『二六』にある樂天の紀行」大衆紙『二六新報』に記者で門弟でもあった中村楽天が同紙に載せた紀行記事と思われる。中村楽天(慶応元(一八六五)年~昭和一四(一九三九)年)は播磨国辻井村(現在の兵庫県姫路市)出身の俳人でジャーナリスト。本名は中村修一。ウィキの「中村楽天」によれば、明治一八(一八八五)年に上京し、二十六歳の時、『徳富蘇峰の主宰する国民新聞に記者として入社、のち『国民之友』の編集者となる。国木田独歩と交流し』、『青年文学』を刊行している。三十二歳になって『俳句を学び』初め、子規の『ホトトギス』同人となって『子規門として教えを受け』た。明治三一(一八九八)年、『子規が直野碧玲瓏、上原三川とともに出版した「日本派」最初の類題句集『新俳句』(民友社)の編集や刊行にも尽力する。その後、和歌山新報の記者を経て』明治三三(一九〇〇)年に『秋山定輔の二六新報に入社。そこで主宰した二六吟社が楽天の名を高めることにな』った。『二六新報』の『売れ行きも相まって、与謝野寛(のちの与謝野鉄幹)や伊原青々園、喜谷六花など、多くの作家、歌人、俳人を輩出した。子規亡き後は同門である篠原温亭や嶋田青峰が主宰した『土上』の同人となり、晩年は自身も俳誌『草の実』を創刊、主宰した』。『口が悪く』、『皮肉や毒舌を公言して憚らない人物』で、『実際に伊藤博文首相を侮辱した罪で、禁錮』二『ヶ月の刑を受け』、服役した経験がある。なお、彼は『奇しくも』、『師である子規と同月同日の』昭和十四年九月十九日、七十四歳で没している。]

 

 そうかと思うとまた、自分の喰べる梅干の核(ため)から出発して

 

貴人の膳などには必ず無數の殘物(のこりもの)があつてあたら掃溜(はきだめ)に捨てらるゝに違ひない、肴の骨には肉が澤山ついてゐるであらう、味噌汁とか吸物とかいふものも皆迄は吸ひ盡してないであらう、斯ういふ者こそ眞に天物(てんぶつ)を暴(ぼう)何とかする者と謂ふべしだ。之を彼(かの)孤兒院とか養育院とかに寄附して喰はすやうにしたら善いだらう。自分の内でも牛乳を捨てることが度々あるので、いつでも之を乳のない孤兒に吞ませたらと思ふけれど仕方がない。何か斯ういふ處へ連絡をつけて過を以て不足を補ふやうにしたいものだ。

兵營や學校の殘飯は貧民の生命であるといふから家々の殘飯も集めて廻るわけに行かないだらうか。さう思ふと犬や猫を飼ふて牛肉や鰹節をやるなどは出來たことでない、小鳥に粟をやるさへ無益な感じがする。

 

という風に、対社会的な意見となって現れることもある。病牀に釘付にされて寝返りも自由に出来ず、日夜呻吟している人の書くものとは思われない。

[やぶちゃん注:九月十九日の条より。

「天物を暴何とかする」は「(天物を)暴殄(ぼうてん)す」であろう。「暴殄」自体が「天の物を損ないたやすこと」或いは「物品を大切にせず、あたら消耗すること」を言い、「殄」は「尽きる・尽くす・絶つ・悉く」の意である。]

 

 病苦の問題にしてもそうである。居士は病のために苦しむことは苦しんでも、病のために役せられてはいない。「をかしければ笑ふ。悲しければ泣く。併し痛の烈しい時には仕樣がないから、うめくか、叫ぶか、泣くか、又は默つてこらへて居るかする。其中で默つてこらえて[やぶちゃん注:ママ。]居るのが一番苦しい。盛んにうめき、盛んに叫び、盛んに泣くと少しく痛が減ずる」と『墨汁一滴』にある通り、強いて平気を装ったりはしないが、病に任しながら時に病を離れるところがある。

[やぶちゃん注:「役せられてはいない」「えきせられてはいない」で使役されて、使われてはいない、の意。

「墨汁一滴」からの引用は四月十九日の全条。。]

 

こんなに呼吸の苦しいのが寒氣のためとすれば此冬を越すことは甚だ覺束ない。それは致し方もないことだから運命は運命として置いて醫者が期限を明言してくれゝば善い。もう三ケ月の運命だとか半年はむつかしいだらうとか言ふてもらひたい者ぢや。それがきまると病人は我儘や贅澤が言はれて大に樂(らく)になるであらうと思ふ。死ぬる迄にもう一度本膳で御馳走が食ふて見たいなどと云ふて見たところで今では誰も取りあはないから困つてしまふ。若しこれでもう半年の命といふことにでもなつたら足のだるいときには十分按摩してもらふて食ひたいときには本膳でも何でも望み通りに食わせてもらふて看病人の手もふやして一擧一動悉く傍(そば)より扶けてもらふて西洋菓子持て來いといふとまだ其言葉の反響が消えぬ内西洋菓子が山のやうに目の前に出る、カン詰持て來いといふと言下にカン詰の山が出來る、何でも彼でも言ふ程の者が疊の緣(へり)から湧いて出るといふやうにしてもらふ事が出來るかも知れない。

 

という「仰臥漫録」の一節だけ見ても、居士の心境が如何なるものであったかを知り得るであろう。こう書いた居士がこの年の誕生日に当って岡野の料理を取寄せ、平生看護の労に酬いんがため、特に家内三人でこれを食い、「蓋し亦余の誕生日の祝ひをさめなるべし」として会席膳の献立を記しているのを読むと、われわれも涙なきを得ない。

[やぶちゃん注:前の長い引用は九月二十九日の条より。

「この年の誕生日」これは非常に探しづらい。何故なら、この誕生日は旧暦で換算した日であるからである。正岡子規は慶応三年九月十七日(一八六七年十月十四日)で、明治三四(一九〇一)年の旧暦九月十七日は新暦十月二十八日に当たる。ところが、さらに実は、この年はその誕生日の祝いを繰り上げて、前日に祝っており、宵曲の言っている記載は十月二十七日の内容だからである。やや長いが、「仰臥漫録」の十月二七日と二十八日の記事を翻刻する。岩波文庫版を参考にしつつ、恣意的に漢字を正字化した。

   *

十月廿七日 曇

 明日は余の誕生日にあたる(舊曆九月十七日)を今日に繰り上げ晝飯に岡野の料理二人前を取り寄せ家内三人にて食ふ。これは例の財布の中より出たる者にていささか平生看護の勞に酬いんとするなり。けだしまた余の誕生日の祝ひをさめなるべし。料理は會席膳に五品

 さしみマグロとサヨリ 胡瓜 黃菊 山葵

 椀盛 莢豌豆(さやゑんどう) 鳥肉 小鯛の燒いたの 松蕈(まつたけ)

 口取 栗のキントン 蒲鉾 車鰕(くるまえび) 家鴨 蒲鉾 煮葡萄

 煮込 アナゴ 牛蒡 八つ頭 莢豌豆

 燒肴(やきざかな) 鯛 昆布 煮杏(にあんず) 薑(はじかみ)

 

 午後蒼苔來る。四方太來る。

 牛乳ビスケツトなど少し食ふ 晩飯は殆んど食へず。

 料理屋の料理ほど千篇一律でうまくない者はないと世上の人はいふ。されど病狀にありてさしみばかり食ふて居る余にはその料理が珍らしくもありうまくもある。平生臺所の隅で香の物ばかり食ふて居る母や妹には更に珍らしくもあり更にうまくもあるのだ。

 去年の誕生日には御馳走の食ひをさめをやるつもりで碧四虛鼠四人を招いた。この時は余はいふにいはれぬ感慨に打たれて胸の中は實にやすまることがなかつた。余はこの日を非常に自分に取つて大切な日と思ふたので先づ庭の松の木から松の木へ白木棉を張りなどした。これは前の小菊の色をうしろ側の雞頭の色が壓するからこの白幕で雞頭を隱したのである。ところが暫くすると曇りが少し取れて日が赫とさしたので右の白幕へ五、六本の雞頭の影が高低に映つたのは實に妙であつた。

 待ちかねた四人はやうやう夕刻に揃ふてそれから飯となつた。余は皆に案内狀を出すときに土産物の注文をしておいた。それは虛子に「赤」といふ題を與へて食物か玩具を持つて來いといふのであつたが虛子はゆで卵の眞赤に染めたのを持つて來た。これはニコライ會堂でやることさうな。鼠骨は「靑」の題で靑蜜柑、四方太は「黃」の題で蜜柑と何やらと張子の虎とを持つて來た。碧梧桐は茶色、余は白であつたが何やら忘れた。食後次第に話がはずんで來て余は晝の間の不安心不愉快を忘れるほどになつた。余は象の逆立(さかだち)やジラフの逆立のポンチ繪を皆に見せうと思ふて頻りに雜誌をあけて居ると四方太は張子の虎の髯(ひげ)をひねり上げながら「獨逸皇帝だ獨逸皇帝だ」などと言ふて居る。實に愉快でたまらなんだ。

帝だ獨逸皇帝だ」などと言ふて居る。實に愉快でたまらなんだ。

 それに比べると今年の誕生日はそれほどの心配もなかつたが余り愉快でもなかつた。體は去年より衰弱して寐返りが十分に出來ぬ。それに今日は馬鹿に寒くて午飯(ひるめし)頃には余はまだ何の食慾もなかつた。それに昨夜善く眠られぬので今朝は泣(な)かしかつた。それでも食へるだけ食ふて見たが後はただ不愉快なばかりでかつ夕刻には左の腸骨のほとりがく痛んで何とも仕樣がないのでただ叫んでばかり居たほどの惡日であつた。

 

 

十月廿八日 雨後曇

 午後左千夫來る 丈の低き野菊の類を橫鉢に栽ゑたるを携へ來る

 鼠骨來る

 包帶取換の際左腸骨邊の痛み堪へ難く號泣又號泣 困難を窮む

 この日の午飯は昨日の御馳走の殘りを肴(さかな)も鰕も蒲鉾も昆布も皆一つに煮て食ふ これは昨日よりもかへつてうまし お祭[やぶちゃん注:前日の誕生祝いを指す。]の翌日は昔から さい[やぶちゃん注:「采」。]うまき日なり

 晚餐は余の誕生日なればにや小豆飯なり 鮭の味噌漬けと酢の物(赤貝と烏賊)の御馳走にて左千夫鼠骨と共に食ふ

 食後話はずむ 余もいつもより容易(たやす)くしやべる 十時頃二人去る

    *

因みに、「春耕俳句会」公式サイト内の子規の四季 (73) 201610月号 子規の誕生日には、この「仰臥漫録」を引いて、詳しい説明が載るが、その原文を見ると、岩波版とは表記に異同があり、やはり原文を見たい気がしてきた(「仰臥漫録」を電子化したい強い思いがあるのだが、これでは、正規表現のものをどこかで手に入れなくては、という気がした)。「例の財布」については、『子規が「突飛な御馳走」を食べるための小遣錢が欲しくなり、虛子から借りることにした』二十『圓のうちの』十一『圓と、所藏の俳書すべてを讓渡する約束で、岡麓から受け取った前金』二『圓などを入れて寢床の上にぶら下げていたもの。律が縫った赤と黃の段ダラの袋狀の財布に、麓がくれた更紗の錢入れ袋もそのまま入れてあったらしい』とある。さらに『岡野の料理』二『人前を』三『人で食べたとあるから』、一『人前を子規が食べ、母と妹でもう』一『人前を食べたのであろう。豪華な會席膳は、病床で刺身ばかり食べている子規にも珍味であった。まして平生は香の物ばかりで濟ませている八重と律にとっては、この上ないご馳走であったろう』とある。なお、ここで回想される一年前の誕生日祝いは、正しく明治三三(一九〇〇)年十一月八日(旧暦九月十七日)に行われたが、これは既に先の最後の写真撮影にも出た部分である。虚子の持って来たのは、所謂、復活祭の卵、「イースター・エッグ」(Easter egg)である。]

2018/06/24

大和本草卷之八 草之四 海蘿(フノリ)

 【和品】

海蘿 順和名抄云不乃利〇處々ノ海濱ノ石ニ付テ

 生スチイサキヲ小ブノリト云羹トシテ食ス其味甘シ

 其大ナルヲ水ニ洗干シ貯テ糊トス紙工コレヲ用ユ民

 用多シ又火ニ煨シ柿漆ニ和乄紙ヲツギ合スルニ用ユ

 

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

海蘿(フノリ) 順、「和名抄」に云はく、「不乃利」。〇處々の海濱の石に付きて生ず。ちいさきを「小ブノリ」と云ふ。羹〔(あつもの)〕として食す。其の味、甘し。其の大なるを、水に洗ひ干(ほ)し、貯へて糊〔(のり)〕とす。紙工、これを用ゆ。民用、多し。又、火に煨し、柿-漆(しぶ)に和して、紙をつぎ合はするに用ゆ。

[やぶちゃん注:私が殊の外好きな、紅色植物門紅藻綱スギノリ目フノリ科フノリ属 Gloiopeltis のフノリ類(フノリという和名種はいないので注意)。本邦産種は、

ハナフノリ Gloiopeltis complanata

フクロフノリ Gloiopeltis furcata

マフノリ Gloiopeltis tenax

であるが、食用に供されるのは後者のフクロフノリ・マフノリの二種である。マフノリは藻体内部に粘液が詰まって中実で、分布がやや北に偏るのに対し、やや大型の前者フクロノリは内部が空洞である。食感が異なり、私は孰れも好きである。ウィキの「フノリには、『「布海苔」と漢字で書くこともあるが、ひらがなやカタカナで表記されることのほうが多い。貝原益軒の『大和本草』の中では「鹿角菜」や「青角菜」と記されている。中国語では「赤菜」と書かれる』(下線太字やぶちゃん。とあるんだが、ここにちゃんと「フノリ」はあるぞ?! この筆者が言っているものの内、「鹿角菜」の方は、この「大和本草卷之八」の海藻部の最後にある「鹿角(ツノマタ)菜」のことだが、これは取り敢えず「ツノマタ」とあるんだから、紅藻植物門紅藻綱スギノリ目スギノリ科ツノマタ属ツノマタ Chondrus ocellatus と考えていいだろうに? 「青角菜」? どこにも出てこんで、そんなもん!)『マフノリはホンフノリと呼ばれることもある。マフノリ、フクロフノリなどは食用とされ、狭義にはこれらのみをフノリと呼ぶこともある』。『岩礁海岸の潮間帯上部で、岩に付着器を張り付けて生息する。日本全国の海岸で広く見られる』。『フノリは古く』は『食用よりも糊としての用途のほうが主であった。フノリをよく煮て溶かすと、細胞壁を構成する多糖類がゾル化してドロドロの糊状になる。これは、漆喰の材料の』一『つとして用いられ、強い壁を作るのに役立てられていた』。『ただし、フノリ液の接着力はあまり強くはない。このため、接着剤としての糊ではなく、織物の仕上げの糊付けに用いられる用途が多かった。「布糊」という名称はこれに由来するものと思われる。また、相撲力士の廻しの下につける下がりを糊付けするのに用いられたりもする』。現在の食用のそれは、二月から四月に『かけてが採取期で、寒い時のものほど風味が良いといわれる。採取したフノリの多くは天日乾燥され市場に出回るが、少量は生のまま、または塩蔵品として出回ることもある』。『乾燥フノリは数分間水に浸して戻し、刺身のつまや味噌汁の具、蕎麦のつなぎ(へぎそば)などに用いられる。お湯に長時間つけると』、『溶けて粘性が出るので注意が必要である』。『その他、フノリの粘液は洗髪に用いられたり、化粧品の付着剤としての用途もある。また、和紙に絵具や雲母などの装飾をつける時に用いられることもある』とある。【★2025年11月25日追記】本日公開した河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(四)乾鮑の說(その3)」で、本邦産フノリ類に就いて、こことは異なる修正変更を示したので、必ず、見られたい。

「煨し」読み不詳。「廣漢和辭典」を見ると、音は「ワイ」だが、どうもそう読んでいるとは思われない。意味は「火種を持った灰の中に埋めて焼く」であるが、どうもこれもピンとこない。現代中国語の「とろ火でとろとろ煮る・茹でる」の意がしっくりくるんだが。「いぶし」(熏し)とか読んでるのかなぁ。]

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 イトヨリ・黃イトヨリ (ソコイトヨリ)

 

仝イトヨリ

 

黃イトヨリ

Sokoitoyiri

 [やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いた。かく、この二図は上下で並んでいるが、但し、貼り交ぜたもので、一枚の紙には書かれていないので注意されたい。「仝」は謂わずもがなであるが、「同」の異体字である。前の図の「糸ヨリ鯛」(私はイトヨリダイに同定)と同じ、と言っているわけだが、ここはよく観察しなくてはいけない。上の魚はまず、下顎後部位置(胸鰭下)から尾部へ向かって一本、腹下部(もう少し下で逢ってほしいのだが)に有意に尾部へ向かって一本、計二本の黄色い縦縞が現認出来る。下の図は黄色くないが、しかし標題に「黃イトヨリ」とある。この二図の魚は体型は極めて酷似する。されば、上図は特徴的な黄縞から、

スズキ目スズキ亜科イトヨリダイ科イトヨリダイ属ソコイトヨリ Nemipterus bathybius

と同定する。而して、その縞が描かれていなくても、黄色いイトヨリを意味するキャプションを附している以上は、下部のそれも同種としておきたい。下の魚を何故、そう安易に同定出来るんだ、と文句を言われる向きもあろうかと思うが、さっきもちょっと言い添えたように、ソコイトヨリの下腹部の非常に鮮やかな黄色い縦縞は(腹部が白いために上の筋(こちらは赤い鱗によって実は個体によっては全く目立たない)より遙かにはっきり見える。どれだけ鮮やかかは「ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑」の「ソコイトヨリ」やWEB魚図鑑」の「ソコイトヨリの画像群を見られたい)、実は腹部のずっと下方にあるので、向きによってはそれは見えなくなるからである。]

進化論講話 丘淺次郎 第十六章 遺傳性の研究(五) 五 突然變異説 / 第十六章 遺傳性の研究~了

 

     五 突然變異説

 

 親子兄弟の間でも幾らかの相違のあることは常であるが、稀には親とも兄弟とも飛び離れて著しく違つた者が生ずることがある。例へば普通の親から六本指の子供が出來るとか、普通の綠葉を持つた植物から白斑[やぶちゃん注:「しろふ」。]入りの變り物が出來るとかいふ類であるが、これ等は昔からたゞ變異中の特殊の場合と見倣すだけで、別に名稱も定めてなかつた。所が、ド・フリースは之に突然變異といふ新しい名を附け、性質が子孫に遺傳するのはこの類の變異のみであると論じ、之に依つて、生物各種の生じた原因を説明しようと試みた。突然變異説と呼ばれる今日名高い學説は卽ち之である。

 

Tukimisou_2

 

[月見草 (右)原種(左)變種]

[やぶちゃん注:左の図が非常に暗いので、飛ぶほどに明るさを大きくした。種は段落末の後注参照。]

 

Sidahensyu

 

[羊齒の一種中に現れた著しい變異]

[やぶちゃん注:種は不明。]

 

Koutyuuheni

 

[甲蟲の一種中に生ぜる最も著しい突然變異]

[やぶちゃん注:三図とも底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングし、補正して用いた(後の蝸牛も同じ)。昆虫は苦手なのだが、背部の独特の模様から見ると、甲虫(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目ハムシ(葉虫)上科ハムシ科レプチノタルサ属コロラドハムシ Leptinotarsa decemlineata か、その近縁種かなぁ?]

 

 前にも述べた通りド・フリースは遺傳や變異のことを研究するに都合のよい植物を探して居るとき、不圖[やぶちゃん注:副詞「ふと」。]月見草の一種に面白い變異のあるものを見附け、早速之を大學の植物園に移して多年その研究に從事して居たが、突然變異説の根抵とする事實はこの間に得たことである。その大要を述べて見ると、澤山に植ゑた月見草の中から稀に一見して他と異なつたものが一二本生ずることがあり、これから種子を取つて蒔いて見ると、その性質が純粹に子孫に傳はつて、一の新しい品種を造ることが出來た。例へば葉の滑かなもの、雌蘂の殊に短いもの、莖が太くて節の短いもの、葉脈が紅色を帶びて居るもの、葉の色の薄いもの、全體に小形なものなど、樣樣な品種が出來たが、ド・フリースは、これから論を立てて、自然界に於ける生物各種の出來たのも、自然淘汰によつて長い年月の間に漸々變化して生じたのではなく、各種ともに初は月見草の各品種と同じく、一囘の突然變異で起つたものであると説いて居る。實はかやうな例は月見草で初めて知れた譯ではなく、ダーウィンの著書にも已に幾つか掲げてある。脚の短い羊や角のない牛の品種が、斯くして出來たことは、已に第三章に述べたが、その他にも上顎の短い牛、蹄の一つよりない豚など、飼養動物の方にも幾らかの例があり、また園藝植物の方には更に澤山ある。野生の動植物に於ける突然變異の例を一二擧げれば、羊齒類の一種には、上圖に示してあるやうな樣々の著しい變異を示すものがあり、アメリカに産する甲蟲の一種にも幾通りもの變異がある。その他探して見たら色々のものがあるに違ひない。然しながら概していふと、突然變異は比較的に甚だ稀なもので、ド・フリースも月見草を見附ける前に樣々の植物を培養して見たが、一つも著しい變異を生ずるものはなかつた。

[やぶちゃん注:「前にも述べた通り」「第十六章 遺傳性の研究(一) 序・メンデルとド、フリース」参照。そこで私はこの「月見草」をこの場合は、リンク先のド・フリースの前注で示した通り、フトモモ目アカバナ科 Onagroideae 亜科 Onagreae 連マツヨイグサ属マツヨイグサ Oenothera stricta に同定した。その後、マツヨイグサ類の品種改良史などを管見しても見ても、また、ここで改めて示された原種と変種の図を見ても、私は同定を変える必要はない、と考えている。挿絵の原種と変種の違いは、見る限りでは、草体上部に見られる花の蕾の形状に大きな違いが認められるようには思う。]

 

 さてド・フリースは普通の變異のことを彷徨變異と名づけ、之と突然變異とは全く別種のものと見倣して、突然變異の方はその性質を子孫に遺傳するが、彷徨變異の方は決してその性質を子孫に傳へることはない。隨つて彷徨變異なるものは生物の進化には何等の關係もない。新しい種屬の起る源は、全く突然變異のみに限ると説いて居るが、多くの事實に照らし合せて見ると、之は餘程疑はしい。先づ第一に、所謂彷徨變異と突然變異との相違を考へて見ても、前者には極端から極端までの間に細かい移行があり、後者には全くかやうな移行がないといふが、之も材料を極めて多數に集めて見たらばどうであらうか。例へば月見草にしても、一植物園内だけから材料を取れば、葉の大小、莖の長短などの彷徨變異は、一本一本の間の相違は眞[やぶちゃん注:「まこと」。]に僅であるに反し、突然變異の方は他との相違が顯著であらうが、世界中の、月見草を殘らず比べて見たならば、所謂突然變異もやはり細かい移り行きの階段によつて原種と相繋がつて居るのではなからうか。また所謂彷徨變異の方でも個體の數の少い場合には、一個一個の間の相違はやはり幾分か一足飛びなるを免れず、時には相應に著しいこともあらう。突然變異といひ彷徨變異といふも、實は單に程度の問題で、程度の低い突然變異と極端な彷徨變異とは、到底區別が附くわけのものではない。また從來突然變異と名づけ來つたものの中には、無數に生じた變異を培養者が若干の組に分けて、その中から各組の模範と見倣すべきものを選り出して、互に最も相異の著しいものを竝べたやうな場合も少くない。前に例に擧げたアメリカ産の甲蟲なども之である。彷徨變異と突然變異とを嚴重に區別する人は、ダーウィンは突然變異を度外した如くに論ずるが、ダーウィンは變異といふ中に、無論所謂突然變異をも含ませて考へた、倂し突然變異なるものは生ずることが極めて稀であるから、人が特に之を保護して子孫を繼續させる場合の外は、恐らく忽ち他に壓倒せられて、その性質も後には殘らぬであらうから、生物種屬の進化には比較的重要なものでないと論じたのであつて、著者の意見は全く之と同じである。

[やぶちゃん注:「彷徨変異」(fluctuation)。環境変異(environmental variation)。或いは個体変異(差)。生育環境の差や発育の途上で起る偶然的要因などの影響により、同一生物集団内の個体間に生ずる量的変異。遺伝的変異と対する。一般に、変異の大きさは、ある値を中心に連続的に分布する。この変異は遺伝しない(以上は「岩波生物学辞典」)。以下、平凡社「マイペディア」の「彷徨変異」では、全く同じ遺伝子構成をもつ個体の集りの中で見られる形質の違い。一本の植物に実った種子の大小・軽重などが、その例であり、形質の変動は、ある値を中心として両側に次第に減少していく山形の曲線、所謂、正規分布を示す。山の両端、則ち、値の小さいもの、或いは、大きいものを採って、子孫の形質の変動を調べても、中心値は変わらず、再び、同様の曲線を示す。単一の遺伝子群が環境条件の影響のもとに生み出すところの表現型の確率論的な変異と解すべきもの。現在では、この語は、殆んど用いられない、とある。]

 

Katatumurinoheini

 

[蝸牛の變異]

 

 また突然變異はその性質を子孫に遺傳するが、彷徨變異はその性質を遺傳せぬといふが、前にも述べた通り、低度の突然變異と極端の彷徨變異とは、區別が出來ぬのみならず、若し性質を子孫に遺傳する變異を總べて突然變異と見倣すならば、之と彷徨變異との區別は愈無くなつてしまふ。前にメンデルの分離の法則を述べるに當つて、例に擧げた蝸牛の二品種の如きも、彷徨變異の兩端に位するものであつた。卽ち圖に示す通り、樣々の移行の階段のある變異の中から最も相異なつたものを取つて、その間に雜種を造つて見たら、その殼の色、模樣などが、一定の規則に隨つて子孫に傳はつたのである。かやうな例は他にも素より澤山にあるが、之から推し考へると、所謂突然變異なるものは、變異中の極端な場合を指すのであつて、普通の變異とはたゞ程度が違ひ、種屬の平均の性質に比して相違が著しいだけに、その遺傳が培養者の目に觸れるのであらうと思はれる。

[やぶちゃん注:「前にメンデルの分離の法則を述べるに當つて、例に擧げた蝸牛の二品種の如き」を参照。]

 

 ド・フリースの説に對して、こゝに詳しい批評を試みることは出來ぬが、著者は決して全然之に反對するといふ譯ではない。突然變異が生物新種屬の生ずる原因と成ることも無論あるべき筈で、現に一囘の突然變異が基となつて、新しい品種の出來ることは、ド・フリースの實驗にもその他にも幾つも確な例がある。また天然に於ても、或る突然變異が生じた場合に、丁度それがその時の生活狀態に適し、且その性質が優勢を以て遺傳して、第二代以後に純粹な一變種を成すといふ如きことがないとは限らぬ。併しながら著者の考へによれば、たとひかやうな場合があるとしても、之はやはりダーウィンのいうた自然淘汰の中に當然含まるべきもので、決してその範圍以外の別種の現象とは見倣されぬ。同時に生じた多くの變異の中から、生存競爭の結果として、適者のみが生き殘ることを自然淘汰と名づけるのであるから、その變異が突然變異であらうとも、彷徨變異であらうとも、孰れも自然淘汰のために材料を供給するものなることに違ひはない。たゞ突然變異と彷徨變異とを強いて區別し、性質の遺傳するのは突然變異のみに限るといふ説に對しては、前に簡單に述ベた如き理由により、到底賛成を表することは出來ぬ。

[やぶちゃん注:現在でも突然変異を進化の原動力と考えている人がいるが、これは全くの誤りである。DNARNA上の塩基配列に変化が生ずる遺伝子突然変異や、染色体数や構造に変化が生ずる染色体突然変異は別だが、当たり前のことながら、多細胞生物の突然変異は生殖細胞で起こらない限りは遺伝はしない。]

進化論講話 丘淺次郎 第十六章 遺傳性の研究(四) 四 各性質の獨立遺傳

 

     四 各性質の獨立遺傳

 

Endoudainidai

 

[碗豆の第二代雜種

(上右)靑、丸、(上左)黃、皺、(中)第一第雜種、黃、丸]

[やぶちゃん注:豆の様態が判り易い、学術文庫版を用いた。]

 

Toumorkosizatu

 

[「たうもろこし」の雜種]

[やぶちゃん注:学術文庫版を用いた。但し、原本では縦に配されてある図が学術文庫版では横に配されているので、九十度回転させ、立てて示した。]

 

 メンデルの實驗研究によつて明にせられたことの中で最も有益なのは、兩親の各性質がそれぞれ獨立に分離し、遺傳することである。前には兩親が何かたゞ一つの點で相異なつた場合を例に擧げて、その第二代以後に分離することを述べたが、初め兩親が二つ以上の點で相違するときには如何といふに、メンデルの實驗によれば、この場合には、兩親の相異なる各性質は、他に構(かま)はず獨立に分離し遺傳する。例へば、豆が靑くて丸い碗豆と豆が黃色で表面に皺のある碗豆との間に雜種を造つて見ると、靑に對しては黃、皺に對しては丸が優勢であると見えて、第一代雜種には悉く黃色で丸い豆ばかりが生ずるが、更に第二代となると、黃色で丸いもの、黃色で皺のあるもの、靑くて丸いもの、靑くて皺のあるものの四種類が出來て、然もその數が約九と三と三と一との割合に生ずる。これは何故かといふに、メンデルの考へた如くに、黃性と靑性と、若しくは丸性と皺性とが、同一の生殖細胞内に雜居せぬものとすれば、第一代雜種が成長して花の咲く頃には、その花粉にも胚珠にも、右の四種類のものが出來て、これが相合する時には十六通りの異なつた配合が行はれるが、混合性のものは、何時も外見上優勢の性質だけを現すから、之を通算すると以上の如き數の割合となるのである。ここに圖を掲げた「たうもろこし」の果實は、粒の色と形との二點で異なつた二品種間の第二代雜種であるが、粒に四種類あることは前の碗豆に於けると少しも違はぬ。動物界から同樣な例を一つ擧げれば、曾て外山氏が蠶に就いて行つた明瞭な實驗がある。卽ち、體が白くて黃色い繭を造る品種と、體に黑い橫紋があつて白い繭を造る品種との間に、雜種を造つたら、第一代のものは悉く體には橫紋があつて黃色の繭を造つたが、第二代には體に橫紋があつて黃色の繭を造るもの、體に橫紋があつて白い繭を造るもの、體が白くて黃色の繭を造るもの、體が白くて白い繭を造るものとの四種が、約九と三と三と一との割合に出來た。總べてこれ等の場合にも、初め兩親の相異なつた性質、例へば、豆の色の黃と靑、豆の表面の丸と皺、もしくは蟲の體の白と斑[やぶちゃん注:「まだら」。]、繭の色の白と黃の如くに相對した性質か二組づゝ別に離して考へると、孰れもメンデルの「分離の法則」に隨つて遺傳して居るが、各組が他に構はず恰も自身だけであるかのに分離し、遺傳するから、それが同一體の内で重なり合つて斯く樣々の性質の組合(くみあはせ)が出來るのである。また以上は各組の兩性質の間に優劣の判然したものに就いて述べたのであるが、若しも各組の兩性質の間に優劣の差が十分でない場合には、純優性のものと混合性のものとが外見上已に明に違ふから、第二代に於て相異なる種類の數が更に多く出來て、複雜になるはいふを待たぬ。

[やぶちゃん注:「外山氏」遺伝学者で蚕種改良家でもあった外山亀太郎(慶応三(一八六七)年~大正七(一九一八)年)。蚕を用いて、世界で初めて、動物で「メンデルの法則」を確認した学者として知られる。相模国愛甲郡小鮎村生まれ。明治二五(一八九二)年、帝国大学農科大学卒業。在学中に養蚕学教室で動物学教授石川千代松の指導の下、蚕の精子形成を研究し、明治三三(一九〇〇)年、その遺伝学的研究に着手した。主としてこの研究は農商務省の蚕業技師長としてシャム(現在のタイ)帝室養蚕研究所へ派遣されていた間(一九〇二年~一九〇五年)に行われた。研究成果は明治三十九年の大学紀要で発表されており、メンデルの遺伝研究の価値の「再発見」(一九〇〇年)からわずか六年後という早さは高い評価の対象となっている。大学卒業後、同助手・水産講習所教師を勤めた。明治二十九年には福島県蚕業学校の校長となるが、研究に熱中してしまい、排斥運動を受け、明治三十二年に退職、その後にシャムへ渡り、帰国後の明治三十九年に農学博士の学位を受け、明治四十一年に帝大助教授、三年後には原蚕種製造所の技師を兼務した。同年、ヨーロッパの養蚕事情視察に赴き、大正元(一九一二)年に帰国、大正六年には東京帝国大学教授となったが、この頃から、脊髄の病いに侵され、加療するも効なく、五十二歳で他界した。著書「蚕種論」(明治四一(一九〇九)年刊)で蚕の第一代雑種利用を提唱し、日本の蚕種業の発展に貢献、帝国発明協会から恩賜記念賞を贈られている(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。]

 

 次に兩親が三つの點で相異なつて居る場合には如何といふと、之も全く前のと同樣で、第一代雜種には總ベて優勢の方の性質のみが現れ、第二代になると二の三乘卽ち八種の異なつたものに分れる。誰も知る通り碗豆には一粒每に外面に一枚の皮があり、内部は半球形の子葉二つで充ちて居るが、メンデル自身が行ふた例を擧げると、形が丸く、子葉が黃色で、外皮が茶色の碗豆と、表面に皺があり、子葉が綠色で、外皮の白い碗豆との間に、雜種を造つたら、第一代には形が丸くて、子葉の黃色い、外皮の茶色の豆ばかりが出來、第二代には次の八種類に分れた。文句を略して、表面の形と子葉の色と外皮の色とを各一字づゝ竝べて書くと、丸黃茶のもの、丸黃白のもの、丸綠茶のもの、丸綠白のもの、皺黃茶のもの、皺黃白のもの、皺綠茶のもの、皺綠白のものとの八種であるが、然も之が豫期の通りの數の割合に生じた。豫定の割合とは二十七、九、九、九、三、三、三、一の割合であるが、丸と皺、黃と綠、茶と白といふ如き相對して角力をとるべき二つの異なつた性質が、同一の生殖細胞内に雜居せぬとすれば、第一代雜種の生じた花粉にも胚珠にも、性質の組合せの異なつたものが各八種類づゝ出來て、これが相合する時には六十四通りの配合の仕方があり、而して混合性のものは總べて外見上優勢の性質を現すとすれば、以上の如き割合に成るべき筈であるから、之も學説の豫期する所と、實地試驗の結果とがよく一致したのであつて、メンデルの説の正しい證據と見倣すことが出來る。各組の兩性質の間に優劣の著しくない場合には、第二代雜種が外見上更に複雜になることはいふを待たぬ。

 かやうに兩親が二つ以上の點で相異なる場合に、それらの相異なつた性質が、各獨立に分離して遺傳するといふことは、メンデルの發見の最も大切な部分であつて、培養植物の品種改良を圖るに當つては頗る有望なものである。已に英國の或る學者はこの知識を應用して小麥の改良を試みた。卽ち收穫は多いが、白錆という黴[やぶちゃん注:「かび」。]のための病に罹り易い小麥と、收穫は稍少いが、この病に對して一向平氣な小麥との間に、雜種を造り、第二代に現れた種々の性質の組合の違ふものの中から、收穫が多くて白錆に罹らぬものを選び出し、終にこの兩性質を兼ね具へた新しい品種を造ることに成功した。かやうな例は今日の所では植物にもまだ極めて少く、動物には一つもないが、今後は恐らく同樣の方法で動植物ともに種々の良種が造られ得るであらう。

[やぶちゃん注:「白錆という黴」一般の植物の錆(さび)病は、カビ(黴)の仲間である担子菌門 Basidiomycota サビキン(錆菌)亜門 Pucciniomycotina サビキン目Pucciniales(またはUredinales)に属する種によって引き起こされる病気で、日本では五十六属約七百五十種が知られており、ムギ・マメ・マツ・ナシなど、多くの重要な農作物や林木に寄生して被害を与える(寄生を受けた植物は葉や茎に胞子の塊(胞子層)を多数作るが、そのの胞子の塊が金属に生じた錆によく似ていることに由来する)。しかしながら、ここで丘先生の言われるムギの「白錆」病は、調べる限りでは、真正のサビキン類ではなく、全く別の不等毛類 Heterokonta に属する卵菌門 Oomycota シロサビキン目 Albuginales シロサビキン科 Albuginaceae に属するる菌類によって引き起こされるものである。ところが、ムギの白さび病で調べてみても、出てこない。寧ろ、サビキン目の錆菌類によって引き起こされれるムギ類の「黒さび病」「黄さび病」(サビキン目Puccinia属であるが、それぞれ発生する植物種により菌種も異なる)がある。或いは、丘先生は何か勘違いをしておられる可能性があるのかも知れない。失礼乍ら、「白」は余計なのかも知れない。なお、この時代、「白錆病」(根菜類に多く見られるらしい)がサビキン目の種によるものと考えられていた可能性は高いように思われる。]

 

 以上は雜種を造る兩親が、ただ二つか三つの性質だけで相異なるものと假定して述べたのであるが、實際に於てはかやうなことは極めて稀であつて、たとひ同一種に屬する個體と雖も、單に一點もしくは二三の點だけで相異なり、他の點に於ては悉く絶對に相同じといふ如きものは滅多にない。されば假に總べての性質がメンデルの考へた通りに第二代以後に分離すると見倣しても、實際に於て兩親の孰れかと寸分違はぬ子孫の出來る望みは極めて少ない。兩親がたゞ一つの性質で相異なる場合には、第二代に至つて兩親の各と相同じものが總數の四分の一づゝ出來る勘定であるが、兩親が二つの性質で相異なる場合には、第二代雜種の中、兩親の何れかと相同じものが僅に十六分の一づゝよりなく、兩親が三つの性質で相異なる場合には六十四分の一づゝ、四つの性質で相異なる場合には、二百五十六分の一づゝよりない。若し兩親が十の性質で相異なるとすれば、孫の代には約百萬の中に一つづつだけより、兩親の何れかと全く同じものがない勘定になる。かやうな次第であるから、一個一個の性質は分離するものとしても、個體としては皆兩親の性質の種々に相混じたもののみである。メンデルが特殊の材料について實驗するまで、誰も遺傳する性質の分離に氣が附かなかつたのもこの故であらう。

 遺傳する性質の優劣にも不完全なものが多く、分離にも不十分なものが幾らもある如く、各性質が獨立に遺傳するといふても、決して總べての場合に獨立に遺傳する譯ではない。近來の研究によると、二つ以上の性質が組み合つたままでなければ遺傳せぬこともあり、また他の性質から影響を蒙つて左右せられることもある。これ等に就いて詳しく述べることは略するが、遺傳の現象はなかなか複雜なもので、研究すればするほど一定の型に嵌まらぬものが出て來る。今日遺傳を研究する學者は、斯かる場合をもメンデルの型に嵌めて説明せんと試み、樣々の想像的の性質を考へ出した。例へば、雜種の第二代に色の變異が豫定通りにならぬ場合には、色を生ぜしめる性質の外に、色の發生を止める性質、色の發生を軟げる性質、色の發生を促す性質、色を深くする性質など、やう々な性質が兩親に具はつてあつたものと假定し、これ等の性質の組合によつて眼前の變異が生じたものと考へて居る。

 メンデルの發見した優劣の法則でも分離の法則でも、またはメンデル以後の雜種研究でも、兩親が已に有した性質が如何に子孫に傳はるかを調べるだけであるから、生物の進化を説明するに當つては、寧ろ間接に相觸れるのみである。幾億萬年の昔から今日までの間に、極めて簡單な先祖から次第に進化して複雜な生物各種が生じたのは、常に新しい變異が現れ、新しい性質が附け加はつて、子孫に傳はるの外に途はないから、新な變異は如何にして起るかといふ問題の方が、進化論に對しては遙に大切である。

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十四年  歌また歌

 

     歌また歌

 

 五月十三日、左千夫氏に与えた居士の書簡に「藤の歌山吹のうた歌又歌歌よみ人に我なりにけり」という歌がある。前年末に作りた「雪」の旋頭歌を新年の『日本』に揚げて以来、居士は殆どその歌を示さなかったが、四月二十八日に至って

 

 瓶(かめ)にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり

 

の歌にはじまる藤の十首が先ず「墨汁一滴」に現れた。これに端を発して、山吹の歌、岩手の孝子の歌、かしわ餅の歌、ほととぎすの歌という風に、十首ずつの短歌が引つづき発表されたが、五月四日の「しひて筆を取りて」という一連の歌がその中の絶唱であろう。

[やぶちゃん注:名吟「瓶(かめ)にさす」の載るそれを以下に初出(国立国会図書館デジタルコレクションにある初出の切貼帳冊子)で示す。私は中学二年の時、この一首を詠んで落涙するほどの感銘を覚えたのを忘れない。

   *

夕餉したゝめ了りて仰向に寢ながら左の方を見れば机の上に藤を活けたるいとよく水をあげて花は今を盛りの有樣なり。艷にもうつくしきかなとひとりごちつゝそゞろに物語の昔などしぬばるゝにつけてあやしくも歌心なん催されける。斯道には日頃うとくなりまさりたればおぼつかなくも筆を取りて

  甁にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上

  にとゞかざりけり

  甁にさす藤の花ぶさ一ふさはかさねし書の上

  に垂れたり

  藤なみの花をし見れば奈良のみかど京のみか

  どの昔こひしも

  藤なみの花をし見れば紫の繪の具取り出で寫

  さんと思ふ

  藤なみの花の紫繪にかゝばこき紫にかくべか

  りけり

  甁にさす藤の花ぶさ花垂れて病の牀に春暮れ

  んとす

  去年の春龜戸に藤を見しことを今藤を見て思

  ひいでつも

  くれなゐの牡丹の花にさきだちて藤の紫咲き

  いでにけり

  この藤は早く咲きたり龜井戸の藤咲かまくは

  十日まり後

  八入折の酒にひたせばしをれたる藤なみの花

  よみがへり咲く

おだやかならぬふしもありがちながら病のひまの筆のすさみは日頃稀なる心やりなりけり。をかしき春の一夜や。

   *

「十日まり後」は「とをかまりのち」で音数律合わせのために「十日あまり後」を約したもの。「八入折の酒」「やしほりのさけ」で上代語。「何度も繰り返して醸(かも)した芳醇な酒」のこと。「八醞」「八塩折」或いは「やしぼり」と濁って読んだりもする。]

 

 佐保神の別れかなしも來ん春にふたゝび逢はんわれならなくに

 いちはつの花咲きいでゝ我目には今年ばかりの春行かんとす

 病む我をなぐさめがほに開きたる牡丹の花を見れば悲しも

 世の中は常なきものと我愛づる山吹の花散りにけるかも

 別れ行く春のかたみと藤波の花の長ふさ繪にかけるかも

 夕顏の棚つくらんと思へども秋待ちがてぬ我いのちかも

 くれなゐの薔薇ふゝみぬ我病いやまさるべき時のしるしに

 薩摩下駄足にとりはき杖つきて萩の芽摘みし昔おもほゆ

 若松の芽だちの綠長き日を夕かたまけて熱いでにけり

 いたつきの癒ゆる日知らにさ庭べに秋草花の種を蒔かしむ

 

 居士はこの歌の終(おわり)に「心弱くとこそ人の見るらめ」の一語を加えている。暮春の情と病牀の居士と、庭の風物とが渾然として一つのものになっていること、この一連の如きは少い。藤の歌の中にも「藤なみの花をし見れば紫の繪の具取り出で寫さんと思ふ」「藤なみの花の紫繪にかゝばこき紫にかくべかりけり」とあり、ここにまた「藤波の花の長ふさ繪にかけるかも」とあるが、この藤を画(えが)いて歌を題したものが今でも遺っている。紅の薔薇のふふむにつけても、五月という厄月(やくづき)の到ることを思い、夕顔の棚を作ろうとしながらも、秋まで持つべき命であるかということを念頭に浮べる。しかも居士は秋の草花の種を庭に蒔かしめ、命あらばそれを見ようとしているのである。この一連の歌を誦(しょう)して、居士の心持を直に身に感ぜぬというならば、その人は畢(つい)に詩を談ずるに足る人ではない。

[やぶちゃん注:「佐保神」(さほがみ(さおがみ))は「佐保姫」とも称し、春を司る神の名。奈良の都の東方には佐保山があったが(現在の奈良市佐法蓮佐保山附近であるが、開発が徹底的に進行してしまい、山の面影はない。ここ(グーグル・マップ・データ))、この方角は五行説で春に当たることに由来する。

「いちはつ」一初。単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属イチハツ Iris tectorum。屋根菖蒲。種小名 tectorum (テクトルム)はラテン語で「屋根の」の意味。和名はアヤメ類の中で一番先に咲くことに由来する。

「ふゝみぬ」蕾が膨らんだ。

「薩摩下駄」駒下駄に似た形を成すが、台の幅が広く、白い太めの緒をすげた男性用の下駄。多くは杉材で作る。

「いたつき」「勞(いたつき)」は病気。

「知らに」万葉以来の連語。「知る」の未然形に打消の助動詞「ず」の古型の連用形「に」が付いたもの。「知らないで・知らないので」であるが、ここは「知らず」がよかろう。

この藤を画いて歌を題したものが今でも遺っている」不詳。ネット上では捜し得なかった。

 

 五月九日の「墨汁一滴」にはこういうことが書いてある。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。]

 

今になりて思ひ得たる事あり、これ迄余が橫臥せるに拘らず割合に多くの食物を消化し得たるは咀嚼の力與(あづか)つて多きに居りし事を。嚙みたるが上にも嚙み、和らげたるが上に和らげ、粥さへ嚙み得らるゝだけは嚙みしが如き、あながち偶然の癖にはあらざりき。斯く嚙み嚙みたるためにや、咀嚼に最(もつとも)必要なる第一の臼齒左右共にやうやうに傷(そこな)はれて此頃は痛み強く少しにても上下の齒をあはす事出來難くなりぬ。かくなりては極めて柔かなるものも嚙まずに呑み込まざるべからず。嚙まずに呑み込めば美味を感ぜざるのみならず、膓胃直に痛みて痙攣を起す。是に於いて衛生上の營養と快心的の娯樂と一時に奪ひ去られ、衰弱頓に加はり晝夜悶々、忽ち例の問題は起る「人間は何が故に生きて居らざるべからざるか」

 

 次の長短歌はこの文章の末に記されたものである。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が四字下げ、初出では二字下げであるが、長歌が不具合を生ずるので、特異的に完全に行頭に上げて示した。なお、「虫」は初出のママ。]

 

さへづるやから臼なす、奥の齒は虫ばみけらし、はたつ物魚をもくはえず、木の實をば嚙みても痛む、武藏野の甘菜辛菜を、粥汁にまぜても煮ねば、いや白けに我つく息の、ほそり行くかも

下總の結城の里ゆ送り來し春の鶉をくはん齒もがも

菅の根の永き一日を飯もくはず知る人も來ずくらしかねつも

 

 居士の唯一の療養法は「うまい物を食う」にあった。この「うまい物」は多年の経験との一時の情況とによって定(さだま)るので、他人の容喙(ようかい)[やぶちゃん注:横から他人が口を出すこと。]を許さぬ底(てい)のものであったが、この療養法によって居士は垂死の病軀に一脈の活気を注入し、力を文学の上に伸(のば)し得たのである。かつて『ホトトギス』の「消息」において、一流の御馳走論を述べたこともあった。その御馳走を摂るべき第一関門たる歯が傷(そこな)われたのでは、居士の病牀生活は暗澹たらざるを得ない。「人間は何が故に生きて居らざるべからざるか」という歎声も、決して誇張の言ではないのである。

[やぶちゃん注:「さへづるやから臼なす」よく判らぬが、食事をするために口を動かすことを「さへづる」とし、咀嚼しようとしてみるのだけれど、ああっ!(間投助詞「や」)私の「臼」歯は役立たずで「から」(空)踏みするばかりの意か。「から臼」は「唐臼」を前提として「空」を掛けていよう。

「はたつもの」「畑つ物」で「はたけつもの」に同じ。粟・稗・麦・豆などの畑から穫れる農作物のこと(「つ」は「の」の意の上代の格助詞)。対義語は「たなつもの」(穀つ物)で対語的には稲を限定的に指す(但し、これは広く前者を含めた穀類を指す語でもある)。

「武藏野の甘菜辛菜を、粥汁にまぜても煮ねば、いや白けに我つく息の」やはりよく判らぬが、全く咀嚼が不能になった結果、「粥汁」には「武藏野の甘菜辛菜を」「まぜても煮」ることが出来なくなったので(噛み切れぬから)、いや! 何とまあ! 何の美味そうな混ぜものもない「白」ら「け」きった熱い白粥、それを口に含んでは「我つく」落胆の溜「息の」白さ(粥の温度が高いから五月でも白い息となる)よ! という意味か。]

 

 「墨汁一滴」から会心の条を摘記(てっき)して行くとなれば、まだまだ容易に尽くべくもないが、三十四年には他に記さなければならぬものを控えているので、遺憾ながら割愛して先へ進もうと思う。「墨汁一滴」の稿は七月二日まで続いた。終らんとするに先って不折氏洋行の事があり、数日を費して送別の辞を述べた。『小日本』の条に記した不折氏との最初の会見の事なども、この文中にある。

[やぶちゃん注:「『小日本』の条に記した不折氏との最初の会見の事」明治二十七年の「『小日本』創刊の章のこと。初会のエピソードは六月二十五日クレジットの条に書かれてあり、そこから六月三十日までが中村不折の送別の記となっていて、短い七月一日と二日の記事で「墨汁一滴」は終わっている。漱石洋行に続く盟友の洋行(渡仏。不折の帰国は明治三八(一九〇五)年、で漱石同様、子規の死の床には居合わせることが出来なかった)といった友人の勇躍せんとして旅立つそれは、再び逢えないという感懐も含めて、子規にとっては非常に辛く淋しいものであったことは、彼の送別の語りや詩歌によって判り切ったことではあるが、強烈な芸術家意識を持った彼にはそれ故にこそ、激烈に耐え難いことだったのである。

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十四年  「墨汁一滴」

 

    「墨汁一滴」

 

 「墨汁一滴」が『日本』に出はじめたのは一月十六日からである。居士がこれを草することを思立って、二回ほど文章を送ったところ、一向新聞に出ない。この事は大に居士を失望せしめた。そこで鼠骨氏に書を送って、場所は択ばぬ、欄外でも差支ない、欄外を借りて欄外文学なども洒落れているが、欄外二欄貸さないだろうか、といった。毎日書くつもりではじめた「墨汁一滴」が載らないようでは新聞も読みたくない、病中は楽(たのしみ)が少いから、一の失望に逢った時慰めようがない、というのである。この書簡が十五日附のもので、その翌日から「墨汁一滴」は紙上に現れたのであった。

[やぶちゃん注:「墨汁一滴」はここに書かれた通り、新聞『日本』明治三四(一九〇一)年一月十六日から七月二日まで(途中四日のみ休載)百六十四回連載された。それは、以前にも紹介した国立国会図書館デジタルコレクションにある初出の切貼帳冊子で総てが見られる。それにしても、二回分のそれが、一向に掲載されなかったのは何故なのか? 或いは最初のそれ(前章注に電子化してある)に、編集者である当の鼠骨の贈った地球儀の話が出ることから、これを原稿というよりも彼宛ての年初の挨拶吟と誤認したものか? 二回目の原稿(翌日一月十七日のクレジット)の原稿も一月七日の会に岡麓が持ち来った年始祝いの七草を植えた竹籠の話で、最後に、

 あらたまの年のはじめの七くさを籠に植ゑて來

 し病めるわがため

という歌で締めくくっており、或いは、鼠骨は、この「墨汁一滴」と表題した二つの原稿は単なる歳旦の言祝ぎの二篇であり、まだ多少は続くかも知れぬから、孰れどこかでその標題で完結するであろうものを纏めて発表しよう考えていたのかも知れぬ。ところが、上記のような本格連載ものとして子規が考えていたことを知って、慌てて掲載したものではなかったか?]

 

 「墨汁一滴」は最初から一行以上二十行以下ということを大体の限度としていた。その日その日思いついたことを記して行く点は『松蘿玉液』などに似ているけれども、文の短いに反して含蓄は甚だ多い。『松蘿玉液』以後における五年間が、単に居士の病苦をのみ募らしめたものでないことは、どの箇所を開いて見て明な事実である。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。「墨汁一滴」の第十二回目の一月三十一日クレジットのもの。切貼帳で校合した。句読点は底本と切貼のそれを合わせて用いた。以下も同じ。]

 

人の希望は初め漠然として大きく後漸く小さく確實になるならならひなり。我病牀に於ける希望は初めより極めて小さく、遠く步行(ある)き得ずともよし、庭の内だに步行き得ば、といひしは四、五年前の事なり。其後一、二年を經て、步行き得ずとも立つ事を得ば嬉しからん、と思ひしだに餘りに小さき望かなと人にも言ひて笑ひしが、一昨年の夏よりは、立つ事は望まず、座るばかりは病の神も許されたきものぞ、などかこつ程になりぬ。しかも希望の縮小は猶こゝに止まらず。座る事はともあれ、せめては一時間なりとも苦痛なく安らかに臥し得ば如何に嬉しからん、とはきのふ今日の我希望なり。小さき望かな。最早我望もこの上は小さくなり得ぬ程の極度に迄達したり。此次の時期は希望の零となる時期なり。希望の零となる時期、釋迦は之を涅槃といひ耶蘇は之を救ひとやいふらん。

 

 こういう世界は『松蘿玉液』時代の居士の想像を許さぬところであった。「墨汁一滴」の人に与える感銘が『松蘿玉液』の比でないのは固より当然といわなければならぬ。

 居士は『日本』紙上におけるあらゆる執筆を廃し、「墨汁一滴」に一切を集中しようとした。歌に関する問題も俳句に関する問題も、やはり「墨汁一滴」で埒(らち)を明けようとした。格堂氏から預ったままになっていた平賀元義の歌を天下に紹介したのも「墨汁一滴」においてであった。居士は世に知られず、不遇の裏(うち)に一生を了った元義の歌が醇乎(じゅんこ)[やぶちゃん注:「純乎」とも書く。全く雑じり気のないさま。]たる万葉調なるを見て「一たびは驚き一たびは怪し」んだが、広くその歌を知らしめんとしてこの筆を執ったのである。「『万葉』以後において歌人四人を得たり。源實朝、德川宗武、井手曙覽(いであけみ)、平賀元義是なり」といい、

 

四家の歌を見るに、實朝と宗武とは氣高くして時に獨造[やぶちゃん注:初出に拠る。岩波文庫版もママ。底本は「独創」。]の處ある相似たり。但宗武の方、霸氣稍きが如し。曙覽は見識の進步的なる處、元義の保守的なるに勝れりとせんか、但技倆の點に於いて調子を解する點に於いて曙覽は遂に元義に如かず。故に曙覽の歌の調子とゝのはぬが多きに反して元義の歌は殆ど皆調子とゝのひたり。されど元義の歌は其取る所の趣向材料の範圍餘りに狹きに過ぎて從つて變化に乏しきは彼の大歌人たる能はざる所以なり。彼にして若し自(みづか)ら大歌人たらんとする野心あらんか、其歌の發達は固より此に止(とど)まらざりしや必せり。其歌の時に常則を脱する者あるは彼に發達し得べき材能の潛伏しありし事を證して餘あり。惜しいかな。

 

という。居士の結論は常に断々乎としている。平賀元義は居士にょって顕揚(けんよう)せられた最後の歌人であった。「墨汁一滴」十二回を費(ついや)した元義の事は、直(ただち)に『心の華』に転載せられた。

[やぶちゃん注:前にも述べたが、平賀元義の賞揚は「墨汁一滴」の二月十四日(クレジット)から始まり、二月二十六日までの、十二回、一日のブレイクもなしに連載されている。以上の長い引用部は最後の二月二十六日分の最終段落総てで、その前に本文中で引用されてある「『万葉』以後において歌人四人を得たり。源實朝、德川宗武、井手曙覽(いであけみ)、平賀元義是なり」という箇所も同日分の第三段落の冒頭部である。]

 

 歌に関する文章は必ずしも元義の事にとどまらぬ。有名な「鐡幹是ならば子規非なり、子規是ならば鐡幹非なり、鐡幹と子規とは並稱(ならびしやう)すべき者にあらず」という言葉もこの中にあり、短歌会の諸子に対する警策もまたこの中にある。或時の短歌会で、最もいい歌は誰にも解せらるべき者だという主張と、いい歌になるほどこれを解する人が少くなるという主張とが対立した一ことがあった。居士はこれを聞いて、「愚かなる人々の議論かな。文學上の空論は又しても無用の事なるべし。何とて實地に就きて論ぜざるぞ。先づ最も善きといふ實地の歌を擧げよ。其歌の選擇恐らくは兩者一致せざるべきなり。歌の選擇既に異(こと)にして枝葉の論を爲したりとて何の用にか立つべき。蛙は赤きものか靑きものかを論ずる前に先づ蛙とはどんな動物をいふかを定むるが議論の順序なり。田の蛙も木の蛙も共に蛙の部に屬すべきものならば赤き蛙も靑き蛙も兩方共にあるべし。我は解し易きにも善き歌あり、解し難きにも善き歌ありと思ふは如何に」と「墨汁一滴」に書いた。こういう問題に対する居士の所論は、坦々たる中道を行くの概(おもむき)があった。

[やぶちゃん注:前者「鐡幹是ならば子規非なり、子規是ならば鐡幹非なり、鐡幹と子規とは並稱(ならびしやう)すべき者にあらず」は一月二十五日クレジットのもの。全文を初出で電子化する。ここは句読点もママとした。

   *

去年の夏頃ある雜誌に短歌の事を論じて鐵幹子規とへ並記し兩者同一趣味なるかの如くいへり。吾以爲へらく兩者の短歌全く標準を異にす、鐵幹是ならば子規非なり子規是ならば鐵幹非なり、鐵幹と子規とは並稱すべき者にあらずと。乃ち書を鐵幹に贈つて互に歌壇の敵となり我は明星所載の短歌を評せん事を約す。葢し兩者を混じて同一趣味の如く思へる者の爲に妄を辯ぜんとなり。爾後病牀寧日少く自ら筆を取らざる事數月未だ前約を果さゞるに、此の事世に誤り傳へられ鐵幹子規不可並稱の説を以て尊卑輕重に因ると爲すに至る然れども此等の事件は他の事件と聯絡して一時歌界の問題となり、甲論乙駁喧擾を極めたるは世人をして稍歌界に注目せしめたる者あり。新年以後病苦益〻加はり殊に筆を取るに惱む。終に前約を果す能はざるを憾む。若し墨汁一滴の許す限に於て時に批評を試るの機を得んか猶幸なり。

   *

また、後者の長い引用は、三月二十七日クレジット分のほぼ全文である。宵曲が訳してしまった以下を頭の附ければ、全文となる。

   *

先日短歌會にて、最も善き歌は誰にも解せらるべき平易なる者なりと、ある人は主張せしに、歌は善き歌になるに從ひいよいよ之を解する人少き者なりと。他の人は之に反對し遂に一場の議論となりたりと。

   *]

 

 落合直文氏の歌に対し、精細なる批評を試みたのも「墨汁一滴」においてであった。居士は毎日一首、多くても二首位の都合で、一々これを解析して微に入り細を穿つ評語を加えた。こういう精細な歌評は、居士以前に誰も企てぬものであったろうと思われる。

[やぶちゃん注:歌人で国文学者であった落合直文(文久元(一八六一)年~明治三六(一九〇三)年:陸前伊達藩の重臣鮎貝の家に生まれたが、国学者落合直亮(なおあき)の養子となった東京大学古典講習科中退。叢書「日本文学全書」の刊行や「日本大文典」などの国語辞典編輯等、国文学者としての業績の他に、「青葉茂れる桜井の」「孝女白菊の歌」の作者として知られ、和歌改良を目指して『浅香社』を結成、与謝野鉄幹・尾上柴舟らの門下を育てた。以上は平凡社「マイペディア」に拠る)の歌への「墨汁一滴」での批評は三月二十八日クレジット分から始まり、七日連続で四月三日分まで行われている。]

2018/06/23

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十四年  昨年今年明年

 

   明治三十四年

 

    昨年今年明年

 

 明治三十四年(三十五歳)[やぶちゃん注:一九〇一年。]には、前年の「新年雑記」にあるような軽快な事柄は見当らない。

 

 うつせみの我足痛みつごもりをうまいは寐ずて年明にけり

 

というような状態で新年を迎えたのである。居士の枕頭には巻紙・状袋などを入れる箱があり、その上に置いた寒暖計に小さい輪飾が括りつけてあった。

 

 枕べの寒さ計(はか)りに新玉(あらたま)の年ほぎ繩をかけてほぐかも

 

という歌はこれを詠んだのである。

[やぶちゃん注:「うまい」は万葉語で「熟寢(寐)」「味眠」などの漢字を宛て、「快く眠ること・熟睡」の意の名詞である。この後者の一首は、直後の「墨汁一滴」の巻頭(底本は朱の手書きで一月十六日のクレジットが入る。)に載っている。以下に国立国会図書館デジタルコレクションにある初出の切貼帳冊子で翻刻したが、読み易さを考え、一部に句読点を追加して打った。

   *

病める枕邊に卷紙狀袋など入れたる箱あり、其上に寒暖計を置けり。其寒暖計に小き輪飾をくゝりつけたるは、病中、いさゝか、新年をことほぐの心ながら、齒朶の枝の左右にひろごりたるさまも、いとめでたし。其下に橙を置き、橙に竝びて、それと同じ大きさ程の地球儀を据ゑたり。この地球儀は二十世紀の年玉なりとて、鼠骨の贈りくれたるなり。直徑三寸の地球をつくづくと見てあれば、いささかながら、日本の國も特別に赤く書く[やぶちゃん注:底本は手書きで二重線でそれを抹消して「そめら」に修正。底本の切貼帳の製作者は不明であるが、或いは、子規に非常に近い人物で、子規の命によって、初出を改稿したものの原本である可能性もあるか。以下の改稿部も総て現行の「墨汁一滴」の通りだからである。]れてあり。臺灣の下には新日本と[やぶちゃん注:手書きで「記」を挿入。]したり。朝鮮滿洲吉林黑龍江などは紫色の内にあれど、北京とも天津とも書きたる處なきは餘りに心細き思ひせらる。二十世紀末の地球儀は、此赤き色[やぶちゃん注:手書きで「と」を挿入。]紫色との如何變りてあらんか、そは二十世紀初の地球儀の知る所に非ず。とにかくに狀袋箱の上に並べられたる寒暖計と橙と地球儀と、是れ、我病室の蓬萊なり。

  枕べの寒さ計りに新年の年ほぎ繩を掛けてほ

  ぐかも

   *]

 

 この年『日本』にはじめて掲げたのは「書中の新年」及「御題の短歌を新年の紙上に載することにつきて」の二篇であった。「書中の新年」というのは「家人に命じて手に觸るゝ所の書籍何にても持ち來らしめ、漸次にこれを關してその中より新年に關する字句を拔抄(ばつしやう)」するという趣向のもので、その冒頭には次のように記されている。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。「子規居士」で校合した。]

 

 明治卅四年は來りぬ。去年は明治卅三年なりき。明年は明治卅五年ならん。去年は病牀に在りて屠蘇を飮み、雜煮を祝ひ、蜜柑を喰ひ、而して新年の原稿を草せり。今年も亦病牀にありて屠蘇を飮み、雜煮を祝ひ、蜜柑を喰ひ、而して新年の原稿を草せんとす。知らず、明年はなほ病牀にあり得るや否や。屠蘇を飮み得るや否や。雜煮を祝ひ得るや否や。蜜柑を喰ひ得るや否や。而して新年の原稿を草し得るや否や。發熱を犯して筆を執り、病苦に堪へて原稿を草す。人はまさに余の自ら好んで苦むを笑はんとす。余は切に此苦の永く續かん事を望むなり。明年一月余は猶此苦を受け得るや否やを知らず、今年今月今日依然筆を執りて復諸君に紙上に見(まみ)ゆる事を得るは實に幸なり。昨年一月一日の余は豈能く今日あるを期せんや。

 

 「新年雑記」に記されたところと大体似ているけれども、前年に比べるとどこか迫った点がある。一年間に著しく進んだ病苦が自ら然らしむるのであろう。

 一年前にはじめて「新年雑詠」の短歌を募集し、『日本』に掲げた居士は、今年は旋頭歌を募ってその結果を新年の紙上に発表したが、選に入った者は僅に七人、各一首ずつに過ぎなかった。これは居士の病苦が多くの歌を選むの労に堪えなくなったのではない。居士の歌に臨む標準が次第に高く、一年前とは全く程度を異にするためである。この傾向は已に歌会を廃する少し前あたりからの評語にも見えているが、旋頭歌の選に至って更に顕著になった。旧来の惰性によって歌を作る者は、勢い振落されざるを得ぬ。一面からいえばこの傾向は、居士の歌の世界を前より狭くしたように見えたかも知れない。居士の選歌の標準が高まったということも、外聞からは容易に窺い得ぬものであるだけに、これに従って進む者は固より不退転の勇気を必要とする。居士の晩年になればなるほど、その選に入る顔触が少数者に限られた観があったのは、全くこのために外ならぬのであった。

 一月の『ホトトギス』には「初夢」及「蕪村寺再建縁起」が出ている。「初夢」は睡中(すいちゅう)に見た夢というよりも、むしろ居士が胸裏に描いた夢の方であろう。新年と共に病から脱却して方々年賀に歩いたり、汽車に乗って帰郷したりする、これらの夢は居士に取っては実現すべからざるものになってしまった。富士山を下りながら砂を踏みすべらして真逆様に落ちたと思えば、腰の痛み、背の痛み、足の痛み、身動きもならぬ現実に還らざるを得ない。軽快な「初夢」の文章が読む者にいうべからざる悲哀を感ぜしむるのはこのためであろう。

[やぶちゃん注:「初夢」は「青空文庫」のにあるが、新字新仮名で、国立国会図書館デジタルコレクションの俳書堂の「子規遺稿 第編 子規小品文集をお薦めする。

「蕪村寺再建縁起」の方は本文は小さくて読めないが、「土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べもの)」で不折の俳味に富んだ挿絵が見られる。それによれば、『蕪村宗の俳阿弥という行脚僧が、化物や狐狸と力を合わせて月並村の妨害をはねのけ、荒れ果てていた蕪村寺をみごと再建するというストーリー』とある。]

 

 「蕪村寺再建縁起」は黄表紙に擬したもので、不折氏が挿画を画いている。こういう趣向を新聞雅誌の上に凝すことは、居士得意のしところであったが、病苦はその余力をこういう方面に用いることを困難ならしめた。「蕪村寺再建縁起」は最後の趣向と見るべきものである。

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十三年 最後の写真撮影 / 明治三十三年~了

 

     最後の写真撮影

 

 『ホトトギス』はこの年十月を以て第四巻に達した。居士はこの雑誌に「『ホトトギス』第四巻第一号のはじめに」という一文を掲げ、その感想を述べている。その末段に東京の文学界は長く東京人の占むる所となっていることをいい、田舎から出て来た者が何年もかかって東京風俗を研究し、苦辛(くしん)して東京化して見たところが、畢竟第二流小説家となるに過ぎず、第一流は依然江戸児(えどっこ)の専有物になっている、文学界に東京閥が尊敬されることが久しいだけ、東京の文学がいよいよ腐敗して鼻持もならぬようになって来ることを論じた一節がある。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。「「子規居士」で校合した。]

 

兎に角我々の希望は都會の腐敗した空氣を一掃して、田舍の新鮮なる空氣を入れたいのである。東京言葉と衣服の流行が分らない者は小説家の資格が無いだの、戀でなければ文學でないだの、花は菫、蟲は蝶、此外には詩美を持つて居る花も蟲も無いだの、といふやうな、狹い、幼稚な不健全な思想を破つてしまひたい。流行は美でない、喝采は永久でない。我々は都會人士に媚びて新聞雜誌の上で賞められたくない。我々は斃(たふ)れて後に已(や)むの決心を以て進むばかりである。併しながら永く都會に住んで居ると自然と腐敗して來る事は世の中に實例が多い。萬一我々が都會の腐敗を一掃する前に軟化して勇氣が挫けたといふやうな事があつたら、其時には第二の田舍者が出て來て必ず我々の志を繼いでくれるであらうといふ事を信ずる。その第二の田舍者といふ奴は今頃何處かの山奧で高い木の上に上つて椎の實をゆすぶり落して居るかも知れない。

 

 これは『ホトトギス』の使命を説くと共に、文学における居士の態度を闡明したものである。自己の病漸く篤きを知りながら、山の木に上って椎の実をゆすぶり落しているような継志者を思いやるあたりは、居士その人に触れるような気がする。

 八月の喀血以前、居士は『ホトトギス』に掲げた「消息」で「小生近日元氣消耗甚しく候につき回復策として百二歳の賀筵(がえん)[やぶちゃん注:祝賀の宴席。]にても開かんかと存候。小生百二歳は明治百一年に當り候につき本年に繰上げ候はば六十八年前取りする譯に相成候。賀筵はまだ早退ぎると申す人も有之候へども小生は時期既におくれたりと存候。それにつき何か善き趣向もがなと考居候」といったことがある。百二歳賀筵の名は用いられなかったが、この年の誕生日(旧暦九月十七日)[やぶちゃん注:グレゴリオ暦では一九〇〇年十一月八日。子規は慶応三年九月十七日(一八六七年十月十四日)生まれ。]には碧梧桐、虚子、四方太、鼠骨の諸氏を招き、赤、青、黄、白、茶というような題を課して、各〻その色の食物か玩具を持寄る趣向とした。翌年の『仰臥漫録』にこの日の事を回顧して、

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。「子規居士」で校合したが、そこではひらがながカタカナ表記で読み難いので、底本のひらがな表記を採用した。]

 

余は此日を非常に自分に取つて大切な日と思ふたので先づ魔の庭の木から松の木へ白木綿を張りなどした。これは前の小菊の色をうしろ側の雞頭の色が壓するから此白幕で雞頭を隱したのである。ところが暫くすると曇りが少し取れて日が赫(かつ)とさしたので、右の白幕へ五、六本の雞頭の影が高低に映つたのは實に妙であつた。

 

と書いてある。この会は非常に愉快であったらしい。

 十一月以降、子規庵における和歌、俳句の例会は皆廃することになった。「なるべく靜養を旨としたる上にて病氣に多少の間あらば『日本』と『ホトトギス』との上に力を盡すべく、此新聞此処雜誌に小生の名現れ候間は六疊の病室に籠りてガラス越の日光を浴びつゝなほながらへ居候ものと御推察被下度候」などという「消息」を読むと、居士の身辺が俄に寂しくなったように思われるが、事実は必ずしもそうではない。日光へ紅葉を見に行った歌の仲間が、夜に入って二度まで居士を驚かしたようなこともあり、新嘗祭(にいなめさい)には雞頭闇汁会(やみじるかい)なるものが歌の方だけで催されてもいる。諸会廃するの後も『蕪村句集』輪講だけは隔月に子規庵で催すことになっていたし、少人数の山会(文章会)などは時に枕頭で開かれた。この年から病牀に煖炉(だんろ)を焚くことになったので、十一月三十日には煖炉据付祝(すえつけいわい)などということもあった。

[やぶちゃん注:「新嘗祭」本来は旧暦十一月二十三日に天皇が五穀の新穀を天神地祇に勧め、自らもこれを食して、その年の収穫に感謝する祭祀。神人共食の始まり。]

 

 蕪村忌も例年通り催されたが、運座を廃することにした。写真撮影の際三十八人とあるから、前年よりやや少い勘定である。但(ただし)風が強かったため、居士は写真に加わることが出来ず、翌日単独に撮影した。現在最も広く行われている横向の写真がそれで、居士最後の写真となったわけである。

 『寒玉集』及『寸紅集』が出版されたことも、この年掉尾(ちょうび)の出来事に数えなければなるまい。従来単行本になったものは、いずれも俳句方面のものに限られた。文章方面の収獲はこれを以て嚆矢とする。『寒玉集』の巻頭には『日本』に出た「叙事文」一篇が載せられた。

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十三年 喀血後の興津移転問題

 

     喀血後の興津移転問題

 

 八月十三日の朝、居士は突然喀血した。二十八年以来の多量の喀血であったので自他共に驚いたが、幸に一回だけで済んだ。帰省中の格堂氏が平賀元義の歌を発見して、居士の許に送り来ったのはこの際の事である。居士は直に端書を出してその歌を集めんことを勧め、「上にして田安宗武下にして平賀元義歌よみ二人」「血をはきし病の床のつれづれに元義の歌よめばうれしも」の二首を書添えた。

[やぶちゃん注:「子規居士」を見ると、二首の歌はひらがながカタカナな書きであるが、読み難く佶屈聱牙な感じになるので、底本のままとした。]

 

 喀血後は疲労甚しく、二十二日夜の『蕪村句集』輪講の際にも、黙聴して時に意見を述べるにとどめたほどであったが、この間(かん)にあって力(つと)めて筆を執ったのは『ホトトギス』九月号の「消息」である。六号活字で雑誌四頁にわたる非常な長文で、喀血の前夜に筆を起し、十七日、二十日、二十一日、二十二日と四度(よたび)稿を継ぎ、最後の一段は口授筆記せしめて漸く完成した。国語伝習所に行われた俳句講習会の事に関し、門下の士の不勉強を警(いまし)めるのが主なる目的であったらしいが、一転して「俳句分類」の事に及んでいる。自分の事業を新聞雑誌に現れた文字だけで測る人には、この三、四年間における事業は年々同一分量を示すもののように思うであろうが、その実自分の事業は三、四年来、病気の進歩と反比例に分量を減じている、それ外面に現れぬ「俳句分類」が著しく分量を減じた故である、この事業は最近三、四年の中に一年一年と怠りがちになり、昨年以来は全く事業中止の有様になっている、というのである。「俳句分類」稿本の嵩(かさ)は、見る者をして瞳目せしめねば止まぬものであるが、大体二十四年から三十二年にわたる、前後九年間の努力に成るものと見ていいのであろう。

 八月の喀血は外面に現れる居士の事業をも減少せしめずには置かなかった。左千夫氏らの首唱にかかる興津移転問題はこの後に起り、居士の病軀を気候の変化の少い、空気のいい海岸の地に移して、来客その他の煩を逃れることにしたらどうかということになった。居士も一度移転断行と決心し、決心した晩は眠らんとしても眠られなかった位で、借りる家までもきまっていた模様であったが、居士の周囲は殆ど皆この移転を危んだ。十月四日夜、『蕪村句集』輪講の席上でこの問題を議したところ、鳴雪翁が正面から反対を唱えた。その結果は激論となって、解決を見なかったが、その後居士も意を翻(ひるがえ)し、興津移転問題は実現に至らなかった。しかし当時の居士を刺激したこと、この問題の如きはなく、誰に宛てた手紙を見ても大概興津の事が記されている。

 九月八日、漱石氏が英国留学のため、横浜から出発した。『ホトトギス』の消息に「小生は一昨々年大患に逢ひし後は洋行の人を送る每に最早再會は出來まじくといつも心細く思ひ候ひしに、其人次第々々に歸り來り再會の喜(よろこび)を得たる事も少からず候。併し漱石氏洋行と聞くや否や、迚も今度はと獨り悲しく相成申候」と見えている。熊本から東上した漱石氏は出発に先って居士の病牀を訪い、久々に会談の機を得たのであった。

[やぶちゃん注:手紙文は「子規居士」で校合した。

「漱石氏が英国留学のため、横浜から出発した」この明治三三(一九〇〇)年五月十二日、漱石は英語教授法取調べを目的とした(英文学研究ではないので注意)文部省第一回給費留学生として満二ヶ年のイギリス留学を命ぜられた(当時の文部省専門学務局長上田万年の計らいであるが、貴族院書記官長であった妻鏡子の父中根重一の陰の力もあったと推定されている)。七月二十日に妻と娘筆とともに熊本を去り、中根家に滞在、子規を訪ねたのは上京早々の七月二十三日の午後四時頃で、その日の午後九時までいた。これから、九月七日の横浜出航前日頃までに、子規から「萩すすき來年あはなさりながら」ほか一句を受け取っている。船は神戸・長崎から、上海や香港などを経て、インド洋・スエズ運河・地中海を通り、ジェノヴァで上陸、アルプス山脈を汽車で抜けてパリへ到り、一ヶ月半余りかかって、十月二十八日午後七時頃、ようやくロンドンに到着している。しかし、漱石は明治三五(一九〇二)年の八月頃から精神変調をきたし、九月に入ると重くなって、九月十二日に受け取った鏡子の手紙の返事で、自ら「近頃神經衰弱」と称し、この時、彼女に送らせていた新聞を九月一杯でやめるように認めているから、この時、帰国を決意しているように感じられる。そうして、実に、この九月の十九日、午後一時、正岡子規は自宅にて死去した。漱石が子規逝去の報知を受けた時の様子は伝えられていないが、彼の精神疾患(現行では一般に強迫神経症と診断するようだが、私は彼の関係妄想の激しさや、後の後遺症としか思われない他虐性の強い反応性激発症状などを見るに、統合失調症であった可能性も濃いように感じている)を増悪させたことは間違いない後、漱石は同年十二月五日にロンドンを日本郵船の「博多丸」で出航、今回はそのまま海上を地中海・スエズ運河経由で、翌明治三六(一九〇三)年二十三日に神戸に上陸している(一時よくなっていた精神状態は船中で再び悪くなったらしい)。以上は集英社「漱石文学全集」別巻の荒正人氏の驚異的な労作「漱石研究年表」によったが、ウィキの「夏目漱石では、その精神変調へと向かう下りを、日本人である自分が『英文学研究』をすること『への違和感がぶり返し、再び神経衰弱に陥り始める。「夜下宿ノ三階ニテツクヅク日本ノ前途ヲ考フ……」と述べ、何度も下宿を転々と』した。明治三四(一九〇一)年になって、『化学者の池田菊苗と』二『か月間同居することで新たな刺激を受け、下宿に一人こもり』、『研究に没頭し始める。その結果、今まで付き合いのあった留学生との交流も疎遠になり、文部省への申報書を白紙のまま本国へ送り、土井晩翠によれば』、『下宿屋の女性主人が心配するほどの「驚くべき御様子、猛烈の神経衰弱」に陥り』、明治三五(一九〇二)年九月に『芳賀矢一らが訪れた際に「早めて帰朝(帰国)させたい、多少気がはれるだろう、文部省の当局に話そうか」と話が出て、そのためか』、『「夏目発狂」の噂が文部省内に流れる』(実は死んだという誤情報も流れたようである)。『漱石は急遽』、『帰国を命じられ』たが、『帰国時の船には、ドイツ留学を終えた精神科医・斎藤紀一が』、偶然、『同乗して』いたことから、『精神科医の同乗を知った漱石の親族は、これを漱石が精神病を患っているためであろうと、いよいよ心配したという』とある。]

 

 漱石氏出発に関する「消息」の出た『ホトトギス』に居士は「『水滸伝』と『八犬伝』」及「『水滸伝』雑詠」を掲げた。「『水滸伝』と『八犬伝』」は雑誌にして二十六頁を超えているから、居士としては前後にない長篇である。『水滸伝』は居士の愛書の一であったらしく、三十年の大患の際にもこれを読み、この年もまた読み返している。『八犬伝』との比較に筆を起し、居士自身の文章観の上から『水滸伝』の文章の妙を説いたのである。この稿を草するに先(さきだ)ち、愚庵和尚に「病島無聊時々『水滸』を讀む、今や僅々(きんきん)末三、四巻を餘すのみに有之候」ということを申送ったのは、和尚が壮時好んで『水許伝』を読み、殆どその文句を諳記(あんき)していたというような事実を知っているためであろう。

諸國里人談卷之三 立山

 

    ○立山

立山は越中國新川郡(にゐかはのこほり[やぶちゃん注:ママ。「新川」の正しい歴史的仮名遣は「にひかは」。])なり。祭神、伊弉諾尊(いさなみのみこと)。力尾社(ちからをのやしろ)は手力雄命(たちからのみこと)也。是、麓(ふもと)の大宮(おほみや)也。此より絶頂まで三里余、其間、旧跡多し。此嶽(たけ)は佛尊の貌(かたち)に似たり。膝を「一の越(こし)」とし、腰腹(こしはら)を「二の越」、肩を「三の越」、頭を「四の越」、頂上佛面(ぶつめん)を「五の越」とす。市の谷(や)へ行道に、「小鏈(こぐさり)」[やぶちゃん注:「鏈」は「鎖」に同じい。]・「大鏈(おほぐさり)」とて、鏈(くさり)に縋(すが)りて登る所、有〔あり〕。此鏈は三條小鍛冶(さんじやうこかぢ)が作る所なり。「地獄道(ぢごくみち)」に地藏堂あり。每年七月十五日の夜、胡蝶(こてふ)、あまた、此原に出〔いで〕て舞遊(まひあそぶ)ぶ。これを「精靈市(しやうりやういち)」といふ也。「一の越」より「五の越」まで、各堂あり。一宇一所づゝに、暖(あたゝか)なる地あり。これを「九品(くほん)」といふ也。行人(ぎやうにん)、杖・草鞋を措(おき)て、本社に參る也。

「地獄谷」【地藏堂あり。】・「八大地獄」【各十六の別所あり。】「一百三十六地獄」・「血の池」は、水色赤く、血のごとし。所々に、猛火、燃立(もへたち[やぶちゃん注:ママ。])て、罵言(ばり)・號泣の聲聞えて、おそろしきありさま也。北に劔(つるぎ)の山あり。岩石、峙(そばだち)て、鉾(ほこ)のごとく、嶮岨、言(ことば)に絕(たへ[やぶちゃん注:ママ。])たり。

云、此山にして願へば、思ふ人の亡靈、影のごとくに見ゆる、となり。

元祿のころ、江戶牛込、小池何某、同行〔どうぎやう〕三人、禪定(ぜんぢやう)しけるに、歸路に趣く時、行(ゆき)くれて、道の邊(ほとり)の木陰に一夜(や)をあかし、夜すがら、念佛して居たるに、誰人(たれひと)ともしらず、

「これこれ、同者衆、食事、まゐらせん。」

と、椀に高く盛(もり)たる一器(き)を出〔いだ〕す。

「御志(おんこゝろざし)、かたじけなし。」

と、何心(なにごゝろ)なくうけとり、三人、これを分(わけ)て食し、疲(つかれ)をやしなひ、

「かほど近くに人家あらば、宿(やど)せんずるに、しらざれば、是非なし。」

など、いひて、夜、明(あけ)たり。

「かの椀を歸さん。」

と、邊(あたり)を見れども、人倫たへたる[やぶちゃん注:ママ。]所にて、人家、なし。

やうやうにして、一里ばかり下(くだ)りて、五、七軒の里、あり。或家に入〔いり〕て、湯茶を設け、夜中(やちう)の事をかたるに、

「その邊には、中々、人里、なし。」

となり。

件(くだん)の椀を出〔いだ〕し、見せければ、主(あるじ)、興をさまし、

「これは。向ふなる家の息(むすこ)が椀也。頃日(このごろ)、死(しゝ)て、今日、則(すなはち)、一七日〔ひとなぬか〕なり。」

と、かの家に伴ひ行て、しだいを語りければ、兩親、大に悲歎し、朝餉(あさがれひ)をすゝめて饗應しける、と也。

[やぶちゃん注:最後の「俗云、此山にして願へば……」以下の部分は原典では改行がないが、直接話法が多く、特異な怪奇談なれば、恣意的に改行を施した

「立山は越中國新川郡なり」現在は富山県中新川郡の立山町芦峅寺(あしくらじ)内である。標高は雄山(おやま)が三千三メートル、大汝山(おおなんじやま)が三千十五メートル、富士ノ折立(ふじのおりたて)が二千九百九十九メートルの三峰から成る総山体を「立山」と呼ぶ(或いは雄山と大汝山に南側の浄土山(二千八百八十七メートル)と北側の別山(べつさん:二千八百八十二メートル)を加えたもの)。立山はいずれも古期の花コウ。雄山のみを立山と呼ぶのは厳密には誤りである。立山連峰に「立山」という名の単独峰は存在しないからである。私は後に出る剣岳(二千九百九十九メートル)を含め、総て登攀した。

「祭神、伊弉諾尊」まずは、現在の雄山神社。霊峰立山自体が神体であり、立山の神として伊邪那岐神(江戸時代までは立山権現雄山神で本地阿弥陀如来)・天手力雄神(あめのたぢからおのかみ:同じく太刀尾天神剱岳神・本地不動明王)の二神を祀ったもので、神仏習合の時代は神道よりも仏教色が強い、立山修験の神聖な道場であった。現行では、峰本社(みねほんしゃ)・中宮祈願殿(ちゅうぐうきがんでん)・前立社壇(まえだてしゃだん)の三社を以って雄山神社とする。各社の位置などは「立山大権現 雄山神社」公式サイトを見られたい。

「力尾社(ちからをのやしろ)」原典は①も③も確かに「力尾社」なのであるが、どうも読んだ当初から、魚の骨が咽喉に刺さったような違和感があったのだ。沾涼は後で「麓(ふもと)の大宮(おほみや)也」と言ってしまっているから、「ここは大きな前立社壇(ここ(グーグル・マップ・データ))を指していると読んで、何の不都合がある?」と文句を言われそうなのだが、しかし、やはり、どうもすっきりしないのだ。実はもっとおかしいこともある。それは、沾涼は後で「此より」本社のある雄山「絶頂まで三里余」と言っている点である。この短い距離では、中宮祈願殿でさえも遠過ぎるのである(地図上の直線でも二十キロメートルを超えてしまう)。思うに、沾涼は立山に実際には行ってないのではないか? 誰彼からの不確かな情報を無批判に繫ぎ合わせてしまったのが、この解説なのではないか? という疑惑である。しかも、この私の猜疑心の火に油を注ぐのは、本条の記載の幾つも箇所が、またしても、先行する寺島良安の「和漢三才図会」の地誌の巻六十八の「越中」の「立山權現」との有意な一致を見るのである。確かに雄山神社は本殿で天手力雄神も祀りはする。しかし、「雄山神社前立社壇」や「中宮祈願殿」が江戸以前は「力尾社」と呼ばれていたというのであれば引き下がるが、調べた限りではそのような事実はないようである。そうして彼の別名は前注で見る通り、太刀尾天神剱岳神である。則ち、私はこの「社」とは、雄山神社の併祀する彼を指しているのではなく、天手力雄神=太刀尾天神剱岳神を主祭神として祀っている神「社」を指しているのではないか? という疑義であり、最初に思ったのは本当に「力尾社」なのか? という疑いだったのである。そう、これは実は「刀尾社」なのではないか? という、謂わば〈烏焉馬の誤り〉的推理だ。調べてみると、あるのだ! 「刀尾神社」が! 「たちおじんじゃ」と読み、場所は芦峅寺内ではないが、富山市太田南町で、立山参りのアプローチ地点に当たる位置にあり(ここ(グーグル・マップ・データ))、サイト「北陸物語」の青木氏の記事「刀尾神社」によれば(写真有り。今は田舎の静かな社といった感じ)、立山の開山者である慈興上人が雄山神社の『前立の神としてこの地に社殿を作ったと言い伝えられて』おり、『手力男命(たぢからおのみこと)を主祭と』しつつ、その権現化されたところの『剱岳の地主神刀尾天神(刀尾権現)を祀』っているとあり、しかも『昔は、西国方面からの立山参詣者は必ず立ち寄ったと言われてい』いるとあるのである。なお、他にも「刀尾宮」はありはする(例えばここ(グーグル・マップ・データ))。最後に極めつけと思しいものを掲げておく。沾涼が秘かに引いたのであろう「和漢三才図会」の地誌の巻六十八の「越中」の「立山權現」の頭の部分には、原典では確かに、

   *

力尾權現社手力雄命(タヂカラヲノミコト)也

   *

とあるのだが、東洋文庫版現代語訳では、ここがわざわざ、

   *

『刀尾(たちお)権現社の祭神は手力雄命(たぢからおのみこと)である。』

   *

と訳してあるのである。東洋文庫の訳者が、今度は、「力」を「刀」に見間違えたんですかねえ? わざわざルビまで振ってですよ? 如何? さても大方の御叱正を俟つものである。

「三條小鍛冶(さんじやうこかぢ)」平安時代の名刀工三条宗近(むねちか 生没年未詳)の通呼称。永延(九八七年~九八九年)頃、京都三条に住したと伝え三条小鍛冶。現存作は極めて少なく、御物の「宗近」銘の太刀と、「三条」銘の名物「三日月宗近」の太刀がよく知られる。ことに後者は室町以来、天下五剣の一つに挙げられており、細身で小切先、反りの高い太刀姿は日本刀の中では、最も古雅にして品格があるものと評される。因みに、能の「小鍛冶」で、白狐を相槌に、太刀を鍛える刀工は、この宗近である(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「地獄道(ぢごくみち)」地獄谷(ここ(グーグル・マップ・データ))に向かうルートであろう。

「地藏堂」「和漢三才図会」では、「立山」の概説部の『○室堂』の条の中で、現在の「ミクリガ池」らしき『神池』の後に、

   *

地獄道追分地藏堂毎歳七月十五日夜胡蝶數多(アマタ)出遊於此原生靈市髙率塔婆(タカソトバ)無緣菩提

   *

とあり、後の「地獄谷」の項の下にも割注で『有地藏堂』とあるから、確実にこの地蔵堂は地獄谷の中にあると読める。万葉の昔より、蝶は虚空を舞う奇体なもの、魂のシンボルとされていたと思われる。また、花同様に死体に群がることもある点で、蝶は美しいものとしてよりも、古くは忌まわしいものとしての認識が強かったと推察される。因みに、以上の引用からも、沾涼が、性懲りもなく、またまた「和漢三才図会」を丸ごと引用していることが、よぅく判る

「精靈市(しやうりやういち)」「市」は意味有り気に群集することを指すのであろう。

「九品(くほん)」五箇所の地熱の高い温まれる場所(或いは名数として九箇所あったのかも知れない)を、仏教に於ける往生の仕方の階級様態(下品下・中・上生から上品上生に至る九階梯)である「九品往生」に擬えたのであろう。「雄山神社」公式サイト白鷹伝 立山開山縁起(略記)にも『阿弥陀如来と不動明王の二尊』の御告げの中に『我、濁世の衆生を救わんが為、十界をこの山に現し、幾千万年の劫初より山の開ける因縁を待てり。この立山は峰に九品の浄土を整え、谷に一百三十六地獄の形相を現し、因果の理法を証示せり』という一節が出る。

「行人(ぎやうにん)、杖・草鞋を措(おき)て、本社に參る也」それぞれの参詣登山をする者は、それぞれ自身の様子を見計らって、これらの各堂のどこかで、それまで身を助けた杖や草鞋を置いて山上の本社に参るのである。

『「地獄谷」【地藏堂あり。】・「八大地獄」【各十六の別所あり。】「一百三十六地獄」・「血の池」は、水色赤く、血のごとし。所々に、猛火、燃立(もへたち[やぶちゃん注:ママ。])て、罵言(ばり)・號泣の聲聞えて、おそろしきありさま也。北に劔(つるぎ)の山あり。岩石、峙(そばだち)て、鉾(ほこ)のごとく、嶮岨、言(ことば)に絶(たへ)たり』「和漢三才図会」に、

   *

○地獄谷【有地藏堂】八大地獄【各有十六別處】共百三十六地獄血池【水色赤如ㇾ血】處處猛火(キヤウクハ)燃起(モヘタチ[やぶちゃん注:ママ。])罵言(メリ[やぶちゃん注:ママ。])號泣(ガウキウ)ノ如ク人潰(ツブ)ㇾ肝(キモ)劔(ツルキ)【山腰石塔不思儀石塔】岩石峙(ソバタ)鋒過刃(キツサキ)嶮岨不ㇾ可ㇾ言

   *

とある。沾涼、流石にマズいと思うたか、ちょこちょこっと言い方を変えているところが、セコいね。

「俗云、此山にして願へば、思ふ人の亡靈、影のごとくに見ゆる……」以下の話は沾涼のオリジナルか。

「元祿」一六八八年~一七〇四年。

「江戶牛込」現在の東京都新宿区神楽坂周辺。

「禪定(ぜんぢやう)」この場合、一般には「修験道の行者が霊山に登ってする修行」を本来は指すのであるが、転じて、単に霊山の参詣登山を言っている。

「趣く」「赴く」。

「行(ゆき)くれて」下山が遅かったために、歩いているうちに日が暮れてしまい。

「同者衆」これは「同じ修験参詣のお方衆」という謂いではなく、恐らく「道者衆(だうじやしゆ)」のことと思われる立山では禅定登山には「道者衆」(どうしゃしゅう)と「参連衆」(まいれんしゅう)と二つの区別があったのである。こちらのむかしあったとぉ~(立山のちょっと昔の話) 道者衆と参連衆についてというページ(家が古くからの立山の「日光坊」という宿坊であった方の少年期の回想である)によれば、『宿坊に来られた人達は、道者衆と参連衆に分けることができました。宿坊の衆徒たちが、毎年各地の檀那場に出向き、立山曼荼羅を掛けて絵解き(解説)を行い』、『布教します。信者の方々が感動して』、『ぜひ』、『現地で体験したいと、少人数のグループで立山においでになります。この人達のことを道者衆(どうしゃしゅう)と言います』。『道者衆は、白装束で「立山禅定」と書かれた網代笠をつけ、布教を受けた衆徒の宿坊に』、『特別に村の講社の事務所を通さず』、『直接』、『宿泊ができます。子供の頃、父に「○○様お迎え」と書いた西洋紙をもらって』、『駅の待合室で電車を待ち、その紙をはにかみながら』、『顔の前に差し上げたことを覚えています。すると』、『向こうから「私です」と声がかかり、「お迎えに来ました」と先頭に立って、途中簡単な説明をしながら「ここが日光坊です」と、家まで案内しました。道者衆は、敷台(来客専用玄関)で草鞋を脱ぎ、足を洗って家に入り、衆徒と対面し、久しぶりの挨拶を交わします』。『一方、檀那場以外(担当布教地区外で師壇関係のない地区)から来られた人達を参連衆(まいれんしゅう)と言い、身につける衣類も』、『黒か紺の生地で、上着とズボン(タッツケ)に分けられ、笠も「立山登拝」と書かれた普通の笠をつけます。参連衆は、講社の事務所に宿泊を届け出、そこで指定された宿に行き、前の小川で足を洗って広間に入ります』。『食事は、道者衆が、宿代無料で』、『朱塗りのお椀とお膳でサービス付きであったのに、参連衆は、有料で』、『黒塗りのお椀とお膳でセルフサービスと接待の差があったことが脳裏に浮かんできます』とある。ここで、無賃で「食事、まゐらせん。」「と、椀に高く盛(もり)たる一器(き)を出〔いだ〕す」のを、その通りに、「御志(おんこゝろざし)、かたじけなし。」「と、何心(なにごゝろ)なくうけとり、三人、これを分(わけ)て食し、疲(つかれ)をやしな」ったとあるのは、まさに「道者衆」ならではと思うのである。

「人倫」ここは単に「人間」の意。

「一七日〔ひとなぬか〕」「いつ(いち)しちにち」とも読む。初七日のこと。]

今朝方見た奇妙な夢――

 

教え子の女性の葬儀が、ある教会で行われる、という通知を受けて私は出かけようとする。
母は何故か、「行かない方がよい」と制止するのだったが、振り切って、出かけた。

外人のシスターが待っていた。
参列者は、何故か、私一人らしい。
シスターは、彼女は自死であったことを私に告げ、遺品一式――

何かが書かれた手札大の薄い木片のようなもの・私へ宛てた煌びやかな便箋一枚・赤ワイン一本・卵三個

の入った段ボールを渡し、礼拝堂へ案内した。
何人もの葬儀が行われており、彼女のそれはずっと後だということであった。

私は私宛の便箋を読んだ。それは遺書ではなく、彼女が何処か外国から私へ宛てて書いたものであって、記されたそれは聞いたことのない国名なのであった。しかし、添えられた絵はインドか東南アジアの、ヒンズー教か仏教の寺院らしい建物が、極彩色の色鉛筆で美事に描かれているのであった。内容は、それらの美しさと神秘性を私に伝える敬体の文章であり、如何にも旅を楽しんでいる便りなのであって、自死の気配は微塵もないのであった。

ただ、末尾に、
「そんな旅先で不思議なものを見つけました。先生に読み解いて貰えたらと思いい、同封します。」
とあるのであった。どうも今一つの遺品の木片様のものがそれであるらしい。手に取ると、それは木をごく薄く削いで圧縮した、人工の木製紙で出来ていた。

しかも、そこには何故か、漢字仮名混じりの古文が三行(五十字程であった)に亙って書かれていた。

「其時■■須■威出で給ひ……」で始まっていた。

[やぶちゃん注:本夢は私の夢の特異点で、その文字列を、覚醒した時には全文はっきりと覚えていたのであった。しかし、急速に記憶から消えてしまった。直ぐに書き取ればよかった。非常に残念である。]

私は彼女の葬儀が始まるまで、熱心に、それを現代語訳した。

[やぶちゃん注:覚醒時はその訳も確かに覚えていたのだが、これも忘れた。ただ、その内容は、まさに彼女の自死を予言する内容であったことは確言出来る。しかも今、これを書きながら(遅まきながら)、私にはこの木片は、例のインドにあるとされる「アガスティアの葉」であることが明確に理解された。紀元前三千年の昔に実在したとされるインドの聖者アガスティアの残した全人類各個人の情報(自身の過去・現在・未来)について全てが記されているという「木の葉」である。ネットを調べれば判るが、事実、ある、のである。但し、すこぶる怪しいものではある。しかし、正に木簡のようなものなのである(私は実際の朴のような大きな葉っぱに書かれているのだと思っていたが、今、調べてみたところが、例えばここでは、まさに木簡状であった)。]

彼女の葬儀が始まる。
やはり私一人なのであった。彼女の親族はいない(来ない?)らしい。
式を行うのは先のシスター一人であった。
祈禱を終えると、シスターが、遺体はこちらの墓地に埋葬する旨を語った後、
「遺品はどうなさいます?」
と訊ねてきた。
私が躊躇して黙っていると、
「こちらで貴方が天へ送られるのが、よろしいでしょう。」
と言い、礼拝堂の裏手へと導くのであった。
そこには霊安室のような、殺風景な部屋があった。

私はそこで、小さな釜の中にワインを流し込み、便箋と木片をそれに浸した上、三つの卵を、割り入れた。

ところが、三つ目の卵を割ると、そこからは黄色い色をしたアーモンド形の種子のようなものが出てきた。

 
私はそれらが、ぐつぐつと釜の中で煮られるのを

――凝っと

見つめていた…………
 

2018/06/22

「北條九代記」完遂への追記とお願い

本電子化注には足掛け五年半余りかかった。初期には本ブログのブラウザ機能では表記出来なかった漢字が、途中で表記出来るようになったり、私自身が最新のユニコードによる正字を使用するようになった(比較的最近。例えば「海」「僧」等)結果、初期の頃の電子化したものと、後期のものとでは、有意な漢字表記の差が生じていることはお断りしておく。また、サイト版は以前から申し上げている通り、「卷第三」以降は作成しないので、それ以降の部分で本文の誤り等を見出された方は、是非、御連絡戴きたい。よろしくお願い申し上げる。

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十三年 歌の写生的連作

 

     歌の写生的連作

 

 俳句の会は月二回ときまっていたが、歌の方はそうでなくなった。殊に四月以来『万葉集』輪講が企られるようになってからは、輪講に集った顔触だけで必ず歌を作ることになり、歌会は期せずして月二回になった。五月二十日の如きは、『万葉集』輪講のあとで「舟中作」十首を作ったところ、夜に入って俄に雨となったため、左千夫、茂春(もしゅん)、格堂、一五坊(いちごぼう)の諸氏は遂に子規庵に一泊した。翌日払暁、庭前を眺めて先ず雨中即景の歌を作り、更に興に乗じて煙十首を作った。従来短歌に限られていた歌会の作品が、長歌、旋頭歌に及んだのはこの時である。

 

  五月二十朝雨中庭前の松を見て作る

 松の葉の細き葉每に置く露の千露(ちつゆ)もゆらに玉もこぼれず

 松の葉の葉每に結ぶ白露の置きてはこぼれこぼれては置く

 綠立つ小松が枝にふる雨の雫こぼれて下草に落つ

 松の葉の葉さきを細み置く露のたまりもあへず白玉散るも

 靑松の橫はふ枝にふる雨に露の白玉ぬかぬ葉もなし

 もろ繁る松葉の針のとがり葉のとがりし處白玉結ぶ

 玉松の松の葉每に置く露のまねくこぼれて雨ふりしきる

 庭中(にはなか)の松の葉におく白露の今か落ちんと見れども落ちず

 若松の立枝(たちゑ)はひ枝(ゑ)の枝(ゑだ)每の葉每に置ける露のしげけく

 松の葉の葉なみにぬける白露はあこが腕輪の玉にかも似る

 

 この一連の歌は雨中庭前の風物の中で、その低い若松に注意を集中し、その松の中でも雨の雫が松の葉に玉を結ぶという一点に観察を注いだもので、そこに著しい特色がある。こういう観察の微細にわたったものは、居士の歌に見当らぬのみならず、在来の歌人の窺い知らぬ世界であった。

[やぶちゃん注:歌は「子規居士」で校訂した。後も同じ。

「茂春(もしゅん)」日本画家で歌人の桃澤如水(ももざわにょすい 明治六(一八七三)年~明治三九(一九〇六)年)。本名は桃澤重治(しげはる)で、画名を如水又は桃画史(とうがし)、歌名を茂春(もしゅん)と称した。ウィキの「桃澤如水」によれば、先『祖に江戸時代中期の歌人である桃澤夢宅がいる』とし、『長野県伊那郡本郷村で、桃澤匡尊の次男として生まれ』、『桃澤家は古くから代々庄屋(名主)を務めており、何人も歌人を産んだ名家であった』とある。明治二一(一八八八)年、十五歳で『飯田の岡庭塾で、英語や漢籍、数学などを学んだ。ここで菱田春草と出会い、自分も画家になろうとするも、経済的な理由で上京の許しが出なかった』。しかし、二年後の明治二十三年四月、十七歳の時、上野で行われていた第三回『内国勧業博覧会を見ると偽って上京、そのまま橋本雅邦に師事し、同年』八『月東京美術学校(現東京芸術大学)絵画科に入学し、校長岡倉天心をはじめ雅邦の指導をうけた。同じクラスに結城素明、鋳金科に転科した香取秀真がい』た。一方、在学中には、『神田の夜学校大八洲学会に通い、国文学者黒川真頼について国文や和歌を学んだ。旧知の春草とは、夏休みに天竜川の船下りなどを共にした。在学中、短歌や雅楽、篆刻や剣舞、更に芝の白山道場で南隠禅師について禅を学んで居士号を得るなど』、『学業を殆ど放棄していたため、通常』五『年で卒業するところを』七『年かかって明治三〇(一八九七)年七月に、『ようやく美術学校を卒業した』。『如水は、また』、『早くより和歌に親しみ』、『多くの詠草がある。正岡子規に直接教えをうけ、伊藤左千夫、長塚節らと共に活躍した。子規没後、病の療養のため』、『三重県津市に移り、そこで一身田の真宗高田派総本山専修寺附属の教師兼舎監となって国文学を教えた。その間、曾我蕭白を研究し、伊勢地方に遺る蕭白の作品とその製作過程における逸話を収集して「日本美術」誌に論文を発表している。蕭白が語られる時、伊勢地方での作品は必ず言及されるが、如水の論文は伊勢地方と蕭白との関係を調査した最初の文献として高い評価を受けている』。しかし、『次第に病が悪化し』、『三重県桑名病院にて長逝した。享年』三十三。

「一五坊(いちごぼう)」新免一五坊(しんめんいちごぼう 明治一二(一八七九)年~昭和一六(一九四一)年)は教師で俳人。ウィキの「新免一五坊」によれば、『本名は睦之助。後に藤木姓を名乗る』。『岡山県出身。小石川哲学館を卒業』。明治三一(一八九八)年の『夏、一五坊は根岸(東京都台東区根岸)の子規庵を訪れ正岡子規の門人となり、句会や歌会に参加する。一五坊と同じ哲学館出身の子規門人として真言宗僧の和田性海(不可徳)がいる』。『一五坊は』、明治三十二年・明治三十三年の『正岡子規・伊藤左千夫の一五坊宛書簡の宛名に拠れば、東京日本橋数寄屋町(中央区日本橋)の長井医院に住』んでおり、『根岸派の新進歌人として活躍』、明治三十二年十月の『菊十句会では子規から幹事を任されて』おり、翌明治三十三年一月七日の『一月短歌会にも参加』している。『一五坊は幕末期の歌人・平賀元義の和歌が万葉調であることを、同郷の赤城格堂を通じて子規に伝え』、『このことは、子規の『墨汁一滴』において大きく取り上げられ』ることとなった(同作の「二月十四日」から「二月二十六日」部分。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本』初出切り貼り帖の画像のここから読める)。明治三四(一九〇一)年に『山梨県南都留郡明日見村(富士吉田市明日見)の永嶋医院に居住し、医学を学ぶ。この頃に父親を亡くしている。その後同郡谷村町(都留市谷村)へ移り、山梨において俳句会を指導する。山梨県は伊藤左千夫が長野県諏訪、静岡県沼津を並び活動の拠点とした地で、主に「馬酔木(あしび)」「アカネ」「アララギ」などの同人活動に加わった地元歌人が中心として活動を行った。一五坊は左千夫よりも入門が早く、また左千夫と面識のあった人物として』、『山梨における活動を主導した。山梨転居後も子規との交流も続き』、明治三五(一九〇二)年には『病床の子規に谷村のヤマメを届けており、子規は』「病牀六尺」の「九十九」(八月十九日)の中で、

 一、やまめ(川魚)三尾は甲州の一五坊より

なまよみの、かひのやまめは、ぬばたまの、夜ぶりのあみに、三つ入りぬ、その三つみなを、わにおくりこし

と長歌でもって謝意を表している(国立国会図書館デジタルコレクションの『日本』初出切り貼り帖(前のものとは別物(但し、作成者同一人と思われる)なので注意されたい)の画像のここをから読める)。視認子規はこの一ヶ月後、九月十九日に逝去した。『一五坊はその後』、『山梨を離れ、故郷岡山へ戻』って『結婚し、教員とな』った、とある。]

 

 この歌と相俟って注意すべきものは左の一連の作である。

 

   六月七日夜病牀卽事

 ほとゝぎす鳴くに首あげガラス戸の外面(とのも)を見ればよき月夜なり

 ガラス戸の外に据ゑたる鳥籠のブリキの屋根に月うつる見ゆ

 ガラス戸の外は月あかし森の上に白雲長くたなびける見ゆ

 ガラス戸の外の月夜をながむれどラムプの影のうつりて見えず

 紙をもてラムプおほへばガラス戸の外の月夜のあきらけく見ゆ

 淺き夜の月影淸み森をなす杉の木末の高き低き見ゆ

 夜の床に寐ながら見ゆるガラス戸の外あきらかに月更けわたる

 小庇(こびさし)にかくれて月の見えざるを一目を見んとゐざれど見えず

 照る月の位置かはりけん鳥籠の屋根に映りし影なくなりぬ

 月照す上野の森を見つゝあれば家ゆるがして汽車往き返る

 

 ほととぎすの声が聞えたので、首を上げてガラス戸の外を眺めることにはじまる月夜の風物の観察が、遺憾なくこの一連に収められている。ラムプの光がうつるため、ガラス戸の外が見えないので、紙でラムプを蔽うと、はじめて月下の物象が明(あきらか)に眼に入るという変化も面白いが、最初は見えていた月が何時の間にか庇に隠れてしまって、病牀で身をいざらせても眼に入らなくなり、鳥籠の屋根に映っていた月影もなくなったという時間的推移の窺われるのは更に面白い。われわれはこの一連の歌を読むことによって、その夜の病牀の空気を如実に感じ得るのである。文学における写生の主張が歌の上に現れたのは、固(もと)よりこれらの歌にはじまるわけではないが、十首をつらねて或(ある)場合の空気を髣髴するという行き方は、この辺に至って十分成功の域に達したもののように思われる。

 「『万葉集』輪講」は輪講そのままの筆記でなしに、別に居士の「『万葉集』を読む」となって『日本』に現れた。「文字語句の解釋は諸書にくはしければここにいはず。唯我思ふ所をいささか述べて教を乞はんとす」という態度を以てこれに臨んだので、学者的講説を離れ、どこまでも歌として見る。解釈者の側から見る歌でなしに、歌を詠む者の側から歌を見るということが大きな特色をなしている。「『万葉集』輪講」は九月まで引続き行われたが、「『万葉集』を読む」は前後四回『日本』に掲げられたに過ぎなかった。『歌よみに与ふる書』を提(ひっさげ)て起ってから三年目で、漸く著手した『万葉集』の細評が、欝幾何(いくばく)も進行せずに了ったのは、居士のみならず、歌界としても遺憾であったといわなければならぬ。

[やぶちゃん注:「『万葉集』を読む」は国立国会図書館デジタルコレクションのアルスの「竹里歌話 正岡子規歌論集」のこちらから読める。]

 

 「『万葉集』を読む」と前後して「短歌二句切(ぎり)の一種」「竹里歌話」など、歌に関する文章が『日本』に発表された。『日本』以外にも『心の華』『大帝国』『国力』などの如く、居士及(および)短歌会の人々の作品を載せる雑誌の出来たことも、何となく居士の身辺を賑(にぎやか)にした。前年あたりから地方に俳句雑誌の簇出(ぞくしゅつ)[やぶちゃん注:これは慣用読みで「そうしゆつ」が本当は正しい。「むらがり出ること」の意。]する傾向があり、居士も交渉がないではなかったけれども、新(あらた)に勃興せんとする過程にあっただけ、歌の方が活気に充ちていた。短歌会の顔触はそう増加したわけでもなかったが、長塚節(ながつかたかし)、安江秋水(やすえしゅうすい)、森田義郎(もりたぎろう)諸氏の如く、有力青年歌人の相次いで投じ来ったのも、活気を加えた所以であったろう。

[やぶちゃん注:「長塚節」(明治一二(一八七九)年~大正四(一九一五)年)は余りにも知られた歌人で小説家なれば、生年月日だけを示す(一応、ウィキの「長塚節」をリンクさせておく)。

「安江秋水」既出既注であるが、再掲しておく。生没年は確認出来なかった。歌人で『馬酔木』創刊時の編集同人であることのみ判った。

「森田義郎」(明治一一(一八七八)年~昭和一五(一九四〇)年)は歌人で国粋主義者。愛媛生まれ。本名は義良。国学院大学卒。明治三三(一九〇〇)年、根岸短歌会に参加し、『馬酔木』の創刊にも関わったが、意見の対立により、離脱。従来から関係していた『心の花』に移った。後、右翼の政治運動に加わり、日本主義歌人として活動した。万葉振りの作風で、論客としても知られた。著書に「短歌小梯」(国立国会図書館デジタルコレクションの画像で読める)など。]

 

 六月三日に岡麓(おかふもと)氏のところに園遊歌会があり、これに赴いたのが居士最後の外出であった。即事十首の代りに成った「歌玉(うただま)」の歌は、前の松の露やガラス戸の月夜とは全く異った種類のものであるが、一方に偏せざる居士の歌の世界を窺う上から看過すべからざるものであろう。「歌玉」の中に詠み込まれた歌人は、秀真、左千夫、格堂、巴子(はし)、麓、茂春、節、一五坊、不可得、潮音(ちょうおん)、三子(さんし)の十一人であるが、来会者は以上にとどまらなかったことと思われる。

[やぶちゃん注:「歌玉」の子規の詠草は「国文学研究資料館」の「近代書誌・近代画像データベース」内の「山梨大学附属図書館・近代文学文庫所蔵」の正岡子規「竹の里歌全集」のこちらで読める。

「巴子(はし)」西田巴子(生没年不詳)子規門下。

「不可得」既出既注の兵庫県出身の真言宗の僧和田性海(しょうかい 明治一二(一八七九)年~昭和三七(一九六二)年)の雅号。

「潮音(ちょうおん)」柘植潮音(明治一〇(一八七七)年~?(確認出来なかったが、研究者がいるので不明ではあるまい))東京生まれ(元大垣藩主戸田氏共邸で生まれた。父が氏共の家令(執事)であったため)。名は惟一。明治二九(一八九六)年、第一高等学校に入学、句作を始める。この前年、明治三十二年に初めて子規庵を訪れて、入門、句会・短歌会に参加し、交遊を深めた。明治三四(一九〇一)年、故山大垣へ戻り、俳人として活躍。子規亡き後も、河東碧梧桐・長塚節・伊藤左千夫ら子規の門人であった人々が潮音を訪ねてきた、と文教ち 大垣平成二九二〇一七月号/PDFにある。

「三子」不詳。]

諸國里人談卷之三 燒山

 

    ○燒山(やけやま)

陸奧國南部領八戸にちかし。大畑(おほはた)といふより登る事、三里半也。此山、時として燒(やく)る事あり。よつて、しかいふ。爰(こゝ)に慈覺大師の作る所、一千体の石地藏あり。中尊は長(た)五尺あまり、他(た)は、みな、小佛なるによりて、人、これを取(とり)去りて、僅に殘りけるが、近きころ、圓空と云〔いふ〕僧あつて修補し、今、千体に滿(みち)たり。巓(いたゞき)に「地獄」といふ所あり。「三途川(さんづかは)」・「賽河原(さいのかはら)」、小石を以〔もつて〕塔を作る。「修羅道」は、地の面(おもて)、みな、石にして、凡(およそ)長〔ながさ〕二十五丈、幅、六、七丈。其石に血色(ちいろ)のごとくなるもの、散り染(そま)りたり。「劒(つるぎ)の山」は、石、悉く尖りて、刀鉾(とうほこ)を連(つらね)て比(なら)べたるがごとし。「藍屋(あいや)の地獄」・「酒屋(さかや)、麹屋(こふじや[やぶちゃん注:ママ。])の地獄」といふは、それぞれの色をあらはせり。【玆に「柏葉石」と云〔いふ〕あり。「石の部」に見〔みゆ〕。】

[やぶちゃん注:最後の割注で思い出されるであろう、これは先の「卷之二」の「㊂奇石部」に出た「柏葉石」で、ロケーションもそれと同じ恐山(及び曹洞宗釜臥山恐山菩提寺)である。まず、そちらの注を参照されたい。「慈覺大師」等はダブっては注さない。

 いや! しかし、である。それ以前(「この文章に対して大真面目にまともに注する以前」の謂いである)に、この文章は、その全体が沾涼のオリジナルではない。何故なら、とんでもなく(「呆れるほど」の含みを持つ)酷似した先行する文章が存在するからである。

 それは、私が水族・虫類・禽類などの電子化注を手掛けている例の、大坂の医師寺島良安が約三十年もの歳月をかけて正徳二(一七一二)年頃(自序が「正徳二年」と記すことからの推測)に完成させ、大坂杏林堂から板行した百科事典「和漢三才図会」(全百五巻八十一冊)の地誌部の巻第六十五「陸奥」の中の、ズバリ、「燒山」である。本「諸国里人談」は寛保三(一七四三)年刊であるから、「和漢三才図会」は三十一年も前の出版である。ともかく、その原文を見て戴くに若かず、だ。

   *

燒山   在南部領【自大畑登三里半許】

 此山不時有燒故名之 開基慈覺大師作千体石地

 藏中尊長五尺許其他小佛而人取去今僅存

 近頃有僧圓空者修補千体像

 商賈有竹内與兵衞者用唐銅作彌陀日藥師三像

 安之

 頂上有三塗川及塞河原層小石爲塔形又有一百三

[やぶちゃん注:「頂」は原典では「頂」の上に「山」がつく字体。]

 十六地獄而名修羅者地靣皆石而凡長二十五六丈

 幅五六丈其石靣如血色者散染亦一異也名劔山者

 滿山石悉有劔尖而如刀鉾然其余酒造家藍染家麹

 造家等之地獄皆現其色狀凡有硫黃山必火煙出温

 泉涌故自可謂地獄者有之殊當山與肥前溫泉嶽見

 人莫不驚歎【諸地獄詳于山類下】

 慈覺護摩執行時無莚席取檞葉敷石上于今其石方

 二丈許薄※而幅一寸長二寸半許形如檞葉而有文

[やぶちゃん注:「※」=「耒」+「片」。]

 理又當山有異鳥鳴聲如言佛法僧日光及高野亦有

 此鳥

○やぶちゃんの書き下し文(原典の訓点は完備していないので、一部の送り仮名は私が過去の同書の訓読経験に照らして妥当と推定されるもので補っている。〔 〕は私が同じ観点から補った読みである)

燒山(やけ〔やま〕)

南部領に在り。【大畑より登ること、三里半許り。】

此の山、不時〔ふじ〕に燒くること、有り。故に之れを名づく。

開基慈覺大師、千体の石地藏を作る。中尊、長〔た〕け五尺許り。其他は小佛にして、人、取り去りて、今、僅かに存す。

近頃、僧・圓空といふ者有りて、千体の像を修補す。

商賈〔しやうか〕[やぶちゃん注:商人(あきんど)。]竹の内與兵衞といふ者有り、唐銅(からかね)を用ひて、彌陀・大日・藥師の三像を作り、之れを安(を)く。

頂上に「三塗川(さうづがは)」及び「塞河原(さいの〔かはら〕)」有り。小石を層(かさ)ねて塔の形〔かた〕ちに爲〔な〕す。又、「一百三十六の地獄」有り。「修羅」と名〔なづ〕くる者は、地靣、皆、石にして、凡〔およそ〕長さ二十五、六丈、幅五、六丈。其の石の靣(おもて)、血の色のごとくなる者、散り染(そ)むも亦、一異なり。「劔(つるぎ)山」と名くる者は、滿山の石、悉く、劔-尖(とが)り有りて、刀-鉾(きつさき)のごとく然〔しか〕り。其の余、「酒造家(さかや)」・「藍染家(あをや)」・「麹造家(かうじや)」等の「地獄」、皆、其の色の狀〔かたち〕を現はす。凡そ硫黃〔いわう〕有る山は必ず、火煙、出でて、温泉、涌く。故、自〔おのづか〕ら、「地獄」と謂ひつべき者、之れ、有り。殊に當山と肥前の溫泉嶽(うんぜんのたけ)[やぶちゃん注:長崎の雲仙岳。]、見る人、驚歎せずといふこと莫〔な〕し【諸地獄は山類の下に詳らかなり。】。

慈覺、護摩執行〔しふぎやう〕の時、莚席(えんせき)無し。檞-葉(かしは)を取りて、石の上に敷く。今に、其の石、方二丈許り、薄く※[やぶちゃん注:「※」=「耒」+「片」。](へ)げて、幅一寸、長さ二寸半許り、形、檞〔かしは〕の葉のごとくにして文理〔もんり〕[やぶちゃん注:筋目。]有り。又、當山に異鳥有り。鳴く聲、「佛法僧」と言ふがごとし。日光及び高野にも亦、此の鳥、有ると云云(うんぬん)。

   *

どうであろう? これは正直、参考にしたという程度では、最早、ない。現代なら、良安から著作権侵害を訴えられるレベルである。しかも、これによって、先の「柏葉石」も結局、この「和漢三才図会」の記載の最後をお手軽に切り取って離して貼り付けたとしか言いようがない。引用元を示していればよかったものを、これははっきり言ってひどい(江戸の考証随筆ではちゃんと引用元の書名を記している筆者は実は結構いるのだ。江戸時代だからと言って好意的に甘く見るのはだめ!)。ひど過ぎるあきまへんて! 沾涼はん!!!

「大畑」青森県むつ市大畑町(おおはたまち)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「中尊は長(た)五尺あまり」慈覚大師円仁は夢告によって恐山に来たって六尺三寸の地蔵菩薩を刻んだとされるが、それは現存しないようである。

「圓空」(寛永九(一六三二)年~元禄八(一六九五)年)江戸初期の僧侶で、私の偏愛する名仏師である。小学館「日本大百科全書」から引く。美濃国『竹ヶ鼻(岐阜県羽島市上中島町)に生まれた。若くして仏門に入り、天台僧として修験道』『を学んだともいうが、一宗一派にとらわれぬ自由な信仰の持ち主であったらしい。つねに諸国遍歴の旅を続け、その足跡は、北は北海道から、西は四国、中国にもわたっており、ほとんど日本全土に及んだかと思われる』元禄八年、『故郷美濃へ帰り、自ら中興した弥勒寺』近辺で同年七月十五日、六十四歳で没した。断食の上、土中に穴を掘って入り、即身成仏したと伝えられる。『彼をとくに有名にしたのはその造像で、一生に』十二『万体造像を発願したが、現在までに二千数百体が発見されている。大は名古屋荒子観音寺の』三・五『メートル余の仁王像、小は』二~三『センチメートルの木端(こっぱ)仏まで種々に及び、像種もさまざまである。丸木を四分、八分した楔(くさび)形の、荒く鑿(のみ)を入れただけの材からつくりあげることが多く、原材における制約をそのままに利用し、また鑿の痕(あと)をそのままに残すというように、大胆直截(ちょくせつ)な輪郭や線条で構成された彫像をつくりあげた。一見稚拙なようだが、当時のまったく形式化した作風の職業仏師たちの作に比し、熱烈な信仰の所産だけに、新鮮な魅力を備えており、激しく心を打つものがあって、現代にも通ずる素朴な美と力強さが認められる』。

 ちょっと脱線して円空について語りたい。

 彼の人生は必ずしも明らかでない。ただ、私は七歳で長良川の洪水によって母を失ったその心傷が、彼に仏体十二万彫琢の発願をさせたのだと深く信ずるものである。円空の彫った一部の女性的な仏体の表情やそのフォルムは明らかに慈母のイメージである。

 なお、彼が一所に永くは定住した痕跡がないのは、行脚修行以外に何か別な理由があったのではないかということも、彼に関心を持った学生の時以来、ずっと私の考えてきたことであった。

 例えば、まさにこの青森まで来た円空は、弘前藩から退去命令を受ける(これは、幕府の宗教政策によって寺を持たない僧侶の布教活動が禁止されていたから、と羽葉茶々氏のブログ「今日は何の日?徒然日記」の「多くの仏像を残した修業僧・円空」にはあるが、これは追放根拠としては私には承服出来ない)。これについては、滝尻善英氏の論文「下北半島における円空仏と円空の足跡」(PDFでダウン・ロード可能)によると、現存する「弘前藩庁日記」の寛文六年正月二十九日(一六六六年三月四日の条に(漢字を恣意的に正字化した)、『圓空と申僧壱人長町ニ罷有候處ニ御國ニ指置申間敷由被仰出候ニ付而其段申渡候所今廿六日ニ罷出、靑森へ罷越、松前ヘ參由』とあるものの、この追放と言うべき理由について滝尻氏も『その理由は記されていない』、『国に指し置きまじ由』『ということから』見て『尋常ではなかった』理由であったといった旨、言い添えられておられる。但し、その後で弘前藩の修験が当山派であったのに対し、円空は白山の本山派であり、円空が藩内で行った加持祈禱などがそうした地元の修験者に嫌われて讒言された可能性を示唆してはいる。

 ところが、それでおとなしく南に戻るわけでなく、逆に、上記の通り、当時は松前藩があった渡島半島一帯のごく一部以外は一般人の渡航が許されていなかった蝦夷地に(先の羽葉茶々氏のブログに拠る)アウトローに渡っているその強烈なパワーは、どこか、日常からことさらに離れようとする強い意志を感じてきたのである。それは仏教的厭離穢土などの末香臭い教説などとはまた別なものとして、である。なお、あまり知られていないが、或いは、円空は当時、業病として忌み嫌われ、不当に差別されていた(現在も実は変わらない)ハンセン病患者だったのではないかという説をかつて読み、私は個人的には非常に腑に落ちたものがあったことを言い添えておく。

 支線を辿り過ぎた。本線に帰って、恐山の円空に話を戻す。

 先に示した滝尻善英氏の論文「下北半島における円空仏と円空の足跡」では、まさに「和漢三才図会」の私が電子化した箇所の頭から商人竹内のところまでが現代語で紹介され、その後に、むつ市大畑の在地資料「原始漫筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)」(文化一〇(一八一三)年癸酉三月八日の条にも(漢字を恣意的に正字化し、一部のルビを排除した)、

   *

『寛文六年』(一六六六年)『圓空渡海有て円仁』(慈覚大師)『作物の損せし木像を模して九体を刻み安置』……『堂宇に多くの作佛は、實は圓空の作ならんか。鉈削りやうにて、わきて殊勝に』

   *

とあると記された後、『円空は海を渡って北海道有珠山の善光寺に寄宿した。そこで慈覚大師円仁の作仏したという仏像が破損していたことから、この仏像に似せて』九『体の仏像を彫ったという。その後、恐山にやって来た。地蔵堂に安置されている仏像は円空の作で、筆者村林源助は「わきて(とりわけ)殊勝(優れている)」と絶賛している』。『そして、円空来村の約』百『年後に下北を巡った紀行家菅江真澄は』紀行「牧の冬枯」の寛政四(一七九二)年『霜月朔日の条で』(同じく漢字を正字化した)、

   *

そもそも此のみやまは慈覺圓仁大師のひらき給ひて、本尊の地藏ぼさち』(菩薩)『を作給ひ、一字一石のほくゑ』(法華)『經をかいて、つか』(塚)『にこ』(込)『め給ひ』、『として今に在り。はた』、『惠心』[やぶちゃん注:平安中期の天台僧で浄土教の基本仏典「往生要集」の作者源信(げんしん)。]『の佛も、なかごろの圓空のつくりたるぶち』(佛)『ぼさち』(菩薩)『もある也』

   *

『と記している』とされる。その後、滝尻氏は、かつて、円空は『下北半島には立ち寄って』おらず、『円空は津軽から北海道に渡り、そのまま秋田経由で帰っており』、『下北地方には立ち寄っていない』、『いま確認されている円空仏は江戸時代の海運によって運ばれて来た』ものであって、『現在、下北に現存する古文書は偽書で、それを菅江真澄らは円空が来村したものと信じて疑わず、来村したの』だ、と『考えたこともあったが、これだけ地方文書が残っていれば、下北地方を巡錫したことは確かである。円空の足取りを探る記録はこれだけで、あとは残された仏像から知るより術(すべ)はない』と述べておられる。

 この滝尻氏の叙述からみて、残念ながら、現在の恐山には少なくとも円空が「修補し」た「千体」仏というのは残っていないものと思われる。

 但し、恐山菩提寺の院代(住職代理)の方のブログ「恐山あれこれ日記」の「恐山の円空仏」に、『恐山の開山堂に奉安してある円空和尚の作になる観音像』が写真附きで掲げられており(右側は拡大出来ない)、『左が十一面観音、右は腰掛けて片足を上げている、観音像ではあまり多くない半跏思惟像で』、『恐山のものは、研究では初期に属するとされ、鉈で叩き割って作ったのかいう感さえある後期の作品にくらべれば、仕上げは丁寧』であるとある。私は十七年前に恐山に行っているのであるが、哀しいことに、これを見た記憶がない。見なかったようである。

「長〔ながさ〕二十五丈、幅、六、七丈」長さ七十五メートル七十五センチ、幅十八強から二十一メートル二十一センチ。]

2018/06/21

北條九代記 卷第十二 相摸太郎邦時誅せらる 付 公家一統

 

      ○相摸太郎邦時誅せらる  公家一統

新田〔の〕小太郎義貞、鎌倉を攻干(せめほし)て、その威、遠近に輝く。東八國の諸將・諸侍、隨ひ屬(つ)く事、風に靡く草の如し。平氏恩顧の者共は降人(かうにん)になり、遁世すといへども、枝葉(しえふ)を枯(から)して殺さるる者、數知らず。五大院〔の〕右衞門宗繁(むねしげ)は、相摸〔の〕入道の重恩の侍にて、入道の嫡子相摸〔の〕太郎邦時は、宗繁が妹の腹の子なれば、甥(をひ)なり、主(しゆ)なり、何れに付けても、「貳心(ふたごゝを)あらじ」と深く賴みて、邦時を預けられけるを、「子細候はじ」と領掌(りやうじやう)して、鎌倉合戰の最中に、新田の方へに出でけるこそ情(なさけ)なけれ。平氏、滅亡して、その枝葉の殘りたるをば、皆搜し出(いだ)して誅しければ、宗繁、思ふやう、「果報、盡はてたる人を隱置(かくしお)きて、我が命を失はんよりは」とて、邦時は討手向ふ由を語り、「伊豆の御山(おやま)の方へ落ち給へ」とて、五月二十七日の夜半許(ばかり)に鎌倉を忍出(しのびいだ)し、中間(ちうげん)一人に太刀持(もた)せて、編笠・草鞋(わらんぢ)にて、足に任せて行き給ふ。宗繁は船田〔の〕入道が許(もと)に行きて、相摸〔の〕太郎の訴人(そにん)を致しける。二十八日の曙に、相摸河の端(はた)に立ちて、渡し舟を待たれたり。討手の郎從、宗繁が、「すはや、件の人よ」と教へけるに任せて、透間(すきま)なく、三騎まで走寄(はしりよつ)て、邦時を生捕(いけど)り、馬の乘せて、白晝に鎌倉に入れ、翌朝(よくてう)、竊(ひそか)に首を刎(は)ね奉りけり。宗繁は源氏に忠あるに似て、重恩の主君を殺させける事、貴賤上下、惡(にく)みければ、義貞も惡(にく)まれ、「之をも誅すべし」と内議定りければ、宗繁、所領忠賞(ちうしやう)の望みは何地(いづち)去(い)ぬらん、鎌倉を逃げ出て此彼(こゝかしこ)、吟(さまよ)ひつゝ、遂に乞食に成りて、破れたる苫(とま)、古き菅薦(すがこも)を身に纏ひ、道の巷(ちまた)に飢死にけるとぞ聞えし。因果歷然の道理は、踵(くびす)を囘(めぐ)らさず、と惡(にく)まぬ人は、なかりける。都には五月十二日、千種(ちくさの)忠顯・足利高氏・赤松圓心等(ら)、追々に早馬を立てて、六波羅滅却の由、船上(ふなのうへ)へ奏聞(そうもん)す。同二十三日、先帝、既に船上を御立ち有りて、山陰(さんいん)の東に催(うなが)されけり。播州書寫山より、兵庫の福嚴寺(ふくごんじ)に入御ありけるに、新田義貞の早馬三騎、羽書(うしよ)を捧ぐ。相摸、沒落して、相摸〔の〕入道以下の一族、從類、不日(ふじつ)に追討し、東國靜謐(せいひつ)の由を注進す。主上を始め奉り、上下、喜悦の眉をぞ拓(ひら)き給ふ。楠多門兵衞正成、七千餘騎にて兵庫に參向し、是より、楠、前陣(せんぢん)として、六月五日の晩景に東寺まで臨幸あり。此所にて行列を立てられ、禁門にぞ入り給ひける。同七日に、菊池・小貳・大伴が早馬、同時に來り、「九國の探題英時を退治し、九州の朝敵、殘る所なく伐干(うちほ)し候」とぞ奏聞(そうもん)しける。束西南北一統して、公家の政道に皈(かへ)りけり。先帝重祚(てうそ)の後、「正慶の年號は廢帝(はいだい)の改元なり」とて捨られ、本(もと)の元弘にぞなされたる。同二年の夏、天下、賞罰・法令、悉く、公家の政(まつりごと)に出でしかば、諸方の流人を召返(めしかへ)され、諸卿、各(おのおの)、本官に歸(き)し、太平の世とぞ響に成りにける。

  旹延寶三乙卯年冬吉旦

         書林

           梅林彌右衞門

鎌倉北條九代記卷第十二

[やぶちゃん注:最後の奥書部分は早稲田大学図書館の「古典総合データベース」の原典延宝三(一六七五)年板行本)こちらの画像で翻刻した。湯浅佳子氏の「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、ここは「太平記」の巻第十一巻頭の「五大院右衞門宗繁、賺相摸太郎(相摸太郎を賺(すか)す)事」(「賺す」は「騙(だま)す」の意)、及び、「将軍記」巻五の「義貞」「廿七日」、及び、「日本王代一覧」巻六を元としているとある。本章を以って「北條九代記」は全篇が終わっている。私が「北條九代記」の電子化注を始めたのは、二〇一二年十月二十九日のことであったから、実に完遂に五年七ヶ月余りがかかったことになる。「和漢三才図会」のようなものを除き、単品の作品電子化注では今までは最も時間がかかった(しかもこれは教師を辞めてからの完全野人となってから仕儀である)。サイト版の作成を巻第一と巻第二で断念したが、残念な気はしていない(サイト版は誰からも讃辞は寄せられなかったし、その割にルビ付け作業が異様に大変だったこと、しかも理由不明(ソフトのバグと推定される)の突然の不具合によるルビ・タグ書き換えによる修正作業が死ぬほど辛かった(二日徹夜した)からである)。ともかくも最後に、最もお世話になった(特に「吾妻鑑」を元とした前半で)先の論文を書かれた湯浅佳子氏に改めて御礼を申し上げたい。また、ほぼ毎回、実に全二百五十四回の連載を読んで呉れた古い教え子にも心から感謝するものである。「ありがたう」。なお、標題の「公家一統」とは、本来の在り方であるべき朝廷・公家に政権が戻って天下が統一された、という謂いらしい。直に、武家に奪還されちゃうんだけどねぇ。

「相摸太郎邦時」北条高時の嫡男北条邦時(正中二年十一月二十二日(一三二五年十二月二十七日)~元弘三/正慶二年五月二十九日(一三三三年七月十一日)。前章で既出既注

「平氏」平氏である北条氏。

「五大院〔の〕右衞門宗繁(むねしげ)」(生没年未詳)は北条氏得宗家被官(御内人)。前章で既出既注

「子細候はじ」逐語的には「異議は御座らぬ」だが、まあ、「ご安心召されよ」「畏まって存ずる」の意。

「領掌(りやうじやう)」受諾。承知。

「鎌倉合戰の最中に、新田の方へに出でけるこそ情(なさけ)なけれ」「太平記」巻第十一の「五大院右衞門宗繁、賺相摸太郎事」の「と領掌して、降人とぞなつたりける」という叙述を変質させている「太平記」のそれは、恐らく、宗繁は北条一党自害の前に、高時の懇請通り、東勝寺から邦時とともに鎌倉御府内のどこかに連れて行って隠した上で、自らは新田軍にわざと降伏した、というのである。それは、当初は邦時を今後、何とかもっと安全な所へ逃すための、自分がある程度は自由に動ける身にしておくための方途であったのであり、それは「情けな」い行為ではないのである。しかし、取り敢えず命は助かって、ある程度、身の自由な積極的投降者を演じながら、それとなく様子を見ていると、滅亡直後から厳しい北条の残党狩りが行われ、そうした者を新田軍に差し出した「捕手(とりて)は所領を預かり、隱せる者は忽ちに誅せらるる事多」(「太平記」の記載。次も同じ)きを見るにつけ、「五大院右衞門、これを見て、『いやいや果報盡き果てたる人を扶持(ふち)せんとて、たまたま遁れ得たる命を失はんよりは、この人の在所を知つたる由、源氏の兵(つはもの)に告ぐて、ふたごころなきところを顯はし、所領の一所をも安堵せばや』と思」ったからこそ、ここにある通り、「情な」くも、邦時を騙し、結局、新田義貞に密告するのである。そうした人の微妙な心の揺らぎを筆者は無視している。最後に至って、私はここを読んで、やや不快になった。多分、私が郷土鎌倉に強い愛着を持っていることと(私は荏柄天神の境内に生まれ、六地蔵の側で育った)、後醍醐が大嫌いなことと無縁ではあるまい。

「伊豆の御山(おやま)」現在の熱海市の伊豆山。伊豆山神社を中心に、頼朝が流人時代から崇敬していた伊豆山権現を祀り、その峻嶮な地勢と僧兵らを以って一つの勢力を形成していた。

「五月二十七日」既に見た通り、幕府滅亡は元弘三(一三三三)年五月二十二日である。

「船田〔の〕入道」。新田義貞の執事船田義昌(?~建武三(一三三六)年)。新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、執事は『武家にあって、その家政に従事する者の長』とし、この船田は『群馬県山田・勢多(せた)両郡の地の豪族』で『義貞が去就に迷っていた時の相談相手になっていた』とある。後も義貞に仕え、義貞が足利軍に制圧された京都の奪還を目指した戦いの最中、戦死している。

「訴人(そにん)」ここは「訴え出ること」を指す。「太平記」は、

   *

五大院右衞門は、かやうにして、この人をば賺し出だしぬ。

『われと打つて出ださば、「年來(としごろ)、奉公の好(よしみ)を忘れたる者よ」と、人に指を差されつべし。便宜(びんぎ)好からんずる源氏の侍(さぶらひ)に討たせて、勳功を分けて知行せばや。』

と思ひければ、急ぎ、船田入道がもとに行きて、

「相摸の太郎殿の在所をこそ、くはしく聞き出でて候へ、他の勢を交へずして、打つて出でられ候はば、定めて勳功、異に候はんか。告げ申し候ふ忠には、一所懸命の地を安堵つかまつるやうに、御吹擧(ごすゐきよ)に預り候はん。」

と云ひければ、船田入道、心中には、

『惡(にく)き者の言ひやうかな。』

と思ひながら、

「まづ、子細非じ」

と約束して、五大院右衞門尉もろともに、相摸太郎の落ち行きける道をさへぎつてぞ待たせける。

   *

とある。ここで既に、船田でさえ、宗繁の欲絡みの慇懃無礼な物の言い方に不快を覚えている。しかし、ここまで来れば、まさに毒を喰らわば皿まで、である。以下、その辺の悲惨のリアルな映像を、ちゃんと見よう。

「討手の郎從」船田の郎等である。

『宗繁が、「すはや、件の人よ」と教へける』「太平記」は、

   *

相摸太郎、道に相ひ待つ敵ありとも思ひ寄らず、五月二十八日曙に、殘ましげなる窶(やつ)れ姿にて、

『相摸河を渡らん。』

と、渡し守を待つて、岸の上に立ちたりけるを、五大院の右衞門、餘所(よそ)に立つて、

「あれこそ、すは、件(くだん)の人よ。」

と教へければ、船田が郎等三騎、馬より飛んで下り、透き間もなく、生け捕りたてまつる。

 にはかの事にて張輿(はりごし)なんどもなければ、馬に乗せ、舟の繩にて、したたかにこれをいましめ、中間二人(ににん)に馬の口を引かせて、白晝に鎌倉へ入れたてまつる。これを見聞く人ごとに、袖を絞らぬはなかりけり。この人、未だ幼稚の身なれば、何程(なにほど)の事かあるべけれども、朝敵の長男にておはすれば、

「さしおくべきにあらず。」

とて、則ち、翌日の曉(あかつき)、潛かに首を刎ねたてまつる。

   *

この処刑された時、「北条系図」では邦時は数え十五とするが、現在の推定される誕生日からは未だ満八歳であった。

「宗繁は源氏に忠あるに似て」宗繁は平氏北条を滅ぼしたる源氏(新田ら)に忠義を尽くしたかのように見えながら。

『恩の主君を殺させける事、貴賤上下、惡(にく)みければ、義貞も惡(にく)まれ、「之をも誅すべし」と内議定りければ、宗繁、所領忠賞(ちうしやう)の望みは何地(いづち)去(い)ぬらん、鎌倉を逃げ出て此彼(こゝかしこ)、吟(さまよ)ひつゝ、遂に乞食に成りて、破れたる苫(とま)、古き菅薦(すがこも)を身に纏ひ、道の巷(ちまた)に飢死にけるとぞ聞えし』「太平記」は前章の注で示した通り、

   *

年來(としごろ)の主(しゆ)を敵に討たせて、欲心に義を忘れたる五大院右衞門が心のほど、

「希有なり。」

「不道なり。」

と、見る人ごとに、爪彈(つまはじ)きをして憎みしかば、義貞、

「げにも。」

と聞き給ひて、

「これをも誅すべし。」

と、内々、その儀、定まりければ、宗繁、これを傳へ聞いて、ここかしこに隱れ行きけるが、梟惡(けうあく)の罪、身を譴(せ)めけるにや、三界廣しと雖も、一身を置くに所なく、故舊(こきう)と雖も、一飯を與ふる人無くして、遂に乞食(こつじき)の如くに成り果てて、道路の岐(ちまた)にして、飢死(うゑじ)にけるとぞ聞えし。

   *

と終わっている。

「踵(くびす)を囘(めぐ)らさず」踵(かかと)をくるっと回すほどの僅かの時間もない、の意で、ここは「瞬く間」の意。応報迅速であること。

「播州書寫山」現在の兵庫県姫路市の書写山(しょしゃざん:標高三百七十一メートル)にある天台宗書寫山圓教寺(えんぎょうじ)。、康保三(九六六)年に性空(しょうくう)が創建したと伝える。中世には比叡山・大山(だいせん)とともに、『天台宗の三大道場と称された巨刹で』あり、『京都から遠い地にありながら、皇族や貴族の信仰も篤く、訪れる天皇・法皇も多かった』とウィキの「圓教寺にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「兵庫の福嚴寺(ふくごんじ)」現在の兵庫県神戸市兵庫区門口町にある臨済宗巨鼈山(こごうさん)福厳寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「福厳寺」によれば、『開創年代は不明。開山は仏僧国師約翁徳倹』。「摂津名所図会」に元弘三(一三三三)年五月『晦日に後醍醐天皇が』『京へ戻る途中に入り』、六『月朔日、大般若経を転読させたとある』。『赤松則村(円心)父子、楠木正成と部下七千騎が』後醍醐をこの寺で『出迎えた』という。

「禁門」皇居。宮中。

「菊池」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、かの道長の長兄『藤原道隆の子孫、菊池二郎武時の息、武重か』とある。

「小貳」(読みは「せうに(しょうに)」)同前の山下氏の注によれば、『源平時代、藤原(武藤)頼兼が太宰少弐に任ぜられ』、『この地に土着したことから』、『これを称する。大友氏とともに鎮西奉行を世襲。貞経(法名妙慧(みょうえ))がその息頼尚(よりなお)とともに英時討伐に参加している』とある。

「大「大友」の誤り元鎌倉幕府鎮西奉行であった大友貞宗(さだむね ?~元弘三/正慶二(一三三四)年)。同前の山下氏の注によれば、『藤原秀郷(ひでさと)の子孫、親時(ちかとき)の息貞宗。鎮西奉行として、九州の御家人を支配した』とある。ウィキの「大友貞宗によれば、大友氏第六代当主。『「貞」の字は鎌倉幕府の執権・北条貞時から賜ったものと思われる』。応長元(一三一一)年、『兄の貞親が死去したため、その後を継いで当主となる。幕府が派遣していた鎮西探題・北条英時に仕えて』、元弘三/正慶二(一三三三)年三月、菊池武時が『後醍醐天皇の密命を受け』、『攻め寄せた』時には、『英時や少弐貞経らと』とも『敗死させ』ている。『その後も九州における討幕軍の追討に務めたが』、同年五月、『足利尊氏らによって京都の六波羅探題が攻略され、討幕軍優勢が九州にまで伝わると、貞宗は貞経や島津氏らと』ともに、『英時から離反し』、逆に『これを攻め滅ぼした。その功績により』、『豊後国の守護』『を与えられたが、同年十二月三日、『京都で急死した』。『その突然の死には、英時の亡霊による祟りという噂もあった』とある。

「九國の探題英時」北条(赤橋)英時(?~正慶二/元弘三年五月二十五日(一三三三年七月七日)。父は、北条長時の曾孫北条久時。幕府最後の執権となった北条守時の弟。既出既注

「先帝重祚(てうそ)」親後醍醐の筆者にしてこれは甚だ誤った言い方である。後醍醐は光厳天皇の皇位を全否定して、親政(建武の親政)を開始するのであって、後醍醐は、あくまで自身の譲位を認めていないのであり、溯る十五年前の文保二年二月二十六日(一三一八年三月二十九日)の即位からずっと継続して在位していると、この時、主張したのである。従って当然、自らの「重祚」(復位)という言い方自体を後醍醐は認めないのである。

「廢帝(はいだい)」光厳院。

「同二年」元弘三年の誤り

「諸卿、各(おのおの)、本官に歸(き)し」旧幕府や親幕派公卿によって不当に官職を追われていた公家の方々は、それぞれ以前の官職に戻り。

「旹」「時」の異体字。「ときに」と訓じていよう。

「延寶三乙卯」「乙卯」は「きのとう」。グレゴリオ暦一六七五年。第四代将軍徳川家綱の治世。

「初冬」陰暦十月の異称。

「吉旦」「吉日」。

「書林」書肆。出版元。

「梅林彌右衞門」京都の本屋であること以外は不明。]

北條九代記 卷第十二 新田義貞義兵を擧ぐ 付 鎌倉滅亡

 

      ○ 新田義貞義兵を擧ぐ  鎌倉滅亡

新田(につたの)太郎義貞は去ぬる三月十一日、先帝後醍醐の綸旨を賜はり、千劍破(ちはや)より虛病(きよびやう)して本國へ皈り、竊(ひそか)に一族を集めて、謀叛の計略を囘(めぐ)らさる。相摸〔の〕入道、舍弟四郎左近大夫泰家入道に、十萬餘騎を差副へて、京都へ上せらる。軍勢兵粮の爲とて、近國の莊園に臨時の夫役(ふやく)をぞ課(か)けらる。中にも新田莊(につたのしやう)世良田(せらだ)へ、「五日の中に六萬貫を沙汰すべし」と下知して譴責(けんせき)す。義貞、怒(いかつ)て使を討殺(うちころ)す。相撲入道、大に憤(いきどほり)て、武藏・上野の勢に仰せて、「新田太郎義貞、舍弟脇屋次郎義助(よしすけ)を討つべし」と下知せらる。義貞、聞きて、當座の一族百五十騎、同五月八日に旗を擧げ、利根河に打出でしに、越後の一族里見・鳥山・田中・大井田の人々、二千餘騎にて來りたり。豫(かね)て内々相觸れける故なれば、甲・信兩國の源氏等、五千餘騎にて馳來る。東國の兵共、悉く來付(きたりつ)きて、その日の暮方には、二十萬七千餘騎にぞ成りにける。同九日、鎌倉より、金澤武藏守貞將に五萬餘騎を差し副へて、下河邊へ下され、櫻田治部〔の〕大輔貞國に六萬餘騎を副へて、入間河へ向けらる。同十一日より、軍、初り、鎌倉㔟、度々(たびたび)打負けて、利を失ふ。相摸入道、驚きて、四郎左近入道惠性(ゑしやう)を大將として、十萬餘騎を下さる。義貞、分倍(ぶんばい)の軍に打負け給ひしが、同十六日には鎌倉勢、分倍河原(ぶんばいがはら)にして、打崩されて、引返す。東國の勢、新田に馳付く事、六十萬七千餘騎とぞ記しける。是より、三手に分けて鎌倉に押寄せて、藤澤・片瀨・腰越以下、五十餘所に火を掛け、三方より攻入りけり。鎌倉にも、三手に分けて防がせらる。同十八日巳刻より合戰始り、互に命を限に攻戰ふ。萬人死して一人殘り、百陣破れて一陣になるとも、何(いつ)終(はつ)べき軍(いくさ)とも覺えす。今朝、洲崎へ向はれし赤橋相摸守は、數萬騎ありつる郎從も討たれ落散りて、僅に一、二百餘騎に成る。侍大將南條左衞門高直に向ひて仰せけるは、「この軍(いくさ)、敵、既に勝(かち)に乘るに似たり。盛時は足利殿には女性方の緣者たり。相摸人道も、その外の人々も、心を置き給ふらめ。我、何の面目かあらん」とて、腹切りて臥し給ふ。同志の侍九十餘人、同じ枕に自害しける。この手より、軍、破れて、義貞の官軍、山内まで入りにけり。すはや、敵は勝に乘りて、深く攻入りたりと云ふ程こそあれ。鎌倉勢諸手、皆、勢を失ひけり。極樂寺の切通へ向はれし大館(おほだちの)二郎宗氏は、本間(ほんまの)山城左衞門に討たれて、軍勢、片瀨へ引きけるを、義貞、二萬餘騎にて、同二十日の夜半に極樂寺坂にうち望む。稻村崎、道狹く、兵船を浮べ、櫓を搔きて、數萬の軍兵、防ぎけるが、鎌倉の運の盡(つく)る所、潮(うしほ)、俄に干瀉となり、二十餘町は平沙渺々たりし。漕浮(こぎうか)べし兵船は、潮に隨(したが)うて、遙の沖に漂へり。大將義貞、大に悦び、軍兵を進めらる。濱面(はまおもて)の在家に火を掛けたりければ、濱風に吹布(ふきしか)れ、二十餘所、同時に燃上る。相摸〔の〕入道、千餘騎にて、葛西谷(かさいがやつ)に引籠(こも)られしかば、諸大將の兵共、東勝寺に充滿(みちみち)たり。大佛陸奧守貞直、三百餘騎にうちなされ、極樂寺の切通(きりどほし)にして、鎌倉殿の御屋形(やかた)に火の掛りしを見て、「今は是までなり」とて、郎從共は自害す。貞直は脇屋〔の〕義助の陣に蒐入(かけい)り、主從六十餘騎、皆、討たれ給ひけり。金澤武藏守貞將も、山〔の〕内の軍(いくさ)に手負ひければ、東勝寺に皈り、相摸〔の〕入道に暇乞ひし、大勢の中に掛入りて、討死せらる。普恩寺前(さきの)相摸入道信忍(しんにん)は、假粧坂(けはいざか)の軍に、二十餘騎に打なされて自害せられけり。鹽田陸奥入道道祐(だういう)、子息民舞〔の〕大輔俊時も自害し、鹽飽(しあく)新左近〔の〕入道聖遠(しやうをん)、子息三郎左衞門忠賴も腹切りて果てらる。相摸入道は諏訪(すはの)三郎盛高に向ひ、二男龜壽(かめじゆ)殿を預けらる。盛高、抱きて信濃に下り、諏訪〔の〕祝部(はふり)が本に隱置(かくしお)きけるが、建武元年の春、關東を劫略(ごふりやく)し、天下の大軍を起し、中前代(なかせんだい)の大將相摸二郎と云ふは、是なり。嫡子萬壽殿をば、五大院〔の〕右衞門宗繁(むねしげ)、預りて、落行きたり。長崎〔の〕二郎高重、大剛武勇(だいがうぶよう)の名を現(あらは)し、東勝寺に立皈り、相摸〔の〕入道の前に來りて、「今は是迄候。早々(はやはや)御自害候へ。高重、先(さき)を仕る」とて腹切りて臥したり。長崎入道圓喜も死す。相摸入道も腹切り給へば、一族三十四人、惣じて門葉二百八十三人、皆、悉く自害して、屋形に火を掛けしかば、死骸は燒けて見えねども、殘る人は更になし。元弘三年五月二十二日、軍家北條九代の繁昌、一時(じ)に滅亡して、源氏多年の蟄懷(ちつくわい)、一朝に開(ひら)けたり。

[やぶちゃん注:遂にカタストロフがやってくる。但し、後醍醐の謀反以降の描写で判るように、筆者は平板な尊王年表的直線的記録の先端にぶら下がっている〈当然の終結展開の一事件〉としてしかこれを捉えておらず、修羅の鎌倉の惨状は、正直、呆れるほどにストイックにしてドライで、血の匂いもしない、パノラマ館の小さなジオラマのようにしか見えない。「平家物語」のような風情感懐的余韻を伴った文学的香気もなく、「太平記」のようなカット・バックを多用した講談的活劇の面白さも、一切、ない。真実、年代記として本書が書かれたものならば、それは寧ろ当然と言えるのであろうが、しかし、あの頼朝の奥州攻めでの、「吾妻鑑」を自在にマルチ・カメラに変えたリアリティに富んだ活劇性や、時頼を屋上屋で得宗の理想的権威者として塗りたくった狂信的パワーに比し、終盤、高時をテツテ的に愚昧な偏狂者として堕(だ)し、幕府滅亡の薄っぺらい罪状高札として掲げている辺り、残念乍ら、こと、ここに来たって、筆者の筆力の衰退或いは飽き性を物語っていると言えるように私は思う。特に「主上笠置御籠城 付 師賢登山 竝 楠旌を擧ぐ」以降の本文が、進むにつれて、恥も外聞もなく、「太平記」の〈貼り交ぜ日記〉調となっているのは誰が見ても明らかで、正直、ここまで電子化注を進めて来て、あと一章を残すのみ、という段になって、かなり、私は、内心の淋しさを感じざるを得ないのである。湯浅佳子氏の「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、ここは「太平記」の巻第十の二項目の「新田義貞謀叛事 付 天狗催越後勢(えちごぜいをもよほする)事」から「高時幷(ならびに)一門以下於東勝寺自害事」及び「将軍記」巻五の「同八日」、「保暦間記」や「日本王代一覧」を元としているとある。

「新田(につたの)太郎義貞」(正安三(一三〇一)年~延元三/暦応元(一三三八)年)の正式な名は源義貞。河内源氏義国流新田氏の本宗家八代目棟梁。新田朝氏の長男。以下、主に小学館「日本大百科全書」によって記す(但し、本シークエンス部分は、詳しいウィキの「新田義貞」から引く)。上野(こうずけ)国新田荘(しょう)(旧新田郡。現在の群馬県太田市・伊勢崎市・みどり市の各一部。郡域はウィキの「新田郡を参照されたい)を拠点とする豪族新田氏の惣領であったが、小太郎という通称から知られるように、官途名すらも持たぬほどの、鎌倉幕府からは冷遇された一御家人に過ぎなかった。元弘の乱では「太平記」によれば、当初、幕府軍の一員として千早城攻撃に加わったが、その途中、帰国したとされる。ウィキの「新田義貞」によれば、『義貞は』鎌倉幕府『大番役として在京していたが』、『河内国で楠木正成の挙兵が起こると』、『幕府の動員命令に応じて、新田一族や里見氏、山名氏といった上野御家人らとともに河内へ正成討伐に向かい、
千早城の戦いで』『河内金剛山の搦手の攻撃に参加していたが』、この元弘三/正慶二(一三三三)年三月、『病気を理由に無断で新田荘に帰ってしまう』。ところが「太平記」では、この河内出兵中に、『義貞が執事船田義昌と共に策略を巡らし、護良親王と接触して北条氏打倒の綸旨を受け取っていたという経緯を示している』のであるが、歴史学者『奥富敬之は、「護良親王がこの時期河内にいた事は疑わしい」、「文章の体裁が綸旨の形式ではない」などの根拠を提示して、これを作り話であると断定しているが、親王から綸旨を受領したことについては完全に否定はしていない』。歴史学者山本隆志も、「太平記」の『記述にある義貞宛の綸旨は体裁が他の綸旨と異なり、創作ではないかと疑義を呈しながらも、当時、他の東国武士にも倒幕を促す綸旨が飛ばされたことから、義貞が実際に綸旨を受け取っていた可能性はあると指摘している』。一方で、『義貞は後醍醐天皇と護良親王の両者から綸旨を受け取っていたとも言われる』。しかし、「太平記」には『後醍醐天皇が義貞宛に綸旨を発給した記述はなく、綸旨の文章で書かれた令旨であったということになっている』とある。さて、ここで『義貞が幕府に反逆した決定的な要因は、新田荘への帰還後に幕府の徴税の使者との衝突から生じたその殺害と、それに伴う幕府からの所領没収にあった』。『楠木正成の討伐にあたって、膨大な軍資金が必要となった幕府はその調達のため、富裕税の一種である有徳銭の徴収を命令した』。同年四月、『新田荘には金沢出雲介親連(幕府引付奉行、北条氏得宗家の一族、紀氏とする説もある)と黒沼彦四郎(御内人)が西隣の淵名荘から赴いた』。『金沢と黒沼は「天役」を名目として』、六『万貫文もの軍資金をわずか』五『日の間という期限を設けて納入を迫ってきた』。『幕府がこれだけ高額の軍資金を短期間で納入するよう要請した理由は、新田氏が事実上掌握していた世良田が長楽寺の門前町として殷賑し、富裕な商人が多かったためである』。『両者の行動はますます増長し、譴責の様相を呈してきたため、義貞の館の門前には泣訴してくるものもあった。特に黒沼彦四郎は得宗の権威を笠に着て、居丈高な姿勢をとることが多かった。また、黒沼氏は元々隣接する淵名荘の荘官を務める得宗被官で』、『世良田氏の衰退後に世良田宿に進出していたが、同宿を掌握しつつあった新田氏本宗家との間で』は、『一種の「共生」関係に基づいて経済活動に参加していた。だが、黒沼による強引な有徳銭徴収は』、『長年』、『世良田宿で培われてきた新田本宗家と黒沼氏ら得宗勢力との「共生」関係を破綻させるには十分であった』。『また、長楽寺再建の完了時に幕府が楠木合戦の高額な軍資金を要求したことは、多額の再建費用を負担した義貞や世良田の住民にとっても許容しがたい行為であった』。『そのため、遂に義貞は憤激し、金沢を幽閉し、黒沼を斬り殺した』。『黒沼の首は世良田の宿に晒された。金沢は船田義昌の縁者であったため助命されたと言われるが、幕府の高官であったため、殺害すると』、『幕府を刺激する』、『と義貞が懸念したとも考えられている』。『これに対して、得宗・北条高時は義貞に近い江田行義の所領であった新田荘平塚郷を、挙兵した日である』五月八日付で『長楽寺に寄進する文書を発給した』。『これは、徴税の使者を殺害した義貞への報復措置であった』。『この文書が長楽寺にもたらされたのは義貞』が兵を進発させた『数日後であったと考えられている』とある(ウィキ引用はここまで)。ともかくも、こうして北条氏に背いて義貞は挙兵し、上野・越後に展開する一族を中核に、関東各地の反幕府勢力を糾合、小手指原(こてさしがはら:現在の埼玉県所沢市)・分倍河原(ぶばいがわら:現在の東京都府中市)の合戦に勝ち、五月二十二日、鎌倉を攻め落とし、幕府を滅亡させたのであった。その功によって建武政権下では重用され、越後などの国司・武者所頭人、さらに昇進して左近衛中将などに任ぜられたが、やがて足利尊氏と激しく対立するようになり、建武二(一三三五)年、関東に下った尊氏を追撃するも、「箱根竹の下の合戦」で大敗、しかしその直後、上洛した尊氏を迎撃して「京都合戦」で勝利を収め、一時は尊氏を九州に追い落とした。延元元/建武三(一三三六)年、再挙した尊氏と摂津湊川・生田の森(現在の兵庫県神戸市)に戦い、後醍醐天皇方は楠木正成らを失い、京都を放棄した。その後、義貞は北陸に移り、越前金ヶ崎(えちぜんかながさき)城(現在の福井県敦賀市在)を拠点に再起を図ったが、翌年、これを失い、嫡男義顕(よしあき)も自刃した。その後、越前藤島(現在の福井市)で守護斯波高経(しばたかつね)・平泉寺(へいせん)の衆徒の軍と合戦中、伏兵の急襲を受けて戦死した。義貞は、鎌倉攻めのために上野を出た後、遂に一度も故地上野の地を踏むことはなかった。尊氏・直義を中心に一族が纏まって行動した足利氏に比べ、新田氏は家格の低さも勿論だが、山名(やまな)・岩松(いわまつ)氏ら有力な一族が当初から義貞と別行動をとり、僅かに弟脇屋義助(わきやよしすけ)・大館(おおだち)・堀口(ほりぐち)氏ら、本宗系の庶子家しか動員し得なかった点に、既に義貞の非力さが存在した。にも拘らず、義貞は後醍醐によって尊氏の対抗馬に仕立て上げられ、悲劇の末路を辿ることになったのであった。

「虛病(きよびやう)」仮病。

「舍弟四郎左近大夫泰家入道」北条泰家(?~ 建武二(一三三五)年?)。第九代執権北条貞時の四男で、第一四代執権北条高時相摸入道の同母弟。既出既注であるが、再掲しておく。ウィキの「北条泰家」によれば、『はじめ、相模四郎時利と号した』。正中三(一三二六)年、『兄の高時が病によって執権職を退いたとき、母大方殿(覚海円成)と外戚の安達氏一族は泰家を後継者として推すが、内管領長崎高資の反対にあって実現しなかった。長崎氏の推挙で執権となった北条氏庶流の北条貞顕が』十五『代執権となるが、泰家はこれを恥辱として出家、多くの人々が』、『泰家と同調して出家した。憤った泰家が貞顕を殺そうとしているという風聞が流れ、貞顕は出家してわずか』十『日で執権職を辞任、後任は北条守時となり、これが最後の北条氏執権となった(嘉暦の騒動)』。『幕府に反旗を翻した新田義貞が軍勢を率いて鎌倉に侵攻してきたとき、幕府軍を率いてこれを迎撃し、一時は勝利を収めたが、その勝利で油断して新田軍に大敗を喫し、家臣の横溝八郎などの奮戦により』、『鎌倉に生還。幕府滅亡時には兄の高時と』は『行動を共にせず、兄の遺児である北条時行を逃がした後、自身も陸奥国へと落ち延びている』。『その後、京都に上洛して旧知の仲にあった西園寺公宗の屋敷に潜伏し』、建武二(一三三五)年六月に『公宗と共に後醍醐天皇暗殺や北条氏残党による幕府再挙を図って挙兵しようと計画を企んだが、事前に計画が露見して公宗は殺害された。ただし、泰家は追手の追跡から逃れている』。その後、翌年の二月に『南朝に呼応して信濃国麻績』(おみの)『御厨で挙兵し、北朝方の守護小笠原貞宗、村上信貞らと交戦したとされるが、その後の消息は不明。一説には建武』二『年末に野盗によって殺害されたとも言われて』おり、事実、「太平記」にも建武二年の『記述を最後に登場することが無いので、恐らくはこの前後に死去したものと思われる』とある。

「新田莊(につたのしやう)世良田(せらだ)」現在の群馬県太田市世良田町附近(グーグル・マップ・データ)。

「舍弟脇屋次郎義助(よしすけ)」(嘉元三(一三〇五)年~興国三/康永元(一三四二)年)新田朝氏の次男で新田義貞の弟。ウィキの「脇屋義助」によれば、兄義貞に従い、『鎌倉幕府の倒幕に寄与するとともに、兄の死後は南朝軍の大将の一人として北陸・四国を転戦した』。『長じた後は脇屋(現在の群馬県太田市脇屋町)に拠ったことから』、『名字を「脇屋」と称した』。『兄義貞が新田荘にて鎌倉幕府打倒を掲げて挙兵すると、関東近在の武家の援軍を受け』、『北条氏率いる幕府軍と戦う。鎌倉の陥落により、執権北条氏が滅亡した後は、後醍醐天皇の京都への還御に伴い、上洛。諸将の論功行賞によって』、同年八月五日、『正五位下に叙位され、左衛門佐に任官した』。『また、同年、一時期、駿河守にも補任され、以後、兵庫助、伊予守、左馬権頭、弾正大弼などの官職を歴任した。また、この』頃に『設置された武者所では兄の義貞が頭人に補せられたのに伴い、義助も武者所の構成員となり、同所五番となった』。『その後も常に義貞と行動をともにし、各地で転戦した』。延元三/建武五(一三三八)年、『義貞が不慮の戦死を遂げると』、『越前国の宮方の指揮を引き継いだ。兄・義貞亡き後の軍勢をまとめて越前黒丸城を攻め落としたものの、結局室町幕府軍に敗れて越前から退いた』翌年九月には『従四位下に昇叙』している。興国三/康永元(一三四二)年、『中国・四国方面の総大将に任命されて四国に渡り、伊予の土居氏・得能氏を指導し、一時は勢力をふるったが、伊予国府で突如』、『発病し、そのまま病没した。享年』三十八であった。

「里見」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『群馬県群馬郡榛名町里見』(現在は高崎市上里見町)『の武士』で『新田の一族』とあり、『以下孰れも新田の一族』とする。

「鳥山」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『群馬県太田市鳥山の武士』とある。

「田中」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『群馬県新田郡新田町田中の武士』とある。現在は太田市内。

「大井田」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『新潟県十日町市の武士』とある。

「下河邊」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、利根川の『下流、埼玉県』北葛飾郡『の地の総称』とある。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「櫻田治部〔の〕大輔貞國」北条(桜田)貞国(弘安一〇(一二八七)年?~元弘三/正慶二年五月九日(一三三三年六月二十一日)或いは同年五月二十二日(一三三三年七月四日)は北条氏一門。ウィキの「桜田貞国」によれば、『得宗家当主の北条貞時を烏帽子親として元服し、「貞」の偏諱を受けたものとみられる』が、『その後の貞時・高時政権期の活動は不明である』。この時、『新田義貞が挙兵すると、その討伐軍の総大将として長崎高重、長崎孫四郎左衛門、加治二郎左衛門らとともに討伐にあたった』『が、小手指原の戦い、久米川の戦い、分倍河原の戦いでそれぞれ激戦の末に敗れ』、『大将の北条泰家(高時の弟)らとともに敗走し、鎌倉へと戻った』後、同月二十二日に『北条高時ら一族らともに東勝寺で自害した』。『しかし、以上』は「太平記」に『見られるものであり、実際の史料ではそれより前の』、五月九日、『北条仲時らと共に』遙か離れた滋賀で『自害したとされる』。『いずれにせよ、幕府滅亡とともに亡くなったことは確かなようである』とある。

「分倍(ぶんばい)の軍」五月十五日の一戦で「分倍河原(ぶばいがわら)の合戦」の第一次戦。分倍(ぶんばい)は現在の東京都府中市分梅(ぶばい)町。ここ(グーグル・マップ・データ)。分倍河原(ぶばいがわら)はそこに含まれる。ウィキの「分倍河原の戦い (鎌倉時代)には、この日の敗退について、以下のようにある。幕府はこの前哨戦である小手指原及び久米川での幕府軍の『敗報に接し、新田軍を迎え撃つべく』先に出た通り、『北条高時の弟北条泰家を大将とする』十『万の軍勢を派遣』して、『分倍河原にて桜田貞国の軍勢と合流した』が、実は『義貞は、幕府軍に増援が加わったことを知らずにいた』。五月十五日、二日間の『休息を終えた新田軍は、分倍河原の幕府軍への攻撃を開始』したが、『援軍を得て』、『士気の高まっていた幕府軍に迎撃され、新田軍は堀兼(狭山市堀兼)まで敗走した。本陣が崩れかかる程の危機に瀕し、義貞は自ら手勢を率いて幕府軍の横腹を突いて血路を開き』、撤退している。『もし、幕府軍が』そのまま彼らを『追撃を行っていたら、義貞の運命も極まっていたかもしれないと指摘されている』。『しかし、幕府軍は過剰な追撃をせず、撤退する新田軍を静観した』とある。

「同十六日には、鎌倉勢、分倍河原(ぶんばいがはら)にして、打崩されて、引返す」同第二次戦。ウィキの「分倍河原の戦い (鎌倉時代)によれば、前日に『敗走した義貞は、退却も検討していた』。『しかし、堀兼に敗走した日の晩、三浦氏一族の大多和義勝が河村・土肥・渋谷、本間ら相模国の氏族を統率した軍勢』六千『騎で義貞に加勢した』。『大多和氏は北条氏と親しい氏族であったが、北条氏に見切りをつけて義貞に味方した』もので、『また義勝は足利一族の高氏から養子に入った人物であり、義勝の行動の背景には宗家足利氏の意図、命令があったと指摘されている』とある。ともかくも、『義勝の協力を得た義貞は、更に幕府を油断させる』ため、『忍びの者を使って大多和義勝が幕府軍に加勢に来るという流言蜚語を飛ばした。翌』十六『日早朝、義勝を先鋒として義貞は分倍河原に押し寄せ、虚報を鵜呑みにして緊張が緩んだ幕府軍に奇襲を仕掛け大勝し、北条泰家以下は敗走した』とある。

「藤澤・片瀨・腰越以下、五十餘ケ所に火を掛け」「太平記」巻第十「鎌倉合戰〔の〕事」によれば、この「鎌倉合戦」緒戦を予告する狼煙ともいうべき包囲放火は「五月十八日の卯の刻」(午前六時前後)とする。

「三方より攻入りけり」北の巨福呂坂切通(現在の北鎌倉の山内(やまのうち)の建長寺門前から東山上を抜ける旧切通。現在は中間部が保存されておらず、通行も出来ない)・西中部からの化粧坂(けわいざか:洲崎・梶原を経て源氏山から扇ガ谷へ抜けるルート)・極楽寺坂(南西。稲村ヶ崎の要害で鎌倉合戦の最大の激戦地の一つ)の三方。

「同十八日巳刻より合戰始り」鎌倉幕府は、

元弘三年五月十八日から同月二十二日まで

の五日間の攻防(狭義の「鎌倉合戦」)で滅亡した。同旧暦は当時のユリウス暦で

一三三三年六月三十日から七月四日

に当たる。因みに時期的認識のために試しに現在のグレゴリオ暦に換算してみると、

一三三三年七月八日から七月十二日

に相当する。「巳刻」は午前十時前後

「赤橋相摸守」最後の執権北条(赤橋)守時。

「南條左衞門高直」御内人であった武将南条左衛門尉高直(?~正慶二/元弘三(一三三三)年)はサイト「南北朝列伝」のこちらの記載によれば、『南条氏は伊豆・南条を名字の地とする一族で、北条得宗被官(御内人)のうち重要な地位を占めたものと考えられている。得宗専制が強まるとともに幕府内で頭角を現したとみられ、「太平記」でも鎌倉末期の情勢の中で「南条」一族が何人か登場している。だが』、『その系図はまったく不明である』。『「太平記」で南条高直が初登場するのは巻二、二度目の討幕計画が発覚して逮捕された日野俊基が鎌倉に送られてきた時で、鎌倉に到着した俊基を受け取り、諏訪左衛門に預けさせた人物として「南条左衛門高直」の名が明記されている。なお、北条貞時の十三回忌法要』(元亨二(一三二二)年)『のなかに「南条左衛門入道」の名があるので、これが高直ではないかとする推測もある』。この鎌倉攻めの火蓋が切られた五月十八日、『執権・赤橋守時は巨福呂坂から洲崎(鎌倉北西部、山を越えた地域と思われる)へ出撃して新田軍と交戦、激戦の末に自害して果てた。「太平記」では自害の前に守時は南条高直を呼び寄せ、「妹が足利高氏の妻だから、高時どの以下、みな』、『私を疑っている。これは一家の恥であるから自害する」と語った。守時の自害を見とどけた高直は「大将がすでにご自害された上は、士卒は誰のために命を惜しもうか。ではお供つかまつろう」と言ってただちに腹を切った。これを見て』、その場にあった九十『余名の兵たちも一斉に腹を切ったという』。『「梅松論」でも赤橋守時と同じ場所で命を落としたとして「南条左衛門尉」の名を挙げている』とある。本文の守時の述懐はその通りである。

「大館(おほだちの)二郎宗氏」(正応元(一二八八)年~正慶二/元弘三年五月十九日(一三三三年七月一日)は新田氏の支族の武将。ウィキの「大館宗氏」によれば、『祖父は新田政義、父は大舘家氏』。『鎌倉時代末期、岩松政経の代官である堯海と田嶋郷の用水を巡り』、『争論となり、控訴されて敗れる。この折りは『総領である新田家を無視し、大舘・岩松両家は幕府に直接裁定を申し出ている』。この時は『義兄弟にもあたる新田義貞を旗頭に、子息らや他の新田一族と共に鎌倉幕府に対し』、挙兵した。『宗氏は極楽寺切通しから突入する部隊の指揮を任され』、五月十八日、『稲村ヶ崎の海岸線から』『鎌倉市街突入を敢行しようとし』、一『度は北条軍を破って突破したが』、『大仏貞直が態勢を立て直すと』、『その配下の本間山城左衛門との戦闘で討死した』。「梅松論」に拠れば、同十八日『未明に稲村ヶ崎の海岸線から鎌倉にいったん進入するも、諏訪氏、長崎氏らの幕府方との戦闘となり、宗氏らは稲瀬川付近で戦死し、新田軍はいったん退却した、と記されている』。五月十八日を討ち死にの日とするのは「尊卑文脈」に『よるものだが』「太平記」は『死去の日時を』五月十九日としている。享年四十六。『宗氏の討死によって』、『この方面軍の指揮系統が消失したため、一旦』は『息子の氏明が軍を率いたが、宗氏討死の報を聞いた義貞が化粧坂方面を弟の脇屋義助に任せ』、二十一日に『極楽寺方面へ布陣してきたため、義貞が以降の指揮を取ることとなった』。『その後、義貞は防御の堅い極楽寺切通しの突破ではなく』、「梅松論」が『伝えるところの宗氏の突入と同じルート、すなわち稲村ヶ崎の海岸線から』二十一『日未明に鎌倉市街に突入したとされている』。『戦死した宗氏ら十一人は当初、御霊神社の付近に葬られ十一面観音が祭られたが、のちに改葬され、現在の稲村ヶ崎駅付近にある「十一人塚」に葬られているとされる』とある。

「本間(ほんまの)山城左衞門」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『村上源氏か』とある。日野資朝を処刑した佐渡守護「本間山城入道」の名が見えるが、彼は資朝処刑直後に死去しているとする系図資料があり、同一人物かどうかは不明。

「二十餘町」二十町は約二キロ百八十二メートル。

「平沙渺々」平らな砂浜が広々と広がるさま。

「濱面(はまおもて)」由比ヶ浜の正面。

「葛西谷(かさいがやつ)」現在の宝戒寺境内の南の、滑川(流域呼称は青砥川)を越えた東南の谷。山下に臨済宗青龍山東勝寺(北条泰時創建。この後、廃寺となり(次注参照)、現在は遺跡の一部の発掘後、埋め戻されて当該発掘地は平地(立入禁止)となっている)があった。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「東勝寺」この時、建造物は焼失したが、直ちに再建されており、暫くは存続した。貫達人・川副武胤著「鎌倉廃寺事典」(昭和五五(一九八〇)年有隣堂刊)によれば、『当寺がいつ廃したかは明らかではない。けれども永正九年(一五一二)五月二十日、古河公方足利政氏は妙徳を東勝寺住持に任じており(「東山文庫記録」)、この時まで存在していたことがわかる』とある。

「大佛陸奧守貞直」北条(大仏(おさらぎ))貞直(?~正慶二/元弘三年五月二十二日(一三三三年七月四日)は大仏流北条宗泰の子。ウィキの「北条貞直により引く。『得宗・北条貞時より偏諱を受けて貞直と名乗る』。『引付衆、引付頭人など要職を歴任して幕政に参与した』。元弘元(一三三一)年九月、貞直は『江馬越前入道(江馬時見)、金沢貞冬、足利高氏(のちの尊氏)らと共に大将軍として上洛し』、同月二十六日には『軍を率いて笠置に向けて進発し』、二『日後に攻め落とした(笠置山の戦い)』。十月の『赤坂城の戦いに勝利して戦功を挙げたことから、遠江・佐渡などの守護職を与えられ』ている。元弘二/正慶元(一三三二)年九月には、再び、『北条高時が派遣した上洛軍に加わり』、翌年二月から勃発した『千早城の戦いにも参加している』。『このとき、貞直は寄せ手の軍勢が大打撃を受けたことを見て、赤坂城攻めの経験から水攻め、兵糧攻めの策を講じている』。この時、『新田義貞が軍勢を率いて鎌倉に攻め込んでくる(鎌倉の戦い)と』、『極楽寺口防衛の大将としてその迎撃に務め』、『新田軍の主将の一人である大館宗氏と戦い』一『度は突破を許したが』、『態勢を立て直して宗氏を討ち取り』、『堅守し』た。しかし、力及ばず、五月二十一日深夜、『攻防戦の要衝である霊山山から撤退するが、この時に残っていた兵力は』三百騎にまで減っていた。翌二十二日、『宗氏に代わって采配を取った脇屋義助(義貞の弟)の攻撃の前に遂に敗れて戦死した』。この時、『弟の宣政(のぶまさ)や子の顕秀(あきひで)らも共に戦死している』。彼は『武将としての能力だけでなく、和歌にも優れた教養人であったと伝わる』。『「太平記」でも北条一族の主要人物のひとりとして登場しており、鎌倉防衛戦においては巨福呂坂の守将・金沢貞将と共に最期の様子が描かれている』とある。

「金澤武藏守貞將」北条(金沢)貞将(乾元元(一三〇二)年~元弘三/正慶二年五月二十二日(一三三三年七月四日)は十五代執権北条貞顕の嫡男。私の非常に好きな武将である。既出既注

「普恩寺前(さきの)相摸入道信忍(しんにん)」北条基時(弘安九(一二八六)年~正慶二/元弘三年五月二十二日(一三三三年七月四日)は第十三代執権(非得宗:在職:正和四年七月十一日(一三一五年八月十一日)~正和五年七月九日(一三一六年七月二十八日))。普恩寺(ふおんじ)基時とも呼ぶ。「信忍」は法名。既出既注

「鹽田陸奥入道道祐(だういう)」北条(塩田)国時(?~元弘三/正慶二年五月二十二日(一三三三年七月四日)は北条一門の武士。ウィキの「北条国時」によれば、『父は極楽寺流の分流で塩田流の北条義政』(六波羅探題北方や連署を務めた北条重時(北条義時の三男)の五男。鎌倉幕府第六代連署(在任:文永一〇(一二七三)年~建治三(一二七七)年)。信濃国塩田荘に住したことから、義政から孫の俊時までの三代は塩田北条氏と呼ばれる)。徳治二(一三〇七)年、『二番引付頭人に就任』、応長元(一三一一)年、『一番引付頭人に就任』したが、二年後に辞任している。『元弘の乱における鎌倉幕府滅亡の際には鎌倉に駆けつけて宗家』北条氏『と運命を共にし、子の藤時・俊時らと共に自害した』。なお、元弘三(一三三三)年五月、『国時の子と見られる「陸奥六郎」が家人と共に籠城していた陸奥国安積郡佐々河城で宮方の攻撃を受けて落城している。また』建武二(一三三五)年八月一四日、『駿河国国府合戦では、国時の子と見られる「塩田陸奥八郎」が生け捕られている』とある。

「子息民舞〔の〕大輔俊時」(?~~元弘三/正慶二年五月二十二日(一三三三年七月四日)北条国時の嫡男。ウィキの「北条俊時」によれば、元徳元(一三二九)年に『評定衆に任じられ、同』三年には『四番引付頭人に就任し』ている。「太平記」巻十「鹽田父子自害事」に『よると、父・国時の自害を促すため、自分の腹を掻き切り』、『自害して果て』ている。

「鹽飽(しあく)新左近〔の〕入道聖遠(しやうをん)」塩飽聖遠(しあくしょうえん/しょうおん ?~元弘三/正慶二年五月二十二日(一三三三年七月四日))は北条得宗家被官(御内人)。「太平記」の「鹽飽入道自害事」によれば、東勝寺で北条氏に殉じて、聖遠も自刃している。『自刃の際、嫡男である忠頼』(本文の「子息三郎左衞門忠賴」)『に出家をして生き延び』、『自身の弔いを促すも、忠頼は拒絶し』、『袖の下から抜いた刀で』、即座に『自害した。忠頼の弟である四郎も兄に続こうとするが』、『聖遠が制止し、自らの辞世の漢詩を書き付けた後、四郎に首を落とさせたと』ある(引用はウィキの「塩飽聖遠」)。この「太平記」の一章は短い章であるが、一読、忘れがたい

「諏訪(すはの)三郎盛高」「太平記」によれば、「諏訪左馬助入道が子息諏訪三郎盛高」で、新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、この「諏訪(左馬助入道)」は『諏訪下社の神主家』とある。次注も参照されたい。

「二男龜壽(かめじゆ)殿」「中前代(なかせんだい)の大將相摸二郎」北条高時の次男北条時行(?~正平八/文和二(一三五三)年)。当時は、兄(後注参照)の生年から考えると、満七歳以下である。以下、ウィキの「北条時行」から引く。この時、『時行は母』二位局『によって鎌倉から抜け出し、難を逃れていた。兄の邦時も鎌倉から脱出して潜伏していたが、家臣の五大院宗繁の裏切りによって新田方に捕らえられ』、『処刑されている』。『時行は北条氏が代々世襲する守護国の一つであった信濃に移り、ここで諏訪家当主である諏訪頼重に迎えられ、その元で育てられた。時行を庇護した諏訪氏は代々諏訪大社の神官長を務めてきた家柄であり、頼重は時行に深い愛情を注いだようで、時行は実の父のように頼重を慕っていた』。幕府滅亡の二年後、『北条一族である北条泰家や鎌倉幕府の関係者達が北条氏の復興を図り、旗頭として高時の忘れ形見である時行に白羽の矢が立つ。泰家は得宗被官(御内人)の諏訪盛高に亀寿丸を招致するよう命じた』。「太平記」に『よれば、盛高は二位局の元へ赴き、家臣に裏切られ』て『処刑された兄邦時の話を持ち出して、「このままだと亀寿丸様もいつその首を手土産に我が身を朝廷に売り込もうと考える輩に狙われるか分かりませぬ」などと脅し』、『二位局らを困惑させている隙に』、『時行を強奪して連れ去ったと記載されている。その後、二位局は悲観して入水自殺したという』。建武二(一三三五)年七月、『成長した時行は、後醍醐天皇による親政(建武の新政)に不満を持つ勢力や北条の残党を糾合し、信濃の諏訪頼重、諏訪時継や滋野氏らに擁立されて挙兵した。時行の挙兵に応じて各地の北条家残党、反親政勢力が呼応し、時行の下に集まり大軍となった』。『建武親政方の信濃守護小笠原貞宗と戦って撃破し』、七月二十二日には女影原(おなかげはら:現在の埼玉県日高市)で『待ち構えていた渋川義季と岩松経家らの軍を破り、さらに小手指原(埼玉県所沢市)で今川範満を、武蔵府中で下野国守護小山秀朝を、鶴見(横浜市鶴見区)で佐竹義直を破り、破竹の勢いで鎌倉へ進軍』、『ついに尊氏の弟である足利直義を町田村(現在の町田市)の井出の沢の合戦で破』って、七月二十五日に『鎌倉を奪回した』。その二日前、『直義は鎌倉に幽閉されていた護良親王を殺害しているが、時行が前征夷大将軍である親王を擁立した場合には、宮将軍・護良親王-執権・北条時行による鎌倉幕府復活が図られることが予想されたためであった』。『鎌倉を占拠した時行を鎮圧するべく、朝廷では誰を派遣すべきか』という『議論が起こった。その武勇、実績、統率力、人望などを勘案して、足利尊氏が派遣されることとなった』。『直義と合流した尊氏は西進してくる時行軍と干戈を交えた。両軍は最初の内こそ拮抗していたが、徐々に時行軍の旗色が悪くなっていった。局地的な合戦が幾度か起こったが、時行軍はそのたび』に『破れ』、『退却を余儀なくされた』。『そして、ついには鎌倉にまで追い詰められ、時行軍は壊滅』、八月十九日に『諏訪家当主の諏訪頼重・時継親子ら』四十三『人は勝長寿院で自害して果てた』。『自害した者達は皆顔の皮を剥いだ上で果てており、誰が誰だか判別不可能だったため、時行も諏訪親子と共に自害して果てたのだろうと思われた』(事実は生き延びた)。『時行が鎌倉を占領していたのはわずか』二十『日ほどであるが、先代(北条氏)と後代(足利氏)の間に位置し、武家の府である鎌倉の一時的とはいえ』、『支配者となったことから、この時行らの軍事行動は「中先代の乱」と呼ばれる』。『また、この合戦は尊氏と後醍醐天皇の間に大きな禍根を残した。尊氏は鎌倉攻めで功績のあった武将に勝手に褒美を与えるなどしたため、後醍醐天皇の勘気を被った。両者の亀裂は次第に深みを増してゆき、ついに尊氏は天皇に対して反旗を翻すこととなり(延元の乱)、南北朝時代の幕開けとなった』。延元二(一三三七)年、時行は姿を現わし、『後醍醐天皇方の南朝に帰参し』て『勅免の綸旨を得ることに成功した』。『足利尊氏にとって、時行の挙兵は帝の疑心を招き、新田義貞や弟・直義との関係を悪化させるなどしたが、勝長寿院で自害したと思われていた時行が実は今だ生きており、しかも後醍醐天皇に拝謁して朝敵を赦免され、南朝と結託したことは、さらに尊氏を驚かせた』。『時行が朝廷の許しを得るための交渉過程は詳しく判明していないが、後醍醐天皇より南朝への帰属を容認された上、父高時に対する朝敵恩赦の綸旨も受けている。時行による高時の朝敵撤回に関しては、後世に時行の子孫を自称した横井小楠から「この上ない親孝行である」と礼賛されている』。『時行が鎌倉に攻め入って幕府を直接滅ぼした新田義貞らが属する南朝、いわば仇敵と手を組んだ理由は、当時の趨勢が南朝に有利だったからという打算的判断によるものだといわれるが、育ての親である諏訪頼重の仇を討ちたいという強い意志が何よりの動機であったとする説もある。これに対し』、もともと、『時行は持明院統(北朝)の光厳上皇と結んで活動してきたが、中先代の乱後に上皇が足利尊氏と結んで持明院統を復活させる方針に転換し、尊氏と戦ってきた時行はこれを上皇の裏切り・切り捨てと解して、南朝と結んで尊氏と戦う道を選んだと解』する見解もある。『朝廷への帰参を果たした時行は、今度は南朝方の武将として各地で転戦した。時行の復活劇は世間をも仰天させ、人々は時行を称揚した』。『南朝へ帰順した時行は東国へ向かい』、『北畠顕家の征西遠征軍に加わり、美濃青野原の戦いなどで足利軍と闘う。しかし、顕家は同時に尊氏を挟撃していた形の新田義貞と連携を取らず、足利方の諸軍との連戦で疲弊した末に和泉国石津にて戦死した(石津の戦い)。総大将の敗死により、北畠征西遠征軍は結果として瓦解してしまった』。『顕家が戦死したことにより』、『北畠軍は四散したが、時行は再び雲隠れし、今度は義貞の息子新田義興の軍勢に加わるなど、足利方に執拗に挑み続け』、正平七/文和元(千三百五十二)年には、『南朝方の北畠親房は北朝方の不和をつき、東西で呼応して京都と鎌倉の同時奪還を企てる』。同年閏二月十五日には、『時行は新田義興・新田義宗、脇屋義治らとともに、上野国で挙兵し』、『また、同時に征夷大将軍に任じられた宗良親王も信濃国で諏訪直頼らと挙兵』、三日後の閏二月十八日、『時行や新田義興・脇屋義治らは三浦氏の支援を受けて、足利基氏の軍を破って鎌倉に入り占拠した(武蔵野合戦)』が、『別に戦っていた新田義宗が敗れて旗色が悪くなると』、三月二日に『鎌倉を脱出し、再び姿を晦ました。水面下でなおも尊氏をつけ狙う時行の執拗さに、尊氏は辟易を通り越して恐怖すら感じていたとも伝わっている』。そして、「鶴岡社務録」などの『史料によれば、鎌倉を逃げた時行は遂に足利方に捕らえられ』、正平八(一三五三)年五月二十日、『鎌倉龍ノ口で処刑されたと伝わる。このとき、彼に付き従っていた長崎駿河四郎、工藤二郎も共に殺害された』とする。しかし、洞院公賢の日記「園太暦」や今川了俊の「難太平記」などに『よると、ここでも時行は脱走し、その行方を晦ましたとある。足利氏としては、未だ蠢動を続ける北条の残党を完全に鎮圧するために、残党が旗頭と仰ぐ時行を殺したということにして、何としてでも北条氏を根絶やしにしたという既成事実をつくりたかったのであろう、とする説がある』。『以上のように』彼は『処刑されたことになっているが、時行の末路については、不明瞭な点が多い』とある。

「諏訪〔の〕祝部(はふり)」「太平記」では「はぶり」とルビする。諏訪神社の神官。

「建武元年」建武二年の誤り。一三三五年。

「劫略(ごふりやく)」古くは「こうりゃく」とも読んだ。脅して奪い取ること。

「嫡子萬壽殿」北条高時の嫡男北条邦時(正中二年十一月二十二日(一三二五年十二月二十七日)~元弘三/正慶二年五月二十九日(一三三三年七月十一日)。ウィキの「北条邦時」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『母は御内人五大院宗繁の妹(娘とする系図もある)』。『邦時の死後、中先代の乱を起こした北条時行は異母弟』。『元徳三年/元弘元年(一三三一年)十二月十五日に元服した時は七歳であり、逆算すると』、『生年は正中二年(一三二五年)となるが、同年十一月二十二日付の金沢貞顕の書状によれば、「太守御愛物」(高時の愛妾)である常葉前が同日暁、寅の刻に男子を生んだことが書かれており、貞顕が「若御前」と呼ぶこの男子がのちの邦時であったことが分かる。同書状では高時の母(大方殿・覚海円成)や正室の実家にあたる安達氏一門が御産所へ姿を現さなかったことも伝えており、嫡出子ではない(庶長子であった)邦時の誕生に不快を示したようである』。『翌三年(一三二六年、四月嘉暦に改元)三月十三日に高時が出家。その後継者として安達氏は高時の弟・泰家を推したが、泰家の執権就任を阻みたい長崎氏(円喜・高資など)によって邦時が後継者に推される。但し、当時の邦時は生後三カ月(数え年でも二歳)の幼児であって得宗の家督を継いだとしても』、『幕府の役職に就くことはできず、邦時成長までの中継ぎとして同月十六日に』、『長崎氏は連署であった貞顕を執権に就けるが、安達氏による貞顕暗殺の風聞が流れたこともあって貞顕は僅か十日で辞任(嘉暦の騒動)、代わって中継ぎの執権には赤橋守時が就任した』。『この後』、『元徳元年(一三二九年)の貞顕(法名崇顕)の書状には「太守禅閣嫡子若御前」とあって最終的に高時の後継者となったようであり、慣例に倣って七歳になった同三年(一三三一年)十二月に元服が行われた。儀式は幕府御所にて執り行われ、将軍・守邦親王の偏諱を受けて邦時と名乗った』。『元弘三年/正慶二年(一三三三年)五月、元弘の乱で新田義貞が鎌倉を攻めた際、邦時は父が自刃する前に伯父である五大院宗繁に託され』、鎌倉御府内に潜伏したが、『北条の残党狩りが進められる中で、宗繁が褒賞目当てに邦時を裏切ろうと考えた。邦時は宗繁に言いくるめられて別行動をとり、二十七日の夜半に鎌倉から伊豆山へと向かった。一方、宗繁がこれを新田軍の船田義昌に密告したため、二十八日の明け方に邦時は伊豆山へ向かう途上の相模川にて捕らえられてしまった。邦時はきつく縄で縛られて馬に乗せられ、白昼』、『鎌倉へ連行されたのち、翌二十九日の明け方に処刑された。享年』僅か九歳であった。『「太平記」では、連行される邦時の姿を見た人やそれを伝え聞いた人も、涙を流さなかった人はいなかった、と記している』。『ちなみに、宗繁は主君であり自身の肉親でもある邦時を売り飛ばし、死に追いやった前述の行為が「不忠」であるとして糾弾され』、新田『義貞が処刑を決めたのち』、『辛くも逃亡したものの、誰一人として彼を助けようとはせず、時期は不明だが』、『餓死したと』される。

「五大院〔の〕右衞門宗繁(むねしげ)」(生没年未詳)は北条氏得宗家被官(御内人)。「五大院高繁」とも呼ばれる。ウィキの「五大院宗繁」を一部、引いておく。元亨三(一三二三)年十月二十六日に『円覚寺で行われた九代執権北条貞時の十三回忌供養では禄役人の一人として名を連ねる』。『元弘の乱における幕府滅亡時に、妹婿である北条高時から嫡男の邦時(宗繁の甥にあたる)を託された』。「太平記」『巻十一「五大院右衛門宗繁賺相摸太郎事」によると、宗繁は高時から長年にわたり』、『恩を受けてきた人物であり、邦時を託される際に高時は「いかなる手段を使っても匿って守り抜き、時が来れば立ち上がって亡魂の恨みを和らげてほしい」と頼んだとされる』が、前の引用にあるようにそれを裏切って、邦時は処刑されてしまう。而して、先の通り、新田義貞の処刑命令を受けて逐電したが、『旧友らにも一椀の飯すら与えられず』、『見捨てられ、最期は乞食のようになり果てて』、『路傍で餓死したとされる』とある。

「長崎〔の〕二郎高重」(?~元弘三/正慶二(一三三三)年)は北条氏得宗家被官(御内人)。かの最後の幕府の権力者、内管領長崎高資(長崎円喜の嫡男)の嫡男である。私には「太平記」の鎌倉合戦の中でも、最も忘れ難い、ヒップな武将である。同書巻第十の十四項目にある「長崎高重最期合戰〔の〕事」は途轍もなく凄い(「面白い」というよりも確かに「凄い」のである)。かなり長いが、私は七年前の二〇一一年十二月二十六日、私の新編鎌倉志卷之七の「崇壽寺舊跡」の条の注で、掟破りに全文電子化し、注と現代語訳まで附している。本「北條九代記」の鎌倉合戦の粗雑さを補うためにも、是非、お読みあれかし!!!

「源氏多年の蟄懷(ちつくわい)、一朝に開(ひら)けたり」言わずもがなであるが、北条氏は平氏であり、北条義時以降、その意のままに幕政が続いてきた。頼朝開幕以来、源氏を奉じてきた源氏を出自とする新田氏や足利氏らにとっては、まさに長年の「蟄懷」(ちっかい:心中の不満。潜在的な恨み)が、この一日(いちじつ)にして晴れたのである。]

2018/06/20

北條九代記 卷第十二 足利高氏上洛 付 六波羅沒落

 

      ○足利高氏上洛  六波羅沒落

鎌倉には、先帝宮方軍兵、駈付けて、京都を攻むべき由、聞きて、相摸〔の〕入道、評定有りて、名越尾張守を大將として、外樣の大名二十人を催さる。その中に、足利治部大輔高氏は父の憂(うれへ)に丁(あたつ)て、しかも我が身、病に罹り、起居(ききょ)快(こゝろよか)らず、上洛の催促、度々に及びしかば、心中に憤(いきどほり)を含み、『先帝の御味方に參り、六波羅を攻亡(せめほろぼ)さん』とぞ思立(おもひた)たれける。相摸入道、この事は思寄(おもひよ)らず、一日に兩度の催促をぞ致されたる。足利殿、異義に及ばず、「一族・郎從・御臺(みだい)・若君までも、殘らず上洛す」と聞えしかば、長崎入道圓喜、怪(あやし)み思ひて、「相摸入道に心を入れつゝ、起請文を書きて、別心なき旨、不審を散(さん)ぜらるべし」と申遣す。高氏、愈(いよいよ)欝胸(うつきよう)しながら、舍弟民部大輔直義(なほよし)に意見を問はれければ、直義、思案して、「御臺は赤橋殿の御娘なり。公達は御孫なれば、自然の事もあらんには、見捨て給ふべからず。又、その爲に郎從を殘置(のこしお)かれ、隱し奉るに難(かた)かるべからず。先(まづ)、相摸入道の不審を散じて、御上洛有りて、大義をも思召立ち給へかし」とあり。高氏、「實(げに)も」とて、子息千壽王殿と御臺とを赤橋相州に預け、起請文を相摸入道に參らせらる。相摸入道、不審を散じ、高氏を招請し、御先祖累代の白旗(しらはた)あり、錦の袋に入りながら參らせらる。足利殿兄弟・吉良・上杉・仁木(につき)・細川・今川以下の一族三十二人、高家(かうけ)の一類四十三人、その勢三千餘騎、元弘三年三月二十七日に鎌倉を立ちて、名越尾張守高家に三日さきだちて、四月十六日に京著し、次の日、船上(ふなのうへ)へ潛(ひそか)に使を參らせ、綸旨をぞ賜りける。名越尾張守は、大手の大將として、七千六百餘騎、鳥羽の作道(つくりみち)より向はる。足利治部大輔高氏は搦手の大將として、五千餘騎、西郊(にしのをか)より向はれけり。八幡・山崎の官軍、是を聞きて、三手に分けて待掛けたり。尾張守高家、その出立(いでたち)、花(はなやか)に人目に立ちて見えけるが、官軍の中より、佐用(さよの)左衞門三郎範家とて、の精兵(せいびやう)、步立(かちだち)に成りて、畔(くろ)を傳ひ、籔(やぶ)を潛(くゞ)り、狙寄(ねらひよ)りて、一矢、射ければ、高家の甲(かぶと)の眞甲(まつかふ)の端(はづれ)、眉間の眞中に中(あた)りて、腦、碎け、骨、烈(さ)け、項(うなじ)へ、矢鋭(さき)、白く射出しける間(あひだ)、馬より落ちて、死に給ふ。官軍は鬨を作りて攻掛(せめかゝ)る。名越殿の七千餘騎、大將を討(うた)せて、狐河(きつねがは)より、鳥羽の邊迄、皆、伐干(うちほさ)れて臥(ふ)しにけり。足利殿は桂河の西の端に下居(おりゐ)て軍(いくさ)をも初(はじめ)ず、「大手の大將、討たれたり」と聞えしかば、「さらば」とて、山崎を外(よそ)に見て、丹波路を西へ、篠村(しのむら)を差して赴き給へば、軍兵、馳付きて、二萬三千餘騎になる。同五月七日、官軍、「既に攻べし」とて、三方に篝(かゞり)を焚きて取囘(とりまは)す。東山道一方計(ばかり)ぞ開(ひら)けたる。足利殿、篠村を出でて、右近馬揚(うこんのばゝ)に至り給へば、軍兵五萬餘騎に及べり。六波羅には六萬餘騎を三手に分けて差向けらる。赤松入道圓心は、三千餘騎にて、東寺に押寄せけるに、内野も東寺も軍に打負けて、皆、六波羅に逃籠(にげこも)る。四方の官軍、五萬餘騎、六波羅を圍みつ、態(わざ)と東一方をば、開(あ)けたり。城中、色めき立ちて、夜に紛れて落失せければ、僅に千騎にも足らざりけり。主上・上皇・國母・女院、皆、步跣(かちはだし)にて城を落出で給ふ。六波羅の南の方、左近將監時益、行幸の御前(みさき)、仕り、北の方越後守仲時も、夫妻の別を悲しみながら、城を出でて、十四、五町にして、顧みれば、敵、早、六波羅の館に火を懸けて、雲煙と燒上(やきあが)る。苦集滅道(くすめぢ)の邊にして左近將監時益は、野伏(のぶし)の流矢に頸の骨を射られて死ければ、力なく、その日、漸(やうや)う篠原の宿に著き、是より千餘騎の軍兵、落ちて、七百騎にも足らず。龍駕(りうが)、已に番馬の峠を越(こゆ)る所に、數千の敵、峠に待掛けたり。後陣も續かねば、麓(ふもと)の辻堂に下居(おりゐ)て、進退此所に谷(きは)まりつゝ、越後守仲時、自害せらる。是を初として、佐々木隱岐前司淸高父子・高橋〔の〕九郎左衞門・隅田(すだの)源七左衞門を宗(むね)として、一族郎從、都合四百三十二人、同時に腹をぞ切りにける。主上・上皇は、忙然としておはしましけるを、五〔の〕宮の爲に囚はれて、都へ皈(かへ)り上らせ給ふ。楠正成が籠りし千劍破(ちはや)の城の寄手、「六波羅、沒落す」と聞きて、南都を差して落行きけるが、野伏共(ども)に討たれて、大將計(ばかり)ぞ辛じて遁れける。

[やぶちゃん注:湯浅佳子氏の「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、ここは「太平記」の巻第九の巻頭「足利殿御上洛〔の〕事」から、同巻の八項目「越後守仲時以下於番馬(ばんばにおいて)自害事」の拠るとする。

「先帝宮方軍兵」先の後醍醐天皇と護良親王方の軍兵。

「相摸〔の〕入道」元執権北条高時。

「名越尾張守」北条(名越)高家(?~元弘三年四月二十七日(一三三三年六月十日)。ウィキの「北条高家」によれば、名越流北条時家の子。『「尾張守」の官途名は文保元』(一三一七)年三月三十日付の関東御教書(みぎょうしょ:鎌倉幕府の発給文書の一つで、一般政務や裁判などの伝達を行った奉書形式のもの)に『おいて見られ、これ以前の任官であると考えられている』。嘉暦元(一三二六)年には『評定衆の一員となっている』。この四月、謀反鎮圧部隊として足利高氏(後の尊氏)ともに派遣されたが、「太平記」巻第九「山崎攻事付久家繩手合戰事」によれば、『久我畷(京都市伏見区)において、宮方の赤松則村、千種忠顕、結城親光らの軍勢と激突するが、赤松の一族で佐用城主の佐用範家に眉間を射抜かれ、あえなく戦死を遂げた(久我畷の戦い)』とし、「太平記」の描写によるならば、ここにある通り、『その余りに華美に過ぎるいでたちによって大将軍であることを敵に覚られ、集中的に攻撃を受けることとなった』結果ともされる。『没年齢は不明だが』、「太平記」には『気早の若武者』と記されていることから、二十代『前後と推定される』。『そもそも生誕年が分かっていないが、諱の「高」の字は』、『得宗の北条高時から一字拝領したものである』『ことから、元服の時期は高時が得宗の地位にあった』一三一一年から一三三三年の『間と推定できる』。「難太平記」に『よると、今川氏の祖である今川国氏の娘である妻との間に高範という遺児がおり、中先代の乱の際に伯父である今川頼国に保護されて養子となり』、『今川那古野家を名乗ったという。安土桃山時代の武将で歌舞伎の祖とされている名古屋山三郎はその子孫とされており、その末裔は加賀藩に仕えた』とある。

「足利治部大輔高氏」後の室町幕府の創設者で初代将軍となる足利尊氏(嘉元三(一三〇五)~延文三/正平一三(一三五八)年)の初名。源頼朝の同族の名門として鎌倉幕府に重きをなした足利氏の嫡流に生まれた。現在、生地は栃木の足利ではなく、母の実家丹波国何鹿(いかるが)郡八田郷上杉荘(現在の京都府綾部市)とされる。父は貞氏(因みに、貞氏の祖父頼氏は足利泰氏と北条時氏(第三代執権泰時の長男であったが、病気のために執権職を継がずに早世(二十八歳)した)の娘との間に出来た北条氏と足利氏のハイブリッドである。ここは私が補足した)、母は上杉清子。元応元(一三一九)年十月十日に十五歳で従五位下・治部大輔となり、同日、元服、得宗北条高時の偏諱を受けて、「高氏」と名乗ったとされる。十五歳での叙爵は北条氏であれば、得宗家や赤橋家に次ぎ、大仏家・金沢家と同格の待遇であり、北条氏以外の御家人に比べれば、圧倒的に優遇されていたと言える(下線部はウィキの「足利尊氏に拠る)。妻は最後の執権北条守時の妹登子(とうし/なりこ 徳治元(一三〇六)年~正平二〇(一三六五)年:幕府滅亡時は数え二十八歳)。元弘元(一三三一)年に後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒の兵を起こすと、高氏は天皇軍討伐の幕命を受けて上洛、事件が落着して、一旦、鎌倉に帰っている。後、この醍醐軍の再起によって、再び、出兵を命ぜられると、ここにある通り、丹波で、突如、反幕の旗を揚げ、京都の六波羅探題を急襲、殲滅した。その半月後、鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐は京都に帰還して建武新政を開始し、高氏は討幕の殊勲者として天皇の諱である尊治の一字を与えられて「尊氏」と改名、高い官位と莫大な賞賜を得たばかりでなく、鎌倉に嫡子義詮(よしあきら)を留めて、関東制圧の拠点を固めた。後醍醐は尊氏に破格の待遇を与えた半面、その実力と声望を恐れて新政の中枢から遠ざけ、また、北畠顕家に愛児義良親王をつけて奥州に派遣し、関東の足利勢力を牽制しようとした。しかし、尊氏は直ちにこれに対抗、成良親王を鎌倉に下し、弟直義を以って輔佐せしめた。この間、新政の失敗が重なり、武士の輿望が尊氏に集まるにつれ、後醍醐と尊氏の対立が高まり、新政開始から僅か二年後の建武二(一三三五)年七月、北条氏残党の鎌倉侵入(中先代(なかせんだい)の乱:北条高時の遺児時行が御内人諏訪頼重らに擁立されて鎌倉幕府再興のために挙兵した反乱。先代(北条氏)と後代(足利氏)との間にあって、ごく一時的(二十日余り)に鎌倉を支配したことから「中先代」と呼ばれる)を転機として尊氏は新たな幕府創建の志を明らかにし、後醍醐の制止を無視して鎌倉に下り、北条氏残党を掃蕩した。次いで、後醍醐の派遣した新田義貞を破って上洛したものの、奥州軍に敗れて九州に逃れ、再挙東上して後醍醐軍を追いつめ、後醍醐より持明院統の豊仁親王(光明天皇)への譲位という条件で後醍醐と和睦するとともに、建武式目を制定し、建武三(一三三六)年十一月、京都に新しい幕府を開いた。二年後、正式に征夷大将軍となっている。他方、後醍醐は吉野に走り、光明の皇位を否定し、尊氏打倒を諸国に呼びかけ、ここに吉野の南朝と京都の北朝の対立が始まる。尊氏は幕府の運営に当たって、武士に対する支配権と軍事指揮権は自身で握り、裁判その他の政務は弟直義に委ねるという二頭政治を布いたが、この体制は直義を中心に結集する官僚派と、尊氏を頂く高師直ら武将派との対立をひき起こし、やがてはこれが尊氏と直義の対立に発展、さらに南朝が第三勢力として加わったために、直義が死んだ(尊氏による毒殺ともされる)後も、直義党は諸国で根強い反抗を続け、この間、南朝軍や直義党が三度も京都に侵入するなど、争乱は長期化・全国化の様相を呈した。尊氏は三度目の京都侵入軍を駆逐して畿内と周辺地域の鎮定を実現してから、三年後に、京都で病死した。死因は背中の癰(よう:悪性の腫れ物)であったが、晩年の五、六年は、たびたび大病を病み、往年の精彩は失われていた。尊氏は洞察・決断・機敏の才を兼ねた上、その信仰上の師夢窓疎石の評した如く、豪勇・慈悲心・無欲の三徳を備え、人間的魅力に溢れた人物ではあったという。以上は主要部分を「朝日日本歴史人物事典」に拠った。

「父の憂(うれへ)に丁(あたつ)て」「太平記」に拠っているのであるが(「梅松論」も『今度は當將軍、淨妙寺殿』(「淨妙寺殿義觀」は貞氏の戒名)『逝去一兩日の中なり。未だ御佛事の御沙汰にも及ばず、御悲淚にたへかねさせ給ふおりふしに』(引用は所持する一九七五年現代思潮社刊「新撰 日本古典文庫 梅松論」から)とあるのであるが)、高氏の父貞氏は元弘元/元徳三年九月五日(一三三一年十月七日)で、本時制の二年も前で事実に反する。新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『高氏寝返りの原因を高時の難題に求めようとする虚構か』と注されておられる。しかし、どうもこれは当時の素人が読んだとしても、おかしな話で、説得力が、ゼンゼン、ないと私は思う。武将ならば、武将であった父の喪の最中であれ、主君のために戦さに出て、武運を挙げてこそ、なんぼのもんじゃろ! 「しかも我が身、病に罹り、起居(ききょ)快(こゝろよか)らず」だったのが本音だったんだってか? ところがね、山下氏も注しておられるんだが、「梅松論」には『高氏が当時』、『病に苦しめられていた事は見えない』んだよね。そもそもが、こんな感情的な理由で「心中に憤(いきどほり)を含」んだ上、しかも尊王思想があるわけでもなんでもなく、鎌倉幕府なんか裏切っちゃえ、濃ゆい縁戚の北条氏も亡ぼしちゃおっと、なんて考えたっていうのは、よほどイカれたアブナい男としか思えないんだけど! 「太平記」は言うに及ばず(そちらでは高氏が「俺は北条時政の末孫(ばつそん:末流の子孫)だぜ!? 何で、こんな戦さに行かにゃならんの? 訳判らん!」とかホザイテいる)これで納得してる、本「北條九代記」の筆者の気も知れねえな。寧ろ、先見の明があった高氏が、冷徹に諸状況を勘案して鎌倉幕府の滅亡をいち早く予期していたことを語った方がすっきりするぜ! これじゃ、第二次世界大戦前の「国賊尊氏」と大して変わらない佞人並みだんべ!

「足利殿、異義に及ばず」流石にここまで催促されたからには、異議を差し挟むことは最早せず、出兵を受諾した。ところが、と逆接で続く。しかし、「一族・郎從・御臺(みだい)・若君までも、殘らず上洛す」というのは、あり得ません! 円喜! 「起請文」如きで、お目出度過ぎだっつう、の!

「相摸入道に心を入れつゝ」高時様の御不審・御不安を配慮なさって。

「欝胸(うつきよう)」憂鬱。

「舍弟民部大輔直義(なほよし)」足利直義(ただよし/なおよし 徳治元(一三〇六)年~正平七/文和元年二(一三五二)年)は高氏の実弟で一つ違い。本「北條九代記」の注としては、兄の注で事足りるので、ウィキの「足利直義をリンクさせるに留める。悪しからず。

「赤橋殿」既出既注であるが、悲劇の武将(と私は感じる)なれば、再掲しておく。第六代執権北条長時の曾孫に当たり、第十六代、最後の幕府執権となった北条(赤橋)守時(永仁三(一二九五)年~正慶二/元弘三年五月十八日(一三三三年六月三十日)。ウィキの「北条守時」によれば、『父は赤橋流の北条久時。同幕府を滅ぼし、室町幕府初代将軍となった足利尊氏は妹婿(義弟)にあたる』。徳治二(一三〇七)年十月一日、僅か十三歳で『従五位下左近将監に叙任されるなど』、『その待遇は得宗家と変わらず、庶流であるにもかかわらず、赤橋家の家格の高さがうかがえる』(『赤橋流北条氏は、北条氏一門において』、『得宗家に次ぐ高い家格を有し、得宗家の当主以外では赤橋流北条氏の当主だけが』、『元服時に将軍を烏帽子親としてその一字を与えられる特権を許されていた』)。応長元(一三一一)年六月には、『引付衆就任を経ずに』、『評定衆に任命され』ている。この『嘉暦の騒動の後、政変に対する報復を恐れて北条一門に執権のなり手がいない中、引付衆一番頭人にあった守時が』第十六代執権となったが、『実権は、出家していた北条得宗家(元執権)の北条高時(崇鑑)や内管領・長崎高資らに握られていた』。正慶二/元弘三(一三三三)年五月に『姻戚関係にあった御家人筆頭の足利高氏(のちの尊氏)が遠征先の京都で幕府に叛旗を翻し、六波羅探題を攻め落とし、同母妹の登子と甥の千寿王丸(のちの足利義詮)も鎌倉を脱したため、守時の幕府内における立場は悪化し、高時から謹慎を申し付けられ』ている。五月十八日、『一門から裏切り者呼ばわりされるのを払拭するため』、『新田義貞率いる倒幕軍を迎え撃つ先鋒隊として出撃し、鎌倉中心部への交通の要衝・巨福呂坂に拠り』、『新田勢の糸口貞満と激戦を繰り広げて一昼夜の間に』六十五『合も斬りあったとされるが、最期は衆寡敵せず』、『洲崎(現在の神奈川県鎌倉市深沢地域周辺)で自刃した』。『一説に北条高時の思惑に配慮して退却せずに自刃したともいわれる』。『子の益時も父に殉じて自害した』。享年三十九。

「公達は御孫なれば」御子息(千寿王。後の足利義詮(元徳二(一三三〇)年~正平二二/貞治六(一三六七)年:後、室町幕府第二代将軍。当時は未だ満三歳未満)は守時様の御甥子(「孫」はおかしい。或いは、赤橋流北条氏の「末孫(ばっそん)」の意で筆者は使ったものかも知れぬ)であられるので。

「自然の事もあらんには」事態が自然の成り行きとして大きく変ずるようなことがあっても。具体的には、ここでは狭義に未だ北条への謀反のニュアンスではあろう。

「その爲に郎從を殘置かれ、隱し奉るに難かるべからず」その万一の時のためにも、逆に配下の者どもを鎌倉に残しておかれれば、いざという事態が生じた折にも、御子息や御台所を安全にお隠し申し上げることは、決して難しいこととは思われませぬ。事実、高氏の妻登子と幼い千寿王(義詮)は足利家家臣に連れ出され、鎌倉を脱出、新田義貞の軍勢に保護されている

「吉良」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『清和源氏、足利氏の一流』で、現在の『愛知県幡豆(はず)郡吉良町に住んだ』とある。

「上杉」同前の山下氏の注によれば、『藤原高藤(たかふじ)の子孫。足利氏の外戚で、高氏の母もその出身』とある。

「仁木(につき)」同前の山下氏の注によれば、『清和源氏、足利氏の一流。岡崎市仁木町に住んだ』とある。

「細川」同前の山下氏の注によれば、『清和源氏、足利氏の一流。岡崎市細川町に住んだ』とある。

「今川」同前の山下氏の注によれば、『清和源氏、足利氏の一流。三河の守護足利義氏の孫。国氏から今川を号した。西尾市今川町に住んだ』とある。

「高家(かうけ)」同前の山下氏の注によれば、『天武転王の皇子、草壁(くさかべの)皇子の子孫と称する高階(たかしな)氏』とある。

「名越尾張守高家」既注であるが、ここ、直前の「高家」(こうけ)とは関係ないので、注意されたい

「船上(ふなのうへ)」後醍醐の行在所である船上山。

「綸旨」討幕の綸旨(りんじ)。綸旨は蔵人が勅旨を受けて出す奉書形式の文書で、初見は万寿五(一〇二八) 年の後一条天皇のそれであるが、宣旨に代って多く用いられるようになり、特に南北朝時代には頻繁に用いられた。通常は薄墨紙(宿紙(しゅくし)。平安末期に反古 (ほご) 紙を漉き直して作った薄い鼠色の紙で,鎌倉時代以降に綸旨・宣旨 などを書くのに専ら用いられた) が用いられたが、白紙の場合もあった。

「鳥羽の作道(つくりみち)」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『九条朱雀(すじゃく)の四塚(よつづか)から鳥羽までの道。京と西国とを結ぶ重要な道として平安遷都の際し』、『造られらので「作道」と言う。現在は残らない』とある。ウィキの「鳥羽作道(つ」によれば、『平安京の中央部を南北に貫く朱雀大路の入口である羅城門より真南に伸びて鳥羽を経由して淀方面に通じた古代道路』とあり、『平安遷都以前からの道とする説や鳥羽天皇が鳥羽殿が造営した際に築かれたとする説もあるが、平安京建設時に淀川から物資を運搬するために作られた道であると考えられている』。「徒然草」に『おいて、重明親王が元良親王の元日の奏賀の声が太極殿から鳥羽作道まで響いたことを書き残した故事について記されているため、両親王が活躍していた』十『世紀前半には存在していたとされる(ただし、吉田兼好が見たとされる重明親王による元の文章が残っていないために疑問視する意見もある)』。『鳥羽殿造営後は平安京から鳥羽への街道として「鳥羽の西大路」(この時代に平安京の右京は荒廃して朱雀大路は京都市街の西側の道となっていた)と呼ばれた。更に淀付近から淀川水運を利用して東は草津・南は奈良・西は難波方面に出る交通路として用いられたと考えられているが、その後の戦乱で荒廃し、現在では一部が旧大坂街道として残されているものの、多くの地域において経路の跡すら失われている』とある。以上のウィキの叙述に従うなら、この中央南北附近にあったものと思われる(グーグル・マップ・データ)

「西郊(にしのをか)」「太平記」では「西岡」で、新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『賀茂川と桂(かつら)川が合流する羽束師(はつかし)の西南、淀(よど)の西方一帯を指す』とある。この中央附近(グーグル・マップ・データ)。

「八幡」現在の京都府八幡市の北西端であろう。の附近(グーグル・マップ・データ)。

「山崎」既出既注。現在の京都府乙訓郡大山崎町附近(グーグル・マップ・データ)。八幡からは川筋を隔てた北西。

「佐用(さよの)左衞門三郎範家」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『赤松の一族で『赤松系図』によれば為範の息』子とある。

畔(くろ)」田の畦(あぜ)。

「籔(やぶ)」「藪」に同じ。

「眞甲(まつかふ)の端(はづれ)」兜(かぶと)の真正面のすぐ下。

「烈(さ)け」「裂け」。

大將を討(うた)せて」大将を討ち取られてしまって。

「狐河(きつねがは)」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『山崎から八幡へ渡る渡し場。川の流れに変化があるので現在いずれとは定め難い』とある。腑に落ちた。実はネットの「太平記」の複数の現代語訳サイトでは、これを平然と、全くの方向違いである、現在の京都府京田辺市田辺狐川と注しているのだ。古文の誤訳ならまだしも、彼らは地名を考証する手間も惜しむどころか、現在の地図上で少しもそこを確認していないことが、よぅく判った。諸君も騙されぬように気をつけられたい。

「大手の大將」正面の討手の大将名越高家。

「山崎を外(よそ)に見て」合戦の場である山崎の方を遙かに見やったかと思うと、そこを北に大きく迂回して方向違いの丹波路を、と続くのである。

「篠村(しのむら)」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『京都府亀岡市の東部、王子・森・浄法寺の辺』とある。この附近(グーグル・マップ・データ。山下氏の挙げる三つの地名はこの区域に現存する。確認済み)。

「既に攻べし」ターゲットは京の両六波羅探題。

「東山道一方」「太平記」では「東一方」で、新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、本文で後に出る『苦集滅道(くすめじ)(六波羅から鳥部野の南を経て清閑寺(せいかんじ)方面へ通ずる道)方面への道』とある。これは渋谷(しぶたに)街道(渋谷通・渋谷越)とも呼び、東山を越えて洛中と山科を結ぶ京都市内の通りの一つであるから、ここは「ひがしやまみち」と読みたくなるが、筆者はやはり広義の「とうさんだう(とうさんどう)」と読んでいようこの国道一号線の部分ルートに近いであろう(グーグル・マップ・データ)。「苦集滅道」は本来は「くじふめつだう(くじゅうめつどう)」で仏教の根本教理を示す語で「四諦(したい)」を指す。「苦」は生・老・病・死の「苦しみ」を、「集」は苦の原因である迷いの心の「集積」を、「滅」は「苦」・「集」が「滅」した(取り払われた)悟りの境地を、「道」は悟りの境地に達する「道」としての修行を指すが、ここにそれが当てられたのは、ここが沢の水が絶えず、落ち葉なども多くあって、非常に滑り易い困難な通りであったことや、古えの葬送の地であった鳥部野との関連が私には想像される。

「右近馬揚(うこんのばゝ)」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、内裏の『右近衛府の舎人(とねり)が馬術の練習をした所。西大宮大路の北端、北野神社の東南にあった』とあるから、この中央附近である(グーグル・マップ・データ)。

「内野」京都市上京区南西部の平安京大内裏のあった場所。個人ブログ「ミステリアスな日常」のこちらの地図で旧位置を確認されたい。

「主上」光厳天皇。

「上皇」後伏見院と花園院。

「國母」西園寺寧子(ねいし/やすこ 正応五(一二九二)年~正平一二(一三五七)年。後伏見上皇女御。光厳天皇及び後の光明天皇の実母。広義門院。

「女院」藤原実子(永仁五(一二九七)年~延文五/正平一五(一三六〇)年)は花園院の妃。正親町(おおぎまち)実明の娘。祖父の太政大臣洞院公守(とういんきんもり)の養女として花園天皇の後宮に入った。寿子内親王(徽安(きあん)門院)・源性入道親王・直仁親王・儀子内親王を生んだ。宣光門院。

「行幸の御前(みさき)」天皇以下の御皇族方のお出ましの先駆け。

「北の方越後守仲時も、夫妻の別を悲しみながら」六波羅北探題であった北条仲時(既出既注)も、北の方(ここは奥方の意)との別れを悲しみながら。「太平記」には、このシークエンスが詳しく描かれている。

「十四、五町」一キロ五百二十八メートルから一キロ六百三十六メートル。

「野伏(のぶし)」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『農民の武装したゲリラで、敵陣を奇襲したり、敗残の兵などを襲ったりした』とある。

「篠原の宿」同前の山下氏の注によれば、『伊賀健野洲(やす)郡野洲町篠原』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「龍駕(りうが)」「りようが(りょうが)」とも読む。天皇の乗り物を指す。

「番馬の峠」現在は滋賀県米原市番場にあった番場宿の位置と、北条仲時一門が自決した蓮花寺の位置から考えて、航空写真であろう(グーグル・マップ・データ)。

「宗(むね)として」中心に。

「忙然」「茫然」。

「五〔の〕宮」「太平記」もこうなっているが、これだと、後醍醐天皇の皇子で後の後村上天皇、当時の義良(のりよし/のりなが)親王を指すことになってしまうが(増淵氏の現代語訳も義良親王とするのであるが)、この当時、彼は満でも五歳の子どもで如何にもおかしい。調べたところ、新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『「五宮」は誤り』とあり、神田本「太平記」に『傍記する「五辻ノ兵部卿親王宮」が正しい。五辻宮は、亀山天皇の皇子、守良親王。四品(しほん)兵部卿で法名覚静』とある。但し、この守良(「もりよし」と読んでおく)は生没年未詳で一応、講談社「日本人名大辞典」を見ると、鎌倉から南北朝時代の皇族で、亀山天皇の皇子とし、母は三条実任の娘。四品(しほん)・兵部卿。後に出家し、法名は覚浄。五辻宮(いつつじのみや)家(初代)と呼ばれたとあって、「太平記」に見える、この北条仲時ら六波羅勢を全滅させた官軍中の「先帝第五の宮」というのはこの守良親王と見られている、とあるばかりで、どうも注の最後なのに、すっきりしない。]

諸國里人談卷之三 妙義

 

    ○妙義

上野國妙義山は岩山にて、岑々(みねみね)、鋭(するど)に尖(とがり)て嵒々(がんがん)とし、鉾を立たるがごとく、樹木なく、たゞ繪にある唐(もろこし)の山に似たり。東の方、厩橋惣社(まへばしさうじや)の邊(へん)より此山を見れば、峰ちかき所に、眞丸(まんまる)なる穴、あり。月輪(ぐわちりん)を見るがごとし。あなたの雲行(くもゆき)、たゞしく見ゆる也。土人(さとびとの)云〔いはく〕、「百合若大臣(ゆりわかだいじん)の射拔(いぬき)たる箭(や)の跡なり」と云(いへ)。山の麓、安中・松井田より見れば、此穴、なし。是は、巖(いはほ)と巖との行合(ゆきあひ)にて、ふりによつて嵌(やまのあな)のやうに見ゆる也。或(あるいは)云〔いはく〕、人のうへに自(みづから)といふ事は、水柄(みづから)といふ事にて、かく峙(そびへ)たる嶮山(けんさん)の滴(したゝり)にて育(そだ)人は、其心、極(きはめ)て劍(するど)也。又、京・奈良などの寬(ゆるやか)なる山の水にて養(やしなは)れたる人の心は、柔和(にうわ)なり。江戸、大坂などの曠野(くはうや)大河(たいが)の流(ながれ)を飮(のむ)人、心は至(いたつ)て廣しといふは、その理(ことわり)、なきにしもあらず。

 ふとん着て寐たるすがたやひがし山   嵐雪

都の山の悠(ゆう)なるすがたを、よく、いひ課(おほ)せたり。

[やぶちゃん注:これは本文の始まるページに「妙義山」とキャプションする挿絵がある(①)。妙義山は群馬県甘楽郡下仁田町・富岡市・安中市の境界に展開する日本三大奇景の一つとされ、赤城山・榛名山と合わせて上毛三山の一つに数えられる山である。ここ(グーグル・マップ・データ)。複数のピークから成るが、最高峰は表妙義の稜線上にある相馬岳で標高千百三・八メートルである(但し、妙義山系全体の最高峰は裏妙義の谷急山(やきゅうやま)で千百六十二・一メートル)。私は登ったことはないが、車窓から見るその山容を、殊の外、愛するものである。私は、また、妙義というと芥川龍之介の「侏儒の言葉――病牀雜記――」(大正一四(一九二五)年十月発行『文藝春秋』初出。リンク先は私の古い注附き電子テクスト。なお、本作は単行本「侏儒の言葉」には収録されていない「侏儒の言葉」である)の一節(『九』)、『室生犀星、碓氷山上よりつらなる妙義の崔嵬たるを望んで曰、「妙義山と言ふ山は生姜に似てゐるね。」』という絶妙な犀星の評言を思い出すのを常としている(「崔嵬」:「さいくわい(さいかい)」と読み、山の様子が岩や石でごろごろしていて険しいさまを言う語である。また、これは、一九九二年河出書房新社刊の鷺只雄編著「年表作家読本 芥川龍之介」によれば、大正一四(一九二五)年八月二十三日に避暑に赴いていた軽井沢にて堀辰雄と三人して碓氷峠に登った折りのことされる)。

「岑々(みねみね)」「峰々」。

「嵒々(がんがん)」「嵒」は「岩石・大石・ごつごつして堅い岩」の他に、「山の嶮しいさま」を言う語である。

「厩橋惣社(まへばしさうじや)」「厩橋(まへばし)」は「厩橋(まやばし)」とも読む。平凡社「マイペディア」によれば、上野国の中央の利根川左岸の群馬郡の古地名で、無論、元は「うまやばし」であったものが、「う」が脱落して「まやばし」となり、さらに江戸初期に「まへばし」「前橋」と記されるようになって定着し、現在の群馬県前橋市の名に引き継がれたとする。この古称は東山(とうさん)道群馬駅(くるまのえき)近くにあった川(利根川の前身)に架けられていた橋の名に基づくともされる。戦国時代には厩橋城(前橋城)が築かれ、上杉謙信・武田信玄・北条氏康らが関東の支配権を巡って争った際の拠点の一つとなったとある。従がって、この「厩橋惣社」とは、現在の前橋市元総社町にある上野総社神社(こうずけそうじゃじんじゃ)のことである(ここ(グーグル・マップ・データ))。妙義山は西南西二十八キロほどの位置になる。

「眞丸(まんまる)なる穴、あり。月輪(ぐわちりん)を見るがごとし。あなたの雲行(くもゆき)、たゞしく見ゆる也」「山の麓、安中・松井田より見れば、此穴、なし。是は、巖(いはほ)と巖との行合(ゆきあひ)にて、ふりによつて嵌(やまのあな)のやうに見ゆる也」これを読むと、沾涼は穴は実際には存在せず、岩の形状と形状、ハングしたものが距離を隔てて、たまたま重なりあった結果として、ある方向から見ると(「ふりによつて」の「ふり」とは「方位や角度をずらすこと・ずれていること・振(ぶ)れ」の意であろう)、穴が開いているように一見見えるだけであると言っているのであるが、調べてみると、この穴は、実際に、ある「国際山岳ガイド タナハシ TANA-アルパインガイドオフィス」のこのページの「表妙義縦走」の次の「妙義山 星穴岳」を見られたい。そこに『星穴伝説』として『その昔、百合若大臣が今の横川から妙義山に向かって放った矢が、みごとに射抜いたという“射ぬき穴”』及び『そのお供の男がお結びを力いっぱい投げつけて開いたという“むすび穴”』があり、『横川には百合若大臣の足跡と言われている石がある』とし、これは『星穴岳に強弓を射った折り、踏んでいた石が凹んだ』ものと伝え(サイト「バーチャル中山道で、当該の「百合若足跡石」が見られる。なお、後注も参照のこと)、さらに『妙義神社には鉄の弓と矢が奉納されている』とあって、『右がむすび穴、左が射ぬき穴』というキャプションを持った、麓から撮った崖に確かに二箇所の穴の開いた絶壁の写真がある。以下、ロック・クライミングで実際にその穴へ向かう写真が続き、「射ぬき穴」に現着。穴は横幅約二メートル、高さ三メートルほど。その「射ぬき穴」から「むすび穴」へは、「射ぬき穴」南側にある垂壁を四十メートルほど懸垂下降して到達、「むすび穴」の方は横幅十メートル高さ十メートルと、かなりの大きさがあって、『穴から北側を覗くと』、『表妙義の峰々が眺めます』とある。別にサイト日本の奇岩景+」の「穴」でも、より大きな画像で、この巨大な「むすび穴」が見られる(右に人が立っているのでスケールがよく判る)。さても、この挿絵にある丸い穴は想像図に過ぎぬのであろうが、私はこの「むすび穴」こそ、その穴であろうと思う。但し、この穴が前橋から見えるかどうかと言えば、それはちょっと無理だろうかとは思う。

「百合若大臣(ゆりわかだいじん)の射拔(いぬき)たる箭(や)の跡なり」「百合若大臣」は室町後期に形成されたと思しい貴種流離譚の伝説上・語物上の英雄「百合若」のこと。小学館「日本大百科全書」によれば、幸若や説経で「百合若大臣」として呼称されて活躍し、後に浄瑠璃・歌舞伎は勿論、地方の踊り歌にまで脚色された。主たる伝承では、嵯峨天皇の治世(天皇在位:大同四(八〇九)年~弘仁一四(八二三)年)、長谷観音の申し子として生まれた百合若は、蒙古襲来に出陣し、大勝するが、帰途、玄海の孤島で一休みしている間に、家臣の別府兄弟の悪計で置き去りにされてしまう。兄弟は帰国後、百合若の死を告げ、九州の国司となるが、百合若の形見に残した緑丸という鷹が孤島にきて、妻との連絡もつき、孤島に漂着した釣り人の舟によって帰国し、別府兄弟を成敗して、宇佐八幡宮を修造して日本国の将軍となるというトンデモ話である。この伝説は、本来、山口県以南に分布していて、九州を本貫(ほんがん)とする説話が諸芸能によって全国に分布するようになったものと思われている。伝説には諸種あって、例えば、百合若の足跡石という巨石を伝えたり、別称ダイダラボウシの名をもって祀られた百合若塚などもある。何れも、巨人伝説を踏襲するものであり、その他にも、緑丸の遺跡という鷹に関したものも多く、鷹を神使とする民俗の参与が考えられるという。また、壱岐島には「いちじょー」という巫女が、祭りの神楽として語る「百合若説経」と称するものがあり、これは五十センチほどの竹二本を、黒塗りの弓と「ユリ」という曲物(まげもの)を置いて、それを、叩きながら行うもので、病人祈禱の際にも同じことをする。「百合若」以外の話も語ったらしいが、今は他に残っていない。筋も他の百合若伝説とほぼ同様で、桃の中から生まれたり、壱岐島の鬼を退治したり、桃太郎の話との混交はあるが、宇佐八幡と柞原(ゆすはら)八幡の本地(ほんじ)物となっている。百合若説話の成立には、宇佐の海人(あま)部の伝承と八幡信仰との関係で民俗学的に注目されている、とある。なお、百合若とダイダラボッチについては、柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 ダイダラ坊の足跡 四 百合若と八束脛の本文及び私の注も是非、参照されたい

「或(あるいは)云〔いはく〕……」以下、妙義山から離れてしまい、山水の人格形成に与える何だかなの影響論へと語りが致命的にズレていってしまうのは残念である。しっかり妙義山を語れよ、沾涼さん、よ!!!

「人のうへに自(みづから)といふ事は、水柄(みづから)といふ事」個人の「人」の「身の上」の「事」柄を「自(みづから)と」呼称するのは、「みづから」=「水柄(みづから)」=「みづがら」で、水=山水(さんすい)の質によって、その人の人「柄」=性質は決定されるという「事」を指す、と謂いたいのであろう。

「峙(そびへ)たる」「峙」は「そばだつ」と訓じ、これは「聳つ」とも書き(「聳」は「そびえる」とも訓ずる)、元は「稜(そば)立つ」の意であて、山や峰が、角張って一際高く目立って嶮(けわ)しく屹立する、聳(そび)えるの意である。

「嶮山(けんさん)の滴(したゝり)」峻嶮なる山岳の齎すところの水。

「ふとん着て寐たるすがたやひがし山」「蕉門十哲」の一人である服部嵐雪(承応三(一六五四)年~宝永四(一七〇七)年:江戸生まれ。名は治助(はるすけ)。武士から俳諧の宗匠となり、穏健な俳風で、江戸俳壇を其角と二分した)の代表的な句の一つで、京風物句としも人口に膾炙している一句である。句集「枕屛風」所収。

   東山晩望

 蒲團着て寐たる姿や東山

堀切実氏は(一九八九年岩波文庫刊「蕉門名家句選(上)」)、『おそらく元禄七』(一六九四)年冬、師芭蕉の『死の直後に京へ出た時の見聞による吟であろう』とされる。――ほう。なるほど。とすれば、この寝姿には芭蕉涅槃図の影があるのかも知れぬ――

「いひ課(おほ)せたり」「おほせる(おおせる)」は「果せる」或いは「遂せる」が一般的。「言いおおせる」で「美事に句として謂い遂せている」「すっかり表現し尽くしている」の意。]

2018/06/19

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 金線魚 糸ヨリ鯛 (イトヨリダイ)

 

金線魚 此名出閩書

 糸ヨリ鯛

 

Kiitoyoridai

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いた。これはもう、尾鰭上端の糸状に伸びた特異点と、ややくすんでいるものの、体側表面の黄色筋状の模様から(「金線魚」という異名は実は尾の旒状部分に由来するのではなく、恐らくは泳いでいる際、この縦縞模様が金糸を織ったように美しく見えるからである)、

スズキ目スズキ亜目イトヨリダイ科イトヨリダイ属イトヨリダイ Nemipterus virgatus

に同定して間違いない。とても美しい魚である。是非、WEB魚図鑑」の「イトヨリダイ」の画像群を見られたい。

「此名出閩書」は『此の名、「閩書(びんしよ)」に出づ』で、「閩書」とは明の何喬遠(かきょうえん)撰になる福建省の地誌「閩書南産志」のこと。]

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 アカサギ (アカイサキ)

 

アカサギ

 

Akazagi

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いた。これは正直、同定したくなくなるほど、丹洲にしては絵が拙い。全体の形状と「アカサギ」という名称から、何となく、何とはなしにイサキ(スズキ目スズキ亜目イサキ科コショウダイ亜科イサキ属イサキ Parapristipoma trilineatum)っぽいものが臭ってくること、背鰭の棘条部の先端を有意に黒くしようとした跡が窺えることなどが、せめてもの特徴か。「真っ赤なイサキはいねえしなぁ」と思いながら調べてみると、いや! いるんだよ! 「アカイサキ」が!

スズキ目スズキ亜目ハタ科ハナダイ亜科アカイサキ属アカイサキ Caprodon schlegelii

だ。しかも、「ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑」の「アカイサキ」を見ると、神奈川県三崎での呼び名に「アカイサギ」(「赤伊佐磯」で「伊佐磯」は「イサキ」のことである)があると書かれている。さらに「アカイッサキ」「アカイセギ」もあるとある。こうなると、これ、「アカサギ」への転訛は、もう半歩だ! WEB魚図鑑」の「アカイサキ」を見ると、『胸鰭が長い。尾鰭は湾入しない。雄の体側には黄色斑が多数あ』り、『眼の周辺に黄色線がある』が、『雌は赤みを帯びる。雄の背鰭棘部には黒色斑が』一『つある。雌には数個の黒色斑が背鰭から体側の背部にかけてある』とある。本図の胸鰭は長い。尾鰭の湾入は「WEB魚図鑑」の多数の画像を見ると、本図と同じものはある。本図がアカイサキのならば全体の赤い色は納得出来る(例えば写真と図を比較されたい)。また、解説にある通り、同種は背鰭の棘条部の先の方の間膜が有意に黒くなっている個体が見受けられ、これは本図の微かな特徴と類似しているように私には思われるのである。]

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十三年 未完の小説、焼かぬ自像

 

     未完の小説、焼かぬ自像

 

 二月三月合併号を出した『ホトトギス』は、創刊以来最初の臨時増刊を発行して、これを補うことになったので、居士はそのために小説「我が病」を草することを思立った。「曼珠沙華」以来三年目の試みである。題名の示す通り、日清戦争従軍を背景にした事実に、多少の小説的色彩を点じたもので、居士の自伝的な意味をなす上からいっても、極めて珍重すべきものであるが、惜むらくは金州の舎営までで筆を投じてある。居士はこの小説において、はじめて写生文の筆法によって事実を描こうとした。「我が病」の本題たる病がまだ顔を出していない位だから、果してどれだけの長さになる予定だったかわからぬけれども、もしこれが完成していたら、恐らく居士の作中第一の長篇になったであろう。居士がこれまでに書いた小説とは、全くその世界を異にするものである。

 『ホトトギス』の増刊は四月上旬に出る予定であったが、都合で六月に延期された。『日本』に出た「週刊記事」の中に

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が四字下げ。]

 

  三月二十九日(「我病」を草す)

ともし火のもとに長ぶみ書き居れば鶯鳴きぬ夜や明けぬらん

 

とあるから、この時分執筆にかかっていたものであろう。『ホトトギス』の写生文なるものは、従来短篇に限られていたが、寒川鼠骨(さむかわそこつ)氏の「新囚人」が出るに及んで、漸く長きに向わんとする勢を示した。『ホトトギス』の増刊が殆ど三篇の文章によって埋められている一事を見ても、慥にこの傾向を卜(ぼく)することが出来る。但(ただし)「我が病」はこの号に間に合わなかったため、未完のまま遺(のこ)ることになってしまった。

[やぶちゃん注:「寒川鼠骨」(明治八(一八七五)年~昭和二九(一九五四)年)は正岡子規門下の俳人(子規より八つ年下で同郷)。ウィキの「寒川鼠骨」より引く。『病床の子規に侍り、遺族を見守り、遺墨・遺構の保存に尽くした』。『元伊予松山藩士寒川朝陽(ともあき)』『の三男として、現・松山市三番町に生まれた。本名陽光(あきみつ)。号の鼠骨は粗忽に通じるという』明治二〇(一八八八)年、番町小学校から県立松山中学校に入』り、六年後、十八で『三高の前身京都第三高等中学校へ進み、河東碧梧桐・高浜虚子と同じ下宿に住んだ。碧梧桐が二つ、虚子が一つ年上で』、三『人して郷土松山の先輩正岡子規を敬い慕い、日本新聞の俳句欄へ投稿し、選者の子規の選を受けた』。三高は明治二七(一八九五)年に中退、『京都日の出新聞の記者になった。子規を慕って上京したり』、『大阪朝日新聞に勤めたりしたが』明治三一(一八九八)年、『陸羯南社長の了承と、子規の勧めで日本新聞記者になった。その時の『最も少ない報酬で最も多く最も真面目に働くのがエライ人なんだ』という子規の教えを座右の銘とした』。翌年、『田中正造を取材で知り、彼の足尾鉱毒事件への取り組みを紙面から支援した』。この明治三三(一九〇〇)年二十五歳の時、『日本新聞の社説が第』二『次山県内閣への官吏誣告罪に問われ、雑誌の署名人だったために、』十五『日間収監された』が、その体験記がここに出る「新囚人」である(翌年、出版。下線やぶちゃん)。明治三五(一九〇二)年九月、『子規の臨終を看取り、その葬儀の執行にも参画した。翌年から俳句の入門書を多く出版した。日本新聞を退いた』。大正二(一九一三)年、『山谷徳治郎の週刊紙『医海時報』の編集者にな』り、翌年には『政教社の客員となり、『日本及日本人』誌を編集した。日本新聞の俳句選者にもなった』。大正七(一九一八)年には本「子規居士」の作者『柴田宵曲を門弟とした。この年』、『ホトトギス社が始めた宝井其角の五元集の輪講会の座長となり、下谷区上根岸』三十八『(現・台東区根岸)の自宅を主会場にした。柴田に筆記・編集させ』、「其角研究」の題名で『ホトトギス』に連載した(大正一〇(一九二一)年終了)。大正一三(一九二四)年、『子規の命日の毎月』十九『日に『子規庵歌会』を催すことに定め、その記事を『日本及日本人』誌に載せ』ている。『前々からの子規庵を保存し、子規の遺業を伝える案件が』、大正一二(一九二三)年九月の『関東大震災後に具体化し、敷地買収や庵の修改築作業』を経て、昭和二(一九二七)年に『落成した。その資金』を得る目的で『アルスから出版した』のが「子規全集」全十五巻であった。『碧梧桐・虚子・香取秀真が編集委員となっているが、実務は鼠骨と宵曲と』が担当している。翌昭和三年には『子規庵の隣に移り住ん』でいる。昭和二〇(一九四五)年(七十歳)、四月の『空襲に自宅も子規庵も焼かれたが、鼠骨が提案し設計して建てた土蔵に保管した子規の遺品・稿本類は守られ』、戦後も十『月には歌会を再開した』翌年の九月に『焼跡に仮宅が建つまで』、子規庵の『斜め向かいの書道博物館に仮寓し』、毎晩、『土蔵を盗難から守った』。『生来虚弱で、直腸狭窄、腎盂炎、蛋白尿、神経痛を病んでいた』が、昭和二六(一九五一)年から『歩行困難となり、子規の行事には臥床のまま』、『参加するようになった』。昭和二九(一九五四)年、九月の『子規忌を気にしながら』、丁度、一月前の八月十八日、『肺炎のために没した』。戒名は鼠骨庵法身無相居士である。]

 

 「我が病」は出来上らなかったが、この時分の居士は、そう病苦が甚しかったわけではない。四月中には粘土を捏ねて自像の首を造り、その首の置物台を造り、湯ざましようの器を造ったりしている。土は秀真(ほつま)氏が今戸から壺に入れて齎(もたら)したものであった。前後三日を費して自像の首を造り上げた居士は、これを缶(かん)に入れて秀真氏の許まで届けさせた。居士の考は窯で焼いてもらうつもりであったが、中が空虚になっていないから焼けにくい。首は焼かずに石膏に取ることになった。この粘土細工に関し、居士は三回にわたって歌の手紙を秀真氏に寄せている。粘土は骨が折れるせいか、画ほど永続(ながつづき)はしなかったけれども、居士はこういうものの上に直に興味を発見し得る人であった。

[やぶちゃん注:残念ながら、この子規遺作の石膏頭部像は現存しない模様であるが、「国文学研究資料館」の「近代書誌・近代画像データベース」内の「山梨大学附属図書館・近代文学文庫所蔵」の正岡子規「竹の里歌全集」で自作土像(秀真へ)六首が読める。]

 

 病室の前に金網の大鳥籠を据えたのも、やはり四月中の出来事である。或人の庭に捨ててあったのを、浅井黙語(忠)氏の周旋で借りることになったので、亜鉛屋根のついた、円錐形の籠の中には、先ずキンバラの雄一羽、ジャガタラ雀の雌一羽、鶸(ひわ)の雄一羽が放たれた。居士はこの籠の中に五尺ばかりの李(すもも)の木を植え、来年の春花が咲いた時分に、花の中を小鳥の飛ぶ様を見るつもりであったが、小鳥は木の葉を片端からむしってしまうので、希望は全く外れてしまった。この大鳥籠の歴史――最後にカナリヤが矮雞(ちゃぼ)に変り、矮雞の声もまた病牀の居士を悩ますようになって、遂に庭隅に移されるまでの変遷は、「病牀苦語」というものに委しく述べてあるが、この大鳥籠の出現はガラス障子に次ぐ出来事であり、居士の眼を集しませることも少くなかったに相違ない。

[やぶちゃん注:「浅井黙語(忠)」洋画家。既出既注

「キンバラ」「キンパラ」の宵曲の誤り。「病牀苦語」では子規自身ちゃんと「キンパラ」と書いている。スズメ目カエデチョウ科キンパラ(金腹)属キンパラ Lonchura atricapilla。南アジア及び東南アジアに分布する留鳥で、本邦には棲息しなかったが、明治四三(一九一〇)年頃に、東京都で野生化した群れが見つかって以降、各地で見つかっている外来種である。画像はウィキの「キンパラ」を。

「ジャガタラ雀」スズメ目カエデチョウ科キンパラ属シマキンパラ(島金腹)Lonchura punctulata。インド・スリランカ・東南アジア・中国南部に分布するが、沖縄・神奈川で侵入が確認されている。画像はウィキの「シマキンパラ」を。

「鶸(ひわ)」スズメ目スズメ亜目スズメ小目スズメ上科アトリ科ヒワ亜科 Carduelinae に属する一部の種群の総称。「ヒワ」という種はいないが、知られた種としてはヒワ亜科カワラヒワ属マヒワ Carduelis spinus がいる(マヒワの画像ならはウィキの「マヒワ」で)。

「カナリヤ」スズメ目アトリ科カナリア属カナリア Serinus canaria

「矮雞(ちゃぼ)」言わずもがなであるが、ニワトリ(キジ目キジ科キジ亜科ヤケイ属セキショクヤケイ亜種ニワトリ Gallus gallus domesticus)の品種。画像はウィキの「チャボ(鶏)」を。

「病牀苦語」後の『ホトトギス』第五巻第八号(明治三五(一九〇二)年五月二十日発行)に掲載。「青空文庫」のこちらで、新字新仮名であるが、読める。]

 

 四月二十九日、好晴に乗じて本所茅場町に左千夫氏を訪問することになった。左千夫氏が居士の許に来はじめたのはこの年一月の歌会からである。「人々に答ふ」の文中で「あまりの事に答へんすべも知らず」といい、「明治の世に生れてかかる言をいはるゝやうではチト賴もしからぬなり。今少し奮發して勉強せられては如何」と手厳しくやっつけられた春園は、二年後に至って居士の教を乞う人となったのであった。この日先ず到った赤木格堂氏が一足先に行くこととし、居士は秀真氏と共に車をつらねて出かけた。左千夫氏不在のため、三人で亀戸天神に詣で、再び茅場へ引返した。根岸へ帰ったのは夜半過だったらしい。この日の記事が「亀戸まで」「車上の春光」の二篇になっている。

[やぶちゃん注:「左千夫」言わずもがな、かの歌人で名品「野菊の墓」等の小説家としても知られる伊藤左千夫(元治元(一八六四)年~大正二(一九一三)年:子規より三つ年上)である。出生時は幸次郎、養子縁組した川島家から復籍して幸治郎。ここに出る「春園」は左千夫の号の一つ。農家で小学校教員の四男として上総国武射(むさ)郡殿台(とのだい)村(現在の千葉県成東町)に生まれた。明治一四(一八八一)年に政治家を志して上京、明治法律学校(明治大学の前身)に入学するも、眼病を病んで中退し、帰郷。明治十八年、再び上京して牛乳店で働いた後、明治二十二年に独立し、本所区茅場町(現在の墨田区江東橋)に牛乳搾取業を営んだ。三十歳の頃から、同業の伊藤並根に茶の湯と和歌を学び、「春園」と号した。明治三一(一八九八)年の「非新自讃歌論」などで小出粲(にいでつばら)・正岡子規と論争し、この明治三三(一九〇〇)年の『日本』に短歌三首が入選したのを機に子規に入門、師事した。根岸短歌会・万葉論講会などに加わり、写実的手法を学び、子規没後、根岸短歌会機関誌『馬酔木』を明治三十六年に創刊、明治四十一年一月に同誌を廃刊すると、同年十月に創刊された『アララギ』に協力し、翌年には自宅をその発行所とし、編集兼発行者として中心的立場に立った。『アララギ』の基盤を作り、後進の育成に当たった功績は大きい。他に写生文二十四篇・小説三十篇を残している(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「人々に答ふ」国立国会図書館デジタルコレクションの上と同じ画像のこちらで視認出来る。新字であるが、電子化したものなら、「青空文庫」のこちらで読める。「あまりの事に答へんすべも知らず」「明治の世に生れてかかる言をいはるゝやうではチト賴もしからぬなり。今少し奮發して勉強せられては如何」という激烈な一撃は「其十二」の中の一節。

「赤木格堂」(あかきかくどう 明治一二(一八七九)年~昭和二三(一九四八)年)はジャーナリスト・俳人で衆議院議員。ウィキの「赤木格堂によれば、『本名は亀一』(かめいち)。『岡山県児島郡小串村(現在の岡山市南区)出身』で、『東京専門学校(現在の早稲田大学)に在学中、正岡子規に俳句を師事し、『日本附録週報』の代選を任せられた』。明治三五(一九〇二)年に『卒業した後は、『九州日報』の主筆を務め』、『その後、フランスに』三『年間留学し、植民政策学を専攻した』。『さらに雑誌『青年日本』を経営し、『国民新聞』『大阪朝日新聞』に寄稿し』、大正六(一九一七)年、『衆議院議員補欠選挙に立候補し、当選を果たした』。『その後、『山陽新報』主筆に就任し』、『小串村長も務めた』とある。

「亀戸まで」「国文学研究資料館」の「近代書誌・近代画像データベース」内の「山梨大学附属図書館・近代文学文庫所蔵」の正岡子規「竹の里歌全集」ので読める。

「車上の春光」「青空文庫」ので読める(但し、新字新仮名)。]

北條九代記 卷第十二 先帝船上皇居軍 付 赤松京都に寄す

 

      ○先帝船上皇居軍 付 赤松京都に寄す

正慶二年閏二月、隱岐判官淸高、近國の地頭・御家人等を催し、宮門を警固し、先帝後醍醐を嚴しく守護し奉る。同下旬、佐々木富士名(ふじなの)判官義高、竊(ひそか)に心を寄せ奉り、「楠正成、伊東〔の〕大和二郎・赤松圓心・土居・得能、皆、御味方に參り候。聖運(せいうん)の啓(ひら)けん事、近きにあり。君、願(ねがは)くは配所を忍び出で給ひて、千波湊(ちなみみなと)より御舟に召され、出雲・伯耆の方へ赴き給ひ、 然るべき武士を御賴(おんたのみ)あるべし。義綱も軈(やが)て御味方に參り候はん」と申す。是より、富士名、竊に鹽冶(えんやの)判官高貞・名和〔の〕太郎長年を語(かたら)ひ、 朝山(あさやまの)八郎が禁門の當番の夜(よ)、是に心を合せて忠顯(たゞあきの)卿に申入れ奉りければ、君、卽ち、忍びて配所を出(いで)給ひ、 千波湊より御舟に召して、伯老國名和湊に著きたまふ。六條少將忠顯一人、名和又太郎長年が館(たち)に行(ゆき)て、頼思召(たのみおぼしめ)す由を宣へば、一族二十餘人一同に御請(おう)け申して、御迎(おんむかひ)に參り、船上山(ふなのうへさん)へ入れ奉り、兵粮五千餘石を用意して、その勢、百五十騎にて、船上(ふなのうへ)の皇居を守護し參(まゐら)せけり。隱岐〔の〕判官淸高・佐々木彈正左衞門尉、三千餘騎にて押寄せ、一戰に利を失ひ、佐々木は射殺され、淸高は小舟に乘りて風に任せて、越前の敦賀に吹寄(ふきよ)せせられ、六波羅沒落の時に、江州番馬の辻堂にて自害したり。その後、鹽冶・富士名、一千餘騎、淺山二郎八百餘騎、金持(かなぢ)の一黨三百餘騎、大山(だいせん)の衆徒七百餘騎、其外、出雲・伯耆・因幡・石見・安藝・美作以下、四國・九州の軍兵、殘(のこり)なく馳付(はせつ)けけり。六渡羅には、是を聞きて、「さらば先(まづ)、赤松を退治せよ」とて、佐々木判官時信・常陸(ひたちの)前司時知(ときとも)に五千餘騎を差副(さしそ)へて、摩耶(まや)の城へ向けらる。求塚(もとめづか)・八幡林(やはたばやし)より押寄せけるが、城兵五百餘人、打て出でたるに追崩(おひくづ)され、僅(わづか)に、千騎計(ばかり)に討ちなされて、京都にぞ引返しける。六波羅より、又、一萬餘騎にて討手を向けらる。赤松城を出でて、久々知(くゝち)・酒部(さかべ)に出向ふ所に、尼崎より、舟を上りける、阿波の小笠原が三千餘騎と、赤松、僅に五十騎にて戰ひて、父子六騎に打(うち)なされ、小屋野(こやの)の宿に控へたる味方三千餘騎が中に馳入り、虎口の死をぞ遁(のが)れける。六波羅勢は瀨河(せがは)の宿に陣を取る。赤松、三千餘騎が中より子息筑前守貞範以下、只、七騎にて南の山より、散々に射る。寄手、多く射落されて色めく所を、赤松が軍兵七百餘騎、掛出でて戰ふに、寄手、崩れて、大半、討たれ、僅に京都に引返す。赤松、追ひ縋(すが)うて攻上(せめのぼ)る。三月十二日、淀・赤井・山崎邊、三十餘ヶ所に火を懸けたり。兩六波羅、驚きて、隅田・高橋に左京の武士二萬餘騎を相副へ、西朱雀に向けらる。兩陣、桂川を隔てて、矢軍(やいくさ)に時を移す。赤松が子息帥律師則祐以下、只、五騎にて桂川を渡しければ、父圓心を初(はじめ)て、三千餘騎、打渡す。六波羅、勢氣を吞まれて、引立ちしかば、赤松が勢、追掛り、大宮・猪熊・七條邊に火を掛けたり。主上持明院殿は、六波羅へ臨幸なる。兩六波羅は七條河原に打出でて、敵を相待ち、隅田・高橋に三千餘騎を副へて、八條口へ向けらる。河野・陶山(すやま)は二千餘騎にて蓮花王院へ遣(つかは)す。赤松、前後の敵に揉合(もみあ)うて、備(そなへ)亂れて打負け、僅の勢に成りて、山崎へ引返す。同十五日、六波羅勢、五千餘騎にて山崎に差向ふ。赤松、三千餘騎を二手に分けて、善峯・岩倉に出向うて、散々に射る。向明神(むかうのみやうじん)の邊にて、赤松が軍勢百騎、二百騎前後より蒐出(かけい)でしに、京勢、捨鞭(すてむち)を打ちて、引返す。同四月三日、赤松、又、京都に押寄せしかども、一族郎從八百餘騎、討たれて、又、山崎へ引返す。

[やぶちゃん注:標題の「先帝船上皇居軍」は「せんてい ふなのうへくわうきよ いくさ」で「後醍醐天皇、船上山行在所に於ける戦さ」の意。清湯浅佳子氏の「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、ここは「太平記」の巻第七の六項目「先帝船上(ふなのうへへ)臨幸〔の〕事」から巻第八の六項目「四月三日合戰事 付 妻鹿(めが)孫三郎勇力事」に拠るとある。

「正慶二年」元弘三年。一三三三年。

「隱岐判官淸高」隠岐守護佐々木清高(永仁三(一二九五)年~元弘三/正慶二年五月九日(一三三三年六月二十日))。ウィキの「佐々木清高」によれば、『宇多源氏流佐々木氏の一族で父は佐々木宗清』。『治承・寿永の乱で源氏方として活躍した佐々木秀義の』五『男義清の末裔で、義清-泰清-時清-宗清-清高と至る。この家系は代々隠岐守護を相伝(世襲)する家柄であった。船上山の戦いで清高と敵対した塩冶高貞』(後注参照)『は、時清の兄弟である塩冶頼泰の孫であり、清高とは又従兄弟(はとこ)の関係にあたる。また、後の南北朝時代において婆沙羅大名として著名な佐々木道誉(高氏)をはじめとする京極氏一族や、室町時代に近江守護として君臨した六角氏一族は義清の兄定綱の末裔で清高と同族(遠戚関係)である』。『鎌倉幕府第』十四『代執権の北条高時が北条氏得宗家当主であった期間』(一三一一年~一三三三年)内の前半には『元服し、その高時と烏帽子親子関係を結んで偏諱(「高」の字)を受けた』『とみられている』。『父から受け継いで』、『隠岐守護、更には引付衆となり』、正中二(一三二五)年十二月には『幕府の使者として入京した』。元弘二/正慶元(一三三二)年、『鎌倉幕府転覆計画を企てた後醍醐天皇が捕らえられ』、『隠岐国に流されると(元弘の変)、同国守護をしていた清高』『は隠岐へ下向し』、『領内の黒木御所に天皇一行を幽閉した。当時は西日本を中心に悪党と呼ばれる武士達が反幕府活動を続けていたため、清高も有志による後醍醐天皇奪還を警戒し、御所を厳しく監視』したが、この時、『天皇一行は突如として黒木御所から姿を消し、隠岐を脱出してしまった』。『天皇は伯耆の武士名和長年一族に迎えられ、伯耆船上山にて挙兵』、『これに対し、焦った清高は隠岐の手勢を率いて船上山に攻め寄せ』、『長年らと戦うが、寄せ手の将佐々木昌綱が流れ矢を受け戦死し、同族(はとこ)で出雲守護の塩冶高貞が寝返って天皇方につくなど』、『悪条件が重なり、結局』、『攻めきれずに敗退してしまう(船上山の戦い)』。『その後、敗戦の責任から隠岐を追われ』、『海路で北国に逃れ』、『六波羅探題北条仲時の軍に合流し』、同年五月九日、『近江番場の蓮華寺にて仲時らと共に自害した』。享年三十九。『子の泰高も父と共に自害したと伝えられる』。

「佐々木富士名(ふじなの)判官義高」富士名雅清(永仁四(一二九六)年~建武三(一三三六)年)は若狭守護。ウィキの「富士名雅清」によれば、「太平記」では富士名義綱・富士名判官の古称で知られる。『富士名氏は佐々木氏から出た湯氏の支流で、出雲八束郡布志名(富士名)の地頭』であった。『後醍醐天皇が隠岐へ流刑とな』ると、『雅清は、北条氏の命により』、『後醍醐の警固役の一人となったが』、『翻意し、後醍醐の隠岐脱出を計画』(「太平記」巻第七「先帝船上臨幸事」)、『脱出に向けて雅清は、同族で出雲守護塩冶高貞の助力を請おうと出雲へ帰還するが、高貞により幽閉された』、しかし、翌年のこの時、『雅清の帰島を待たず』、『隠岐を脱出した後醍醐は、名和長年に迎えられ』、『船上山に築いた行宮へ入り、追跡してきた隠岐守護佐々木清高と交戦する(船上山の戦い)。この情勢を知り、腹を括った高貞は雅清と共に後醍醐の元へ馳せ参じた。その後も、後醍醐に随行し』、『上洛するなど』、『宮方として倒幕に貢献し』、『建武政権では若狭守護に補任された』。『南北朝の争乱が起こると、南朝側として足利尊氏ら北朝方と各地で戦い』、建武三(一三三六)年正月、『京都で二条師基軍の武将として北朝方と戦うも戦死した』。

「千波湊(ちなみみなと)」「ちぶりみなと」が正しい。隠岐諸島の南端にある知夫里島の、恐らくは、南側の現在の知夫漁港或いはその東の姫の浦港ではないかと推定するが、実際には後醍醐の行在所(配流場所)は島後の現在の西郷町池田にあった国分寺内であり、これは「太平記」による創作ではないかと思われる。

「鹽冶(えんやの)判官高貞」(?~興国二/暦応四(一三四一)年)は出雲守護。ウィキの「塩冶高貞」によれば、前の「隱岐判官淸高」の引用で見た通り、当初は幕府方に与しようとしたが、結局、時局を計って、『後醍醐天皇の挙兵に呼応し、鎌倉幕府との戦いに貢献する。建武の新政ののちは、足利尊氏に味方し、南朝方制圧に力を奮ったが』暦応四年三月、『京都を出奔』し、それを謀反とされて『北朝に追討され、同年翌月』、『出雲国で自害した』。『生誕年は不明だが、鎌倉幕府第』十四『代執権の北条高時が北条氏得宗家当主であった期間』(一三一一年~一三三三年)『内に元服』『して、高時と烏帽子親子関係を結んで』、『その偏諱(「高」の字)を受けた』『人物とみられる』。鎌倉幕府滅亡後、建武二(一三三五)年に起こった『中先代の乱後、関東で自立した足利尊氏を討つべく東国に向かう新田義貞が率いる軍に佐々木道誉と参陣』したが、『箱根竹ノ下の戦いでは道誉と共に新田軍から足利方に寝返り、室町幕府においては出雲国と隠岐国の守護となった』。しかし、『高師直の讒言』により、『謀反の疑いをかけられたため』、『ひそかに京都を出奔し』、『領国の出雲に向かうが、山名時氏らの追討を受けて、妻子らは播磨国蔭山』『で自害した。高貞は』辛うじて『出雲に帰りついたものの、家臣らに妻子の自害した旨を聞』いて、『出雲国宍道郷の佐々布山で自害』『したという。これにより、高貞の子弟殆ど』は『共に討ち取られるか』、『没落した』が、『息子の塩冶冬貞』『(ふゆさだ)が家督および出雲守護を引き継いだとされ』、『冬貞は足利直冬・山名時氏ら南朝勢力と結び(「冬」の字も直冬から偏諱を受けたものとみられる)、一時的に塩冶郷を支配する立場にあったが、叔父(高貞の弟)の時綱(ときつな)と家督を巡』っての抗争をしてから後は、『時綱およびその子孫が新たな惣領となった』。『この家系を後塩冶氏と呼ぶことがあり』、『将軍の近習として存続した』。なお、『出雲守護となった近江佐々木氏流の尼子経久は、時綱の子孫の貞慶(さだよし)を攻めて追放し、経久の三男興久に塩冶氏を継がせ』ている。因みに、「塩冶判官」というと、誰もが「仮名手本忠臣蔵」を思い出すが、あれは、赤穂事件を描きつつ、筋書きを「太平記」の世界に仮託することで、公儀の咎めを回避しているため、『播州赤穂藩主・浅野長矩は「塩谷判官」』『として(播州の名産品「赤穂の塩」からの連想)』あるのであり(『幕府高家肝煎吉良義央を「高師直」としたのは「高家」からの連想である)、『物語の発端が赤穂事件の実情とは異なる色恋沙汰となっているのも、塩冶判官の妻・顔世御前に対する師直の横恋慕という伝承を』、『そのまま』、『物語に取り入れているからである』とある。

「名和〔の〕太郎長年」(?~延元元/建武三(一三三六)年)初名は長高。伯耆守。父行高の代までは伯耆国長田に居住して長田氏を名乗っていたが、長高の時、同国汗入(あせり)郡名和(鳥取県名和町)に移って名和氏を称した。良港名和湊を領有し、日本海沿岸の商業活動によって富を蓄えた。この時、後醍醐天皇が隠岐を脱出して伯耆に上陸すると、長高は天皇を迎えて船上山に布陣し、佐々木清高の率いる幕府軍の攻撃を退けた。この功により、天皇から「年」の字を与えられて、長年と改名、同時に家紋をも賜ったと伝えられている。同年五月二十三日、天皇が船上山を出発して京都に向かうと、長年も天皇軍に随従した。建武政権下では、記録所・雑訴決断所の寄人などに任命され、天皇の身辺警護に当たるなど栄耀を極め、世人はその栄華を「三木一草」(後醍醐の忠臣四人の称)と称して羨んでいる。子義高も戦功により肥後国八代荘を与えられた。建武元(一三三四)年十月、天皇の命令により、護良親王を清涼殿で捕縛し、鎌倉へと送った。建武の乱では、一旦、足利尊氏軍を破って九州へと敗走させたが、勢力を盛り返した尊氏軍が入京するや、天皇を奉じて叡山に避難した。建武三/延元元(一三三六)年六月三十日、京中へ打って出たものの、大宮通り一条の合戦(「梅松論」では「三条猪熊の合戦」とする)で戦死を遂げた(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「朝山(あさやまの)八郎」不詳。この名は「太平記」にも出ないようである。そもそも、後醍醐の隠岐脱出自体には、前に述べた通り、「太平記」でも義綱は関与出来なかった。以下に、後醍醐に与して馳せ参じた「淺山二郎」の同族か。

「六條少將忠顯」既出既注

「船上山(ふなのうへさん)」現行では「せんじょうさん」と読み、鳥取県東伯郡琴浦町にある標高六百八十七メートルの山。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「佐々木彈正左衞門尉」「昌綱」とも。諸本、不詳とする。佐々木清高の一族であろう。

「江州番馬の辻堂」既出既注。現在の滋賀県米原市番場の蓮花寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「淺山二郎」新潮日本古典集成「太平記 一」の山下宏明氏の注によれば、『大伴氏の子孫で、現在の島根県出雲市朝山町に住んだ武士』とする。

「金持(かなぢ)」前掲書に、『島根県日野郡日野町金持(かもち)に住んだ武士』とある。

「大山(だいせん)の衆徒」鳥取県西伯郡大山町伯耆大山中腹にある天台宗角磐山(かくんばんざん)大山寺(だいせんじ)の僧兵。当時は修験道場として知られ、ここの『座主は比叡山から派遣され、ここでの任期を勤めた後、比叡山に戻って昇格するという、僧侶のキャリア形成の場』であった、とウィキの「大山寺」にある。

「佐々木判官時信」六角(佐々木)時信(徳治元(一三〇六)年~興国七/貞和二(一三四六)年)は近江国守護。佐々木氏嫡流六角氏第三代当主。ウィキの「六角時信」によれば、『佐々木頼綱(六角頼綱)の子として誕生』、『廃嫡された長兄・頼明や早世した他の兄達に代わって』、『嫡子となり』、延慶三(一三一一)年の父の死後、『家督を継ぎ、近江守護となった』。正和三(一三一四)年)に元服して『時信と名乗』る。『朝廷との関わりは深く』、元徳二(一三三〇)年の『後醍醐天皇の石清水行幸の際には橋渡を務めているが』、元弘元(一三三一)年の「元弘の乱」では『鎌倉幕府方につき』、同年八月の『近江唐崎にて後醍醐天皇に応じた延暦寺衆徒と戦い敗れる』『ものの、後醍醐天皇が内裏を脱出して笠置山に挙兵した際(笠置山の戦い)には鎮圧に加わり、六波羅探題軍に加勢して山門東坂本に攻め寄せた。戦後は、捕縛された尊良親王(後醍醐天皇の皇子)の身を預かっている』。元弘三(一三三三)年の『後醍醐天皇流罪後も続いた反乱軍鎮圧では摂津国天王寺に参陣している。しかし、六波羅探題が宮方についた足利高氏(尊氏)によって陥落されると、探題北条仲時が近江で討死したという誤報を受けて宮方に投降した』。『幕府滅亡後の建武の新政では雑訴決断所の奉行人、南海道担当の七番局を務め、尊氏の新政離反にも従うが、室町幕府においては近江守護職を一時庶流の京極氏当主佐々木道誉に奪われるなど』、『不遇をかこつことになり、出家して家督を子・氏頼に譲り』、四十一『歳で死去したという』。

「常陸(ひたちの)前司時知(ときとも)」六波羅の頭人(とうにん)であった小田時知。サイト「南北朝列伝」によれば、『常陸国に拠点を置く小田一族の一人だが』、『傍流で』、『代々六波羅探題に勤めた系統である。父の知宗も弟の貞知も六波羅探題で引付頭人を務めている。名の「時」は得宗の北条貞時の一字を受けたとみられるが、「貞」字は弟が受けており、弟の方が嫡流とされていたようである』。『後醍醐天皇の討幕計画が発覚(正中の変)すると、時知は二階堂行兼と共に六波羅探題の使者として北山の西園寺邸を訪れ、事件の首謀者として日野資朝・日野俊基の二名を引き渡すよう朝廷に要請している』。元徳三(一三三一)年八月二十四日、『後醍醐が倒幕挙兵を決意して未明に宮中を脱出したが、その夜に時知が兵を率いて宮中の捜索、乱暴に騒ぎたてた様子が』「増鏡」に『描写されている』。二十七日には、『時知は貞知らと共に琵琶湖東岸の唐崎浜に出陣し、比叡山の僧兵と戦っている。その後の笠置攻撃にも参加し、後醍醐に同行して捕虜となった東大寺東南院の僧・聖尋の身柄を時知が預かり、のちに鎌倉に護送している』。本詩クエンス時(三月一日)には『時知は佐々木時信と共に六波羅勢を率いて、摂津の摩耶山にこもった赤松円心を討ったが』、『敗退』し、『勝ちに乗って京へ攻め込んできた赤松軍と京で攻防戦を繰り広げている』。『このように六波羅軍の主力として戦った時知だが、同年』五『月の六波羅勢の逃亡、近江番場での集団自決には同行しておらず、六波羅陥落前後に後醍醐方に投降したとみられる』とあり、さらに「尊卑分脈」の『小田氏系図を見ると時知の子・知貞の母について「実父大納言経継卿云々」と注があり、時知が公家の中御門経継の娘を妻に迎えていたことを推測させる。時知はあるいは』、『そのつてを頼って』、『後醍醐方に投降したのではないか』とサイト主は推理されておられる。事実、『建武政権では時知は弟の貞知と共に雑訴決断所の職員に名を連ねている』、但し、『その後の詳しい動向は不明である』とある。

「求塚(もとめづか)」現在の兵庫県神戸市灘区都通附近(グーグル・マップ・データ)。私の偏愛する、かの「菟原処女(うないおとめ)」の伝承が残る地である。

「八幡林」灘区八幡町附近。求塚の東北。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「久々知(くゝち)」尼崎市久々知(くぐち)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「酒部(さかべ)」尼崎市上坂部(久々知の北に接する)・下坂部附近(久々知の北東に接する)。ここ(グーグル・マップ・データ)・

「阿波の小笠原」新潮日本古典集成「太平記 一」の山下宏明氏の注によれば、『清和源氏、甲斐長房(かいながふさ)が阿波の国(徳島県)守護に任じてから阿波の豪族となった』とする。

「父子六騎に打(うち)なされ」筆者は「太平記」をコンパクトに圧縮するあまり、ここではリズムが崩れている。この父子とは赤松円心とその子息則祐のことで、二人を含めて、たった六騎までに小笠原㔟に討たれて減ってしまったというのである。

「小屋野(こやの)の宿」現在の兵庫県伊丹市昆陽(こや)にあった山陽道の宿場町。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「瀨河(せがは)」現在の大阪府箕面瀬川。ここ(グーグル・マップ・データ)。昆陽の東北、猪名川を隔てた位置。

「子息筑前守貞範」(徳治元(一三〇六)年~文中三/応安七(一三七四)年)円心の次男。ウィキの「赤松によれば、嘉暦元(一三二六)年頃は『摂津国長洲荘の荘官を兄・範資と共に務め、父が後醍醐天皇の倒幕に参加した時は共に従った』。建武二(一三三五)年には『中先代の乱を平定するため』『、関東に向かう足利尊氏軍に加わり、戦後に尊氏が反新田義貞を主張して挙兵した時も従う。箱根・竹ノ下の戦いで竹ノ下に展開していた貞範の軍は』三百『騎で脇屋義助』七千『騎に突撃を敢行した。これを見て』、『義貞方の大友貞載』(さだとし/さだのり)『が寝返ったため』、『戦況が逆転し、尊氏軍が勝利した。この時の恩賞として丹波国春日部荘ほか』、『播磨国の所領を与えられたという』。『室町幕府の確立に尽力し』、正平元/貞和二(一三四六)年には『姫路城の基礎である城を築い』ている。正平六/観応二(一三五一)年に兄範資が『亡くなった時、弟・則祐が幕府から播磨と家督を安堵されたが、貞範が選ばれなかった理由は』、室町『幕府から疎まれていたためとされる』。正平一一/延文元(一三五六)年に『美作守護を任命されていた事があり、尊氏の庶長子・足利直冬と山名時氏が東上の構えを見せた際、貞範は出陣してこれを攻めた。しかし』、正平一八/貞治二(一三六三)年に『時氏が幕府に帰順すると』、『美作を時氏の末子・時義に交替させられ』ている。彼の『子孫は春日部荘を相続、足利将軍家の近習に選ばれた赤松持貞・赤松貞村を輩出した』。

「淀」新潮日本古典集成「太平記 一」の山下宏明氏の注によれば、『京都市伏見区淀。桂川・宇治川・木津川にのぞむ水郷』とある。中央附近(グーグル・マップ・データ)。

「赤井」同前の山下氏注によれば、『淀から羽束師(はつかし)・樋爪(ひづめ)までの間、桂川にのぞむ地』とある。桂川右岸(グーグル・マップ・データ)。

「山崎」同前の山下氏注によれば、『淀・羽束師の西方一帯を指す』とあるから、現在京都府乙訓大山崎町附近であろう(グーグル・マップ・データ)。

「隅田」隅田(すだ)通治。既出既注

「高橋」未詳既出既注

「大宮」大宮大路。朱雀大路の東の最初の南北に走る東大宮大路のこと。その南端で南北に走る、南から二本目(最南端が九条大路)の「七條」大路辺りまでの閉区間で火を放ったということであろう。次も同じ。

「猪熊」猪熊小路。東大宮大路の東の最初の小路。

「主上持明院殿」光厳天皇。

「河野」九郎左衛門尉通治(みちはる)か。

「陶山(すやま)」既出既注の陶山藤三義高であろう。或いは、その一族かも知れない。

「蓮花王院」所謂、三十三間堂の正式な寺名。なお、六波羅探題はにあった(グーグル・マップ・データ)。

「善峯」新潮日本古典集成「太平記 一」の山下宏明氏の注によれば、『釈迦岳の支峰を善峰と言い、また中腹に善峰寺がある』と記す。寺は、(グーグル・マップ・データ)。

「岩倉」新潮日本古典集成「太平記 一」の山下宏明氏の注によれば、『西京区大原野石作(いしづくり)町岩倉。金蔵寺の辺』とする。寺は、(グーグル・マップ・データ)。

「向明神(むかうのみやうじん)」「向日明神」が正しい。新潮日本古典集成「太平記 一」の山下宏明氏の注によれば、『小塩山にある天台宗の金蔵寺の守護神』とあるから、前の注のリンク先附近。]

諸國里人談卷之三 阿蘇

 

    ○阿蘇

肥後國阿蘇山は、則(すなはち)、阿蘇郡(あそのこほり)なり。社(やしろ)は麓にあり。

神池(みいけ) 每日、猛煙、起聳(おこりそび)え、山谷、鳴動す。○「大明一統志」云(いはく)、『日本国阿蘇山、石火起接ㇾ天。俗異而禱ㇾ之。有如意寶珠大如鷄卵。色靑夜有ㇾ光。』。

[やぶちゃん注:「大明一統志」の返り点は③に従った。①では「有如意寶珠大如鷄卵」の「有如意寶珠」の一・二点が存在せず、吉川弘文館随筆大成版はそれを受けて「有」を前の「禱ㇾ之有」としているが、これは中国語としておかしいと感じた。中文サイトで「大明一統志」の原文を調べたが、現行の同書にはこの文字列を見出せなかった。しかし、黒木國泰氏の論文「壽安鎭國考―册封体制小論―」(『宮学短大紀要』第六号(平成二五(二〇一三)年度)の中に、「月令廣義」の一条を引かれ(一部の漢字が正字でないのはママ)、

   《引用開始》

統志(大明一統志カ)日本國阿蘇山、石火起接天、俗異而禱之、有如意寶珠、大如鶏卵、色青、夜有光、永樂初年、封為壽安鎭國山。

   《引用終了》

とあるのを見出せたので、かくした。なお、これはずっと先立つ「舊隋書」(唐の六五六年成立)の「卷八十一」「列傳第四十六」「東夷」「倭國」の条の、

   *

有阿蘇山。其石無故火起接天者。俗以爲異因行禱祭。有如意寶珠。其色靑大如雞卵。夜則有光。云魚眼精也。新羅百濟皆以俀爲大國。多珎物並敬仰之恆通使往來。

(阿蘇山、有り。其の石(せき)[やぶちゃん注:岩山。]、故(ゆゑ)無くして、火、起こり、天に接する者(こと)あり。俗、以つて異と爲(な)し、因(よ)りて禱祭(たうさい)を行ふ。如意寶珠、有り。其の色、靑く、大いさ、雞卵のごとくして、夜、則ち、光り有り。云はく、「魚(うを)の眼精(ぐわんせい)なり。」と。新羅・百済は、皆、俀(わ)[やぶちゃん注:倭。]を以つて、大國と爲す。珎物(ちんもつ)多く、並びに、之れを敬仰して、恆(つね)に通使し、往來す。)

   *

の古い記事を孫引きしただけなのではないかと私は疑っている。

「大明一統志」明の英宗の勅撰地理書(但し、先行する景泰帝の命じた一四五六年完成の「寰宇通志」の改訂版)。一四六一年に完成。全九十巻。最終の二巻は「外夷」(朝鮮国・女直・日本国・琉球国他)に当てられているが、説明は沿革・風俗・山川・土産のみで、簡略である。

 以下、原典③の訓点に従って「諸國里人談」所収の漢文を書き下す。

   *

日本国、阿蘇山、石火、起り、天に接(まじ)はる。俗、異(い)にして、之を禱(いの)る。如意寶珠(によいほうじゆ)、有り、大きさ、鷄(とり)の卵(かいご)のごとし。色、靑く、夜(よる)、光り、有り。

   *

「接(まじ)はる」高く昇って天に「交はる」。「俗、異(い)にして」民はこの噴火を異常な凶兆として捉え、の意であろう。「如意寶珠」はサンスクリット語の「チンターマニ」(「チンター」は「思考」、「マニ」は「珠」の意)の漢音写で、仏教で霊験を表わすとされる宝の珠(たま)で「意のままに願いを叶える霊宝」の意。但し、この宝珠は不詳。阿蘇神社にも現存しない模様である。個人ブログ「吉田一氣の熊本霊ライン 神霊界の世界とその源流」の阿蘇神界と火山神で、吉田氏は『如意宝珠については謎ではあるが』、『私は阿蘇の火口の寶池のことだと勝手に理解している。というのも以前飛行機から火口の寶池を見た際にエメラルドグリーン色の丸い眼のようだと思ったことがあるからだ』と述べておられ、共感出来る。それに火口と宝池とで火と水とのペアになる』「かいご」の「かい」は「殻」の意で、小鳥や鶏などの殻のついたままのたまごを指す古語。上代から鎌倉・南北朝期頃までは、「卵」は「たまご」ではなく、「かいご」と呼ばれていた。国語辞典編集者神永曉氏のブログ「日本語、どうでしょう?」の「たまご」は「卵」か「玉子」か?によれば、源順の平安中期の辞書「和名類聚抄」には、「卵 陸詞曰、卵【音「嬾」・加比古。】、鳥胎也」とあり、『「嬾」は「ラン」、「加比古」は「かひこ(かいこ)」で』、『「かひ(かい)」は「貝」や「殻」と同語源であろう』とされ、また、近世初期、日本イエズス会が宣教師の日本語修得のために刊行した辞書「日葡(にっぽ)辞書」(慶長八~九年(一六〇二年~一六〇五年)刊)には、『「Tamago (タマゴ)〈訳〉鶏卵。カミ(上)ではCaigo(カイゴ)という」という記載があることから、近世初期までは「かいご」「たまご」が併用されていたことがわかる』『(「カミ」とは近畿方言のこと』)とある。沾涼は伊賀の生まれであるから、彼が「卵」を「かいご」と訓じても、これ、何らおかしくないと私は思う。

「社(やしろ)は麓にあり」阿蘇山の東北麓の熊本県阿蘇市一の宮町宮地にある阿蘇神社。(グーグル・マップ・データ)。

「神池(みいけ)」先の吉田氏の述べられた、阿蘇の火口の宝池のことであろう。]

諸國里人談卷之三 淺間

 

    ○淺間

信州淺間嶽は佐久郡(さくのこほり)也。頂(いたゞき)、常に燃(もゆ)る。往昔(そのかみ)、大きに燒(やけ)たる時、吹出(ふきいだ)したる石也とて、輕井澤・沓掛(くつかけ)の間の曠原(くはうげん)に、燒石(やけいし)、限りなくありける。每年四月八日潔齊して登山(とうさん)するなり。人、皆、竹の筒に水を貯へ、草鞋を浸(ひた)して、火氣を防ぐ便(たより)とす。麓より四里半登るといへども、佐久郡は、多く、淺間山の内なり。上州より碓氷峠まで、自然(じねん)、上(あが)りにして、凡(およそ)四里ほど登る也。峠より輕井澤へは半里くだる也。是によつて考ふれば、上州地〔じやうしうぢ〕よりは、巓(いたゞき)まで、凡〔およそ〕八里の高山なり。富士は登る事、九里也。さのみかはらず。

[やぶちゃん注:二文目に現われる「頂」は原典では「頂」の上全体に(やまかんむり)が附された字体であるが、表記出来ないので、これに代えた。浅間山(あさまやま)は、現在の長野県北佐久郡軽井沢町及び御代田町と群馬県吾妻郡嬬恋村との境にある成層火山で標高は二千五百六十八メートル。(グーグル・マップ・データ)。現在でも活発な活火山で、今二〇一八年現在、火口周辺規制(噴火警戒レベル2)で山頂と火口付近は入山禁止である。

「每年四月八日」は①・②に拠った。③では「四月四日」なのであるが、調べてみると、古来の浅間山の「山開き」の日は「卯月八日」と称し、旧暦四月八日と決まっていたからである(例えば寺子屋サロン氏のブログ「”現在・過去・未来” 歴史の日暦」の浅間山大噴火を見られたい。なお、そこにも少し記されてあるが、本書刊行(寛保三(一七四三)年)から四十年後の「天明の大噴火」の最大の噴火は天明三年七月八日(一七八三年八月五日)で、山開きの翌日であった(実際にはその二日前の七月六日から噴火活動は続いてはいた)。溶岩流出・火山灰噴石降下・火砕流・土石流が発生、それらによって吾妻川が閉塞、直に決壊し、大洪水を引き起こし、被害は利根川にまで及んだ。この時の犠牲者は千六百二十四人(内、上野国一帯だけで千四百人以上)・流失家屋 千百五十一戸・焼失家屋五十一戸・倒壊家屋百三十戸余りであった(以上はウィキの「浅間に拠った)。

「沓掛」浅間山の南東麓の軽井沢町にある旧宿場町。東方に碓氷峠を控え、軽井沢・追分とともに中山道の浅間三宿として知られた。現在の長野県中軽井沢。(グーグル・マップ・データ)。]

2018/06/18

諸國里人談卷之三 ㊄山野部 富士

 

諸國里人談卷之三   菊岡米山翁著

 ㊄山野部(さんやのぶ)

     ○富士

駿河國富土山は、相傳ふ、孝靈帝五年に、一夜(や)に、地、坼(さけ)て、大湖(たいこ)となる。是、江州琵琶湖也。其土、大山(たいざん)となる。駿河の富士、是也。江州三上山(みかみやま)は、簣(あじか)より溢(〔あ〕ふれ)て成。故(かるがゆへ[やぶちゃん注:ママ。])に、其形、似たりと云々。每年六月、登山(とうさん)するに、百日の潔齋也。江州の人は七日の潔齋也と云。山の荒(ある)る時、近江の土を蒔(まけ)ば、則(すなはち)、鎭(しづま)るとなり。【當山の事、諸書に委〔くはし〕ければ略ㇾ之〔これをりやくす〕。】

[やぶちゃん注:以下の長歌部分は原典では全体が一字下げ。前後を一行空けた。清音は清音のままに表記した。後の二首も同じ処理をした。「万葉」「西行法師」は小さく書かれているが、同ポイントで示した。「西行法師」は下一字上げインデントであるが、引き上げてある。]

 

「万葉」

 天地(あめつち)のわかれし時に神さひて高く導き駿河なるふしの高根を天(あま)の原(はら)ふりさけ見ればわたる日の影もかくろひてる月の光りも見えず白雲もいゆきはゝかり時しくそ雪は降(ふり)ける語りつきいひつきゆかんふしの高根を

 

秀吉公、朝鮮を征す時、加藤淸正、兀良哈(おらんかい)におゐて[やぶちゃん注:ママ。]、一人を捕(とら)ふ。名を「世琉兜宇須(せるとうす)」と云〔いふ〕。元、日本松前の人なり。風飄(ふうひやう)して、濟州(さいしう)にある事、二十年也。淸正、悦(よろこん)で導(みちびき)とす。改(あらため)て、後、「藤次郞」と号す。次郞が云〔いはく〕、「此地、天、晴(はる)る時は、富士を見るに、甚(はなはだ)ちかし」。

又、朝鮮人來朝の時、駿河にて富士をさして、「此山、我國に見ゆる」と云〔いふ〕。凡(およそ)、日本に富士にひとしき山、二ツあり。一ツは奧州津輕弘前(ひろさき)の南、岩城山(いはきやま)といふ高山あり。形、富士に違(たが)はず。

 

                西行法師

 ふし見てもふしとやいはんみちのくの岩城の山の雪のあけほの

 

又、薩州穎娃郡(ゑのゝこほり[やぶちゃん注:ママ。])に高山あり。「うつほ嶋」と云〔いふ〕。是、又、富士に同じ。

 

 さつまかた穎娃(ゑの)の郡(こほり)のうつほ嶋これやつくしの富士といふらん

 

按(あんず)に、玆(こゝ)を以て見れば、朝鮮に見ゆるは「さつまふじ」なるべき歟〔か〕。

[やぶちゃん注:富士山」とキャプションする本条の挿絵がある(①)。富士誕生伝承については、吉田信氏の論文「富士山と琵琶湖についての言い伝えをめぐって」(PDF)が非常に精緻で、必読。そこにしばしば引かれる江戸時代の文献として、浅井了意の「東海道名所記」(万治四・寛文元(一六六一)年頃刊)の一節が引かれてあるが、それを参考に漢字を正字化したりして示すと、

   *

諺(ことわざ)に、むかし、富士權現、近江(あふみ)の地をほりて、富士山をつくりたまひしに、一夜のうちに、つき給ヘり。夜、すでにあけゝれば、簣(もつこ)かたかたを、爰(ここ)にすて給ふ。これ、三上山なりといふ。さもこそあるらめ。いにしへ、孝靈(かうれい)天皇の御時に、此あふみの水うみ、一夜のうちに出(いで)きて、その夜に,富士山、わき出(いで)たり。その時しも、三上山も出來にけり。一夜の内に山の出(いで)き、淵(ふち)の出き、又は、山のうつりて、餘所(よそ)にゆく事、物しれる人々は、ふかき道理のある事也。故なきにはあらず、と申されし。

   *

で、次に今一つ、吉田氏は大坂の医師寺島良安の百科事典「和漢三才図会」を現代語訳で引くが、ここは氏の訳された当該原典部分を私が翻刻して示し、訓点に従って書き下したものを添える(因みに、私は同書の水族関連の八巻の電子化注をサイトのこちらで完遂しており、このブログでも「蟲類」(完遂)や「禽類」(作業中)を手掛けている)。同書は約三十年の歳月をかけて正徳二(一七一二)年頃に完成したものである。

   *

相傳孝靈帝五年始見矣蓋一夜地坼爲大湖是江州琶湖也其土爲大山駿州富士也【國史等無其事亦非無疑】四時有雪絶頂有烟江州三上山自簣溢成故形畧似富士

○やぶちゃんの書き下し文

相ひ傳ふ、「孝靈帝五年、始めて見る、蓋し、一夜に、地、坼(さ)けて、大湖と爲(な)る。是れ、江州の琶-湖(みづうみ)なり。其の土、大山と爲る。駿州の富士なり【國史等、其の事、無し。亦、疑ひ無きに非ず。】。四時、雪、有り。絶頂に、烟、有り。江州三上山は簣(もつこ)より溢(こぼ)れ成れる故、形、畧(ほぼ)富士に似れり。」と。

   *

以下、吉田氏はこの伝承の文献上のルーツを遡ろうとされるのであるが、この濫觴探索はなかなか難しく、残念ながら、探しきってはおられない。ともかくも、同論文に引用されている、博学こだわり倶楽部編「あっぱれ!富士山 日本一の大雑学」(二〇一三年KAWADE夢文庫刊)からの引用の孫引きでここは終わりたい(コンマは読点に代えた)。『富士山成立に関する伝説「日本一の山と湖」ではつぎのとおり。その昔、日本の神々が集まって、日本一高い山と日本一大きい湖をつくることにした』。『神々は日本一高い山をつくる場所を駿河(するが)国、制限時間を』一『日と決め,力自慢の神々が近江(おうみ)国から掘った土をもっこ(土石運搬に用いる道具)に入れて駿河国に運んだ。その土を盛(も)って山をつくろうというのだ』。『夕方からはじまった山づくりの作業は、明け方近くになって、あとひともっこで山ができ上がるところまできた。しかし,最後のひともっこを時間内に積み上げられなかった。そのため、富士山の山頂は尖(とが)った形でなく平らになってしまった』。『いっぽう、近江国の土を掘った跡地には日本一大きな琵琶湖ができた。積み上げられなかった最後の一杯の土は、琵琶湖近くにこぼれて近江富士となった』――どんとはらい――

「孝靈帝五年」「古事記」「日本書紀」に第七代天皇と伝える。西暦への機械的換算では、これは紀元前二八六年。

「江州三上山(みかみやま)」滋賀県野洲市三上にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。標高四百三十二メートル。一般に「近江富士」の別名で知られる。

「簣(あじか)」「あじか」と読むと「竹で編んだ籠や笊」を指すが、ここはしかし、この漢字の第一義である、「土砂を運ぶための運搬用の箕(み)や籠」のもの、則ち、「畚(もっこ)」のことである。

「天地(あめつち)の……」は「万葉集」巻第三「雜歌」の山部赤人の長歌(三一七番)である。添えられた有名な短歌(三一八番)も添えて示す。

   *

  山部宿禰赤人(やまべのすくねあかひと)の不盡山(ふじのやま)を望める歌一首幷(あは)せて短歌

天地(あめつち)の 分(わか)れし時ゆ 神(かむ)さびて 高く貴(たふと)き 駿河なる 布士(ふじ)の高嶺(たかね)を 天(あま)の原 振(ふ)り放(さ)け見れば 渡る日の 影(かげ)も隱(かく)らひ 照る月の 光も見えず 白雲(しらくも)も い行きはばかり 時じくそ 雪は降りける 語り繼(つ)ぎ 言ひ繼ぎ行かむ 不盡(ふじ)の高嶺は

  反歌

田子(たご)の浦ゆ打ち出いでて見れば真白にぞ不盡の高嶺に雪は降りける

   *

「い行き」の「い」は接頭語で、動詞に付いて意味を強める。悠々たるはずの白雲も高峰の富士の高嶺には流石に流れ泥(なず)んでしまい、の意。「時じくぞ」「時じ」で形容詞で「時を選ばない・時節にかまわない」の意。何時(いつ)と時を定めることなく、いつでも。

天地(あめつち)のわかれし時に神さひて高く導き駿河なるふしの高根を天(あま)の原(はら)ふりさけ見ればわたる日の影もかくろひてる月の光りも見えず白雲もいゆきはゝかり時しくそ雪は降(ふり)ける語りつきいひつきゆかんふしの高根を

「兀良哈(おらんかい)」後の旧満州、現在の中華人民共和国吉林省延辺朝鮮族自治州延吉市付近。ここ(グーグル・マップ・データ)。この元である「ウリャンカイ」(モンゴル高原北部周辺にいた民族集団の一つの呼び名)とは元来は興安嶺周辺の中国東北部北部からシベリア南部一帯の森林地帯に住んでいた狩猟民の総称であったと考えられ、現地のツングース語で「トナカイを飼育する民」を意味する発音などがモンゴル語風に訛ったものとも推測されており(ウィキの「ウリャンカイ」に拠る)、それに漢字を当てたものである。

「捕(とら)ふ」吉川弘文館随筆大成版は『捕ゆ』とする。採らない。

「世琉兜宇須(せるとうす)」この前後の話は、後、水戸藩の本草学者佐藤成裕(せいゆう 宝暦一二(一七六二)年~嘉永元(一八四八)年:号は中陵)が文政九(一八二六)年に書き上げた薬種物産を主としつつ、多様な実見記事を記録した見聞記「中陵漫録」の巻之三の「富士を望(のぞむ)」にも出る。吉川弘文館随筆大成版を参考に、恣意的に漢字を正字化し、読点を追加し、一部の歴史的仮名遣で読みを加えて示す。

   *

    ○富士を望

日本の高岳は富士より高大なるはなし。しかれども、是を望む事、二百里に過ず。奥州にては仙台の富の観音より、天晴を待(まち)て遙(はるか)に望む事、有り。故に此處を富と呼ぶ。此處を去(さり)て十里なれば、人の目、力及ばずして、望むと難(かたく)、見る事なし。西にては大阪より希に見る事、有り。大抵人の眼力にかぎりあればなり。然ども、濟州の世琉兜宇須は、本(も)と日本松前の人なり。彼(かの)國に至(いたり)て日本の富士を見る事、甚(はなはだ)近きに有(あり)と云ふ。此説、疑はし。若(もし)海を隔(へだて)て望めば、水氣に因(より)て見る事、有り。いまだ決しがたし。又、日本にても南部の富士、薩摩の富士、其外出羽の三山、鳥海山のごとき、富士に似たる高山、有り。此等を遠望して富士と見誤るか。異邦より望みし事は、甚だ疑はし。又、「五雑爼」に、天竺の雪山を見ると云ふ。雪山は二百里已外(いがい)に有りと見えたり。彼(かの)人の眼力も日本に相(あひ)同じ。甚だ遠ければ、絶(たえ)て見る事なし。此他、紀行の書にも、塞外の雪山、塞外の諸峰を見ると云説有り。此等も二百里已外と見えたり。

   *

「二百里」七百八十五キロメートルであるが、これはあり得ない。富士を中心とした円の直径としても三百九十二・五キロメートル圏内で見えることになるが(「仙台の富の観音」がどこを指すか私には不明だが、地図上は圏内には入るが)、これも事実とは異なる(仙台では見えないと思う)。こことか、ここのサイトで富士山の見える範囲が示されているが、単純な数理計算によれば、半径二百二十キロメートル圏内、大気の光学上の屈折作用からはその辺縁外側でも見られるとあり、最北可視位置は福島県相馬郡飯舘村の花塚山で(ここ(グーグル・マップ・データ))、現行で最も遠い可視位置としては、南西の和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある色川富士見峠(標高約七百メートル)とされ、距離は約三百二十三キロメートルである。ここ(グーグル・マップ・データ)。

なお、井上泰至・金時徳共著「秀吉の対外戦争 変容する語りとイメージ 前近代日朝の言説空間」(二〇一一年笠間書院刊)の金時徳氏の「朝鮮で加藤清正言説はどのように享受されたか」に『済州に漂着した「日本人」世流兜宇須は誰か』という章があるらしい。いつか立ち読みしたら、追記する。

と云〔いふ〕。

「風飄(ふうひやう)して」海上で暴風に遭遇して朝鮮半島へ漂着したということらしい。

「濟州(さいしう)」山東省にも旧済州 はあるが、ここは大韓民国の南に浮かぶ済州(チェジュ)島のことか。

「岩城山」「津軽富士」とも呼ばれる。標高千六百二十五メートル。

「ふし見てもふしとやいはんみちのくの岩城の山の雪のあけほの」「西行法師」とあるが、彼の歌集にはなく、彼の歌とも思われない(どうも本書に西行の歌として出るぐらいらしい)。一応、整序しておくと、

 富士見ても不二とや言はむ陸奥の岩城の山の雪の曙(あけぼの)

か。

「薩州穎娃郡(ゑのゝこほり)」通常は「頴娃(えい)」と読む。薩摩国及び旧鹿児島県薩摩半島先端の西南部分で、現在の指宿市の一部(開聞(かいもん)各町)と南九州市の一部(頴娃(えい)町各町)に当る。位置は参照したウィキの「頴娃郡」の地図を見られたい。

「うつほ嶋」標高九百二十四メートルの「薩摩富士」開聞岳の別称の一つ(「うつぼ嶋」「空穗島」)。この名は貞觀一六(八七四)年にこの山で発生した「貞観の噴火」によって山頂に空洞(うつぼ)が生じたことに由来するものとされる。私が結婚したばかりの新妻と二人で完全登攀した(私は普通の革靴だった)唯一の山である。

「さつまかた穎娃(ゑの)の郡(こほり)のうつほ嶋これやつくしの富士といふらん」これは安土桃山から江戸初期の公家近衛信伊(のぶただ 永禄八(一五六五)年~慶長一九(一六一四)年)の一首である。ウィキの「近衛信尹」によれば、初名を信基・信輔と称し、号は三藐院(さんみゃくいん)。天正五(一五七七)年に『元服。加冠の役をつとめたのが織田信長で、信長から一字を賜り』、『信基と名乗る』。天正八年に内大臣、天正十三年には『左大臣となる。関白の位をめぐり』、『二条昭実と口論(関白相論)となり、菊亭晴季の蠢動で、豊臣秀吉に関白就任の口実を与えた。秀吉が秀次に関白位を譲ったことに』、『内心』、『穏やかではなく、更に相論の原因を作り、一夜にして』七百『年続いた摂関家の伝統を潰した人物として公家社会から孤立を深め』、それに『苦悩した信輔は、次第に「心の病」に悩まされるようになり』、文禄元(一五九二)年正月、『左大臣を辞した』。『幼い頃から父』(関白近衛前久(天文五(一五三六)年~慶長一七(一六一二)年:彼は関白職にありながら、永禄三(一五六〇)年に越後に下向、更に永禄四(一五六一)年の初夏には越山し、景虎の関東平定を助けるため、上野・下総に赴くなど、公家らしからぬ行動力をみせた。景虎が越後に帰国した際も危険を覚悟の上で古河城に残り、情勢を逐一、越後に伝えるなど、大胆かつ豪胆な人物であった)『とともに地方で過ごし、帰京後も公家よりも信長の小姓らと仲良くする機会が多かったために武士に憧れていたという』。『秀吉が朝鮮出兵の兵を起こすと』、文禄元(一五九二)年十二月には、『自身も朝鮮半島に渡海するため』、『肥前国名護屋城に赴いた。後陽成天皇はこれを危惧し、勅書を秀吉に賜って』、『信尹の渡海をくい止めようと図った。廷臣としては余りに奔放な行動であり、更に菊亭晴季らが讒言』『したため』、『天皇や秀吉の怒りを買い』、文禄三年四月、『後陽成天皇の勅勘を蒙』り、信尹は薩摩国の坊津に、三年間もの間、配流となってしまう(『その間の事情は』日記「三藐院記」に詳述されている)。京より四十五人の『供を連れ、坊の御仮屋(現在の龍巌寺一帯)に滞在、諸所を散策、坊津八景(和歌に詠まれた双剣石一帯は国の名勝に指定』『)、枕崎・鹿籠八景等の和歌を詠んだ。地元に親しみ、書画を教え、豊祭殿』の秋祭(現在の坊津町坊八坂神社の秋祭り。「坊ほぜどん」と呼ばれ、毎年十月第三日曜日に行われる。小京都風の振袖姿で「サイセンバコ」と呼ばれる桶を頭に掲げた少女たちの「十二冠女(じゅうにかんめ)」の行列で知られる)や、『御所言葉、都の文化を伝播。鹿児島の代表的民謡』である「繁栄節(はんやぶし)」の『作者とも伝えられる。また』、『この時期』、『書道に開眼したとされる』。『配流中の世話役であった御仮屋守噯(あつかい)・宮田但馬守宗義の子孫は「信」を代々の通字としている』。『遠い薩摩の暮らしは心細くもあった一方、島津義久から厚遇を受け、京に戻る頃には、もう』一、二年いたい旨、『書状に残すほどであった』。慶長元(一五九六)年九月、勅許が下り、京都に戻ったが、慶長五年九月の『島津義弘の美濃・関ヶ原出陣に伴い、枕崎・鹿籠』七『代領主・喜入忠政(忠続・一所持格)も家臣を伴って従軍』するも、九月十五日に敗北、『撤退を余儀なくされる。そこで京の信尹は密かに忠政・家臣らを庇護したため、一行は無事』、『枕崎に戻ることができた。また』、『島津義弘譜代の家臣・押川公近も義弘に従って撤退中にはぐれてしまったが、信尹邸に逃げ込んでその庇護を得、無事』、『薩摩に帰国した』。『信尹の父・前久も薩摩下向を経験しており、関ヶ原で敗れた島津家と徳川家との交渉を仲介し』、『家康から所領安堵確約を取り付けた』。慶長六(一六〇一)年に『左大臣に復職』、慶長十年七月には『念願の関白となる』。翌年十一月には『関白を鷹司信房に譲り辞するが、この頻繁な関白交代は秀吉以降』、『滞った朝廷人事を回復させるためであった』慶長十九年より、『大酒を原因とする病に罹っていたが』、同年十一月二十五日に薨去、享年五十であった。

 歌を整序してみると、

 薩摩潟穎娃(ゑい)の郡(こほり)のうつぼ嶋是や筑紫の富士といふらん

であろうが、幾つかの資料を見ると、

 薩摩がた波の上なるうつぼ島これや筑紫の富士といふらむ

の表記も見る。前の句形は文化三(一八〇六)年序の「薩藩名勝志」が出典であるようだ。これ以上の検証は私には出来ない。悪しからず。

「按(あんず)に、玆(こゝ)を以て見れば、朝鮮に見ゆるは、「さつまふじ」なるべき歟〔か〕」という認定が出来る根拠が私にはさっぱり判らぬ。何方か、私に御教授あられたい。]

諸國里人談卷之二 片輪車 / 諸國里人談卷之二~了

 

     ○片輪車(かたわぐるま)

 近江國甲賀(こうか)郡に、寬文のころ、「片輪車」といふもの、深更に車の碾(きしる)音して行(ゆく)あり。いづれより、いづれへ行〔ゆく〕を、しらず。適(たまたま)にこれに逢ふ人は、則〔すなはち〕、絕入(ぜつじゆ)して、前後を覺えず。故に、夜更(よふけ)ては、往來(ゆきゝ)、人、なし。市町も門戶(もんこ)を閉(とぢ)て靜(しづま)る。此事を嘲哢(ちやうろう)などすれば、外(そと)より、これを詈(のゝし)り、

「かさねて左〔さ〕あらば、祟(たゝり)あるべし。」

などいふに、怖恐(おぢおそれ)て、一向に聲も立(たて)ずしてけり。

 或家の女房、これを見まくほしくおもひ、かの音の聞ゆる時、潛(ひそか)に戶のふしどより、覗見(のぞき〔み〕)れば、牽(ひく)人もなき車の片輪なるに、美女一人、乘(のり)たりけるが、此門にて、車をとゞめ、

「我を見るよりも、汝が子を見よ。」

と云〔いふ〕におどろき、閨(ねや)に入〔いり〕て見れば、二歲ばかりの子、いづかたへ行〔ゆき〕たるか、見えず。歎悲(なげきかな)しめども、爲方(せんかた)なし。明の夜、一首を書〔かき〕て、戶に張りて置(おき)けり。

 罪科(つみとが)は我にこそあれ小車〔おぐるま〕のやるかたわかぬ子をばかくしそ

 その夜、片輪車、闇にて、たからかによみて、

「やさしの者かな。さらば、子を皈(かへ)すなり。我(われ)、人に見えては、所にありがたし。」

といひけるが、其後、來らずとなり。 

 

里人談二終

[やぶちゃん注:特異的に改行・段落を成形した。知られた妖怪「片輪車」譚である。私は既に『柴田宵曲 續妖異博物館「不思議な車」』で本条を電子化しており、そこには類話の中国版(但し、私はこれらが「片輪車」の原型だとは考えていない)や、本邦の類話(これは全通底)を纏めていて手っ取り早く流れを摑めるという点ではよい。無論、それぞれに原典を私が注で翻刻してある。また、そこに出る「諸國百物語卷之一 九 京東洞院かたわ車の事」カテゴリ「諸國百物語」(完遂)で独立して電子化注しているので、必ず比較参照されたい。何故なら、この「諸國百物語」(著者不詳)の「片輪車」が板行された現存する本妖怪の「片輪車」と確かに名指された最古形で(本「諸國里人談」は寛保三(一七四三)年刊であるが、「諸國百物語」は延宝五(一六七七)年刊で六十六年も前である)あり、本「諸國里人談」や、宵曲が先の「不思議な車」で紹介し、私が原典を示した、それと酷似した構成(ロケーションが「信州某村」となっている以外はそっくり写されていると言ってよい)の津村淙庵(そうあん)の「譚海」(安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の見聞録)「片輪車」が、《子どもが無事に返される大団円和歌霊験譚》であるのに対し、原型である「諸國百物語」「いかに、それなる女ばう、われをみんよりは内に入りて、なんぢが子を見よ」と云ふ。女ばう、をそろしくおもひて内にかけ入りみれば、三つになる子を、かたより股(もゝ)までひきさきて、かた股(もゝ)はいづかたへとりゆきけん、みへずなりける。女ばう、なげきかなしめども、かへらず。かの車にかけたりし股(もゝ)は、此子が股にてありしと也。女の身とて、あまりに物を見んとする故也」をコーダとする真正の《子どもが同時に問答無用で引き裂かれる猟奇凄惨怪奇譚》だからである。私? 和歌嫌いの私は無論、「諸國百物語」版「片輪車」に軍配を上げる

「近江國甲賀(こうか)郡」①は「こうか」、③は「こうが」。正しい①で採った(但し、①はルビでは濁点を打たない傾向は強い)。現在の滋賀県甲賀(こうか)市((グーグル・マップ・データ))と湖南市((グーグル・マップ・データ))の全域及び蒲生郡日野町下駒月(しもこまづき:(グーグル・マップ・データ))が旧郡域。因みに、「甲賀」を「こうが」と読むのは正確には《昔も今も誤り》で、清音「こうか」と読まねばならない。「こうが」とも読むのではなく、「こうが」は、本来、あくまで誤読であることを知っている人は実は少ないと思う。しかし、ウィキの「甲賀市によれば、『市内の公共施設における「甲賀」はほぼ「こうか」と発音する』とあるのである。「伊賀」は「いが」でよく、時代劇の「伊賀者」は「いがもの」でよいが、対する「甲賀者」は「こうかもの」でなくては正しくないのである。と、偉そうに言っている私も、つい先日まで「こうが」と読んでいた。この驚愕の事実は、朗読ボランティアをしている妻から知らされたものであった。

「寬文」一六六一年~一六七三年。第四代徳川家綱の治世。因みに、最古形を載せる「諸國百物語」は延宝五(一六七七)年刊であるが、その話は「京東洞院通に、むかし、片輪車と云ふ、ばけ物ありけるが」で始まる。則ち、原型は最低でも江戸初期、安土桃山時代頃までは溯る話柄として設定されていると読むべきであろう。

「碾(きしる)音」「軋る音」。

「絕入(ぜつじゆ)」失神。

「嘲哢(ちやうろう)」対象を馬鹿にして軽口をたたいて嘲(あざけ)ること。ここは「片輪車」の存在を信じて忌み籠っている者を馬鹿にし、そんな妖怪なんぞいるはずがないと豪語することを指す。

「外(そと)より、これを詈(のゝし)り」無論、以下、これは、その妖怪「片輪車」が、その嘲弄した者に言いかけた脅し文句である。

「かさねて左〔さ〕あらば」再び、そんなことを口にしたら。

「祟(たゝり)あるべし」必ずや、祟りのあると思え!

「戶のふしど」これは「戶の」とある以上、「節所」で節穴のことであろう。

「覗見(のぞき〔み〕)れば、牽(ひく)人もなき車の片輪なるに、美女一人、乘(のり)たりけるが、此門にて、車をとゞめ、

「我を見るよりも、汝が子を見よ」「我を」の「を」は③。①には「を」は、ない。

「二歲」数え。

「罪科(つみとが)は我にこそあれ小車〔おぐるま〕のやるかたわかぬ子をばかくしそ」畏れ多き御車(おくるま)を覗いた罪咎(つみとが)は私にこそあるけれども、御車がどこへ行ったやら判らぬのと同じに、ああっ! 私の可愛い幼(おさな)子も、どこか判らぬ知らぬところへと、隠されてしまった!]

2018/06/17

諸國里人談卷之二 木葉天狗

 

     ○木葉天狗(このはてんぐ)

駿遠(すんゑん)の境(さかひ)、大井川に天狗を見る事、あり。闇なる夜、深更におよんで、潛(ひそか)に封疆塘(どてつゝみ)の陰にしのびてうかゞふに、鳶のごとくなるに、翅(つばさ)の徑り、六尺ばかりある大鳥のやうなるもの、川面(かはづら)にあまた飛來り、上りくだりして、魚をとるのけしきなり。人音(ひとおと)すれば、忽(たちまち)に去れり。是は俗に云〔いふ〕術(じゆつ)なき「木の葉天狗」などいふ類ひならん。

[やぶちゃん注:「封疆塘(どてつゝみ)」三字へのルビ。「疆」は「境」の意で、通常、「封疆」(ほうきやう(ほうきょう))は「国境(くにざかい)」を指す。ここはその意味でも(駿河国と遠江国の国境)一致している。「塘」は「堤」に同じ。

「六尺」一メートル八十二センチ弱。因みに鳶(タカ目タカ科トビ属トビ Milvus migrans)の翼開長は一メートル五十センチから一メートル六十センチ程である。

「術(じゆつ)なき」はかばかしい神通力を持っていないこと。但し、ウィキの「木葉天狗を見ると、『江戸時代の随筆や怪談など各種文献に多く名が見られる天狗の一種。境鳥(さかいどり)とも呼ばれる』として、本書の本条を引いた上で、『人に似た顔と手足を持ち、くちばし、翼、尾羽を備えているとの説もある』。松浦静山の随筆「甲子夜話」巻七十三の六項には、『静山の下僕・源左衛門が』七『歳の頃に天狗にさらわれたとされる天狗界での体験談が述べられており、その中に木の葉天狗の名がある。それによれば、天狗界では木の葉天狗は白狼(はくろう)とも呼ばれており、老いた狼が天狗になったものとされ、山で作った薪を売ったり』、『登山者の荷物を背負ったりして、他の天狗たちが物を買うための資金を稼いでおり、天狗の中でもその地位はかなり低いという』。『また』、『山口県岩国の怪談を収集した書物』「岩邑怪談録」には『木の葉天狗が人間をからかった話がある。宇都宮郡右ェ門という猟師の前に木の葉天狗が小僧に化けて現れ』、『「銃を撃ってみろ」とからかい、郡右ェ門が小僧を木の葉天狗と見抜いて銃を撃つと、木の葉天狗は少しも驚くことなく「弾はここだ」と言って弾を返して姿を消したとある(当時の銃は火薬と弾を別に仕込むので』、『弾を抜いて空砲にする事が出来た)。このことから、地位の低い天狗といっても』、『変化能力などの神通力がある程度は備わっていたと解釈する説がある』。『一方では、河鍋暁斎による錦絵』「東海道名所之内 秋葉山」には、『樹上で寛ぐ木の葉天狗たちの姿が描かれていることから、術を持たない人畜無害な存在とする説もある』とある。]

諸國里人談卷之二 天狗遊石

 

    ○天狗遊石(てんぐのあそびいし)

 

伊賀國岡山に、むかしより、「天狗の遊び石」といひつたへたる石あり。方八尺ばかりにして、上、眞平(まつたひら)に切立〔きりたて〕たるごとくなるが、山の崕岸(がけぎし)にありて突落(つき〔おと〕)さば、おつべかりける場所也。寶永のころ、大守、庿所(びやうしよ)の禮拜石(れいはいせき)に宜(よろし)きとして、𢌞〔めぐ〕りの土を穿(うがち)て、谷へつきおとしければ、何の事なく、落たり。大勢の人夫をして、日每に、これを引〔ひき〕て、上野(うへのゝ)城下の坂口まで一里ばかりの所へ引付〔ひきつけ〕たり。其日、俄(にわか)に大白雨(〔おほ〕ゆふだち)して、雷(いかづち)、地を覆(くつがへ)す。よつて、人夫を引く。夜に入〔いり〕て、益(ますます)、やまず。やうやう、明方に靜(しづま)りける。然(しかる)に件(くだん)の石、夜中(やちう)に、元の山上へ、引戾(〔ひき〕もど)して、あり。依(よつ)て、其事を止(とゞ)む。

[やぶちゃん注:「天狗の遊び石」同名の菓子を現地の伊賀菓庵山本が販売しており、そこには『伊賀民話銘菓』と銘打っているので、伝承は残っている。「伊賀國岡山」三重県伊賀市寺田の附近(グーグル・マップ・データ)。「岡山口」というバス停や「岡山遊園地」があった。更に調べた結果、やはりここでよかった。個人サイト「View halloo!!ページを見られたい。石がこの園地内にあることもここで判った。最初の案内板の写真の右のピークの中腹やや上に「天狗の遊び石」とある。更に解説(案内板の翻刻か)を引かせてもらうと、『その昔、伊賀国の殿様が亡くなった時』(本条は亡くなる前でやや異なる)、『重臣たちは立派なお墓をつくろうと、四方八方を尽して石探しをした。その時、この岡山の石が選ばれたが、多くの人夫を使って運搬の途中、にわかに雷鳴をとどかす大雨が降った。その日はやむなく作業を中止し、翌朝雨がやんだので現地に行ってみると、何と運んできた筈の石が姿を消していた。石はいつの間にか元の岡山へ戻っていたので、これはきっと、普段この石を遊び道具に使っていた天狗が、大雨を降らせて取り返したのだと、里人がうわさをしたそうな』とある。

「寶永」一七〇四年から一七一一年まで。

「大守」伊賀は津藩(つはん)の領有地で、宝永年間の藩主は第四代藤堂高睦(たかちか)と養子の第五代藤堂高敏の孰れかである。

「庿所(びやうしよ)」廟所。

「禮拜石(れいはいせき)」墳墓の手前に敷く石であろう。吉川弘文館随筆大成版はここを『礼許石』と翻刻するが、採らない。

「上野(うへのゝ)城下の坂口」上野城は、現地の西方、現在の三重県伊賀市上野丸之内(上野公園)にあった伊賀上野城。(グーグル・マップ・データ)。]

諸國里人談卷之二 窟女

 

     ○窟女(いはやのをんな)

勢州壱志郡川俣川、劔(つるぎ)が淵に、方一丈余の岩窟あり。寬文のころ、此窟の中に人、あり。川向(〔かは〕むかひ)の家城村より、これを見て、あやしみ、里人、筏(いかだ)を組(くみ)て、その所に至る。三十(みそじ)ばかりの女、髮をみだし、そらざまにして、髮のさきを、上の岩に漆膠(しつこう)を以〔もつて〕付〔つけ〕たるごとくに釣(つる)して、くるしげもなき躰(てい)にて、中(ちう)にあり。里人、抱きおろさんとするに、髮、はなれず。中(ちう)より髮を切(きつ)ておろし、里につれ行〔ゆき〕、水、そゝぎ、藥などあたへければ、正氣となりぬ。しだいを問ふに、前後をしらず。美濃國龍が鼻村の長(おさ)の妻なるよしを云〔いふ〕。此所は津(つ)の領分なれば、政所(やくしよ)に訴ふ。國主より濃州へ通じられける。迎(むかい)の者、大勢、來り、ぐして歸りぬ。

[やぶちゃん注:「勢州壱志郡川俣川」「壱志郡」は一志(いちし/いし)と読み、伊勢国及び旧三重県にあった郡。しかし、「川俣川」という川は不詳。「川俣」という地名はあるが、ここは旧一志郡内ではない。しかし、後の「川向(〔かは〕むかひ)の家城村」が判った。これは「いえきむら」で、現在の三重県津市白山町南家城を中心にした一帯である。(グーグル・マップ・データ)。現在、ここを貫流する川の名は「雲出川」であるが、一つのロケーションの可能性は雲出川が東へ屈曲する辺りか。東から支流が入って俣になっているからである。この川、ストリートビューで見ると、確かに岩盤河床が広がっている。

「一丈余」三メートル超。

「寬文」一六六一年から一六七三年まで。

「そらざまにして」上を向いているのであるが、これは何と、窟の上の方の岩に、髪の毛の先を漆(うるし)か膠(にかわ)で以って付着させたかようにして、そこから髪の毛だけで身体を吊るして、しかも一向に苦しそうな様子もせず、そのままぶら下がって、空中にいる、のである。なお、吉川弘文館随筆大成版は「漆膠」を『漆膝』と翻刻する。――ジーパンの末期風に――「何んじゃあ? こりゃあ!」

「中(ちう)より」髪の途中部分から。

「美濃國龍が鼻村」不詳。識者の御教授を乞う。]

諸國里人談卷之二 皿屋敷

     ○皿屋敷

正保年中、武士の下女、十の皿を一井に落〔おとし〕たる科(とが)によつて、害せられ、其亡魂、夜々(よなよな)、井の端にあらはれ、一より九まで算(かぞへ)、十をいはずして、泣叫(なきさけぶ)と云〔いふ〕事、普(あまね)く世に知る所也。此古井の屋敷は、江戶牛込御門の内にあり。又、雲州松江に件(くだん)の井あり。又、播州にもあり。其趣、皆、同じ事也。いづれか一所は、其〔それ〕、眞(まこと)あるか。三所ともに同じ。皿碎(さらわり)の亡灵〔ばうれい〕、附會の說なり。

[やぶちゃん注:お馴染みのお菊皿屋敷。ヴァリエーションの詳細はウィキの「皿屋敷」を参照されたい。因みに、その出典「42」は私のブログ版「耳囊 卷之五 菊蟲の事」である(私がリンクさせたものではない。私は「ウィキペディア」のライターの一人であるが、「ウィキペディア」では公正性を欠く虞れから、自分の書いたネット記事やページへのリンクは出来ない決まりとなっているのである)

「正保年中」一六四五年から一六四八年まで。徳川家光の治世。

「江戸牛込御門の内」現在のこの附近(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「皿屋敷」によれば、『江戸の「皿屋敷」ものとして最も広く知られている』ものは、宝暦八(一七五八)年に講釈士馬場文耕が書いた「皿屋敷弁疑録」を元として形成された怪談芝居「番町皿屋敷」で、『牛込御門内五番町にかつて「吉田屋敷」と呼ばれる屋敷があり、これが赤坂に移転して空き地になった跡に千姫の御殿が造られたという。それも空き地になった後、その一角に火付盗賊改・青山播磨守主膳の屋敷があった。ここに菊という下女が奉公していた』。承応二(一六五三)年(但し、作中設定)『正月二日、菊は主膳が大事にしていた皿十枚のうち』一『枚を割ってしまった。怒った奥方は菊を責めるが、主膳はそれでは手ぬるいと皿一枚の代わりにと菊の中指を切り落とし、手打ちにするといって一室に監禁してしまう。菊は縄付きのまま部屋を抜け出して裏の古井戸に身を投げた。まもなく夜ごとに井戸の底から「一つ……二つ……」と皿を数える女の声が屋敷中に響き渡り、身の毛もよだつ恐ろしさであった。やがて奥方の産んだ子供には右の中指が無かった。やがてこの事件は公儀の耳にも入り、主膳は所領を没収された』が、『その後もなお』、『屋敷内で皿数えの声が続くというので、公儀は小石川伝通院の了誉上人に鎮魂の読経を依頼した。ある夜、上人が読経しているところに皿を数える声が「八つ……九つ……」、そこですかさず上人は「十」と付け加えると、菊の亡霊は「あらうれしや」と言って消え失せたという』。『この時代考証にあたっては、青山主膳という火附盗賊改は存在せず(『定役加役代々記』による』『)、火付盗賊改の役職が創設されたのは寛文二(一六六二)年と『指摘されている』。『その他の時代錯誤としては、向坂甚内が盗賊として処刑されたのは』、慶長一八(一六一三)年で『あり、了誉上人にいたっては』実に二百五十年も前の応永二七(一四二〇)年に『没した人物である』。また、『千姫が姫路城主・本多忠刻と死別した後に移り住んだのは五番町から北東に離れた竹橋御殿であった』とある。また、「番町皿屋敷」より以前に「牛込の皿屋敷」なる怪談群が先行して存在し、これは『皿屋敷伝説の、重要要素である』十『枚の皿のうちの』一『枚を損じて命を落とす部分』が共通するとし、『早い例は』正徳二(一七一二)年の宍戸円喜作の「当世智恵鑑」という『書物に収録され』ており、『要約すると、次のような話である』。『江戸牛込の服部氏の妻は、きわめて妬み深く、夫が在番中に、妾が南京の皿の十枚のうち』、『一枚を取り落として割ってしまったことにつけ、それでは接客用に使い物にならないので、買』い『換えろと要求するが、古い品なので、もとより無理難題であった。更に罪を追及して、その女を幽閉して餓死させようとしたが』、五『日たっても死なない。ついに手ずから絞め殺して、中間に金を渡し』、『骸を棺に入れて運ばせたが、途中で女は蘇生した。女は隠し持った』二百『両があると明かして命乞いするが』、四『人の男たちはいったん』、『金を懐にしたものの、後で事が知れたらまずいと、女を縊りなおして殺し』、『野葬にする。後日、その妻は喉が腫れて塞がり、咀嚼ができずに危険な状態に陥り、その医者のところについに怨霊が出現し、自分に手をかけた男たち』は『既に呪い殺したこと、どう治療しようと』、『服部の妻は死ぬことを言い伝えた』。『三田村鳶魚は、この例「井戸へ陥ったことが足りないだけで、宛然皿屋敷の怪談である」としている』。『また、「牛込の御門内、むかし物語に云』う、『下女あやまって皿を一ツ井戸におとす、その科により殺害せられたり、その念ここの井戸に残りて夜ごとに彼女の声して、一ツより九ツまで、十を』言わずに、『泣けさけぶ、声のみありてかたちなしとなり、よって皿屋敷と呼び伝えたり』」と享保一七(一七三二)年の『「皿屋敷」の項に見当たる。牛込御門台の付近の稲荷神社に皿明神を祀ると、怪奇現象はとだえたと伝わる』とある。

「雲州松江に件(くだん)の井あり」ウィキの「皿屋敷」によれば、『正保の頃、出雲国松江の武士が秘蔵していた十枚皿の一枚を下女が取り落として砕き、怒った武士は下女を井戸に押し込んで殺す。だが「此ノ女死シテ亡魂消へズ」夜毎に一から九まで数え、ワッと泣き叫ぶ。そこで知恵者の僧が、合いの手で「十」と云うと、亡霊はそれ以来』、『消滅した』(元禄二(一六八九)年「本朝故事因縁集」)とある。

「播州にもあり」ウィキの「皿屋敷」によれば、主に「播州皿屋敷実録」に基づくもので、同作は『成立時は明らかではないが』、『江戸後期に書かれた、いわば好事家の「戯作(げさく)」であり』、『脚色部分が多く加わっている』。『姫路城第』九『代城主小寺則職の代』(永正一六(一五一九)年以降。但し、作中設定)、『家臣青山鉄山が主家乗っ取りを企てていたが、これを衣笠元信なる忠臣が察知、自分の妾だったお菊という女性を鉄山の家の女中にし、鉄山の計略を探らせた。そして、元信は、青山が増位山の花見の席で則職を毒殺しようとしていることを突き止め、その花見の席に切り込み、則職を救出、家島に隠れさせ再起を図る』。『乗っ取りに失敗した鉄山は家中に密告者がいたとにらみ、家来の町坪弾四郎に調査するように命令した。程なく』、『弾四郎は密告者がお菊であったことを突き止めた。以前からお菊に惚れていた弾四郎はこれを好機としてお菊を脅し、妾になれと言い寄るが、お菊に拒まれる。その態度を逆恨みした弾四郎は、お菊が管理を委任されていた』、十『枚揃えないと意味のない家宝の毒消しの皿「こもがえの具足皿」のうちの一枚をわざと隠す。そして皿が紛失した責任をお菊に押し付け、ついには責め殺して古井戸に死体を捨てた』。『以来』、『その井戸から夜な夜なお菊が皿を数える声が聞こえたという』。『やがて衣笠元信達(則職の家臣)によって鉄山一味は討たれ、姫路城は無事、則職の元に返った。その後、則職はお菊の事を聞き、その死を哀れみ、十二所神社の中にお菊を「お菊大明神」として祀ったと言い伝えられている。その後』、三百『年程経って城下に奇妙な形をした虫が大量発生し、人々はお菊が虫になって帰ってきたと言っていたといわれる』。なお、『姫路城の本丸下、「上山里」と呼ばれる一角に』は事実、『「お菊井戸」と呼ばれる井戸が現存する』。「お菊虫」が出てきたところで、私の 之五 菊蟲の事及びその続編である菊蟲再談の事をリンクさせておく。

「其趣、皆、同じ事也。いづれか一所は、其眞(まこと)あるか。三所ともに同じ。皿碎(さらわり)の亡灵〔ばうれい〕、附會の說なり」「その趣向の核心部分は、これ、孰れも皆、同一の内容である。孰れか一箇所の怪談話には、真実性があるのだろうか? しかし、三ヶ所とも、どれもこれも展開さえも基本、同じではないか! こんなに似通った変な話が、お目出度くも、三箇所で別々に、別な時代に起こるなんてことは、あり得ない! 皿が割れることを主調とするところの亡霊話とは、全くのコジツケ話に過ぎず、信ずるに足りない! と、ここは、沾涼、珍しく、現実的な批判をして、バッサリ、斬って捨てた感がある。何故かは知らぬが、沾涼は「皿屋敷」怪談総体が嫌いだったように見受けられる。]

諸國里人談卷之二 鬼女

 

     ○鬼女

享保のはじめ、三河國保飯(ほいの)郡舞木(まひき)村、新七といふものゝ女房【「いわ」と云〔いふ〕。年、二十五。】、京都より具して來りけるが、常に心、尖(するど)にして、唯、狂人のごとくなるに、夫、これを倦(あき)て、出奔しけり。其跡をしたひ、遠州新井まで追來りけれども、御關所を通る事、あたはず、むなしく歸りしが、有し所に住(すん)で、益(ますます)、瞋恚(しんい)の焰(ほのを[やぶちゃん注:ママ。])、さかんにして、亂心のごとくなり、折節、隣家(りんか)に死せるものあり。田舍の習ひにて、あたり近き我(わが)林の中にして、火葬しける。彼(かの)女、此所に行〔ゆき〕て、半燒(なかばやけ)たる死人(しにん)を引出〔ひきいだ〕し、腹を裂(さき)、臟腑をつかみ出〔いだ〕し、飯子(めしつぎ)やうの器(うつは)に入〔いれ〕て、素麺(さうめん)などを喰(くふ)ごとくに喰ひ居〔を〕る所へ、施主のもの、火のありさまを見に來り、此躰(てい)を見て、大きに驚き、村中、棒・滕木(ちぎりき)にて、これを、追ふ。女、大〔おほき〕に怒(いか)り、「かほど、味(あぢは)ひよきもの、汝等もくらふべし」と、躍り狂ひて、蝶鳥(ちやうとり)のごとく翔翔(かけり)て、行方(ゆきかた)なくなりぬ。その夜、近き所の山寺に入〔いり〕て、例のごとく、持(もち)たる器(うつは)より、肉を出〔いだ〕して、喰(くら)ふ。僧侶、驚き騷ぎ、早鐘(はやがね)にて里へしらせければ、村民、翔(かけ)あつまる。彼女、此躰(てい)を見て、「また、爰(こゝ)もさはがし」とて、後〔うしろ〕の山の、道もなき所を、陸路(ろくち)を行〔ゆく〕ごとく缺登(かけのぼり)て、失(うせ)ぬ。生(いき)ながら、鬼女となりたる事、目代(もくだい)へ訴へければ、件(くだん)を事書(じしよ)にして、村々へ觸られけるなり。

[やぶちゃん注:「享保のはじめ」享保は一七一六年から一七三六年まで。

「三河國保飯(ほいの)郡舞木(まひき)村」「保飯郡」は八世紀の律令制以降は「寶飫(ほお)郡」であったが、これが「寶飯(ほい)郡」と誤記された。しかし「舞木村」は不詳。表記の誤りが疑われるが、事件が猟奇的なだけに、これ以上、探索するのはやめておく。

「遠州新井」現在の静岡県湖西市新居町。浜名湖海開部の西岸。(グーグル・マップ・データ)。同地区内に「新居関跡」がある。(グーグル・マップ・データ)。正式名称は「今切関所(いまぎれせきしょ)」。

「飯子(めしつぎ)」飯櫃(めしびつ)。おはち。

「滕木(ちぎりき)」ウィキの「契木術によれば、『契木(ちぎりき)は、樫などの堅い木の棒に鉄製の石突と鎖分銅がついた武具・捕具で』、『鎖は、単に棒の先端に固定されているものと、棒の中の空洞に収まっていて振り出し式になっている振り杖と呼ばれるものがある。分銅で相手を打ったり、巻きつけて動きを封じるといった使用法がある』。『また、ほぼ胸の高さに達する長さ(ほぼ四尺:』一メートル二十センチ『前後)であることから「乳切木」とも表記される。「諍い果てての棒乳切木」という慣用句が示すように、かつての農村における喧嘩の道具としては』、『棒と並んで一般的なものであった。ただし、日常的には重い物の運搬時に肩にかける棒や』、『物の重さを計測するために使用される民具であり、鎖分銅を取り付けた「乳切木」は武芸に使用するために改造されたものである』。『武器として使用されるに至る歴史には不明な点が多く、特殊な武術といえる。鎖鎌と同じく一流派としては独立することなく、あくまでも総合武術の一部として取り入れられ、長さも使用者によりまちまちであった』とある。

「陸路(ろくち)」ここは平地の意味であろう。

「目代(もくだい)」代官。

「事書(じしよ)」要件を箇条書きにした文書。]

諸國里人談卷之二 河童歌

 

     ○河童歌(かはらうのうた)

肥前國諫早(いさはや)の邊〔あたり〕に、河童(かはらう)、おほくありて、人を、とる。

 ひやうすへに川たちせしを忘れなよ川たち男我も菅原

此哥を書(かき)て、海河(かいか)に流せば、害をなさず、と也。「ひやうすへ」は兵揃(ひやうすへ)にて、所の名也。此村に天滿宮のやしろあり。よつて、「すがはら」といふなるべし。○又、長崎の近きに澁江文太夫といふ者、河童(かはらう)を避(さく)る符(ふ)を出〔いだ〕。此符を懷中すれば、あへて害をなさず、と云〔いふ〕。或時、長崎の番士、海上に石を投(なげ)て、其遠近(ゑんきん)をあらそひ、賄(うけもの)して遊ぶ事、はやる。一夜(あるよ)、澁江が軒(のき)に來りて曰(いはく)、「此ほど、我(わが)栖(すみか)に、日每〔ひごと〕、石を投〔なげ〕ておどろかす。是(この)事、とゞまらずんば、災(わざはひ)をなすべし」となり。澁江、驚き、これを示す。人、皆、奇なりとす。

[やぶちゃん注:崎の河童とキャプションする本条の挿絵がある(①)。ここは何より、私の根岸耳囊 卷之七 川狩の難を遁るゝ歌の事」の私の注を是非、参照されたい。本条も電子化しているし、類話も掲げてあるからである。

「ひやうすへに川たちせしを忘れなよ川たち男我も菅原」一部では菅原道真の作と伝承される。この歌、意味が採れないのであるが、まずはこれは河童封じの呪文・呪歌であるからして、そもそもが意味が採れるような代物では呪力が知れるというもの、といなしておく。と言っても、実は前のリンク先で類型の呪歌を幾つか拾ってあるのでそれを示すと、まず「耳囊」のそれは(写本二種で微妙に異なるので二つ並べる)、

 ひふすべに飼置(かひおき)せしをわするゝな川立(かはだち)おとこうぢはすがわら

 ひよふすべよ約束せしを忘るゝな川だち男うぢはすがわら

で、「物類称呼」(俳人越谷吾山編になる方言辞典。安永四(一七七五)年刊)に、九州で川下りをする際に唱えるものとしてものは、

 古(いにしへ)の約束せしを忘るなよ川立ち男氏は菅原

である。佐藤中陵の随筆「中陵漫録」(佐藤中陵は江戸中後期の本草家で、宝暦一二(一七六二)年生まれで嘉永元(一八四八)年没。後年、水戸藩に仕え、江戸奥方番などを経て、弘道館本草教授となった)の「河太郎の歌」(リンク先に本文も電子化してある)、のそれは、

 ひやうすへに川たちせしを忘れなよ川たち男我も菅原

で完全に本条の歌と一致する。「諸國里人談」は寛保三(一七四三)年刊であり、リンク先の本文を読んで貰えば判るが、佐藤は恐らく、本書を元にこの歌を記したのだと思われる。さて、この一連の歌の意味であるが、まず、菅原は当然、菅原道真で、大宰府周辺現地での道真には河童伝承が纏わる。彼が治水事業で河童を使役したとか、九州の大宰府へ左遷させられた菅原道真が河童を助け、その礼に河童たちは道真の一族には害を与えない約束をかわしたという伝承があり、これらの歌もそれを受けたものであって、「川立ち男」というのは、水中でも陸と同じように立つ男、泳ぎの上手な男の意で、河童も勝てない水練の達人菅原道真(とその子孫)の謂いである。則ち、これらの歌は「ひょうすべ(河童)たちよ! 古えの誓いを忘れてはおるまいな?! 水練の手練れ男は、誰もが、菅原道真の子孫なのだ! 私もだ! 恐れ入れ!」といった意味合いを含ませた呪歌・呪文なのである(詳しくはリンク先の私の注(引用)を読まれたい)。

『「ひやうすへ」は兵揃(ひやうすへ)にて、所の名也。此村に天滿宮のやしろあり』柳田國男は「山島民譚集(一)」の「河童駒引」の「ヒヨウスヘ」で「笈埃(きゅうあい)随筆」(江戸中期の旅行家百井塘雨(ももいとうう ?~寛政六(一七九四年)の紀行随筆)から引いて(巻之一の「水虎」)、『肥前諫早(イサハヤ)在ノ兵揃(ヒヤフスヘ)村天滿宮ノ神官渋江久太夫ノ家ノ歷史トシテ此話』(本条に書かれた内容)『ヲ傳ヘタリ』と記しながら、その直後に、『自分ノ知ル限リニ於テハ、肥前ニハ兵揃(ヒヤウスヘ)ト云フ村ノ名無シ。恐ラクハ亦傳聞ノ誤ナラン』とし、『大宰府天滿宮ノ末社ノ一ニ、「ヒヤウスベ」ノ宮アリ』として例の歌二種を掲げた上、『之ヲ以テ見レバ、「ヒヤウスヘ」本來河童ノコトニハ非ズシテ、化物退治ヲ以テ專門トシタル神ナリシカト思ハル』と述べているのである(太字やぶちゃん)。或いは、ここでの沾涼の謂いが、或いは、この誤伝の元凶であったものかも知れぬ

「賄(うけもの)」ここは金を出し合って、それをかけ物とすることか。

『澁江が軒(のき)に來りて曰(いはく)、「此ほど、我(わが)栖(すみか)に、日每〔ひごと〕、石を投〔なげ〕ておどろかす。是(この)事、とゞまらずんば、災(わざはひ)をなすべし」となり。澁江、驚き、これを示す。人、皆、奇なりとす』これ、よく考えてみると、おかしい。河童は呪符を発行(販売)する超苦手な渋江のところ行くまでもなく、投石遊びをする連中の所に出て、脅した方が、遙かにまどろっこしくなく、効果的であろうと思われる。寧ろ、これによって大衆が渋江に対して、彼の河童に対する霊験的抗力を再度、知らしめることとなり、またまた呪符が飛ぶように売れたに相違なく、私はこれは、真正の怪異譚ではなく、そうした見え透いた渋江の一芝居の擬似怪談のように思われるのである。]

諸國里人談卷之二 雇天狗

 

 

   ○雇天狗(てんぐにやとはる)

 

正德のころ、江戶神田鍋町、小間物商(あきな)ふ家の、十四、五歲の調市(でつち)、正月十五日の暮かた、錢湯へ行〔ゆく〕とて、手拭など持〔もち〕、出〔いで〕けり。少時(しばらく)して、裏口に彳(たゝず)む人、あり。

「誰(たれ)ならん。」

ととがむれば、かの調市也。股引(もゝひき)・草鞋(わらじ)の旅すがたにて、藁苞(わらづと)を杖にかけて、内に入〔いり〕けり。主人、了(さと)き男にて、おどろく躰(てい)なく、

「まづ、わらんじを解(とき)、足をすゝぐべし。」

といへば、かしこまりて足をあらひ、臺所の棚より、盆を出〔いだ〕し、苞(つと)をほぐせば、野老(ところ)なり。これを積(つみ)て、

「土產なり。」

とて出〔いだ〕しぬ。主人の云〔いはく〕、

「今朝(けさ)は、いづかたよりか、來れる。」

「秩父の山中(さんちう)を、今朝(けさ)出〔いで〕たり。永々(ながなが)の留主(るす)、御事かけにぞ侍らん。」

といへり。

「いつ、家を出〔いで〕たる。」

と問ふに、

「舊臘(ふゆとし)十三日、煤(すゝ)をとりての夜、かの山に行〔ゆき〕て、きのふまで、其所に、あり。每日の御客にて給仕し侍り。さまざまの珍物(ちんぶつ)を給はる。客は、みな、御出家にて侍る。きのふ、仰(あふせ)つるは、

『明日は、江戶へ、かへすべし。家づとに野老(ところ)をほるべし。』

とあるによつて、これを掘(ほり)ける。」

など、語りぬ。その家には、此もの、師走、出〔いで〕たる事を、曾て、しらず。

 其代(そのかはり)として、いかなるものか、化(け)してありけると、後にこそは、しりぬ。

 其後〔そののち〕、何の事もなく、それきりにぞ、すみける。

[やぶちゃん注:会話が多いので特異的に改行した。本話は既に柴田宵曲 妖異博物館 「天狗の誘拐」(1)の私の注で電子化してある。リンク先は天狗の神隠し風の話をよく集めてあり、それを読み易く現代語訳してもあるので、未読の方は同「(2)」と合わせてお薦めである。解離性同一性障害(旧多重人格障害)が疑われる。

「正德」一七一一年から一七一六年まで。

「神田鍋町」現在の東京都千代田区神田鍛冶町三丁目。この附近(グーグル・マップ・デ「調市(でつち)」「丁稚」(でっち)。「でっち」の語源は諸説あり、弟子が変化した「でっし」の転じたとする説や、若者や身分の低いことを意味する漢語「丁稚(ていち)」の転訛とする説、他に「小者」であることから、双六で二つの骰子(さい)の目がともに一になる意味の「重一・調一・畳一」(総て「でっち」と読む)の転訛とする説等がある。従がって漢字表記は当て字と考えた方が無難で、他にここに出る「調市」の他、「丁兒」「童奴」等がある。

「藁苞(わらづと)」藁を編んで物を包むようにしたもの。そこから転じて「土産物」の意ともなった。

「野老(ところ)」ここは広義の山芋のこと。

「御事かけにぞ侍らん」ご迷惑をお掛け致しました。

「舊臘(ふゆとし)」音で「きうらふ(きゅうろう)」で「臘」「臘月」で陰暦十二月の意であるから、新年になってから、「昨年の十二月」の意で用いる語である。

「十三日、煤(すゝ)をとりての夜」年末、正月に備えて、家の内外を大掃除する「煤払い」のこと。江戸時代には十二月十三日に行うのが恒例であった。

「家づと」「家苞」。土産。]

諸國里人談卷之二 髮切

 

     ○髮切(かみきり)

元祿のはじめ、夜中に、徃來(ゆきし)の人の、髮切る事、あり。男女共に、結(ゆひ)たるまゝにて、元結際(もとゆひぎは)より切〔きり〕て、結たる形にて、土に落(おち)てありける。切られたる人、曽て覺へ[やぶちゃん注:ママ。]なく、いつきられたるといふをしらず。此事、國々にありける中に、伊勢の松坂に多し。江戸にても切られたる人あり。予がしれるは、紺屋町(こんやちやう)金物屋の下女、夜(よる)、物買(ものかひ)に行きけるが、髮を切られたる事、いさゝかしらず、宿(やど)に皈(かへ)る。人々、髮のなきよしをいふにおどろき、氣をうしなひたり。その道を求(もとむ)るに、人のいふに違(たが)はず、結たるまゝにて、落てありける。其時分の事也。

[やぶちゃん注:「元祿のはじめ」元禄は一六八八年から一七〇四年まで。

「紺屋町」神田紺屋町であろう。(グーグル・マップ・データ)。現在、南北に分離してあるが、これはウィキの「紺屋町によれば、『それまで神田北乗物町の南部のみであった神田紺屋町の住民に対し』、享保四(一七一九)年(本書刊行より前であるが、ここは元禄初めとあるから、話柄内時制では分離していなかった南部方向周辺のみの紺屋町である)に『町の防火のために江戸幕府の命令で一部分の住民が神田北乗物町の北部に移されたことに由来する』とある。

「宿(やど)」奉公している主家たる金物屋。

「その道を求(もとむ)るに」その帰ってきた道筋を辿って探し求めてみたところが。

「其時分」冒頭に述べた元禄初め。]

諸國里人談卷之二 森囃

 

     ○森囃(もりのはやし)

 

享保のはじめ、武州相州の界(さかひ)、信濃坂に、夜每に囃物(はやしもの)の音(おと)あり。笛・皷(つゞみ)など、四、五人聲〔ごゑ〕にして、中に老人の聲、一人ありける。近在、又は、江戶などより、これを聞(きゝ)に行く人、多し。方十町に響(ひゞき)て、はじめは、その所、しれざりしが、しだいに近くきゝつけ、其村の產土神(うぶすな)の森の中なり。折として篝(かゞり)を焚(たく)事あり。翌日(あけのひ)見れば、靑松葉の枝、燃(もへ[やぶちゃん注:ママ。])さして、境内に、あり。或はまた、靑竹の大きなるが、長一尺あまり、節をこめて切〔きり〕たるが、森の中に捨(すて)ありける。「これは、かの皷(つゞみ)にてあるべし」と、里人のいひあへり。たゞ囃の音のみにして、何の禍(わざは)ひもなし。月を經て、止まず。夏のころより、秋・冬かけて、此事、あり。しだいしだいに間遠に成〔なり〕、三日、五日の間、それより、七日、十日の間を隔(へだて)たり。はじめのほどは、聞〔きく〕人も多くありて、何の心もなかりけるが、後々は、自然とおそろしくなりて、翌年(あくるとし)、春のころ、囃のある夜は、里人も門戶(もんこ)を閉(とぢ)て、戶出(こいで)をせず、物音も高くせざりしなり。春のすゑかた、いつとなく、止みけり。

[やぶちゃん注:後に「天狗の囃」とキャプションする図が掲げられているが(①)、これはどう見ても本話の挿絵である。ということは文中には全く出ないけれども、この囃子の原因を沾涼は天狗の仕業と考えていたことになる。本話は既に、私の『柴田宵曲 妖異博物館 「狸囃子」』の注で電子化してある(リンク先には宵曲の現代語訳が載る)。宵曲はこれを怪異「狸囃子」の最古形と位置付けている(『この囃しの正體は無論わからない。場所は産土神の境内とわかり、時に火を焚くとか、遺留品があるとかいふ事實がありながら、何者の所爲か突き止められぬところを見れば、やはり人間の囃しではないのであらう。時代はこれが一番古い』)が、しかし、私は寧ろ、そこで前に彼が紹介している、鈴木桃野(とうや 寛政一二(一八〇〇)年~嘉永五(一八五二)年:幕臣旗本で儒者。幕府書物奉行鈴木白藤(はくとう)の子として生まれ、天保一〇(一八三九)年に昌平坂学問所教授に就任している。射術を好む一方、随筆・絵にも優れた)の「反古(ほご)のうらがき」(桃野が嘉永三(一八五〇)年頃までに完成させた怪奇談集。本「諸國里人談」は寛保三(一七四三)年刊であるから、百七年後ではある)の中の、ある人物が、この所謂、「本所七不思議」の一つとしての「狸囃子」の『正體を突き止めたいと思つて、市谷御門内より三番町通り、麹町飯田町上あたりまで、一晩中尋ね步いたけれども、遂にわからず、夜明け近くなると共に止んでしまつた。果して化物の所爲であると恐れをなしたが、その後桃野が人の話に聞いたのは、番町ほど囃子の好きな人の多い場所は稀である、今日は誰の土藏、明日は誰の穴藏といふ風に、殆ど每晩やつてゐるといふことであつた。世にいふ化物太鼓は卽ちこれで、あたりの聞えを憚つて、土藏や穴藏で囃すから、近くへ行けば却つて聞えず、風につれて遠方に聞えるのであらう、と桃野は解釋してゐる』という部分に逢着する、現実的人間である。原文を示す(一部に私が推定で歴史的仮名遣で読みを振った)。

   *

   ○化物太鼓の事

 「番町の化物太鼓」といふことありて、予があたりにて、よく聞ゆることなり。これは、人々、聞(きき)なれて、別に怪しきことともせぬことなり。霞舟翁がしれる人に、此事を深くあやしみて、或夜、其聲の聞ゆる方をこゝろざして尋行(たづねゆき)けるに、人のいふに違(たが)はず、こゝかとおもへば、かしこ也、又、其方に行てきくに、又、こなた也、市ケ谷御門内より、三番町通り、麹町、飯田町上あたり、一夜の内、尋ありきしが、さだかに聞留(ききとむ)る事なくて、夜明(よあけ)近くなりて、おのづからやみぬ。果して化物の所爲なりとて、人々にかたりておそれあへり。予が中年の頃、番町の武術の師がり行て、其あたりの人々が語りあふをきくに、「凡(およそ)太鼓・笛の道は、馬場下に越(こえ)たる所なし、稻荷の祭り・鎭守の祭りとうにて、はやしものする人をめして、すり鉦・太鼓をうたすに、同じ一曲のはじめより終り迄、一手もたがひなく合奏するは稀なり。まして他處(よそ)の人をまじへてうたする時は、おもひおもひのこと打いでゝ、其所々々の風あり、馬場下の人はそれにことなり、其一とむれはいふに及ばず、他處の人なれば、其所々々の風に合(あは)せて打(うつ)こと、一手も、たがひなし、吾輩かく迄はやしものに心を入(いれ)て學ぶといへども、かゝる態(わざ)は得がたし」といゝけり。予、これをきゝて、「扨は。おのおの方には、はやしものを好み玉ふにや、されども、稻荷の祭りの頃などこそ打玉ふらめ、其間には打玉ふことなきによりて、其妙にいたり玉ふことのかたきなるべし」といゝければ、「いや、さにあらず、吾輩がはやしは每夜なり。凡(およそ)番町程、はやしを好む人多きところも稀なり、けふは誰氏の土藏のうちにて催し、あすは何某氏が穴倉の内にて催すなど、やむ時はすくなし」といへり。予、これにて思ひ合するに、「かの化物太鼓はまさにこれなり、たゞし、あたりのきこへを憚るによりて、土藏、穴藏に入りて深くとぢこめてはやすなれば、其あたりにては、かへりて聞ヘずして、風につれて遠き方にて、きこゆるにきわまれり。さればこそ、其はやしの樣(さま)、拍子よく面白くはやすなりけり。これを『化物太鼓』といふも、むべなる哉」とて笑ひあへり。先の卷に、物のうめく聲の遠く聞へしくだりをのせたり、これとおもひ合せて見れば、事の怪しきは、みなケ樣のことのあやまりなりけり。

   *

最後の「先の卷に、物のうめく聲の遠く聞へしくだりをのせたり」とあるのは、「卷之二」の「物のうめく聲」で、鈴木桃野自身の実体験談。高田馬場で二百メートル以上離れた民家の病人の呻き声がすぐ間近に聴こえたという疑似奇談を指す。

 されば、本「諸國里人談」のこれも、最後の伝承者である古老が、祭りの笛・皷の特殊な奏法、或いは、特殊な神楽の演奏仕儀などを、それが絶えるのを惜しく思い(しかしこの手の妙法は本来は秘伝であり、演奏者から盗み取るものとされるなどということはよく聴くことである)、秘かに選んだ若者たちにつけてやっているのではないか? それが、憚るが故に、高窓しかない土蔵の奥であったり、深夜の鎮守の森であったのであろう。位置が定まらなかったり、ごく近くに聴こえるのに姿が見えないのは、発生した逆転層による現象で説明がつく(事実、後の「狸囃子」については、科学的にはそれで説明されることがすこぶる多い)。何より、篝火の炎(篝火の跡が翌日ないのなら怪異だが(但し、これも同じく逆転層で説明可能である)、事実あるのだから、そこに昨夜、化け物ではない「人」がいたと考えるのが普通である)や人工的な竹の「皷(つづみ)」が慰留品として出るのは、説明不能な怪異であるよりも(「何の禍(わざは)ひもなし」というのも何だかなだし、続かずに「春のすゑかた、いつとなく、止みけり」というエンディングも怪異として如何にもショボい)、そうした裏話が透けて見える証左であると私は採る。なお、桃山人(戯作者桃花園三千麿か)作・竹原春泉画になる幕末の妖怪画集「絵本百物語」(天保一二(一八四一)年)には「野宿火(のじゅくび)」と称する怪火が挙げられており、ウィキの「野宿火によれば、『本文の記述によれば、田舎道、街道、山中などで、誰かが火を焚いたかのように現れる細い火であり、特に人が集まって去った後や遊山に行った人が去った後に現れ、消えたかと思うと燃え上がり、燃えたかと思えば消え、これを繰り返すとある』。『「雨の後(のち)などに然立(もえたち)たるを木(こ)の間(ま)がくれにみれば、人のつどひてものいふさまなどにことならず』『」とあることから、雨降りの後などに木々の間から野宿火をそっと覗くと、その周囲から人の話し声が聞こえたとする説もある』。『鬼火の一種であり、火と言っても熱は発さず、周囲の木を燃やしたりすることはないとする解釈もある』としつつ、何と、「諸國里人談」の書名を挙げ、『「森囃」(もりばやし)と題して以下のような話が述べられて』いるとつつも、実はこの「絵本百物語」の『「野宿火」は、この「森囃」を描いたものと考えられている』とあるのである(下線太字やぶちゃん)。まさにお里が知れて、何だい! という感じである。

「享保のはじめ」享保は一七一六年から一七三六年まで。

「武州相州の界(さかひ)、信濃坂」FUKUSHIKojiサイト「FUKUSHIPlazaページによれば、これは「品野坂」の別名で、『戸塚方面への下り坂で、松並木が見事であった』。『信濃坂、科野坂とも表す』とされ、葛飾北斎の「富嶽三十六景」の有名な一枚、東海道程ヶ谷」は『品濃坂を視点に描かれたものと推定されている。樹間に枠取られた富士山に、馬子の視線が注がれている』とあり、現在、坂の『一部は失われ』、『階段や歩道橋になっている』とある。附近(グーグル・マップ・データ)。

「方十町」一キロ九十一メートル四方。

「節をこめて切〔きり〕たる」節と節の間で節を残して切り取ったもの。中が空洞になり、鼓のようにはなる。

「自然と」「おのづと」と読みたい。]

2018/06/16

私のブログがたかだか一ヶ月で一万アクセスを越える理由

 
恐らく、心ある私の知り合いたちは、私のこんな下らぬブログが、一ヶ月余りで一万人訪れることに、内心、疑問を覚えている諸君も多いと思う。
 
いや、私自身でさえ、これは意想外である。
 
しかし、猜疑するあなたのために言っておくと、私は電子テクストの注の関係上、私自身の過去記事を頻繁に見るが、残念ながら、私は私自身のアクセスを統計から除外する仕儀を行っており、それはカウントされていないのである。
 
而して、簡単に言えば、この有意なアクセスは――私の記事が色気が多く、博物学的に多岐に亙っていることと、それ以上に、教科書や大学の諸先生方が扱う作品と関わっているものが結構多いことに強く由来している、と私は思っている。
 
それは、例えば、今月僅か半月の私のブログ記事のアクセス・ランキングを見ても、一目瞭然なのだ。

1位は「Blog鬼火~日々の迷走」で763アクセスであるが、これは上記の通り、多様なワードやフレーズ検索の結果である。そもそもが、私が不明な語やフレーズを検索すると、呆れたことに、私のブログがそこに上がってくるのだから、これは、まんず、ご愛嬌というべきだろう。しかし、以下、
 
2位 「柴田天馬訳 蒲松齢 聊斎志異 酒虫」  199アクセス
 
3位 『梶井基次郎「檸檬」授業ノート』  193アクセス
 
4位 「芥川龍之介の出生の秘密」 119アクセス(芥川龍之介フリークには要チェックだろうからね)
 
5位 カテゴリ「怪奇談集」 93アクセス (これは概ね奇特でフリーキーな読者であろうと思われ、嬉しい)
 
6位 カテゴリ「夢野久作」 75アクセス(同前。感謝)
 
7位 カテゴリ「梅崎春生」 73アクセス(同前。感謝)
 
8位 『「今昔物語集」卷第三十一 本朝付雜事 太刀帶陣賣魚嫗語 第三十一』 52アクセス
 
9位 『「枕中記」原文+訓読文+語注』 46アクセス
 
10位 カテゴリ「北條九代記」 44アクセス(これも、まず、好事家で感謝)
 
11位 カテゴリ「中島敦」 42アクセス
 
12位 『黃粱夢 芥川龍之介 附 やぶちゃん注 附 原典 沈既濟「枕中記」全評釈』 42アクセス
 
13位 『大手拓次詩集「藍色の蟇」【完】』 36アクセス(これも、まず、好事家で感謝)
 
14位 カテゴリ「北原白秋」 35アクセス(同前)
 
15位 『「こゝろ」初版本表紙の謎』 32アクセス
 
16位 カテゴリ「芥川龍之介」 27アクセス(4位と同じ。彼はファンが多いからね)
 
二つ飛ばして、
 
19位 『芥川龍之介が永遠に最愛の「越し人」片山廣子に逢った――その最後の日を同定』 27アクセス(同前)
 
20位 「殴られ土下座をした白洲次郎」 26アクセス(これは恐らく、私ブログ・アクセス・ランキングの三本槍の一つで、過去、トンデモなく閲覧数が多い)
 
という状況だ。さても、この内、2・3・8・9・11・12・15のそれらは、孰れも、高等学校や大学の授業で使用される教材であることに気づかれるであろう。
 
そうなんだよ、ね。
 
ここに来る連中の半数近くは実は、悪意を以って推理するなら、或いは、授業中の先生のノートを疎かにし乍ら、試験やその他で不安になって、ちょいと、覗きに来た連中が大半なんだな、と私は思うのである。
 
そんな連中のために、私はブログを書いているのではないから、そいつらのことを私は大いに軽蔑しているとは言えるのだが、しかし、私の記事を読んで、たった一人でも全く違った地平を見出せる者がいたかも知れぬ、と思ったりもする。されば、その人には私は「恩幸、これに過ぎたるはない」と言おうと思うのである――李徴のように――だ…………
 
 

諸國里人談卷之二 ㊃妖異部 成大會

 

 ㊃妖異(よういの)部

 

    ○成大會(たいゑをなす)

永承の頃、西塔(さいとう)の僧、京に出て、歸るに、東北院の北の大路にて、童部(わらんべ)ども、あつまり、古鳶(ふるとび)を縛りからめて、杖にて打〔うつ〕などしけり。此僧、慈悲を起して、扇などを童どもにやりて、鳶を乞(こひ)て、放しやりけり。その行先の藪の中より、異(こと)なる法師、出〔いで〕て、いふ。

「先ほどは、御憐(あはれみ)を以て、からき命をたすかり侍る。その禮を謝せん。」

となり。

僧、おもひよらず、

「さる事は侍らず。人や違ひ侍らん。」

「さこそはおほすらん、東北院の大路にて、うき事見たる古鳶なり。吾、神通(じんづう)を得たれば、此よろこびに、何事なりとも、御望みに任(まか)すべし。」

となり。

さては、たゞの鳶にてはあらざるをさとり、

「我、出家の事なれば、世に望む事なし。しかし、釈迦如來、靈山(りやうせん)にて說法し給ひし粧(よそほ)ひを見せ給へ。」

と云〔いふ〕に、

「いとやすき事なり。」

とて、下松(さがりまつ)のうへの山に具して登り、

「茲(こゝ)に目を閉(とぢ)て居給ひ、說法の御聲(みこへ[やぶちゃん注:ママ。])、きこえん時、ひらき給へ。かならずしも、『貴(たつと)し』と思ひ給ふまじ。信を起し玉はゞ、己(わ)がために、惡(あし)し。」

と云〔いひ〕て、去りぬ。

 しばらくありて、御法(みのり)の聲、聞えければ、目をひらくに、山は、則(すなはち)、靈山となり、地は金瑠璃(こんるり)、草木は七重寶樹(しちぢうはふじゆ)となりて、釋尊、獅子の坐(ざ)にましまし、文殊・普賢、左右に座し、菩薩・聖衆(しやうじゆ)は雲霞のごとく、空より、四種(じゆ)の花ふり、芬芳(かんばしき)風、吹(ふい)て、天人、雲に列(つらなつ)て、微妙(みめう)の音樂を奏し、如來、甚深(たんしん)の法門を演說し給ふありさま、信、肝(きも)にめいじ、隨喜の淚をうかめ、渴仰(かつがう)の思ひ、骨に徹(とをり[やぶちゃん注:ママ。])、おもはず、掌(たなごゝろ)をあはせ、歸命頂禮(きめうてうらい)するほどに、山、鳴動して、ありつる大會(たいゑ)、かき消すごとくに失(うせ)て、たゞふかき山中也。

 あるべきにあらねば、山に皈(かへ)るに、水飮(みづのみ)の程に、ありつる法師、來り、

「さばかり、『信を發(おこ)し給ふな』と契(ちぎ)りしに、その約、たがへ給ふにより、護法天童(ごほうてんどう)くだり給ひ、『斯(か)ばかりの信者を誑(たぶら)かすぞ』とて、われらを禁(いま)しめ給ふより、伴ふ小法師原(ばら)も迯(にげ)さりぬ。我もからきめにあひて、術(じゆつ)なし。」

といひて、去りぬ。【「本朝語園」。】

[やぶちゃん注:特異的に改行を施した。

「大會」一般には規模の大きい法会(ほうえ)を指すが、ここは特別に如来となった釈迦自身の説法を指している。

「永承」一〇四六年から一〇五二年まで。後冷泉天皇の御世。

「西塔(さいとう)」比叡山延暦寺の西塔地区のこと。転法輪堂(釈迦堂とも呼ぶ)を中心とした比叡山の主要な三地区の一つ(他は南直近の東塔と北方の横川(よかわ))。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「東北院の北の大路」「東北院」は現在、京都市左京区浄土寺真如町にある、時宗の雲水山東北院であるが、この当時は現在の京都市上京区荒神口通寺町東入の北側(現在の京都御所の東(大内裏直近外側の鴨川右岸縁)にあった天台宗法成寺(ほうじょうじ:平安中期に藤原道長によって創建された摂関期最大級の寺院であったが、鎌倉時代に荒廃し、現存しない)に付属する天台宗寺院であった。なお、この東北院は道長の娘で一条天皇中宮であった、かの上東門院彰子所縁の寺である。従って、この「北の大路」とは大内裏北端の一条大路から一本北へ下がった大路である土御門大路と考えられる。

「古鳶(ふるとび)」年老いたトビ。タカ目タカ科トビ属トビ Milvus migrans 

「異(こと)なる法師」甚だ異様な感じのする僧。後の原話で判るが、これは実は妖魔の天狗である。従がってここでの装束は高い確率で山伏姿と考えてよい。

「靈山(りやうせん)」「りやうぜん(りょうぜん)」とも読む。霊鷲山(りょうじゅせん)の略称。インドのビハール州のほぼ中央にあり、釈迦がここで「無量寿経」や「法華経」を説いたとされる。「鷲峰山(しゅうぶせん)」とも別称し、本邦に見られる同名・類似の山名はこれに擬えたものが多い。

「粧(よそほ)ひ」情景。

「下松(さがりまつ)のうへの山」これは「一乗寺下り松(いちじょうじさがりまつ)」のことであろう。現在、京都市左京区一乗寺花ノ木町にある(ここ(グーグル・マップ・データ))。平安の昔から、近江から京に通じる交通の要衝。「一乗寺」は平安中期から南北朝頃までこの地にあった一乗寺に因む。ここから東直近から東北の先の比叡山に向かっては、多数の「一乗寺」を冠した稜線や谷が多数連続する。

「己(わ)がため」後に見るように、この異形僧自身のため。

「御法(みのり)」説法の尊称。ここはまさに釈迦本人の声(と聴こえるだけだが)であるから、僧にとっては殊更に格別である。

「金瑠璃(こんるり)」色ではなく、仏教の七宝の一つ金緑石のこと。実在するラピスラズリ(lapis lazuli)とする説もある。

「七重寶樹(しちぢうはふじゆ)」歴史的仮名遣は正しくは「しちぢゆうほうじゆ」。極楽浄土にあるとされる金樹・銀樹・瑠璃樹・玻璃樹・珊瑚樹・瑪瑙樹・硨磲(しゃこ)樹が、七重にも並らび生えた宝樹林、又は、黄金の根・紫金(しこん)の茎・白銀の枝・瑪瑙の条・珊瑚の葉・白玉の花・真珠の果実から成った宝の木とも言われる。

「獅子の坐(ざ)」場の上座のこと。

「菩薩・聖衆(しやうじゆ)」諸菩薩及び声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)或いは比丘などの多くの修行者や聖者の集団を指す。

「四種(じゆ)の花」「四華・四花(しけ)」で、仏の説法などの際に、瑞兆 として天から降るとされる四種類の蓮 の花。白蓮華・大白蓮華・紅蓮華・大紅蓮華とされる。

「芬芳(かんばしき)」二字へのルビ。

「微妙(みめう)」すこぶる趣深く、非常に繊細であること。

「甚深(たんしん)」古くは「じんじん」とも読んだ。非常に奥が深いこと。意味や境地などが深遠であること。

「信、肝にめいじ」自身の「信」仰の正しさを確かにしっかりと受けとめ、それを「肝に銘じ」たのである。

「歸命頂禮(きめうてうらい)」頭を地につけて仏を礼拝し、帰依の気持ちを表わすこと。

「山」比叡山。

「皈(かへ)るに、水飮(みづのみ)の程に」舌っ足らずである。「皈(かへ)る」さ「に、水、飮」まんと休まんとせし「程に」、突如、である。

「ありつる法師」「ありつる」は連語(ラ変動詞「あり」連用形+完了の助動詞「つ」の連体形)で比較的近い過去にあったことを示す。さきほどの法師。

「さばかり」副詞。「それほど・その程度に」「たいそう・非常に」。ここは「あれほど」の意。

「護法天童(ごほうてんどう)」護法善神。仏法に帰依して三宝を守護する、主に天部の神々。のこと。しばしば童子姿で語られたり、造型されたりすることから、護法童子・護法天童などの呼び名で名指すことが多い。

「原(ばら)」複数を表わす接尾語。天狗の眷属。

「術(じゆつ)なし」どうしようもなく、困り果てている。

「本朝語園」筆者不詳の全十巻からなる随筆。宝永三(一七〇六)年板行。但し、ここに出る話は、鎌倉中期に成立した教訓説話集「十訓抄」の「第一 可定心操振舞事」(心の操(みさを)を定むべき振舞(ふるまひ)の事」の中の一条である。実は私は既に柴田宵曲 續妖異博物館 「佛と魔」(その1)の注で原典を電子化している(リンク先には宵曲の現代語訳が載る)が、煩を厭わず、以下、三種の諸本を参考に私が独自に読み易く操作したものを示す。

   *

 後冷泉院御位(みくらゐ)の時、天狗あれて、世の中さはがしかりけるころ、比叡山の西塔にすみける僧、あからさまに京に出でて歸りけるに、東北院の北大路に、わらはべ五六人あつまりて、古鳶(ふるとび)のよにおそろしげなるを、しばりからめて、棒もて打さいなみけり。

「あらいとほし。などかくはするぞ。」

といへば、

「殺して、羽とらむ。」

と云ふ。この僧、慈悲をおこして、扇をとらせてこれをこひうけて、ときゆるしやりつ。

「ゆゆしき功德造行(くどくざふぎやう)。」

と思ひて行くほどに、切堤(きれつつみ)のほどに、いやうなる法師のあゆみいでて、おくれじと步みよりければ、けしきおぼえて、片方(かたへ)へたちよりて、過ぐさむとしけるとき、かの法師、ちかくよりていふやうは、

「御あはれみ蒙(かうぶ)りて、命生きてはべれば、その悦び、きこえむとてなん。」

など云ふ。たちかへりて、

「えこそおぼえね。誰人(たれひと)にか。」

と、とひければ、

「さぞおぼすらむ。東北院の北の大路にて、辛き目みて侍りつる老法師(らうはうし)に侍り。生きたるものは、いのちに過ぎたるものなし。とばかりの御心ざし、いかでか報じ申さざらん。しかれば、なにごとにても、懇ろなる御ねがひあらば、一事(ひとこと)叶へ奉らむ。小神通(せふじんつふ)をえたれば、なにかはかなへざらん。」

と云ふ。

「あさましく、めづらかなるわざかな。」

とむづかしくおもひながら、

「こまやかにいへば、やうこそあらめ。」

と思ひて、

「われはこの世の望み、さらになし。年七拾になれりたれば、名聞利養(めうもんりよふ)もあぢきなし。後世(のちのよ)こそおそろしけれど、それはいかでかかなへ給ふべき。されば申すにをよばず。但し、『釋迦如來の、靈山にて法をときたまひけむこそ、いかにめでたかりけめ』とおもひやられて、朝夕(あさゆふ)心にかけて見まほしくおぼゆれ。其ありさま、まなびて見せたまひてんや。」

といふ。此法師、

「いとやすき事也。さやうのものまねするを、おのれが德とせり。」

といひて、さがり松の上の山へぐしてのぼりぬ。

「ここにて目をふさぎてゐ給へ。佛の說法し給ひてん聲のきこえんとき、目をば見あけ給へ。但し、あなかしこ、貴(たふと)しとおぼすな。信(しん)だにも起こしたまはば、をのれがためあしかりなむ。」

といひて、山の峯のかたへのぼりぬ。とばかりして、法(のり)の御こゑきこゆれば、目を見あけたるに、地、紺瑠璃となりて、木は七重寶樹となりて、釋迦如來、獅子の座上(さしやう)におはします。普賢・文殊、左右に座したまへり。菩薩・聖衆、雲霞のごとく、帝釋・四王・龍神八部、掌(たなごころ)を合せて圍繞(いにやう)せり。迦葉・阿難等の大比丘衆一面に座せり。十六大國の王、玉冠を地に付けて恭敬(けうけい)し給へり。空より四種(ししゆ)の花降りて、かうばしき香四方にみちて、天人、空につらなりて、微妙(びめう)の音樂を奏す。如來、寶花(ほうげ)に座して、甚深(じんじん)の法門を宣りたまふ。そのこと、大かた、こころもことばも及びがたし。しばしこそ、

「いみじくまねび似せたるかな。」

と、興(けふ)ありて思ひけれ。さまざまの瑞相(ずいさう)を見るに、在世の說法の砌(みぎり)にのぞみたるがごとく、信心、忽ちに起こりて、隨喜のなみだに浮かび、渇仰(かつがう)の思ひ、骨にとをるあひだ、手を合せて心をひとつにして、

「南無歸命頂禮大恩敎主釋迦如來。」

と唱へて恭敬禮拜(らいはい)するほどに、山、おひただしくからめきさはぎて、ありつる大會(たいくわい)、かき消(け)つやうに失せぬ。夢のさめたるがごとし。

「こはいかにしつるぞ。」

と、あきれまどひて見まはせば、もとありつる山中の草深(くさふか)なり。あさましながら、さてあるべきならねば、山へのぼるに、水のみのほどにて、この法師、出で來て、

「さばかりちぎりたてまつりしことをたがへたまひて、いかで信をばおこし給へるにか。信力(しんりき)によりて、護法天童(ごはふてんどう)下り給ひて、『かばかりの信者をば、みだりにたぶろかす』とて、われら、さいなみ給へる間、雇ひ集めたりつる法師ばらも、からき肝つぶして逃げ去りぬ。をのれ、片羽(かたはね)がひ、打たれて、術(じゆつ)なし。」

といひて、失せにけり。

   *]

諸國里人談卷之二 御福石

 

     ○御福石(ごふくいし)

上州榛名山(はるなさん)に「御福石」と云あり。竪橫(たてよこ)凡(およそ)七尺ばかりの大石なり。これを、手を以てゆすれば、動く事、奇也。○「神足(しんそく)石」 一尺四、五寸に、六、七寸あり。足の跡、一足半、あざやかに付たり。これ、權現の御(み)足の跡なりと云。○「大神(おほかみ)石」 三間ばかりの石也。「疣水(いぼすい)」。石の窪(くぼみ)の水也。疣を洗へば、愈(いゆ)る事、神變なり。

[やぶちゃん注:この条、書き方が杜撰。どうも後の「神足石」と「大神石」は「榛名山」ではない模様である。

「榛名山」の「御福石」は不詳。ネット検索でも現在記録記事になく、現存する感じがしない。識者の御教授を乞う。福石は各地にある。今、私の近くなら、江ノ島にある。私の新編鎌倉志卷之六の「江島」の「福石」を見られたい。

「七尺」二メートル十二センチ。

「神足(しんそく)石」サイズが記されてある以上、具体などこかのそれであることは確かだが、しかし何の「權現」(仏が衆生を救うために神や人(巨人でも構わぬ)など、仮の姿を以ってこの世に現れたもの。「権化」も基本的には同義)なのかも判らぬ。人工物か自然物かも不明。この一足分の完全な足跡と(全長が「一尺四、五寸」(四十三~四十五センチ)とドデカい)、一足の半分の跡(それが「六、七寸」(十八~二十一センチ)なのであろう)があるそれを、具体的に御存じの方、是非、御教授あられたい。神足石も各地にある。

「大神(おほかみ)石」hamadas-2ブログ巨石・東北以外の巨石に、長野県諏訪市湯の脇にある児玉神社神社境内にある「諏訪の七石」の一つの数えられている五個の大石があり、その中の『拝殿前にある二つの大石は「いぼ石」と呼ばれ』、『神社のシンボルとなっている。大石は祭神の御霊代』であるとされ、『大石の凹にたたえられている水で「いぼ」を洗うと』、『治癒すると言い伝えられている』とある。写真を見るに、「三間」(五メートル四十五センチほど)というサイズとも一致する感じはする。]

諸國里人談卷之二 鸚鵡石

 

     ○鸚鵡石(あふむせき)

伊勢國度會(わたらへ[やぶちゃん注:ママ。])郡山田より西南五里がほど、一の瀨の鄕中村の里に【宮川ノ水上也。】「鸚鵡石」と云あり。石面(せきめん)、平(たひら)にして石塀(せきへい)のごとし。高さ九間、北面(おもて)にて、南は山に埋(うづ)めり。東西の長〔ながさ〕二十四間、西は高く、東は低し。此石の傍(かたはら)にして、琴(きん)・簫(しやう)・鐘皷(しやうこ)、或(あるは)、謠(うたひ)・小唄等、一時(いちじ)に發するに、前後をわかたず、石に響(ひゞき)て、その聲、少しも混(こんぜ)ず、音律(をんりつ)・絃管(げんくはん)、あきらかにうつる事、却(かへつ)て、こなたの聲よりも至つて鮮(あざやか)なり。唯、石中(せきちう)に神人(しんじん)あつて然(しか)るがごとし。日本無雙の奇石也。むかしは「物言(ものいひ)岩」といひしが、好事の者、これを名付て、今、「鸚鵡石」と云〔いへ〕。その謠所(うたひ〔どころ〕)の場は、西の方、石より三十間也。聞(きく)所は、石より十間斗〔ばかり〕脇也。

[やぶちゃん注:「一の瀨の鄕中村の里」現在の三重県度会郡度会町南中村(グーグル・マップ・データ)で、この石、現存する。サイト「伊勢志摩きらり千選」の『南中村「鸚鵡(おおむ)石」(度会町南中村)』によればここ(同ページの地図。グーグル・マップ・データでは「腰掛岩」とあるのが「鸚鵡石」である)、この『南中村地区の南側の山中にある大きな一枚岩』で、高さ三十メートル、幅六十メートル。「度会町史」によれば、亨保一五(一七三〇)年に、『藤堂藩の儒者、伊藤東涯が詩を作って道案内の村人に与えたが、その詩を、後に霊元上皇』(一六八七年~一六九六年)『が画工宗仙に屏風に画かせ、東涯がそれに序文を書いたという』。『さらに竹田出雲の浄瑠璃に語られたため、鸚鵡石は広く世間に知られるようになった』とあり、さらに、『この石に呼びかけるときは、石の右手約』三十『メートルの所にある小さな岩がありますので、その上に立ち、そこから呼びかけるのが最もよくこだまします』(本文は「三十間」で五十四メートル五十四センチ。不審)。『江戸末期の斉藤拙堂(津藩有造館の督学)によると』、『「石はかすかな声で歌いかけると、一言一笑でも』、『必ず答える。ただ』、『大声で怒鳴ってメロディーがないのは』、『答えようとしない。緩やかに抑揚をつけることだ」(度会町史)とあります』とあるので、この石は非常に繊細な音楽家であることが判る。非常に緻密な岩塊(注の最後に示したウィキの引用参照)で、石全体の形も関わって、前面の平滑面に当った音が反射し易いのであろう。

「宮川」ここを流れる一之瀬川は北方で、伊勢神宮の北西へと流れ下る宮川に合流する。

「二十四間」四十三メートル六十三センチ。幅だとすると、風化ではなく、損壊したものか。有意な損壊が事実なら、最も反響する位置が極端に短くなったのも腑に落ちる気もしないでもない

「簫(しやう)」竹管を用いた縦笛(たてぶえ)。

「鐘皷(しやうこ)]「鉦皷(しやうこ)」の誤りであろう。これは既出既注であるが、再掲すると、「しょうご」とも読んで、本来は、雅楽に用いる打楽器の一つを指す。青銅又は黄銅製の皿形のもので、釣り枠につるして凹面を二本の桴(ばち)で打つもの。大(おお)鉦鼓・釣(つり)鉦鼓・荷(にない)鉦鼓の三タイプがあるが、通常は釣鉦鼓を指す。中型の銅鑼(どら)のような形態を考えればよい。また、別に仏家で勤行・法会の際に敲く円形で小型の皿状をした青銅製の鉦(かね)も指し(雅楽のそれのように吊るす中型のものも仏具にはあるが)、ここは後者であろう。

「一時(いちじ)に」ちょっと。

「發するに」「に」は逆接の接続助詞であろう。楽器や唄をほんの少しだけ、小さな音で奏でたり、歌ったりしただけなのに。

「前後をわかたず」間髪を入れず。

「少しも混(こんぜ)ず」そこで実際に鳴らした楽器の音や人の声と、調子が外れたり、濁ったりすることが少しもなく、の謂いであろう。実際の音と混じり合わない、というのでは、意味不明だからである。「音律(をんりつ)・絃管(げんくはん)、あきらかにうつる事」と続くのを見ても、そういう意味である。

「こなたの聲よりも至つて鮮(あざやか)なり」やはり、これは反響を起している岩自体がよほど緻密な組成でないと起こらない現象である。

「十間」十八メートル十八センチ。

 最後に、ウィキには「鸚鵡石」があるのでそれを引いておく。『鸚鵡石(おうむいし)は、その石にむかって声や音を発すると、オウムのようにその声や音のまねをするとされる石である。その原理は、山彦に似る』。『日本の各地に鸚鵡石やその類と伝えられる石があるが、有名なのは三重県志摩市磯部町恵利原にある鸚鵡岩(おうむいわ)』『で、霊元天皇の叡覧に供したという』。以下、全国にある鸚鵡石の例として、福島県須賀川市大栗の「鸚鵡石」・愛知県田原市伊川津町の「鸚鵡石」を挙げた後に、本三重県度会郡度会町南中村の「鸚鵡石」が挙げられてある。次いで、三重県志摩市磯部町恵利原の「鸚鵡岩」と続き、最後の「鸚鵡岩」について解説がある。『伊勢志摩国立公園に属』し、幅百二十七メートル、高さ三十一メートルの『一枚岩で、「語り場」で声を発したり、備え付けの拍子木を打つと、約』五十メートル『離れた「聞き場」にいる人には』、『あたかも岩から音が発されているように聞こえる』。『地質学的には秩父層群のチャートでできている』とある。チャートchert)は「角岩(かくがん)」とも称する堆積岩の一種で、主成分は二酸化ケイ素(SiO2石英)で、この成分を持つ放散虫・海綿動物などの動物の殻や骨片(微化石)が海底に堆積して出来た岩石(無生物起源のものがあるという説もある)。断面をルーペで見ると、放散虫の殻が点状に見えるものもある。非常に硬い岩石で、層状を成すことが多い(ここはウィキの「チャート岩石)に拠った)。しかし、この『霊元天皇の叡覧に供した』という部分は、本「鸚鵡石」の記載と同じであるから、この志摩の「鸚鵡石」と、この「中村の里」の「鸚鵡石」は、混同されて伝聞していた可能性が高いと思われる。大きさや位置距離が現状と有意に異なるのも、その錯雑に拠る疑いが濃厚な気がするのである。]

諸國里人談卷之二 神石窟

 

     ○神石窟(しんじやくのいはや)

出羽國秋田の北、男鹿嶋(おがしま)は、五、六里がほど、海へさし出たる所にて、窪田よりは陸路十余里、舩路(ふなぢ)は五里ばかりなり。本山(ほんざん)・新山(しんざん)、兩山(りやうざん)の間に男鹿村といふ湊あり。此山の麓、海崕(うみぎは)に岩窟あり。「神石窟」といふ。俗に「鬼(おに)が窟(いはや)」といふ。方十間ばかりの洞(ほら)にて、上は、五色の大石、洞の口に復(おほ)ひたり。舩にて入事、一町餘り、奧に少しの平地あり。左に、方、八、九尺の穴あり。先年、山伏の行者兩人、此穴に入。松明(たいまつ)にて、凡(およそ)一里がほども行けるが、猶、その奧、はからずして皈(かへ)りたり、といひつたへたり。○取上岩(とりあげいは) 大石のうへに、ひとつの石、かさなりて、海岸にあり。風波はげしき時は、上の石を、浪にて打落す也。程經て、また、前のごとくに、をのれと、石のうへに上事、奇也。土人(ところのひと)の言葉に、「此ほどの嵐は、よほどの事なり。取上岩の落(おち)たり」など云へり。○舩隱窟(ふなかくしのいはや) 此洞に舩を入れば、出事、あたはず。よつて、此所へ船をちかづけず。打つ浪の強き所なるゆへなり。○蝙蝠窟(かうもりのいはや) 蝙蝠、おびたゞしく、あり。此窟にて、七、八人、叫(さけべ)ば、數(す)百人の樹神(こだま)す。○大山橋(おほさんきやう) 小山橋(こさんきやう) 鳥居のごとく、大石、水上に出たる所、凡(およそ)高さ、四間ばかり、その間を舩にて潛(くゞ)る也。其外、二十間、三十間、大岩の嶋々、三十三嶋あり。風景、松島・象潟(きさがた)に越(こへ[やぶちゃん注:ママ。])たり。嶋𢌞(めぐ)りの舩路、三里半。○本山は興福寺と云。天台宗也。女人結界(けつかいの)地。此山の鹿、男(お)は峰(みね)へ登れども、女(め)は登らず。

[やぶちゃん注:これは山名・地名などから総合して考えるに、男鹿半島の西南の海岸(南磯海岸)にある、現在の男鹿国定公園の一部である秋田県男鹿市船川港(ふながわみなと)本山門前(ほんざんもんぜん)祓川(はらいかわ)の海食洞「孔雀の窟(こうじゃくのいわや)」(孔雀ヶ窟(こうじゃくがくつ/くじゃくがくつ)」とも呼び、「孔雀」を「蒿雀」とも書くようだ。ここ(グーグル・マップ・データ)。サイト「男鹿なび」の「孔雀の窟」も参照されたい。写真の他、本窟に纏わる神話も紹介されてあるが、それによれば、この「窟」の元の名は「空寂(くうじゃく)の窟」とする。これは「孔雀」(くじゃく/こうじゃく)が当て字である可能性が格段に高まり、されば「神石」(こうじゃく)アリ! ということにもなろう。後文参照を中心とした海食洞群を指しているのではないかと推定する。なお、北西部の戸賀の海岸線から、この辺りにかけては多数の海食洞があり、各個同定は出来ないが(私はそもそも行ったことがない)、それらもこの記載の中に含まれているのではないかと思われる。国土地理院の地図を見ると(中心に孔雀窟。南北に図を動かして見て貰いたい)、無数の有名・無名の島(岩礁)があることが判り(「大岩島々、三十三島」に合致、また、北から「カンカネ洞」・「棧橋」(本文の「大山橋」と推定)などとづけられた、海食洞や海食台を認めることが出来る。なお、「男鹿市観光商工課」公式ブログ「男鹿ブロ」の「男鹿半島 海岸線めぐり」も見られたい。そこではここでは私は挙げなかった、男鹿半島北方部の戸賀周辺の海岸線の奇岩景勝が判る)。

 なお、ここで私がかく限定的に同定したのは、現在の「こうじゃくがくつ」という呼称にある。「神」は「神々(こうごう)しい」などの用例で判る通り、「コウ」と読め、また、「石」は「盤石(ばんじゃく)」のように「ジャク」とも読める。則ち、「神石窟」は「孔雀窟」と同じく「コウジャククツ」と音読み出来るからである。

 小学館の「日本大百科全書」他によれば、「孔雀窟」は、幅八メートル、奥行三十メートル、高さ十五メートルで、天井からは鍾乳石が垂れ下がり、洞内には数千匹のコウモリ(キクガシラコウモリ(哺乳綱獣亜綱翼手(コウモリ)目コウモリ亜目 Rhinolophoidea 上科キクガシラコウモリ科キクガシラコウモリ亜科キクガシラコウモリ属キクガシラコウモリRhinolophus ferrumequinum)とユビナガコウモリ(コウモリ亜目ヒナコウモリ科ユビナガコウモリ属ユビナガコウモリMiniopterus fuliginosus))が棲息するとある(「蝙蝠窟」の叙述と一致する)。戸賀から遊覧船が出るが、小舟でないと中には入れない、ともある。

「窪田」現在の秋田市。かつて秋田は羽後国秋田郡久保田と呼ばれた(秋田藩は藩庁のあった場所から久保田藩とも呼ばれた)。孔雀窟まで実測してみると、確かに五十キロメートル(「陸路十余里」)はある。「舩路は五里ばかり」とあるのはやや短めであるが、凡そ、秋田から直線で三十キロメートルほど航行すれば、対象海域に到達出来る。

「本山(ほんざん)・新山(しんざん)、兩山(りやうざん)の間に男鹿村といふ湊あり」男鹿半島の西海岸寄りには、ドーム状に、主峰「本山」(ほんざん:標高七百十五メートル)を中心として、北に「真山」(しんざん:標高五百六十七メートル)、南に毛無山(けなしやま:標高六百七十七メートル)が連なる(ここ(国土地理院地図))。これは「男鹿三山」と呼ばれ(但し、男鹿市では三つ目は「毛無山」ではなく「寒風山」とするようである。(グーグル・マップ・データ))、古くから、赤神権現を祀る信仰の山として知られ、平安末以来、修験者の道場として栄えた。ここでこの窟に入った山伏たちもその修行者であったのであろう。但し、「男鹿村といふ湊あり」とあるのは、やや不審で、現在の「男鹿」の中心は、秋田県男鹿市船川港船川(ふながわみなとふながわ)で、男鹿半島の南東の内側であり、ここを「本山・新山、兩山の間」とは言わないだろうし、孔雀窟の辺りに幾つかの集落があるからそれも当時は「男鹿村」村内ではあったとは思うが、これもそうは表現出来ない。不審。

「海崕(うみぎは)」「崕」は「崖」に同じ。海食崖である。

「鬼(おに)が窟(いはや)」先に示したサイト「男鹿なび」の「孔雀の窟」には、『この窟には鬼が住んでいるので船を入れるとき』舷(ふなばた)『を叩く』とある。

「方十間」十八・一八メートル四方。

「上は五色の大石、洞の口に復(おほ)ひたり」サイト「男鹿なび」の「孔雀の窟」の左画像を見られたい。言っている意味が腑に落ちる。

「一町」百九メートル。

「方、八、九尺」二メートル四十三センチ~二メートル七十二センチ四方。

「はからずして」探索することを断念して。果て知れぬ様子だったからであろう。

「をのれと」ママ。「己と」「自と」。自然と。

『土人(ところのひと)の言葉に、「此ほどの嵐は、よほどの事なり。取上岩の落(おち)たり」など云へり』これはそのまんまなら、つまらぬ平凡な記載であるが、私はこの言葉(言いかけ)にある呪的な意味が含まれているのではないかと推理する。或いは、こうした謂いをすることで落ちていない「取上岩」は「落ちた」ことになり、そう認識された上で、落ちていないそれを見て「岩が登った」と考えることで、奇瑞譚が形成され、伝承されるのではなかったか?

「此洞に舩を入れば、出ル事、あたはず」「打つ浪の強き所なるゆへなり」だったら、他にも同じような海食洞は無数にあるはずなのに、ここにのみそう付けられているのは、やはり、ここだけにそうした現象が特異的に起こるからである。海食洞の奥の潮下帯下の岩礁に海側へ向けて曲折した海中隧道が存在し、それが、洞の入口直下の海底に開口して、内側に向かって常時、循環性の海流が生じているか、或いは、海食洞の途中に、他の海食洞と通底した穴があり、それらに入った波が輻輳してこの洞の奥に流れ込むのかも知れない。或いは、洞の形状から、左右の壁面に当った波が中心に向かって強く干渉波を起こすのかも知れない。

「樹神(こだま)」木霊(こだま)に同じい。

「大山橋(おほさんきやう) 小山橋(こさんきやう)」先ほど地図から拾った以外にも「立岩」などという岩礁もあった。しかし、「鳥居のごとく、大石、水上に出たる所、凡(およそ)高さ、四間ばかり、その間を舩にて潛(くゞ)る」(「四間」は七メートル二十七センチ)というのは、先に挙げた「男鹿市観光商工課」公式ブログ「男鹿ブロ」の「男鹿半島 海岸線めぐり」の七枚目の写真の「大棧橋(だいさんきょう)」の写真とその説明、『まぁるい大きな穴がポッカリ空いて、橋のようになっていることから大棧橋と呼ばれています。戸賀の遊覧船に乗ってくぐることも出来るんですよ!』とあるのと美事に一致するように思う。対照スケールがないので写真ではよく判らないのだが、それなりの観光船がくぐることの出来るアーチは七メートル四方は必要だから、名前の類似性だけでなく、その大きさからも、ここに同定してよいだろう。

「二十間」三十六メートル三十六センチ。

「三十間」五十四メートル五十四センチ。

「大岩の嶋々、三十三嶋あり」ここはもう、北の戸賀からこの南海岸までの海岸線全体と考えてよいであろう。

「嶋𢌞(めぐ)りの舩路、三里半」既にこの時代、観光船が出ていたことが判る。しかも、「三里半」(十三キロ七百四十七メートル)とあるからには、現在の男鹿ではあり得ない(片道だけで二十キロかかってしまうからである)。その出航先は、現在のように、北の戸賀ではなかったか?

「興福寺」「天台宗」このような名の天台宗寺院は現在は本山にはない。近くの「男鹿三山」の一つ、真山には現在、真山神社(しんざんじんじゃ)があるが、ウィキの「真山神社によれば、『社伝によれば、景行天皇の御代、武内宿禰が北陸地方諸国視察のため男鹿半島へ下向の折、涌出山(わきいでやま、現在の男鹿真山・男鹿本山)に登り』、『使命達成と国土安泰・武運長久を祈願して瓊瓊杵命・武甕槌命を祀ったのが始源とされる。平安時代以降』、『仏教の伝播が男鹿へも至り、貞観年中』(八五九年~八七七年)『には慈覚大師』が『涌出山を二分し、北を真山、南は本山としたと伝えられる。以来修験の信仰が昂り、天台僧徒によって比叡山延暦寺守護神の赤山明神と習合された。南北朝時代には真山別当光飯寺は真言宗に転じ、支配も東北豪族の安部氏・清原氏・藤原氏と移りながらも、その庇護のもとに修験霊場として一山繁栄を誇った。江戸時代には国内十二社に指定され、佐竹候の祈願所として数々の寄進崇敬とともに、幾多の堂塔伽藍が営まれてきた。明治維新後は神仏分離令によって元の神域に復し、名も赤神神社から真山神社と改められた』とある。さて慈覚大師円仁は天台宗の僧である。彼が『涌出山を二分し』て『北を真山』とし、『南は本山としたと』するなら、それぞれに寺或いは堂が設けられたと考えるのが自然であり、だからこそ、『南北朝時代には』一方の『真山別当光飯寺は真言宗に転じ』と読めるわけで、この本山には天台宗の寺院或いはその仏教祭祀施設が廃仏毀釈まで存在したと考えるのが、これまた、自然である。しかし、いくら調べても本山にあったという天台宗の「興福寺」は見当たらない。現地の郷土史研究家の方の御教授を乞うものである。

「此山の鹿、男(お)は峰(みね)へ登れども、女(め)は登らず」読み違える人はいないと思うが、老婆心乍ら言っておくと、「女人結界(けつかいの)地」だから、この山の「鹿」(本物のシカである)の雄のシカは峰を登って駆けるけれども、雌のシカは山の一定以上から上へは登らない、というのである。]

2018/06/15

ブログ・アクセス百十万突破記念 梅崎春生 熊本弁


 
[やぶちゃん注:昭和三八(一九六三)年八月号『新潮』に発表された。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第四巻」(昭和五九(一九八四)年刊)を用いた。

 謂わずもがなであるが、梅崎春生は熊本五高出身である。また、事実上の主役である「川路」は「関門海峡の某島」(伏せてある)で第二次世界大戦中に兵役に就き、「いじめられ」たと語るところは、春生自身の戦争体験と美事にダブっており、川路が作者の分身の一人でもある印象を与える

 本作のメイン・ロケーションは梅崎春生自身をモデルとする主人公「ぼく」の「信州の山居」であるが、梅崎春生も昭和三二(一九五七)年の夏、蓼科高原に別荘を新築し、それ以降、概ね、毎夏をここで過ごし、か「蓼科大王」と呼ばれた。

 また、作中、引用される(小説中への俳句の引用というのは梅崎春生にしては非常に珍しい)杉田久女(ひさじょ 明治二三(一八九〇)年~昭和二一(一九四六)年)の句は、大正九(一九二〇)年八月の信州での「信州吟」(病中吟ともに百六十五句の句群)の中の初めの方にある一句で、これらは大正九年八月に信州松本に久女の実父の骨を納骨に行った際(恐らくは二人の子を連れて)の嘱目吟である。この直後、彼女は腎臓病を発症し、東京上野の実家へ戻って入院加療に入り、そのまま実家で療養に入った(この時、専ら、久女側からの意志で、夫杉田宇内(旧制小倉中学(現・福岡県立小倉高等学校)の美術教師で画家)との離婚問題が生じた)。この時の夫との別居は約一年に及んでいる(小倉への帰還は大正十年七月)。久女は結婚後の大半を小倉で過ごし、福岡県立筑紫保養院で亡くなっており、福岡生まれの梅崎春生は、ある種の親和性を彼女に抱いていたことが、ここから判る。私は久女を偏愛し、彼女の全句集(ブログ版PDF縦書版他)や小説・随筆もブログ(先のリンク先)で手掛けているので、興味のある方は見られたい。

 文中で主人公の「ぼく」が、「雅楽」の「型の一つに、背をやや前屈し片袖で顔をおおうようなのがあった」と述べているが、これは雅楽ではなく、能の「シオリ」を指しているように思われる。泣いていることを表わす所作で、指を伸ばした手を、顔より少し離れた前方へ、目を覆うように上げて、零れる涙を押さえる動きを指す。

 「ぼく」が学生時代に語学が不得手だったと述べるシーンがあるが、春生自身、語学が苦手だったかどうかはさておき、遺作「幻化」の中の印象的なシークエンスの末尾に、主人公「五郎」がドイツ語の単位を落として落第したというエピソードが出る(リンク先は私のブログ版電子化注の当該部分。なお、梅崎春生も事実、熊本五高で三年進級に落第してダブっている)のを、私は思い出した。

 後半、「去年の十月、ぼくは自宅の階段からずっこけて背骨を打ち、しばらく静養した」と出るが、これも事実で、昭和三七(一九六二)年十月、子どもふざけていて転倒し、第十二胸椎を圧迫骨折し、さらにギックリ腰になって難渋した。本作はその翌年夏の発表だから、謂わば、非常に共時性の強い作品であることも判る。

 後半で「ぐれはまな」という語を川路は使うが、これは熊本弁ではない。「ぐりはま」の転訛で、貝の「はまぐり」(蛤)を用いた古来からの「貝合わせ」の遊びからきた江戸言葉(東京方言)で、「食い違うこと」や「あてが外れること」を意味する。サイト「日本語俗語辞書」のこちらによれば、『貝の中でもハマグリは殻がしっかりし、形状が波形なため、もともと一緒だった殻同士でないとピッタリと合わないことから』「貝合わせ」に『用いられた。そして、ピッタリ合わなかったものを』「ぐりはま」『(ハマグリの倒置)と呼び、『蛤』をそのまま』百八十度』回転させた(逆さにした)漢字も存在した。ここから』、「貝合わせ」に『関係なく、先述のような意味で』「ぐりはま」が『使われるようにな』り、また、『後にこれが訛った』「ぐれはま」という『言葉が使われるようになり、現在も使われる『ぐれる』という動詞に通じ』ている、とある。この川路の謂いは、自身の性格についての謂いであり、寧ろ、今の「グレる」と同じ用法であるように思われる。

 本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが百十万アクセスを突破した記念として公開する。【2018年6月15日 藪野直史】]

 

 

 熊本弁

 

 

 川路君のことについて書こうと思う。彼は酔っぱらうと、よく熊本弁を使った。初対面でいっしょに飲んだ時、ぼくは彼が熊本出身者だとばかり思っていたほどだ。

 川路をぼくの信州の山居(というより山小屋に近い)に伴って来たのは、大和君という年少の旧友だ。大和は昔ある出版社に勤めていて、そこで友達になった。何故友達になったかというと、大和は酒飲みで、そんな縁からだったと思う。酒の酔い方、飲みっぷりが、つまりぼくの肌に合ったのだ。その出版社は間もなくつぶれた。が、大和との交友は続いた。

 前ぶれもなく彼等が信州にやって来たのは、八月の終りか、九月に入っていたかも知れない。

 紫陽花(あじさい)に秋冷いたる信濃かな

 という杉田久女の句があるが、まさしく秋冷という感じの気候の頃だった。盛夏なら避暑客や登山族でいっぱいになるけれど、その頃は宿も割にすいていて、二人は一部屋を確保し、荷物を置いてぼくの山小屋にやって来たのだ。松虫草がたくさん生えている斜面の径(みち)をごそごそと登って来て、大和が窓から首を出した。ぼくはびっくりして昼寝の姿勢から起き上った。

「やあ。ごめん下さい。これ、川路てんです」

 大和は恐縮してそばの男を紹介した。

「ぼくの友達で、H大学でフランス語を教えています」

 川路はまぶしそうな表情で頭を下げた。ちょっとふしぎな印象を受けた。体の割りに頭が大きい。いや、頭の割りに体が小さく瘦せているのである。愁(うれ)いを含んだ眼で、そのくせいつも顔はわらっているように見えた。

 も少し山の上にある先輩を訪ねて行くというので、

「では帰りに寄りなさいよ。洒とビールを用意しとくから」

 と大和に言ったら、川路はからかうような声で、

「何だ。君の大酒飲みは、こんなところにまで響き渡っているのか」

 と笑った。それでぼくは何となく川路という人は酒をたしなまないんだなと思ってしまった。

 夕方二人は山からぼくの小屋に降りて来た。遠慮する二人を招じ入れて、卓についた。ゴザを敷いた粗末な板の間で、彼等はきちんと坐る。いくら膝をくずしなさいと勧めても、遠慮してくずさない。ビールが二本目にかかった頃、やっとあぐらをかいた。

 酒は飲まないとの予想で、ぼくは川路のために、肉や塩魚や山菜などの手料理を用意していた。ところが川路は飲むのである。グイグイと言うより、ゴシゴシとコップを口に持って行く。ぼくは言った。

「大和君を大酒飲みだとからかっていたが、君も案外飲むじゃないか」

「こいつ、ぼくより大酒飲みなんですよ」

 大和がかわって説明した。川路はにやにやと笑って頭をかいた。

 一時間ほどしたら、二人ともがくんと酔ってしまった。天気にたとえると、黄昏(たそがれ)というものが短いのである。素面(しらふ)の白光から、突如として酔いの闇に入るようなものだ。大和はだいたいそんな酔い方をするが、川路のもそれと同じだった。類は友を呼ぶのか。

「わしゃ九州人は好かんですたい」

 ぼくが九州の福岡出身と判ると、川路の表情が一瞬動いた。そしてそう応じた。

「何故好かんのかね?」

 ぼくは訊ねた。ぼくも少しは酔っていた。

「どぎゃんもこぎゃんもなかですたい。好かんもんは好かん」

「こいつ、酔うと、すぐ熊本弁が出るんです」

 大和が傍から口を出した。

「おい。川路。まだ熊本弁は早いぞ」

「よか。よか。お前は口ば出すな」

 川路は手を振った。

「ビールじゃいっちょん酔わん。はよ酒ば出してくだはりまっせ」

 彼は熊本弁をやめなかった。うるさいほどそれに執した。やがて二人は完全に酔っぱらって、宿に戻るというので、懐中電燈を貸してやり、それでも心配なのでぼくも下まで降りることにした。ぼくの懐中電燈の光の輪の中で、山道を降りる川路の頭が、ラッキョウを逆さにした具合にぐらぐらと揺れる。

「よか月ですなあ」

 ぐらぐらしているくせに、川路は天を仰いでそんな嘆声を上げる。

「星がむごうたくさん見ゆるばい」

 だから足を取られて、両三度辷(すべ)り転んだ。たすけ起すと、川路の腕はなよなよとして細かった。宿の玄関まで送り届けて、ぼくは小径をのぼり、小屋に戻って来た。板の間で飲み直した。

 

 二人は翌日の正午頃、また山小星に訪ねて来た。ぼくは丁度(ちょうど)起きたばかりで、小屋の外で歯ブラシを使っていた。

 ぼくは雅楽を実際には見たことがない。しかしテレビでは見たことがある。その型の一つに、背をやや前屈し片袖で顔をおおうようなのがあった。川路と大和はそれと同じ恰好(かっこう)で、背広の袖で顔をかくすようにしながら、小径を登って来た。日射しをさけるためでなく、上から見ているぼくの視線をはばかってである。

「昨夜はたいへん失礼しました」

「それにたいへん御馳走になりまして」

 と、こもごもしおらしげに挨拶をした。昨夜の酔態をてれているのである。小屋の前の平たい岩に腰をおろして、しばらく雑談をした。

「川路君は熊本県のどこの出身だね?」

 昨夜問い忘れたことを、ぼくは訊ねてみた。

「ぼくは熊本出身じゃありません。中国地方の――」

「でも熊本弁が使えるじゃないか。熊本に住んだことがあるの?」

「いえ。軍隊で半年ほど――」

 召集されて関門海峡の某島に勤務していた。その隊の大半が熊本出身者で占められていて、そこで覚えたのだという。ぼくは熊本に四年住んだことがあるが、熊本弁をほとんど使えない。たった半年の経験で、少々おかしいところもあるが、とにかく使いこなせるのは大したもんだ。それを言うと、川路は気弱そうに笑いながら答えた。

「ええ。ずいぶんいじめられましたからねえ」

 その体で兵隊勤めはつらかっただろうと考えたが、それは口に出さなかった。

 それから二人で先輩の家に行くと言うので、

「夕方には寄りなさいよ。また洒の用意をして置くから」

「ありがとうございます。でもあの肉はイヤですよ」

「なぜ?」

「あれ、馬の肉だそうじゃないですか。今朝宿の主人に聞きましたよ。どうも味がへんだと思っていた」

「馬肉はきらいなのかい? もりもり食べたじゃないか」

 ここら地方では、肉というとおおむね馬肉のことなのである。

「好き嫌いの問題じゃありませんよ。肉を食うなんて、それじゃあ馬が可哀そうだ」

 川路は頭をかかえた。

「ぽくに食われた馬が、気の毒でしょうがない」

「気にしない。気にしない」

 と大和が川路の肩をたたいてなぐさめた。大和は馬肉の件では平気らしい。

「さあ出かけようよ」

 川路は頭から手を外し、ていねいな挨拶をして、二人は小径を登って行った。案外冗談や誇張が好きな男だと、その後ろ姿を見送りながらぼくは思った。

 夕方、待っていたがやって来ないので、馬肉をさかなにして、ビールを飲み始めた。三本ほど飲んでも、まだまだ姿を見せない。昨夜のことで遠慮して、まっすぐ宿に戻ったんじゃないか。そう思って山道を降り、宿の玄関で女中に訊ねると、

「そのお二人さんなら、バーの方にいらっしゃいます」

 バーヘ行くと二人はたのしそうにしゃべりながら、酒を飲んでいる。ぼくの姿を見ると、ぴょんと止り木から飛び降りてあわてて挨拶をした。

「こんなところで飲んでいるのか。来るかと思って待ってたんだよ」

「ええ。毎晩々々お世話になるのも悪いと思いまして――」

 もうそろそろ酔っている。

「それで遠慮をばいたしました」

「仕方がないね。ではぼくもここで飲むとするか」

 実を言うと、ぼくも独り酒に飽きて、相手が欲しかったのである。席を卓の方に移して、川魚などをさかなにして飲み始めた。ホームグラウンドだから、彼等は昨夜ほど急激に酔いはしない。それでもだんだん回って来て、また熊本の話になった。

「四年間も住んでいて熊本弁をしゃべれないなんて、何ちゅうことですか」

 川路はぼくにからんだ。

「あんたはきっと学生の時、語学が不得手だっただろ」

「そうだね。得意じゃなかったな」

「そうだろ。そうだろ」

 川路は合点々々をした。

「わしの学生でも、語学が下手なのは、とかく不器用なのが多かですたい」

「何を言う。君だって不器用じゃないか。昨夜も三四度転んだよ」

「そら慣れん山道だけん、仕方なかです」

「軍隊でも君はうまくやれたとは、ぼくは思わないな」

「軍隊?」

 川路の表情は歪んだ。

「軍隊の話はやめましょう」

 その中にバーの閉店時刻が来て、ぼくは外に出、彼等は部屋に戻った。ふらふら歩いている中に、帽子を忘れたことに気がついて宿に戻る。バーはしまっているので、二人の部星に行き、ノックもせず入って行くと、二人とも寝床にあぐらをかいて、ウィスキーを汲み交していた。

「あっ。いけねえ」

 れいの雅楽の型で顔をかくした。さっき別れ際に、あんまり深酒するんじゃないよ、と先輩面して忠告したばかりなのである。二人はバーの閉店時刻を承知していて、部屋に予備のをかくしていたらしい。

 

 翌朝九時頃、二人はリュックサックをかついで、わが山居にやって来た。酔うと無頼になるけれども、素面(しらふ)だと彼等は借りて来た猫みたいにおとなしい。

「いろいろお世話になりました」

 これから東京に戻るのでおいとま乞いに参ったと言う。

「ちょっと上れよ。昨日用意したビールや料理が手つかずで残っているから」

「でも昨晩は、酒は飲むなと――」

「そうは言わないよ。深酒はするなと言っただけだ」

 宿酔気分で迎え酒をやろうかと思っていたところなので、リュックを手繰り寄せ、強引に部屋に引き上げた。彼等は観念したかどうかは知らないが、顔を見合わせて、のこのこと上って来た。そこでビールの栓を抜いた。

「いい景色ですなあ」

一本ずつあけた時、川路が窓の外を見て言った。顔がいくらか赤くなっている。迎え酒だから、よくきくのだ。

「今まで景色を眺めなかったのか」

 ぼくはあきれて言った。

「一体この三日間、何をしてたんだね?」

「え? ええ」

 川路は大和の顔を見た。

「おれたち、何をしてたかなあ」

「うん」

 大和も腕を組んで、何かを考え出そうという表情になった。

「東京の暑さにぼけてしまったんじゃないか」

 ぽくはビール瓶を買物籠に五六本詰め込んだ。ついでにさかなも。

「いい景色のところに連れてって上げる。そこで飲みましょう」

 山小屋から十五分ほど登ると、通称見晴し台という場所がある。三百六十度が見渡せる大景観で、アルプスや八ヶ岳やその他の諸山、平地、湖などが見える。さすがの二人も感心したらしく、ビール瓶をぶら下げたまま、しばらく佇立(ちょりつ)していた。ややあって川路が言った。

「いい景色だなあ。一体ここは何県ですか?」

「おい、おい。バカな質問はよせよ。長野県にきまってるじゃないか」

 大和がたしなめて、ぼくに弁解した。

「ここに来る汽車の中で飲みつづけだったんで、すこし見当が狂っているんです」

「そうだ。長野県だった」

 川路は芝草に腰をおろして、ビール瓶の口飲みをした。秋風が川路の長い髪の毛に吹いてばらばらにする。男のくせに絹糸みたいに柔かい毛だった。

 持参したビールはそこで全部平らげ、ぼくの山居に戻り、二人はリュックを背負った。

「おみやげにこれを持って行きます」

 と、松虫草の花を一つずつ手折り、胸にさした。ぼくはその二人をバスの停留場まで送って行った。

 四五日経って大和から礼状が来た。同封の大和夫人の文章では、

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げとなっているが、ブラウザでの不具合を考え、無視した。]

 

 御礼、遅れて申しわけございません。なんですか、川路氏とうちのダンナがお邪魔に上りましたそうで、こちらへ着くと、帰還祝いだか何だか新宿でしこたま飲んで、わが家の玄関をあけて入るなり「最高だった」「大感激」「そりやもう大変なもんだった」等々まるでもう天国から帰ったようなはしゃぎようで、揚句のはて私の感激のしようが足りないと怒り出す始末。日頃モテない男が、たまにもてなしを受けると、こうなんだからイヤんなっちゃいます。

 

 云々とあった。三日も家をあけた照れかくしの気分もあったのだろう。

 

 今年の一月の末、大和から電話がかかった。川路と同行、お見舞いに参上したいと言うのである。そしてその翌日、二人はつれだってやって来た。早速酒を出した。

「背骨をいためたというのに、酒飲んでもいいんですか?」

 率先してぼくが飲み始めたので、大和が心配そうに言った。

「いいんだよ。骨と酒とは関係ないよ」

「しかし深酒はいけませんよ。おやじもそう言ってました」

 去年の十月、ぼくは自宅の階段からずっこけて背骨を打ち、しばらく静養した。見舞いとはそのことである。

「おやじさんって、お医者さんかね?」

「ええ。元軍医です」

 川路君の顔は昨年の夏にくらべて、いくらか暗鬱で力なく見えた。それを言うと、

「ええ。学校の方が忙しいんでね、くたびれているんです」

 軍医のことから軍隊の話になった。昨夏のようなグイグイ飲みでなく、盃(さかずき)をあけるピッチが遅い。

「軍隊じゃいじめられましたよ」

 熊本県出身の下士官や古兵にひどいいじめ方をされた。それはそうだろうと、ぼくは思う。こんなひよわな体格で、重量物も持ち上げられないし、動作だって不器用だ。軍隊に適するわけがない。しかし古兵にとっては、怠けている、さぼっているという風に見られ勝ちなものだ。そこで徹底的にいじめられる。軍隊とはそういうところだ。半年経ってとうとう病気になり、除隊になった。

 その頃のラジオは、朝の起床ラッパから放送が始まる。それが耳に入ると、除隊の身分も忘れて、川路はがばとはね起きる。母親はそれを見て、

「そんなにまで苦労したのかい。じゃラジオのつけ放しはやめる」

 と涙ぐんだそうだ。母親の話をしている頃から、だんだん盃のピッチが早くなった。

「そうか。そりやたいへんだったねえ」

「ひでえしくじりですたい」

 そろそろ熊本弁が出始めた。

「そんなにいじめられたんなら、熊本弁は聞きたくもないし、またしゃべりたくなくなるのが普通だろう」

 ぼくも盃をかさねながら言った。

「君は逆だね」

「逆ですかね」

 川路の眼は一瞬するどく光った。それは何かひたむきな執念のようなものを、ぼくに感じさせた。

「でも酔うと、すぐそうなっちゃうんですよ。わしゃあもともと、ぐれはまな性分のごたるな」

 そこらあたりを境にして、川路はがくんと酔ったらしい。歩いて帰れそうにないので、家内がハイヤーを呼んで、二人を押し込んだ。

 それから五日ほど経って、大和夫人から電話がかかった。

「川路さんが突然亡くなられたそうです」

 ぼくは愕然とした。

「え? 何で?」

「何か判りませんけれど、知らせを受けて大和はすっ飛んで行きました。くわしいことが判ったら、またお知らせします」

 電話を切って、ぼくは部屋中をうろうろと歩き回った。そして思いついてH大学の事務局に電話をかけた。事故死だということが判った。

 その夜ひとりで酒を飲みながら、川路のことを考えていると、急に涙が出て来た。ごまかすために、鉛筆を持って来て、弔電(ちょうでん)の文章を考えて、原稿用紙に書きつけた。

『カワジクン、キミハ……』

 彼の家族とは面識ないので、どうしても川路に呼びかける文章になる。書きながら、

「こんなキザな電報を――」

 と思ったり、

「弔電を打っても意味ないじゃないか」

 と考えたが、結局電話を通じて打ってしまった。何かしめくくりのようなものがないと、やり切れなかったのである。

 それから二週間後、大和から手紙が来た。

[やぶちゃん注:以下も、底本では全体が一字下げであるが、先と同様に処理した。]

 

 啓上

 その節は大へん御馳走になりまして、御礼の言葉も失したまま、御無沙汰いたしました。

 そこへ突然の川路君の急死で、あなたも奥様もびっくりなさったことと存じます。ぼくも、今もって何をするにつけ、あの人が出てきてやり切れません。実感が来ないというよりも、いつもそこにいるようで、かないません。

 それにしても、あなたとは川路君はへんな御縁だったと思います。一度どっかへ逃げたいな、というので、ぼくが信州へ連れ、その三日間というものおもてなしにあずかりまして、川路君にしても、とても楽しかったようでした。今年の夏も是非、と楽しみにしていたところなのです。あの夜も、あんなに愉快そうにはしゃいだ彼を、ぼくはめったに見たことはありません。

 こちらも御好意に甘えっぱなしで、今度はこちらでまたお礼しなければ、など二人で話し合っていたのです。奥様に車を呼んでいただき、渋谷で降りようと川路君が誘って、二人でバーを一軒のみました。その夜は、川路君宅へ泊ってしまいました。

 翌朝、二日酔いながら気分はよろしく、ひる近くまでブドウ酒をのみ、あなたの噂話など、川路夫人にお喋りして、別れたのが最後でした。

 それから事故のあった二月二日まで、あまり酒はやらなかったようです。試験の採点で忙しく、過労の極にあったとききました。あの人は、教師としてはマジメでしたので、採点も疲れるまでじっくり見たようです。

 二日夜、パリで知り合ったS紙の政治部長とかいう人に、あちらでお世話になったからと、一席もうけられ、その何軒目かに、銀座の何とかビルの二階にある、何とかいうバーヘ連れて行かれたのだそうです。弟というのがS紙の政治部にいて、つまり弟さんの上司なわけです。弟も同席していれば、とこれはあとになって思うことですが、途中で弟さんが電話で「そろそろ迎えに行くから」といったのに、川路君は「大丈夫だ、もうじき帰るから来なくてもいい」と返事したんだそうです。もう例の熊本弁が出ていたので、弟は定量へきてるよ、とは考えたそうですが。弟が迎えに来る間に、階段から落ちました。

 相手が目上の人だったのと、はじめてのバー(高級)だったことなどで、酒をコロシテのんでいたのではないか、と奥さんはいっていました。階段のことを失念して、バーから一歩目が道だと錯覚したんじゃないか、と弟さんはいっていました。

 急な階段で(多分、新宿なんかのと違い、コンクリートの硬いやつなんでしょう)真逆さまだったようで、すぐ救急車で京橋病院へ担ぎこまれもう(十二時二十分)意識不明で、翌三日午後六時、絶命とか。奥さんはすぐ駈けつけたそうです。その間、何度もすごい(聞いてはいられない)うめき声をあげ、そして大量の血を何度も吐いたそうです。脳の骨(脳底骨とか?)が折れ、もうどうにもダメで、はじめはわからなくて、翌日(三日)脳手術をして判明したんだそうですが、医者も、こんな運の悪い骨折の人はいない、と奥さんにいったそうです。外傷、何一つなしで。

 呼吸が絶えても心臓はしばらく動いていたそうです。頭だけぐんぐんふくらんでいったそうです。

 出棺の時、見ました。いつもの二日酔いの朝の眠っている顔でした。

 どうもくどくどと書きなぐつてしまいました。一言御報告をと思いながら乱文おゆるし下さい。葬式には、二百人近くの沢山の人が来ていました。小学生一年の男の子と幼稚園の妹と、めずらしそうに、ひょこひょこ庭を、はねていました。奥さんは大学でぼくの二年後輩で、川路君とは、高女での教え子だったんです。泣けないといっていました。ただ、遺体に向って、「ばかやろう!」と一言いいたいだけだ、といっていました。

 ほんとうに、死ぬというのが、こんなにあっけないものかと、おどろいています。

 何か、ぼくなんかの分を、代表でやってしまってくれたような、いたたまれない悲しい気持です。

 

 川路君と深いつき合いはなかったが、彼の死はひどくぼくにこたえた。若い人の死はつらい。それはぼくの歳のせいかとも思う。

北條九代記 卷第十二 赤松圓心蜂起 付 金剛山の寄手沒落 竝 千劍破城軍

 

      ○赤松圓心蜂起 付 金剛山の寄手沒落 竝 千劍破城軍

 

播磨國の住人、赤松次郎則村(のりむら)入道圓心が子息、律師則祐(そくいう)は、大塔宮に付纏(つきまと)ひ奉りて、年來、奉公の忠勤あり。しかも近年は、武功の粉骨を盡しけり。宮は南都の般若寺より虎口を遁れて、紀伊國に赴きつ〻、十津河を經て、吉野の大衆を語(かたら)ひ、野長瀨(のながせの)六郎兄弟を賴み給ひ、愛染寶塔(あいぜんはうとう)を城に構へて籠らせられ、赤松圓心が本(もと)へ令旨を下さる。律師則祐、使節として、父圓心が館(たち)に來る。入道圓心、嫡子範資、早く御請(おうけ)申して、佐用莊(さよのしやう)苔繩山(こけなはやま)に城を構へければ、與力同心の軍兵、馳集りて、一千餘騎にぞなりにける。畿内・西國の凶徒、日を逐(おつ)て蜂起せしかば、高時入道、大に驚き、一族・他門の大名、東八ヶ國の軍勢を催促して、差上(さしのぼ)せらる。宗徒(むねと)の大名百三十二人、都合その勢、三十萬七千五百餘騎、元弘二年九月二十日に鎌倉を立ちて、十月八日に京著(きやうちやく)す。その外、西國・九州・北陸(ほうろく)七國、諸國七道の軍勢、我も我もと馳上り、翌年正月晦日に、諸國の軍勢八十萬騎を三手に分けて、吉野・赤坂・金剛山、三(みつ)の城へぞ向ひける。赤坂の城へは、阿曾(あその)彈正少弼、その勢、八萬餘騎、城の四方を取圍みて攻むれども、寄手のみ討たれて、城中には、ものともせず。然る所に、播磨國の住人吉河八郎が思案に依(よつ)て、城中、水の手を取切(とりき)られたり。城の本人平野(ひらのゝ)將監入道は、矢尾(やをの)別當顯幸(けんかう)が甥なり。楠正成、養子として、この城を預けしが、水に渇(かつ)えて堪難(たへがた)く、軍兵二百八十二人、共に降人(かうにん)に成て出でけるを、六波羅より計(はから)ひ、六條河原に引出し、一人も殘らず、首を刎(は)ねて梟(か)けられけり。降者(くだるもの)をば殺さずとこそ云ふなれ、吉野の金剛山に籠りたる兵共、是を聞きて、愈(いよいよ)、心を堅くして、一人も降人に出でんと思ふ者は、なかりけり。正慶二年正月に、大塔宮の罷り給ふ吉野の城へは、二階堂出羽〔の〕入道道薀(だううん)、六萬餘騎を引分て押寄せ、同十八日より軍(いくさ)初(はじま)り、夜晝(よるひる)七日が間(あひだ)、息をもつがず、相戰ふ。寄手八百餘人、討たれたり。城兵も、三百餘人は手負ひ討たれしかども、少も弱る色なし。かゝる所に、搦手(からめて)より吉野の執行(しゅぎやう)岩菊丸(いはぎくまる)、百五十人の足輕を步立(かちだち)になし、後の山より愛染寶塔の上に忍上りて、鬨の聲を揚げ、在々所々に走𢌞(はしりめぐ)りて、火をさしければ、大手の五萬餘騎、三方より攻上(せめのぼ)る。村上〔の〕彦四郎義光、宮の御鎧(おんよろひ)・直垂を賜り、御諱(おんいみな)を犯して自害す。その間に、宮は城を落ち給ひ、高野山に忍入(しのびい)り給ふ。大將二階堂道蘊は、宮を打泄(うちもら)し奉りて、安からず思ひながら、楠正成が籠りたる千劍破(ちはやの)城へぞ向ひける。去程(さるほど)に、楠正成は、赤坂の城を落ちて、一族等(ら)を引率(いんそつ)し、紀伊と河内の境なる金剛山にぞ入りにける。この山に、城郭を構へ楯籠(たてこも)りしかば、東國八十萬騎、陸奥〔の〕右馬〔の〕助を大將として、赤坂、吉野の寄手、是に加り、百萬餘騎に成りて攻寄(せめよす)る。城中は僅に千人にも足らずして、防戰(ふせぎたゝか)ふこそ不敵なれ。寄手、一日の中に、五、六千人討たれしかば、軍勢、戰(たゝかひ)を止めて、陣々をぞ構へたり。度每(たびごと)の軍(いくさ)に寄手のみ多く討たれ、手懲(てごり)してぞ覺えける。この間に、兵粮(ひやうらう)に詰(つま)りて、皆、本國に引いて皈る。初(はじめ)、八十萬餘騎と聞えしかども、今は僅に十萬餘騎にぞなりたり。赤松二郎入道圓心、播磨國苔繩〔の〕城より打ち出でて、その㔟、一千六百餘騎、山里(やまのさと)・梨原(なしはら)に陣取る。三石(みついし)の住人伊東〔の〕大和次郎兄弟、宮方に成りて、三石山に城を構へ、備前の守護加治〔の〕源二郎左衞門を負落す。是より、西國の道、塞(ふさが)りて、西園の軍勢、六波羅へ上る事を得ざりしかば、赤松、又、軍兵を進めて、高田兵庫〔の〕助が城を攻干(せめほ)し、山陽道を差して攻上る。路次の軍勢、馳付(はせつ)きて、七千餘騎にぞなりたる。赤松、大になりて、兵庫の北なる摩耶(まや)と云ふ山寺に城を拵へて、楯籠る。六波羅、聞きて、誰(たれ)をか討手に向へんと、評定する所に、又、伊豫國の住人土居(どゐの)二郎・得能(とくのうの)三郎、宮方に成りて、長門の探題上野〔の〕助時直(ときなほ)を打平(うちたひら)ぐ。四國の勢、皆、土居・得能に屬(しよく)して、六千餘騎、京都に攻上らんとぞ用意しける。

[やぶちゃん注:湯浅佳子氏の「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、ここは「太平記」巻第六の四項目「赤松入道圓心賜大塔宮令旨事」(赤松入道圓心、大塔宮令旨、賜はるる事」)から巻第七の五項目「河野謀叛事」に基づくとする。標題の「千劍破城軍」は「ちはやのいくさ」と読む。

「播磨國」兵庫県。

「赤松次郎則村(のりむら)入道圓心」赤松則村(建治三(一二七七)年~正平五/観応元(一三五〇)年)。円心は法名。播磨国佐用荘の地頭の一族であったが、護良親王の令旨を受け、山陽地方では最も早く宮方(南朝方)につき、ここに出る通り、正慶二/元弘三(一三三三)年一月、苔縄城に挙兵した。次いで、山陽道を攻め上り、五月足利高氏(尊氏)とともに六波羅を攻め落とした。その功により、建武政権で播磨守護職を与えられたが、間もなく、理由なく取り上げられ、新政に不満を抱くようになった。建武二(一三三五)年、尊氏が新政権に反して、関東に向かうと、これに応じ、次男貞範を同行させた。翌年二月、尊氏が京都で北畠顕家らに敗れて九州に西走する際、光厳上皇の院宣を奉じて朝敵となるのを免れたのは、この則村の発案によると言われている。次いで、播磨白旗城に立て籠って、新田義貞率いる尊氏追討軍の進撃を阻み、尊氏の再上洛を助けた。十一月に尊氏が室町幕府を開くと、播磨守護に復帰、長男範資は摂津、次男貞範は美作の守護に任ぜられた。観応元/正平五(一三五〇)年の「観応の擾乱」では、尊氏・高師直方に与し、播備国境の船坂峠を固めて足利直冬の進軍に備えたが、その直後、京都七条の自邸で病死した。禅に深く帰依し、京都より雪村友梅を招いて苔繩に法雲寺を建ている。また宗峰妙超が京都紫野に大徳寺を開くと、最初の檀越となってこれを援助するが、それは妙超が播磨出身であるのみならず、姉の子であったことにもよると考えられている(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「律師則祐(そくいう)」(のりすけ 正和三(一三一四)年~建徳二/応安四(一三七二)年)は赤松則村の子。ウィキの「赤松則祐によれば、後醍醐天皇の「元弘の乱」勃発時、『則祐は比叡山延暦寺に入って律師妙善と称しており、その縁によって後醍醐天皇の皇子で天台座主であった護良親王に付き従い、熊野、十津川、吉野城などで転戦した』。ここにある通り、元弘三(一三三三)年、『護良親王の使者として倒幕の令旨を父・円心(則村)に届け、赤松氏は播磨で挙兵、父に従って東上』、『瀬川合戦にも従軍、京都の六波羅探題を攻撃』した。『則祐には武勇伝が多く、『太平記』にも幾つか記されている。熊野や十津川では護良親王を守って善戦。父に従っての高田兵庫輔頼重との戦いにおいては、後方撹乱を実行し、西条山城に突入して勝敗を決めた。また、洛中での桂川の戦いでは、増水した桂川に単騎で踊りこみ、敵陣一番乗りを果たした。京都においても相撲人としての武勇伝があったという(『梅松論』)』。『建武政権下において、足利尊氏が中先代の乱平定後に後醍醐天皇に反旗を翻すと』、『父や兄らと共に尊氏に味方し』、建武三(一三三六)年に『尊氏が後醍醐天皇方の北畠顕家や楠木正成に敗れ、九州へ落ち延びた後は父と共に播磨で待ち構えた』。これは、『後醍醐天皇方を播磨で足止めし、尊氏の再起の時間を稼ぐこと』が目的『で、父は播磨の広範囲に戦線を展開、則祐は感状山城で第二戦線の大将を命じられる。後醍醐天皇方の新田義貞によって坂本城を中心とする第一戦線が崩され、第二戦線の支城も次々に陥落するなか、則祐は奮戦し』、『感状山城を守り抜く。白旗城下で激戦が展開されている最中に九州に落ちていた尊氏の所へ訪れ、東上を促』している。正平五/観応元(一三五〇)年、「観応の擾乱」の最中、『父が没し、長兄・範資が当主及び播磨・摂津守護となるが』、翌年、急死し、その『遺領は分割され、摂津は甥の光範に与えられ、則祐は当主・播磨守護となる』。『この決定の理由については、舅(しゅうと)が幕府の実力者佐々木道誉だったことと、長年』、『父の下で功績を積み重ねてきたことが挙げられる。次兄・貞範が幕府に疎まれていたことも家督相続に繋がった』。同年七月に『護良親王の皇子・陸良親王を推載、南朝に降った。このため』、『尊氏の嫡男・義詮の討伐を受けるが、直後に義詮の叔父・直義が京都から出奔したため、この軍事作戦は謀略で則祐の降伏は偽装ともされるが、真相は不明。翌年の正平一統で南朝が京都を占領、北朝の皇族を連れ去って義詮が諸大名の動員を命じると』、『これに応じて帰順』、正平八/文和二(一三五三)年に『南朝への備えとして城山城を築城した』。正平一〇/文和四(一三五五)年には『松田氏に代わって備前守護に任じられた』。正平一四/延文四(一三五九)年)、第二代将軍『義詮の南朝征討に従軍』、正平一六/康安元(一三六一)年には『幕府執事から失脚した細川清氏が南朝に属して楠木正儀らと京都を占領、則祐は幼い足利義満を播磨の白旗城へ避難させた』。『この時』、『則祐は義満の無聊を慰めるため、家臣に命じ』、『風流踊り「赤松ばやし」で接待した』。『これを大いに喜んだ義満は将軍になった後も毎年』、『赤松屋敷を訪ねてこれを見たという』。翌正平一七/貞治元(一三六二)年には『山名時氏と戦い』、建徳元/応安三(一三七〇)年、禅律方(室町幕府に置かれた禅宗・律宗寺院(個人としての禅僧・律僧も含む)関係の訴訟等を取り扱った機関。室町幕府はこれを設けることで禅律寺院を保護・統制したと推測されている)に任命され、『管領の細川頼之を補佐した』。『死因は肺炎だったとされる』。

「野長瀨(のながせの)六郎兄弟」野長瀬六郎盛忠・七郎盛衡。ウィキの「野長瀬氏」によれば、『赤坂城の戦いに敗れた尊雲法親王(のちに還俗して大塔宮護良親王)が高野山に落ちる途中、玉置庄司に阻まれて危機に陥ったとき』、彼ら兄弟が『軍勢を率いて援けた。危機の連続であった大塔宮護良親王が下赤坂城を逃れて以来』、『はじめて配下に収めた軍勢で、これを機に宮方を一旦離反しかけた十津川も』、『再び』、『大塔宮護良親王に従い、玉置山衆徒も味方につき、大和の宇智、葛城の郷士達も味方し、吉野挙兵および金剛山千早城の後方支援の体制ができあがった。その功績から野長瀬氏は横矢の姓を賜り、以後、横矢氏も称するようになった』。『野長瀬氏はその後も、南朝方として楠木正行らと行動をともにし、南朝滅亡後も後南朝に仕えた』。『その後、室町時代の間に畠山氏(金吾家)の被官となり、紀伊国人衆として存続』したとある。

「愛染寶塔(あいぜんはうとう)を城に構へて」愛染明王の宝塔を槇野の城に建てて。槇野城は現在の五條市にあったが、手狭であったために、後に吉野城に移っている(移転は元弘二(一三三二)年六月二十七日以前。ここはウィキの「吉野城」に拠った)。

「嫡子範資」(?~正平六/観応二(一三五一)年)は赤松則村(円心)の嫡男(則村の弟という説もあるらしい)。赤松氏五代当主。ウィキの「赤松範資によれば、初め、弟貞範とともに摂津長洲荘の代官として派遣されたが、この時、『父が鎌倉幕府討幕のために挙兵した際、父に従って京都での戦いで武功を挙げた。ところが、その後の後醍醐天皇の建武の新政で赤松氏が行賞で冷遇されたため、父と共に足利尊氏に与し、朝廷軍と各地で戦って武功を挙げた。それにより室町幕府成立後、尊氏から摂津守護に任じられた』。正平五/観応元(一三五〇)年の『父の死により家督を継いで当主となる。同年、尊氏の弟・足利直義と高師直の対立である観応の擾乱では尊氏・師直側に味方して直義軍と戦い、打出浜の戦いに参戦している』が、翌年、『京都堀川七条の自邸にて急死』した。『摂津は嫡男・光範が、家督と播磨は弟・則祐が継いだ。他の子らはそれぞれの所領から改姓して一門衆になったとされる』とある。

「佐用莊(さよのしやう)苔繩山(こけなはやま)」現在の兵庫県赤穂(あこう)郡上郡町(かみごおりちょう)苔縄(こけなわ)にあったとされるが、位置は不明。一応、この中央附近とされるが(グーグル・マップ・データ)、遺構は発見されていない。

「宗徒(むねと)の」主要な。

「阿曾(あその)彈正少弼」北条(阿蘇)治時(文保二(一三一八)年~建武元(一三三四)年)。得宗家の傍流阿蘇家の第四代当主。父随時が二十八歳の時、鎮西で誕生、第十四代執権北条高時の猶子となっている。「太平記」では、この時に差し向けられた鎮圧軍の筆頭に北条一門として彼の名が挙げられており、楠奪還後の第二回の赤坂城攻略戦では、大将として出陣しているが、ウィキの「北条治時」によれば、満十五歳と、『若年であるため、軍奉行として御内人長崎高貞(長崎高資の弟)が補佐。苦戦の末に水源を絶ち、これを陥落させた』とある』。『続いて楠木正成の本拠地千早城を攻めたが(千早城の戦い)、楠木勢の頑強な抵抗に遭って落とせず』、五『月になって京都の六波羅探題が陥落したため、討伐軍は自壊する。治時と高貞は大仏貞宗・高直兄弟らとともに興福寺に篭り』、『抗戦を続けた』が、『鎌倉陥落の報を聞き』、六月五日、『般若寺で出家して降伏するが』、建武元(一三三四)年七月九日、『京都阿弥陀寺で高貞、貞宗、高直らとともに処刑された』。享年十七。

「吉河八郎」「太平記」では「吉川」。新潮日本古典集成「太平記 一」の山下宏明氏の注によれば、『藤原南家、工藤氏の一門』とする。

「城の本人」城主。

「平野(ひらのゝ)將監入道」同前の山下氏の注によれば、『河内の豪族』とする。

「矢尾(やをの)別當顯幸(けんかう)」八尾城(現在の大阪府八尾市内。正確な位置は不明)を築いて城主として権勢を持ち、後に楠木正成八臣の一の家来となり、大いに南朝方に尽した武士。権僧正でもあった。正成が湊川で戦死した後は和田・恩智両氏とともに正成の子正行を助けたが、延元三(一三三八)年に八尾城で病死したと伝えられる。

「正慶二年」元弘三年。一三三三年。

「二階堂出羽〔の〕入道道薀(だううん)」既出既注

「吉野の執行(しゅぎやう)」新潮日本古典集成「太平記 一」の山下宏明氏の注によれば、『吉野の金峰山(きんぷせん)寺蔵王(ざおう)堂にあって、事務や法会(ほうえ)をとりしきる官』とある。「吉野」とあるからといって後醍醐方と誤ってはいけない。この「岩菊丸(いはぎくまる)」(事蹟不詳)は立派な鎌倉幕府方である。

「村上〔の〕彦四郎義光」彦四郎。同前の山の注によれば、『清和源氏』『「義日」とも書く』とある。

「御諱(おんいみな)を犯して自害す」御名前を詐称して。親王の装具を著け、身代わりとなって自害したのである。

「千劍破(ちはやの)城」千早城に同じ。現在の大阪府南河内郡千早赤阪村大字千早にあった、四方を絶壁に囲まれ、要塞堅固を誇ったとされる連郭式山城。先の「金剛山」の注でも少し述べたが、四方の殆んどを深いに谷に囲まれ、城の東北後背のみが金剛山の山頂に峰で連絡する要害の地である。ここ(グーグル・マップ・データ)。この時、奇策で幕府軍を嘲弄したそれはウィキの「千早城」に詳しいが、要所を引くと、『上赤坂城で勝利した鎌倉幕府軍は、一気に攻略しようと、ろくに陣も構えず、我先にと攻城した。千早城では櫓より大石を投げ落とし応戦し逃げ惑う兵に矢と飛礫が降りそそぎ、谷底に死体の山がうず高く重なった』とされ、「太平記」には「長崎四郎左衞門尉(ざゑもんのじやう)、軍(いくさ)奉行にてありければ、手負・死人の實檢をしけるに、執筆(しゆひつ)十二人、夜晝三日が間(あひだ)、筆をも置かず記せり」とある。『鎌倉幕府軍は、上赤坂城の例にならい』、『水源を断ち持久戦に切り替えたが、城内には大木をくり抜き』三百『もの木船が水もたたえており、食料も十分蓄えていた。長引く籠城戦で士気に緩みが見えてくると、楠木正成は策をめぐらし』、『わら人形を』二十~三十体『作らせ、甲冑を着せ』、『弓や槍を持たせた。その人形を』、『夜のうちに城外の麓に並べ、後ろに兵』五百人を『潜ませ、夜明けになると』、『鬨の声をあげさせた。鎌倉幕府軍は決死の攻撃と思いこみ』、『攻め寄せた』ため、五百の伏兵は『矢を放ちながら』、『徐々に城内に引き上げた。鎌倉幕府軍がわら人形に到達した所を見計らい、大量の大石を投げ落とし』、この一時だけで、三百名が即死、五百名が負傷している。『鎌倉幕府軍の持久戦に対して、同年』三月四日には、『鎌倉より厳しい下知が届き、将士を督励することになった。そこで鎌倉幕府軍は近くの山より城壁ヘ橋を掛けて一気に攻め上ろうとした。京都より大工衆』五百『余人を呼び集め』、巾十五尺(四・五メートル)、長さ百尺(三百メートル)もの橋を『造り、大縄をつけて城内へ殺到した。楠木正成は、かねてより用意していた水鉄砲の中に油を入れ橋に注ぎ、それに松明を投げた。城内にたどり着こうとしていた兵は後ろに下がろうとしても後陣が続いており、飛び降りようにも谷深く、もたもたしていると』、『橋けたの中ほどより折れ、数千名が猛火に落ち重なって火地獄になったと』、「太平記」には記載されている。但し、「太平記」『以外の史料に』この『「長梯子の計」の記述が無いことから』、『信憑性に疑問があるが、本丸の北側の渓谷は谷が深く、北谷川上流の風呂谷には「懸橋」という地名が残っていることから』、『「太平記には誇張はあるにしても実際に実行されたと考えられる」と』する肯定説もある。

「陸奥〔の〕右馬〔の〕助」北条(金沢)貞将(乾元元(一三〇二)年~元弘三/正慶二年五月二十二日(一三三三年七月四日)は十五代執権北条貞顕の嫡男。私の非常に好きな武将である。ウィキの「北条貞将より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『母は北条時村の娘』。『鎌倉時代末期の倒幕運動の中で幕府軍の将として各地を転戦して活躍したが、新田義貞軍に敗れてこの時、父と同じく壮烈な最期を遂げた』。『兄に顕助がいるが』、『庶子扱いされているので、正室(北条時村の娘)の長男である貞将が嫡子である』。『文保二年 (一三一八年)、評定衆となり、引付五番頭人などを務める。この頃に出自は不明であるが』、『正室を迎えている。また』、『この頃には従五位下の位階と右馬権頭の官位を持っていたとされ、文保二年の六月二十五日に評定衆に列し、官途奉行を兼任した。十二月には引付衆五番頭に就任している』。『正中元年(一三二四年)九月十九日、正中の変が発生すると、十一月十六日に六波羅探題南方となり上洛するが、この時に貞将は五千騎の軍勢を率いて上洛した。貞将は以後、執権探題として京都の動静を探り職務を遂行していった。上洛してわずか三日後に六条坊門猪熊から出火した火事を鎮火している。嘉暦四年(一三二九年)八月一日に越後守から武蔵守に転任する』。『元徳元年(一三二九年)より父・貞顕の根回しもあり、元徳二年(一三三〇年)四月に探題職辞任が決定し、七月十一日に正式に辞任して京都を出発した。鎌倉に帰還した後の七月二十四日に引付一番頭人に任じられ』ている。『元弘三年/正慶二年(一三三三年)五月八日、新田義貞が隠岐を脱出した後醍醐天皇に呼応して上野新田庄の生品神社で挙兵すると、十日に幕府軍の大将として防衛のため』、『下総下河辺荘を目指して進発し、六浦庄で軍勢を整えたが、武蔵鶴見川付近(横浜市鶴見区)で義貞に与した従兄の千葉貞胤や小山秀朝の軍勢に敗れて鎌倉に引き返した』。『鎌倉に戻ると』、『鶴見の敗戦』を受けて、『軍勢を再編成していたが、洲崎の戦いで執権の赤橋守時軍が新田軍に敗れて壊滅すると、守時軍に代わって巨福呂坂を防備する。ここには新田氏の一族である堀口貞満に攻められ、戦いは五月二十日から五月二十二日まで激しく攻め続いたという』。『軍記物語「太平記」巻第十の「大仏貞直金沢貞将討死事」では貞将軍は連戦で兵力が八百人にまで減少し、自身も七か所に傷を負ったため、北条一門の篭る東勝寺に撤退して得宗の北条高時に最後の挨拶を行なった。この時に高時からそれまでの忠義を賞されて、六波羅探題の両探題職と相模の守護職を与えられたとしている。だが、当時の貞将は引付頭人一番の職にあり、また六波羅探題職もかつて在職経験があるため』、『逆に左遷に近い恩賞を与えられている事になる(恩賞になるのであれば』、『父・貞顕と同じ連署か執権への就任だけである)。それゆえ、「太平記」記述の両探題職は当時の著「沙汰未練書」の記述から六波羅探題ではなく、もう一つの意味の執権・連署を指し、連署には北条茂時がおり、一方で執権が赤橋守時の戦死によって空席の状況下、武蔵守から執権の殆んどが任官する相摸守への異動により、執権(第十七代執権)に任用されたと解する説がある』。『その後、貞将は「冥土への思い出になるでしょう」と御教書を受け取って戦場に戻り、新田軍に対して突撃を敢行し、嫡男の忠時ら』、『多くの金沢一族と共に戦死した。その最期は「太平記」に壮烈な描写で記されており、高時から与えられた御教書の裏に「棄我百年命報公一日恩」(我が百年の命を捨て、公の一日の恩に報いる)と大文字で書き、それを鎧に引き合わせ(胴の合わせ目)に入れたのち、敵の大軍に突撃して討死にしたという。その姿に敵味方問わず』、『感銘を受けたとされる』。

「不敵」大胆不敵。敵になるものがないかのごとく、大胆にして恐れを知らぬさまを指している。

「この間に、兵粮(ひやうらう)に詰(つま)りて、皆、本國に引いて皈る。初(はじめ)、八十萬餘騎と聞えしかども、今は僅に十萬餘騎にぞなりたり」やや先走るが、ウィキの「千早城」によれば、このように『幕府が千早城へ釘付けになっている幕府軍の間隙を縫い、後醍醐天皇(先帝)が』三月二十三日(或いは閏二月二十四日か?)に『隠岐国の配所を脱出、討幕の綸旨を全国に発し、これに播磨国赤松則村、伊予国河野氏、肥後国菊池武時が蜂起すると、千早城を囲んでいた守護が相次いで帰国した。関東において挙兵した新田義貞は、手薄となった鎌倉を攻め、鎌倉幕府は滅亡することとなる。鎌倉幕府が滅亡するのは』、ここでの百日戦争『(千早城の戦い)が終了した』、僅か十二『日後のことであった』とある。

「山里(やまのさと)・梨原(なしはら)」の間。「山里」は現在の兵庫県赤穂郡上郡町(かみごおりちょう)山野里(やまのさと)。「梨原」は現在の兵庫県赤穂郡上郡町梨ケ原(なしがはら)。この中央附近か(グーグル・マップ・データ)。

「三石(みついし)の住人伊東〔の〕大和次郎兄弟」新潮日本古典集成「太平記 一」の山下宏明氏の「大和次郎」の注によれば、『吉備(きび)』(吉備国は現在の岡山県全域と広島県東部及び香川県島嶼部と兵庫県西部(佐用郡の一部と赤穂市の一部)を含む)『の豪族』とある。

「三石山」現在の岡山県備前市三石(東近くに兵庫県県境)にあるここ(グーグル・マップ・データ)。標高は二百九十七メートルと低い。

「加治〔の〕源二郎左衞門」先の山下氏の注によれば、姓としては「加地」が正しいようである。『宇多源氏の佐々木盛綱の子孫。盛綱が藤戸渡りの功』(「藤戸の戦い」は「治承・寿永の乱」での一戦。備前国児島の藤戸と呼ばれる海峡(現在の岡山県倉敷市藤戸)で源範頼率いる平氏追討軍と、平家の平行盛軍の間で、寿永三/元暦元年十二月七日(一一八五年一月十日)に行われた戦いで、追討軍の佐々木盛綱が城郭を攻め落とすべく幅約五百メートルの海峡を挟んだ本土側の藤戸(現在の倉敷市有城付近)に向かったが、「吾妻鏡」によれば、波濤が激しく船もなかったことから、盛綱らが浜辺に轡を並べて躊躇していたところ、平行盛がしきりに挑発、盛綱は武勇を奮い立たせ、馬に乗ったまま、郎従六騎を率いて、藤戸の海路三町(約三百二十七メートル)余りを押し渡り、向こう岸に辿り着いて行盛を追い落としたとされる。ここはウィキの「藤戸の戦い」に拠った)『児島を賜ってから、この土地の豪族となった。現在、岡山市に可知の地名が残る』とある。

「高田兵庫〔の〕助が城」同じく山下氏の注によれば、『兵庫県赤穂郡上郡町に古くから高田郷の地名があった。その土地の豪族であろう。苔繩の東方に当る』とある。

「兵庫の北なる摩耶(まや)と云ふ山寺」現在の兵庫県神戸市灘区の六甲山地中央にある標高七百二メートルの摩耶山(まやさん)山頂には、現在、近くに移転している(放火による全焼のため)真言宗佛母摩耶山忉利天上寺があった。

「伊豫國の住人土居(どゐの)二郎」(?~建武三(一三三六)年)は、まず、同じく山下氏の注によれば、『河野氏族で、愛媛県松山市土井町の豪族。土居通益(みちます)』とある。ウィキの「土居通増」によれば(「益」「増」の違いはままある)、『土居氏は河野氏の傍流で、伊予久米郡石井郷南土居に所領を構えていた』。元弘三(一三三三)年閏二月十一日、『鎌倉幕府の打倒を志す後醍醐天皇に味方し、同じ河野一族である得能通綱・忽那重清』(くつなしげきよ 生没年未詳:伊予(愛媛県)忽那諸島を本拠とする水軍。後醍醐に呼応して挙兵、足利尊氏が建武政権に反すると、足利軍の追討に当った。建武三/延元元(一三三六)年、尊氏が九州から京都に向かうと、足利方に転じ、京都・安芸などで戦っている)『・祝安親らと共に挙兵し、伊予守護宇都宮貞宗の府中城を攻略。次いで、反幕勢力討伐のため伊予へ進軍した長門探題北条時直を、石井浜で敗走させた』。同年三月一日には、『喜多郡にある宇都宮貞泰の拠る根来山城を攻撃』、『十日余りで陥落させ』その十一日後の三月十二日には、『再び伊予へ侵攻してきた北条時直を星岡で破り』、『長門まで撤退させた。また』、五月には『讃岐まで遠征』、『幕府方の勢力を破っている』。『建武政権では、従五位下に叙爵され、伊予権介、続いて備中守に任官。南北朝の争乱が起こると、通増は通綱と共に南朝側に加わり』、『新田義貞に属し』、建武三年二月十日の『摂津での豊島河原合戦では足利軍を撃破した』。『また、同月、風早郡で挙兵した赤橋重時を打ち破』っており、五月二十五日の『湊川の戦いにも従軍している』。同年十月十日、『南朝勢力再建のため』、『北国へ赴く義貞に従い、越前へ向かうが、その途中、険しい山路で知られる越前荒乳で斯波高経の襲撃に遭』い、『予想外の降雪による寒波と兵糧の不足する中、高経の攻撃を受け、通増は一族と共に戦死した』とある。

「得能(とくのうの)三郎」(?~延元二/建武四(一三三七)年)まず、同じく山下氏の注によれば、『河野氏族で、愛媛県周桑(しゅうそう)郡丹原(たんばら)町徳能の豪族。得能通綱(みちつな)』とある。ウィキの「得能通綱によれば、『得能氏は伊予の河野氏の一族で、桑村郡得能荘を所領としていた』。この時、『鎌倉幕府の打倒を志す後醍醐天皇に味方し、同じ河野一族である土居通増・忽那重清・祝』(ほうり)『安親らと共に挙兵し、伊予守護宇都宮貞宗の府中城を攻略。次いで、反幕勢力討伐のため』、以降、殆んど先の土居と同行しているが、煩を厭わず引いておくと、伊予へ進軍した長門探題北条時直を』『石井浜で敗走させ』、同年三月一日には、『喜多郡にある宇都宮貞泰の拠る根来山城を攻撃』、『十日余りで陥落させ』、『再び伊予へ侵攻してきた北条時直を星岡で破り』、『長門まで撤退させた』。五月には『讃岐まで遠征し』、『幕府方の勢力を破っている。また、村上義弘や忽那義範と共に水軍を指揮して幕府の糧道を封鎖する等、倒幕へ貢献した』。『建武政権では、従五位下に叙爵され、備後守に任官。南北朝の争乱が起こると、通綱は通増と共に南朝側に加わり』、『新田義貞に属し』、建武三(一三三六)年二月十日、『摂津での豊島河原合戦では足利軍を撃破した。同月、風早郡で挙兵した赤橋重時を打ち破り』、五月二十五日の『湊川の戦いにも従軍した』。『南朝勢力再建のため北国へ赴く義貞に従い』、十月十三日に『越前金ヶ崎城へ入城するが、北朝方の斯波高経に城を包囲される(金ヶ崎の戦い)。通綱は奮戦したが』、翌年三月六日に戦死した。

「長門の探題」鎌倉後期、モンゴルの襲来に備えて、長門・周防防衛のために設けられた幕府の出先機関。長門周防探題とも称し、鎮西探題に準じて設けられた。建治二(一二七六)年に北条得宗家の北条宗頼(時頼の子で、時宗の異母弟)を長門・周防両国の守護として派遣し、敵襲の防衛に当らせたのが、事実上の初めで、以後、北条一族がその地位を相伝し、諸国の守護以上の強力な権限を与えられた。「探題」という称呼は、最後の同職に就いた北条時直在職 (一三二三年~一三三三年) の時に初めて見える。元弘三/正慶二 (一三三三) 年五月、時直が後醍醐天皇に降伏、長門探題は滅びた(以上は主に「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「上野〔の〕助時直(ときなほ)」北条(金沢)時直(?~元弘三/正慶二(一三三三)年)。金沢流(実質初代。始祖は実時の父実泰であるが、実泰は若くして出家しているため)北条実時の子。ウィキの「北条時直」によれば、嘉禎三(一二三七)年に式部大輔に叙任、寛元四(一二四六)年から建長三(一二五一)年まで遠江守となる。永仁三(一二九五)年から文保元年(一三一七)年まで上野介・大隅守護を務めており、永仁五年には鎮西評定衆に任命され、鎮西探題となった兄弟の北条実政とともに西国へ下り、これを補佐している。元亨三(一三二三)年、周防・長門の守護に任命され、長門探題となった。元弘三/正慶二(一三三三)年閏二月十一日及び三月十二日に、『祝安親・土居通増・得能通綱・忽那重清らが後醍醐天皇に呼応して倒幕の挙兵をすると、これを鎮圧するために伊予へ進軍するが、石井浜・星岡で相次いで敗れ、長門まで後退する。さらに、山陰から宮方に長門を攻められたが、援軍の到着もあって撃退することに成功する』。しかし、五月、『厚東・由利・高津などの討幕軍に攻められて瀬戸内海に逃れ』たが、海上にあるうちに、『六波羅探題、鎮西探題、鎌倉幕府が相次いで宮方の攻撃によって滅び』、『孤立無援となった』。このため、五月二十六日、『朝廷方の少弐貞経に降伏し、罪を許されて本領を安堵された』が、『程なく没した。死因は病死であったという』。因みに、彼の年齢は、嘉禎三(一二三七)年の式部大輔の叙任から推定して、生年は当然、嘉禎年間(一二三五年から一二三七年)より十年以上は前と考えねばならぬから、亡くなった時は優に百歳を越えていたと考えないと、辻褄が合わない。]

2018/06/14

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十三年 書中落涙

 

     書中落涙

 

 二月十二日、居士は熊本の漱石氏宛に長文の手紙したためた。病中の心境をこまごまと述べたもので、「決して人に見せてくれ玉ふな。若し他人に見られてハ困ると思ふて書留にしたのだから」と断ってあるが、惻々(そくそく)として人を動かすところが多い。羯南翁に関する左の一節の如きは、特に看過すべからざる文字である。

[やぶちゃん注:「惻々として」身にしみて感ずるさま。

 以下、底本では全体が二字下げ。前後一行空けた。前の引用を含め、「子規居士」で校合した。特異的にカタカナ表記の「子規居士」版を採り、約物「ヿ」(コト)も採用した。異様な長さのリーダもそのままである。底本は十字分(三十点)しか打たれていない。]

 

『日本』ハ賣レヌ、『ホトヽキス』ハ賣レル。陸氏ハ僕ニ新聞ノヿヲ時々イフ(コレハ只材料ヤ體裁ナドノヿ)ケレドモ僕ニ書ケトハハイハヌ。『ホトヽキス』ヲ妬(ねた)ムトイフヤウナヿハ少シモナイ。僕ガ『ホトヽキス』ノタメニ忙シイトイフヿ十分知ツテ居ル故………………………………………………………………………………………………(此間落泪(らくるい))

僕ニ『日本』ヘ書ケトハイトハイハヌ、ソウ[やぶちゃん注:ママ。]シテイツデモ『ホトヽキス』ノ繁昌スル方法ナドヲイフ。ソレデ正直イフト『日本』ハ今賣高一萬以下ナノダッカラネ(賣高ノヿハ人ニイフテ呉レ玉フナ)。僕カライヘバ『日本』ハ正妻で『ホトヽキス』ハ權妻(ごんさい)トイフワケデアルノニ、トカク權妻ノ方ヘ善ク通フトイフ次第ダカラ『日本』ヘ對シテ面目ガナイ。ソレデ陸氏ノ言ヲ思ヒ出スイツモ淚ガ出ルノダ。德ノ上カライフテ此樣ナ人ハ餘リ類ガナイト思フ。(其陸ガ六人目ニ得タ長男ヲ失ツテ今日ガ葬式デアツタノダ、天公(てんこう)是カ非カナンテイフ處ダネ)

 

 居士が社会の人となって以来、『日本新聞』社員として終始した所以のものは、何よりも羯南翁の徳に感じたところが大きかったろうと思う。羯南翁と居士との関係は、普通一般の社長対社員の如きものでなかったのは勿論、性格が合うとか、意見が一致するとかいう点で結ばれているものでもない。もっと深い情の契合(けいごう)であった。夜半この一書をしたためるに当り、掲南翁の事を思い浮べて覚えず落涙するというところに、津々(しんしん)として尽きざる情味が窺われる。

[やぶちゃん注:「契合(けいごう)」合わせた割り符のように、二つの対象が完全にぴったりと一致すること。

「津々(しんしん)として」つぎつぎと溢れ出てきて、尽きることがないさま。

 次の段落の引用も同前の処置をした。]

 

 同じ手紙の中に

 

『日本』ヘ少シ書ク。歌ノ方ヲ少シ研究スルト歌ニノリ氣が出來テ俳句ノ方ヘ少シ疎遠ニナル(貴兄ノ謠ト俳句ト兩方ヘハトイツタヤウナ處デモアラウ)。二月分ノ『ホトヽキス』ノ原稿ハマダ一枚モ出來ンノダ。察シテクレ玉ヘ、僕ガコノ無氣力デ此後一週間位ノ間ニ『ホトヽキス』ヲ書イテシマハネバナラヌト思フテ前途ヲ望ンダ時ノ僕ノ胸中ヲ。

 

といウことが書いてある。『ホトトギス』二月号は遅延のため遂に休刊し、三月号と合併して出すことになった。居士はこの号のために「糞の句」「奇想変調録」「一句一題」その他、比較的多くの原稿を寄せたが、これを境界として『ホトトギス』に居士の名を見ることが少くなった。「俳句分類」もこの号限りで出なくなっている。歌に力を用いるようになった結果、俳句の方に疎遠になったところもあるかも知れぬが、それよりも居士の健康が以前のように諸事を併行(へいこう)しむるわけに行かなくなったためだろうと思われる。

 『日本』には短歌会記事や募集短歌の外に、「短歌愚考」「『草径集』を読む」「『磐之屋歌集』を読む」など、歌に関するものがぽつぽつ現れた。『草径集』は大隈言道(おおくまことみち)、『磐之屋集』は丸山作楽(まるやまさくら)の歌集である。作楽は居士が当代の歌において、僅に敬意を払い得た一人であった。「要するに氏は歌人にあらず、從つて其歌變化に乏し。然れども飽くまで『万葉』の高きを學びて今の世に得難き佳什(かじゅう)を残したるは却て其歌人ならざりしがためのみ」といっている。

 当時の歌人の畠には居士を満足せしむる者は見当らなかったのである。

[やぶちゃん注:「大隈言道」(寛政一〇(一七九八)年~慶応四(一八六八)年)は江戸後期の歌人。福岡の商家の出。

「丸山作楽」(天保一一(一八四〇)年~明治三二(一八九九)年)は外交官・実業家・政治家。江戸生。島原藩士の長男。漢学・洋学を修め、国学を平田鉄胤に学び、影響を受けた。勤王の志士とともに国事に奔走、。明治二(一八七〇)年には外務大丞として樺太でロシアと交渉した。しかし、同四年、征韓論に同調して、一時、投獄されている。明治十五年には「立憲帝政党」を組織して、日本帝国憲法や皇室典範の制定に参画した。明治二〇(一八八七)年のアメリカ外遊後、元老院議官・貴族院議員となった。万葉調の歌人としても知られる。

「佳什」優れた詩歌。立派な文学作品。「什」は「詩経」の「雅」(「詩経」の六(りくぎ:同書に於ける六種の分類。内容上の分類に相当する「風」・「雅」・「頌しょう)」、及び、表現上の分類に相当する「賦 」・「比」・「興きょう)」の六部立) の一つ。周王朝の儀式や宴席でうたわれた詩歌。大雅・小雅に分かれる。)と「頌」(しょう:同じく「詩経」の六義 の一つ。祖先を祀った宗廟そうびょう)に於いて祖先の徳を讃える詩)の十篇をいう「篇什」に基づく語で、「詩篇」の意。]

諸國里人談卷之二 星糞

 

     ○星糞(ほしくそ)

信濃國岩村田の邊〔あたり〕に「星糞」といふ石あり。春、田耕(たがや)すころ、土中より、掘出(ほり〔いだ〕)す也。色、うす鼡(ねずみ)にして、性(しやう)は水晶石に似たり。大きなるは稀也。燧石(ひうちいし)の欠(かけ)たる程の石角(いしかど)だちたる也。此地は、他所(たしよ)より、流星(りうせい)、多き所なり。すぐれて流星あるとしは、此石もまた、おほし。これを「星糞」といふ。

[やぶちゃん注:「信濃國岩村田」現在の長野県佐久市岩村田(いわむらだ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

 さて、前の「月糞」で引いた天中原長常南山(中野得信)編「山家鳥虫歌」の私の翻刻を再掲する(「黑き燒石の如くもの」は頭注に従い、訂した)。

   *

美濃國、心やはらかにしてよき風なり。此の國、月吉村といふ所に長さ、一、二寸ばかりある、薄白き寶貝(ほらかひ)の如き、「月糞」といふ石あり。同所、村田の邊に「星糞」と云ふものあり。上天の星は末代かはらず、「流星」は、地中より出づる陽氣にて空へあがり、「冷際」と云ふ大寒の所あるにあたり、すれて光を發し、落つるものを「流星」と名づけいふなり。土中の陽なるゆゑ、土氣を含み、のぼる。大なる「流星」は地まで、火光、とゞく。ともし火のしんあるが如く、陽は發し、土氣はかたまりて、黑き燒石の如きもの、地へ落つる。これを「星糞」といふなれば、岩村に限りてあるとは、いぶかし。

   *

ここでは「同所」となっていて、それだと、「美濃國」の「村田」という場所になるが、最後のところで「岩村」とあるから、ここは「岩」の脱字で「岩村田」という地名か、「岩村〔の〕田(た)の邊(あたり)」、或いは「村田」自身が「岩村」の誤りとも読める。しかし、まず、現在の岐阜県内には「岩村田」という地名はない。「村田」というありそうな地名もちょっと見つからない。但し、「岩村」ならば、岐阜県恵那市岩村町があるここ(グーグル・マップ・データ)。私の注の最後に関わるので太字とした)。しかし、何より、沾涼ははっきりと「信濃國岩村田」と記している訳で、まずはそれで考証するのがここは筋である。前条で引かせて戴いた「山家鳥虫歌」を素材としたMineralhunter氏のサイト「Mineralhunters」内の『「山家鳥虫歌」にみる石と鉱物』でも、実は同じように、この記載にとまどっておられ、「月糞」の考証の後で(一部の空欄や記号を詰めたり、変えたり、させて貰った)、

   《引用開始》

 しからば、『星糞』とは何だろう。「山家鳥虫歌」には、『同所岩村田の辺……』[やぶちゃん注:これはサイト主が底本とした岩波文庫による補正と思われる。]に産する、とある。『同所』は、前文を受け、美濃の国(現岐阜県)を指すはずだが、岐阜県には岩村田という地名を見いだせない。

 逆に、『星糞』、という地名を探すと、長野県の長和町に「星糞峠」なる地名があり、佐久市岩村田のすぐ近くだ。[やぶちゃん注:(国土地理院地図)。「星糞峠黒曜石原産地遺跡」がある。但し、岩村田からは南西に二十七キロメートルは離れているので、失礼乍ら、現在の感覚では「すぐ近く」とは言い難い。]

 星糞峠近くにある、「黒耀石体験ミュージアム」のHPを閲覧すると、「星糞という言葉」の記事が載っている。「人の手が加わって割れた黒耀石のかけらは、光をあびてキラキラと輝く。この黒く半透明の輝く石を、いつの頃からか、人は『星糞』という素朴な名前で呼び親しんできた」、とある。

 同時に、「江戸時代の会津藩の古文書の中に、黒耀石を方言で『星糞』とも呼んでいるという情報が寄せられた」、ともある。

 つまり、『星糞』とは、古代人が石器の材料として黒曜石を掘り出したり、加工したときに生まれた剥片を指しているようだ。

   《引用終了》

私も「黒耀石体験ミュージアム」を覗いてみた(アラビア数字を漢数字に代えた)。

   《引用開始》

星のようにキラキラと輝く美しい黒耀石。鷹山にある黒耀石の原産地を、いつの頃からか、人々は星糞峠と呼ぶようになりました。

割れ口が鋭く加工しやすい黒耀石は、およそ三万年もの間、石器の材料として利用されてきました。産地の限られる貴重な黒耀石をもとめて、この鷹山の地にはたくさんの人々が集まり、星糞峠からそのふもとの一帯には、黒耀石の流通に関係した、大きな遺跡がいくつも残されています。全国各地へと、遠い道のりを持ち運ばれていった黒耀石。

この地は、まさに、その「ふるさと」なのです。

[やぶちゃん注:小見出しを省略した。]

およそ八十七万年前の噴火でできた星糞峠の黒耀石。旧石器時代には、そのふもとに石器工場のような遺跡が、縄文時代には、峠の付近で黒耀石を掘り出した鉱山のような大規模な遺跡が残されました。

   《引用終了》

とある。以上から、この「星糞」とは黒曜石、それも沾涼が「大きなるは稀也。燧石(ひうちいし)の欠(かけ)たる程の石角(いしかど)だちたる」ものであると言っていることから、縄文以降、人々によって鏃や石器に加工された遺物としてのそれらであったことが判明するのである。私は小さな頃、父に連れられて、練馬の大泉学園の川添いの寺院の墓地の裏手の丘陵や(幼稚園時)、今居る近くの戸塚小雀の浄水場近くの休耕畑から(小学生低学年時)、驚くほど多量の黒曜石の鏃を発掘した経験がある(前者のある場所は、地面を蔽ってしまうほどに露出していた)。かつての古代人の住居であった田圃から鏃が出てきて、何ら不思議はないのである。

 但し、最後に一言言っておくと、先に示した岐阜県恵那市岩村町の北近くには、縄文期の阿曽田遺跡(リンク先はサイト「遺跡ウォーカー」。地図有り)が存在し、黒曜石の石鏃等が出土している。ここから信濃へ抜ける中山道沿道にはこうした古代人の集落が多数あったに相違ない(それは多くはこの星糞峠付近から供給されていたものではあろう)から、「山家鳥虫歌」の「岩村」の記載を安易に「岩村田」として解決するのは、ちょっと留保したい気持ちにはなるのである。]

諸國里人談卷之二 月糞

 

     ○月糞(つきのふん)

美濃國御嶽の麓に、月吉(つきよし)村・日吉村といふあり。此所、秋に至つて、常每(よごと)に降(ふり)ものあり。長〔ながさ〕四寸ばかり、螺貝(ほらがひ)のごとく、屈曲にして、色、薄白き石なり。これを「月の糞」といふ。

[やぶちゃん注:「月吉(つきよし)村・日吉村」御嶽山からかなり離れるが、岐阜県瑞浪市に日吉町(五十三キロ南西のここ(グーグル・マップ・データ))が、そこに南西に接して月吉町があるから、ここであろう。一見、「麓」と言うにはちょっと離れ過ぎてるように感じるが、御嶽山からこの辺りまではなだらかに下っており、地図上では、広義の麓と称してもおかしくない気はした。

「夜每(よごと)」は「夜每」で「よごと」。これが当然のように思われるが、で表記した。これは後の私の考証を参照されたい。

「四寸」十二センチメートル。

「螺貝(ほらがひ)のごとく、屈曲にして」ここで「月糞」の私の考証に入る。

 これは所謂、カワニナのような殼頂が非常に高い尖塔状の巻貝、或いは、そのような形状の対象物であることを指すと考える。何故、「糞」なのか? それは当然、人の糞よろしく、蜷局(とぐろ)を巻いているからに決まってる。それがウンコ色ではなくて、白く時に輝いて見えるから、「日の糞」かも知れぬ。或いは、この「日吉」「月吉」という地名との如何にもな一致は、何か別にこの地に、日月信仰の伝承が隠されている可能性もある(こう考えた時はただの仮説であったが、後に引用するように、事実、これはあった)。しかし肝心なのは「薄白き石」であることである。

 例えば、有意な尖塔性を示すキセルガイ系の現生の陸産有肺類(腹足綱有肺目キセルガイ科 Clausliidae。本邦にはアジアギセル亜科 Phaedusinae に属する二百種ほどが関東(種によっては東北)以西以南に棲息するから、分布上は問題ない)であったとすれば、それが生貝でなく、死貝の殻であったとしても「石」とは言わないと思うからである。私の家の周囲にはかなり小型の、見かける時(これは色のせいもある)には白いことが多いキセルガイが多数棲息しているが、それは無論、落ち葉の下に生貝を確認することもあるから(カタツムリのような有意な運動行動は私はあまり見たことはない)、当時の人がキセルガイ類のことを日常的に見ており、それらが蝸牛類の仲間、或いは川螺の陸に住む奴ぐらいの認識はしていたはずであり、それが白っぽくなった(キセルガイ類は淡褐色から紫褐色をしたものが多いが、黄白色の個体もおり、老成個体では磨耗して薄く、しかも白色になる。私の家の周囲の種は恐らくは殻高さが二センチメートルほどであり、有意に殻が白い、腹足綱有肺亜綱柄眼(マイマイ)目キセルガイ超科キセルガイ科 Zaptychopsis 属ヒカリギセル Zaptychopsis buschi か、その近縁種ではないかと思われるが(和名は別に発光するからではなく、殻が白く、それが光って見えるというだけのことである)、その死貝の殻であっても、それを私が江戸時代の民衆の一人であったとしても、「石」とは決して表現しないと思う。従って、現生有肺類説は退ける

 そうなると、気淡水産或いは海産のやはり有意な尖がり帽子状を呈して螺の巻きの強いニナ系類の化石の可能性が高くなるこの月吉・日吉附近は内陸であるが、純海産であっても、化石だから、何ら問題ない

 而して、これは、かの石狂木内石亭(享保九(一七二五)年~文化五(一八〇八)年)の「雲根志」(安永二(一七七三)年(前編)・安永八(一七七九)年(後編)・享和元(一八〇一)年(三編)刊)にあっていいはずだと知らべてみると、前編の巻之四の「十七」項目に「月珠」として出ていた。しかも本書(寛保三(一七四三)年刊)に基づくと思しい三十年の探索行らしい(引用は昭和五四(一九七九)年現代思潮社刊「復刻 日本古典全集 雲根志」(原本昭和五(一九三〇)年日本古典全集刊行会刊)を用いたが、気読点記号をオリジナルに附した)。

   *

國人(くにびと)、「日の糞」・「月の糞」又は「日の御降(おさが)り」などいふ。明和四年[やぶちゃん注:一七六七年。]亥(ゐの)春二月、求(もとめ)て、其産所をたづね行(ゆく)に、木曾街道御嶽(おたけ)の宿(しゆく)より、南の山道へ三里余入(いり)て、月吉村なる山中、土石の中に、此物、澤山なり。日吉村に赤色(あかいろ)の物あり、といへども、今はなし。誤説なるべし。舊説「里人談」にのせたれば、これを略せり。

   *

これは頗る略述で、どのような形状かも書いていない、石亭にしては如何にも杜撰な記載なのであるが、それよりもここで注目すべきは、その別名の中にある「日の御降(おさが)り」という別名である。「御降(おさが)り」とは「神仏に供えた後に下げた飲食物」を指し、古来より、一般にそれらは供えた人々が頂戴する有り難い下賜された物(食物なら食うことで「神人共食」をシンボライズする)なのである。そこで私は本条を読んだ最初から咽喉に刺さった魚の骨のように気になっていたことが、眼から鱗となったのである。則ち、本文の「秋に至つて、常每(よごと)に降(ふり)ものあり」の「降」である。これは確かに「ふり」とルビが振られている。しかも「秋」になると、「每」日(「常每」を「昼夜を問わず」の意で採るのだ。「常(よ)」は「世(よ)」の意で採れば問題ない。或いは「常(よ)」はある状態が「長く」続くなのだから、さらに問題ない、それが「降」るのだという。しかし、それをそのままに、この「月糞(つきのふん)」がジャカスカ降ってくると読んだのでは、如何にも奇天烈だ。眠れんぞ?

――十二センチもある、尖った貝殻が毎晩、空からバラバラ降ってくるんじゃ、たまったもんじゃないぞ!

――いや?! 待て!

――「秋」になって昼夜を問わず「降」ってくるものはないか?

――あるぞ! 秋の長雨だ! 秋の長雨なら「常每(よごと)」降るぞ! そうして、秋の長雨は地に沁み込み、山中の崖の泥土を溶ろかす。その「土石の中に、此物、澤山なり」だ! 埋もれていた巻貝の化石が出現するのだ!

 ここまで自力でやって来た私は、ある確信を得た気がした。そこで、やおら、ネット検索を「月糞 月吉 日吉」のフレーズで掛けてみた。あるある! 私の仮説をしっかり補強して呉れる記載が!

 個人サイト「鉱物たちの庭 "The Courtyard of our Minerals"」の「760.月のお下がり/蛋白石 Opal (日本産)」である。そこには、岐阜県瑞浪市土岐町字桜堂にある東濃地方屈指の古刹、通称、「桜堂薬師(さくらどうやくし)」、臨済宗瑞櫻山法妙寺に纏わる伝承が記載されてあるのだが、ここはまさに土岐川左岸、日吉・月吉の対岸直近なのである(ここ(グーグル・マップ・データ))。引用が長くなると、問題なので、頭の『日吉・月吉という二人の兄弟』の奇譚はリンク先を読んで戴きたい。下線は私が引いた(アラビア数字を漢数字に代えさせて貰った)。

   《引用開始》

このあたりは日月に縁りの土地とされる。西行作と伝わる古歌に、「夜昼のさかひはここに 有明の 月吉日吉 里をならべて」がある。旅の法師は二つの里の境に立ち、暁闇から払暁へ移ろう時の境に重ねて詠んだという。また月吉に「月の宮」という祠があって、ここに「榊葉に かけしかがみの 面影と 神もみまさん 月の休む間」と詠んだ。里には「月の手鏡」と称える池があって、風のない夜、ほとりに立つ大槇に月が下りて、静かな水面に映る自分の姿に見惚れたという伝承にちなんだとされる。大木の梢に掛かった月が、山里に抱かれた鏡のような池に映るさまを、「月の宿り」とみて親しんだ古人の風雅な心が偲ばれる。(一方、日吉には「天津日の宮神社」がある。)

あるいはこんな話もある。天地(あめつち)がまだ定まらない頃、日ごと東から西へ動き続けていた日神は、日吉の里に止まって、しばしの憩いをとってから旅を続けるのが習いだった。また月神は隣の里の月吉に憩いをとってやはり日ごと旅を続けた。彼らは折々大用を足してから出かけたもので、里の土には彼らの落としたものがたくさん埋まっている。やがて天地が分かれて定まると、日神も月神も高い天の上を通るようになり、里で休むことはなくなったが、ときどき丈高い大木を見つけて降りてくる。置き土産はやがて美しい石になって、今も見つけることが出来る。月吉の里人は月神の落としものを「月のおさがり」と、日吉の里人は日神の落としものを「日のおさがり」と呼んだ。これらは神の気配の宿った石なのである。「月のおさがり」は霊験あらたかな安産のお守りだそうだ。

画像はその「月のおさがり」。[やぶちゃん注:リンク先に画像有り。]

この種の石は昔からよく知られていたらしく、江戸中期の俗謡集「山家鳥虫歌」[やぶちゃん注:「さんかちょうちゅうか(歴史的仮名遣:さんかてうちゆうか)」は全二巻。天中原長常南山(中野得信)編(作者の伝未詳。読み方も不明)。明和九(一七七二)年刊。全国六十八ヶ国の民謡約四百首を集め、国別に纏めた歌謡集。]に、長さ一、二寸ばかりの、薄白い、法螺貝の如き月糞なる石が月吉に出ることが記されている。益富寿之助[やぶちゃん注:ますとみ かずのすけ:明治三四(一九〇一)年~平成五(一九九三)年:薬学者・鉱物学者・薬学博士(京都大学)。]は、明和四年(一七六七)二月に石人木内石亭が月吉を訪れ、この石が土地の人から「月の糞」または「月の御下がり」と呼ばれていると雲根誌に書いたと指摘し、「これは月の兎のもちつきという俗説に付会した至妙の諧謔であろう」と述べている。氏は何か月兎に因んだ言い伝えをも承知していたのかもしれない。

氏によるとこの石は月珠(つきのたま)とも呼ばれる玉髄化した巻貝の内型化石であり、巻貝は学名をビカリヤ・カローサという、殻にトゲのある新生代中新世の示準化石である。二枚貝と違って巻貝は泥が入り込みにくいので、内部に蛋白石(オパール)やめのう(玉髄)が出来やすいのだそうだ。[やぶちゃん注:中略。ここにはある図鑑に「砂岩の中に半透明の玲瓏とした石の貝が入っている神秘さゆえ、土地の人はそれを『月のおさがり』と名づけた」という引用がある。]

「月のおさがり」と「日のおさがり」の違いは、本来どちらの里で採れるかだったと思われるが、今日では巻貝の珪化した白い内型を前者、褐色の方解石で出来た内型を後者として区別するそうである。画像の標本は殻が溶失して内型のみが凝灰岩質の母岩に埋まっているが、「トゲのある」殻の化石を剥くと、中に「おさがり」が見出されることもあるという。[やぶちゃん注:中略。ここには「おさがり」の語の考証があり、私が推理したのと同じ考察をサイト主はなさっておられる。]

この石を「おさがり」と称する心には、里(地方)を訪れた神が残していったモノを有難く賜るニュアンスが含まれていると考えられる。また月から降った水(雫)が凝ったモノとして降雨との連想もあるかもしれない。

   《引用終了》

 ここに出る「山家鳥虫歌」は所持しているはずなのだが、見当たらない。しかし、幸いなおことに、MineralhunterサイトMineralhunters「山家鳥虫歌」にみる石と鉱物に詳述されてあるのを発見した。そこに同書の「美濃」の中に「月糞」の記載がある由の紹介があったので、国立国会図書館デジタルコレクションの藤井乙男他校訂「近代歌謠集」(大正一二(一九二三)年有朋堂書店刊)の画像で同書を見てみた。からである。句読点・記号をオリジナルに打って翻刻する。

   *

美濃國、心やはらかにしてよき風なり。此の國、月吉村といふ所に長さ、一、二寸ばかりある、薄白き寶貝(ほらかひ)の如き、「月糞」といふ石あり。同所、村田の邊に「星糞」と云ふものあり。上天の星は末代かはらず、「流星」は、地中より出づる陽氣にて空へあがり、「冷際」と云ふ大寒の所あるにあたり、すれて光を發し、落つるものを「流星」と名づけいふなり。土中の陽なるゆゑ、土氣を含み、のぼる。大なる「流星」は地まで、火光、とゞく。ともし火のしんあるが如く、陽は發し、土氣はかたまりて、黑き燒石の如くもの[やぶちゃん注:底本頭注に『如きものの誤りなるべし』とある。]、地へ落つる。これを「星糞」といふなれば、岩村に限りてあるとは、いぶかし。

   *

陰陽五行説による解説や考察は半可通で、「同所村田」とか「岩村」とかも誤字・錯字が疑われるが、ともかくも確かに「月吉村」の「月糞」の記載であることで、ここは満足しよう(しかも、実は本「諸國里人談卷之二」の次の条の「星糞」も出てきた。「星糞」はまた、Mineralhunter氏の同ページを用いて解明出来ることが判った。それはそちらに回す)Mineralhunter氏も、この「月糞」について、石亭の探索の事実を挙げ、「月糞」を『玉髄化した巻貝(ビカリヤ・カローサ)の化石』としておられる。

 さてもそこで、いよいよこの「月の御降り」=「ビカリヤ・カローサ」であるが、これは、

腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目 Cerithiimorpha 亜目キバウミニナ科 Potamididae に属するビカリア属ビカリア・カローサ Vicarya callosa japonica

である。ウィキの「ビカリア」によれば、ビカリア属は『新生代第三紀』(約六千四百三十万年前から二百六十万年前)『に繁栄したが』、『現在は絶滅しており、各地で化石として産出する』。『内部がケイ酸で置換されたものを「月のおさがり」という』(太字下線は私)。殻長十センチメートル『ほどの円錐形の巻貝で』、キバウミニナ科Potamididaeの現生種であるキバウミニナ属キバウミニナTerebralia palustris・キバウミニナ科 Telescopium 属センニンガイTelescopium telescopium)・キバウミニナ科 Cerithidea 属フトヘナタリ Cerithidea moerchii)『などに似ている。殻の表面には太い螺肋や角状突起がある』。『新生代第三紀の始新世』(約五千六百万年前から約三千三百九十万年前)『から中新世』(約二千三百万年前から約五百万年前)『にかけての地層から産出し、示準化石として重要である』。『世界中の熱帯』から『亜熱帯に分布し、マングローブなどの汽水域に分布していた。日本も当時は熱帯』或いは『亜熱帯気候だったと考えられており、各地で化石が発見されている』とある。

 久し振りに、眼から鱗がすっきり落ちるほどに、爽快な考察とその確証が出来た。最後に改めて、「鉱物たちの庭 "The Courtyard of our Minerals"のサイト主の方と、採集サイトMineralhuntersMineralhunter氏に心から謝意を表して終りとする。]

2018/06/13

好きなものは

 

好きな単
-語(もの) Schema(シェーマ)Trauma(トウラマ) raison d'etre(レゾン・デトール)

  

好きな発-音(もの) 心象 puer eternus(プエル・エテルヌス)


 

諸國里人談卷之二 水口石

 

     ○水口石(みなくちいし)

近江國石橋に「高嶋の大井子(〔おほゐ〕こ」と云〔いふ〕、隱れなき大力〔だいりき〕の女、ありける。田へ水を引〔ひく〕ころ、里人(さとびと)、水を論じ、大井子が田へは水を入ざりける。大井子、安からずおもひ、一夜(あるよ)、六、七尺ばかりの大き成(なる)石を持來(もち〔きた〕)り、水口(みなぐち)に置(をき[やぶちゃん注:ママ。])て、あらぬ所へ、水を流しける。明(あけ)の朝(あさ)、里人、これを見て、大きにおどろき、退(しりぞけん)とすれども、中々、百人ばかりにては、たやすく動かすべきにあらず。水下(みづしも)、おほくの田、水、涸(かれ)て、難儀に及びしかば、一同に降(かう)して、「今よりは、心のまゝに水をまかすべし」と也。「さこそ侍らん」と、件(くだん)の石を、くるしからぬ所へ、引退(ひきのけ)ける。是を「大井子が水口石」とて、今にあり。

[やぶちゃん注:これはまず、土地としては、女の呼称の頭の部分「高嶋」を含んで、現在の滋賀県高島市安曇川町(あどがわちょう)内で、同町の三尾里(みおさと)にある安閑(あんかん)神社(ここ(グーグル・マップ・データ))の境内に、大井子伝承の「力石(水口石」として現存している。而して、彼女は、実は「古今著聞集」の「卷第十 相撲力(すまひがうりき)」の三七七話の「佐伯氏長、力の女高島の大井子に遇ふ事 幷びに 大井子、水論にて初めて力を顯はす事」に登場する、古い、美しい怪力女なのであり、沾涼のこの記載も明らかに「古今著聞集」に依拠したものと思われる。以下に原文を出す(底本は新潮日本古典集成版を参考に、恣意的に漢字を正字化して示した)。

   *

 佐伯氏長[やぶちゃん注:伝未詳。]、はじめて相撲の節(せち)にめされて、越前國よりのぼりける時、近江國高島郡石橋を過ぎ侍りけるに、きよげなる女の、河の水を汲みて、みづからいたゞきて行く女ありけり。

 氏長、きと[やぶちゃん注:ちらっと。]見るに、心うごきて、たゞにうち過ぐべき心ちせざりければ、馬より下りて、女の、桶とらへたるかひなのもとへ、手をさしやりたりけるに、女、うち咲(わら)ひて、すこしも、もてはなれたる[やぶちゃん注:嫌がって避ける。]けしきもなかりければ、いといと、わりなく覺えて、腕(かひな)を、ひしとにぎりたりける時、桶をば、はづして、氏長が手を、脇に、はさみてけり。

 氏長、興ありておもふほどに、やや久しくなれども、いかにも、この手を、はなたざりけり。

 ひきぬかんとすれば、いとゞつよくはさみて、すこしも、引きはなつべくもなければ、力をよばずして、おめおめと、女の行くにしたがひてゆくに、女、家に入りぬ。

 水、うちをきてのち、手をはづして、うちわらひて、

「さるにても、いかなる人にて、かくは、したまへるぞ。」

といふ。

 氣色・事がら、ちかまさりして、たへがたく覺えけり。

「われは越前國の者なり。相撲の節といふ事ありて、力つよきものを國々よりめさるる中に入りて、參るなり。」

とかたらふを聞きて、女うなづきて、

「あぶなき事にこそ侍るなれ。王城はひろければ、世にすぐれたらん大力も侍らん。御身も、いたくのかひなしにてはなけれども[やぶちゃん注:全くの弱虫ではないけれど。]、さほの大事に逢ふべき器(うつは)にはあらず。かく見參しそむるも[やぶちゃん注:このようにあなたにお逢いしたということも、これ。]、然るべき事なり。かの節の期(ご)、日、はるかならば[やぶちゃん注:節会の本番が未だ先のことであるのなら。]、こゝに、三七日(みなぬか)[やぶちゃん注:二十一日で「二十日ばかり」の意。]逗留し給へ。其程に、ちと、とりかひたてまつらむ[やぶちゃん注:「取り飼ふ」で「お世話して、力をつけて差し上げましょう」の意。]。」

といへば、

「日數もありけり、くるしからじ。」

とおもひて、心のとどまるままに、いふにしたがひて、とどまりにけり。その夜より、こはき飯をおほくして、くはせけり。

 女、みづから、其飯をにぎりてくはするに、すこしも、くひわられざりけり。

 はじめの七日は、すべてゑくひわらざりけるが、次の七日よりは、やうやう、くひわられけり。

 第三七日よりぞ、うるはしうはくひける。

 かく三七日が間、よくいたはりやしなひて、

「いまはとくのぼり給へ。此うへは、『さりとも』とこそおぼゆれ[やぶちゃん注:ここまでなったからには、『もう、まず、負けることはない』と思いますから。]。」

といひて、のぼせけり。

 いとめづらかなる事なりかし。

 件(くだん)の「高島のおほゐ子」は、田など、おほく、もちたりけり。

 田に水まかする比(ころ)、村人、水を論じて、とかくあらそひて、「おほゐ子」が田には、あてつけざりける時、「おほゐ子」、夜にかくれて、おもてのひろさ、六、七尺[やぶちゃん注:一メートル八二センチ~二メートル十二センチ。]ばかりなる石の、四方なるをもて來たりて、かの水口にをきて、人の田へ行く水をせきて、我が田へゆくやうに橫ざまに置きてければ、水、おもふさまにせかれて、田、うるおひにけり。その朝、村人ども、見て、驚きあさむ[やぶちゃん注:呆れる。]事、かぎりなし。石を引きのけむとすれば、百人ばかりしても、かなふべからず。

「させば[やぶちゃん注:そのように多くの人々を呼んで動かそうとしたなら。]、田、みな、ふみそむぜられぬべし[やぶちゃん注:結果、田は散々に踏み荒らされてしまうことになってしまうぞ。]。いかゞせむずる。」

とて、村人、おほゐ子に降(かう)をこいて[やぶちゃん注:降参を願い出て。]、

「今より後は、おぼしめさむ程、水をば、まかせ侍るべし。この石、退(の)け給へ。」

といひければ、

「さぞ、おぼゆる。」[やぶちゃん注:そう致しましょう。]

とて、又、夜にかくれて、引きのけてけり。

 其後は、ながく、水論する事なくて、田、やくる事、なかりけり。

 これぞ、大井子が力、あらはしそむる、はじめなりける。

 件(くだん)の石、「おほゐこが水口石」とて、かの郡(こほり)に、いまだ、侍り。【私(わたくし)云(いふ)、この「大井子」は何樣(いかやう)なるものとも見えず。尋ぬべし。】

   *

 なお、しかし、最後に一言言っておくと、沾涼が不可解なのは、この安閑神社には現在、奇っ怪な解読不能の絵文字のような刻印のある、通称「神代文字の石」と呼ばれる、遙かにぶったまげに奇体な石があるのに、それを併記していない点である(今は「力石(水口石)」と並んでおて、遮蔽物なしに見られるようだが、或いは当時はまだこの「神代文字の石」なるものは別なところにあった(或いはまだ橋石だったものか)「びわ湖高島観光協会」の「高島市観光情報」の「安閑神社」にある解説版画像(クリックで拡大される)を翻刻すると(この解説版の前の方は、この大井子の「力石(水口石)」の説明文である)、

   *

神代文字の石

 字とも文字とも判別のつかない陰刻がされた石である。元は知らないで橋に使われていたというが、一説には古墳の一部ではなかったか、とも言われる。この陰刻の解明は未だなされていないが、この種の記号文字は神代文字と呼ばれ、不思議な歴史の貴重な遺産である。

   *

私は神代文字論者の諸説を孰れも全く認めないが、しかし、このペトログリフ(petroglyph)=岩絵、なかなかに魅力的ではあるぞ!

諸國里人談卷之二 姥石

 

     ○姥石(うばいし)

越中國立山國見坂のうへ、「姥が懷(ふところ)」に姥石と云あり。むかし、若狹國小濱(おばま)に「止宇呂尼(とうろに)」といふ女僧(あま)ありける。元より、當山は女人結界の地なるを、「推(おし)て參らん」とはかりて、壯(さう)の女一人、童女(どうによ)一人伴ひけるが、湯川(ゆ〔かは〕)の上にて、此壯女、忽(たちまち)、化(け)して杉の木となれり。是を「美女杉」と云〔いへ〕り。彼童女、怖(おそれ)て進み得ず。老女、尿(いばり)をしながら、此體(てい)を見て、大きに怒詈(いかりのゝし)る。その尿の跡、穴となりて、深き事、幾許(いくばく)といふを知らず。國見坂のうへに至る時、俄に、兩角(りやうづの)、生(お)ひて、忽(たちまち)、石と成。「姥石」、是也。件(くだん)の兩角は、什宝として今にありと云〔いふ〕。

[やぶちゃん注:「越中國立山國見坂」は、附近と推定した(グーグル・マップ・データ)が、実はこの石、永く不明であったものが、何と、四年前の二〇一四年(調査は二〇一〇年開始で「姥石」発見は記事を読むに二〇一三年のこと)に、ずっと下方の「弥陀ヶ原」((グーグル・マップ・データ)。富山県中新川郡立山町芦峅寺(あしくらじ))で発見されていることが、個人ブログ「学芸員の部屋」の立山で「禅定道」が確認され、「姥石」が発見されるというニュースによって判った。そこで記事(二〇一四年二月十九日附『北日本新聞』)が翻刻されているので、引用させて貰うと、『江戸時代に立山信仰で使われた旧登拝道、いわゆる「禅定道」跡が立山の千寿ケ原から雄山山頂の間で確認され』、十八『日に県民会館で開かれた立山・黒部山岳遺跡調査指導委員会(委員長・黒崎直富山大名誉教授)で報告された。禅定道は明治期の略地図などで存在は知られていたが、ルートを特定する遺構は見つかっていなかった。調査に当たった県埋蔵文化財センターの久々忠義主任専門員は「登拝ルートの全貌が明らかになり、当時の信仰登山の様子が具体的に分かる」と話している』とあり、以下、『「弥陀ヶ原で姥石発見」の見出しにつづいて』(←これはブログ主の添書き)、『調査は立山・黒部地域の世界文化遺産登録に向けた資料収集を目的に』、五『年計画で実施。禅定道は千寿ケ原から雄山山頂までの約』二十『キロで』、四『年目の本年度は、千寿ケ原-天狗平間約』十三『キロを調べた。過去の調査と合わせ、ルート沿線にあったとされる雄山神社の末社』三十六『ヶ所のうち』、二十七『ヶ所を確認。ブナ平や弥陀ヶ原では、くぼ地となった幅』四十~六十『センチの登拝道跡も見つけた』。『さらに弥陀ヶ原では立山曼荼羅に描かれた姥石(うばいし)を発見した。女人禁制を犯して入山した尼が罰を受けて石になったといういわれがあり、江戸時代には信仰登山の人々が訪れる名所となっていた。姥石のくぼみには高さ』五十九センチ、幅二十五センチ『の石仏が置かれ、「右うはいし道」などの文字が刻まれていた』(下線太字やぶちゃん)。『材木坂と美女平の間、美女杉坂下では江戸時代末期に金沢の町人が禅定道用に寄進した地蔵石仏も確認した。最終年の』二〇一四『年度は、弥陀ヶ原などの現地調査や剱岳山頂遺跡の測量などを行う』とある。さらに『読売新聞』の記事が引かれ、そこには『同センターが昨年』八『月、立山有料道路近くの沢筋にある廃道「姥ヶ懐道」の標高』千九百七十九メートルで『発見した。石は縦』二・五メートル、横二・二メート ル、高さ一・八メートル。『石の上のくぼみには』、天明三(一七八三)年の銘がある高さ』五十九『センチの石仏が安置されていた。石仏は錫杖(しゃくじょう)と宝珠を持つ地蔵立像。光背には「天明三卯六月廿四日 右うはいし道」の文字が刻まれており、姥ヶ懐道は当時、「姥石道」と呼ばれていた可能性があるという』。『同センターによると、この石は』一九六〇年、『奈良国立博物館長だった石田茂作博士が調査し、石仏が上に安置された石のスケッチを残していたが、その後』、『所在がわからなくなっていた』。『同委員会にオブザーバーとして出席した米原寛・前立山博物館長は「すばらしい発見」と評価し、「道標があるということは、もう一本道があるはず」と指摘した』とある。添えられた写真の『富山新聞』(二〇一四年二月十九日附)の見出しは『曼荼羅の「姥石」確認』とある。なお、個人サイト「野」諸國里人談掲載ページには、『若狭国小浜は八百比丘尼の産地だ。「止宇呂」はトウロもしくはシウロと訓める。シウロならば白に通じ、八百比丘尼の別名である白比丘尼を暗に指しているとも思える。止宇呂尼は幼女、壮女を連れ』、『三世代(少女・中女・老女)で行動しており、イメージとして【全年齢】を統べる存在であり、故に年齢を超越しているようにも見える』というサイト主の考察が示されており、これはすこぶる示唆に富むものと言える。因みに、別に富山県宇奈月町に「姥石」があるという個人記事をネットで見かけたが、現認出来ない。

「湯川(ゆ〔かは〕)」現在、湯川という川は弥陀ヶ原のかなり南方を流れている川の名として現存するのであるが、私はこれは立山の温泉水が流れる川のことを指しており、弥陀ヶ原から上流の川をこう呼んでいるものと推察する。

「兩角は、什宝として今にあり」「什宝」と言うのに、寺社が記されていない。前に出した富山県宇奈月町に「姥石」があるというのなら、鬼女と化した尼のその角もその近くにありそうなもんだが?]

諸國里人談卷之二 木葉石

 

     ○木葉石(このはいし)

出雲國簸崎大社(ひのみさきのおほやしろ)【杵築〔きづき〕の大社より二里ばかり西なり。】、石あり。紋石といふ。楢(なら)・檞(かしは)の葉の、石の面(おもて)にあざやかに彫(ほり)たるがごとし。これを割(わる)に中に、猶、あり。

上社は素盞嗚命下社は天照大神也。十二月除夜に祭あり。

[やぶちゃん注:「出雲國簸崎大社(ひのみさきのおほやしろ)」は現在の島根県出雲市大社町日御碕(ひのみさき:島根半島西端)にある日御碕神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。この石は現在も同神社境内にある「神紋石舎」に「神紋石」と呼ばれて祀られていることが、matapon 氏のブログ「人文研究見聞録」の「日御碕神社(神の宮・日沈宮) [島根県]」で判明、さらにしばしばお世話になる個人サイト「玄松子の記録」の「日御碕神社」に『神紋石舎内部に「神紋石」があ』るが、『神紋の柏の化石が表面にあったらしいが風化』とあり、写真を探してみたところ、個人サイトと思しい「開運散策パワースポット」の東京都荒川区南千住「素戔雄神社」のページに参考写真として、この日御碕神社のそれ(舎の外の柵の隙間から撮られたもの)があるのを見つけたが、ただの石の塊りにしか見えない残念な発見もあった。サイト「出雲國神仏霊場によれば、『出雲の国造りをなされた素盞嗚尊は、根の国にわたり熊成の峰に登ると』、『「吾の神魂はこの柏葉の止る所に住まん」と仰せられ、柏の葉を投げ、占いをされた。すると』、『柏の葉は風に舞い、やがて日御碕の現社地背後の「隠ヶ丘」に止った。これにより』、『素盞嗚尊の五世の孫、天葺根命(あめのふきねのみこと)は』、『ここを素盞嗚尊の神魂の鎮まる処として斎き祀ったといわれて』おり、『日御碕神社の神紋、三ツ柏もこれに由来し、神域の付近からは柏の葉を印した「神紋石(ごもんせき)」と称される化石も出土している』とあって、「神紋石」は「ごもんせき」と読むこと、この石が「化石」として「出土」しているとあることが判った。この記載に拠るならば、この紋は岩石の葉状紋なのではなく、実際の植物の葉の化石の塊りであることになる。

「十二月除夜に祭あり」これは現在の「神劔奉天神事」で、改行されて祭神を記した後に置いてあることからも、この神紋石の直接の祭祀ではないと思われる。]

諸國里人談卷之二 隱水石

 

     ○隱水石(かくれみづのいし)

紀伊國那智山、阿彌陀寺の門前に、高〔たかさ〕七尺の大岩に、穴あり。潮(うしほ)の滿干(みちひ)にしたがひ、此穴の水、增減す。

妙法山阿彌陀寺といふ。唐の惠杲(ゑかう)和尚・弘法の像あり。大師自作也。俗に「女人の高野」といふは此所なり。

[やぶちゃん注:「紀伊國那智山、阿彌陀寺」は、現在の和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある真言宗妙法山阿彌陀寺のことと思われるが((グーグル・マップ・データ))、この石も今に伝わらぬものか、調べても、出てこない。また、以下の記載の内の、「唐の惠杲(ゑかう)和尚」「の像」なるものも、現在の同寺にはない模様である。「阿彌陀寺」公式サイトを見ても、「唐の惠杲(ゑかう)和尚」という僧のことは出ず、代わりに、唐僧蓮寂の話が載る。その熊野妙法山 阿彌陀寺とは?によれば、今から約千三百年前、大宝三(七〇三)年のこと、唐の『天台山の蓮寂上人というお坊様が日本に渡って来られ、この熊野にたどり着きました。上人は四方を見渡せるこのお山の頂上がとても気に入って、ここで修行をすることになったのです。妙法蓮華経というお経を写経して山頂に埋め、立っている木をそのまま彫ってお釈迦様の仏像を安置しました。その時からこのお山は、お経の名前をとって妙法山と呼ばれるようになりました』。『その後、空海上人(弘法大師)が高野山を開かれる前の年』弘仁六(八一五)年に、この『妙法山で修行をして、西方に有るという阿彌陀如来の極楽浄土への入り口として』、『山腹にお堂を建て』、『阿彌陀如来をご本尊としたため、阿彌陀寺と名づけられたのです』。蓮寂『上人は「妙法蓮華経」というありがたいお経をひたすら唱えることで、自分や世の中の人の罪が許されるという教えを信じ、そのために一生懸命に修行を続けている行者でした』。『熊野に入り』、『那智の大滝の前に立った上人は、その雄大さと神聖さに心を打たれ、「この熊野の地で修行をしたい。きっとこの大滝の奥にはそのための場所があるはずだ」と強く思いました。心を決めた上人は木々が暗くうっそうと茂った山に』、独り『分け入り、奥に奥にと登っていきました』。『登り始めて』一『時間余り過ぎたころ、木々の間から』、『ふいにまぶしい陽の光が差してきました。その光に導かれるように、まるで崖のように反り立った数十メートルの山肌をよじ登ると、そこには今までの暗く深い山とはまるで別の世界が開けていました。頂上は周りになにも視界をさえぎるものがない』十メートル『四方ほどの平地になっており、真正面からふりそそぐお日様の下に』、『水平線が半円を描いたように広がり、眼下には熊野の海が陽光を反射してきらきらと輝いています。振り向けば背後に熊野の山々が連なり、はるか遠くには富士山が見えていました』。『上人は思わず声をあげました』。『「まさしくここは十方浄土。見渡す限り極楽浄土のようだ』。『こここそが求めた場所だ』」と、『上人はこの頂上で修行することを決意しました。それから毎日、那智の大滝で身を清めては』、『この頂上に登り、そこで妙法蓮華経を書き写しました。経文一字を書く度に仏様に三礼(立ち上がったり、座ったりを三回繰り返す作法)するという大変な修行です。来る日も来る日も写経を続け、数年の歳月をかけてようやく妙法蓮華経は完成しました。上人は完成した妙法蓮華経を頂上に埋め、山の中に立っていた木を彫ってお釈迦様の像を作り、その上に立てました。その時からこの山は妙法山と呼ばれるようになったのです』。『今も妙法山の頂上には、奥の院浄土堂という小さなお堂にそのお釈迦様をおまつりしています』とあって、蓮寂の像は記されていない。公式サイト及び寺のィキを見ても、弘法大師像一体はあるものの(弘法大師四十二歳の時の姿と伝えられる等身大の坐像であるが(ここで修行をしたという先の記載の年齢と一致はする)、自刻とは記されていない)、他にそれらしい像は現行では安置されていない。頗る不審である。因みに、「惠杲」という僧名は中国や本邦の古文献に出ることは出るが、私にはその事蹟は判らぬ。識者の御教授を乞うものである。因みに、この阿彌陀寺は海岸線から四・七キロメートルも離れており、寺は標高七百四十九メートルの妙法山の中腹にある。その門前にあった石の穴の中の水が、潮の干満によって増減するというのは、奇瑞としか言いようがない

「七尺」二メートル十二センチ。]

諸國里人談卷之二 柏葉石

 

    ○柏葉石(かしはばいし)

陸奧國南部領燒山(やけ〔やま〕)は慈覺大師の開基なり。大師、此山にて護摩修行ありし時、莚席(ゑんせき)なかりければ、柏の葉をとりて、石のうへに敷(しき)給ひしと也。その石、方二丈ばかり、薄く※(へげ)て[やぶちゃん注:「※」=「耒」+「片」。]、長、〔ながさ〕、二、三寸、幅一寸ばかりの柏の葉の形にして、文理(もんあや)ありける。人、これを拾ひて去。〔燒山の事、委〔くはし〕く、山野部見〔みゆ〕。〕

[やぶちゃん注:最後の割注は、本「諸國里人談卷之五」の「五 山野部」の五条目にある、同じ陸奥の「燒山」の記載を指す(そこまで電子化注が進んだら、リンクを張る)。「陸奧國南部領」の「燒山」とは「恐山」の別名である。現在の青森県むつ市田名部字宇曽利山(うそりやま:これも恐山の別称。「恐」は当て字で、「おそれ」はこの「うそり」の転訛したものであり、さらに元の「うそり」もアイヌ語で「窪み」を意味する「ウショロ」に由来するとされる)にある曹洞宗釜臥山菩提寺(本坊・円通寺)を指す。この寺の創建年代等については不詳であるが、小学館の「日本大百科全書」によれば、貞観四(八六二)年。天台僧慈覚大師円仁がこの地を訪れ、創建したと伝えられ、高野山・比叡山とともに日本三大霊場の一つとされ、信仰の山として知られる。ウィキの「菩提寺むつ市によれば、その後、衰退していたが、大永二(一五二二)年、曹洞宗の僧聚覚が南部氏の援助を受け、円通寺を建立し、恐山菩提寺(菩提寺の別称)として中興し、曹洞宗に改められた。明治四(一八七一)年には本坊である円通寺には斗南藩(旧会津藩)の藩庁が置かれていた。また、むつ商工会議所公式サイト内の「霊場恐山」由来によれば、『慈覚大師円仁が入唐求法中の一夜、霊夢に聖僧現れ、「 汝、国に帰り、東方行程』三十『余日の所に至れば霊山あり。地蔵尊』一『体を刻し、その地に仏道をひろめよ。」とのお告げをうけ』て、大師は『直ちに帰国し、霊山を探して諸国を行脚』、『辛苦の巡錫を重ねてこの地に至り、山川大地まさに霊山なりし所がここ恐山であ』ったとする。『全てが霊夢と符号』した『ので、大師自ら』、丈六尺三寸(一メートル九十一センチ弱)『の地蔵を刻し』、一『宇を建立後』、『本尊として安置し、仏道教化に精進された』とある。なお、この「柏葉石」が現存するかどうかは確認出来なかった。葉脈化石というよりも、ある種の石の文理(きめ)がそのように見えたものか。【2018年6月22日追記:この後の 諸國里人談卷之三 燒山の考証によって、本条は、先行する寺島良安の「和漢三才図会」の地誌部の巻第六十五「陸奥」の中の「燒山」にある内容を安易に引いたに過ぎないことが判明した。リンク先の注で同原典を翻刻したので、見られたい。

「莚席」修法を行うための座席。

「方二丈」六メートル六センチ四方。

「※(へげ)て」(「※」=「耒」+「片」)「折(へ)げて」或いは「剝(へ)げて」。

「長、〔ながさ〕、二、三寸、幅一寸」長さ六・二~九・一センチ弱、幅約六センチ。]

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十三年 短歌募集と「叙事文」

 

   明治三十三年

 

     短歌募集と「叙事文」

 

 明治三十三年(三十四歳)[やぶちゃん注:一九〇〇年。]という年は、居士に取って重大な意義を有する年であったと思われる。従来土に根を苦していた居士の文学は、大体この年において収穫期に入った観があるからである。

 「新年雑記」に新な年を迎え得たよろこびを述べて、その底に「來年の正月に逢へるか逢へぬか」という大問題が首を出していることは誰も知るまいとあるが、この間の消息は健康者の解せぬところであろう。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。国立国会図書館デジタルコレクションの俳書堂刊の「子規遺稿 第二編 子規小品文集所載の「新年雜記」の画像で校合した。以上の「來年の正月に逢へるか逢へぬか」も本文に鍵括弧を附して出現するフレーズであるから、校訂して示したが、幾つかの底本・校合本への疑義が生じた。一つは「逢著」で、底本は「逢著」、校合本は「逢着」、しかし「子規居士」は「逢著」であり、今までの正岡子規の用例から見ても「逢著」の可能性が高いので、ここはそれで採った。次に「來年の正月」の「正月」であるが、底本は「四月」、校合本は「正月」、しかし「子規居士」は「四月」である。ここは文脈から言って私は「正月」だろうと踏んだ(無論、厄月の五月を意識して「四月」とした可能性はあるものの、「正月」の方がすっきりと腑に落ちるからである。最後の「迄は」「積りだ」の鍵括弧は校合本は錯雑があるので底本と「子規居士」に従がった。]

 

さて此大問題に逢著したところで「なに今年も」とやつてのける勇氣は最早なくなつた。「初曆五月の中に死ぬ日あり」とも詠んだ。しかしそれは噓だ。まだ五月なんかに終る氣遣は無い。とにかく來年の正月迄は生きるつもりだ。といつては見たが「とにかく」「迄は」「積りだ」といふ言葉を省く事が出來なかつた。

 

 居士は前年の正月に比して身体が余計に弱ったと思うといい、元日の蜜柑の喰いようが少かったといっている。前年後半が比較的無事だったといっても、病勢はその歩を停めているはずがない。「五月の中に死ぬ日あり」は三十二年初頭の「所思」であった。例の厄月を思い浮べたので、果して「牡丹句録」前後の苦痛になって現れたが、どうにか通過することが出来た。こういう一年をうしろに背負った居士が、更に新な一年を前面に望んで、漠然たる不安を感ずるのは当然の話である。

 この年になって第一に記さなければならぬものに、『日本』における和歌の募集がある。従来俳句の方には『小日本』時代を除いて、特に題を課して句を募るということはなかった。歌も「百中十首」以来、いろいろな歌が紙上に現れぬでもなかったが、その多くは居士に和して起った俳人の作であった。三十二年七月以来、短歌会の記事によって、月々の作品と研鑽の迹とを発表するようになったものの、なお居士の身辺に集る人の作品のみに局限される憾(うらみ)があった。短歌募集は歌における居士の主張が那辺(なへん)まで及んだかを見るべきものとして注目に催する。この募集は羯南翁の旧案に基くものだそうである。

 前年十二月に募集され、この年の劈頭に発表された「新年雑詠」を振出しとして、「森」「桜」「読平家物語」という順序に次々と続けられて行った。「新年雑詠」に伊藤左千夫の名があり、「森」に長塚節の名が見える。「桜」に至って蕨真(けつしん)、安江秋水(やすえしゅうすい)、葯房子(やくぼうし)(鈴木豹軒(ひょうけん))らの作家が現れた。短歌募集の一事は少くとも従来短歌会に姿を見せなかった作家を、居士の身辺に引付ける効果があった。居士も「森」以後選者詠を掲げ、「桜」及「読平家物語」については、募集歌に対する批評乃至感想を述べている。

[やぶちゃん注:「蕨真(けつしん)」(明治九(一八七六)年~大正一一(一九二二)年)は歌人。本名は蕨(わらび)真一郎。正岡子規に学び、後、『馬酔木』の発刊に参加。明治四一(一九〇八)年、郷里である千葉県山武郡の自宅を発行所に、伊藤左千夫らと『阿羅々木(あららぎ)』(後の『アララギ』)を創刊した。

「安江秋水(やすえしゅうすい)」生没年は確認出来なかった。歌人で『馬酔木』創刊時の編集同人であることのみ判った。

「葯房子(やくぼうし)(鈴木豹軒(ひょうけん))」(明治九(一八七六)年~昭和三八(一九六三)年)は中国文学者で歌人。新潟県生。名は虎雄、「葯房」は別号。明治二三(一八九〇)年に上京し、第一高等学校から東京大学漢学科卒、明治三十四年、『日本新聞』に入社して陸羯南の知遇を得、後に女婿となった。明治三十六年には『台湾日日新聞』漢文欄主筆に招かれ、渡台。後、職を辞して帰朝後、京都大学助教授となり、大正八(一九一九)年には同大学教授となって、昭和一三(一九三八)年の退官まで、三十年に亙って中国文学を講じた。中国文学関連の著作が非常に多い。文化勲章授与者。]

 

 短歌募集と並んで新に『日本』紙上に試みたのが文章の募集である。各地における歳晩歳始の記事を募ったのであったが、その結果は居士を満足せしむるものでなかった。居士はここにおいて自己の抱懐する文章上の意見を発表するの必要を感じ、「叙事文」なる題下に『日本』に連載した。叙事文の名は用いてあるけれども、実はいわゆる写生文のことで、「作者若し須磨に在らば讀者も共に須磨に在る如く感じ、作者若し眼前に美人を見居らば讀者も亦眼前に美人を見居る如く感ずる」文章の長所を力説したものである。

[やぶちゃん注:「叙事文」は『日本付録週報』の明治三三(一九〇〇)年一月二十九日・二月五日・三月十二日版新字正仮名であるが、「里実文庫」のこちらで読める。それで校合し、漢字を恣意的に正字化した。]

 

 居士は三十一年の末に「写生、写実」なるものを『ホトトギス』に掲げ、絵画の写生を論じたことがあった。次いで写実と小説との関係に及ぶ順序で、その旨が予告してあったにかかわらず、続稿は遂に出ずに終った。文章に関する居士の意見の纏ったものとしては、「叙事文」一篇を推さなければなるまいと思う。居士は文章における虚叙(抽象的)を排し、実叙(具象的)によるべきことを主張した。虚叙は人の理性に訴えることが多いのに反し、実叙はこれを感情に訴える。「虛敍は地圖の如く実叙は繪畫の如し。地圖は大體の地勢を見るに利あれども、或る一箇所の景色を詳細に見せ且つ愉快を感ぜしむるは繪畫に如(し)く者なし」というのである。この点について虚叙と実叙との相異を実際の文章の上で示し、如何に描くべきかという方法を示すのが「叙事文」一篇の主意であった。こういう文章上の主張は、已に『ホトトギス』において実行されていたのだけれども、一般の理解するところとなるには大分の距離がある。『日本』における歳晩歳始の記事が居士を失望せしめたのは、当時としてはむしろ已むを得ぬ結果だったかも知れぬ。しかしその失望が「叙事文」一篇となって現れたことを思うと、必ずしも無意義な試みではなかった。

 

2018/06/12

北條九代記 卷第十二 楠正成天王寺出張 付 高時人道奢侈

 

      ○楠正成天王寺出張 付 高時人道奢侈

同五月[やぶちゃん注:正慶元(一三三二)年。]に、楠正成、又、天王寺邊に出張(しゆつちやう)す[やぶちゃん注:打って出た。]。六波羅より隅田(すだ)、高橋に五千餘騎を指副(さしそ)へて向けらる。正成、二千餘騎を以て、追落(おひおと)す。隅田、高橋、白晝に京都に逃上(にげのぼ)る。又、宇都宮治部〔の〕大輔公綱(きんつな)、七百餘騎にて向ひければ、楠、聞きて、態(わざ)と、天王寺を引退(ひきしりぞ)きたり。宇都宮、是を面目として、同七月二十七日、京都に上洛せしかば、楠、又、入替りしに、近國遠境(ゑんきやう)の軍勢、馳付(はせつ)けて、今は大軍にぞなりにける。天下、既に亂逆に及び、國家、漸く傾敗(けいはい)[やぶちゃん注:国が衰え滅びること。]に至れども、相摸守高時人道宗鑒(そうかん)は、行跡(かうせき)、更に改むる色なく、愈(いよいよ)恣(ほしいまゝ)に成りて、極信(ごくしん)正道の輩(ともがら)を隔てて近付(ちかづけ)ず、愛し仕ふる者とては、美女の媒(なかだち)、大酒(たいしゆ)の者、無道の利口[やぶちゃん注:道に外れた喋(しゃべ)くり。]、無益の内奏[やぶちゃん注:ここは内輪で申し上げる下らない話の意であろう。]、傾城[やぶちゃん注:遊び女(め)。]・双六(すごろく)[やぶちゃん注:双六の博奕打ち。]・猿樂[やぶちゃん注:猿楽法師。寺社に所属した滑稽な物真似や言葉芸をする職業芸能者。]・田樂[やぶちゃん注:田楽法師。予祝の田遊(たあそ)びやその派生芸を演じた僧形の職業芸能者。]、追從輕薄を以て世を謟(へつら)ふ輩(ともがら)、是を「善者(よきもの)」と心得て、朝夕に出頭せさせ、美酒、佳肴を前に列ね、終日(ひねもす)終夜(よもすがら)、醉(ゑひ)に和して、諸國の訴(うつたへ)をば、打捨てて聞く事なし。訴人、憂苦(うれへくるし)めども、知らず。鎌倉中に集置(あつめお)く所の美女三十七人、何(いづれ)も所領、二、三ヶ所を付けられ、この賂(まかなひ)[やぶちゃん注:この怪しげな大勢の連中を抱え続けるための賄いの費用。]の費(つひえ)、千萬とも限(かぎり)なし。新座・本座[やぶちゃん注:田楽で、新しく結成された新流行のグループと、旧来からあった伝統的なグループを、かく称した。]の田樂六十餘流、二千餘人、是を在鎌倉の大名、其分限に應じて、二、三人づつ、預けられ、美女、遊興の爲に高時一獻を勤め、田樂一曲を奏すれば、見物の中より、綾錦の小袖・大口[やぶちゃん注:「おほぐち(おおぐち)」大口袴。束帯を着用の際の表袴 (うえのはかま) の内側に穿く袴。裾口が大きく開いており、通常は表裏ともに紅 (くれない) の平絹を用いた。]・直垂・水干等の裝束を抛(なげ)出して、是を積む車、山の如し。八珍[やぶちゃん注:珍味。]の備(そなへ)、九獻[やぶちゃん注:何度も巡る献盃の儀。]の肴、數を盡して調味を飾る。高時入道、是に心を蕩(とらか)されて[やぶちゃん注:「とろかされる」の意。酒色に溺れて締まりがなくなり。]、夜晝の境(さかひ)を忘れ、その隙(ひま)には、唐(から)の、日本(やまと)の奇物を愛し、座に列ねて、翫(もてあそび)とす。或時、庭前に犬の嚙合(かみあひ)けるを見て、高時、面白き事に思ひ、是を好む事、骨髓に徹る[やぶちゃん注:すっかり夢中になる。]。媚(こび)を求むる佞人(ねいじん)[やぶちゃん注:言葉巧みに、表だけは諂(へつら)う、心の邪(よこしま)な者。]共、奇犬を求めて進ぜしに、世に奇犬を飼立(かひた)てて、犬一疋を、錢、二、三十貫より百貫に及びて買取り、魚鳥(ぎよてう)を飼うて食とし、錦繡(きんしう)を著(き)せて衣とす、金銀を鏤(ちりば)め、珠玉を飾りて[やぶちゃん注:その「お犬さま」の衣装や敷物・繫ぐ綱や紐などからの装飾として、である。]、高時に奉れば、思掛けざる恩祿に預る。人、科(とが)あるも、宥(なだ)めらる[やぶちゃん注:許されてしまう。]。道行人(みちゆきびと)も公犬(こうけん)[やぶちゃん注:「お犬さま」。]の通るに逢ひぬれば、馬より下(お)りて、笠を脱ぎ、道の傍(かたはら)に跪く。天下の諸國この風に效(なら)ひ、「鎌倉樣(やう)の犬合(いぬあはせ)」[やぶちゃん注:「樣」は「風の」の意。]とて地頭・御家人まで、儀式を整へて弄(もてあそ)ぶ。諸大名の手に、五疋・三疋づつ預りて、賞翫輕(かろ)からず、肉に飽き、錦(にしき)を著たる奇犬、鎌倉中に充滿して、四、五千疋に及べり。月に十二度(ど)の犬合には、一族・大名・御内[やぶちゃん注:「みうち」。御内人(みうちにん)。北条得宗家に仕えた武士・被官・従者。]・外樣(とざま)の人々、堂上堂下に座を列ねて、見物す。兩陣の犬共、二百疋を放し合(あは)せ、入違(いれちが)へ、追合(おひあは)せて、上になり、下になりて、噉合(かみあひ)ける有樣、其聲、天地に渉つて洋々たり。戰(たゝかひ)に雌雄を決し、郊原(かうげん)[やぶちゃん注:野原。]に尸(かばね)を爭ふに似たり。「皆、是、鬪諍(とうじやう)死亡の前相(ぜんさう)なり」と、心ある人は眉を顰め、汗を握る。是等の費に財寶を散(ちら)し、正税(ぜい)官物(くわんもつ)[やぶちゃん注:租税と上納物。]に募りて、民を貪り、百姓を虐(はた)りける[やぶちゃん注:「徴(はた)る」は、そうした税徴収や献上品を「催促する」以外に、「責め立てる・虐待する」の意をメインとしている。]程に、諸國の郡縣、人、悴(かし)け[やぶちゃん注:痩せ衰え。すっかりみすぼらしくなり。]、家、衰ふ。されば、『庖(くりや)に肥えたる肉あり、廐(うまや)に肥えたる馬あり、民に飢(うえ)たる色あり、野に餓莩(がへう)あり。これ、獸(けもの)を率(ひき)ゐて、人を食(はま)しむるに異ならず』と、孟子の云ひしは實(げ)にさる事ぞかし。高時入道は、奢侈(しやい)に躭(ふけ)りて、政道に暗く、管領長崎高資は、逆威(ぎやくゐ)[やぶちゃん注:悪逆非道な権威。]を振(ふる)うて、主君を輕(かろし)め、奢(おごり)の甚しき事、云ふ計(ばかり)なし。高時入道、竊(ひそか)に謀つて、高資が一族兵衞尉高賴(たかより)に仰せて、高資を殺さんとす。その事、顯れて、高賴、却(かへつ)て奧州へ流され、高資、愈、逆威強し。政理、邪(よこしま)に重欲を行ひ、人望に背く事、重疊(ぢうでふ)せしかば、上、恨み、下、憤りて、世の中、かく亂れ立ちたるこそ、淺ましけれ。

[やぶちゃん注:標題の「奢侈」は本文に出る通り、「しやい」とルビするが、これは現在と同じく「しやし(しゃし)」が正しい。「度を過ぎて贅沢なこと・身分不相応に金を費やすこと」の意。湯浅佳子氏の「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、ここは「太平記」巻五の四項目「相模入道弄田楽(でんがくをもてあそび) 幷(ならびに) 鬪犬の事」及び、巻六の「楠出張天王寺事(くすのき、でんわうじにでばりのこと) 付(つけたり) 隅田(すだ)高橋 幷(ならびに) 宇都宮〔が〕事」を主として、「将軍記」の巻五の「七月」、「日本王代一覽」の巻六の他、「太平記評判祕傳理盡鈔」(たいへいきひょうばんひでんりじんしょう:江戸時代に広まった太平記」の注釈書。全四十巻。近世初期、日蓮宗の僧大運院陽翁(永禄三(一五六〇)年~元和八(一六二二)年?)が纏めたものと見られもので、「太平記」の本文に沿って奥義を伝授する体(てい)のもの。「伝」(本文にない異伝)と「評」(軍学・治世などの面から、本文を論評した部分)から成る。ここはウィキの「太平記評判秘伝理尽鈔」に拠った)の巻三「主上御夢 付 楠事」に基づくとされ、『高時の行状について、『太平記』の犬を好む記事に『太平記評判秘伝理尽鈔』での奢侈ぶりを添え、高時が政道に暗く、家臣高資に侮られ』、『世情の乱れをもたらしたと批判する』と記されておられる。

「隅田(すだ)」隅田通治(みちはる)。藤原姓。和歌山県橋本市隅田出身の武士(新潮日本古典集成「太平記 一」(山下宏明校注・昭和五二(一九七七)年刊)の注に拠る)。角川文庫「太平記(一)」で岡見正雄氏は『隅田党(紀伊国伊都郡隅田荘に拠った族的武士集団、此頃隅田通治が一族を率いている)の武士』とする。

「高橋」前書に『未詳』とする。同じく岡見氏は『紀伊国守護代であったか』と注されている。

「宇都宮治部〔の〕大輔公綱(きんつな)」宇都宮公綱(乾元元(一三〇二)年~延文元/正平一一(一三五六)年)。例のサイト「南北朝列伝」のこちらには、非常に詳細な事蹟が載り、また、これ、「太平記」を紙芝居のように語っておられて、非常に面白い。引用させて貰うと、『下野の有力御家人・宇都宮氏の第』九『代当主で、南北朝動乱の前半を生きた』人物で、「太平記」でも『要所要所で登場し、良くも悪くも』、『印象に残る名物男でもある』とあされ、『宇都宮氏は宇都宮明神(現二荒山神社)の神官職から有力御家人となった一族。鎌倉幕府の草創期から配下の紀(益子)・清(芳賀)両党を率いて「坂東一の弓取り」と武勇の誉れが高かった。宇都宮公綱は初名は「高綱」だったとされ、これは当然』、『北条高時の一字を与えられたものである。「公綱」への改名時期は不明だが、鎌倉幕府滅亡後と考えるのが自然ではなかろうか』とある。ここにある通り、楠正成が『天王寺方面まで進出し、六波羅軍を破って兵糧を確保』すると、『これを討つべく』、『関東からやってきていた宇都宮公綱が紀・清両党を率いて出馬することになる』。「太平記」では『両者の対決を講談調に面白く語っているが、時期が前年の』七『月にさかのぼらされており、内容をそのまま信用できるわけではない』と注意を促しておられる。取り敢えず、「太平記」に添うと、元弘三/正慶二(一三三三)正月二十二日、『宇都宮公綱は六波羅探題・北条仲時の指名を受けて』、『あえて自分一人、数百の小勢を率いて天王寺へ出陣した。正成は「宇都宮が小勢で出て来たのは決死の覚悟であろう。しかも宇都宮といえば坂東一の弓取りである。紀・清両党も戦場では命知らずの連中だ。そんな軍と戦ってはこちらも大きな被害を受けよう。この戦いで全てが決するわけでもない」と言って戦わずに金剛山方面に退却した。この「宇都宮出陣を受けて楠木軍が退却した」事実は公家の二条道平が』正月二十三日の『日記の中で「仙洞(上皇の御所)の女房から聞いた」と書いており、都でかなり評判となっていたことがわかる』。『勢いに乗った公綱は放火・略奪などの威嚇行動をしながら楠木軍の城(赤坂城か?)へ迫ったが、このとき正成が味方の野伏らに夜の山でかがり火をたかせ、あたかも楠木軍が大軍であるかのように見せかけたため』、『宇都宮軍は恐れを抱き、こちらも戦わずに撤退してしまう。ただし』、『信用のおける戦闘記録である』「楠木合戦注文」では、二十三日に『宇都宮の「家の子」の「左近蔵人・その弟右近蔵人・大井左衛門以下十二人」が楠木の城へ攻め入り、かえって生け捕りにされてしまったとの記事がみえ、結局戦況が悪いので』、二月二日、一先ず、『京都に帰ったというのが真相のようである』。この年、閏二月から「千早城の戦い」が始まるが、『楠木軍の奮戦で』、『まともな戦闘はひと月足らずで終わり、あとは持久戦となった』。「太平記」に『よれば』、『このとき』、『再び』、『宇都宮公綱が紀清両党を率いて出陣し、一時は敵城に肉薄するほどの奮戦を見せ、それがうまくいかないとみると』、『前面に兵を置いて防戦させながら、スキ・クワを手に』、『山城そのものを掘り崩して突破を図ろうとしたという(坑道戦を試みた可能性もあるが、「太平記」本文ではそうは読み取れない)。昼夜の作業を続けるうち』、『三日のうちに大手の櫓を崩すことに成功したため、他の武士たちも「最初からそうすればよかったんだ!」とみんなクワを手に土木作業に打ち込み始めた。しかし』、『さすがに』、『山一つを崩すまでには時間が足らず』、『結局無駄に終わってしまった』と、「太平記」は記すが、『このあたりの描写は「面白さ優先」の感が強く、そのまま事実と見るわけにもいかない』。五月七日、『足利高氏により』、『六波羅探題が攻め落とされ』二日後の五月九日、『そのことを知った千早城包囲軍は崩壊した。その主力は』、一先ず、『奈良に入って』、六月まで『様子をうかがったが、当初』、『奈良の入り口の般若寺の守りに入っていた公綱は』、『投降を呼びかける後醍醐天皇の綸旨を受け取って』、『一足先に京に入っている(「太平記」)。幕府軍の有力武将である公綱にわざわざ綸旨が出されたのは奇異にみえるが、同族の宇都宮通綱が』、五月十八日に『後醍醐側に投降して後醍醐の京都凱旋にも付き従っており、早くから投降のための工作をしていたらしい。宇都宮氏は関東の有力御家人であり、北条一門でもなかったので』、『投降させた方が得策、という後醍醐側の思惑もあっただろう』。『後醍醐天皇による親政「建武の新政」が始まると、公綱は有力武家として重んじられ、土地問題処理を目的とした「雑訴決断所」の奉行メンバーに名を連ねた。彼は畿内担当の一番に配置されているが、ここにはかつて名勝負(?)をした楠木正成も配置されている』(以下、「建武の親政」の破綻から、足利軍への投降、はたまた、後醍醐側への復帰、足利軍との攻防、後醍醐の尊氏との講和による京都への帰還、後醍醐の吉野入りへの追従はリンク先を読まれたい)。その後、『このあとどのように行ったかは不明だが、公綱は拠点の下野・宇都宮に帰還して』おり、延元二/建武四(一三三七)年八月、『奥州の北畠顕家が再度の上洛軍を起こすと、公綱はこれに呼応し』、『軍勢をひきいて合流した。ところが重臣の「清党」である芳賀禅可(高名)が公綱の嫡子・加賀寿丸(氏綱)を擁して宇都宮城にたてこもって足利方につき、北畠軍を妨害した。あくまで南朝につこうとする公綱に対し』、『宇都宮一族の中でも批判の声があがっていたことがうかがえる』。『結局』、『公綱は顕家に従って西上』、翌延元三/建武五(一三三八)年の『美濃・青野原の戦いにも参加している。その後』、『北畠軍は奈良から河内・和泉へと転戦し』たものの、五『月に崩壊すするのだが、この間』、『公綱がどこで何をしていたかはよく分からない。少なくとも顕家ともども戦死したわけではなくどこかで生きていたはずだが、自身の拠点である下野では自身の子である氏綱とそれを助ける芳賀禅可が足利方の旗幟を鮮明にしていたため、帰るに帰れずにいたのではないかと想像される。こうした事情からこれ以後の公綱の消息はほとんど分からなくなってしまう』とある。是非、リンク先の元を読まれんことを!

「『庖(くりや)に肥えたる肉あり、廐(うまや)に肥えたる馬あり、民に飢(うえ)たる色あり、野に餓莩(がへう)あり。これ、獸(けもの)を率(ひき)ゐて、人を食(はま)しむるに異ならず』と、孟子の云ひし」「餓莩(がへう)」は既注既出。現代仮名遣では「がひょう」。「莩」は、これだけでも「飢え死に」の意。以上は、「孟子」の巻之一の「梁惠王章句上」の四章に出る。

   *

梁惠王曰、寡人願安承教、孟子對曰、殺人以梃與刄、有以異乎、曰、無以異也、以刄與政、有以異乎、曰、無以異也、曰、庖有肥肉、廏有肥馬、民有飢色、野有餓莩、此率獸而食人也、獸相食、且人惡之、爲民父母行政、不免於率獸而食人、惡在其爲民父母也、仲尼曰、始作俑者、其無後乎、爲其象人而用之也、如之何其使斯民飢而死也。

   *

 梁の惠王、曰はく、

「寡人、願わくは安んじて敎へを承(う)けん。」

と。

 孟子、對えて曰はく、

「人を殺すに梃(つゑ)[やぶちゃん注:棍棒。]と刄(けん)とを以つてするは、以つて、異なること、有りや。」

と。

 曰く、

「以つて、異なること無し。」

と。

「刃と政(まつりごと)とを以つてするは、以つて、異なること、有りや。」

と。

 曰く、

「以つて、異なること無し。」

と。

 曰く、

「庖(くりや)に肥肉有り、厩に肥馬有り、民に飢色有り、野に餓莩(がへう)有り。此れ、獸(けもの)を率(ひき)ゐて、人を食(は)ましむるなり。厚く、民を斂(れん)して、以つて、禽獸を養ひて、民を飢えさせ、以つて死なせしむるは、則ち、獸を驅(か)つて人を食ましむるに異なること無し。獸、相食むすら、且つ、人、之れを惡(にく)む。民の父母と爲(な)りて、政を行ひ、獸を率ゐて、人を食ましむることを免れずんば、惡在(いかん)ぞ、其れ、民の父母爲(た)らんや。仲尼[やぶちゃん注:孔子。]曰はく、『始めて俑(よう)を作る者は、其れ、後(のち)、無からんか。」と。其の人に象(かたど)りて之れを用ひしが爲(ため)なり。之れ、如何(いかん)ぞ、斯(そ)の民をして、飢えて死なしめんとは。」

と。

   *

孔子の「俑」の部分であるが、この「俑」は、かの「兵馬俑」のそれと同じで、埋葬に従がわせるために拵えた木製の人形(ひとがた)を指す。孔子はこの習慣の中に、本来の殉死させたい願望を鋭く嗅ぎ取って、これを人間の尊厳に対する侮辱として憎んだのである。

「高資が一族兵衞尉高賴」(生没年不詳)は長崎高資の父長崎円喜(高綱)の弟。貞時・高時時代の御内人で、兄・高綱の補佐役として幕府奉行人を歴任した。「保暦間記」によれば、高時に甥に当たる高資の暗殺を命ぜられたが、失敗し、流罪となった。]

北條九代記 卷第十二 先帝配流 付 赤坂城軍

 

      ○先帝配流 付 赤坂城軍

 

正慶(しやうきやう)元年三月、常盤駿河守範貞、六波羅の職を辭して鎌倉に皈る。北條越後守仲時、同左近將監時益(ときます)、兩六波羅に補せられて、上洛す。仲時は北の方、時益は南の方にあり、同月、高時入道の使者長井〔の〕高冬、上洛し、兩六波羅と相談して、先帝後醍醐をば、隱岐國へながし奉り、一宮尊良親王は、土佐國に配流す。大塔宮は遁出(のがれい)でて、此彼(こゝかしこ)に隱れ給ひ、尊雲門主を還俗(げんぞく)して、名を護良(もりなが)と改め、吉野の奧に籠り給ふ。同四月に楠正成、又、赤坂の城を攻取(せめと)りて、湯淺權正(ごんのかみ)を追落(おひおと)し、楠が家人を入置(いれお)きたり。去ぬる比、先帝、笠置の城に籠り給ひし時、兩六波羅の軍勢七萬五千餘騎にて攻めけれども、城、くして、物の數ともせず。鎌倉へ告げて、勢を請ひけり。相摸入道[やぶちゃん注:北条高時。]、大に驚き、一門[やぶちゃん注:北条一門。]、他家宗徒(たけむねと)[やぶちゃん注:他の有力御家人の一族。]の大名六十三人を催し[やぶちゃん注:召喚して。]、二十萬七千六百餘騎を差上(さしのぼ)す所に、陶山(すやま)、小見山が夜討(ようち)して、笠置は落城せし事を、鎌倉勢、路次にて聞きたり。遙々と東國より上りたる大勢、殘多(のこりおおほ)く思ひて、楠正成が楯籠(たてこも)りし赤坂の城へ向ひけり。彼(かの)城は方、一、二町には過ぐべからず。其間に櫓(やぐら)、二、三十、搔双(かきなら)べたり。東國㔟、侮りて、四方より同時に押詰(おしつめ)ければ、案に相違して、寄手の討たる〻事、數知らず。寄手、厭(あぐ)みて、術(てだて)を替へて攻めかゝれば、城中、工(たくみ)を替へて防ぎけり。東國勢、三千萬騎、僅に城兵、四、五百人に防がれて、今は爲すべき樣(やう)なく、陣々(ぢんぢん)に櫓を搔き、逆茂木(さかもぎ)を引きて、軍(いくさ)を止(やめ)て、遠攻(とほぜ)めにぞしたりける。暫時の構(かまへ)、兵粮、少(すくな)し。二十日餘に、城中、只、四、五日の食あり。正成、諸卒に向ひて云ひけるは、「度々敵に勝つといへども、大勢なれば、討たれても、物の數ともせず。城中、食、盡きて、援兵、なし。天下の草創、一端にして止むべきや。謀(はかりごと)を好みて敵を惱ますは、勇士の爲(す)る所なり。暫く此城を開退(あけの)きて、東國㔟を歸し、又、打出でて襲(おびやか)し、軍勢、上らば、又、深山に引籠(ひきこも)り、四、五度も東國㔟を惱(なやま)したらんには、必ず退屈せざるべきや。是(これ)、身を全くして敵を討つの謀なり」とて、雨風の吹洒(ふきそゝ)ぐ夜を待ち得て、城兵、四、五人づつ、閑(しづか)に寄手の役所[やぶちゃん注:敵(幕府軍)の陣営。]の前を忍びて越出(こえい)馨でたり。正成も長崎が役所の後(うしろ)を通り、虎口に死を遁(のが)れて、金剛山(こんがうせん)の奧へぞ落集(おちあつま)りける。 その跡に、城に火を掛けたり。寄手、これを見て、「城は落ちたるぞや」とて、勝鬨(かちどき)を作りて、驅込(かけこみ)みつ〻、同士討(どしうち)して死するも多かりけり。燒靜(やけしづ)まりて後に見れば、正成、自害して燒けれる躰(てい)に作置(つくりお)きたり。寄手の軍兵等(ら)、是を見て、『楠正成は自害したり』と思ひて、「萬歳(まんざい)」を唱へながら、憐む者も多かりけり。

[やぶちゃん注:標題の後半「赤坂城軍」は「あかさかのじやう、いくさ」とルビする(「赤坂城」は本文と私の注を参照のこと)。湯浅佳子「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、ここは「太平記」巻四の掉尾「備後三郎高德〔の〕事 付(つけたり) 呉越軍(ご・ゑつ、いくさの)事」(前章から使用)に続いて、巻五の掉尾(六項目)である「大塔宮熊野落事〔をほたうのみやくまのをちのこと)」及び、巻六の二項目の「楠出張天王寺事 付 隅田高橋幷宇都宮事」(楠、天王寺に出張(でば)りの事 付 隅田・高橋幷(ならびに宇都宮(うつのみやが)事)をメインで使用している。

「正慶(しやうきやう)元年三月」「元德」二(一三三〇)年「十二」月の誤り。後の「北條越後守仲時」の注の下線太字部を参照。

「常盤駿河守範貞」北条範貞。既出既注

「北條越後守仲時」(徳治元(一三〇六)年~元弘三/正慶二年五月九日(一三三三年六月二十一日)は鎌倉幕府最後の六波羅探題北方。ウィキの「北条仲時」より引く。『普恩寺流で第』十三『代執権である北条基時』(非得宗。当時、実権は既に内管領長崎高資に握られていた)『の子。普恩寺仲時(ふおんじなかとき)とも呼ばれる』。元徳二(一三三〇)年十一月、『鎌倉を発って上洛』し、十二月二十七日、『六波羅探題北方となる』。『元弘の乱で、大仏貞直、金沢貞冬ら関東からの軍勢と協力し』、『挙兵して笠置山(京都府相楽郡笠置町)に篭城した後醍醐天皇を攻め、天皇を隠岐島に配流』し、『さらに護良親王や楠木正成らの追討・鎮圧を担当』している。元弘三/正慶二(一三三三)年五月、『後醍醐天皇の綸旨を受けて挙兵に応じた足利尊氏(高氏)や赤松則村らに六波羅を攻め』『落とされると』、五月七日、『六波羅探題南方の北条時益とともに、光厳天皇・後伏見上皇・花園上皇を伴って東国へ落ち延びようとしたが、道中の近江国(滋賀県)で野伏に襲われ』、『時益は討死し、仲時は』その後、『同国番場峠(滋賀県米原市)で再び』、『野伏に襲われ、さらには佐々木道誉の軍勢に行く手を阻まれ』てしまい、『やむなく』、『番場の蓮華寺に至り』(滋賀県米原市番場にある現在の浄土宗(昭和一八(一九四三)年までは時宗大本山であったが、仲時一党が自刃した当時は現在と同じ浄土宗)八葉山(はちようさん)蓮華寺。ここ(グーグル・マップ・データ))、『天皇と上皇の玉輦』(ぎょくれん)『を移した後』、『本堂前で一族』四百三十二人と『共に自刃した』。享年二十八歳(『天皇と上皇は道誉に保護されて京都へ戻された』)。

「同左近將監時益(ときます)」北条時益(?~元弘三/正慶二(一三三三)年)は鎌倉幕府最後の六波羅探題南方。「北條越後守仲時」の注を参照されたい。但し、彼の南方着任は、先立つ、元徳二(一三三〇)年七月二十日で、八月二十六日に上洛している。

「同月、高時入道の使者長井高冬、上洛し」「同月」は正慶元(一三三二)年三月の大きな誤り。「長井高冬」(正和三(一三一四)年~貞和三(一三四七)年)は鎌倉末から南北朝時代の武将で、大江姓長井氏嫡流当主。通称は右馬助。参照したウィキの「長井挙冬」(これで「たかふゆ」と読む。「高冬」という表記は以下を参照)によれば、『鎌倉時代当時の史料や古文書から、当初は長井高冬(読み同じ)と名乗っていたことが判明しており』(下線太字やぶちゃん)、『「高」の字は執権・得宗の北条高時より偏諱を受けたものとされている』。『嘉暦年間に長井宗秀』『の遺跡を継ぐ形で、美濃国茜部荘正地頭となっており』、『長井氏惣領として活動していたことが窺える』。「元弘の乱」の勃発に『伴い、その沙汰のために太田時連とともに東使として上洛し』ているが、『鎌倉幕府が滅ぶと、高時からの偏諱を棄て』、『挙冬と改名』し、『後醍醐天皇によって始められた建武の新政では訴訟機関として設置された雑訴決断所の構成員となった。しかし、その後は建武政権に反旗を翻した足利尊氏に従い』、翌延元元/建武三(一三三四)年に、『同じ大江一族で後醍醐天皇に従っていた毛利貞親・親衡父子が尊氏の武家政権に対抗して挙兵した後には、尊氏の命により』、『貞親の身を預かっている』とある。彼の死後、『挙冬の系統は』『氏元(うじもと)・氏広(うじひろ)・兼広(かねひろ)と続き、その偏諱から察するに、長井広秀(ひろひで)の系統(武蔵長井氏)同様、鎌倉公方足利氏の支配下となったものとみられる』とする。

「尊雲門主」大塔宮護良親王は六歳の頃に「尊雲法親王」として天台宗三門跡の一つであった梶井門跡三千院に入院(彼が「大塔宮」と呼ばれたのは東山岡崎の法勝寺九重塔(大塔)周辺に門室を置いたと見られることによる)、正中二(一三二五)年(満十七歳)に門跡を継承し、門主となっていた(前に述べた通り、それ以後、嘉暦二(一三二七)年十二月から元徳元(一三二九)年二月迄、及び、その後の同年十二月から元徳二(一三三〇)年四月迄の二度に亙っては天台座主ともなっている)。

「同四月に楠正成、又、赤坂の城を攻取(せめと)りて、湯淺權正(ごんのかみ)を追落(おひおと)し、楠が家人を入置(いれお)きたり」前のクレジットが誤りなので、ここも無効であるが、前の内容の翌月である事実は正しい正慶元(一三三二)年四月。「湯淺權正」は湯浅宗藤(ゆあさむねふじ 生没年不詳)で鎌倉末期から南北朝時代の武士。ウィキの「湯浅宗藤」によれば、『紀伊国阿氐河荘(阿瀬川荘とも書く)を本領としたので、阿氐河孫六』(あてかわまごろく)『と称した。法名は定仏。父は湯浅宗国(宗親の子)』。元弘元(一三三一)年十月、『幕命により』、『楠木正成の拠る赤坂城を攻略し、その功により』、『地頭職を与えられ、赤坂城の守備を命じられた』。しかし、この正成の赤坂城奪還に『敗れ、湯浅党とともに降伏』、『以降は正成に従い、摂津、河内方面で幕府軍と戦』った。建武元(一三三四)年九月、『神護寺領紀伊国河上荘預所方雑掌職に補任され』、興国元/暦応三(一三四〇)年四月、『脇屋義助に従って四国に渡』っている。正平六/観応二(一三五一)年二月の『後村上天皇の摂津住吉社行幸に』は供奉している、とある。「楠が家人を入置(いれお)きたり」増淵勝一氏の訳の割注では、この家人を『平野将監入道』と割注する。これは武士で悪党の平野重吉(しげよし ?~元弘三/正慶二(一三三三)年)で、。ウィキの「平野重吉によれば、『「太平記」では平野将監と表記され』、「江戸譜平野氏系図」に『よると名は重吉とされ、父は平野重紀、母は八尾別当の娘とされる』。『持明院統に仕える西園寺公宗の家人であるが、同時に大覚寺統に縁のある僧とも繋がりがある』とし、元徳二(一三三〇)年九月、『この僧の仲介で、悪党の東大寺領長洲荘狼藉中止の要請を受けた際に、多額の金銭を要求し、断られると自らも大和や河内、摂津の約』四十『人の悪党による狼藉へ加わっ』ている(「東大寺宝珠院文書」)。『時期は不明であるが、元弘の乱で、倒幕を目指す後醍醐天皇に呼応し』、元弘二/正慶元(一三三二)年十一月に『二度目の挙兵をした楠木正成の支配下に入っており、千早城の戦いでは上赤坂城の城将(副将は楠木正季)として鎌倉幕府の軍勢と戦った』。「太平記」巻六「赤坂合戰事 付 人見本間拔懸事」に『よると、幕府方に城の水源を絶たれ』、翌元弘三/正慶二年閏二月、『幕府方大将北条治時に助命や本領安堵を約され』て『降伏するも、破棄され』、『軍奉行長崎高貞から六波羅探題へ引き渡され、京都の六条河原で処刑された』とある。

「去ぬる比、先帝、笠置の城に籠り給ひし時」元弘元(一三三一)年九月。参照。

「陶山(すやま)、小見山が夜討(ようち)して」同じく本文と私の注を参照のこと。

「路次」向かう途中の意。

「殘多(のこりおおほ)く思ひて」気抜けしてしまい、戦意の向けようを考えて。

「方、一、二町には過ぐべからず」百九~二百十八メートルほどしかない。

「搔双(かきなら)べたり」建て並べて置いている。

「逆茂木(さかもぎ)」通常は古代から中世にかけての山寨・城郭の防御施設の一種で、敵の侵入や行動を阻害するために、茨の木の塊りや先端を鋭く尖らせた木の枝などを、敵陣方向に向けて高く並べ、それを連続的に結び合わせた柵。逆虎落(さかもがり)・鹿砦(ろくさい)・鹿角砦(ろっかくさい)などとも称した。

「遠攻(とほぜ)め」遠巻きにしておいて持久戦(後に出る「兵糧攻め」)に持ち込んだことを指す。

「天下の草創、一端にして止むべきや」反語。天下を引っ繰り返して大変革をせんとするこの気運、こんなどうということはない一場面で已んでしまいなどということはあり得ぬ!

「身を全くして」一つしかない命を全うして(捨てることなく)。

「長崎」増淵氏の訳の割注に『紫郎左衛門』の『尉泰光』とある。ウィキの「長崎泰光から引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。長崎泰光(生没年未詳)は鎌倉後期の武士で、』『内管領を輩出した長崎氏の一族で、得宗被官(御内人)として北条貞時・高時に仕えた』。『「系図纂要」の長崎氏系図によれば、長崎光綱の弟・長崎高泰の子であるが、同系図の信憑性は決して高くなく、確証はない』。『「泰光」という実名は「御的日記」(内閣文庫所蔵)と「太平記」で確認ができる。後者は軍記物語という性格上、創作の可能性もあり得るため、これだけで直ちに泰光の存在を認めることは難しいが、一次史料と言える前者でも徳治元年(一三〇六年)正月に幕府弓始射手を勤めた人物として「長崎孫四郎泰光」の名が見られるので、実在が認められるとともに』、『通称が「孫四郎」であったことが分かる。すると、延慶二年(一三〇九年)正月二十一日の北条高時の元服に際し』、『「なかさきのまこ四郎さゑもん」(長崎孫四郎左衛門)が馬を献上しているが、これも泰光に比定される。尚、通称の変化から』、『恐らく』、『この間に左衛門尉に任官した可能性が高い』『「太平記」では「長崎四郎左衛門泰光」と表記している箇所がある一方で、別の箇所で登場する「長崎孫四郎左衛門」については実名を明記していないので、同じく四郎左衛門(尉)の通称を持つ長崎高貞と混同されがちだが、前述の史料から』、『いずれも泰光を指すと考えられる。前者は泰光が南条次郎左衛門宗直とともに上洛し、日野資朝・日野俊基を捕縛したと伝えるものだが、実際には正中元年(一三二四年)九月の出来事(いわゆる正中の変)で、東使として派遣されたのも』、『別の人物であり、この両名は元徳三年/元弘元年(一三三一年)五月五日』(「元弘の変」の時)『に上洛して』、『俊基と僧の文観・円観を捕縛した人物を挙げたものである。後者は元弘三年/正慶二年(一三三三年)、長崎孫四郎左衛門(泰光)が長崎高重とともに、桜田貞国を大将とする幕府軍に属し』、『新田義貞率いる軍勢と戦った、久米川の戦いの様子を伝える記事であり、鎌倉幕府滅亡の頃までの存命が確認される。尚、「梅松論」によれば、同年の段階で上野国守護代に在任していたという』。『建武二年(一三三五年)九月、朝廷は北条氏一門の旧領であった安楽村・原御厨等を伊勢神宮領とする太政官符を発給しているが、その中に泰光の領地であった伊勢国大連名芝田郷・深瀬村が含まれていることから、幕府滅亡後まもなくして』、『泰光の領地は収公されたことになる。幕府滅亡に殉じた(一三三三~一三三五年の間に死去した)可能性は高いが、死の詳細については不明である』とある。

「金剛山(こんがうせん)」現在の奈良県御所市と大阪府南河内郡千早赤阪村との境目にある山、或いはそこを含めた金剛山地を指す。嘗ては「高間山」「高天山(たかまやま)」「葛城嶺(かづらきのみね)」と称された、金剛山地の主峰。標高千百二十五メートル。最高地点は葛木岳。現在は御所市の葛木神社の本殿の裏で、神域とされ立入れない(ここはウィキの金剛山(金剛山地)に拠った)。(グーグル・マップ・データ)。地図を御覧になると判る通り、正成の詰め城として知られる千早城は、この金剛山(こんごうさん:現行は普通、かく呼ぶ)の西にある一支脈の先端直近に築かれた山城である。]

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 方頭魚 (シロアマダイ)

 

方頭魚

 ヲキツダイ

 クヅナ【九州】

 アマダイ【東國】

 伊与宇和嶌《いようわじま》ノ産

 長サ一尺九寸許《ばかり》

 幅四寸五分許

Houtouuo


[やぶちゃん注:
国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いた。これは本巻子本「魚譜」の二番目に出現した大型の図「豫州 アマダイ」(「豫州」は伊予国で現在の愛媛県)とほぼ同じである(図のサイズは三分の二以下と小さいが、描いた個体が同じ「伊与」(「伊豫」の誤記(略記))産とあるから、同一個体を描いたものかも知れぬ(だとすれば、以下に記す図の拙劣さから、こちらが一回目の素描と思う)。但し、持ち込まれたのが複数個体であった可能性もあろう)から、まず、文句なしに、それと同じく、

条鰭綱スズキ目スズキ亜目キツネアマダイ科アマダイ属シロアマダイ Branchiostegus albus

に同定してよい。但し、頭部や口腔の描写の質感、鰓の形状描出、鱗の細部の描き込みなどの点で、先の図より、遙かに劣る価値はデータとしてのキャプションだけと言ってもよい。

 本種はその体色から、市場では現在、「シラカワ」(白川・白皮)と呼ばれることが多いが、それ以外にも単なる「アマダイ」を始めとして、現在でも多様な方言名・流通名を持っており、「ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑」の「シロアマダイ」のそれらが列挙される。その中に「クズナ」「ムラサキクヅナ」の名を見出せ、他のサイトを調べると、「キンクズナ」(長崎)があり、また、先の「ムラサキクズナ」は鹿児島での呼称とする。また、既に先行する頭魚(アカアマダイ)」で注した通り、アマダイ類は別名「オキツダイ」(興津鯛)(静岡)とも呼ばれる(この由来も示したが、再掲しておくと、「おきつ」という名の奥女中が、徳川家康にこの魚を献じ、賞味されたからという説、及び興津(現在の静岡県静岡市清水区の地名。この附近(グーグル・マップ・データ))辺りで多く漁獲されたから、とも言われる)。

「伊与宇和嶌《いようわじま》」現在の愛媛県宇和島市。(グーグル・マップ・データ)。

「長サ一尺九寸許《ばかり》」全長約五十七センチ六ミリ。

「幅四寸五分許」体高十三センチ六ミリ。]

2018/06/11

諸國里人談卷之二 龍淵

 

    ○龍淵(りうゑん)

和泉國蜂田(はんだ)郡家原寺(いゑはらてら[やぶちゃん注:「ゑ」はママ。])の山のうへに、赤龍淵(しやうりうゑん)と云〔いふ〕石あり。徑(わた)り、七、八寸の穴あり。其中の水、旱天(かんてん)に涸(かれ)ず、霖雨(りんう)に溢(あふ)れず。また、旱魃の時、此石に雨を祈るに、驗(しるし)あらずといふ事なし。其傍(かたはら)に白龍淵といふ石あり。うへ、少し、窪めり。降(ふり)つゞく雨にも、一滴、たまらず。たゞ染入(しみいり)て消(きゆ)るがごとし。

[やぶちゃん注:「和泉國蜂田(はんだ)郡」これは現在の堺市西区家原寺町(えばらじちょう:旧家原寺(えばらじ)村)を含んだ地域の旧名と思われるが、そこは少なくとも公式な旧郡名ではなかったように思われるので、やや不審である。ウィキの「八田荘村」によれば、嘗て大阪府にあった八田荘(はったしょう)村は「和名類聚抄」などに見られる平安時代の古い郷の名である「蜂田(はちた)」から転じたものであるとし、『現在、氏神社は「はちた」、村名(地区名)は「はった(しょう)」、大字(町名)は「はんだ」と読み方がさまざまである』からである。或いはここは「蜂田郷」の沾涼の誤記かも知れない。ともかくも、ここに出る寺は現存し、真言宗一乗山院清涼院家原寺(えばらじ)と現在は呼称する((グーグル・マップ・データ))。ウィキによれば、『寺伝によると』、慶雲元(七〇四)年、かの名僧行基が自身の生家を『寺に改めたのに始まるとされ』、『かつては多くの子坊を有したが』、『兵火などで衰退した。江戸時代には田安家が帰依して寺領を与えられた』とある。公式サイトには、現在の『境内地は』二『万坪に及ぶ』が、『明治初年の廃仏毀釈で荒廃し、また』、『大戦後の農地解放で敷地や農地を失い』、その後、再建復興されて『現在にいたっている』とあること、公式サイト内にこの奇石の記載がないこと、航空写真を見るに東南方向に嘗て山があった痕跡があること等から考えて、ここにある「赤龍淵」(しやうりうゑん)」「白龍淵」という石は現存しない可能性が高いように思われる(ある場合はお教え願いたい。訂正する)。

「七、八寸」二十二~二十四センチメートル。

「霖雨」何日も降り続く雨。長雨。]

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 方頭魚 (イラ)

 

Hanaoredai

 

方頭魚 異品

   ハナオレダイ

   外ハナオレ

   ト呼フモノアリ

   同名異物

《「方頭魚」 異品。

  「ハナオレダイ」。外に「ハナオレ」と呼ぶものあり。同名異物。》

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いた。

 まず、キャプションの「方頭魚」であるが、これは既に名前として本魚譜には既出で、「【和名オキツダイ アマタイ】」と出て、そこで私は、その図の魚を、所謂、「グジ」、条鰭綱スズキ目スズキ亜目アマダイ科アマダイ属アカアマダイ Branchiostegus japonicus に同定したのであった。しかし、丹洲が添えているように、この体色はトンデモない「異品」である。私はこんな体色の「方頭魚」=アマダイ類はいないのではないかと思うのである(しかし、「方頭魚」という漢名が丹洲にとって、まずはまず、「グジ」=アマダイであったことは、実は次の図(実際にはこの図の真上にあり、尾は本図の魚より、前の方に突き出ているから、電子化している私の順序から言うと、それを先にするところなのであるが、以下の考証上、どうしてもこれを先にしなくてはならぬと私は考えたのであった)が「方頭魚」で、そちらの方は間違いなく、「グジ」=「アマダイ」属にしか見えないことから明白なのである)。

 次に「ハナオレダイ」であるが、この異名は実は現在も使われており、通常のそれは、やはりこれも、やはり「コダイ(キダイ 初めての「鯛」)」で同定した、スズキ目スズキ亜目タイ科キダイ属キダイ Dentex hypselosomus の異名なのであるが、リンク先のその図を見て貰うと判る通り、キダイは泰然とした、基、「鯛」然とした真正のタイの仲間で、凡そこの図にあるような、多色刷り見たような派手な色はしていないし、体型も明後日どころか、千日前ぐらい違うから、絶対にキダイではないことは、幼稚園生でも判る。そもそもが、ここで丹洲がわざわざ『外に「ハナオレ」と呼ぶものあり。同名異物』としたのは、これは世間で、一般に「ハナオレダイ」、及び、それとは異種の「ハナオレ」と呼ばれている魚とは「違う!」とはっきり思っているから、わざわざ、こんなことを書き添えたのだと私は思う。

 則ち、言ってしまうと、ここまでで、キャプションの「方頭魚」も「ハナオレダイ」も「ハナオレ」も総て、同定比定には殆んど役立たないものであると考えた方がよいということを意味しているということである。

 但し、「異品」は大事な表現だと私はハッと思ったのだ!

 何故か?

 この前回に出した魚の図を思い出して貰いたいのだ。

 前回の「アマタイ(アカアマダイ? イラ?)魚の図は、まさに本魚の前(尾鰭の後ろ位置)に、同じ高さ・同じ大きさで描かれているのである(但し、貼り込みであって、連続した紙に描かれたものではない。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のコマ10コマを見て戴きたい)が、そこでそれぞれの魚の画像を、並べて画面に示して貰いたいのである。と、本記事の画像のこれだ(★両方を別ウィンドウで開いて並べてみて!)。

 どうです? 色を問題にしないなら、頭の形とか極似だし、全体の体つきもよく似ているのである。

 さて、そこで、です。私は前回の「アマタイ」とキャプションのある魚を「アカアマダイ」か? 或いは「イラ」か? として、投げ出していたのを思い出して欲しいのである。アマダイは既に出たからいいとして、「イラ」は魚フリークか魚釣りをする人でないと判らないだろう。この子は、

スズキ目ベラ亜目ベラ科タキベラ亜科イラ属イラ Choerodon azurio

でアマダイとは科のレベル(タクソン)で異なる魚で、「伊良・苛魚」などと漢字表記する、本州中部地方以南・台湾・朝鮮半島・東及び南シナ海に棲息する魚である。ウィキの「イラによれば、全長は約四十~五十センチメートルで、『体は楕円形でやや長く、側扁』する。『また、イラ属はベラ科魚類の中では体高が高』く、『額から上顎までの傾斜が急で、アマダイを寸詰まりにしたようである』(これと以下が本図と完全に合致する点に注意で、しかもこの筆者は種としては縁のすこぶる遠い「アマダイ」を引き合いに出していることにも注意して貰いたいのである)。『老成魚の雄は前額部が隆起・肥大し』、『吻部の外郭は垂直に近くなる』。『アマダイより鱗が大きい』(またまた縁も所縁もないアマダイが出てきた! ということは、ですよ、イラはアマダイとは無縁な魚なのに見た目はアマダイに似ているということなのですよ!)。『側線は一続きで、緩やかにカーブする』『前鰓蓋骨の後縁は細かい鋸歯状となる』(これは本図の方ではっきりと見られる!)。『前部に最低』一『対の大きな犬歯状の歯(後犬歯』『)がある』(本図の口元見てみて!!)。『側線は一続』『尾鰭後縁はやや丸い』(これも本図と一致する)。『体色は紅褐色』『から暗紅色で腹側は色が薄く』(本図と一致!)、『尾鰭は濃い』。『口唇は青色』(本図と一致!)『で、鰭の端は青い。背鰭と腹鰭、臀鰭は黄色。背鰭棘部の中央から胸鰭基部にかけ、不明瞭で幅広い黒褐色の斜走帯が走る』。『その帯の後ろを沿うように白色斜走帯(淡色域』『)がある』(本図とモロ一致!!!)。『幼魚にはこの斜走帯はない』。『雌雄の体色や斑紋の差が大きい』とある。そうして、最後の「名前」(異名)の項を見ると、『名前からテンスやアマダイ、ブダイ、カンダイと混同されていることがわかる』として(注記号を消去した)、『アマ(和歌山県太地町)、アマダイ(甘鯛)』、『イソアマダイ(和歌山県)(磯甘鯛)』、『オキノアマダイ(沖甘鯛)』『(東京)』、『クジ』『(静岡県沼津)』が挙げられてあるのだ。則ち、現在でも「イラ」は「アマダイ」「グジ」と呼ばれている地方が有意にあるのである。

 最後にWEB魚図鑑の「イラ」写真を見なはれ! 本図の魚は間違いなく、「イラ」でんがな! この子ら、なんや、えらい、可愛いなあ!

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十二年 ガラス障子の出現 / 明治三十二年~了

 

     ガラス障子の出現 

 

 この年後半における新な出来事の中に居士の画がある。居士が画を好むの性は少時からで、明治十一年(十二歳)の時模写した「画道独稽古」なるものが現存しており、「わが幼時の美感」の中にも、「十二、三の頃友に畫を習ふ者あり、羨しくて母に請ひたれど、畫など習はずもありなんとて許されず。其友の來る每に畫をかゝせて僅に慰めたり」ということが見えている。画に対する居士考(かんがえ)は、『ホトトギス』に出た「画」という文章にほぼ尽されているが、これには洋画家である不折、為山両氏の影響が大分あるらしい。この年三月、居士は「病牀譫語(びょうしょうせんご)」の中で「文學者とならんか、畫工とならんか、我は畫工を擇ばん。文學は文字に緣あるがために時に無風流の議論を爲す。議論は一時を快にすといへども、退(しりぞ)いて靜かに思へば畢竟兒戲のみ。繪畫は議論を爲す能はず。怒れば則ち畫き、喜べば則ち畫き、悲めば則ち畫き、平ならざれば則ち畫く。樂、默々の中にあり。唯我畫に拙(つたな)く、畫工たる能はざるを憾(うら)む。若し自ら樂まんとならば畫の拙なるを憂へず。口を糊(のり)する能はず」といい、また「我、畫を學ばんか、形體を摸するを要せず、輪郭を正すを要せず、只靑を塗り紅を抹(まつ)し黃を點すれば則ち足る」ともいった。この時は直に実行に移す考があったかどうかわからぬが、秋になって図らずも丹青(たんせい)を弄(ろう)する機会が到来した。

[やぶちゃん注:「明治十一年(十二歳)」数え。明治十一年は一八七八年。

「両道独稽古」葛飾北斎の「畫道獨稽古」(文化一二(一八一五)年作)一冊(画文三十五枚七十頁から成る)。これを友人から借りて模写していることが、橋本直(すなお)氏のサイト「俳句の創作と研究のホームページ」の正岡子規と絵に記載されてある。

「わが幼時の美感」「吾幼時の美感」が正しい。『ホトゝギス』第二巻第三号(明治三一(一八九八)年十二月十日発行)掲載。国立国会図書館デジタルコレクションの「子規遺稿 第二編 子規小品文集」の画像でから正字正仮名が読める(これで校合した)。「青空文庫」のでも、新字旧仮名であるが、読める。

「病牀譫語」『日本附録週報』に明治三二(一八九九)年三月十三日から四月二十四日まで五回に亙って連載。「青空文庫」ので新字旧仮名で読める。校合は「子規居士」に拠った。

「丹青(たんせい)を弄(ろう)する」絵の具の「丹青」(赤と青)、或いは、そこから派生した「絵の具で描くこと」の意。] 

 

 居士がはじめて写生を試みたのは秋海棠であった。絵具は不折氏から貰ったのがあったので、机の上に活けてある秋海棠をいきなり写生したのである。その結果は「葉の色などには最も窮したが、始めて繪具を使つたのが嬉しいので、其繪を默語先生や不折君に見せると非常にほめられた。此大きな葉の色が面白い、なんていふので、窮した處までほめられるやうな譯で僕は嬉しくてたまらん」ということになり、爾後しばしば画筆を執るようになった。文学以外の楽(たのしみ)が一つ加わったわけである。

[やぶちゃん注:出典は「画」(『ホトトギス』第三巻第五号。明治三三(一九〇〇)年三月十日発行。「青空文庫」ので新字旧仮名で読める)。「子規居士」で校合した。

「居士がはじめて写生を試みたのは秋海棠であった」★この時のものではない★が、国立国会図書館デジタルコレクションの草花帖」の画像で、三年後の死の年、明治三五(一九〇二)年八月一日に描いた秋海棠の絵が見られる。以下に参考図としてトリミングして掲げておく。 

 

Syukaidou

「默語先生」「黙語」は洋画家浅井忠(ちゅう 安政三(一八五六)年~明治四〇(一九〇七)年)の号。既出既注であるが再掲しておく。江戸生まれ。父は佐倉藩士。明治八(一八七五)年に国沢新九郎に師事し、翌年、工部美術学校に入学、お雇い外国人でイタリアの画家アントニオ・フォンタネージ(Antonio Fontanesi 一八一八年~一八八二年)に師事、明治二二(一八八九)年、日本初の洋画団体「明治美術会」を創立し、明治三一(一八九八)年には東京美術学校教授に就任した。明治三三(一九〇〇)年からフランスに二年間、留学。帰国後、京都高等工芸学校教授に就任して「関西美術院」を創立した。渡欧後は印象派の画風を取り入れ、また、水彩画にも多くの佳作を残した。門下に安井曾太郎・梅原龍三郎らがいる。] 

 

 十一月二十二日、虚子、四方太、青々三氏と共に「ふき膾(なます)」を食い、五目ならべなどを闘わした時、皆で「根岸草廬(そうろ)記事」を書く議が起った。四方太氏の文章がはじめて無条件で居士の鑑査を通過したのはこの時である。居士の書いた記事の中に、障子をあけては庭の雞頭(けいとう)を見る、雞頭の傍に赤い小菊のある小景を、画にして置きたいと思っているうちに、霜に打たれたかして見苦しい残骸になってしまった、ということがある。この頃まで病室の南側は障子で、庭を見るにしても、上野の山を望むにしても、一々障子をあけてもらわなければならなかったが、十二月十日頃に至り、ここにガラス障子を取付けることになって、病牀生活に一大変化を生じた。ガラス障子というものが極めて普通になった今日、殊に立って歩ける健康者の立場から、この時の居士のよろこびを想像することは困難であろう。この新な設備は直に句に入り、やがて歌にもなったが、最も委しいのは三十三年一月の『ホトトギス』に出た「新年雑記」である。「ガラス障子にしたのは寒氣を防ぐためが第一で、第二には居ながら外の景色を見るためであつた。果してあたゝかい。果して見える」とあって、病状から見える風物を列挙した末、「これ等はガラス障子につきて略〻豫想した事であったが、其外に予想しない第三の利益があつた。それは日光を浴びる事である」といっている。昼近い冬の日が六畳の部屋の奥までさし込む中に横わっていると、暖いばかりでなしに非常に愉快な気持になる。ガラス障子の出来上った翌日の如きは、自分でガラスを拭いて見たり、菅笠を被って机に向い、昼のうちに原稿を書くほど、居士は新なよろこびに充ちていた。「こんな譯ならば二、三年も前にやつたらよかつたと存候。併シ何事も時機が來ねば出來ぬ事と相見え候」と漱石氏宛の手紙に記れている。

[やぶちゃん注:校合は「子規居士」に拠った。

「ふき膾(なます)」は普通の「膾」のことで「羹(あつもの)に懲りて膾を吹く」の諺に引っ掛けたに過ぎないであろう。]

 

 この年の蕪村忌は会者四十六人、空前の盛況を示した。「風呂吹の一きれづつや四十人」という句はこの際のものである。蕪村忌の翌日には湯婆(たんぽ)を抱えて不折氏の画室新築開(びらき)に列席するなど、押詰(おしつま)るまで相当多事であった。

 『俳人蕪村』『俳諧三佳書』が「俳諧叢書」として刊行されたのも、この年十二月の出来事である。

[やぶちゃん注:「蕪村忌」既出既注であるが、再掲しておく。与謝蕪村は享保元(一七一六)年生まれで、旧暦天明三年十二月二十五日(グレゴリオ暦一七八四年一月十七日)に亡くなっている(享年六十九)。]

諸國里人談卷之二 鵜飼石

 

    ○鵜飼石(うかひのいし)

甲斐國石和(いさわ)川にて、日蓮上人、漁夫が菩提のため、「法華經」、一石(いつせき)に一字づゝ書(かき)て、川に沈め、弔ひ給ふ、と也。その石の文字消(きへ[やぶちゃん注:ママ。])ずして、此川邊にあり。年來(としごろ)、皆、拾ひつくして、今、適(たたま)に、これを得る、となり。まことに、權者(ごんしや)の筆跡、奇なりといふべし。○又、凡人(ぼんじん)の、石に書(かき)て消(きへ)ざる法あり。蒼耳子〔さうじし〕の油にて、墨をすりて、石に書〔かく〕時は、石中(せきちう)に通りて消ず、と也。此蒼耳子の油は、物をよく通すもの也。故に何の器に入れても、漏(もる)る也。但〔ただし〕、玉子の壳(から)に入〔いれ〕れば、もらず。

[やぶちゃん注:山梨県笛吹市石和町市部にある日蓮宗鵜飼山遠妙寺(おんみょうじ:(グーグル・マップ・データ))に伝承される日蓮の奇瑞譚。ウィキの「遠妙寺笛吹市)によれば、この寺は謡曲「鵜飼」の『発祥の史跡として知られ』、『境内に鵜飼堂と供養塔があ』るとし、謡曲「鵜飼」は『榎並左衛門五郎が原曲を作成し、世阿弥が改作して』、『応永年間』(一三九四年~一四二七年)『後期から永享年間』(一四二九年~一四四一年)『初期に成立したという。「石和川」や日蓮を想起させる「安房清澄の僧」が登場し、法華宗を賛美する内容となっている』。『一方、遠妙寺の由緒では謡曲』「鵜飼」『と似た「鵜飼伝説」を伝え、文禄・慶長年間』(一五九三年~一六一五年)『にはすでに成立しており、慶長年間には山号を「鵜飼山」に改めている』。『遠妙寺の「鵜飼伝説」は、平家没落後の元暦年間』(一一八四年~一一八五年)『に平家一族・平時忠』(謡曲「鵜飼」では「漁翁」として出る)が『殺生禁断の石和川において鵜飼を行ったため』、『観音寺の僧により殺され、怨霊となったという。その後』、文永六(一二六九)年に『日蓮が同地を訪れ』、『時忠の亡霊と遭遇する。このとき』、『日蓮は怨霊を成仏させることができず』、文永一一(一二七四)年に『弟子の日郎・日向を伴い』、『再び同地を訪れ、一字一石の経石で施餓鬼供養を行ない』、『怨霊を成仏させた。これにより、川施餓鬼根本道場として遠妙寺が創建されたという』とある。「YAMANASHI DESIGN ARCHIVE」の鵜飼橋には、より詳しい記事が載る(許諾申請をしなければならないので引用はしない)。また、サイト「まんが日本昔ばなし」の鵜飼いものがたりは読み易い。なお、ウィキの「石和鵜飼に拠れば、この「石和川」は「鵜飼川」とも称され、現在の笛吹川のことを指していると考えてよいであろう(以下の引用の私の引いた下線部を参照のこと)。同ウィキによれば、『石和鵜飼は漁師が直接川へ入る「徒歩鵜飼」と呼ばれる類例の少ない鵜飼で、幕末期の成立であると考えられている『甲州道中図屏風』に描かれる桂川の鵜飼も徒歩鵜飼として描かれている』とあり、現在も行われている。『江戸時代に鵜飼山遠妙寺に伝わった伝承によると、石和鵜飼の起源は平氏の公家であった平時忠が流刑先の能登国から逃れ、当地で漁を始めたのがはじまりとされている』。『室町時代には、猿楽師である世阿弥により改作された能の演目』「鵜飼」が『江戸期の石和鵜飼伝承に似た筋書きとなっている』。『遠妙寺には漁師・鵜飼勘助が日蓮に救われたという伝承が伝わり、勘助を祀る「漁翁堂(りょうおうどう)」が所在している』。『さらに、寺宝にも鵜飼伝説に関わるものがあり、「七字の経石」は鎌倉時代のものと伝わる経石で、七つの石に「南無妙法蓮華経」の七文字が書かれている』。『遠妙寺に伝わる「鵜飼天神像」も同じく鎌倉時代のもので、日蓮が平時忠を勧請して鵜飼天神とし、日蓮自ら開眼した像であるという』。『笛吹川もかつては石和川(いさわがわ)あるいは鵜飼川(うかいがわ)とも呼ばれていたことなど』、『石和で古くから鵜飼が行われていたと考えられている』。『江戸時代後期の天保元』(一八三〇)年)から天保五(一八三四)年『頃には、浮世絵師の葛飾北斎により富士山を題材とした連作『冨嶽三十六景』が刊行される。『冨嶽三十六景』に含まれる甲斐国を描いた六図には「甲州伊沢暁(こうしゅういさわあかつき)があり、甲州街道沿いの石和宿から見える富士が描かれている。中央には鵜飼川が描かれており、右手には遠妙寺門前で分岐する鎌倉街道(御坂路)の板橋が描かれている。遠妙寺は画中には描かれていないが、板橋の描かれている右手に所在している。北斎は日蓮宗を信仰しており、日蓮ゆかりの地を画題に選んだとも考えられている』とあり、この図をもとに地図上で考えても、「鵜飼川」は現在の笛吹川である。

「權者(ごんじや)」神仏などが衆生を救うため、この世に仮に人の姿となって現れた権化(ごんげ)。

「蒼耳子〔さうじし〕の油」キク目キク科キク亜科オナモミ属オナモミXanthium strumarium の果実(正確には偽果。フグのハリセンボンみたようなトゲトゲのフットボール状の緑色の「ひっつき虫」、ほら、最初の担任した教え子諸君、君らがこっそり僕の背中に多量に附けた、あれだよ)から採った油で、解熱・頭痛・発汗などに用いられ、中国では食用油としても利用されているとあるが、調べてみると、オナモミの全草には有毒成分のキサンツミン(Xanthumin)などが含まれ、毒性は果実が最も強く、過量に服用すると、眩暈・頭痛・嘔吐・下痢・蕁麻疹、さらには意識障害・痙攣・肝機能障害などを引き起こし、死亡することもあるとあるので注意が必要。ここに書かれたようなこの油で「墨をすりて、石に書〔かく〕時は、石中(せきちう)に通りて消(きえ)ず」という効果は不詳。識者の御教授を乞う。

「壳(から)」「殼」。]

諸國里人談卷之二 鬼橋

 

    ○鬼橋(おにはし)

備後國帝釈山(たいしやくさん)の谷川に橋あり。石を以〔もつて〕切(きり)たてたる、長(なが〔さ〕)、二十間、幅三間の反橋〔そりばし〕なり。これを鬼橋と號(なづ)く。土俗の說に、神代(しんだい)の昔、梵天・帝釋天、くだり給ひ、數萬〔すまん〕の眷屬の鬼、來つて、一夜(いちや)の中〔うち〕に全く成る、といひつたへたり。むかし、此橋をわたり得れば、淨土に至り、渡り得ざるものは、地獄に墮(おつ)といふ。今は、わたる人なし。故(かるがゆへ)に、草木(さうもく)、生茂〔おひしげ〕りて、山とひとしき也。

[やぶちゃん注:これは現在の中国山地に位置する広島県北東部の庄原市東城町及び神石高原町に跨る全長約十八キロメートルに及ぶ峡谷「帝釈峡」の「鬼の唐門」((グーグル・マップ・データ))、或いは、その南方にある雄橋(おんばし:(グーグル・マップ・データ))か。「長(なが〔さ〕)、二十間、幅三間」(長さ三十六メートル三十六センチ・幅約五メートル四十五センチ)という数値からは、前者かと思われる(雄橋は全長九十メートル、幅十八メートルもあるので、合わない。「鬼の唐門」は高さ約八メートルの天然橋で、古い鍾乳洞が崩落して入り口だけが残ったものと考えられており、門の上の方に「鬼の窓」と呼ばれる四メートルほどの穴が開いている。ここは帝釈峡観光協会」公式記載及びウィキの「帝釈峡に拠った)。なお、「帝釈山」という山は現認出来ない。]

諸國里人談卷之二 石寶殿

 

    ○石寶殿(いしのほうでん)

 

播磨國印南(いなみ)郡生石子(おしこ)の御社(みやしろ)あり。【姫路と加古との間の山也。】。今、傾きて、半(なかば)、土に埋(うづ)めり。大、二丈六尺あり。さらに人力(にんりき)のなす所にあらず。俗云、「むかし、八百万(よろづ)の神たち、あつまり給ひて造り給ふ。」と也。

         

 大なむちすくな彥名(ひこな)のおはします

  しづの岩屋は幾世へぬらん 生石村主(ヲフノスグリ)

生石子(おしこ)明神は祭(まつる)大己貴命、少彥名命也。

寬文のころ、十二歲ばかりの女、此所に來りて、哥をよむ。

 たまに來てまたこん事のかたければ

  名殘おしこの石のみやしろ

[やぶちゃん注:ブラウザの不具合を考え、和歌は上句・下句を分離し、「生石村主」の位置は、引き上げてある。

「播磨國印南(いなみ)郡生石子(おしこ)の御社」兵庫県高砂市阿弥陀町生石の宝殿山山腹にある生石神社(おうしこじんじゃ)。(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「生石神社」によれば、「石の宝殿」と『呼ばれる巨大な石造物を神体としており、宮城県鹽竈神社の塩竈、鹿児島県霧島神宮の天逆鉾とともに「日本三奇」の一つとされている』。当該神体は横(正面幅)六・五メートル、高さ五・六メートル、奥行五・六メートルの方体(但し、後部に向かって四つ(最後の突出部を除く)の人工の有意な切り込みが行われてあり、特に後部の二箇所は有意に台形(後ろ方向を上辺として)を成していることが、当神社が出している石製の御守りに添えられた御神体の絵からも判る)で、後面に幅二・五メートル、高さ二・九メートル、奥行(方体からの後部への突出長であろう)一・九メートルの上辺の短い台形をした突出部を有した、推定重量四百五十トン以上もの(数値は次の次にリンクさせた「ニホンタビ」のものを採用した。同リンク先には御守りの写真もある)『巨大な石造物』で、『水面に浮かんでいるように見えることから「浮石」とも呼ばれる』(事実は、後のリンク先の画像で判るが、この巨石の基部は中心位置まで周囲を掘り削り込んであって、恰もそこで切り離す直前のような状態で(しかし、岩石塊の切出しにこのような面倒な手法は用いないであろう)、そのまま残されてあるもので、さらに巨岩のある場所の周囲をさらに有意に掘り下げてあり、そこに水が溜まっているために、当該巨石本体の基部が現認出来ぬようになっている結果、恰も水面から離れて巨岩が浮いているような不思議な印象を与えるのである。実際、画像で削り残してある基盤との接合部が見える写真は、やっと神戸新聞公式サイト二〇一五六月二十三記事「【高砂市】生石神社の浮き石周辺で水抜きで氏子の方々がこの池水を清掃するために水抜きをした際(同年六月二十一日)の取材写真で辛うじて見ることが出来たほどである。(拡大写真))。『誰が何の目的でどのように作ったかはわかっていない』。『山形県にも同名の「生石神社」があり、当社の分社と伝えられている』(後述)。『「生石」の読みは本来「おうしこ」であるが、「おおしこ」・「おいしこ」と誤表記・誤読されている場合もある』。『大穴牟遅命、少毘古那命を主祭神とし、大国主大神、生石子大神、粟嶋大神、高御位大神を配祀する』。『社伝では、崇神天皇の時代、国内に疫病が流行していたとき、石の宝殿に鎮まる二神が崇神天皇の夢に表れ、「吾らを祀れば天下は泰平になる」と告げたことから、現在地に生石神社が創建されたとしている』。『石の宝殿について『播磨国風土記』の大国里の条には「原の南に作り石がある。家のような形をし、長さ二丈、広さ一丈五尺、高さも同様で、名前を大石と言う。伝承では、聖徳太子の時代に物部守屋が作った石とされている。」という意味の記述がある。聖徳太子が摂政であった時代には物部守屋はすでに死亡しており、矛盾をはらむ記述ではあるが』、八『世紀初期には』六~七『世紀頃に人の手で造られたと考えられていたことになる。風土記が一般に流布されたのは江戸時代後期からであり、それまでの石の宝殿に関する文献で風土記の内容を継承したものは見られない。『万葉集』巻三、生石村主真人の歌にある志都乃石室は石の宝殿のことであるとも言われるが』、『定かではない』。『石の宝殿は』八『世紀以前からあったことになるが、生石神社は『延喜式神名帳』や国史に掲載されておらず、『播磨国内神名帳』の「生石大神」が文献上の初見であるとされる。『峯相記』では生石神社・高御位神社の解説で「天人が石で社を作ろうとしたが、夜明けまでに押し起こすことができずに帰っていった」という内容が記されており、この時期には石の宝殿は人の手によるものではないとする伝承が生まれている』。『『播州石宝殿略縁起』では「神代の昔、大穴牟遅と少毘古那が国土経営のため』、『出雲からこの地に至り、石の宮殿を造営しようとして一夜のうちに二丈六尺の石の宝殿を作ったが、当地の阿賀の神の反乱を受け、それを鎮圧する間に夜が明けてしまい、宮殿は横倒しのまま起こすことができなかった。二神は、宮殿が未完成でもここに鎮まり国土を守ることを誓った」となり、『峯相記』より具体的な神格が与えられている』。『成務天皇』十一『年、羽後国飽海郡平田村生石(現山形県酒田市大字生石)に当社の分社が作られた』とある。奇体なものであるから、多くの方の記載や写真がネット上にはあるが、旅行・観光サイト「ニホンタビ」の水に浮かぶ巨石の神秘!高砂・生石神社で謎に包まれた石の宝殿を探る旅がよかろうかと思う。また、おのえ椅子製作所ブログの「石の宝殿 生石神社には(こちらも写真豊富)、生石神社の関係者の談として、この石の伝承が記されてあり、その話は先のウィキの記載と同じく、『その昔』、この神社は『すぐ前まで海だったらしく』、第十代『崇神天皇の時代に、疫病が流行し、それを鎮めるために石の宮殿を作』り始めた。後ろの尖った部分が屋根『で、あとは立てれば完成という時に、神吉城あたりに阿賀神の勢力の反乱に会い、人命優先で、逃げるように指示したと』あるのだが、その後に、『この』背後の突出した「屋根」の『中に鯉がいるらしく』、その『鯉と』『金魚の一匹がいつもついて泳いでるらしく』、それは『龍神』であり、それが見られる人は『龍に呼ばれて』い『るそうで、良いらしい』というスピリッチャルな話が載せられている。私は信じないが、悪い話ではない。

「二丈六尺」七メートル八十八センチ弱。現在、先のデータで奥行を突出部まで含めると、七メートル五十センチとなり、写真を見ると、突出部の先は欠けているようにも見えることから、この数値は奥行きを指していると考えていいように思われる。

「生石村主(ヲフノスグリ)」「大なむちすくな彦名(ひこな)のおはしますしづの岩屋は幾世へぬらん」は「万葉集」巻第三の「雜歌」に載る一首(三五五番)、

   生石村主眞人(あふしのすぐりまひと)の歌一首

 大汝(おほなむち)少彦名(すくなひこな)のいましけむ

    志都(しつ)の石室(いはや)は幾世經(へ)にけむ

である。「村主」(清音「すくり」とも)は日本古代の渡来系氏族の姓(かばね)の一つで、「村主」に与えられた「すくり」とは古代朝鮮語の「郷・村」を意味する「足流(スクル)」という語に由来する。五世紀以降、主として朝鮮百済から渡来した技術者集団である漢人(あやひと)を、各国内の村に配置した際、各集団を統率した渡来人の長を「村主」と呼称したものらしい。やがて、姓制が確立すると、称号である「村主」も姓の一つとなり、また、後には氏名ともなった。村主の姓を称する氏族には「高向(たかむく)村主」・「西波多(かわちのはた)村主」・「平方村主」などがおり、仁徳天皇の時代に、百済などから村落の人たちが集団で日本に渡来したという伝承を持ち、孰れも、後に「坂上氏」となる「東漢(やまとのあや)氏」の統轄下に、各種の技術者集団の統率者の役割を果たしていたらしい、と平凡社「世界大百科事典」にある。

「寬文」一六六一年~一六七三年。]

2018/06/10

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十二年 歌会における調子論

 

    歌会における調子論

 

 歌会は引続き催され、その結果は常に『日本』に発表された。はじめは兼題の歌を持寄り、席題の歌と共に当日これを選んでいたのを、十方の歌会から兼題は俳句の十句集と同じく、廻送して互選するとにした。歌会記事の特色は悉く居士の筆に成ったことと、兼題乃至席上の歌に対し、居士の批評が加えてあることである。俳句会の場合においても席上では種々の批評があり、十句集などの句に居士が批評を加えるのは珍いことでもなかったが、そういう批評じゃ概ね世の中に発表されずにしまった。居士が歌会の場合に自ら記事を書き、批評を加えることを怠らなかったのは、研鑽の迹を記録するというだけでなしに、居士の歌に関する意見を実例について世に示す意図があったものであろう。

 十二月の歌会の題に「帝国議会」というのがあり、和田不可得(わだふかとく)氏が「すめろぎのまけのまにまにかしこみて國はからずば此國をいかに」という歌を詠んだところ、居士はこの一首について従来にない長い批評を書いた。「抑(そもそ)も昨年和歌革新の聲起りしより今日に至る迄の有樣を見るに、幾多革新派の人が和歌に於て最(もつとも)多く革新の必要を感ぜしは想の上に在りて調の上に在らず」といい、「東に倒れし者を起さんとして又西に傾かしむるは勢の免(まぬか)れざる所、何事を爲すに初期に於て必ず此弊を見る。獨り和歌に於て咎むべきにあらず、否咎むべきにあらざるのみならず、寧ろ必要なりしなり。然れども彼等は只病(やまひ)を救ふに急なるがために卽ち新思想を入るゝに急なるがために、其新思想を如何なる調にて歌はゞ可なるべきかといふ問題には未だ觸著[やぶちゃん注:「そくぢやく(そくじゃく)」対象に直(じか)に初めて触れること。]せざるが如し。こは我最遺憾とする所なり。想と調と孰れか重くして孰れか輕き、そは我れ答へ能はず。輕重は答へ能はずといへども、兩者共に必要にして偏廢する能はざるは論を挨たず。既に歌の一要素として存する間は、其歌を作るに調をなほざりにして、只三十一文字に綴るを以て滿足するが如きは到底完全なる歌といふべからず。自ら新派と稱する人の作歌に調のとゝのひたる者甚だ少きを見て、新派もなほいまだ不具を免れずと思へり」というのである。調子に関してはしばしば説があったが、この時ほど多くの言辞を費したことはなかった。調子を解せざるが故に、曙覧(あけみ)を「完全なる歌人たる能はざりき」と評した居士は、同じ標準を以て自家陣営に臨む時、やはり同様の感なきを得ぬ。たまたま不可得氏の歌の如く「趣向尋常にして調のとゝのひし者」が歌会の高点を得るのを見て、その傾向をよろこんだ結果、如是(かくのごとき)の言を吐いたのであった。

[やぶちゃん注:「和田不可得」和田性海(しょうかい 明治一二(一八七九)年~昭和三七(一九六二)年)は兵庫県出身の真言宗の僧。哲学館(現在の東洋大学)卒。不可得は号。御室(おむろ)派の伝道部主任として雑誌『みのり』を発行、昭和九(一九三四)年に高野山大学長、昭和二四(一九四九)年には金剛峰寺座主・高野山真言宗管長、昭和三三(一九五八)年に布教研究所長となった(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。]

 

 十一月十三日、居士は本郷金助町に岡麓氏の新築を訪い、同十六日小石川原町に香取秀真氏を訪うた。病臥以来、居士の訪問する先は大体限定された観があったが、ここに至って歌の方の人を訪うという事実が新(あらた)に起るのである。いずれも午後から出かけて、夜に入って帰っている。こう続けて車上出遊を試み得たのは、あまり寒気が加わらぬためもあるが、「遊びあるく病の神のお留守もり」という句を見てもわかるように、この時分比較的健康の工合がよかったからであろう。この二度の外出は「本郷まで」「小石川まで」という歌入の文章となって『日本』に現れた。麓氏の許で見た古人の筆蹟、秀真氏のところで見た鋳物(いもの)のくさぐさなど、共に居士をよろこばせた。帰来秀真氏に寄せた端書(はがき)の歌の中に「我口に觸れし器は湯をかけて灰すりつけてみがきたぶべし」というのがあり、特に圏点がつけてあったのは、はじめて訪問した家に対する居士の心遣いを見るべきものである。病人としての居士のこういう注意は、翌三十三年一月の『ホトトギス』の消息に、かなり委しく述べてある。

[やぶちゃん注:「本郷金助町」(きんすけちょう)は現在の文京区本郷三丁目内(中央附近(グーグル・マップ・データ))。家康の入府後、御小人頭(おこびとがしら:雑役に従事した小者の統括者)として従ってきた牧野金助が元和四(一六一八)年に拝領した地であったことによる。

「岡麓」明治三十二年 歌人来訪で既出既注。

「香取秀真」同前。芥川龍之介の隣人になるのは、ここから田端に移ってから。

「本郷まで」「小石川まで」孰れも「国文学研究資料館所」の同館「蔵 日本叢書 子規言行録」(子規没後出版)で読める。]

北條九代記 卷第十二 主上笠置御籠城 付 師賢登山 竝 楠旌を擧ぐ

 

      ○主上笠置御籠城  師賢登山  楠旌を擧ぐ

 

元弘元年八月、關東の使、兩人、三千餘騎にて上洛し、近國の武士、我も我もと、六波羅に集る。「是、主上を遠島に移し、大塔宮を斬罪に行ひ奉らん爲なり」と聞えたり。宮より仰遣(おほせつかは)されければ、同二十二日の夜、主上は女車に召して、陽明門より出で給ひ、三條河原より御輿(おんこし)にて笠置(かさぎ)の石室(いはや)に臨幸なる。花山〔の〕院大納言師賢(もろかた)、萬里小路中納言藤房・同舍弟季房、三、四人、御供あり。源中納言具行(ともゆき)・按察(あぜちの)大納言公敏(きんとし)・六條少將忠顯(たゞあき)は、三條河原にて追付き奉りけり。大納言師賢卿は主上の御衣(ぎよい)を賜り、車に乘りて登山(とうざん)して、大衆の心を伺はん、と計られたり。四條大納言隆資・二條〔の〕中將爲明(ためあきら)・中院(なかのゐんの)左中將貞平(さだひら)、供奉の躰(てい)にて從へり。西塔(さいたふ)の釋迦堂を皇居と定む。主上、山門を御賴(たのみ)有りて臨幸なりたる由、披露せしかば、山上・坂本は云ふに及ばず、大津・松本・戸津(とづ)・比叡辻(ひえつじ)・和爾(わに)・堅田の者共まで、我も我もと馳參(はせさん)じけり。六波羅、大に驚き、四十八所の篝(かゞり)に畿内五國の勢を差添(さしそ)へて、都合、五千餘騎にて山門に押寄(おしよ)せ、散々に攻(せめ)けれども、山門の御勢、六千餘騎になりて、防戰(ふせぎたゝか)ふ。寄手、多く討(うた)れて、仕出(しいだ)したる事もなし。この間に、師賢、既に露(あらは)れて、主上にはあらず、と知れければ、軍兵共、皆、散々に成りて落失せたり。師賢も忍落(しのびお)ちて、笠置の皇居へぞ參られける。大塔宮も山門を落ちて、南都に赴き給ふ。主上、竊(ひそか)に楠多門(くすのきたもん)兵衞正成(まさしげ)を笠置へ召されて、武將の祕策を委(まか)せて御賴ありければ、正成、赤坂の城を構へて、旗(はた)を舉げたり。關東勢、押寄せて、攻めけるに、俄(にはか)の事にて、兵粮(ひやうらう)乏(とぼし)かりければ、叶はずして、正成、竊に城を退きたり。兩六波羅の軍勢、七萬五千人、笠置に取掛(とりか)けて攻めたりしに、大塔宮、師賢以下、皆、この城に集り居給ふ。陶山(すやまの)藤三義高、小見山次郎某(なにがし)、夜討(ようち)して、後(うしろ)の嶺より攻入りければ、城中亂れて、八方に落失せたり。主上は城を迷ひ出給ひ、山城國多賀郡まで落させ給ひけるを、深須(みすの)入道、松井〔の〕藏人、御輿(みこし)を奉り、南都の内山へ入れ奉る。其より宇治の平等院に成(な)し參らせ、關東の兩大將、主上を守護して、白晝に六波羅へぞ成し奉りける。大塔宮は十津川の邊に落隱(おちかく)れ給ふ。一〔の〕宮尊良親王以下の皇子(わうじ)、藤房、季房等の近臣は、皆、悉く捕(とらは)れ給ひ、敵の手に渡され、諸大名に一人づつ預置(あづけお)きたり。同九月に光嚴院(くわうごんゐん)を天子の位に卽(つ)け奉る。この君、御諱(いみな)をば量仁(かずひとの)親王とぞ申しける。後伏見院第一の皇子、御母は西園寺左大臣公衡(きんひら)公の御娘、廣義門院とぞ申しける。先帝後醍醐御卽位の後、關東より計(はから)ひて、東宮に立て參らせけり。今、卽位に即(つ)き給ひしが、御在位二年にして、正慶(しやうきやう)二年六月に、後醍醐帝、二度(ふたたび)、都に入り給ひ、復位ありける時に、又、御位を下居(おりゐ)させ給ひけり。一榮(えい)一枯(こ)、誠に定(さだめ)なき浮世の有樣、貴賤、皆、斯の如し。

[やぶちゃん注:標題の「楠旌を擧ぐ」は「くすのき、はたをあぐ」と読む。湯浅佳子「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、これ以降、最後まで、筆者は本格的に参考底本のメインを「太平記」に置いているとあり、本項は「太平記」巻第二の七項目の「天下怪異(けいの)事」から巻第四の最後(七項目)の「備後三郎高德(たかのりが)事 付 呉越(ご・ゑつ)軍(いくさの)事」

が利用されているとある。なお、本書では語られていないが、この「元弘の乱」が未然に発覚したのは、実は後醍醐帝の側近であった吉田定房(「渡邊右衞門尉 竝 越智四郎叛逆」に既注)が後醍醐のことを慮って六波羅探題に倒幕計画を密告したためである。

「笠置」現在の京都府相楽郡笠置町にある標高二百八十八メートルの笠置山。ここ(グーグル・マップ・データ)。山上を境内地とする真言宗鹿鷺山(しかさぎさん)笠置寺(かさぎでら)がある。

「師賢」花山院(藤原)師賢((正安三(一三〇一)年~正慶元/元弘二(一三三二)年)は花山院師信の子。参議・権中納言を経て、大納言となる。「元弘の乱」では後醍醐天皇の身代わりとなって比叡山に登ったが、発覚、笠置で幕府方に捕らえられて出家、後に下総の千葉貞胤にお預けとなり、三十二で病死した。先の「後醍醐帝御謀叛」に既出既注。

「楠」楠正成(?~延元元/建武三(一三三六)年)。この元弘元/元徳三(一三三一)年に後醍醐天皇の召しに応じ、笠置山の行在所に参向、河内赤坂城にて挙兵し、六波羅勢の攻撃を防いだが、落城。翌年、千早城を築いて籠城し、幕府軍の猛攻に耐え、諸国の反幕勢力の挙兵を促した。建武中興の際その功により、河内・和泉の守護及び河内の国守に任ぜられた。建武二 (一三三五)年に足利尊氏が中興政府に反旗を翻すと、新田義貞らとともにこれを討ち、一旦は撃退したが、翌年、尊氏が九州から大軍を率いて攻め上った際、摂津湊川にこれを迎撃して敗死した(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。実は三つ前の「渡邊右衞門尉 竝 越智四郎叛逆」で、鎌倉幕府の命によって、渡邊右衞門尉一党の反乱、安田荘司の謀反を鎮定した人物としてさりげなく既に登場している。実は近年では一部の歴史家によっては彼は本来は北条得宗被官で、鎌倉幕府御家人であったとする説も有力な一説となっている(詳しくはウィキの「楠正成」を見られたい)。

「旌」単に「旗」の意でも用いるが、ここは旗竿のさきに旄(ぼう)という旗飾りを附け、これに鳥の羽などを垂らした旗で、天子が士気を鼓舞するのに用いた正規の勅許を得た官軍のシンボルとしてのそれを指す。

「關東の使、兩人」増淵勝一氏は『陸奥守北条』(大仏)『貞直ら』とされるが、これは翌九月の鎮圧部隊であって(他に江馬越前入道時見・金沢貞冬・足利高氏(後の尊氏)ら)、違う。諸資料では錯綜しているが、事実上の東使は後醍醐帝の内裏脱出(同年八月二十四日夜。本文の「二十二日の夜」は誤り)の後の九月十八日に着いた安達高景・二階堂道蘊(どううん)であろう。諸資料に載る八月二十二日東使到着というのは、実は「太平記」の記載を無批判に受け入れたもので、一次史料にそれを裏付けるものはない(ここは岡見正雄校注「太平記(一)」(昭和五〇(一九七五)年角川文庫刊)に拠った)。

『「是、主上を遠島に移し、大塔宮を斬罪に行ひ奉らん爲なり」と聞えたり』という風聞が倒幕準備のためにそこにいた(彼はこれまでに二度、天台座主に就任していた)大塔宮護良(もりなが)親王のいた比叡山に伝わったのである。

「石室(いはや)」笠置寺には岩盤を刳り抜いた道場がある。無論、後に出る通り、別に行在所はじきに造られた。

「萬里小路中納言藤房」(?~永仁四(一二九六)年)「萬里小路」は「までのこうじ」(現代仮名遣)と読む。非常に詳しいウィキの「万里小路藤房」から引く。『公卿。大納言万里小路宣房の一男。後醍醐天皇の側近として倒幕運動に参画し、建武政権では要職を担ったが、政権に失望して出家した。藤原藤房とも言う』。『江戸時代の儒学者安東省菴によって、平重盛・楠木正成とともに日本三忠臣の』一『人に数えられている』。文保二(一三一八)年二月の『後醍醐天皇践祚に際して、蔵人に補任。以後、弁官として累進し、中宮亮・記録所寄人・相模権守などを兼ねる』。元亨三(一三二三)年一月、『蔵人頭に補されたが、同年に弟季房も弁官となったため』、『「兄弟弁官例」と称された』。同四年四月、『参議に任じられて公卿に列し』、正中三(一三二六)年春、従三位・権中納言に叙任』、その後、『左兵衛督・検非違使別当を兼ね』、元弘元/元徳三(一三三一)年、『中納言に転正し、正二位に叙された』。しかし、『同年』、『天皇の倒幕計画が露見したため(元弘の変)』、この八月、『四条隆資・北畠具行とともに天皇に供奉して笠置へ逃れた。行在所では、天皇が夢告により』、『楠木正成を召し出した時、その勅使を務めたという』。一『か月に及ぶ幕府軍との攻防の末』、九月二十八日に『笠置が陥落し、藤房は天皇を助けて敗走するも、翌日』、『有王山で捕捉され』、『すぐに解官』となり、十月、『宇治平等院から六波羅に移送され、武蔵左近大夫将監』『の許へ預けられた』翌年四月、『幕府から遠流の処分が伝えられると』、五月、『京都を発って常陸国に下り、小田治久(高知)の藤沢城に籠居。この間、治久に対する与同勧誘が功を奏したのか、鎌倉幕府滅亡後の』元弘三/正慶二(一三三三)年六月には『治久を伴って上洛し、復官を果たした』。『建武政権下では初め、洞院実世の後任として恩賞方上卿となるが、「忠否ヲ正シ、浅深ヲ分チ」』『公平な処理を行おうとしたところ、内謁により不正に恩賞を獲得する者が多かったため、病と称して辞退したという。ただ』、建武元(一三三四)年五月の『恩賞方改編に際しては三番局(畿内・山陽道・山陰道担当)の頭人に任じられており、この他、雑訴決断所の寄人を務めた。一方、後醍醐天皇に直言を呈することのできた硬骨漢としても知られ、出雲の塩冶高貞から駿馬が献上された際、洞院公賢がこれを吉兆と寿いだのに対し、藤房は凶兆と論じ、以下の点を挙げて政権を指弾したと』される。それは、①『為政者は愁訴を聞き、諫言を奉るべきであるのに、それを怠っていること』、②『恩賞目当てに官軍に属した武士が未だ恩賞に与っていないこと』、③『大内裏造営のために、諸国の地頭に二十分の一税を課したこと』、④『諸国で守護の権威が失墜し、国司・在庁官人らが勢力を振るっていること』、⑤『源頼朝以来の伝統がある御家人の称号を廃止したこと』、⑥『倒幕に軍功があった諸将のうち、赤松円心のみ』、『不当に恩賞が少ないこと』であったとされる。一方で、『藤房は武家の棟梁の出現を危惧し、再三諫言を繰り返すも、天皇に聞き入れられないまま』、同年十月五日、『岩倉で出家。天皇は慌てて宣房に命じて藤房を召還させたが、既に行方を晦ましていたため、再会は叶わなかったという。その後の消息は不明で、相国寺に住したと伝える』『他、各地に伝承が散見する』という。

「同舍弟季房」万里小路季房(?~元弘三(一三三三)年)は公卿で前の藤房の弟。ウィキの「万里小路季房」によれば、『子は仲房。季房は後醍醐天皇の倒幕運動に関わったが、子の仲房は北朝に仕え、万里小路家は北朝政権と足利将軍家で重きをなしていくことになる』(以下、任官が細かに記されるが省略する)。元徳二(一三三〇)年四月七日に『参議に任ぜられ』たが、『間もなく、元弘の乱に関わって』元弘元(一三三一)年十月五日に『参議を辞し』、同月十六日『には出家し』、その翌十七日、『武家に出頭し』で『幕府に捕縛され』、『その後、常陸に流罪とな』り、元弘三(一三三三)年五月二十日、『配所で殺された』(「東勝寺合戦」によって鎌倉幕府が亡ぶ二日前である)。『兄の藤房は京都に帰還できたが、季房のみが殺され』、『父宣房と母が嘆き悲しんだと『増鏡』にも記述がある』とある。

「源中納言具行(ともゆき)」北畠具行(正応三(一二九〇)年~正慶元/元弘二(一三三二)年)は公卿。村上源氏北畠家庶流の北畠師行の次男。ウィキの「北畠具行より引く。『北畠家初代の北畠雅家の孫にあたり、北畠宗家』四『代目の北畠親房は具行の従兄弟違(従兄弟の子供)にあたる。親房と共に後醍醐天皇に仕えて、従二位権中納言に昇進する。和歌にも優れており、「君の恩寵も深かりき」と評される程の側近となった。また、親房が世良親王急死の責任を取って出家すると、宗家は幼少の顕家が継いだために、具行はその後見人となった』。元弘元(一三三一)年、『後醍醐天皇が倒幕計画を立てると、具行も中心的存在の一人となる。このときの計画は失敗したため、具行も鎌倉幕府軍に捕えられた(元弘の変)』翌年、『京極高氏(佐々木道誉)により』、『鎌倉へ護送される途中、幕府の命により近江国柏原(現在の滋賀県米原市)で処刑された』。『「ばさら」と呼ばれた道誉は、公家である具行の事を嫌悪していたが、死に臨んでの具行の態度に道誉も感服し、柏原宿の徳源院に一ヶ月ほど留め、幕府に対して助命を嘆願したが』、『叶わず、その別れを惜しんだと伝』え、六月十八日『夜、二人は暫く談笑し、翌』十九日、『具行は剃髪後に処刑されたが、処刑前に道誉に対し、丁重な扱いに感謝の言葉を述べたと伝わる』。『「増鏡」によれば、辞世の歌は「消えかかる露の命の果ては見つさてもあづまの末ぞゆかしき」』とされる。

「按察(あぜちの)大納言公敏(きんとし)」洞院公敏(とういんきんとし 正応五(一三九二)年~観応三/正平七(一三五二)年)であろう。例のサイト「南北朝列伝」のこちらによれば、妹守子と娘が後醍醐天皇妃となっている。官位は按察使弾正尹・権大納言(正二位)洞院実泰の二男。「増鏡」は「公俊」と表記する。応長元(一三一一)年五月に参議となり、また、『按察使弾正尹に任じられたので「按察(あぜち)大納言」と呼ばれることが多い』『早くから後醍醐天皇に接近していたらしく』、元弘元(一三三一)年八月に『後醍醐が挙兵を決意して京を脱出する時に同行して一緒に笠置山に立てこもった。笠置陥落時に捕えられ』、『直後に出家し「宗肇」と号した。出家しても罪は許されず、小山秀朝に預けられ』、『下野国に流刑となった』(「太平記」は配流先を上総『とする)。「新後拾遺和歌集」に載る「思ひねと知りてもせめて慰むは都にかよふ夢路なりけり」という歌は配流先で詠んだものとされる』。『鎌倉幕府崩壊後に帰京し』、『政界に復帰したが、後醍醐天皇が吉野に入って南朝を開くのには同行しなかった』。『息子の実清は南朝に仕えたとされる』とある。

「六條少將忠顯(たゞあき)」公卿千種忠顕(ちぐさ ただあき ?~延元元/建武三(一三三六)年)。ウィキの「千種忠顕」によれば、『権中納言六条有忠の次男。千種家の祖。官位は従三位参議』。正応三(一二九〇)年当時は、『東宮権大進として胤仁親王(後伏見天皇)に仕えていた』が、『その後は後醍醐天皇の近臣となり、皇太子邦良親王の早期即位を画策する父の六条有忠と敵対した。学問よりも』、『笠懸や犬追物など武芸を好み、淫蕩、博打にかまけていたため』、『父から義絶されている』。この「元弘の乱」の後、後醍醐天皇が隠岐流罪に『処されると、これに随従し』、『翌年、天皇とともに隠岐を脱出』、『伯耆の名和長年を頼り、船上山に挙兵した。頭中将に任じられ、山陰の軍勢を率いて』、『足利高氏や赤松則村らとともに六波羅探題攻めに参戦している他、奥州白河の結城宗広、親朝親子をはじめ』、『各地の豪族に綸旨を飛ばすなど、後醍醐天皇による倒幕運動に寄与した』。『建武の新政では結城親光、楠木正成、名和長年らと』ともに、『権勢を振るった。従三位参議や雑訴決断所寄人となり、佐渡国など』三『ヶ国の国司職と北条氏の旧領』十『ヶ所を拝領したものの、万里小路宣房らとともに出家した』。当時、未だ若年であったと思われる忠顕の『出家は新政への批判が集まる中で』の、『詰め腹を切らされる形となったものと考えられている』。建武二(一三三五)年十一月、『足利尊氏が新政から離反すると』、翌年一月には『新田義貞や北畠顕家らと共にこれを追い、足利勢を九州へ駆逐した』が、同年六月七日、『再び京都へ迫った尊氏の軍と対戦し、山城国愛宕郡西坂本の雲母坂(現在の京都府京都市左京区修学院音羽谷)で足利直義と戦って戦死した』。なお、『建武の新政の功により、後醍醐天皇から莫大な恩賞を得て、忠顕は家臣らとともに日夜酒宴に明け暮れた。宴に集う者は』三百『人を数え、費やされる酒肴の費用は膨大な額に上った。数十間もある厩で肥馬を』五、六十『頭も飼育し、興が乗ると』、『数百騎を従えて』、『上京や北山へ繰り出し』、また、『犬追物や鷹狩に没頭した。狩りの際は豹や虎の皮を装着し、金襴刺繍や絞り染めの直垂を着用していたとされる』とある。

「大納言師賢」既出既注であるが、再掲しておく。花山院(藤原)師賢(正安三(一三〇一)年~正慶元/元弘二(一三三二)年)は花山院師信の子。参議・権中納言を経て、大納言となる。「元弘の乱」では後醍醐天皇の身代わりとなって比叡山に登ったが、発覚、笠置で幕府方に捕らえられて出家、後に下総の千葉貞胤にお預けとなり、三十二で病死した。「大納言師賢は主上の御衣(ぎよい)を賜り、車に乘りて登山(とうざん)して、大衆の心を伺はん、と計られたり」は以上の注でお判り頂けるものと思う。

「四條大納言隆資」(正応五(一二九二)年~文和元/正平七(一三五二)年)は公卿。父は左中将隆実。後醍醐天皇の信任を得た南朝の公卿として知られる。「正中の変」(一三二四年)に関与したが追及を逃れ、嘉暦二(一三二七)年に参議、元徳二(一三三〇)年には権中納言。本「元弘の変」では後醍醐天皇の笠置臨幸に供奉したが、一度、消息を絶ってしまう。しかし、正慶二/元弘三(一三三三)年の後醍醐天皇の帰京に際し、再び、姿を見せ雑訴決断所・恩賞方などに名を連ねた。南北朝分裂後は、天皇とともに吉野に赴いた。文和元/正平七(一三五二)年の男山八幡での足利義詮軍との戦いで戦死した(「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「二條〔の〕中將爲明(ためあきら)」(永仁三(一二九五)年~貞治三(一三六四)年)は公卿で歌人。歌壇の中心人物として活動し、後光厳天皇から「新拾遺和歌集」の撰集を命ぜられたが、撰の途中で死去した。歌は「続千載和歌集」などにある。正三位・権中納言(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

「中院(なかのゐんの)左中將貞平(さだひら)」(生没年不詳)公家で武将。村上源氏。左少将、後に右中将。「太平記」によれば、当初より、後醍醐天皇の鎌倉幕府討伐運動に加わり、同天皇の隠岐配流中は護良親王の側近として、さらに建武新政下では天皇配下の武将として活動。建武三/延元元(一三三六)年五月の「湊川の戦い」で足利軍に敗れた後、同十月河内(大阪府)へ隠れて以降、消息不明である(「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「皇居」行在所(あんざいしょ)。

「山門」比叡山延暦寺を指す。以下が「比叡山合戦」。

「披露」公表。

「坂本」比叡山東麓の、現在の滋賀県大津市坂本ここ(グーグル・マップ・データ)

「松本」現在の大津市内、松本石場附近。ここ(グーグル・マップ・データ)

「戸津(とづ)」現在の『大津市下阪本』(ここ(グーグル・マップ・データ))『の浜の古名』と新潮日本古典集成「太平記 一」(山下宏明校注・昭和五二(一九七七)年刊)の注にある。以下の山下氏注とするのは総てそれに基づく。こちらは「阪本」なので注意が必要

「比叡辻(ひえつじ)」現在の『大津市下阪本比叡辻(ひえつじ)町』(山下氏注)とする。現在の滋賀県大津市比叡辻(下阪本北部分も含むか)であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)

「和爾(わに)」「太平記」の「師賢登山之事 付 唐崎濱合戰之事」では「和仁」。ここは現在の『滋賀郡志賀町内の地名』(山下氏注)とあるが、現在は大津市内の和邇(わに)地区。この附近(グーグル・マップ・データ)

「篝(かゞり)に」洛中の警固所に常駐していた武士に、の意。

「仕出(しいだ)したる事もなし」当の目的である後醍醐天皇(実はここにいないが、いると思って六波羅軍は攻めている)を始めとする謀反一党を捕えることが出来ずにいる。

「赤坂の城」現在の大阪府南河内郡千早赤阪村森屋にあった下赤坂城。の附近(グーグル・マップ・データ)。現在の千早赤阪村役場裏手付近が主郭(本丸)であったらしい。ウィキの「下赤坂城」によれば、『熱湯や二重塀の活用、大木の投下等の奇策』(糞尿を撒いたとも聞く)『を用いて鎌倉幕府軍を翻弄したと伝えられるが、にわか造りの下赤坂城は大軍の攻撃に耐え切れずに落城』(本文の「俄(にはか)の事にて、兵粮(ひやうらう)乏(とぼし)かりければ、叶はずして、正成、竊に城を退きたり」に相当)、『正成は金剛山に潜伏し』、翌元弘二(一三三二)年には、『正成が当城を奪還して再挙兵したものの落城し、楠木軍は上赤坂城・千早城に後退して抗戦を続けた。この千早・赤坂地域の戦いで幕府側を予想以上の苦戦に追い込んだことで、全国的に倒幕の気運が高まったとされる』とある。

「陶山(すやまの)藤三義高」(生没年不詳)は例のサイト「南北朝列伝」のこちらによれば、『笠置山を陥落させた殊勲者』とし、『備中国陶山(現・岡山県笠岡市』金浦『)の武士』で、「太平記」の『巻三には』「陶山藤三(たうざう(とうぞう))義高」『として現れる』。『後醍醐天皇が笠置山に挙兵すると、それを攻める幕府軍に加わって』いた。『笠置山は難攻不落の要害で、幕府の大軍相手に後醍醐方はよく善戦し』、二十『日間以上も抵抗を続けた』が、『陶山義高は同じ備中武士の小宮山次郎と語らって抜け駆けの功名を狙い』、九月二八日の夜、五十人ばかりの『兵を率いて』、『風の中をおして』、『笠置山裏手の絶壁をよじ登り、後醍醐の行在所に火を放って』、『後醍醐方を混乱におとしいれた。この混乱をみて』、『正面から幕府軍も突入』、『笠置山は陥落、後醍醐らは逃亡したが』、『間もなく捕えられた。笠置山が背後の断崖からの奇襲で陥落したことは他資料でも確認できるが、陶山・小見山の名については』「太平記」のみが記しており、確認は不能である、とある。『その後、赤松円心軍が後醍醐側で挙兵して京都を攻めた』際、『「陶山次郎」なる者がこれを破り、その功績によって「備中守」となるが、足利高氏の寝返りによって六波羅探題が攻め落とされ、北条仲時以下』、『探題の一行が近江・番場で集団自決した時に、この陶山次郎も運命を共にしている。これを陶山義高のこととする人も多いが』、「太平記」では別人扱いされているようである、とある。新潮日本古典集成「太平記 一」の山下宏明氏の注によれば、姓は大江氏とする。

「小見山次郎某(なにがし)」新潮日本古典集成「太平記 一」の山下宏明氏の注によれば、『小見山(岡山県井原市)の土豪』とする。

「山城國多賀郡」現在の京都府綴喜(つづき)郡井手町多賀。(グーグル・マップ・データ)

「深須(みすの)入道」新潮日本古典集成「太平記 一」の山下宏明氏の注によれば、『京都市伏見の西、三栖(みす)の土豪』とする。

「松井〔の〕藏人」同じく山下氏の注によれば、『綴喜郡田辺町松井の土豪』とする。

「南都の内山」同じく山下氏の注によれば、『奈良県天理市杣之内(そまのうち)にあった内山永久寺。第五寺の末寺で、修験道(しゅげんどう)の寺』とある。廃仏毀釈によって明治初期に廃寺となった。(グーグル・マップ・データ)

「其より宇治の平等院に成(な)し參らせ」増淵氏の現代語訳には、この平等院に入った日付を『九月三十日』と補足してある。

「關東の兩大將」南都本「太平記」は北条(大仏)貞直と金沢貞将と明記する。これは関東から派遣された謀反討伐軍の大将で他にもいたことは前にも注した。

「十津川」奈良県吉野郡十津川村。奈良県の最南端の山間部。(グーグル・マップ・データ)

「一〔の〕宮尊良親王」(延慶三(一三一〇)年~延元二/建武四(一三三七)年)は後醍醐天皇の皇子で、母は二条為世の娘為子。宗良親王の同母兄。ウィキの「尊良親王」によれば、『幼少時は吉田定房に養育された』。嘉暦元(一三二六)年に『元服し、中務卿に任じられた』。元徳三(一三三一)年一月には『一品に叙任されたことから、一品中務卿親王と称された』。『元弘の乱では父と共に笠置山に赴いたが、敗れて父と共に幕府軍に捕らえられ、土佐国に流された。しかし脱出して翌年には九州に移り、その後、京都に帰還した』建武二(一三三五)年に『足利尊氏が後醍醐天皇に反逆すると、上将軍として新田義貞と共に討伐軍を率いたが、敗退した。翌年、九州に落ちた尊氏が力を盛り返して上洛してくると、義貞と共に北陸に逃れた』。延元二/建武五(一三三七)年一月、『尊良親王が拠った越前国金ヶ崎城に足利軍が攻めて来る(金ヶ崎の戦い)。尊良親王は義貞の子・新田義顕と共に懸命に防戦したが、敵軍の兵糧攻めにあって遂に力尽き』、三月六日、『義顕や他の将兵と共に自害した。自害の寸前、義顕は尊良親王に落ち延びることを勧めたが、尊良親王は同胞たちを見捨てて逃げることはできないと述べて拒絶したという』とある。

「同九月に光嚴院(くわうごんゐん)を天子の位に卽(つ)け奉る」光厳天皇(正和二(一三一三)年~正平一九(一三六四)年)は持明院統の天皇(在位:元弘元年九月二十日(一三三一年十月二十二日)~元弘三年五月二十五日(一三三三年七月七日))。ウィキの「光厳天皇によれば、『後醍醐天皇の失脚を受けて皇位に就いたが、鎌倉幕府の滅亡により復権した後醍醐が』、『自身の廃位と光厳の即位を否定したため、歴代天皇』百二十五『代の内には含まれず、北朝初代として扱われている。ただし、実際には弟の光明天皇が北朝最初の天皇であり、次の崇光天皇と合わせた』二代十五年の『間、光厳上皇は治天(皇室の長)の座にあって院政を行った』とある。建武の親政の失敗以後の事蹟はリンク先を見られたい。

「後伏見院」(弘安一一(一二八八)年~延元元(一三三六)年)。

「西園寺左大臣公衡(きんひら)」

「廣義門院」西園寺寧子(ねいし/やすこ 正応五(一二九二)年~正平一二(一三五七)年)。後伏見上皇の女御で、光厳天皇及びその弟で北朝第二代の光明天皇の実母。参照したウィキの「西園寺寧子によれば、『北朝を存続させるため、事実上の治天の君の座に就き、天皇家の家督者として君臨した。女性で治天の君となったのも、皇室』の出自でないのに『治天の君となったのも、日本史上で』、『広義門院西園寺寧子が唯』一人である、とある。

「正慶(しやうきやう)二年」元弘三年。一三三三年。

「六月」五日。ユリウス暦七月十七日。]

合歓の花と大輪の紫陽花

町内会の「歩けあるけ大会」で戸塚の俣野別邸へ午前中に行ってきた――

誰もいない広い庭園……
(私以外の参加者は年上で同園内のアップダウンを嫌って着いてすぐに解散し帰ったから)

バレーボール大の真っ白な細かな紫陽花――こんなの見たことないよ……

何年振りだろう――大好きな合歓の木のおおきな木に沢山のあの可憐な花が咲いて、折りからちょっとだけ降り出した雨滴が輝いていた……

ちょっと不便なところだけれど、マイ・ガーデンのように暫し堪能したのだった……

2018/06/09

諸國里人談卷之二 石燈籠

 

    ○石燈籠(いしどうろう)

 相摸國小田原の寺に、星霜ふりたる石燈籠一基、藪中(そうちう)にあり。

 元祿年中、當所の天守經營の砌(みぎり)、江戸神田の棟梁北村何某(なにがし)、工ㇾ之(これをたくむ)。よつて、此所に暫く足をとゞむ。

左官棟梁弥三郞といふもの、此とうろを見出し、大棟梁に告(つげ)て云〔いはく〕、

「比類なき異風の燈爐(とうろ)[やぶちゃん注:ママ。]なり。これを得られかし。」

と也。因ㇾ之(これによつて)、住僧にこれを乞(こふ)に、

「迚も、藪中に埋(うづも)れたるもの。いと、心やすし。」

とて、頓(とみ)に附屬したり。

 人々、よろこび、普請小屋に運び入〔いれ〕て、笠(かさ)・火袋(ひぶくろ)・竿(さを)・臺(だい)、ひとつひとつに、箱を調へ、隈々(くまぐま)は藁(わら)を以〔もつて〕損せざるやうに補ひ、菰莚(こもむしろ)を以〔もつて〕箱を覆ひ、荷作りて、舩(ふね)の出(いで)しだいに、江戶へ運送せん事をはかる。

 一夜(あるよ)、下部(しもべ)の者、大熱(だいねつ)して、狂氣のごとく云(いふ)事、皆、燈籠の事なり。

「何ゆへに、吾(われ)が印(しるし)を他國へ送るなる。此事、とゞまらずば、祟(たゝり)あるべし。」

となり。

 人々、驚き急ぎ、元の所へ返してげり。

住僧、問(とう)て云〔いはく〕、

「此とうろ、何ゆへ、用(よう)に立〔たた〕ざるや。」

 よつて、しかじかの事を、かたる。

「扨は。おもひ合(あは)する事あり。以前に、二、三所より、所望のありて送りけるに、五、三日經(へ)て、たゞ何となく、返しぬ。しだいを聞(きか)ざれば、何心なく過(すぎ)たり。さだめて、いかめしき人の印(しるし)ならんと、その後はいづれにも送らず、今にあり。」

とぞ。【寺號、追可ㇾ考(おつてかんがふべし)。】

 墳(つち)に樹(き)を栽(うえ)、五輪石塔(ごりんせきたう)を立〔たつ〕るは、其霊を、これにとゞむるの理(ことわり)あり。此燈籠も巫石(みこいし)・殺生石(せつしやうせき)のごとく、其精灵(せいれい)、とゞまりけるにや。

[やぶちゃん注:直接話法が多いので読み易さを考えて特異的に改行させた。

「元祿年中」一六八八年~一七〇四年。

「當所の天守經營」小田原城天守閣。当時の城主は相模国小田原藩第二代藩主大久保忠増であったが、この元禄十六年十一月二十三日午前二時頃(一七〇三年十二月三十一日)に発生した南関東駿豆(すんず)地震(推定マグニチュード八・二。因みに、この地震は諸要素から関東震災とよく似た地震とされる)によって、小田原城は石垣が崩れ、天守等が類焼しているから、この時の火災損傷の修理と考えられる(なお、この時の損壊の全修復が終わるのは宝永三(一七〇六)年であった)。

「迚も」どうせ。所詮。

「頓(とみ)に」すぐに。

「附屬」ここは「授け与えること」の意。

「火袋(ひぶくろ)」灯籠は上から「宝珠」・「笠(かさ)」ときて、火を灯すところの「火袋」、以下、「中台(ちゅうだい)」(普通は仏像と同様に下部に蓮の花を模した「受花(うけばな)」(単弁)が附属する)を経て、支えとなる柱の部分である「竿」(さお)、最下部が「台座」(上から「反花(かえりばな)」(複弁)と「格狭間(ごうざま)」(通常は六角形)から成る「基礎」で、地面に接する部分は別に「基壇」と呼ぶ)と、それぞれ呼称する。

「菰莚(こもむしろ)」マコモ(被子植物門単子葉植物綱イネ目イネ科エールハルタ亜科Ehrhartoideaeイネ族マコモ属マコモ Zizania latifoliaの葉を編んで作ったむしろ。

「送るなる」強い不満感を余韻として表わすための推定の助動詞「なり」の連体中止法。

「用(よう)に立〔たた〕ざるや。」「切に願って貰い受けたはずのものが、どうして役に立たなかったのか?」。

「いかめしき人」恐れ多くも厳粛なるそれなりの人物。

「印(しるし)」記念の品。或いは記念としてその謂われある場所(現在あるところの藪の中)に建てられたもの。

「その後はいづれにも送らず、今にあり」こら! 坊さん! それを譲る時に先に言わんかい! ど阿呆!!!

「寺號、追可ㇾ考(おつてかんがふべし)。」「寺の名は今は判らない。追って調べておこうと思う。」の意。これで終わっていて、追記がないところをみると、遂に寺の名は判らなかったということである。一応、調べてはみたが、現在の小田原にそのような奇怪な灯籠は見当たらない。それらしいものを御存じの方は、是非、御教授あられたい。

「墳(つち)」墓。

「巫石(みこいし)」既出石」参照。

「殺生石(せつしやうせき)」既出殺生石」参照。

「精灵(せいれい)」「㚑」は「靈」の異体字。]

諸國里人談卷之二 殺生石

 

    ○殺生石(せつしやうせき)

下野國那須野にあり。方五間ばかりに、垣を圍む。毒石也。人、此石に觸(ふる)れば、則(すなはち)、死す。又、虫を捉(とらへ)て石上(せきしやう)に置(おか)ば、立所(たち〔どころ〕)に死すなり。此石の傍(かたはら)に小流(こながれ)あり。那可(なか)川といふ川へ落(おつ)るなり。此川を渡る人、水に溺(おぼれ)て死するもの、年々、あり。彼(かの)流(ながれ)の毒氣(どくき)にあたるゆへなりといふ。野干(やかん)玉藻が精靈(せいれい)、石と成り、玄翁(げんわう)和尚教化(きやうげ)の事、世の人の耳にとゞまる所也。砒石(ひせき)の類ひ、毒ある石は、まゝある事也。奧州會津の盤大(ばんだい)山にも毒石あつて、これに觸(ふる)る禽獸、皆、死(しす)といへり。一書、云〔はく〕、「野干の此石に成〔なり〕たるといふは甚(はなはだ)妄説也。」と云〔いふ〕。然(しか)れども、望夫石のごとく、人の精靈、石に成たるためしあれば、巫石(みこいし)・牛石(うしいし)・野干石(やかんせき)、あるまじきもあらず。

[やぶちゃん注:「殺生石」は現在の栃木県那須町の那須湯本温泉付近にある溶岩地帯で、硫化水素や亜硫酸ガスなどの火山性有毒ガスを噴出している。(グーグル・マップ・データ)。私は五年前の十月、目の前まで行きながら、連れの妻が足が悪いため、遂に見ずに去った。以下の「鹿の湯」を含め、僕と妻の那須路弥次喜多道中記を参照されたい。

「下野國那須野」那須ヶ原は狭義には現在の栃木県北部の那珂川(なかがわ)と箒(ほうき)川に挟まれた扇状地を指すが、殺生石はその北方で、ここは広く現在の那須高原域まで含んだ総称。

「方五間」九メートル九センチ四方。

「小流」湯川。低温から高温まで現在は男湯で六種の温度が配された強い硫黄泉「鹿の湯」で知られる。前の私の僕と妻の那須路弥次喜多道中記を参照されたい。

「野干(やかん)」「射干」とも書く。元来は中国に於ける想像上の悪獣の名で、狐に似た外見を成し、木登りが上手、狼に似た吠え方をするというが、本邦では狐(或いは妖狐)の別称として用いられる。

「玉藻」妖狐のチャンピオン。寵妃玉藻前(たまものまえ)に変じて鳥羽天皇を惑わし、下野国那須野原(現在の栃木県北部の那須町付近)で退治されて殺生石に変じた九尾狐。ウィキの「玉藻前」によれば、帝の病いの元凶を『陰陽師・安倍泰成(安倍泰親、安倍晴明とも)が玉藻前の仕業と見抜』き、『安倍が真言を唱えた事で玉藻前は変身を解かれ、白面金毛九尾の狐の姿で宮中を脱走し、行方を眩ました』。『その後、那須野(現在の栃木県那須郡周辺)で婦女子をさらうなどの行為が宮中へ伝わり、鳥羽上皇はかねてからの那須野領主須藤権守貞信の要請に応え、討伐軍を編成』、『三浦介義明、千葉介常胤、上総介広常を将軍に、陰陽師・安部泰成を軍師に任命し』、八万余りもの『軍勢を那須野へと派遣した』。『那須野で、既に九尾の狐と化した玉藻前を発見した討伐軍は』直ちに、『攻撃を仕掛けたが、九尾の狐の術などによって多くの戦力を失い、失敗に終わった。三浦介と上総介をはじめとする将兵は犬の尾を狐に見立てた犬追物で騎射を訓練し、再び攻撃を開始』、『対策を十分に練ったため、討伐軍は次第に九尾の狐を追い込んでいった。九尾の狐は貞信の夢に娘の姿で現れ許しを願ったが、貞信はこれを狐が弱っていると読み、最後の攻勢に出た。そして三浦介が放った二つの矢が脇腹と首筋を貫き、上総介の長刀が斬りつけたことで、九尾の狐は息絶えた』。しかし、『九尾の狐はその直後、巨大な毒石に変化し、近づく人間や動物等の命を奪った。そのため』、『村人は後にこの毒石を『殺生石』と名付けた。この殺生石は鳥羽上皇の死後も存在し、周囲の村人たちを恐れさせた。鎮魂のためにやって来た多くの高僧ですら、その毒気に次々と倒れたといわれている。南北朝時代、会津の元現寺を開いた玄翁和尚が殺生石を破壊し、破壊された殺生石は各地へと飛散したと伝わる』とある。

「玄翁(げんわう)和尚」源翁心昭(げんのうしんしょう 嘉暦四(一三二九)年~応永七(一四〇〇)年)は南北朝時代の曹洞宗の僧。ウィキの「源翁心昭によれば、『越後国の出身。号は空外』。『初め』、『越後国国上寺で出家したが』、十八『歳で曹洞宗に改宗し』、『總持寺の峨山韶碩に入門した』。『その後』、『伯耆国に退休寺を開創し、出羽国の永泉寺・下野国の泉渓寺などの住持となった』。建徳二/応安四(一三七一)年に『結城氏の招きにより』、『下総国に安隠寺を開創し』、その四年後には『陸奥国会津に赴き、真言宗の慈眼寺を曹洞宗に改宗して示現寺と改めている』。茨城県結城市に墓所がある』。『殺生石を退治する逸話は有名であり、大きな金槌の玄能・玄翁(げんのう)の由来となった。伝承によれば、玄翁が殺生石を退治したのは』至徳二(一三八五)年八月『のことであるという。この功績により翌年、後小松天皇より法王能昭禅師の号を賜ったという』。『この他、自らの因縁に苦しむ毒龍に引導を渡し』、『成仏させたという伝承もある』とある。なお、新編鎌倉志四」の「海藏寺」に「開山源翁禪師傳」(漢文)があり、私が訓読したものも附してある(簡単な注も附けてある)ので、興味のある方はお読みになられんことをお勧めする。しかし、ちょっと読めばそこには極端な時代錯誤が散見されるから、実録としては機能しないものである。「スピリッチャル・パワード・玄能」というアイテムを握った「ゴースト・バスター玄翁和尚」の、凡そ荒唐無稽な伝承として書かれている。これは、一説に、この源翁が知られた源翁心昭とは実は別人とも目される所以でもあるのであろうと私は思っている。

「教化(きやうげ)」ここは本来の意味よりも退治・調伏のニュアンスで使っていて、あまり正しい使用法とは思われない。

「砒石(ひせき)」主に砒素を含む有毒の鉱物。砒霜石。

「奧州會津の盤大(ばんだい)山」磐梯山。

「巫石(みこいし)・牛石(うしいし)」参照

「あるまじきもあらず」菊岡沾涼がこうした化生説(江戸時代の奥医師や一家を成した知られた本草学者でも信じている者は有意に多かったから、必ずしも不思議ではない)を始めとして、本書に語られるような種々の怪異を大真面目に信じていたことがよく判る。]

諸國里人談卷之二 巫石

 

    ○巫石(みこいし)

 

下野(しもつけ)國、日光山中禪寺に、巫石・牛石(うしいし)あり。男躰山(なんたいさん)は女人結界(〔によにん〕けつかい)の所なり。相傳ふ、當所(たうしよの)巫(みこ)、登山せん事を欲す。「我、神につかふ身なれば、平性(よのつね)の女には異(こと)なり。何ぞ、其祟(たたり)あらんや。しかし、自(みづから)その土を蹈(ふま)ば罪あるベし。牛は優(ゆう)にして嶮岨を步むに理(ことわり)あり。」と、牛に乘(のり)て、禪鏡坊谷まで至るに、その牛、立僵直(たちすくみ)て死す。巫(みこ)、これを罵詈(のゝしる)。牛、たちまち、石と化す。己(をのれ[やぶちゃん注:ママ。])も又、同じく、石と成〔なり〕て、今にその形を殘すと、いひつたへたり。○「左傳」云、『昔貞婦。其夫從ㇾ役、遠国難弱子。立望ㇾ夫而化シテㇾ石。因爲ㇾ名。○「幽明錄」云、『武昌北山望夫石。』。

[やぶちゃん注:明治五(一八七二)年まで、御神体である男体山と、その麓の中禅寺湖畔まで総て(現在の二荒山(ふたらさん)神社の狭義の御神体としての「山内」の結界境内地内というべきか)が女人禁制・牛馬禁制の聖域であった。女性は女人堂(ここ(グーグル・マップ・データ))まで、牛馬はそこから東南下方に二キロほど下った位置にあった「馬返し」(グーグル・マップ・データ)までしか立ち入ることは出来なかった(『日光紹介サイト「大好き!日光」』の「巫女石」に拠った(リンク先には巫石や女人堂の写真も有る。因みに、現在、女人堂は女人だけでなく、男性でも「登る」ことが出来ない。ここは現在の「第一いろは坂」の途中に位置するが、この道は「下り専用ライン」となっているからである。文明が強制した新たな結界とも言えよう)。現在、「巫女石(みこいし)」(現行の表記。「巫(ふ・かみなぎ(かんなぎ))」は「巫覡(ふげき)」とも称し、神を祀って、神に奉仕し、時に神意を世の人々に伝えることを役割とする人々を指すが、古式では女性(シャーマンとしては女が原型であろう)は「巫」で「みこ・めかんなぎ」、男性の場合は「覡」で「げき・をかんなぎ」或いは「祝(ほうり)」などと呼称した)と称するものはここ(グーグル・マップ・データ。中禅寺湖東端岸にある国道百二十号に架かる二荒山神社奥宮の大鳥居の向かって右手の少し高い路傍)にあり、一方の「牛石」と称するものはここ(グーグル・マップ・データの中央位置。ストリートビューで離れているが、視認出来る。二荒山神社奥宮の本参道の鳥居の手前右手の「男体山頂奥宮登拝口」の石碑の前に当たる)に現存する。但し、少なくとも、後者は沾涼が見たものとは異なるものである。個人ブログ「志/源光」の「日光巡り~中禅寺湖~二荒山神社鳥居付近編~」に画像入りで、牛石の記事が載り、そこにある説明板に『この石は付近での道路工事の際に出土したもので』、『かつてこの付近にあった「牛石」の一部ではないかと、いわれているもの』とあるからである。同じのブログには『日光巡り~巫女石・日光山 総本堂「三仏堂」編~」⑵』があり、そこでは「巫女石」が写真入りで紹介されてある。そこには日光教育委員会の説明版の写真が掲げられてあり、それによれば、巫女は稚児(男児)姿に変装して、この中禅寺湖湖畔の大尻(中禅寺湖から華厳の滝までを大尻(おおじり)川と称し、それ以降は大谷(だいや)川となって鬼怒川に合流している。ここは先の現在の牛石のある「男体山頂奥宮登拝口」からは実測で七百五十メートル離れている。そもそもが先に石になったはずなのに、牛石の方がここより先の男体山頂奥宮入口直近にあるというのは、伝承に相応しくないではないか。そういう意味でもこの牛石は伝承上からは真っ赤な偽物と断ずるべきものである)まで登って来られたが、遂にそこで『女性であることが露見し、神罰により石に変えられてしまったという伝説による石であ』ると記されており(これは「露見」したのは人の目にであり、神があたらここまで登って来るのを見抜けなかったというのは如何にも神らしくないボケであって、この女人登攀の事実があったならば(女人禁制の場所では事実、しばしばこうした侵犯事件があったことは事実記録として残っている)、神罰によって石にされたというのは実は人々によって神域を犯した罰として殺害されたことの比喩であろうと私には思われる)さらに『また、この巫女石は享禄』五(一五三二)年『の日光山権現因縁位縁起には「児石」(ちごいし)とあるのが最古の記録で、天保』八(一八三七)年の『日光山誌には「巫女石」と明記されてい』るとある(本「諸國里人談」は寛保三(一七四三)年刊)。

「優(ゆう)にして」運動性能に優れていて。

「禪鏡坊谷」不詳。閲覧可能で細部視認可能な古地図も調べたが、判らない。一つ気になるのは、現在、「巫女石」のある位置は谷ではないこと、ここから二荒山神社奥宮入口までは中禅寺湖湖畔のフラットな道しかないこと、その北側は男体山の南麓であるが、深い谷上の箇所はないことなどから考えると、この「禪鏡坊谷」は先に行った二荒山神社奥宮の男体山登攀口附近の谷間か、或いは逆に、華厳の滝よりも手前の谷かでなくてはならぬ。

「立僵直(たちすくみ)て」三字へのルビ。「僵」(音「キヤウ(キョウ)」)は「斃(たふ)れる」で、本来は「仰(の)け反(ぞ)って倒れる・仰向けにひっくり返る」の意であるが、現代中国語では「面(おもて)を改める・表情をひきしめる」「活動していないさま・膠着状態にあるさま・二進(にっち)も三進(さっっち)も行かない」「硬直した・こわばった」の意味を持ち、本来は別字である「殭」と通じて、本邦では広く「斃(たお)れて(死ぬ)こと」「仮死状態」にあるの意で用いる例を見るから、ここは四肢を直立させて立ったそのままに直ちに即死したことを指す。

「罵詈(のゝしる)」二字へのルビ。

「左傳」「春秋左氏傳」。孔子の編纂と伝えられる五経の一つである史書「春秋」の代表的な三つの注釈書の一つ(他は「春秋公羊(くよう)傳」「春秋穀梁傳」)。紀元前七百年頃から凡そ二百五十年もの間の歴史が記されている。伝統的には孔子と同時代の魯の太史左丘明の注釈とされるが、怪しい。但し、以下は同書の引用ではなく、後に記す「幽明錄」の記載であって、冒頭は以下に示す通り、「左傳」ではなくて「相傳」である。恐らく、「左」は沾涼自身が「相」の字の崩し字を読み違えたものと考える。にしてもその冒頭をわざわざ切り離して後に附すというのは、仕儀として訳が判らないから(こんなことはオオボケで通常の感覚では成し得ないことである)、或いはこの部分は、誰かが誤って書いたものを無批判にそのまま引用してしまったものかも知れない。されば、このままでは混乱のもとであるので、以下に、

「幽明錄」の当該箇所を頭に完全正字(引用元は中文サイト。所持する諸本で校合した)

で示し、訓読は、

Ⅰで「諸國里人談」のそれを沾涼の提示した(一部に不審がある)漢文をその訓点に従って示したもの

を示した。そこでは、一部の送り仮名は〔 〕を付けずに附した。但し、「爲(な)る」の「な」と「爲(す)」の読みは、沾涼がカタカナで附したものである。そして次の、

Ⅱでは私が改めて訓読し直したもの

を掲げおく。

   *

○「幽明錄」原文

武昌陽新縣北山上有望夫石。狀、若人立者。相傳、昔、有貞婦、其夫從役、遠赴國難。婦攜弱子、餞送此山。立望夫而化爲立石、因以爲名焉。

   *

Ⅰ(沾涼提示の漢文『昔貞婦。其夫從ㇾ役、遠国難弱子。立望ㇾ夫而化シテㇾ石。因爲ㇾ名。』の訓読版)

 昔し、貞婦、有り。其の夫、役により、遠く、国難に赴く。弱子をへて、餞し、此の山に送る。立ちて、夫を望みて、化して、石と爲(な)る。因て以て名と爲(す)。

Ⅱ(私の「幽明錄」訓読版)

武昌(ぶしやう)新縣(しんけん)の北山(ほくさん)の上に「望夫石」有り。狀(じやう)、人の立つるがごときなり。相ひ傳ふ、「昔(むかし)、貞婦(ていふ)有り、其の夫(をつと)、役(えき)に從ひ、遠く國難(こくなん)に赴(おもむ)く。婦(つま)、弱子(をさなご)を攜(たづさ)へ、此の山にて餞送(せんさう)す。立ちて夫を望み、而して化し、立石(りつせき)と爲(な)る。因りて以つて名と爲(す)。

   *

「餞送」は酒や料理を揃えて酒宴設け、人を見送る(餞別する)こと。なお、もうお判りと思うが、これは中国で発し、本邦でも各地で見られる望夫石(ぼうふせき)伝承の古形である。本話の神罰による石化の怪奇談の参考添え書きとしては、私は何だか、ピント外れだよ、とツッコミたくなる。]

2018/06/08

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 アマタイ (アカアマダイ? イラ?)

 

アマダイ

 

Akaamdai2

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像上下左右をトリミングして、合成して(画像は魚体が分断されてしまっているため)用いた。キャプションは虫食いで見難くなっているが、尾鰭の付け根の下方に書かれてある。これを見なければ、思うに、他の種を考えた気がする。まずは既出の、

スズキ目スズキ亜目アマダイ科アマダイ属アカアマダイ Branchiostegus japonicus

を候補として挙げておくが、どうも何か、「違う」という私の中の呟きが聴こえる。その内心の声は、実は或いは、

スズキ目ベラ亜目ベラ科タキベラ亜科イラ属イラ Choerodon azurio

ではないか? と聴こえるのだ。これは次の形酷似の色違いの魚図で再考したい。

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 タイ (マダイ)

 

タイ

 

Tai

 

[やぶちゃん注:キャプションは右上。虫食いがあるが、読める。国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いた。背鰭と尻鰭の前方の棘条数(マダイはが違う(マダイの背鰭の棘条は十二本で後に軟条が十連なり、尻鰭も似たように棘条が三本で、後に軟条が八ある)のが気になるが、既に述べた通り、丹洲の図はそうした部分で必ずしも正確でないから、これを捉えて、他種を考える意欲が湧かない。連発で、

スズキ目スズキ亜目タイ科マダイ亜科マダイ属マダイ Pagrus major

とする。]

大和本草卷之八 草之四 水松(ミル)

 

水松 本草陶弘景曰狀如松采而可食頌曰生海

 水中順和名抄云水松如松而無葉和名美流

 又曰海松○性寒虛冷人不可食石花菜ヲミルト

 訓スルハ恐クハ非ナラン

 

○やぶちゃんの書き下し文

「水松(ミル)」 「本草」、『陶弘景曰はく、狀〔かたち〕、松のごとし。采〔(と)〕りて食ふべし。頌〔(しよう)〕曰はく、海水の中に生ず。」』〔と〕。順「和名抄」に云はく、『水松、松のごとくして、葉、無し。和名「美流(ミル)」、又、曰はく「海松」。』〔と〕。○性、寒。虛冷の人、食ふべからず。「石花菜」を「ミル」と訓ずるは、恐〔ら〕くは、非ならん。

 

[やぶちゃん注:緑藻植物門アオサ藻綱イワズタ目ミル科ミル属ミル Codium fragile。田中次郎著「日本の海藻 基本284」(二〇〇四年平凡社刊)によれば、属名は「羊毛状の」、種小名は「脆(もろ)い」。『本種は世界的に広く分布』し、直径五ミリメートルほどの『円柱状の枝が規則正しく二叉分枝をして、全体の形がマツの木のように末広がりになる』。『ビロードのような手触りで』、本邦では「万葉集」にも『ミルを題材にした歌が詠まれており、古代からよく知られている海藻である。日本固有の色に海松色とあるのは、この種の深緑色のことを指す』。『現在、一般的な食材とはいえないが、古くは献納品として朝廷などに供せられた。湯通しして酢の物や和え物にして食す。さらに淡水に浸して色を抜き、乾燥か塩蔵して保存する。韓国ではキムチを作る際に混ぜる食材である』とある。宮下章著「ものと人間の文化史 11・海藻」(一九七四年法政大学出版局刊)の「第二章 古代人の海藻」の「海松(ミル・ミルメ)」によれば、『ノリとならんで、伊勢神官では最も重視された海藻神饌である。延喜式によれば、ミルの貢納地は、伊勢神官と出雲大社の周辺の国々である。現存する数少ない風土記である、出雲、常陸、肥前の三カ国風土記も、申し合わせたようにこれをノリ、コルモハとともに海藻の三大重要産物としている。おそらく先史時代から大切にされたものに相違ないが、古代にもその貢納価値は第四位の高位にあった』。『支配階級にことのほか愛されたのは、その淡味もさることながら、詩歌管弦に明け暮れ、風雅な日々を送る余裕のあった彼等にとっては、その形状と美しい鮮線色に芸術が感じられたからではなかろうか。ミルを題材にした詩歌文学は、海藻中では最も多い』とされ、「万葉集」の「巻第二」の柿本人麻呂の妻恋いの長歌(一三五番。以下、「万葉集」和歌の一部は私がオリジナルに示したもので(参考底本は中西進氏の講談社文庫版)、宮下氏の表記とは一致しないことをお断りしておく)、

   *

つのさはふ 石見の海の 言(こと)さへく 韓(から)の崎なる 海石(いくり)にそ 深海松(ふかみる)生(お)ふる 荒磯(ありそ)にそ 玉藻は生ふる 玉藻なす 靡(なび)き寐し兒[やぶちゃん注:妻を指す。]を 深海松の 深めて思へど さ寐し夜は いくだもあらず 這ふ蔦の 別れし來れば 肝(きも)向かふ 心を痛み 思ひつつ かへり見すれど 大船の 渡りの山の 黃葉(もみちば)の 散りの亂(まが)ひに 妹が袖 さやにも見えず 嬬隱(つまごも)る 屋上(やがみ)の山の 雲間より 渡らふ月の 惜しけども 隱(かく)ろひ來れば[やぶちゃん注:妻のいる故里は見えなくなってしまったので。] 天(あま)つたふ 入日(いりひ)さしぬれ 丈夫(ますらを)と 思へるわれも 敷栲(しきたへ)の 衣(ころも)の袖は 通りて濡れぬ

   *

の一部を引かれ、次に巻第十三の「相聞歌」の一首(三三〇一番)、

   *

神風(かむかぜ)の 伊勢の海の 朝凪ぎに 來寄る深海松(ふかみる) 夕凪ぎに來寄る俣海松(またみる) 深海松の 深めしわれを 俣海松の 復(また)往き還り 妻と言はじか 思はせる君

   *

の一部、さらに知られた卷第五に載る山上憶良の「貧窮問答歌」から、以下の引かれ、

……綿も無き 布肩衣(ぬのかたぎぬ)の海松(みる)の如(ごと) わわけさがれる……

『とあるが、この方は綿も入っていないぼろ切れのような肩衣(かたぎぬ)の表現に、干しミルのしなびて見るも哀れな様子が使われたのだから、あまり賞められたものではない』と附言されている。続いて、『ミルメを「見る限」にかけて平安朝の美女、小野小町は、

   みるめ刈る蜑(あま)の往き来の湊路は

      勿来(なこそ)の関もわが末なくに

と歌っている。古今集には、

   伊勢のあまの朝な夕なに潜くてう

      みるめに人を飽く由もがな

がある。鮮緑色を歌ったのには古今集に、

   この頃の南の風に濃きみるの

      ようよう涼しあしのやの里  定家

がある』と引かれる。小町の歌は「新勅撰和歌集」(六五二番。前書は「題しらず」)の形で、「小町集」では、

   對面しぬべくやとあれば

 みるめかる海人の行きかふ湊路(みなとぢ)になこその關も我はすゑぬを

であり、お逢いしないと決めたわけでもありませんという含みを持ったもの。二首目は、「古今和歌集」の巻十四「戀歌四」にあるもので(六八三番。「よみ人しらず」)

 伊勢の海人(あま)の朝な夕なに潛(かづ)くてふみるめに人を飽(あ)く由もがな

で、上の句は「みるめ」の序詞で海松を引き出し、「逢う」の意の「見る目」を掛けて転じたもの。定家のそれは、「拾遺愚草員外」所収だが、「日文研」の和歌データベースでみると、

 この頃の南の風にうきみるよるよる涼しあしのやの里

のようである(私は「拾遺愚草」の活字本を所持しないので指摘するに留める)。

 また、『ミルの美しさの故に、それを水盤に入れて鑑賞する奥ゆかしさを持つ婦人もいた。『今昔物語』に載る哀話がそれである』として、「今昔物語集」巻第三十の「品不賤人去妻後返棲語第十一」(品(しな)賤しからぬ人、妻(め)去りて後、返り棲(す)める語(こと)第十一)を現代語訳して載せておられる。ここでは原文を示す。

   *

 今昔、誰(たれ)とは云はず、品、賤しからぬ君達、受領(じゆりやう)の年若き有けり。心に情(なさけ)有りて、故々(ゆゑゆゑ)しくなむ有りける。

 其の人、年來(としごろ)、棲みける妻を去りて、今めかしき人に見移りにけり。然れば、本(もと)の所を忘れ畢(は)てぬ。今の所に住みければ、本の妻、

『心踈(う)し。』

と思ひて、いと心細くて過ぐしける。

 男、攝津の國に知る所有りければ、遊ばむが爲に下りけるに、難波(なには)邊(わたり)を過ぎける程に、濱邊のいと(おも)しろきを見行(みあるき)けるに[やぶちゃん注:「」=「言」+「慈」。国字。]、蛤の小(ちいさ)やかなるに、海松(みる)の房やかにて生出(おひいで)たりけるを見付けて、

「此れ、極(いみ)じく興(きよう)有る物也。」

と思ひて、取りて、

「此れを我が去り難く思ふ人の許(もと)に遣りて、見せて興ぜさせむ。」

と思ひて、小舍人童(こどねりわらは)の然樣(さやう)の方(かた)に心得て仕(つか)ひけるを以つて、

「此れ、慥(たしか)に京に持て行きて、彼(かしこ)に奉れ。『此れが興有る物なれば、見せ奉らむとてなむ』と申せ。」

と云ひて遣(つかは)しければ、童、此れを持て行きて、思ひ違(たが)へて、今の所へは持(も)て行かずして、本の妻の家に持て行きて、

「此なむ。」

と云ひ入れたりければ、本の妻、いと思ひ懸けぬ程に、此く興有る物をさへ遣(おこ)せて、

「此れ、我が上(のぼ)るまで、失はで御覽ぜよ。」

と云ひ遣せたれば、

「殿は何(いづこ)に御(おはし)ますぞ。」

と問はすれば、童、

「攝津の國に御ますに候ふ。其れに、難波邊(わたり)にて、此れは御覽じ付けたる物を奉らせ給ひたる也。」

と云へば、本の妻、此く聞くに、怪しく、

『僻事(ひがごと)に所違へに持て來たるにや有らむ。』

と思へども、取り入れて、

「然(さ)承りぬ。」

と許(ばかり)云はせたれば、童、卽ち、走り返りて、攝津の國に行きて、主(あるじ)に、

「慥に承り候ひぬ。」

と云へば、主は、

「今の所に持て行きたるぞ。」

と知りて有けるに、彼の本の所には、此れを見るに、實(まこと)の興有る物なれば、盥(たらひ)に水を入れて前に竝べて、此れを入れて、興じ見居たりけり。

 而る間、男、十日許(ばかり)有りて、攝津の國より返り上りて、今の妻に、

「何(いつ)しか彼の奉りし物は侍りや。」

と、打ち咲(わら)ひて云ければ、妻、

「遣(おこせ)たり物やは有し。其れは何物ぞ。」

と云ければ、男、

「否や。小き蛤の可咲氣(をかしげ)なるに、海松の、房やかに生出たりしを、難波の濱邊にて見付けて見しに、興有る物也しかば、急ぎ奉りしは。」

と云へば、妻、

「更に然(さ)る物、見えず。誰を以つて遣(おこ)せ給ひしぞ。持て來たらましかば、蛤は燒きて食ひてまし、海松は酢に入れて食てまし。」

と云ふに、男、聞くに、思ひに違(たが)ひて、少し心月無(こころづきな)き樣(やう)也。

 然(さ)て、男、外に出て、遣(おこ)せし童を呼びて、

「汝は有し物をば、何(いづこ)に持て行きにしぞ。」

と問へば、童、思ひ違(たが)へて、本の所に持て行たる由を云へば、主、大きに嗔(いか)りて、

「速(すみや)かに、其れ、取り返して、只今、來(こ)。」

と責めれば、童、

「極(いみ)じき錯(あやま)ちをも、してけるかな。」

と思ひ驚きて、本の所に走り行きて、此の由を云ひ入れさせたりければ、本の人、

「然ればこそ、所違(ところたが)へ也けるにこそ。」

と思ひて、水に入れて見けるを、急ぎ取り上げて、陸奧紙(みちのくがみ[やぶちゃん注:上質の和紙。])に裹(つつ)みて返し遣りけるに、其の紙に、此くなむ、書きたりける。

  あまのつとおもはぬかたにありければ

       みるかひなくもかへしつるかな

と。

 童、此れを持て行きて、此く持て參りたる由を云ひければ、主、外に出でて、此れを取りて見るに、本の樣にて有れば、

「いと喜(うれ)しく失はずして有りける。」

と、心𢝴(こころにく)く思ひて、内に持て入りて披きて見れば、裹紙(つつみがみ)に此く書たり。

 男、此れを見るに、いと哀れに悲しくて、今の妻の、

「貝は燒て食てまし。海松は酢に入れて食てまし。」

と云ひし事、思ひ合はせられて、忽ちに心替りて、

『本の所に行きなむ。』

と思ふ心、付きにければ、やがて其の蛤を打ち具して行きにけり。

 定めて、其の今の妻の云ひし事、本の妻に語りける。

 然(さ)て、今の妻をば忘れて、本の所になむ住みける。

 情有ける人の心は、此(かく)なむ有りける。現(あらは)に今の妻の云ひけむ事、踈(うと)みてむかし。本の妻の情には、必ず、返り棲むべき事也けり、となむ語り傳へたるとや。

   *

宮下氏はこれに、『この当時、難波潟は清く美しい浜辺が続き、京の都から遊びに出かけ、貝拾いや海藻採りに打ち興じる者が多かったのである。ミルをとり、鑑賞する奥床しい人もいたが、『伊勢物語』に「家のめのこども出て、うき海松の波によせられたるひろひて、家のうちにもてきぬ。女がたより、そのみるをたかつきにもり、かしはをおほひて出し」たとあるように、高杯などに盛って出した生ミルを、酢の物にして食べていたのである。同書はさらに続けて、

  わだつ海のかざしにさすといはふもも

        君がためにはおしまざりけり

の歌を記している。古代の人々はミルの変らぬ色を愛し、それを高杯に盛り、それを水盤に入れて鑑賞し、髪にかざして祝にも使ったのであった』と当該項を終えておられる。「伊勢物語」のそれは、第八十七段のエンディングの部分である(アプローチが長いので引かない)。

 なお、私が以上で原作を多く途中に挟んだのは、衒学的目的ではなく、以上のような仕儀を施せば、著作権上の引用の許容足り得ると思ったからに過ぎない。当該書は海藻についての考証著作としては私は一番に推したいものである。是非、原典を御覧あれかし。

『「本草」、『陶弘景曰はく、狀〔かたち〕、松のごとし。采〔(と)〕りて食ふべし。頌〔(しよう)〕曰はく、海水の中に生ず。」』〔と〕』李時珍の「本草綱目」の巻十九の「草之八」のラストからなのだが、短いのに益軒はちゃんと引用していない。こういう態度は私はよろしくないと感ずる。

   *

水松【「綱目」】

集解弘景曰、「水松、狀、如松。」。頌曰、「出南海及交趾、生海水中。」。

氣味甘鹹、寒。無毒。

主治溪毒【弘景。】。水腫催生【藏器。】。

   *

「弘景」既出既注だが、再掲しておく。陶弘景(四五六年~五三六年)は六朝時代の道士で本草学者。道教茅山派開祖。漢方医学の基礎を築いた人物。前漢の頃に成立した中国最古の薬学書「神農本草経」を整序して五〇〇年頃に「本草経集注」を完成させた。この中で彼は薬物の数を七百三十種類と従来の二倍にし、薬物の性質などをもとに新たな分類法をも考案しており、この分類法は現在も使用されている(以上はウィキの「陶弘景」に拠った)。

「頌」既出既注だが、再掲しておく。蘇頌(一〇二〇年~一一〇一年)は宋代の科学者にして博物学者。一〇六二年に刊行された勅撰本草書「図経本草」の作者で、儀象台という時計台兼天体観察装置を作ったことでも知られる。

『順「和名抄」』既出既注だが、再掲しておく。平安中期に源順(したごう)によって編せられた辞書「倭名類聚鈔」。

「虛冷の人」既出既注だが、再掲しておく。虚弱体質、或いは、体温が有意に低下するような疾患に罹っている人、或いは、消化器系疾患等によって衰弱している人。

「石花菜」既に「大和本草卷之八 草之四 海藻類 心太 (ココロフト=トコロテン)」で述べた通り、天草(テングサ)類(紅色植物門紅藻綱テングサ目テングサ科 Gelidiaceae の総称であり、テングサという種は存在しない)やオゴノリ(於胡苔)類(紅藻綱オゴノリ目オゴノリ科Gracilariaceae 或いはオゴノリ属オゴノリ Gracilaria vermiculophylla)などの広汎な寒天原藻を指す漢語。『「石花菜」を「ミル」と訓ずるは、恐〔ら〕くは、非ならん』益軒先生、その通りです。]

大和本草卷之八 草之四 カヂメ(カジメ(但し、アラメ・クロメ・サガラメ・ツルアラメも同定候補に含む)

 

【和品】

カチメ 又サガラメト云海帶ニ似テ細ク狹シ皺アリホシタ

 ルヲキサミテ羹ニ加ヘレハ賤民ノ食也又此物竿頭

 ニ多クツケテ火災ヲケスニ用ユ火ニモヱズシテヨシアラメニ

 同シ

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

「カヂメ」 又、「サガラメ」と云ふ。海帶(アラメ)に似て、細く狹〔せば〕し。皺、あり。ほしたるを、きざみて、羹〔あつもの〕に加へれば、賤民の食なり。又、此物、竿〔の〕頭に多くつけて、火災をけすに用ゆ。火にもゑずして、よし。「アラメ」に同じ。

[やぶちゃん注:褐藻綱コンブ目レッソニア科 Lessoniaceae カジメ属カジメ Ecklonia cava。田中次郎著「日本の海藻 基本284」(二〇〇四年平凡社刊)によれば、属名は人名に因み、種小名は「空洞の」。『太平洋沿岸の中部から南部の水深』二~十メートルに『海中林をつくる代表種』で、『茎の上に』十五~二十『枚の帯状の葉が出る。葉はさらに分岐をする場合も多い、クロメ』(Ecklonia kurome)『に似るが』、『葉のしわはほとんどな』く、アラメ(Ecklonia bicyclis)『と同じような場所に生育するが、一般にカジメの方が水深は深く』、二~十メートルほど(アラメは五メートルぐらいまでで、カジメは茎部が枝分かれしないのに対してアラメは二分岐し、側葉の表面が波打たずに平滑である点などで異なる)。この二種が『同じ場所に生育する場合、混生することはあまりなく、水深ですみ分けている。寿命は場所によって異なるが』、四~六年とされる。『細く切って乾燥させ、佃煮や酢の物として食する』とある。ウィキの「カジメによれば、『地方によっては、浴槽に入れて入浴する「かじめ湯」という習慣がある』とあり、また、『九州北部では主に味噌汁などの汁物に入れて食される。アラメと比べ』、『分布範囲も水揚げ量も流通量も少なく、古くからヨードチンキなどの薬品の素材となって来た』ことから、『一般的にアラメよりカジメの方が高価である。アラメがカジメとして流通していることも多い。一方、アラメとカジメが完全に入れ替わっている例も多く、方言とも取れる。アラメに比べ』(太字下線やぶちゃん)、『アルギン酸の含有率が高いため、汁物入れると』、『カジメの方がよく粘る。特に産地である九州北部では混同が多い』から、『食用として本来のカジメを求める場合は注意が必要である』とある。なお、消火用の「はたき」に用いることから、つい、「カジメ」の「カジ」は「火事」かと思いたくなるが、漢字表記は「搗布」であり、これは乾して搗き叩いて粉末にすることに基づく。そうした処理から別に「末滑海藻」で「カジメ」とも呼んだ。但し、益軒のこの簡略な記載だけでは、文字通りの「カジメに限定同定することは出来ない。何故なら、ここで異名のように出す「サガラメ」も、現行では、別種アラメ属サガラメ Eisenia arborea に標準和名として使用されており(【2020年9月12日追記】主に東海地方沿岸に分布する同種サガラメは、これまで北アメリカに分布する種と同一とされてきたが、本邦の研究者によって別の種であることが分かり、学名を Eisenia nipponica と本年一月に新たな独立種として新改称している)、それも「アラメ」と呼ばれることがあり、また、他にカジメの同属であるカジメ属ツルアラメ Ecklonia stolomifera も「アラメ」と呼ばれたりしているので、これら総てが本記載の同定候補と成り得るので、ややこしい。因みに、底本としているここで異名のように出す「サガラメ」も現行では同属の別種アラメ属サガラメ Eisenia arborea に使用されており(【2020年9月12日追記】主に東海地方沿岸に分布する同種サガラメは、これまで北アメリカに分布する種と同一とされてきたが、本邦の研究者によって別の種であることが分かり、学名を Eisenia nipponica と本年一月に改称している)、それも「アラメ」と呼ばれることがあり、また、他にカジメ属ツルアラメ Ecklonia stolomifera も「アラメ」と呼ばれたりしているので、これら総てが本記載の同定候補と成り得るので、ややこしい。なお、底本とさせて戴いている「中村学園大学図書館」公式サイト内の「貝原益軒アーカイブ」・「大和本草」にある「目次」には、本項の部分に『カヂメ(今名アラメ、現在のかちめは異なる)』として、カジメを同定候補からはずしてさえいるのである。但し、これはやや乱暴な仕儀で、では、「海藻類」の筆頭に立項してある「海帶」の方は何だというのか? ということになってしまうからである。カジメ以外のカジメに似たカジメでない種の海藻は、一体、どこへ行ったの? とブー垂れられることになるからである。

「羹」「熱物(あつもの)」の意。魚や鳥の肉・野菜を入れた熱い吸い物。]

諸國里人談卷之二 京女郞 田舍女郞

 

    ○京女郞 【一の嶋山にはあらず。よほどほなれて二ケ所にあり。】

     田舍女郞

讚岐の沖に、「京の女郞」・「田舍の女郞」といふ石あり。嶋山の尾崎(をさき)に、人の立〔たち〕たるがごとし。遠くより見れば、「京の女郞」といふは、官女の姿に似たり。「田舍の女郞」は賤しき女の立たるがごとし。其所に至りて見れば、姿・貌(かたち)もなく、たゞ、いふばかりなき大きなる巖(いはほ)なり。海上、凡〔およそ〕半里ばかりより見ゆる。其貌(そのかたち)、現然たり。

[やぶちゃん注:「ちょっと今は」と、現存を期待しないで検索を掛けたところが、豈図らんや! あった! サイト「日本の島へ行こう」の「京の上臈島・局島」だ! ここだ!(グーグル・マップ・データ。小豆島の大きな一島(豊島)を隔てた本土(岡山県)にかなり近い香川県香川郡直島町(なおしまちょう)にある直島諸島の二島である)先のサイトによれば、「京の上臈(﨟)島(きょうのじょうろうじま)」は、恐ろしや! 別名「屍島(しかばねじま)」じゃど! 面積は三百四十平方メートルで周囲二・六キロの無人島とある。この島は南に浮かぶ大きな有人島である直島の重石ノ鼻の北約一キロの海上に浮かび、標高は五十七メートルで、『花崗岩の露出が多く、古くは採石場として利用され』、『また、海岸からは古代製塩遺跡も見つかってい』るとある。『京の上臈島周辺は小島が多く、屏風七浦と呼ばれ』、『穏やかで風光明媚な場所で』あるが、『中世には海賊が多く出没したり、浅瀬も多く航行する船には難所として知られてい』たという。『ここで命を落とした人も数多くいたようで、別名「屍島」とも呼ばれ、いろいろな伝説が語られてい』るとする。さても、ここに、本文の名の二つの岩が登場するのだ! 『島の南端に「京の女郎岩」と「田舎の女郎岩」と呼ばれる岩があ』るが、①これは配流された『崇徳上皇に仕えた女郎のなかに』、『仲の悪い二人がいて、この島を訪れても諍(いさか)いが絶えなかったので』、『石にされてしまった』と、まずプレ怪談があって、一方、別の由来が複数続くのである(但し、崇徳上皇が流された場所は香川県坂出市林田町で(雲井御所跡が現存)、ちょっとここからは位置が離れている。(グーグル・マップ・データ))。②『昔、児島半島に暮らす三兄弟がいて、京に交代で仕事に出かけてい』たが、『長兄は京で結婚、次男は田舎で妻を娶り、交代で家を空ける生活』を送っていた。『そのうち、それぞれの妻は夫の行動に疑念を抱くようになり、嫉妬が募り、失望し』、遂に『島で身を投げてしま』った。『そのことを知った兄弟は不憫に思い、身を投げた海岸に女の形をした石を建てて供養した。近くを行き交う船は石を見て「京の女郎」「田舎の女郎」と言うようになり、いつの間にか』、『この島を京の上臈島と呼ぶようになった』というものである。他にもまた、②『玉野市南部にある渋川八幡宮』((グーグル・マップ・データ))『には「浜の神さん」と呼ばれる祠があ』るが、『仕事で京に出かけた男が、そこで恋仲になった女を連れて渋川へ帰る途中、女を島へ置き去りにしてしま』った。『男は村に妻がいたのか、それとも遊びだったのか』判らぬが、ともかくも『女が邪魔になった』のであった。『数日後、女は躯(むくろ)となって渋川の浜へ流れ着き、村人が念仏をあげて何度も沖へ流してや』ったが、翌日には、また、『戻ってきてしまう。話を聞いた男は』、『自分が置き去りにした女だと気づき、後悔して祠を建てて女を弔った』という。さらに、③『この島に棲む女郎蜘蛛が美女に化けて、近くを通った船を沈めて船人の生血を吸った。という恐ろしい話もあり、この島には江戸後期の勤皇画家と言われる佐藤正持による妖怪圧伏の石碑まである』らしい、と記されてある。沾涼が、この怪奇談を知っていたら、漏らさず、詳しく記していただろうに! ちょっと残念!

 リンク先によれば、二つの岩は「京の上臈島」の南の端にある。「京の女郎岩」は個人ブログ「アウトドアdeプチ家出」のぽかぽか日和のシーカヤックで大きな画像()で見られるが(う~む、確かに! なんとなく艶なり!)「田舎の女郎岩」はネット検索を掛けても今のところ、画像が見当たらない。見つけた追加する。序でに、今一つの「局島」(「京の女郎岩」と「田舎の女郎岩」の南西九百メートル沖合に浮かぶ)も崇徳上皇絡みの命名とあり、上皇が『この島を見て「お局さまが北枕でお休みになっているようだ」と』言ったことに由来すると、先の「京の上臈島・局島」にあることを言い添えておく。沾涼の最後の謂いからすると、両岩は二キロほど離れた海上から見た時に、それらしく見えると言っているようである。]

諸國里人談卷之二 釣鐘石

 

    ○釣鐘石(つりがねいし)

攝津國能勢(のせの)郡大丸村にあり。大さ、方二間ばかり、其形、鉦皷(しやうこ)のごとし。これを磬(うて)ば、撞鐘(つきがね)のひゞき、あり。よつて、此名あり。相傳ふ、貝川三位、當鄕、開發の時、しばらく此所に遊歷して、はなはだ祕藏する所の名石なり。

[やぶちゃん注:「能勢(のせの)郡大丸村」旧能勢郡は現在の豊能郡能勢町の全域と豊能郡豊能町の大部分であるが、旧郡域内に「大丸村」は見出せない。しかし、ウィキの「能勢郡」を見ると、明治五(一八七二)年のこと、『切畑村が分割して大円村・中野西村・中野東村・西野村となる』も、たった四年後の明治九年には分離した四村総てが、また、『合併して切畑村とな』っているのを見出せた。明治になって、一度、分離しちゃおう、というのは、もともと江戸時代には村として独立していた可能性が高いように思うのである。しかも「大円村」と「大丸村」だ。ちょっと相性がいい感じがするではないか? バス停が現存するのでナビゲーション・サイトで読みを調べると、「だいまる」! ここだろ! ここなら、大阪府豊能郡豊能町ちょう)切畑地区大円集落に当たる(グーグル・マップ・データ)。

「方二間」三メートル六十四センチ弱四方。

「鉦皷(しやうこ)」(しょうこ)はまず、「しょうご」とも読み、本来は、雅楽に用いる打楽器の一つを指す。青銅又は黄銅製の皿形のもので、釣り枠につるして凹面を二本の桴(ばち)で打つもの。大(おお)鉦鼓・釣(つり)鉦鼓・荷(にない)鉦鼓の三タイプがあるが、通常は釣鉦鼓を指す。中型の銅鑼(どら)のような形態を考えればよい。また、別に仏家で勤行・法会の際に敲く円形で小型の皿状をした青銅製の鉦(かね)も指し(雅楽のそれのように吊るす中型のものも仏具にはあるが)、ここは後者であろう。要は非常に高く有意に強い金属音がするのである。思うに、この石は火山岩の安山岩の一種であるサヌカイト(sanukite:讃岐岩(さぬきがん))なのではなかろうかウィキの「讃岐によれば、「サヌカイト」の名称は香川県坂出市国分台周辺で採れることによるが、大阪府と奈良県の境にある二上山周辺でも採取される。非常に緻密な古銅輝石安山岩で、固く、叩くと、高く澄んだ音がすることから古来、「カンカン石」とも呼ばれるのである。伏木の勝興寺にあったなぁ、おそこじゃ「天から降ってきた石」=隕石(国分浜に落ちたって)だって言ってたけど、あんなでっかいのがオッこったら、巨大クレーターで伏木なんか吹っ飛んでるぜ。

「磬(うて)ば」「磬」は音「ケイ」で、元来は文字から判る通り(音を示す「聲」の上部に「石」)、中国の雅楽で用いられた石製の楽器で、本邦では仏教楽器として用いる。中国の元のものは平らな石片(稀れに金属片)の一端に孔を空け、そこに紐を通して立てた木製の枠に吊るし、獣角製或いは木製の撞木を以って打ち鳴らす。石片が一個から成る特磬と、十数個から成る編磬(へんけい)があった。石片の形はさまざまであるが、「へ」の字形が新しくて多く見られる。本邦へは、後者が仏教楽器として伝来したが、日本では銅・鉄の鋳製となり、左右均等の山形を成して、中央に蓮華座の撞座がを置く。木製の磬架に吊って、通常は導師の座の右脇に置かれる。ここはそれを動詞として用いたもの。

「撞鐘(つきがね)」鋳造された梵鐘を撞いたような音。

「貝川三位」長乗(かいかわさんみながのり ?~康治二(一一四三)年)伝承によれば、一族を率いてこの切畑・木代・大円の山間部に来たって三村を開発し、ここに葬られたとされる人物で、個人サイト「摂津名所図会に、「従三位藤原朝臣貝川長乗、大職冠鎌足公十八世之孫貝川乗政三男、善騎射、任検非違使兼佐渡守、年六月二十四日卒、墓在摂津国能勢郡木代村」とある(「大阪府全志」の中の「本朝人物篇」(引用?))。]

諸國里人談卷之二 蛙石

    ○蛙石(かはづいし)

攝津國東生(ひがしなり)郡林寺村〔はやしじむら〕の民家の裏にあり。鳥蟲の類ひ、此石のうへにとまれば、石の頂(いたゞき)、二に割(われ)て、口をひらくがごとくにして、鳥蟲(とりむし)を墮(おと)し入〔いれ〕て、又、元のごとし。たゞ蛙(かはづ)の物を吞(のむ)に似たり。よつて、此名あるなり。又は「殺生石」ともいひつたへたり。今に有(あり)。

[やぶちゃん注:非常に残念なことに、このトビッキリに日常を侵犯する那須野の殺生石(せっしょうせき)も吃驚りの怪石は、これ、現存しないようである。見たかったなぁ、食べて閉じる、とこ。

「東生(ひがしなり)郡林寺村」現在の天王寺駅の東直近、旧大阪府東成(ひがしなり)郡生野(いくの)村であった大阪府大阪市生野区林寺(はやしじ)附近であろう。(グーグル・マップ・データ)。当時は相模小田原藩の藩領であった。]

2018/06/07

諸國里人談卷之二 名號石

 

    ○名號石(めうがうせき)

相模國足柄下郡國府津、眞樂寺(しんらくじ)に、高〔たかさ〕七尺二寸、幅三尺斗〔ばかり〕の石に、親鸞上人、指にて書給ふ、十字八字の名號、二行にして、其蹟(あと)、自(をのづから)窪入(くぼみ〔いり〕)て、文字、鮮(あざやか)なり。是石は、嘉祿元年、中華(もろこし)より一切經を鎌倉に渡す。其船に此石あり。石面(せきめん)、鏡のごとし。上人、是を見給ひ、「是石は天竺の石也。」と指を以〔もつて〕書(かき)給ふ所の名號、彫(ほり)たるがごとし。其後(そののち)、覺如上人、囘國の時、茲(こゝ)に來り給ひ、筆を加へ給ふ。

 其文

 右志者爲鏡空行光第一向專修念佛舍等

  建武元戊十一月十二日自敬白

或時、疾人(ねたむひと)有つて、此石を海中に沈む。夜(よな)々、海の面(おもて)に光明を放つ。其発(おこ)る所を考へ、水練の者を入〔いれ〕て、これを見るに、則(すなはち)、此石なり。よつて、引上(ひきあげ)、堂を造り、茲に安置とす。

[やぶちゃん注:「相模國足柄下郡國府津、眞樂寺」神奈川県小田原市国府津(こうづ)にある浄土真宗(親鸞(承安三(一一七三)年~弘長二(一二六三)年)の来訪によって天台宗から改宗)の寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「高〔たかさ〕七尺二寸」二メートル十八センチ。

「幅三尺斗〔ばかり〕」約九十一センチ。

「十字八字の名號、二行にして」サイト「親鸞聖人御旧跡めぐり」の「一切経校合逗留の地2 ~国府津真楽寺~」にこの名号石の写真がある(但し、個人サイト「東国真宗研究所」の「神奈川と親鸞 第三十四回 筑波大学名誉教授 今井雅晴 国府津の真楽寺⑶ 帰命石」によれば、これはレプリカで、現物は地中に埋められているという。なお、この時、この近くに庵を結んだ親鸞は、鎌倉幕府主催の、鎌倉での一切経校合のためにここから鎌倉へ通っていた)。そこには、右手に、

 歸命盡十方无㝵光如来

 南无不可思議光佛

のそれぞれ十字と八字の名号が記されてあり、(今はそれぞれの下に蓮台が彫られてある)、それぞれの左右に本文で覚如の附文とされるものが、小さく彫られているのが、概ね現認出来る。但し、左の最後の部分は「自敬白」ではなく、「同心敬白」と読める。「歸命盡十万无㝵光如来」は「帰命尽十方無碍(或いは「礙」)光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい:現代仮名遣。以下、同じ)」、「南无不可思議光佛」は「南無不可思議光仏(なむふかしぎこうぶつ)」で、これらは孰れも「南無阿弥陀仏」、則ち、阿弥陀如来への無条件の礼讚とその無辺の大慈悲心への投企と同義のものである。親鸞は実は、正式な本尊としては具象的な木像阿弥陀仏などを用いず、この「歸命盡十方無礙光如來」「南無不可思議光佛」の名号を本尊とし、またそれを教化の中でも勧めたのであった。親鸞は「顯淨土眞實教行證文類(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)」(略称「教行信証」)の「行巻」で、「正定(しやうぢやう)の業(げふ)とは、卽ち、是、佛の名を稱するなり」として、「南無阿彌陀佛」(先に述べた通り、上記二種も全く同じである)と称名(しょうみょう)することこそが正行(しょうぎょう)の中で阿弥陀仏の願に順じた一番重要な行(「正定の業」)であると述べている。

「嘉祿元年」一二二五年。親鸞、数え五十三。親鸞は建保二(一二一四)年(長岡への流罪の赦免から三年後)に常陸国に向い、この後、二十年余りに亙って東国で布教活動を行っていた。

「覺如」(文永七(一二七一)年~観応二(一三五一)年)は本願寺第三世。実質上の浄土宗(本願寺派)開祖。親鸞は師法然上人の浄土宗の教えの真(まこと)を志すものの謂いで「浄土真宗」という語を用いていたのであって、親鸞は開祖ではないし、彼自身、そのような認識を持っていなかった。

「右志者爲鏡空行光第一向專修念佛舍等」少々手古摺ったが、国立国会図書館デジタルコレクションの画像新編相模國風土記稿」原石探し出出来ので、それをもとに翻刻し直しておく。同図画像(前後の解説を含めて)もトリミングして併せて載せておく。

 

Myougouseki

   *

△歸命堂(きみやうだう) 寬永十三年[やぶちゃん注:一六三六年。]本山宣如上人の造建なり、名號石【高七尺、幅三尺。】を安置せり。その圖、左の如し。

 

            念佛舍等

 右志者爲鏡空行光門一向專修

 歸命盡十方无㝵光如來

 南无不可思議光佛

    建武元戊十一月十二日

           同心敬白

 

此名號は、親鸞當所居住の頃、勸堂(すすめだう)[やぶちゃん注:真楽寺のこと。「勸」は山号で勧山(すすめさん)。本項では冒頭に『○眞樂寺 勸山【須々女左牟。】信樂院と號す』とある。]の下へ一切經を積(つみ)し唐船、着岸す[やぶちゃん注:先に示した幕府主催の鎌倉での一切経校合用の南宋からのそれであろうか。但し、大型の渡来船が近づき、多量の荷を降ろせる施設が、この鎌倉時代前期に、この国府津にあった事実を私は知らない。但し、親鸞が関東布教のために常陸に入ったのは建保二(一二一四)年であり、現存する日本最古の築港跡である鎌倉由比ヶ浜の東の和賀江島(わかえのしま)の築港は貞永元(一二三二)年のことであるから、或いは、そうした荷下ろしが、この附近で成されていた可能性がないとは言えない]。船底に石八枚を積めり。親鸞歸絡の時[やぶちゃん注:親鸞が関東布教から京へ帰ったのは、嘉禎元(一二三五)年頃(数え六十三歳)である。]、末世道俗の爲に、其一石に指頭(しとう)を以て、二名號を書(しよ)せり【或説に此石に怪異の事共ありければ、土人、親鸞に請(こひ)て、二名號を書せしめしかば、怪異、忽ち止まれりと云(いふ)。[やぶちゃん注:沾涼が記すそれとは異なる怪異がこの石にはプレに存在し、それを封じることが一つの書記の経緯だとする説である。面白い。その怪異も、ここに書いて欲しかった。]】。建武中、本山三世覺如上人、巡國の時、拜覽し、則(すなはち)、左右の傍記を加へしと云【後、其文字を直(ぢき)に鐫入(せんにふ[やぶちゃん注:彫り刻み入れること。])す。】。本山門主江府參向の時は、必(かならず)、參拜あり【此時、門主を饗應するに、黍、稗、米の三品を團子に製し、且、砂蕎麥(すなそば)と號し、製方の麁(そ)なる蕎麥切(そばぎり)を進め、又、土地にて釀(かも)せる野酒(やしゆ)を捧ぐるを例とす。是(これ)、古(いにしへ)の宗祖の難苦を知(しら)しめんが爲めなりといへり。】。堂前に石燈臺一對あり【寬永九年仲秋寄附、本多彌左衞門藤原正友[やぶちゃん注:不詳。家康の参謀として知られる本多正信の傍系の者か。]と彫る。】

   *

しかし、それでも、この覚如の添書きは読めん。無理矢理にでも読んでみるか。

   *

右、志ある者は、空を鏡とし、光りに行き、一向(だいいつかう)に[やぶちゃん注:何より只管に。]專修念佛舍(しや[やぶちゃん注:「舎弟」のように念仏を唱えようとする浄土門を信ずる者の意か。]等(ら)と爲(な)すべし。

   *

正しい読みの判る方は、是非、お教え願いたい。

「建武元戊十一月十二日自敬白」先に見た通り、「自」は「同心」の誤り。でも意味は「自」(おのづから)で腑に落ちる気がする。「建武元戊十一月十二日」建武元年は南朝の元弘四年で甲戌(きのえいぬ)。十一月十二日はユリウス暦十二月八日。なお、同月、護良親王が鎌倉将軍府にあった足利尊氏の弟直義の監視下に軟禁されている。

「疾人(ねたむひと)」嫉む人。浄土真宗を嫌う他宗の者。僧の肉食妻帯を許しているから、結構、多かった。]

諸國里人談卷之二 文字摺石

 

   ○文字摺石(もじすりのいし)

陸奧國信夫(しのぶ)郡にあり。桒折(こうり)より半里ばかり脇(わき)、節黑(ふしくろ)川の先にあり。長〔ながさ〕一丈二尺、幅六尺ばかりの石也。石の表は土に付(つき)、裏の方、上にあらはる。むかしは、此石の上に忍草(しのぶくさ)を布(しき)て、衣(きぬ)を覆(おほひ)て、上より、これを扣(たゝ)くに、忍の紋、衣(ころも)に移れり。是、當所の名産として、上古、任國の人々、都への土産(つと)にして、甚(はなはだ)本奔しけるとなり。髮を亂したるやうに紋を摺(すり)たるにより、「亂れそめにし」とはよめりとぞ。

[やぶちゃん注:所謂、「信夫文字摺石(しのぶもじずりいし)」。福島市山口字文知摺前(ここ(グーグル・マップ・データ))にある曹洞宗香澤山安洞院、通称「文知摺観音(もちずりかんのん)」(文禄四(一五九五)年開山)の境内にある、長さ三メートル、高さ二・五メートルの石がそれに比定されている。平安時代、狩衣に用いられた毛地摺(もちずり)絹をすった石或いは草木染め(忍草という草をまことしやかに草の名として出すものが異様に多いが、私は全く採らない)にしてその表面の模様を転写した石と伝えられ、河原左大臣源融彼の(「古今和歌集」巻第十四「戀歌四」(七二四番)・「小倉百人一首」(十四番))

 陸奥(みちのく)のしのぶもぢずり誰(たれ)ゆゑにみだれむと思ふ我ならなくに

の歌は、伝承上では、融が按察使(あぜち)として来国し、ここで出逢った山口の長者の娘虎女への思慕が込められたものともされる。江戸時代に福島藩主堀田正虎、明治初期に信夫郡長が石の周辺を整備した(以上は主に小学館「日本大百科全書に拠る)。以下、より詳しくは、私は私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅21 早苗とる手もとや昔しのぶ摺』の注で、可能な限り、詳しく説明したつもりでいるので、そちらを参照されたい。

「桒折(こうり)より半里ばかり脇(わき)、節黑(ふしくろ)川の先にあり」「桒」は「桑」の異体字。現在の福島県伊達郡桑折町(こおりまち)。ここ(グーグル・マップ・データ)。しかし、その市街地は文知摺観音の真北で、八キロメートルは有に離れており、地図上ではどう見ても「半里」でもなければ、「脇」でもない(普通、当時、陸奥を表現する場合に、先の北位置の場所を指して、そこを起点に(「より」)南を指して「脇」とは言わないと私は思う)「節黑(ふしくろ)川」なんてない。桑折と文知摺観音を隔てている川は阿武隈川及びその支流の胡桃川である(但し、これは地名かも知れない。しかし、例えば「黒川」という地名は周辺に現認出来なかった)。どうもおかしい。そこでただなんとなく「桑折」の「脇」で「半里」で調べてみた。すると、桑折の東に、気になる川の名を見出した。「摺上川」である。ここは現在の桑折の町域から二キロ程(「半里」)離れた位置にある。ただ、文知摺観音は、この記載時に既に「文知摺石」として知られていたわけだから、その比定地を動かすわけにもゆかぬ。取り敢えず、私の消化不良の部分をそのままに記しておくこととする。

「長〔ながさ〕一丈二尺」長幅約三メートル九十一センチ。今の石より一メートルばかり大きいぞ?

「幅六尺ばかりの石也」短幅約一メートル八十二センチ。

「土産(つと)」①では無粋に「どさん」とルビする。③のそれをここでは採った。]

諸國里人談卷之二 姨石

 

    ○姨石(おばいし)

信濃國姨捨(おばすて)山は更科(さらしな)郡にあり。尤(もつとも)高山なれども、なだらかなる芝山なり。中腹に姨石あり。かの姨を捨(すて)たる所なりとぞ。此巖(いはほ)、高さ六丈五尺、横三十丈に過(すぎ)たり。石屛(せきへい)のごとくにして、一面の一石、類ひ稀なる石也。うしろ左右は山につらなれり。石の前に放光菴といふ草堂、觀音を安置す。左のかたの小茂りの徑(こみち)をつたひ登れば、姨石のうへに至る。これより、十三景、見えて、絶景也。所謂、十三景は、

 姨石

 冠着嵩(かむりきがだけ)

 有明山

 一重(ひとへ)山

 鏡臺山(きやうだいさん)

 寶池(ほうち)

 姪

 甥

 小帒(こぶくろ)石

 椿木(つばきのき)

 更科川

 千曲川

 田每(たごとの)月

等也。「大和物語」に云〔いはく〕、信濃の國更科の里にすむ男、姨(おば)をやしなひておやのごとくかしつきしに、その女房、つらくにくみて、夫にさかしらをいひふくめて、終に、ふかき山の奧に捨させけり。されども、此男、かぎりなくかなしくて、かの山のみねより出〔いで〕たる月をながめ、一夜、目もあはず、かなしみ入〔いり〕、つくづくと哥〔うた〕をよみ、又、いきて、むかへ、もてきにけり。それより「おばすて山」と云〔いへ〕り。

「古今」

 我心なぐさめかねつ更科やおばすて山にてる月を見て

予(よ)、一とせ、おばすて山へまかりける時、

  姨捨は晝でも夜のこゝろ哉  沾凉

同行の孤凉(こりやう)云〔いはく〕、「此句は季なし。」。よつて、季なし発句(ほつく)の事を語れば、諾(だく)す。

[やぶちゃん注:「十三景」は、それぞれ一字空けで本文に連続しているが、改行した。本条は伝承として各地に見られる棄老伝承としての「姥捨て山」(おばすてやま・うばすてやま)の中で、最も知られた長野盆地南西端の、長野県千曲市と東筑摩郡筑北村に跨る冠着山(かむりきやま:標高千二百五十二メートル。本文の「冠着嵩(かむりきがだけ)」)をロケーションとしている(ここ(グーグル・マップ・データ))。ウィキの「冠着山」によれば、この山には『幾つかの呼び名があり、「冠山(冠嶽)」「更科山」「坊城」とも言われる。俗称は姨捨山(おばすてやま・うばすてやま)。古称は小長谷山(小初瀬山・小泊瀬山、おはつせやま)』とある。『冠着山の呼称は「天照大神が隠れた天岩戸を手力男命が取り除き、九州の高天原から信州の戸隠に運ぶ途中、この地で一休みして冠を着け直した」と日本神話により伝えられている事による』とする。今はすっかり「おばすて山」の比定地のようになっているが、しかし実は『江戸時代の作製と見られる』「川中島合戦陣取り図」や嘉永二(一八四九)年に名古屋で刊行された「善光寺道名所図会」(豊田庸園(ようえん)著・小田切春江画)『(いずれも長野市立博物館所蔵)には冠着山(冠着嶽)と姨捨山は明らかに別の山として描かれているものがあ』り、古い『峠を通る古代の街道(東山道支道)を使用した官人や衛士・防人など』の『旅人(作者不詳)によって』「古今和歌集」に『歌われたオバステヤマは冠着山だ、と主張した麓の更級村初代村長の塚田雅丈による内務省(現在の国土地理院)への請願活動で「冠着山(姨捨山)」の名で一般的になったのは明治期以後と言われる』という、驚きの解説がある。『姨捨山の呼称は、一説には奈良時代以前からこの山裾に小長谷皇子(武烈天皇)を奉斎し』、『その料地管理等に従事したとされる名代部「小長谷(小初瀬)部氏」が広く住していたことによるらしい』。『この部民』である『小長谷部氏の名から「オハツセ」の転訛』『が麓の八幡に小谷(オウナ)や、北端の長谷(ハセ)の地名で残り』、『南西部に「オバステ」で定着したものとされている』。『別名の更級山の呼称は』、『更級郡の中央に位置することから、坊城は山容が坊主頭のようであり』、『狼煙城でもあったとの伝説があることから』という。『江戸時代の街道に近く猿ヶ馬場峠、一本松峠や古代からの東山道支道の古峠にも近い。これらの難路脇には行き倒れた旅人の屍が放置されていて、それらの骸を集めて弔った所「初瀬」とする説』もあるとする(「初瀬」は「終瀬(はてせ)・果て瀬」で、人が果てる場所、「こもりく」の別称であるからである)。他にも、『水が地表に湧き出してせせらぎとなって川が流れ始める所を初瀬と言うことからとする説』など『「オバステ」の地名の言われは数種あるとされる』。以下、「棄老伝説」の項(但し、この節には執筆者の独自研究が含まれている疑いがある)。「大和物語」百五十六段(天暦五(九五一)年頃までに成立)が『姨捨説話の初見であり、謡曲』(十四『世紀には存在)にも取り上げられているほか』、「更級日記」(康平二(一〇五九)年最終記載)・「今昔物語集」(平安末期成立)、江戸時代の松尾芭蕉の「更科紀行」(元禄元(一六八八)年から翌年にかけて成立)『でも言及されている。このように往古から全国に知られた山であったが、更級郡に位置するという記述があるなど、特定された山ではなく、長野県北部にある山々の総称という見解もある』とある。また、伝説としてのそれを別に纏めたウィキの「うばすてやま」を見ると、『姥捨ての実際については、はっきりしたことは分かっていない。少なくとも古代~近世までにおいて、姥捨てやそれに類する法令などがあったという公的記録はないが、民間伝承や姥捨て由来の地名が各地にのこっている』。『物語としては、親子の情愛や、「灰縄千束」、「打たぬ太鼓の鳴る太鼓」、「七曲りの竹に糸を通す」など難題の奇抜さ、それをこともなく解決してしまう老親の知恵などが主題となっている』(大別すると、「枝折り型」と「難題型」の二種があるが、それはリンク先を見られたい)『難題型の物語自体はインドに起源があり、アジアやヨーロッパに古くから見られるものだが』、「枕草子」に『蟻通明神の縁起として、「複合型」の完成された形での記述があり、日本でもかなり古い時代に成立した物語であることがうかがえる』。『一方で』、『姥捨て伝説の一部には』、『その信憑性を疑われるものも存在』し、『長野県の冠着山は俗称を「姨捨山」といい深沢七郎が』「楢山節考」(昭和三一(一九五六)年)で『姥捨て伝説を結び付けた。しかし、日本思想史学者の古田武彦は地元の放光院長楽寺への現地調査の結果などから』、『この地に姥捨て伝説はなかったと結論付けている』ともある。

「尤(もつとも)高山なれども」頂きは非常に高い山ではあるが。

「姨石」現在の長野県千曲市八幡にある天台宗姨捨山(おばすてさん)放光院長楽寺(ここ(グーグル・マップ・データ))境内にある。ウィキの「長楽寺」によれば、「姨石(姨岩)」は高さ約十五メートル・幅約二十五メートル・奥行約二十五メートルある大きなもので、『頂上からは長野盆地を一望でき、月の眺めも別格である。江戸時代後期の紀行文作家であった菅江真澄は』、『夥しい人々がこの岩の上からの月見をしている様子を絵(秋田県立博物館所蔵)に残している。なお、この岩が姨捨山縁起から伝説の姨捨山』『だと伝えられている』とある。個人ブログ「北海道でノンビリと」の姨石おばいしに・・・・立ちもせずが写真も豊富でよい。

「高さ六丈五尺」十九メートル三十三センチ。やや高過ぎ。

「横三十丈に過(すぎ)たり」「三十丈」は九十メートル八十九・九センチであるから、九十一メートル超えとなってしまう。ただ、この寺、近世でも事蹟がはっきりしないウィキの「長楽寺」によれば、江戸末期の「善光寺道名所図会」には『八幡の武水別神社神宮寺の支院と説明されて』おり、『明治初年の神仏分離令により』、『一時』は『無住になったこともあって』、記録が失われてしまい、現在では『この寺の創建年代等については不詳である』とする、但し、「古今和歌集」に『記されていることなどから』、十世紀には』土地自体は『姨捨山として知られていたと考えられている』とある。さらに、境内上方の、この姨石の傍らに建つ観音堂は、元禄四(一六九一)年に『再建されたとあるが、虹梁の絵様の様式から宝暦・明和年間』(一七五一年~一七七一年)『の再建と推定されている』とあり、本「諸國里人談」は寛保三(一七四三)年の刊行であるから、この観音堂再建の前に沾涼はここを訪れていることが判り、そもそもが長楽寺らしき寺への言及が全くないところから、或いは当時の姨岩は、二回り以上大きな、丘陵状の土山の中に埋もれていたものかも知れない

「石屛(せきへい)」石の屏風。

「放光菴といふ草堂、觀音を安置す」前に出した通り、現在の長楽寺の院号は放光院であり、これが後の観音堂の前身なのであろう。

「十三景」「放光院長楽寺十三景之図」は先に出した通り、嘉永二(一八四九)年刊の「善光寺道名所図会」に載るが、本書はその約百年前の刊行であるから、この名数はかなり古くからあることが判る。出版年未詳であるが、早稲田大学図書館古典総合データベースに「信州更級郡姨捨山十三景図」があるので、リンクさせておく。そこでは「長樂寺」の名があり、「觀音堂」も、その名で描かれているから、かなり後のものと推察される。時代によって名数には変化があるらしい。長楽寺の案内板を見ると、そこには、境内にある姨石・桂の木・宝ケ池を初めとして、近景の姪石(めいいし)・甥石・小袋石(こぶくろいし)・田毎の月・更級川、遠景の千曲川・冠着山(かむりきやま)・鏡台山(きょうだいさん)・有明山(ありあけやま)・一重山(ひとえやま)を挙げ、『時代によっては、更級川に架かる雲井橋(くもいばし)や更級の里なども数えてい』るとある。

「有明山」長楽寺の東北四キロ半ほど東北にある、長野県千曲市打沢の有明山であろう。標高六百五十一・七三メートル。ここ(国土地理院地図)で、次の「一重(ひとへ)山」はその北西直近にある、四百五十八メートルのピークである。

「鏡臺山(きやうだいさん)」長楽寺から真東九・五キロほどの長野県上田市真田町傍陽にある標高千二百六十九メートルの山。

「寶池(ほうち)」旅行サイトに載る、こちらの現地の観光案内を見ると、姥石の、観音堂の反対側にあることが判る。同じ画像で切れているが、写真の右手に「甥石」(本文の「甥石」)と思われるものがあり、左手の「棚田」(これが知られた「田每(たごとの)月」の棚田)の下方に「姪石」(本文の「姪石」)が、中央下に「小袋石」(本文の「小帒(こふくろ)石」)を、それぞれ確認出来る。

「椿木(つばきのき)」原典は総てこうなっているが、これは或いは宝池の側にある大樹の「桂の木」の沾涼の誤記かも知れない

「更科川」先の観光案内図で、長楽寺と棚田地区の間を貫流している。

『「大和物語」に云……」「大和物語」は平安中期の歌物語。作者未詳。天暦(九四七年~九五七年)頃に成立した後、増補されたと推定される。恋愛・伝説などを主題とする百七十余編の説話を収録するが、全体は大きく二部に分かれており、主として宇多上皇を中心とする廷臣や女房たちに関する和歌説話を集めた部分と。蘆刈説話・菟原処女(うないおとめ)説話などの伝承的な和歌説話を集めた部分から成っている。当該部分は第百五十六段の「姨捨」。所持する小学館「日本古典文学全集」版を参考に、恣意的に漢字を正字化して示す。

   *

  信濃の國に更級といふ所に、男、すみけり。若き時に、親は死にければ、をばなむ、親のごとくに、若くより、あひそひてあるに、この妻(め)の心、いと心憂きこと多くて、この姑(しうとめ)の老いかがまりてゐたるを、つねに憎みつつ、男にも、この姨(をば)の御心(みこころ)の、さがなくあしきことをいひ聞かせければ、むかしのごとくにもあらず、おろかなることおほく、このをばのために、なりゆきけり[やぶちゃん注:この「をば」に対して、おろそかににしることが、これ、多くなっていったのであった。]。このをば、いといたう老いて、ふたへにてゐたり[やぶちゃん注:腰が激しく曲がってしまっていた。]。これをなほ、この嫁、ところせがりて[やぶちゃん注:邪魔者に思って。]、

『今まで死なぬこと。』

と思ひて、よからぬことをいひつつ[やぶちゃん注:夫へ、ありもせぬ姨についての悪しき告げ口をしながら。だから男は腹を立てて、姨捨てを実行してしまうのである。]、

「もていまして、深き山に捨てたうびてよ。」

とのみ責められければ、

『さしてむ。』

と思ひなりぬ。

 月のいと明かき夜、

「媼(おうな)ども[やぶちゃん注:婆(ば)あさま。「ども」は複数ではなく、軽い呼び掛けの接尾語。]、いざ給へ。寺にたうときわざ[やぶちゃん注:法会。]すなる、見せたてまつらむ。」

といひければ、かぎりなくよろこびて、負はれにけり。

 高き山のふもとにすみければ、その山にはるばると入りて、高き山の峰の、おり來べくもあらぬに、置きて逃げて來ぬ。

「やや。」

と言へど、いらへもせで、逃げて、家に來て思ひをるに、いひ腹立(はらだ)てけるをりは、腹立ちて、かくしつれど、年ごろ、親のごと、養ひつつ、あひ添ひにければ、いと悲しくおぼえけり。

 この山の上より、月も、いと限りなく、あかくいでたるをながめて、夜(よ)ひと夜(よ)、いも寢られず、悲しくおぼえければ、かくよみたりける。

 わが心なぐさめかねつさらしなや姨をばすて山に照る月を見て

とよみてなむ、また、いきて、迎へもてきにける。

 それよりのちなむ、「をばすて山」といひける。「なぐさめがたし」とは、これがよしになむありける[やぶちゃん注:今、慰め得ぬ心が盛んになった際、そこで「姨捨山」を引き合いに出すのは、こうしたいわれがあるのであるよ。]。

   *

我心なぐさめかねつ更科やおばすて山にてる月を見て」「古今和歌集」巻第十七「雜歌上」にある詠み人知らずの一首(八七八番)。

 わが心なぐさめかねつ更科(さらしな)やをばすて山にてる月を見て

先の「大和物語」の末尾部分で出るニュアンスと同じものを受けると考えてよいが、「姨捨て」というおどろおどろしい名を引き合いに出しただけで、姨捨伝承自体は歌意に影響していない、というより、同伝説は、この「古今和歌集」成立より後に形成された可能性が高い。

「孤凉」不詳。沾涼(沾凉)の一字を用いているからには、彼の弟子であろうか。無季の句は芭蕉などにもあり、それを知らぬというのは沾涼よりも句歴が短いことを意味しているように思われる。

「季なし発句(ほつく)」芭蕉は「季の詞(ことば)ならざるものはなし」と言っている。近代以降の季語を詠み込むことに汲々とすることで文芸性を致命的に堕している俳句の多い中、私は芭蕉の言葉にこそ、真実(まこと)があると思っている。]

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 赤鬃 (マダイ)

 

赤鬃【マダイ 棘鬣之大者】

 

Madai

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いた。やっと二十尾目で、正統の「鯛」にして真正の「真鯛」、

スズキ目スズキ亜目タイ科マダイ亜科マダイ属マダイ Pagrus major

の登場である。全体に丁寧に描こうとして感じが窺われず、恵比寿が釣り上げたそれみたような印象を受け、博物画としては描かれるべき細部の本種の特徴、例えば、背側などに散見されるはずのコバルト色の斑紋であるとか、目の上のアイシャドウ様の濃い筋、黒くなっているはずの尾鰭の後縁等がないが、全体の体型が所謂「鯛」型で有意に側扁している感じがしっかり描かれている点(「鯛」の「たい」とは「平たい魚」の義である)、胸鰭が有意に細く長く描かれている点(時に全体長の半分近くに達する)はマダイの特徴を押さえている

「赤鬃」「鬃」(音「ソウ・ズ・ゾウ」)は「たてがみ」の意で「鬣」に同じい。渡辺崋山の絵に海中遊泳する生きた魚群を想像で描いた「海錯図」なる驚きの絵があるのであるが、崋山が弟子の椿山に当てた一般に「絵事御返事」と称される書簡の中に、この図について『海錯圖は、海魚、深海中に遊泳するの體(てい)を認(したた)め、先づ古人も不ㇾ畫(ゑがかざる)所也。浪に、少々、古風を加へ、魚の赤鬃(ヲヲタイ)、靑魚(サバ)、梭魚(カマス)、鰮丁(ヒシコ)をあしらひ申候』とあるのを見出した(刊榊原悟「日本絵画の見方」(二〇〇四年角川学芸出版)を参考にしたが、引用は読点を増やし、漢字の一部を正字化して、一部の推定の読みをひらがなの歴史的仮名遣で私が加えた。カタカナの読み(ルビ)は当該書のママ。なお、「鰮丁(ヒシコ)」は鰯(いわし)のこと)。この赤鬃(ヲヲタイ)という記載に従えば、ここも「赤鬃」で「おほだひ(おおだい)」(=大鯛)と読んでいいということになろう。変な音読みをするよりも、この方がすっきりするし、後にも『棘鬣之大者』(棘鬣(きよくれふ)の大者(おほもの)。既に何度も述べた通り、「棘鬣魚(キョクリョウギョ)」(鋭い棘のタテガミ(背鰭)を持った魚)とは鯛の異称である)とあるのと響き合う。なお、マダイの学名の属名 Pagrus(パグルス)は、ギリシャ語でタイを示す「パグロス」のラテン語形で、種小名はラテン語で「大きい」を意味する major(マヨル)に由来し、Pagrus major という学名自体が「大きなタイ」の意なのである。]

2018/06/06

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 方頭魚 (アカアマダイ)

 

方頭魚【和名オキツダイ アマタイ】

 

Houtouuo

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いた。本図の魚は、巻子本二枚目のと同じ、

条鰭綱スズキ目スズキ亜目キツネアマダイ科 Malacanthidae(アマダイ(甘鯛)科 Branchiostegidae)アマダイ属 Branchiostegus

の一種であるが、これは頭部の形状と色彩から見て、所謂、「グジ」、

系スズキ目スズキ亜目アマダイ科アマダイ属アカアマダイ Branchiostegus japonicus

に同定する。「神港魚類株式会社」公式サイト内の「日本の旬・魚のお話」の鯛(あだい)」によれば、江戸時代に出版された『海魚考』(関西の出版物か)によると、『屈頭角(くずな)』で、『頭がケッタイにして屈(こご)むがごとし。故にクヅナと名付く』とし、『クジはクヅの転音なるべし』とあり、また、『「方頭角(くずな)」とも書き、頭が四角状をしていることを方頭(くず)と呼ぶことからとも言われている。いずれも形からきた命名』とある。但し、他にも『タジ(福井・石川)、グジ(京都・和歌山)、グチ(富山)』の呼称があるが、『これらの言葉は痘痕(あばた)の意味で、この魚の顔面の不定形斑紋をいう』という別説も掲げられてある。さらに、ここに出る「オキツダイ」についても、これは『興津鯛(静岡)』で『「おきつ」という奥女中が、家康公にこの魚を献じて賞味されたからとも、興津』(静岡県静岡市清水区の地名。附近(グーグル・マップ・データ))『方面に多く産することからともいう』とある。]

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 コダイ (キダイ 初めての「鯛」)

 

Kodai

 

棘鬣【コダイ ザヽメキ】

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いた。実に本巻子本の頭から数えて十八尾目にして、初め全体に「鯛」らしい形をしている魚図である。キャプションに大きく「棘鬣」とあるが、これは音で「キョクリョウ」(現代仮名遣)と読み、背鰭の棘条が鋭く目立つことから、「棘鬣魚」(きょくりょうぎょ)で「鯛」のことを指す(しかし、肝心の背鰭は棘条が刈り込まれてしまったようになっている。或いは魚屋が気を利かしたつもりで、丹洲(或いはこれは別人の魚譜の写本かも知れぬから別な博物学者か絵師)のもとの持って来た際、棘で先生が怪我しちゃいけねえ、ってんで実際に截ち切ってしまったものかも知れない。そんな風にいかにも背鰭が人工的にすっきり切られたような違和感があるのである)。但し、この図の魚、「鯛」らしくはあるが、所謂、正統真正のマダイ(条鰭綱スズキ目タイ科マダイ亜科マダイ属マダイ Pagrus major)などに比べると、どうも、顔つきがずんぐりむっくりしている。楕円形で体高が有意にある(実はマダイはもっとスマートである)点から、私は本図は、

スズキ目スズキ亜目タイ科キダイ属キダイ Dentex hypselosomus

ではないかと思う。にしても、真正のタイ科 Sparidae の種への同定は初めてであることに変わりがないのである。「ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑」の「キダイ」を見ると、地方名・流通名に「コダイ」があり、また、「ザサメキ」に近似したものに「メッキ」「メッキダイ」を見出せる。]

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十二年 出遊頻々

 

     出遊頻々

 

 「牡丹句録」を記念として厄月を切抜けた居士は、後半期に至って元気を取戻した。三月、四月と催したきり、また中絶になっていた歌会を七月から毎月開くこととし、その結果を『日本』に発表する。「歌話」を連載する外に「夏の草の花」「病牀瑣事」などの随筆が出る。『ホトトギス』にも従前通りいろいろなものを発表するようになった。

 「歌話」を草せんとしてはじめて田安宗武の歌を見、「驚喜雀躍に堪へず」車を駆(か)って神田に虚子氏を訪(と)うたのは八月二十三日であった。この日の事は「ゐざり車」といふ文章に尽されている。飄亭氏に「どうして来た」といわれて、「宗武にうかれて来た」と答えたほどで、動機は正にそこにあったが、一旦外に出るとなると、沿道にあるものを一物も逃さぬように観察する。夜になって帰る車上でも、北方の空に稲妻の閃くのを見て、稲妻十句を考えるという風であった。-年何回という居士の外出は、常人の想像を許さぬ重要なものだったのである。

[やぶちゃん注:「歌話」は国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから読めるが、田安宗武については、ここから始まる。

「田安宗武」(正徳五(一七一五)年~明和八(一七七一)年)は第八代将軍徳川吉宗の次男で、享保一六(一七三一)年に田安家を興した。国学者であると同時に歌人でもあった。初め荷田在満に学んだが、意見が対立し、後、賀茂真淵の指導を受けた。歌人としては、初め新古今風であったが,真淵の影響で万葉風に染まり、実情・実感に基づいた優れた和歌を多く残した。国学者としての著書は少ないが、安永六(一七七七)年に編纂された遺稿集「玉函叢説」には、表音式の見解が見え、後の上田秋成に大きな影響を与えた。次の段に出る歌集「天降言(あもりごと)」は没年以後に成ったものである(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]

 

 田安宗武の『天降言(あもりごと)』はいたく居士をよろこばした。勁健(けいけん)にして高華、古雅(こが)にして清新なる特色の外に、一見平凡のような歌を挙げて、その平凡の竟(つい)に平凡ならず、及び易からざることを論じたのは、居士の眼孔の一頭地を抽(ぬ)く所以であろう。「宗武は『萬葉』を學んでその骨髓を得たる者、その歌多くは萬葉調なり。されど『萬葉』を固守して其範圍を脱する能はざりしが如き無能者にはあらず」といい、『万葉』以外に得たるものとして、三句切の多いこと、てには止の多いことを算えている。これなども居士の意見として頗る味うべきものがある。実朝以後において居士の第二に得た歌人は宗武であった。

[やぶちゃん注:以上は「歌話」の(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)。]

 

 八月二十八日、居士は杖を買い求めて羯南翁の許まで歩いて行ったが、途中で閉口して帰りは人の背に負われて来た。「四年寐て一たびたてば木も草も皆眼の下に花咲きにけり」の歌、「杖によりて立上りけり萩の花」の句はこの際のものであろう。こういうよろこびもまた健康者の想像の外にある。

 九月二十八日にはまた遊意動いて「寐ながらに足袋はき帶結び」車で出た。この時は人を訪うのでなしに、根岸の附近を廻って歌を作るのが目的であった。この紀行が「道灌山」一篇となって『日本』に現れた。得るところの歌二十三首、外に俚歌(りか)が一つある。当時茅ヶ崎に病を養いつつあった佐藤玉山(宏)はこれを読んで「四十度の熱を載(の)せつゝ車遣(や)る道灌紀行見るもしづ心無し」の歌を居士の許に寄せ來(きたっ)た。玉山氏は『日本新聞』の一人、専ら外交問題に筆を執った人である。居士は「世も同じ病も同じしかれども我より若き君をあはれむ」の一首を贈って慰めたことがあったが、「道灌山」を読んで「しづ心無し」と気遣った人は、この年十一月十三日、三十歳を一期(いちご)として遂に起たなくなってしまった。

[やぶちゃん注:「道灌山」は「国文学研究資料館」の「電子資料館」にある「近代書誌・近代画像データベース」の山梨大学附属図書館近代文学文庫所蔵の「正岡子規 竹の里歌全集の画像で読める。随筆というよりも、語りが前書風に長く挟まった歌群と言えるものである。

「佐藤玉山(宏)」詳細事蹟不詳。]

 

 闇汁(やみじる)会とか、柚味噌(ゆみそ)会とかいうものが催されたのもこの秋の事である。ほととぎす発行所即ち虚子氏の許に集った人たちの間に、闇汁の催しが提議されて、各〻買って帰ったものを大鍋で煮て飽食するという事、医者になって帰国する露月氏を送るべく、道灌山に会した時、持寄(もちより)の御馳走の中に柚味噌があったという事、いずれも平凡な事柄に過ぎぬ。局外者から見れば楽屋落になりそうな事実を、「闇汁図解」なるものを作って、座席の模様と鍋に入れた品物を明(あきらか)にしたり、「何ぞ柚味噌と露月と相似るの甚しきや」というよう至とから、送別の辞を繰出したりして、一篇を興味ある読物としたのは慥(たしか)に居士の手腕である。居士の天分の一面は、こういう種類の文章によく発揮されているといっても差支ない。

[やぶちゃん注:「闇汁図解」は正字正仮名の「闇汁圖解」を青空文庫」で読める。無論、図も画像で添えられてある。]

 

 「小園の記」の系統に属する文章は、その後居士によってしばしば試みられ、「夏の夜の音」などの如く聴覚のみを働かした文章も現れたが、この年十月の『ホトトギス』に出た「飯待つ間」に至って、写生文の新な地歩はほぼ定(さだま)る観があった。朝飯を食わぬ居士が病牀に頰杖をついて、飯の出来るのを待ちながらぼんやり庭を眺めている。その間の見聞を記したもので、極めて短い文章ではあるが、「カツと疊の上に日がさした。飯が來た」という結末に至るまで、殆ど一点の隙もない。猫をつかまえていじめる子供の声の前後二度垣の外に聞えるのが、文章の山になっている。こういう家常茶飯事を捉えて、自由な、清新な、しかも完成した一篇としたものは、居士以前の文章には見当らない。居士としても「飯待つ間」あたりからはじまるもののように思われる。

[やぶちゃん注:「国立国会図書館デジタルコレクションので正字正仮名本文が読めるが、「青空文庫」の(本文は新字新仮名)では、後の『ホトトギス』第三巻第一号(明治三二(一八九九)年十月十日発行)に載った「猫の写生画」の子規自筆の絵とその原稿が見られる。]

 

 居士が『ホトトギス』に期待した文芸のうち、新体詩が先ずその影を消し、和歌も居士によって僅に存続する形であったが、この方は次第に『日本』に移り、居士の事業の両輪である『日本』と『ホトトギス』とが自ら分野を異(こと)にするようになった。ただ自然に芽を出した写生文だけは、『ホトトギス』を地盤として成長の勢を示し、碧、虚両氏の外に四方太(しほうだ)氏の文章が現れる。新に東上して『ホトトギス』の編輯に従事した青々(せいせい)氏も書くという風で、漸く賑になって来た。写生文の歴史を顧る者は三十二年というものを注意する必要がある。

[やぶちゃん注:「阪本四方太」(明治六(一八七三)年~大正六(一九一七)年)は鳥取県出身の俳人。既出既注であるが再掲しておく。本名は「よもた」と読む。東京帝大助手を経、助教授兼司書官ともなった。正岡子規の門人となり、『ホトトギス』で活躍した。

「松瀬青々」(まつせせいせい 明治二(一八六九)年~昭和一二(一九三七)年)は大阪市出身の俳人。ウィキの「松瀬青々」によれば、『倦鳥』を創刊・主宰。『関西俳壇でホトトギス派の俳人として重きをなした。本名・弥三郎』。『大阪市東区大川町に長男として生まれる。家業は薪炭商。北浜上等小学校卒業の頃より』、『小原竹香に詩文を、福田直之進に漢学を学び』、二十『歳を過ぎてより』、『池田蘆州に漢学を学』んだ。明治二八(一八九五)年、『第一銀行大阪支店に入行。同僚と句作を試み、また蓼生園(たでふのその)中村良顯に和歌を学び』、『邦武と号した』。二年後、松山発行の『ほととぎす』第四号にて『虚子選に入選。初号は無心。また』、新聞『日本』や青年雑誌『文庫』にも『孤雲の号で投句。後者の選で高浜虚子は「投句六十、悉く之を採るも可」と賞賛』している。明治三一(一八九八)年、『青々に改号。同年に結婚。また』、『正岡子規の「明治三十一年の俳句界」(『ホトトギス』』一『月号)にて「大阪に青々あり」と賞賛を受ける』。七月、『銀行を退社し』、九月に『上京、「ホトトギス」の編集係に就』いていた。明治三三(一九〇〇)年、『ホトトギスを退社、大阪に戻り大阪朝日新聞社に入社。会計部に務めながら』、『俳句欄選者を担当する』。翌年には『寶船』を『創刊・主宰』し、明治三七(一九〇四)年に句集「妻木冬之部」を刊行。これは存命中に刊行されたものとしては最古の個人句集である』。明治四四(一九一一)年一月、『寶船』に『河東碧梧桐の新傾向俳句に対する批判を掲載』している。翌年、『大阪朝日新聞社を退社し』、『編集部嘱託とな』った。大正四(一九一五)年十一月、『寶船』を改題して『倦鳥』とした。大正一四(一九二五)年六月には『倦鳥』を『林表』に改題した上、『経営を井上麦秋に託し、これとは別に青々の個人誌として』また別な『倦鳥』を創刊するも、大正一五(一九二六)年一月には、両者を合併して『倦鳥』に戻している。『代表句に「雨雲のよせつゝ凄き火串かな」「日盛りに蝶のふれ合ふ音すなり」などがある。初期には与謝蕪村に傾倒して天明調の句を詠み子規に賞賛されたが、のちには芭蕉に傾倒し』、『その研究に努めた。古季語、難季語を意欲的に詠んだ点も特筆される』。『古典によく通じ、しばしば漢詩や古典の気に入った詩句に思いを寄せることで句を作り』、『これを「字がらみ作句法」と称した』。『漢籍から「春泥」「薄暑」』『といった季語を使用し』、『定着させた。また』、『独自の俳画を切り開き』、『しばしば』その『個展を開いて』もいる、とある。]

進化論講話 丘淺次郎 第十六章 遺傳性の研究(三) 三 遺傳する性質の分離

 

     三 遺傳する性質の分離

Eodouzasyu

[豌豆の雜種]

[やぶちゃん注:図は底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングし、補正して用いた。後の「蝸牛の雜種」も同じ。]

 

 メンデルが實驗研究によつて見出した最も大切なことは、雜種の第二代以後には兩親の相異なつた性質が再び分離することである。前に例に擧げた碗豆の實驗によると、黃色い豆のなる品種と靑い豆のなる品種との間の第一代雜種には、黃色の豆ばかりが出來たが、更に之を蒔いて第二代の雜種を造ると、この度は黃色い豆と靑い豆との兩方が出來る。然もその間には數の割合が略一定して、全體の數を出來るだけ多くして實驗して見ると、大抵黃色の豆三に對して靑い豆一の割合になつて居る。メンデル自身の行つた實驗に實際現れた數をいうて見ると、總數八千二十三粒の豆の中で、黃色いのが六千二十二粒、靑いのが二千一粒あつた。外見上は斯く二種類に分かれたやうであるが、之を蒔いて、更に第三代の雜種を造つて見ると、靑い豆からは、たゞ靑い豆ばかりが生ずるが、黃色い豆からは、黃色い豆だけのなるものと、黃色い豆と靑い豆とが、約三と一との割合に出來るものとの二種類が生れる。而してこの二種類の數の割合は、前のもの一に對して後のもの二に當る。かやうな結果から考へると、第二代雜種は實は三組に分れたのであつて、その中の二組が外見上區別が出來ぬために混同せられてあつたことが知れる。卽ち第二代雜種の總數の約四分の一は純粹な靑い豆、約四分の一は純粹な黃色い豆、而して殘り四分の二は第一代雜種と同樣な混合性のものである。第三代は前に述べた通りであるが、更に引き續いて雜種の第四代・第五代等を培養すると、靑い豆からは靑い豆のみが生じ、純粹の黃色の豆からは黃色の豆のみが生じ、混合性の黃色い豆からは黃色い豆と靑い豆とが三と一との割合に生ずる。それ故、一代每に初めの兩親と同じやうな純粹な黃色い豆と靑い豆との數が盛に殖え、混合性の黃色い豆は總數に比して著しく減じ、十代目には、純粹な黃豆・靑豆各數百粒に對して、混合性の黃豆が僅に一粒の割合、二十代目には、純粹な黃豆・靑豆各數十萬粒に對して、混合性の黃豆が僅に一粒の割合と成り、雜種の子孫も殆ど悉く初の[やぶちゃん注:ここは底本は「い」であるが、読めないので、学術文庫版で訂した。]兩親と同樣な純粹な二品種に分かれてしまふ。之がメンデルの所謂「分離の法則」である。

[やぶちゃん注:「分離の法則」(ドイツ語:Spaltungsregel, Spaltungsgesetz/英語:law of segregation)はメンデルの遺伝法則の一つで、最も基本的なもの。対立形質を支配する一対の対立遺伝子が、雑種第一代(F)の個体で維持され、配偶子が形成される際、互いに分れて、別々の細胞に入ることを指す。より普遍的には、接合体に於いて、相同染色体上の同一遺伝子座を占める両親由来の二個の遺伝子は、配偶子が形成される時に、分離し、その結果、雑種第二代(F)や、戻し交雑(最初の親の内の片方と再び交配させること)第一代(B)で形質の分離が起ることを指す。以上は所持する「岩波 生物学辞典 第四版」に拠ったが、同辞典の「分離の歪み」(英語:segregation distortion)も引いておく。メンデル遺伝において、期待される分離比が得られない、則ち、「分離の法則」に従わない現象を「分離の歪み」と呼ぶ。メンデル遺伝では接合体中の相同遺伝子は配偶子に均等に分配される。しかし、この公平さを誤魔化す遺伝子が存在し、メンデル遺伝の歪みとして現われてくる。最もよく知られた例は、キイロショウジョウバエのSD因子(segregation distorter)で、SD/+ヘテロ接合体では+染色体を持つ精子の形成が阻害され、SD染色体を持つ精子が高率で形成される。その結果SD/+SDホモ接合体のような分離比を示すケースである。この他にも、マウスのt遺伝子をはじめ,蚊やバッタ類、植物ではトウモロコシ・タバコ等でも類似の「誤魔化し遺伝子」が存在する、とある。]

 

Katatumurizasyu

[蝸牛の雜種

圖中白色は黃色を表すまた第二段は第一代

雜種を表し以下順次第二代第三代を表す]

 

 かやうなことは素より碗豆に限る譯ではなく、その他にも澤山な例がある。動物から一例を擧げて見るに、蝸牛の或る種類には樣々の變異があるが、その中で、殼が全部黃色で條の少しもないものと、五本の太い黑條のあるものとの間に、幾代も雜種を造つて見た所が、實驗の結果は全く碗豆の場合と同じく、黃色のものが優勢、黑條のある方が劣勢で、第一代雜種は悉く黃色のものばかりが出來、第二代雜種に至つて、黃色のもの約四分の三と黑條のあるもの約四分の一とに分れた。また蠶の白色のものと黑い橫條のあるものとの間では、蝸牛とは反對に、黑條のある方が優勢で、第一代雜種には悉く黑條が現れ、第二代雜種に至つて黑條のあるもの約四分の三と白色のもの約四分の一とに分れる。

 

Osiroibanazasyu

[おしろい花の雜種]

[やぶちゃん注:下部の図の外に右下に、図中の「一」「二」「三」の記号について、

一 第一代雜種

中央下に、

二 第二代雜種

左下に、

三 第三代雜種

のキャプションがある。これも国立国会図書館デジタルコレクションの画像。講談社学術文庫版ではこの図はカットされて存在しない。]

 

 前にも述べた通り、第一代雜種が一方の親のみに似ず兩親の中間の性質を現すことがある。例へば「おしろい花」の赤と白との間の雜種は、第一代には皆桃色であるが、これが第二代になると、赤と白と桃色との三種類に分れる、而してその數の割合は約赤一・白一に對して桃色二となるから、たゞ純粹の赤と混合性の桃色とが外見上明に區別せられ得るといふだけで、その他には何も碗豆の場合と違つた所はない。櫻草などの品種にもかやうな中間の性質を示す雜種を生ずるものがある。第一代雜種が丁度兩親の中間の性質を現すときは、雨親の相異なる性質の中、何れを優勢何れを劣勢と定めることは困難であるが、斯かる場合にでも第二代になると、明に兩親の性質が相分離する。アンダルーシャンといふ鷄の黑色の品種と白色の品種との間には、第一代雜種として黑白の極めて細かい霜降りのものが出來るが、鳥屋は從來之を「靑」と呼んで居る。所が、この「靑」の産んだ子、卽ち第二代雜種には如何なるものが出來るかといふと、決して「靑」のみが生れず、約白一・黑一・靑二の割合に三種類に分れてしまふ。されば「靑」といふ定まつた品種は、何時まで過ぎても出來ず、絶えず黑と白とを親鳥として新に造らなければ、「靑」の數は一代每に著しく減じて行く。この遺傳の仕方は前の「おしろい花」に於けると全く同樣である。

[やぶちゃん注:「アンダルーシャンといふ鷄の」「品種」不詳。識者の御教授を乞う。]

 

 さて、かやうに雜種の第二代目以後に兩親の性質が再び分離するのは何故であるかとの問に對するメンデルの考は、略次の如くである。凡そ子の出來るのは動物でも植物でも、雄性と雌性との二種の生殖細胞が相合することが必要である。動物ならば精蟲と卵細胞、顯花植物ならば、雄蘂の先に出來る花粉と雌蘂の内部にある胚珠とが、合して初めて一個の新しい生物個體が生ずるのである。そこで黃色の豆のなる碗豆には豆を黃色ならしむる性質があつて、その生殖細胞には花粉にも胚珠にもこの性質が含まれてあり、また靑色の豆のなる碗豆には豆を靑からしむる性質があつて、その生殖細胞には花粉にも胚珠にもこの性質が含まれてある。それ故、孰れの花粉を孰れの花に附けて造つても、第一代雜種は皆黃の性質と靑の性質とを合せ具へ、黃が優勢ならば、外見上たゞ黃の性質のみを現すが、この代の碗豆が成長して花粉や胚珠を生ずるに當つては、黃と靑との性質は決して同一の生殖細胞内に雜居せず、相別れて、或る花粉と胚珠とには黃の性質のみが傳はり、他の花粉と胚珠とには靑の性質のみが傳はる。卽ち花粉も胚珠も黃性と靑性と二通りづつ出來る故、之が相合して子を生ずるものとすれば、黃性の花粉が黃性の胚珠に合する場合と、靑性の花粉が靑性の胚珠に合する場合と、花粉と胚珠との何れか一方が黃性で他方が靑性の場合と、都合三つの合し方があり、隨つて出來た子にも、純粹の黃色のもの、純粹の靑色のもの、及び混合性のものとの三種類が出來る筈で、若し黃色が優勢ならば混合性のものは外見上黃色のみを現すであらう。また若し花粉も胚珠も黃と靑とが同數であつたとすれば、以上三種類の子の數は、約一と一と二との割合に出來る筈であつて、若し混合性のものが純粹の黃色と少しも違はぬ場合には、靑一に對し黃三の割合となる。讐へていへば、こゝに男を千人集めて、五百人には黃札を渡し、五百人には靑札を渡し、別に女を千人集めて、これにも五百人に黃札、五百人に靑札を持たせ、互に札を見ずに勝手に配偶を求めしめたとすれば、恐らく男も女も黃札を持つて居るものが約二百五十組、男も女も靑札を持つて居るものが約二百五十組、黃札と靑札とか二枚づつ持つて居るものが約五百組出來る勘定である。而して黃札か二枚でも二枚でも持つて居る組と、靑札より外は持たぬ組とに分けて算へれば、黃組七百五十に對し、靑組は二百五十で、丁度その三分の一に當る。メンデルの考は概略これに似たもの故、兩親の相異なる性質が雜種の第二代目に至つて明に豫定の割合に分れる場合には、學説の豫期する所と實驗研究の結果とが、完全に一致したことに成る。されば、碗豆の雜種、蝸牛の雜種、その他これと同樣の場合には、メンデルの考へた説が事實に當て嵌まつて居ると認めるの外はない。

 然し總べての雜種は第二代以後に至つて、段々初めの兩親の通りのものに分れるかといふと、實際に於てはなかなかさやうなわけではない。例へば人間の皮膚の色に就いていうても、日本人と西洋人との間の子[やぶちゃん注:「あいのこ」。多分に蔑称として用いられてきた経緯があるので今は使うべきではない。]が、同じ間の子と結婚したならば、その子は平均四人の中、人は純日本人、人は純西洋人で、殘り二人が間の子の色であるかといふと、決してさやうには行かぬ。南アメリカ邊では、黑人と白人との間の子が已に幾代となく繼續して居るが、たゞ色の稍黑い者や稍白い者などが樣々に生ずるだけで、決して黃色の碗豆と靑い碗豆との如くに速に分離しさうな傾[やぶちゃん注:「かたむき」。]は見えぬ。我が國の犬でもその通りで、初めは純粹な日本種ばかりの所へ純粹な西洋犬が入り込んで、盛に間の子が出來たのであらうが、その後今日に至るまで、種々の程度の雜種が跋扈するばかりで、純粹な日本犬の毛色も、純粹な西洋犬の毛色も、往來などでは殆ど見られぬやうになつた。また兩親の性質に優劣の差のある場合には、第二代に劣勢の性質を現して居るものは、悉く一方の親と同樣に純粹なもので、その子孫は總べてその通りの性質を示すべき理窟であるが、實際には之からまた相手の優勢の方の性質を現す子が生れることがある。例へば普通には眼の色の靑いことは劣勢の性質、鳶色は優勢の性質であるが、兩人ともに眼の靑い夫婦の間に往々鳶色の眼を持つた子供の出來ることがある。その他、第一代雜種は總べて性質が揃つて居ても、第二代になると種々雜多なものが出來て、殆ど類別するにも困るやうな場合がある。

 斯くの如き次第故、雜種の二代以後に兩親の性質が如何に遺傳するかは、決して何時でも一種の型に從ふものではない。卽ち兩親の性質が判然と相分れる場合もあれば、不完全に分れる場合もあり、また全く分れぬ場合もある。且判然と分れる場合にも、數の割合が丸で豫定と反對のこともあり、不完全に分れて樣々のものの生ずる場合などは、到底數の割合も一定せぬ。前の碗豆の例の如きは、その中で最も簡單な、最も規則正しい場合であつて、メンデルの「分離の法則」がそのまゝに當て嵌まるのはかやうなものだけである。その他の場合には餘程變更しなければ當て嵌まらぬものが多く、また如何に變更しても全く當て嵌まらぬものも少くない。一言でいへば、メンデルの所謂分離の法則は、遺傳の仕方に樣々の種類のある中の一つの型に過ぎぬ。素より、斯かる型のあることを發見したのは、メンデルの大なる功績で、遣傳の研究上に一新紀元を造つたことは疑ないが、今日はメンデル説全盛のため總べての遺傳はこの型に從ふべきものと見倣し、如何なる場合をもこの型に嵌め込んで説明せんと努める學者が多勢あり、その結果として澤山の眞[やぶちゃん注:「まこと」]らしからぬ假説が考へ出されて居るやうに見受ける。

「沖繩縣民 斯ク戰ヘリ   縣民ニ對シ 後世 特別ノ御高配ヲ 賜ランコトヲ」

 
七十三年前、昭和20(1945)年の今日、6月6日午後8時16分、沖縄戦に於いて沖縄海軍根拠地隊司令官太田実少将が海軍次官宛に対し、決別電報を打っている(全文はウィキの「大田実」で読める)。
 
決別電は、当時の訣別電報の常套句だった「天皇陛下万歳」「皇国ノ弥栄ヲ祈ル」などの言葉は一切なく、ひたすら、沖縄県民の敢闘の様子を訴えており、その最後は、
 
「沖繩縣民 斯ク戰ヘリ
  縣民ニ對シ 後世 特別ノ御高配ヲ 賜ランコトヲ」
 
で結ばれている(一部に字空けを施した)。
 
七十三年間、日本政府はただの一度もこれに応えていない――

諸國里人談卷之二 根矢鉾立【幷鼡喰石】

 

    ○根矢鉾立(ねやのほこたて)【幷〔ならびに〕鼡喰石】

越後、出羽の界(さかひ)に根矢浦(ねやうら)といふ所、海中に圓(まどか)に高き大石あり。徑(わた)り百間余、これを「根矢の鉾立」と云〔いふ〕。「此石に寄生虫(がうなむし)、這(は)ひ上り、石の頂(いたゞき)に至れば、天上す」と、いひつたへたり。「皆、半途(はんと)より落〔おつ〕る」となり。裾(すそ)に寄生(がうな)の空貝(からがひ)、眞砂(まさご)のごとくに、あり。○又、根矢浦より三里、出羽のかたに鼠関(ねづがせき)といふあり。此所の石、すべて、鼡の喰(くい)たる跡のごとくにして、穴、あり。

[やぶちゃん注:添え題の「鼡喰石」は読み方不詳。「ねずみくらいいし」「ねずくいいし」「そじきせき」(現代仮名遣。「喰」は国字で本来は音がない。「ジキ」は「食」の音の当て読み)の孰れも語呂が悪い。本条の挿絵が後に別にここに載る(左上。リンク先は「早稲田大学図書館古典総合データベース」の①)のであるが、これだけ特徴的なランドマークなのに、この名、「根矢鉾立」「根矢浦」が全く見当たらない。しかし、鼠ヶ関の南方三里を地図上で探してみると、多少、オーバーするが、直線で十四キロメートルの位置に「笹川流れ」(新潟県村上市内の鳥越山から狐崎までの全長十一キロメートルに及ぶ海岸の名勝名)という、浸食により形成された奇岩・怪石などの岩礁や洞窟などのある場所が見出せた。(グーグル・マップ・データ。それでは判らないが、国土地理院地図この附近に多数の岩礁群が確認出来る)である。にい観光ナビ」笹川れ」の写真を見ると、なんだか、それらしい巨大な(映り込んでいる観光船のサイズを比較せよ)岩の島があるんだが? ここかなぁ? 識者の御教授を切に乞う

「徑(わた)り百間余」直径百八十一メートル。

「寄生虫(がうなむし)」「寄居蟲」「宿借」で、甲殻亜門軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目異尾(ヤドカリ)下目ヤドカリ上科 Paguroidea のヤドカリ類のこと。古語では「かみな」が最古形で、そこから転訛して「かむな・かうな・がうな・ごうな」などと呼ばれていた。なお、ここに出る「ヤドカリ昇天伝承」はすこぶる珍しいもので、海産無脊椎動物フリークの私は非常に興味があるのだが、誰か、この伝承を別に書いたもの、言い伝えを御存じの方、是非ともお教え願いたい!

「裾(すそ)に寄生(がうな)の空貝(からがひ)、眞砂(まさご)のごとくに、あり」「空貝」(「からがひ」は①に拠ったが、実は③には「うつせがい」のルビがあり、私はその読みの方が好みである)この直前の記載からは、彼ら「やどかり」らは、悉く、昇天出来ずに、その鉾立て岩の中腹から落下するというのであるから、この空貝(うつせがい)はそのように落下して死んでしまった「やどかり」骸(なきがら)(事実は、単なる死んだ貝なのであるが)だと沾涼は謂いたいのであろう。

「鼠関(ねづがせき)」山形県鶴岡市鼠ヶ関にある古関跡。ウィキの「鼠ヶ関によれば、『蝦夷に対して置かれた城柵の一つである都岐沙羅柵が鼠ヶ関周辺にあったのではないかという説があるが、確たる証拠は発見されていない』。『平安時代には白河関・勿来関とともに奥羽三関と呼ばれ、東北地方への玄関になっていた。当時の文書には根津とする表記もある』『江戸時代には「念珠関」「念珠ヶ関」と表記されており(読みは同じく「ねずがせき」)、現在の県境より』一キロメートル『ほど北にあって』、明治五(一八七二)年に『廃止されるまで』、『北国街道と羽州浜街道の境になっていた』とある。(グーグル・マップ・データ)。

「此所の石、すべて、鼡の喰(くい)たる跡のごとくにして、穴、あり」個人ブログらしい「鼠ヶ関より」の鼠ヶ関の地名についてを読むと、十一世紀に成立した歌学書「能因歌枕」の「出羽の部」の始めに「ねずみの関」とあるのが文献上の初見とあり、室町時代に成立した源義経の一代記である「義経記」では、義経一行が「念種関」を通過したと出るとし(但し、同作では関を通ってから「はらかい」(原海(はらみ))という所に着いたとあり、これは現在の鼠ヶ関の位置とは相違する。「原海」は新潟県との県境から鼠ヶ関駅辺りまでの地名で原海であり、ここから先、港に添って鼠ヶ関川を渡り、北進してやっと念珠関(跡)に達するからである旨の記載がある)、語源説には、ここで沾涼が言う、『鼠が食った跡のような穴があいている石』が多くこの関所附近にある『からというのや、寝ずに張番をした関所、また根締が関からの転』などが挙げられるが、そのまま退けられており(従って、この「鼡の喰(くい)たる跡のごと」き「穴」のある石の考証はしない。恐らくは海岸端の風波に浸食された岩(泥岩系)か)、最後に結論として、『この関は、京、鎌倉の南と、出羽、陸奥の北を分けるものであった。これは「南」最北端であり、北陸道の北限であった。そしてその位置に、北からの侵入を防ぎ、南からの逃亡を妨げるために、関が置かれたものである。だから鼠ヶ関は、山形県の荘内地方の地名としては、考えてはいけないのである』。『こう考え』『ると、「ねずみの関」のねずみは、自ら正体を現すであろう。これは「子の関」なのである。子は北方を意味するのである。私の考えでは越の国の最北端に置かれたのが、子の関であり、これが「ねずみの関」になり、「鼠ヶ関」になったのであろうと思われる』とある。非常に共感出来る解釈である。]

諸國里人談卷之二 ※石(さゞれいし) [「※」=「石」+(つくり:「而」(上)+「大」(下)]

 

    ○※石(さゞれいし)

[やぶちゃん注:「※」=「石」+(つくり:「而」(上)+「大」(下)。]

安藝國加部庄(かべのしやう)金龜山(きんきさん)福王寺の什貲(じうし)の奇石あり。むかし、淸和天皇貞觀五年の春、紀伊國千里(ちり)の濱に、夜な夜な、光明を、はなつ。浦人、その所を需(もとむ)るに、ひとつの※石(さゞれいし)あり。同八年、右大臣良相(よしすけ)卿の百華亭に御幸ありける。是を「大御幸(〔おほ〕みゆき)」と稱せり。此ために、紀伊國より、とりよせ給ふなりける。此事、「伊勢物語」に云〔いはく〕、

 

三條のおほみゆきせし時、きの國千里の濱にありける、いとおもしろき石、奉しかば、ある人の、みさうしのまへのみぞにすへたりしを、

「嶋、このみ給ふ君なり。此石を奉らん。」

と、の給ひて、みずいじん、とねりして、とりにつかはす。いくばくもなくて、もてきぬ。此石、きゝしより、見るは、まされり。

「これをたゞに奉らんはすゞろなるべし。」

とて、人々、歌をよませ給ふ。右の馬のかみなりける人のを、なん、あをき苔をきざみて、まきゑのかたに此歌を、なん、つけて、たてまつりける。

 あかねどもいはにぞかふる色見えぬ心を見せんよしのなければ

 

此石、其後(そののち)、二條后(きさき)に給はりしなり。後醍醐天皇、觀應二年に中納言公忠(きんたゞ)に賜ふ。その冬、勅勘によつて、安藝國へ左遷せられける。安藝の守護武田伊豆守氏信、頻りに望むによつて、伊豆守に傳ふ。氏信、よろこび、城中へ納めければ、光り物して、晝夜、鳴動、やまず。故(かるがゆへ)に福王寺へ納めける也。其後、また、大江輝元、城中へ入〔いり〕けるに、雷(らい)のごとくに鳴動す。一夜(や)止(とゞめ)て、福王寺へ返す。持行〔もちゆ〕く時は人夫八人をして、やうやう運ぶ。皈〔かへ〕る時は、一人して、かろし、となり。又、福島正則、此寺に來りて、石を一見して、「奇特〔きどく〕をあらはせ」と扇を以〔もつて〕扣(たゝ)きければ、俄に、雨、車軸、雷電して、大洪水してげり。今以〔もつて〕、當寺の什寶(じうほう)とす。

[やぶちゃん注:読み易さを考え、「伊勢物語」の引用部を改行し、前後を一行空けた。本条の挿絵が後に別にここに載る(左上。千里の浜からの移送図であろう。リンク先は「早稲田大学図書館古典総合データベース」の①)。因みに、吉川弘文館随筆大成版は「苔」を『筆』と翻刻している。単純に読んでも、「筆」では意味が通じまい。崩し字もよく調べれば「苔」であることは疑いない。というより、「伊勢物語」に当っていれば、こんなおかしな判読は逆立ちしても出ようがない。頗る不審極まりないことである。こんないい加減な校訂をしておいて、無断複写・複製を禁じている(だから、私はその綺麗な挿絵を当該書から採らず、リンクで我慢している)のはちゃんちゃらおかしい

「※石(さゞれいし)」(「※」=「石」+(つくり:「而」(上)+「大」))一般には「細石」と書く。「さざれ石」は、もともとは一般名詞で単に「小さな石」のことを指す語であるが、自然界に於いて一定の条件下、長い年月をかけて、小石群やその欠片の隙間を炭酸カルシウムや水酸化鉄が自然に埋めてゆく(充填してゆく)ことによって、一つの大きな岩塊に変化した石塊を指すようにもなった。こうして出来た岩石は学術的には「石灰質角礫岩」などと呼称される。石灰岩が雨水で溶解して生じた乳状液(粘着力が強い)が、少しずつ、小石を凝結してゆき、石灰質の作用によってコンクリート状に固まって生ずる。なお、「君が代」の「さざれ石」は、この特異な形成を経て出来る岩石を知っていて確信犯で詠んだものではなく、単に、小石が巨石となるような、気の遠くなるような非常に永い永い年月の比喩表現に過ぎない(以上はウィキの「さざれ石」に拠った)。ここも、その「小石が大石となる奇石」としての「さざれ石」のことを指している

「安藝國加部庄(かべのしやう)金龜山(きんきさん)福王寺」現在の広島県広島市安佐北区可部町大字綾ケ谷にある真言宗の寺。

「什貲(じうし)」「貲」は「宝」に同じであるから、家宝として秘蔵する器物・什物のこと。「福王寺」公式サイトのこちらに、「芸藩通志」(文政八(一八二五)年に、「福王寺にあり。高一尺三寸、長二尺八寸、上、圓(まどか)に、中、高く、下、平(たひら)にして、色は演鐡の如く、玲朧として愛玩すベ」きもので、「淸和天皇の時、紀伊の千里濱より出で、伊勢物語にのせられしは、此石なり」とあるものである(一部、疑問があるので操作を加えた)が、昭和五二(一九七七)年の落雷による火災で燃燬(しょうき:焼くこと。焼き払うこと。)している、とある。しかし、『「さざれ石」(客殿に保管)』として、写真が載るので、現存することが判る。

「淸和天皇貞觀五年」八六三年。

「紀伊國千里(ちり)の濱」現在の和歌山県日高郡みなべ町(ちょう)にある千里(せんり)の浜。太平洋に面しており、長さ約二キロメートル。ここ(グーグル・マップ・データ)。古くは白砂清松の浜として熊野参詣道の一部であった。東直近の反対側の岬を見下ろすところにある「小目津公園(こめづこうえん)」にこの石があり、その解説板に、『「伊勢物語」に』、貞観五年に『千里の浜で発見された「おもしろき石(さざれ石)」と記され、歴代天皇が愛好』したもので、『「さざれ石」は「万葉集」や「古今和歌集」にも見え、玉に次ぐ美石(大漢和辞典)、小石・細石(広辞苑)などと称され』、約七、八百万年前に『堆積した「目津礫層(めづれきそう)」が崩れた石』とある、ということが、そこにある「さざれ石」の写真とともに、麻巳子氏のブログ「癒しの和歌山」の「☆さざれ石と「小目津公園」☆」にあった。

「右大臣良相(よしすけ)」藤原良相(弘仁四(八一三)年~貞観九(八六七)年)は公卿。藤原北家。左大臣藤原冬嗣の五男。官位は正二位・右大臣。文徳天皇の外叔父。ウィキの「藤原良相」にもあるが、その他の信頼出来るデータとも照合すると、貞観八(八六六)年三月二十三日良相の西三条邸(「百花亭」(=「百華亭」)と号した)に清和天皇が行幸し、四十人もの文人を参加させた、詩歌会を伴った大規模な花見の宴が開催されており、これが後の「伊勢物語」に出る「大御幸(おほみゆき)」であることが判明した。

「此ために、紀伊國より、とりよせ給ふなりける」「伊勢物語」を読むに、これは「ある人物」が主語で、藤原良相に献上するために取り寄せたということが判る。しかし、それはこの清和天皇の「大御幸」には実は間に合わなかったという、かなり捩じれた複雑なシチュエーションである。しかし、ここで沾涼はそれを巧妙にカットされてしまっており、それを読み取ることは不可能になってしまっている。以下の「伊勢物語」の引用を参照されたい。

『此事、「伊勢物語」に云……』「伊勢物語」第七十八段。

   *

 むかし、多賀幾子(たかきこ)と申す女御おはしましけり。うせ給ひて七七日(なななぬか)のみわざ、安祥寺(あんしやうじ)にてしけり。右大將藤原の常行といふ人、いまそかりけり。そのみわざにまうで給ひて、かへさに、山科の禪師の親王おはします、その山科の宮に、瀧、落し、水、走らせなどして、おもろしく造られたるにまうでたまうて、

「年ごろ、よそには仕うまつれど、近くは、いまだ仕うまつらず。今宵は、ここにさぶらはむ。」

と申し給ふ。

 親王、喜びたまうて、夜(よる)の御座(おまし)の設(まう)けせさせ給ふ。

 さるに、かの大將、いでて、たばかりたまふやう、

「宮仕へのはじめに、ただ、なほ、やはあるべき。三條の大御幸(おほみゆき)せし時、紀の國の千里(ちさと)の濱にありける、いとおもしろき石、奉れりき。大御幸の後(のち)、奉りしかば、ある人の御曹司(おほんざうし)の前の溝(みぞ)にすゑたりしを、

『島このみたまふ君なり。この石を奉らむ。』

とのたまひて、御隨身(みずいじん)・舍人(とねり)して、取りにつかはす。いくばくもなくて、持(も)て來(き)ぬ。この石、聞きしよりは、見るは、まされり。

『これを、ただに奉らば、すずろなるべし。』

とて、人々に歌よませ給ふ。右の馬の頭(かみ)なりける人のをなむ、靑き苔をきざみて、蒔繪(まきゑ)のかたに、この歌をつけて、奉りける。

 飽(あ)かねども岩にぞかふる色見えぬ

   心を見せむよしのなければ

となむ、よめりける。

   *

以下、上記の注を附す(新潮日本古典集成の渡辺実校注「伊勢物語」(昭和五一(一九七六)年刊)を参考にした)。

・「多賀幾子(たかきこ)」前に出た藤原良相の娘で、文徳天皇の女御。生年未詳。天安二(八五八)年十一月十四日薨去

・「七七日(なななぬか)のみわざ」四十九日の法要。

・「安祥寺」現在、京都市山科区御陵平林にある(応仁の乱で廃絶し、江戸時代に場所を移して寺の一部が再興されたもの)真言宗吉祥山安祥寺朝廷所縁の定額寺の一つ。

・「右大將藤原の常行」藤原良行(承和三(八三六)年~貞観一七(八七五)年)は藤原良相の長男。官位は正三位・大納言。多賀幾子の兄(異母兄か)。渡辺実氏は恐らくはこの多賀幾子の法要の主催者であろうとされる。

・「みわざ」「御業」。御法要。

・「かへさに」帰り道に。

・「山科の禪師の親王」仁明天皇の第四皇子人康親王(さねやすしんのう 天長八(八三一)年~貞観一四(八七二)年)第五十五代文徳天皇の異母弟で、後の第五十八代光孝天皇の同母弟。貞観元(八五九)年に病気を理由に出家し、法性と号した(少年期より出家の意志があったともされる)。ウィキの「人康親王」によれば、『出家後は諸羽山の麓、現在の京都府京都市山科区四ノ宮に山荘を造営して隠棲し、山科』禅師『宮と称した。この山荘は川を走らせ』、『滝を造るなど』、『趣深く造られていたという』(「伊勢物語」の本段に拠る)。『なお、四ノ宮の地名も親王が仁明天皇の第四皇子であった事に因むとする説がある』とある。但し、以上の太字部を見て貰っても判る通り、渡辺氏によれば、『多賀幾子の法事はもっと早いはずで、史実と物語とが一致しない。だから別人だという説もあるのだが、窮屈に考える必要はあるまい』と言い添えておられる。

「年ごろ、よそには仕うまつれど、近くは、いまだ仕うまつらず。今宵は、ここにさぶらはむ。」永年、よそながら(直接ではなく、間接的に)お仕えして致しておりましたが、御側近くには、未だ嘗て伺候致いたことが御座いません。今宵は一つ、ここで御側近く、お相手申し上げましょう。

・「夜(よる)の御座(おまし)の設(まう)け」常行のための夜の寝所の用意。

・「さるに」その間。

・「いでて」(一時、)親王の御前より下がって(席を外して)。

・「たばかりたまふやう」常行を客人扱いして下さる親王に対し、常行が、ただその厚意を受けるわけには行かないから、それに対する御礼として、「あれこれ、趣向をお考えなさることには」の意。

・「宮仕へのはじめ」かく、初めて直(じか)に御側へ伺候致すに際し。

・「ただ、なほ、やはあるべき」反語。ただ、何の献上品も差し上げぬということが、あってよいものか、いや、大いによろしくない。

・「三條の大御幸(おほみゆき)せし時」先に示した通り、清和天皇が良相の西三条にある自邸「百華亭」に行幸したのは、貞観八(八六六)年三月二十三日のことで、『この行幸も史実としてはこの法事の七年ほど後のことで、物語とは前後が一致しない』と渡辺氏の注にある(太字やぶちゃん)。

・「大御幸の後(のち)、奉りしかば」良相にその石(残念ながら、「伊勢物語」にはどこにも「さざれ石」とは書かれてはいない)を献上した人物は清和天皇の大御幸に合わせて、献上しようとしたのであるが、手筈が狂って、大御幸が終わって後に持ち込まれたために。

・「ある人の御曹司(おほんざうし)」渡辺氏の頭注に『女房の局(つぼね)であろう』とある。無論、西三条邸(百華亭)の中にある、の意である。

・「溝(みぞ)」溝(どぶ)の意ではなく、坪庭に引き込んだ小流れのことであろう。

・「島」『池野中の島を、庭園の中心として言ったもの』(渡辺氏頭注)。「庭」に言い換えてよい。

・「御隨身(みずいじん)」弓矢を背負い、帯剣して、貴人の外出に随従した近衛府の武装した舎人(とねり:雑役を担当する召使)。護衛役。ガードマン。

・「これを、ただに奉らば、すずろなるべし。」これをなんの添え事もなく、そのまま差し出すというのでは、いかにも無風流に過ぎるというものだ。

・「人々」以上の随身や舎人といった供人たち。

・「右の馬の頭なりける人」この場合、渡辺氏によれば、「伊勢物語」のモデルである在原『業平を指すつもりであろう』とある。

・「靑き苔をきざみて」『親王に献上する岩には青い苔が一面に生えていて、その苔に刻むように、次の歌を印したものか』(渡辺氏頭注)。

・「蒔繪(まきゑ)のかたに」蒔絵の模様のようにして。

・「飽(あ)かねども岩にぞかふる色見えぬ心を見せむよしのなければ」渡辺氏の注によれば、『こんなものでは満足でないのですが、私の志』(こころざし)『を岩に代えてお贈り申します。色となって現れない私の真心をお目にかける方法がありませんので』の意で、『今まで「近く仕うまつらず」』じまいで御座いましたが、『よそながら敬慕して』おりました、『という気持ちを、花のような目立つ色彩を持たぬ岩に託したもの。常行の気持』ち『になってよんだ代作』とある。

「二條后(きさき)」第五十六代清和天皇の女御(後に皇太后)藤原高子(こうし/たかいこ 承和九(八四二)年~延喜一〇(九一〇)年)。藤原基経(清和天皇・陽成天皇・光孝天皇・宇多天皇の四代に亙って朝廷の実権を握った人物(陽成天皇を暴虐として廃し、光孝天皇を立てている)。日本史上初の関白就任者)の同母妹。

「觀應二年」南朝は正平六年。一三五一年

「中納言公忠(きんたゞ)」三条公忠(貞和二/正平元(一三四六)年~永徳三/弘和三(一三八四)年)北朝の公卿で歌人としても知られる。近衛中将・権中納言・権大納言を歴任し、延文五/正平一五(一三六〇)年、内大臣。有職故実に精通し、公家の中で公忠を師と仰ぐ者が多かったという。書にも優れ、願文等の清書の依頼も多く、絵巻物「暮帰絵詞」の詞書筆者の一人としても知られる。日記「後愚昧記」を残しており、南北朝期の社会・歌壇史研究上、有用な重要史料となっている(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。「その冬、勅勘によつて、安藝國へ左遷せられける」とあるが、ウィキの「三条公忠」の非常に詳細な経歴記載を見ても、「勅勘」の内容は不明。この場合の「勅勘」は北朝の当時の天皇崇光天皇ということにはなる(但し、翌年、後光厳天皇に践祚)。但し、沾涼の記載が正確なら、ウィキの記載から、その後、文和四/正平一〇(一三五五年)八月に正二位に昇叙し、延文五/正平一五(一三六〇)年九月には内大臣に任ぜられているから、勅勘は解かれている

「武田伊豆守氏信」南北朝及び室町初期の守護大名武田氏信(応長二(一三一二)年~天授六/康暦二(一三八〇)年)。甲斐源氏の流れを汲む安芸武田氏初代当主。甲斐武田氏第十代当主で北朝方についた武田信武の次男。

「城中」佐東銀山城(さとうかなやまじょう)であろう。現在の広島市安佐南区にあった山城。

「大江輝元」中国九ヶ国に百十二万石を領した、豊臣政権の五大老の一人である毛利輝元(天文二二(一五五三)年~寛永二(一六二五)年)。

「城中」広島城。

「福島正則」(永禄四(一五六一)年~寛永元(一六二四)年)は当初、豊臣秀吉に仕え、「賤ケ岳の戦い」(「七本槍」の一人)・「小牧・長久手の戦い」及び朝鮮出兵などで活躍、文禄四(一五九五)年には尾張清洲城主となったが、「関ケ原の戦い」で徳川方につき、安芸広島藩主となった(慶長六(一六〇一)年三月入封。以上の怪奇談はその時(後述するように移封される十八年後までの閉区間)のものと考えられる)。しかし、広島城の無断修築を咎められ、領地没収となり、元和五(一六一九)年、信濃川中島に移されて高井野に蟄居した(主に講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

「奇特〔きどく〕」神仏などが持っている人智を越えた超自然的能力。霊験。]

2018/06/05

諸國里人談卷之二 要石

 

    ○要石

常陸國鹿島明神にひとつの神石あり。丸く柱のごとくにして、亙り一尺五寸ばかり、頂き少(すこし)窪めり。地を出る事、二尺余、その根のふかき事、幾丈といふ限(かぎり)しらず。動(うごか)せば、ゆるぐなり。其石の本〔もと〕を箆(へら)をして穿(ほれ)れば、虫、いづる。そのむしの數(かず)にて幾人(いくにん)の子を育(そだつ)つると云〔いふ〕を占ふと云。土俗の説なり。

或書(あるふみに)曰(いはく)、光俊朝臣、かしまの社(やしろ)にまうで侍りけるに、おくの御前(みまへ)とて、不開(あかず)の御殿よりは、二、三町ばかり、東の山の中におはします御殿にて、古き神官をよびて、

「これに平(たいらか[やぶちゃん注:ママ。])なる石の圓(まろげ)なるが、二尺ばかりなるや、ある。」

となん、とひ侍るに、

「さる石あり。」

とて、御殿のうしろの竹の中に埋(うづも)れて侍りけるを、ほりいでゝけり。此明神、あまくだり給ひて、此石のうへにて座禪せさせ給ふ石なり。「万葉集」に「石のみまし」とあるは、是なり。

                光俊朝臣

 尋〔たづね〕かねけふ見つるかなちはやぶるみやまのおくの石のみましを

[やぶちゃん注:短歌の作者の「光俊朝臣」の位置は、ブラウザでの不具合を考え、上に引き上げてある。

現在の茨城県鹿嶋市宮中にある鹿島神宮の要石は花崗岩製で、ウィキの「鹿島神宮」によれば、『境内東方に位置する霊石。古来「御座石(みまいし)」や「山の宮」ともいう』。『地上では』直径三十センチメートル、高さ七センチメートル『ほどで、形状は凹型』。『かつて、地震は地中に棲む大鯰(おおなまず)が起こすものと考えられていたため、要石はその大鯰を押さえつける地震からの守り神として信仰された』。『要石は大鯰の頭と尾を抑える杭であるといい、見た目は小さいが』、『地中部分は大きく決して抜くことはできないと言い伝えられている』。「水戸黄門仁徳録」に『よれば、水戸藩主徳川光圀が』、七日七晩、『要石の周りを掘らせたが、穴は翌朝には元に戻ってしまい』、『根元には届かなかったという』(「鹿島神宮」公式サイトのこちらの記載では、加えて、『怪我人が続出したために掘ることを諦めた』とある)。『過去に神無月に起きた大地震のいくつかは、鹿島神が出雲に出向いて留守のために起きたという伝承もある』。『鹿島神宮と地震に関しては』、建久九(一一九八)年の『「伊勢暦」に詠み人知らずとして見える、次の地震歌が知られる』。

 ゆるぐともよもやぬけじの要石鹿島の神のあらん限りは

また、康元元(一二五六)年に藤原光俊(葉室光俊(はむろみつとし 建仁三(一二〇三)年~建治二(一二七六)年:歌人。当初は藤原定家に師事したが、後藤原知家らとともに、御子左派への対抗勢力を形成、文応元(一二六〇)年以降は鎌倉幕府第六代将軍宗尊親王の歌の師として鎌倉歌壇にも重きをなした)が『神宮を訪れた際、要石を「石の御座(みまし)」として、次の歌を歌っている』(前の歌とともに典拠は二〇〇四年刊の「神宮誌」)。

 尋ねかね今日見つるかな千劔破(ちはやぶる)深山(みやま)の奥の石のみましを

また、独立したウィキの「要石によれば(下線太字やぶちゃん)、『鹿島の要石は、鹿島神宮奥宮(武甕槌神』(たけみかづちのかみ:鹿島神宮の主神。伊弉諾尊が火神軻遇突智(かぐつち)の首を切り落とした際に十束剣「天之尾羽張(アメノオハバリ)」の根元に付着した血が、岩に飛び散って生まれた三神の中の一柱。雷神・剣の神・相撲の元祖ともされる神)の荒魂(あらみたま))『の背後約』五十メートル、本宮からは東南東へ約三百メートル『離れた、境内の森の中に』あるとあり、『日本神話の葦原中国平定において、天津甕星(天香香背男)』(あまつみかぼし(あめのかがせお):葦原中国平定に最後まで抵抗した神)『は平定の大きな妨げになった(日本書紀、巻第二神代下、第九段一書の二)』。『天香香背男討伐にあたり』、『武甕槌神は見目浦(みるめのうら)の磐座に降り』たが、その『磐座が現在の要石』であり(本文で「此明神、あまくだり給ひて、此石のうへにて座禪せさせ給ふ石なり」がそれを指している)、『住居が鹿島神宮の原型であると伝えられる』。「鹿島宮社例伝記」に『よれば、鹿島社要石は仏教的宇宙観でいう、大地の最も深い部分である金輪際から生えている柱と言われ、この柱で日本は繋ぎ止められているという』。こうした要石は日本全国に認められる、それらは概ね、『地上部分はほんの一部で、地中深くまで伸び、地中で暴れて地震を起こす大鯰あるいは竜を押さえているという。あるいは貫いている、あるいは打ち殺した・刺し殺したともいう』。『龍は柱に巻き付いて国土を守護しているとも言われる』。『そのため』、要石のあるところ『には大地震がないという。ただし、大鯰(または竜)は日本全土に渡る、あるいは日本を取り囲んでいるともいい、護国の役割もある』。『鹿島神宮の要石は大鯰の頭を押さえると伝えられる』『要石を打ち下ろし』、『地震を鎮めたのは、鹿島神宮の祭神である武甕槌大神(表記は各種あるが鹿島神社に倣う。通称鹿島様)だといわれる。ただし』、『記紀にそのような記述はなく、後代の付与である。建御雷命(武甕槌神)は葦原中国平定で国津神を悉く鎮め平らげたことから、大地を要石で押し鎮めたという伝説が生まれたとされる』。『武甕槌大神は武神・剣神であるため、要石はしばしば』、『剣にたとえられ、石剣と言うことがある』。『江戸時代には』、

 ゆるげどもよもや拔けじの要石鹿島の神のあらん限りは

『で締めくくる呪』(まじな)『い歌を紙に書いて』、三『回唱えて門に張れば、地震の被害を避けられるという風習があった』。安政江戸大地震(安政二年十月二日(一八五五年十一月十一日)後、『鹿島神宮の鯰絵を使ったお札が流行し、江戸市民の間で要石が知られるようになった。地震が起こったのは武甕槌大神が神無月』(十月)『で出雲へ出かけたからだという説も現れた』とある。

「亙り一尺五寸ばかり」直径約三十センチ四・五ミリ。

「二尺余」六十一センチメートルほど。現在(高さ七センチメートル)より九倍弱突出していたことが判る。

「其石の本〔もと〕を箆(へら)をして穿(ほれ)れば、虫、いづる。そのむしの數(かず)にて幾人(いくにん)の子を育(そだつ)つると云〔いふ〕を占ふと云」これは現在、伝えられていない貴重な占術法である(但し、今は要石は囲いに中にあり、こうした仕儀は行えなくなってはいる)。虫の種(しゅ)が気になる。

「おくの御前(みまへ)とて、不開(あかず)の御殿」これについては、今野政明氏のブログ「はてノ鹽竈」の「茨城県鹿嶋市――鹿島神宮:秘事に属すべき本殿内の作法――」に驚くべき事実が記されている。鹿島神宮宮司、東実氏の「鹿島神宮」(学生社刊)の引用である(一部で改行した)。

   *

一社の秘事に属すべき本殿内の作法について、『当社例伝記』に、

 開かずの御殿と曰うは、奉拝殿の傍に御座す、是即ち正御殿なり、北向きに御座す、本朝の神社多しといえども、北方を向いて立ち給う社は稀なり、鬼門降伏、東征静謐の鎮守にや、当社御神殿の霊法かくの如く、社は北に向ける、其の御神躰は正しく東に向い安置奉る、内陣の例法なり、(原文は漢文)

とあるように、社殿は北向き、神座(御神体)は東向きに坐す、しかも南西のすみにである。

 つまり社殿の中で一番重要な御祭神は、ふつう[やぶちゃん注:「の」の脱字か。]神社のように中央にいて、参拝者に相対するようには置かれていない。横向きに、しかも中央ではなく、田の字形四間に区切って考えると、入って右側の奥の一つに鎮座しておられるのである。

 多少、古代史に関心のある人ならば、この社殿の配置図を見て、すぐ、おや?と思われることだろう。その通り、もう多くの読者が気がつかれたように、この配置、内部構造は、あの日本神話で重要な位置を占める出雲の、大国主命をまつった出雲大社の内陣と共通するものがあるのである。

   *

しかも、この本殿の神座は地図上で、明らかに、「要石」の方向、真東に向いていることが判るのである(距離は四百二十二メートルほど。グーグル・マップ・データを見よ)。

「二、三町」二百十九~三百二十七メートル。

「東の山の中におはします御殿」これは距離から見て本殿から東北東へ三百六十メートルほど行った奥宮である(要石周辺には御殿は現在はない)。現行、中央の主参道を経由する場合は、奥宮を経て要石に到達する。

「御殿のうしろの竹の中」奥宮は公式サイト地図を通常の地図に照らして見る限り、北西を正面として向いて建っており、真後ろの南東の奥、百八十四メートル後方に要石はある。但し、グーグル・ストリートビュと、現在要石周囲は竹林ではない。

『「万葉集」に「石のみまし」とある』不詳。調べる限り、現行の「万葉集」の訓読例にはこの文字列(「いしのみまし」或いは「いはのみまし」)はないように思われる。識者の御教授を乞う。]

諸國里人談卷之二 ㊂奇石部 息栖甁

 

諸國里人談 卷之二 菊岡米山翁著

 ㊂奇石(きせきの)部

    ○息栖甁(いきすのかめ)

常陸國息栖(いきすの)明神の磯ぢかき海中に、「女甁(めかめ)」・「男甁(おかめ)」とてニの奇石あり。男甁は徑(わたり)一丈あまりにして、銚子(てうし)のかたちなり。その口とおぼしき所に溝(みぞ)あり。中は控(うつろ)のごとく窪みて、鍋の形也。女甁は、わたり、五、六尺ばかり、土器(かはらけ)に似たり。土俗曰(いはく)、「これは神代(しんだい)の銚子の土器なり。」と。此石、滿潮(みちしほ)には、二、三尺、沈めり。干潟(ひがた)には水上(すいじやう)にあらはれける。その銚子の中は素水(さみづ)にして、潮の味ひ、なし。これを「忍鹽(をしほの)井の水」といへり。

 心ある人に見せばやひたちなる息栖の濱の忍鹽井(をしほい[やぶちゃん注:ママ。])の水

○人皇十五代若櫻宮天皇御宇、三載二月、鎭座の額あり。

○長能(ちやうのう)曰、「鹿嶋といふ嶋は、社頭より十町ばかりのきて、今は陸地よりつゞきたる嶋になん侍る。その所に『つぼ』といふものゝ、まことにおほきなるが、半過(なかばすぎ)て埋(うづも)れて見えしを、先達(せんだつ)の僧に尋しかば、『これは、神代より、とゞまれるつぼにて、いまに殘れる』よし、申〔まうし〕侍りしかば、身の毛もよだちておぼえ侍りしが、「こかめ」は、ことたがひて、よめりける。

                  長能

 神さぶるかしまを見れば玉だれのこかめばかりぞまた殘りける

かしまとあれども、今は息栖の海中にあり。西行の「撰集抄」に、鹿島の事は、みな、息栖の風景なり。息栖は鹿島の旧地なるかしらず。○又忍鹽井の水は勢州山田にもあり。【兩宮の御饌(みけ)に用〔もちひ〕水なり。】

 代々を經て汲〔くむ〕ともつきじ久かたの天〔あめ〕よりくだす忍鹽井の水

[やぶちゃん注:『「こかめ」は、ことたがひて、よめりける』の「は」は、吉川弘文館随筆大成版は「そ」と翻刻する。①~③総て、確かに「そ」と読むのが穏当な崩しに、確かに見えるのであるが、しかし「こかめそことたがひてよめりける」の文字列では、読解が私には出来ない。そこで私は、これは「者」の崩し字ではないかと考えた(早稲田大学図書館古典総合データベースの画像をリンクさせておく)。それはこの部分が、次の長能の自作の一首の間違いを自ら訂正している文句であると読めるからで、私はこれを長能が半分埋もれてしまった大きな「つぼ」(壺)と称していた「男瓶(おかめ)」見、それを詠み込むに際して大きいのに、つい、歌の銚子、基、調子から、「こかめ」と「事違ひて、詠めりける」と言ったものと採るのである。「こかめそことたがひてよめりける」のままで読めると仰られる方は、是非、お教え願いたい。なお短歌の作者の「長能」の位置は、ブラウザでの不具合を考え、上に引き上げてある。

「常陸國息栖(いきすの)明神」現在の茨城県神栖(かみす)市息栖にある息栖神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。茨城県鹿嶋市の鹿島神宮及び千葉県香取市の香取神宮とともに「東国三社」の一社。ウィキの「息栖神社」によれば、『社伝では、第』十五『代応神天皇の代に日川の地(にっかわ:現・神栖市日川)に創建されたという』。『その後』、大同二(八〇七)年)四月十三日、『藤原内麻呂によって現在地に移転したと伝える』。『当社の名称について『日本三代実録』では「於岐都説神」と記される。また』、元亨元(一三二一)年の『古文書で「おきすのやしろ」と記されるように、当社は「おきす」と呼ばれていた』。『この「おきつせ・おきす = 沖洲」という古称から、香取海に浮かぶ沖洲に祀られた神であると考えられている』。『祭神が久那戸神(岐神)・天鳥船命であることからも』、『水上交通の神であることが示唆され』、『鹿島・香取同様に東国開発の一拠点であったという見方もある』とする。『国史では、『日本三代実録』において』、仁和元(八八五)年に『「於岐都説神」が正六位上から従五位下に叙されたという記事が見える。この「於岐都説神」は当社を指すものとされる』。『当社は古くから香取神宮・鹿島神宮と並んで「東国三社」と称されたといわれる。ただし』、『地理的な関係から鹿島神宮の影響が強く、当社は同宮の摂社とみなされていた。鎌倉時代の『鹿島社例伝記』や室町時代の『鹿島宮年中行事』から、鹿島神宮と当社の密接な関係性が指摘され』ている。なお、『当社は朝廷からの崇敬を受け、元寇の際にも国家安泰を祈願するために勅使が派遣されたという』。『江戸時代には徳川家の崇敬が篤く』慶長九(一六〇四)年に『鹿島神宮領から』十四『石が給された』、また、『この時代には、「下三宮参り」と称して』、『関東以北の人々が伊勢神宮参拝後に東国三社を巡拝する慣習があったという』。『参拝客が利用する息栖の河岸は利根川水運の拠点として江戸時代から大正時代まで栄えたという』とある。さらに、『一の鳥居の両側には「忍潮井(おしおい)」と呼ばれる』二『つの井戸があり、「日本三霊泉」』(後の二つは伊勢の「明星井(あけぼのい)」と京都伏見の「直井(なおい)」とされる)の一つ『という』。『社伝では神功皇后』三『年に造られたとし、日川からの移転に際して後から自力でついてきたという』。『井戸はそれぞれ「男瓶」「女瓶」という名の』二『つの土器から水が湧き出ているが、現在の井戸は』昭和四八(一九七三)年五月に『河川改修のため移転している』とあり、ここに記されているものとは少なくとも位置は全く異なるものであることが判る(引用元に「忍潮井(男瓶)」と「忍潮井(女瓶)」の外観写真あり。下線太字やぶちゃん)。

「徑(わたり)一丈あまり」直径三メートル三センチほど。原型のそれは異様に大きなものであることが判る。

「中は控(うつろ)のごとく窪みて、鍋の形也」銚子の形であるのに中は空洞になっていて、その内形は鍋の形であるというのは、これまた奇奇怪怪である。恐らくは外形はずんぐりとした銚子型を成しているが、上から覗くと、鍋(寸胴?)型であるということか?

「五、六尺」約一メートル五十二~一メートル八十二センチ。

「土器(かはらけ)に似たり」古来、女性生殖器は土器片(かわらけ)に擬えられた。

「これは神代(しんだい)の銚子の土器なり」実際、銚子附近からは縄文時代の大きな遺跡が見つかってはいる。当初、私はこれらは自然物(岩礁)がシミュラクラしたものと思っていたが、ネットで調べると、明らかに人工物であることが判った(グーグル画像検索忍潮井 男 女)。個人サイト「陸前三郎のへや」の神栖市息栖 息栖神社のそれぞれを見ると、女瓶は欠損しているように見える、丸い口をした、男瓶と同系列の、二回りほど小さい造物と思われる(複数の写真で、周囲を囲っている横方向の杭の本数が男瓶の方が一本多いことから大きさが有意に違うことが判る)。

「二、三尺」約六十一~九十一センチメートル。

「干潟(ひがた)」ここは干潮時の意。

「素水(さみづ)」純淡水。岩礁の下部に陸からの淡水の地下水が湧出しているものと考えられる。

「忍鹽(をしほの)井の水」「神栖市観光協会」公式サイト内の「息栖神社」のページによれば、『息栖神社で隠れたスポットなのが、常陸利根川沿いの大鳥居(一の鳥居)の両脇に設けられた二つの四角い井戸「忍潮井(おしおい)」で』、『それぞれの井戸の中に小さな鳥居が建てられ、水底を覗くと二つの瓶(かめ)がうっすらと見え』るとし、『この二つの瓶は「男瓶(おがめ)」と「女瓶(めがめ)」と呼ばれ』、一千年『以上もの間、清水を湧き出し続けてきたとされ』、『この忍潮井は、伊勢(三重)の明星井(あけぼのい)、山城(京都)の直井と並び、日本三霊泉の一つに数えられてい』るとあって、『しかもこの清水には、女瓶の水を男性が、男瓶の水を女性が飲むと二人は結ばれるという言い伝えがあり、縁結びのご利益もあるとされて』いるとする。但し、現在は『忍潮井の水を直接飲むことはでき』ないとあり、『境内の手水舎の奥にある湧き水は、忍潮井と同じ清水で、お水取りをすることができ』とある。

「心ある人」情趣を解する人であるが、伝承から恋する人を匂わせている。

「人皇十五代若櫻宮天皇御宇、三載二月」「若櫻宮天皇」というのは磐余稚桜宮(いわれのわかざくらのみや)に遷都した第十七代天皇履中天皇(仁徳天皇二十四年?~履中天皇六年/在位:履中天皇元年~同六年)のことのように思われるが、第十五代は応神天皇であり、「鎭座の額あり」とする以上は応神天皇でなくてはおかしい。しかし、これ、孰れも、干支が合わない(応神天皇三年は「壬辰(みずのえたつ)」、履中天皇三年は「壬寅」で、孰れも「癸未(みづのとひつじ」ではない)から、このクレジットは信ずるに足らない。なお、同神社の社殿は昭和三五(一九六〇)年に火災で焼失しており(この時の社殿は享保七(一七二二)年造営のもの)、ここにある扁額も焼失したものと思われる。

「長能(ちやうのう)」平安中期の貴族で歌人の藤原長能(ながとう/ながよし 天暦三(九四九)年~寛弘六(一〇〇九)年?)か。しかし、以下の一首は「長能集」にも確認出来ない。

「十町」一キロ九十メートル。

「神さぶるかしまを見れば玉だれのこがめばかりぞまた殘りける」「神さぶ」は「神々(こうごう)しくなる・荘厳に見える」。「玉だれの」「玉垂れの」。「玉簾」で「すだれ」の美称であるが、簾が出てくるのはどうもおかしい気がする。寧ろ、「玉垂れの」は、緒(お)で貫いた玉を垂らして飾りとしたことから、「緒」と同じ音の「を」に懸かる枕詞でもあることから考えると、この歌は或いは、

 神さぶる鹿島を見れば玉垂れの男瓶(をがめ)ばかりぞまた殘りける

であったのではないか、という推理が、一つ、働いたことを言い添えておく。

『西行の「撰集抄」』江戸時代までは西行作と信じられていた西行に仮託した鎌倉時代(文永年間(一二六四年~一二七五年)頃)に成立した仏教説話集。

「勢州山田」現在の三重県伊勢市山田。伊勢神宮外宮の鳥居門前町。しかし、現今では伊勢に「忍鹽の水(をしほゐのみづ)」(或いは「忍鹽の井」)は存在しない。これは、先に出した三霊泉の一つである明星水のこと(現在の多気郡明和町上野(伊勢山田の西北)の安養寺((グーグル・マップ・データ))の境内にある)ではないかとも思ったが、どうも位置が気になる。これは違う意味のものではないかと考えていたところ、最後の歌を調べて、氷解した。最後の注を見られたい

「兩宮」伊勢神宮内宮と外宮。

「御饌(みけ)」神に供える食べ物。

「代々を經て汲〔くむ〕ともつきじ久かたの天〔あめ〕よりくだす忍鹽井の水」「風雅和歌集」巻第十九の「神祇歌」にある伊勢神宮外宮の禰宜の子息である度会延誠(わたらいのぶとも 生没年未詳)の一首(二一〇七番)、

   神祇を

 世々を經て汲むとも盡きじ久方の天よりうつすをしほゐの水

参照した平成三(一九九一)年三弥井書店刊の次田香澄・岩佐美代子校注「風雅和歌集」によれば、「天よりうつす」は『高天原から続く』の意で、「をしほゐの水」は『御潮斎。海水を汲み、家内外にまいて浄め、神前に供えること。おしほとり』とあった(太字やぶちゃん)。これで、これは特定の井戸をさすのではないことがはっきりした。沾涼の勘違いである。]

2018/06/04

諸國里人談卷之一 三猿堂 / 諸國里人談卷之一~了

 

    〇三猿堂(さんゑんどう)

比叡山の三猿堂は、傳教大師天の不見(ふけん)・不聞(ふぶん)・不言(ふごん)を以〔もつて〕、三諦(さんたい)に表(ひやうし)て、土の猿を作り玉ふ。不見・不聞の和語を以、猿の形とす。又、申(さる)の字儀も有〔あり〕。

 見ずきかずいはざるまではつなげどもおもはざるこそつながれもせず

所々の庚申塚(こうしんづか)に、此形(このかたち)を祭るは、申(さる)のいひ也。 里人談一之終

[やぶちゃん注:これを以って「諸國里人談卷之一」は終わっている。

「比叡山の三猿堂」不詳。検索を掛けても、比叡山山内に「三猿堂」なる建物は見当たらない。私は比叡山に行ったことがない。識者の御教授を乞う。

「三諦(さんたい)」「さんだい」とも読む。天台宗で実相の真理を明かすものとして考えられた「空」・「仮(け)」・「中」の三つの真理。総ての存在は空無なものであるとする「空諦」、総ての事象は因縁によって存在する仮(かり)のものとする「仮諦(けたい)」、総ての存在は、空でも有でもなく、言葉や思慮の対象を超えたものであるとする「中諦」を指す。

「不見・不聞の和語を以、猿の形とす」意味不明。訓読の「みざる」「きかざる」と連体中止法の「ざる」から「猿」を掛けて当てたというのか? でも最後の「不言」もそれなら、「いはざること」で「いはず」ではあるまいよ。識者の御教授を乞う。

「申(さる)の字儀」十二支の記号としての「申」。

「申(さる)のいひ也」庚申信仰に於ける「庚申」は元来は日を指定するための干支の組み合わせによる記号に過ぎない。それを後世、動物に比喩した「猿」に当てただけのことである。中国の道教起源の庚申信仰には、本邦の土着の「塞の神」信仰、道祖神信仰、そこから生ずる相体道祖神の豊穣信仰、青面金剛信仰、三猿信仰など多数の集合が行われていることは言うまでもなく、加えて、場を同じくした江戸時代の無数の「講」集団の信仰部分も絡んで、非常に複雑な様相を呈している。]

諸國里人談卷之一 雷鳥

 

    ○雷鳥(らいのとり)

越(こし)のしら山に「雷の鳥」と云〔いふ〕あり。「雷(かみなり)をくらふ鳥」と云〔いへ〕り。貌(かたち)、雉子(きじ)に似たり。

 しら山の松の木陰にかくろいてやすらにすめる雷(らい)の鳥かな

此歌を書〔かき〕て家内に呈すれば、其所〔そこ〕に雷(らい)の難、あらず、と云り。

○越後國古志(こし)郡國上山〔くがみやま〕の寺に塔を造るに、三度、雷のために、破れたり。白山の開山泰澄和尙、塔の傍(かたはら)に座して、法華を誦(じゆ)すれば、大きに雷(らい)し、雲中(うんちう)より、一童男(どうなん)、かしら、おどろのごとくにして、縛られ落(おち)て、和尚に赦(しや)を乞(こひ)て曰(いはく)、

「我は山の地神(ぢしん)なり。塔ある時は住所(ぢうしよ)なし。故(かるがゆへ)にこれを壞(へ)すなり。」

于ㇾ時(ときに)、泰澄曰、

「此山に、水なし。汝、冷泉を出すべし。又、方四十里、雷(らい)の聲を、なすべからず。」

跪(ひざまずき)て諾(だく)す。卽(すなはち)、縛(しばり)を解く。

神童、指を以〔もつて〕、石巖(せきがん)を鑿(ほ)るに、淸泉、涌出(ゆしゆつ)す。

又、方四十里に、雷霆(らいてい)、せず。

此二つの事、今に至(いたつ)て、かはらず。

○泰澄は越前麻生津(あしやうづ)の産、父は安角、母は伊野氏なり。夢に、白玉、懷中に入ると見て、孕(はらめ)り。白鳳十一年、誕(たん)ず。世俗、「越(こし)の大德(だいとこ)」と稱せり。平日、頭(かうべ)のうへに金(こがね)の光り、現ず、と也。病(やまひ)あるもの、其(その)鉢(はち)の飯(いゝ)を食すれば、痙(い)えずといふ事、なし。常に鬼神をつかふと云(いへり)。

[やぶちゃん注:やはり特異的に改行を施して読み易くした。

「雷鳥」鳥綱キジ目キジ科ライチョウ属ライチョウ亜種ライチョウLagopus muta japonica ウィキの「ライチョウによれば、日本(本州中部)固有亜種であり、飛騨山脈・赤石山脈・火打山・焼山・乗鞍岳・御嶽山で繁殖する。以前は木曽山脈・白山(はくさん:本文の「越(こし)のしら山」。石川県白山市と岐阜県大野郡白川村に跨る標高二千七百二メートルの山)・八ヶ岳などにも分布していた。日本国内に於ける現在の分布北限は新潟県頸城山塊の火打山と焼山で、分布南限は赤石山脈(南アルプス)のイザルガ岳。なお、北海道にはエゾライチョウ属Tetrastesのエゾライチョウが棲息する。北海道に Lagopus 属が棲息していない理由は分かっていない。『江戸時代以前の文献では蓼科山、八ヶ岳、白山』『にライチョウが生息していたと記録されているが、現在は生息していない』。』天敵の一つである『猛禽類の天敵を避けるため』、『朝夕のほかに雷の鳴るような空模様で活発に活動することが名前の由来と言われているが』、『実際のところははっきりしていない。古くは「らいの鳥」と呼ばれており』、『江戸時代より火難、雷難よけの信仰があったが』、『「らい」がはじめから「雷」を指していたかは不明である』。『ヨーロッパや北アメリカでライチョウ類は重要な狩猟対象の鳥として古くから利用されていて、信仰の対象として崇められていた日本とは対照的である』。『文献上での最初の登場は』、ここで挙げられた正治二(一二〇〇)年に纏められた「夫木和歌抄」の中の、『後白河法皇が詠んだ「しら山の松の木陰にかくろひてやすらにすめるらいの鳥かな」と』、『従二位藤原家隆が詠んだ「あわれなり越の白根にすむ鳥も松をたのみて夜をあかすらむ」で、当時の白山登山者から伝わった話が京の、後白河法皇に伝わり、「らいの鳥」の名で詠んだとされている』。『江戸時代初期に中国の明から渡来した高泉性敦が『鶆(らい)』を著した名称も用いらるようになった』。正徳元(一七一一)年に『加賀藩がライチョウを見た白山と立山の登拝者から調査した』記録では、『「らいの鳥」が用いられ』ており、享保五(一七二〇)年の『調査では「らいの鳥」と「雷鳥」の両方が用いられていた』。『江戸時代には立山、白山、御嶽山にライチョウが生息していることが、登拝者により広く知られていて、江戸時代後期に牧野貞幹が『野鳥写生図』でライチョウのオスとメスを写生し』、『「鶆鳥」と表記し、毛利梅園が『毛利禽譜』で白山のライチョウのオスと雛を写生し』、『「雷鳥」と表記している』。安永八(一七七九)年に『葛山源吾兵衛の『木の下陰』などにあるように』、『長野県の諏訪地域や上伊那地域では「岩鳥」と呼ばれていて』、天保五(一八三四)年の『『信濃奇勝録』の乗鞍岳のものには「がんてう」の振り仮名が付けられていた』。文化一〇(一八一三)年『の小原文英による『白山紀行』の写生図では「雷鳥」と「鶆鳥」の両方を記している』。『地方名では富山県で「閑古鳥」、木曽の御嶽山で「御鳥」などの記録がある』。『日本のライチョウに学名Lagopus muta japonica が付けられたのは』明治四〇(一九〇七)年で、大正五~七年(一九一六年~一九一八年)に刊行された百科事典「広文庫」で『「雷鳥に鶆に作るは誤、本邦の神鳥にして支那になし」と記載され、「雷鳥(ライチョウ)」の名称が一般的となった』、『現在は和名で『ライチョウ』と表記され、識別のために日本の亜種が「ニホンライチョウ」と表記される場合がある』。『日本のライチョウは江戸時代までは信仰の対象として保護されていたが、明治時代に一時乱獲され』、その後、『法律で保護され』、『現在に至っている』。『江戸時代よりずっと以前から山岳信仰登拝者に知られ、神秘性を帯びた「神の使者」の鳥とされて』きた経緯があり、『江戸時代』『以前は、宗教的な殺生禁断の戒律により』、『人により捕獲されることは少なかったと考えられている』とある。私の亡き山の先輩は若い頃(と言っても無論、違法)、ライチョウの子を焼いて食べたことがあり、非常に美味かった、と言っていたのを思い出した。

「越後國古志(こし)郡國上〔くがみ〕山の寺」「國上山」は新潟県燕市国上(くがみ)にある標高三一二・八メートルの国上山(くがみやま)。ここ(グーグル・マップ・データ)。弥彦山の南。俗に弥彦山脈と呼ばれる山並みの南端に位置する。「寺」は山頂から約一キロメートル弱南の中腹にある越後最古の古刹とされる真言宗雲高山(うんこうざん)国上寺(こくじょうじ)。和銅二(七〇九)年、越後一の宮弥彦大神の託宣によって建立されたとされる。ここ(グーグル・マップ・データ)。詳しい沿革は同寺の公式サイト内のこちらが詳しいが、慈覚大師円仁・源義経・上杉謙信及び良寛(晩年の三十年間、ここの五合庵に住み、最晩年はこの麓の乙子神社境内社務所へ、最後は島崎村(現在の長岡市)木村元右エ門の邸内に移った)所縁の寺でもある。この寺については、以前、北越奇談 巻之六 人物 其二(酒呑童子・鬼女「ヤサブロウバサ」)の注で書いたが、面白いことがある。それは、ある意味、ここに登場する、妖しい雷神みたような化け物とどこか親和性があるので、再掲しておくと、何と、この寺は、かの酒呑童子(のモデルというべきか)が少年の頃、この寺で過ごし、修行をしたというのである。地元の民草は彼を鬼と見做し、彼らが棲む「穴」を「鬼穴」と称したという伝承がkeiko氏のブログ「自分に還る。」の『酒呑童子~越後から大江山へ●国上寺「酒呑童子絵巻」から』に載っている。この題名にもある通り、国上寺には「大江山酒呑童子繪卷」とともに寺の縁起が残されており、そこには酒呑童子の生い立ちがくわしく記されているという。「能面ホームページ」のこちらによれば、『恒武天皇の皇子桃園親王が、流罪となってこの地へ来たとき、従者としてやってきた砂子塚の城主石瀬俊網が、妻と共にこの地にきて、子がなかったので信濃戸隠山に参拝祈願したところ懐妊し、三年間母の胎内にあってようやく生まれた。幼名は外道丸、手のつけられない乱暴者だったので、国上寺へ稚児としてあずけられ』た。『外道丸は美貌の持ち主で、それゆえに多くの女性たちに恋慕された』が、『外道丸に恋した娘たちが、次々と死ぬという噂が立ち、外道丸がこれまでにもらった恋文を焼きすてようとしたところ、煙がたちこめ』、『煙にまかれて気を失』ってしまう。『しばらくして気がついたとき、外道丸の姿は見るも無惨な鬼にかわってしま』っており、遂に『外道丸は身をおどらせ』、『戸隠山の方へ姿を』消し、後に『丹波の大江山に移り』住んだとあるという。どうです? そこはかとなく、響き合うでしょ?!

「白山の開山泰澄和尙」泰澄(たいちょう 天武天皇一一(六八二)年~神護景雲元(七六七)年)は奈良時代の修験道の僧で当時の越前国(後に加賀国に移る)の白山を開山したと伝えられる。ウィキの「泰澄によれば、『越前国麻生津(福井市南部)にて、豪族三神安角(みかみのやすずみ)の次男として生まれ』、十四歳で『出家し、法澄と名乗』った。『越智山にのぼり、十一面観音を念じて修行を積』み、大宝二(七〇二)年、『文武天皇から鎮護国家の法師に任じられ、豊原寺を建立する。その後養老元』(七一七)年、『越前国の白山にのぼり』、『妙理大菩薩を感得した』。『同年、平泉寺を建立する。養老』三『年からは越前国を離れ、各地にて仏教の布教活動を行』い、養老六年、『元正天皇の病気平癒を祈願し、その功により神融禅師(じんゆうぜんじ)の号を賜った』。天平九(七三七)年には『流行した疱瘡を収束させた功により、孝謙仙洞重祚』によって『称徳天皇に即位』した折りには、『正一位大僧正位を賜り』、この時、『泰澄に改名した』『と伝えられる』とある。

「法華」「法華經」。

「一ツ童男(どうなん)、かしら、おどろのごとくにして、縛られ落(おち)て」一人の、髪をおどろおどろしく大童に振り乱した、奇怪な男が、縛られたままに落ちてきて。無論、謂わずもがな、この呪縛と転落は、泰澄の法華経誦経による呪力によるものである。

「越前麻生津(あしやうづ)」現在の福井市三十八社町(さんじゅうはっしゃちょう)。生誕地として現在、真言宗白鳳山泰澄寺がある。(グーグル・マップ・データ)。

「父は安角」ネット上の諸記載によれば、土地の豪族で水運業を営んでいたともされる三神安角(みかみやすずみ)。高句麗から渡来した亡命帰化人ともされる。

「母は伊野氏」不詳。

「白鳳十一年」六七一年。ウィキの記載より十一年早い。

「平日、頭(かうべ)のうへに金(こがね)の光り、現ず」何時も、頭部の上に後光が射していたというのである。

「其(その)鉢(はち)」僧として布施を受ける鉄鉢(てっぱつ)。

「痙」「癒」に同じ。]

諸國里人談卷之一 高野山に笛を禁む

    ○高野山禁ㇾ笛(ふへをいましむこと)

太閤秀吉公、高野山に參詣あり。しばらく逗留の折から、觀世太夫(かんぜたゆう)を供(ぐ)せられしが、つれづれの慰(なぐさみ)、または、一山(いつさん)の衆徒(しゆと)にも見せんとて、能を興行ありける時、僧侶、申けるは、

「御能はさる事なれども、當山は開山大師の制法にて、笛の音(ね)を禁(いまし)む也。」

秀吉公、

「ふしぎの事をきくものかな。さまざま調(しらべ)の中に、笛にかぎりて制する事、いかん。」

「さん候。其、謂(いはれ)あり。蛇柳(じややなぎ)のあなたに、空劫(くうこう)以前より、大虵(たいじや)、すめり。大師、かれに向ひ、

『我、此山を佛法の灵地(れいち)となさん。汝、茲(こゝ)にありては、凡人(ぼんじん)の恐れあり。急ぎ所をかゆべし。』

となり。大龍(だいりう)曰、

『此山に住所(すむところ)、星霜無量なり。なんぞ此所(ここ)を去らんや。』

于ㇾ時(ときに)、大師、祕法を以〔もつて〕、龍の鱗の間に毒蟲を生じさせて、躰(たい)をやぶらしむ。

 大龍、これをかなしみ、降(こう)して、

『地を去らん。』

となれば、毒蟲、忽(たちまち)に滅せり。

それより半里がほど後(うしろ)の山中(さんちう)に竄(かくる)。

笛は龍(りやう)の吟ずる聲なれば、をのれが友と心得、はたして、大龍、うごき出〔いづ〕るにより、その音を禁むるなり。」

太閤、かさねて、

「よし。笛はなくとも、くるしからじ。」

と、能をはじめ、三番過(すぎ)て、仰(おゝせ)あるは、

「山法(さんはう)にまかせ、三番は愼みぬ。これより、笛を大師に詫ぶべし。」

とて、吹(ふか)せけるに、晴天、俄に曇り、黑雲(くろくも)、地に覆ひ、大風(たいふう)、古木(こぼく)を折り、大雨、軒を崩し、雷(いかづち)、八方に滿(みち)て、山谷(さんこく)、鳴動せり。

さしもの太閤、居とゞまらず、二十町あまり、ふもと、櫻本(さくらもと)といふまで、立退(たちの)き、賤(しづ)が家(や)に入〔いり〕て、鎭(しづま)るを待(まち)給ふに、二時〔ふたとき〕ばかりありて、やうやうと晴〔はれ〕ける、となり。

それより太閤、大師の制法をいよいよ、信じ給ふとなり。

[やぶちゃん注:珍しい会話形式であるので、特異的に改行を施して読み易くした。文頭の一字下げが本書にはないので、改行だけに留めた。

「觀世太夫」不詳。左近(与三郎)身愛(黒雪)か(永禄九(一五六六)年〜寛永三(一六二六)年)。家康に仕えて四座の地位を占めた人物。但し、豊臣秀吉は金春流を愛好し、観世流は重用されなかった。

「蛇柳(じややなぎ)」蛇柳は高野山の山上にある大橋(一の橋)より奥の院に至る右側の路傍の奥にあった。ここは、高野山で破戒僧を処刑する場所の一つで、最も重い死罪「石子詰(いしこづめ)」=生き埋めの刑が執行された所とされる。位置は個人ブログ「クワウグワ記」の蛇柳供養塔(高野山・奥の院)及び、個人ブログ「高野山への道」の「出る」所(蛇柳 #01を参照されたい。現在は枯死して存在せず、ガイドや地図にも所収しない)。一説に弘法大師の得度によって蛇の変じた(若しくは法力によって蛇に変じさせた)松と言われた。高野山の古い案内記によれば、この柳は、低く匍匐して蛇が臥せたのに似ていることから名づけられた、とある。調べてみると、どうもここが諸案内に載らないのは、松が枯れた以外にも、高野山の「暗部」に相当する不浄の地であるからのように推察される。「高野山霊宝館」の公式HPには、高野山で犯罪を犯した者への処刑方法として「万丈転の刑」(手足を紐で縛った上に簀巻にして谷底へ突き転がされる刑)を説明するページがあるが、罪状が軽い場合は鬢(びん)を片方だけそり落とし、そこに朱で入れ墨された上で寺領外への追放で、万丈転でも万一命拾いした者はそのまま放免となったが、逆に重罪の場合は奥之院の蛇柳付近の地中に生きたまま埋められる極刑となる、とあるのである。本記載では大いに参考になった個人のHP、上村登氏の「土佐の植物」(昭和一九(一九四四)年共立出版刊か)を電子化されたものと思われるサイト内にある「紀州高野山の蛇柳」によれば、『以前高野山で植物採集会が催された時、その指導者として私も行ったのだが、その折私は同山幹部の或る僧に向ってこの蛇柳の由来をたずねてみたら、その答えに「昔高野山の寺の内に一人の僧があって陰謀を廻らし、寺主の僧の位置を奪い自らその位に据らんと企てたことが発覚して捕えられ、後来の見せしめのためにその僧を生埋にした処があの場所で、そこへあの通り柳を植え、そして右のような事情ゆえその罪悪を示すためその柳の名も蛇柳と名づけたようだ」と語られた』とあるのも興味深い。なお、同記載によれば植物学者白井光太郎氏がここでこの柳を採取した上、ヤナギ科ヤナギ属ジャヤナギ(別名オオシロヤナギ)Salix eriocarpa に同定、和名もここで決まった。

「空劫(くうこう)」世界が全く壊滅して、次にまた、新たに生成の時が始まるまでの長い空無の期間。四劫 (しこう) の第四。四劫とは、成劫(じょうごう:山河・大地・草木などの自然界と生き物とが成立する期間。・住劫(自然界と生き物とが安穏に持続していく期間)・壊劫(えこう:まず生き物が破壊消滅していき,次に自然界が破壊されていく期間)・空劫を指す。

「灵地」「靈地」。

「凡人(ぼんじん)」人々。

「かゆ」「替ゆ」。

「降(こう)して」降参して。

「笛は龍の吟ずる聲」雅楽で使う管楽器としての笛は龍笛(りゅうてき)と呼ぶ。

「これより笛を大師に詫ぶべし。」よく判らぬが、この「詫ぶ」は自動詞を他動詞的に用いたもので、「静かな境地を楽しませる・閑寂な情趣を感じとらせる」の謂いで、「これから後は、一つ、笛を以って弘法大師さまに静謐なる情趣の音(ね)を味わって戴こうか。」と謂った意味か。

「二十町」約ニキロ百八十二メートル。

「ふもと」高野山の麓。

「櫻本(さくらもと)」不詳。奈良県吉野郡吉野町にある大峯山寺の護持院一つである桜本坊を思い出したが(ここは文禄三(一五九四)年に行われた豊臣秀吉の花見の際に関白秀次の宿舎となった)、これは高野山から三十キロ以上も離れており、明治初年の神仏分離の際に「桜本坊」と改称されたので、この時代は金峯山寺の蔵王堂の前にあった「密乗院」だから、違う。私は高野山に行ったことがない。識者の御教授を乞う。

「二時」四時間。]

諸國里人談卷之一 金印

 

    ○金印

相州小田原最乘寺の金印は、開山了菴和尚、三嶋明神の告(つげ)によつて、地中より掘(ほり)出〔いだ〕す所の神璽(しんじ)なり【其蹟、金剛水と號す。妙井なり。】。[やぶちゃん注:以上の割注の下に、金印の落款図が入る。リンク先は早稲田大学図書館古典総合データベースの①の落款のある画像。謂わずもがな、右頁の巨大なそれである。]朱を以〔もつて〕點ㇾ之〔これをてんず〕。佛菩薩の名号呈す。又、印書もあり。印員、不定。此守護(まもり)を所持すれば、天行病(はやりやまひ)・魑魅★両(ちみまうりやう)を避(さ)く。夜行(やかう)の時は、印一つは一人の具(とも)、印三つあるは、山賊・惡獸の眼(まなこ)には、四人を伴(ともな)ふて見ゆると云(いへ)り。○一年〔あるとし〕、江戸傳馬(でんま)町邊の綿布(めんぷ)を商(あきなふ)もの、上州へ元買(もとがひ)に行けるに、深谷・本庄の間にて、六人の強盜に、あふ。元來(もとより)、此男、兵術(ひやうじゆつ)を得たれば、一人は、うす手を負(おふ)て迯去(にげ〔さ〕)る。殘る五人の盜は、道の邊〔べ〕の松・杉を相手として、飛躍(とびおど[やぶちゃん注:ママ。])り、切合(きりあふ)風情(ふぜい)なりしが、これもまた、退去(にげさり)て、辛(かろ)うじて、助かりける。後に案ずれば、五つ押(おし)たる金印を懷にしたり。全く此加護なりと益々、信を增(まし)けり。

[やぶちゃん注:「★」=(くにがまえ)の中に「※」(まさにこの記号通り)。「魑魅※両」は「魑魅魍魎」。

「相州小田原最乘寺」神奈川県南足柄市大雄町(だいゆう)にある曹洞宗大雄山(だいゆうさん)最乗寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。「道了権現」「道了尊」「小田原道了薩(さった)」と称す。大山不動・川崎大師とともに神奈川県三大名刹の一つ。本尊は釈迦牟尼仏。応永元(一三九四)年、了庵慧明(りょうあんえみょう 延元二/建武四年(一三三七)年~嘉吉元(一四一一)年:相模出身。俗姓は藤原。曹洞宗の僧。不聞契聞(ふもんかいもん)について出家し、通幻寂霊の法を嗣ぐ)が弟子の道了薩の助力を得て創建した。道了薩は神通力(じんずうりき)を持っていたといわれ、師の命によって井戸を掘るうち、鉄印を掘り当て、そこから清泉が湧き出したと伝えられる。この鉄印は御金印(おかのいん)と称し、この寺第一の霊宝とされる。最乗寺了庵派十六派は関東の曹洞宗の中で一大勢力をなし、江戸時代末まで栄えた。道了薩は道了大権現として崇められ、師の死後、仏法を守護すべしとして天狗となったという伝説から、大烏天狗信仰を生じ、寺には九葉の羽団扇や、天狗が履く鉄製の大下駄が祀られている(最乗寺公式サイト及び小学館「日本大百科全書」他に拠った)。横浜翠嵐高校での山岳部の顧問時代の春山の定番、明神ケ岳の東の入山口として私には馴染み深い。

「金印」驚いたことに、この落款の影印はネット上に存在しないようである。以上の掘り出されたことを記している記載は見つかっても、その影印の文字が何を表わしているのかを解説している人も、これ、いない。「神璽(しんじ)」なれば分らぬのは当然とは言われそうだが、呪文の一種として何かの系統と繋がるものなのか、それとも、ある程度の文字解読が可能なのか? 識者の御教授を乞うものである。

「三嶋明神」現在の三島大社の祭神、大山祇命(おおやまつみのみこと:伊弉諾尊と伊弉冉尊の子)と積羽八重事代主神(つみはやえことしろぬしのかみ:事代主のこと)の二柱の総称。

「金剛水と號す。妙井なり」今もある。美味い。最乗寺公式サイト解説ページ

「江戸傳馬(でんま)町」「てんまちょう」(現代仮名遣)と濁らないのが普通。江戸開府の際、伝馬を業とする人々が集住した、現在の東京都中央区日本橋付近の町名。大伝馬町・小伝馬町に分かれる。後に江戸を代表する問屋街となり、また、時代劇で知られるように小伝馬町には幕府の牢屋敷が置かれた。中央附近(グーグル・マップ・データ)。

「深谷・本庄の間」(グーグル・マップ・データ)。]

諸國里人談卷之一 鬼押

 

    ○鬼押(おにおさへ)

勢州津の觀音堂に、每年二月朔日、修法(しゆほう)あつて、鬼押といふ事あり。此本尊は海中より出現の像なり。むかし竜神、これをおしみて、奪(うばひ)に來りしを、追〔おひ〕はらひける學びなりと云り。赤靑(しやくせい)の鬼の面(おもて)着〔つけ〕たるもの、二人、異形(いぎやう)の裝束を着〔き〕せ、左右に手引〔てびき〕とて、究竟(くつきやう)の力者(りきしや)、二人宛〔づつ〕、相從ひ、各〻手木(てぎ)を携へたり。後(うしろ)に、又、一人、褚熊(しやぐま)を被(き)たるもの、一人づゝ、帶にすがりて、兩鬼前後に連(つらな)り、堂の外を巡る事、三遍なり。浦方・濱方の者ども、數百人、樫(かし)の棒を、手〻〔てんで〕に持〔もち〕て、三度めぐるうちに、彼(か)の鬼を打〔うつ〕事也。左右の手引・尻付(しりつき)等(とう)は、敲(うつ)事をいましめ、鬼斗〔ばかり〕を敲(うつ)掟(おきて)也。左右の手引共〔ども〕、手木を以〔もつて〕、棒をはらひ、中々に打〔うた〕せざるなり。いかにもして此鬼を強く敲(うた)ば、其年、かならず、漁、おほし。打〔うち〕得ざれば、すくなし、といひつたへて、身命(しんみやう)をおしまず、打(うた)んずる事を、はかる。件(くだん)の鬼は、雇(やとは)れ人〔びと〕にて、もしは、打殺(〔うち〕ころ)されたりとも、違亂(いらん)あらざる極(きはめ)なりけり。同日、町中にては、浴衣(ゆかた)一衣(ゑ)に、髮を亂し、鉢卷をし、拔身(ぬきみ)の眞劔(しんけん)を持(もち)、十人、あるひは、二十人ほどづゝ、一むれ一むれに、「よいよい」といふて步行(あるく)なり。是もまた、龍神を追退(おいのけ[やぶちゃん注:ママ。])たる遺風也。俗に「觀音祭」と云ふ。

[やぶちゃん注:これは三重県津市大門にある津観音(つかんのん)(ここ(グーグル・マップ・データ))、正式には真言宗恵日山観音寺で嘗て行われていた「鬼押さえ」神事である。ここに記されたように、雇った鬼役を殺害しても問題としない暗黙の了解があったこと、初期には真剣が用いられ、実際に鬼役が殺されたこと、その後も死者が出たこと(後の引用参照)などを綜合すると、古形は豊漁を祈願するための、人身御供の原型を見てとることが可能である。ウィキの「津観音」によると、この寺は『伝承によれば、創建は奈良時代の初め』和銅二(七〇九)年)に『伊勢阿漕ヶ浦の漁夫の網に聖観音立像がかかり、これを本尊として開山したのが始まりであるとい』い、その陸揚げの際、『鬼が観音像を奪おうとした故事に由来する』神事であって、『観音像を奪いに来る鬼を』、『武士に扮した町役が刀等を持って退治する行事で、鬼をうまく追い払った年は、豊漁になるといわれたが、あまりの激しさに死傷者が出るほどであり、幕末に一時中止』され、明治四(一八七一)年には廃止されてしまった。昭和三十年代になって、「鬼押さえ豆まき」が行われるようになり、一九九七年になって「鬼押さえ行事」として復活、『現在は神刀に見立てた竹が使われている』とある。「倫理道徳に徹した美しき日本」なんぞを妄想する阿呆どもの中には私の見解に異論を挟む者もいるであろうが、例えば、この地元の「津観音」のパンフレットPDF)には、『江戸時代に行われていた「鬼押さえ」という儀式』では、『境内に「鬼」(罪人)をはなして、武士に扮した浜の若者が真剣(刀)で切り付けるという残忍なものだったと』伝え、『あまりにヒドいということで、のちに真剣が青竹に代わり、罪人を境内に放つこともなくなったらしいが、「中止になったら不漁になった」ということで』(別資料によれば、事実、文政元(一八一八)年に当時の津藩第十代藩主藤堂高兌(たかさわ)により中止の命が下っている)、『復活』したとあり(別資料によれば、天保年間(一八三〇年~一八四三年に)復活している)、『ウソみたいだが、当時の絵「伊勢参宮名所図会」』(寛政九(一七九七)年刊)『にも描かれている』とあるのだ。嘘だと思うんなら、自分で調べてみな。ネットで簡単に手に入るぜ。

「手引〔てびき〕」鬼の配下役。

「究竟(くつきやう)」「屈強」。

「手木(てぎ)」短い棒。また、これは十手の異名でもあり、真剣を使った初期の祭事では鉄製のそれを持ったものかも知れない。

「褚熊(しやぐま)」吉川弘文館随筆大成版もこれで翻刻しており、ママ注記もないが、これはどう見ても、「赤熊・赭熊」(しゃぐま)の誤りであろう。例の兜の縅(おどし)や、能・歌舞伎で用いられる、赤く染めたヤクの尾の毛、或いは、それに似た赤い髪の毛の飾りカツラである。「褚」は「綿入れ」の意味しかないし、「褚熊」という熟語も私は見たことがない。

「帶にすがりて」鬼の垂らした帯にか。

「浦方・濱方」区別不詳。或いは前者を漁業従事者、後者を比較的海浜に近い地域に住む農業従事者でありながら、事実上は漁業による地域の権益を有意に得ていたそれらの民を指すか。

「左右の手引・尻付(しりつき)等(とう)は、敲(うつ)事をいましめ」やや表現に不全があるように思う。これは、もとは「左右の手引」や「尻付」の者たちは打ち込む民衆を誡(いまし)めて「打つな」と言ったり、打ち込むのを妨害する仕草をするか、或いは、鬼役がしょっぱなから深手を負わぬように(祭りの運営上という観点で安全保障ではない)することを言っているように私は読む。ところが、後の「鬼斗〔ばかり〕を敲(うつ)掟(おきて)也」から見ると、そこでは「鬼」以外の「左右の手引」や「尻付」の者たちは決して打たないように「いましめ」=禁じられており、の謂いにスライドしいるように読めてしまうからである。

「違亂(いらん)」「法に違反し、秩序を乱すこと」或いは「苦情を言うこと・反対すること」の意であるが、ここは一種の符牒で、「罪に問わないこと」の意である。

「極(きはめ)」暗黙の内の取り決め。これは雇った鬼役には、無論、伝えない。従がって、鬼役はこの「鬼押さえ神事」を知らない他国からの流れ者や浮浪民に限られるのである。これは、こうした生贄神事では極めて当り前の仕儀であり、近世まで、いろいろなところで実は普通に残っていて、行われていたのである。]

諸國里人談卷之一 石羅漢

 

    ○石羅漢(いしのらかん)

豐後國耆闍崛(きじやく)山羅漢寺は、曹洞宗にて、宇佐の八幡よりは西北にあたつて、五里がほど也。釋迦・文殊・普賢・五百羅漢・千體の地藏をはじめ、三千七百體の諸佛、皆、石佛なり。開山圓龕禪師(ゑんがんぜんじ)、是を彫る時に、逆流健順(ぎやくりうけんじゆん)といふ仙人、來〔きたり〕て、力を合〔あは〕せ、一夜の中〔うち〕、成就すと云〔いふ〕。

○又、大和國壺坂のひがし、八町がほどに、高香(かうかう)山あり。石に刻む所の五百羅漢【千体仏と云。】、兩部の曼荼羅等あり。奇異の巧(たくみ)にして、凡作にあらず。

○又、はりまの國龍野(りうの)の近所、蓑村・瓜生(うりう)村の間の谷に、石像の五百羅漢あり。是、「つくしのらかん」におなじ。

[やぶちゃん注:①では最後の条は「又」の後が割注形式になっているが、「又」のみを本文として、以下を割注とするのは、如何にもおかしく私には思われることから、ここは③の表記を採用した。

「豐後國耆闍崛(きじやく)山羅漢寺」現在の大分県中津市本耶馬渓町にある日本国内の羅漢寺の総本山である曹洞宗耆闍崛山(ぎじゃくっせん)羅漢寺。(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「羅漢寺(中津市)によれば、『羅漢山の中腹に位置する。岩壁に無数の洞窟があり、山門も本堂もその中に埋め込まれるように建築されている。洞窟の中に』は三千七百『体以上の石仏が安置されており、中でも無漏窟(むろくつ、無漏洞とも)の五百羅漢は五百羅漢としては日本最古のものである』。『伝承では大化元』(六四五)年、『法道仙人』(インドの仙人で、鉄の宝鉢を持っていたことから、「空鉢(くはつ)仙人」「仙人(からはちせんにん)」とも呼ばれる。六~七世紀頃に中国・朝鮮半島を経由して日本へと渡ってきたとされ、播磨国一帯の山岳などに開山・開基として名を遺す、数多くの勅願寺を含む所縁の寺がみられる。また、日本に渡る際、牛頭天王とともに渡ったとされ、その牛頭天王は姫路市にある広峰神社に祭られて、その後、現在は八坂神社中の座に祭られたとされている。法道仙人が六甲山雲ヶ岩(紫雲賀岩)で修業中、紫雲に乗って出現した毘沙門天を感得したとされ、雲ヶ岩・六甲比命大善神・心経岩を奥ノ院とする吉祥院多聞寺(神戸市北区唐櫃)を創建したとされる。関東でも、鉢山町や神泉町など、地名が法道由来とされる。ここはウィキの「に拠った)『の創建というが、伝説の域を出ない』。延元二(一三三七)年乃至延元三/暦応元(一三三八)年、円龕昭覚(えんがんしょうがく ?~至徳元/元中元(一三八四)年:臨済僧。鎌倉寿福寺の寂庵上昭の法を嗣ぐ)『が当地に十六羅漢を祀ったのが』、『実質的な開山である。この時の寺は、現羅漢寺の対岸の岩山にある「古羅漢」と呼ばれる場所にあったと推定されている』。翌年には『中国から』逆流建順(ぎゃくりゅうけんじゅん 生没年不詳:「耶馬溪風物館」で行われた羅漢寺耶馬溪パンフレットPDF)によれば、来朝は延文四(一三五九)年とし、彼は出雲国雲樹寺(うんじゅじ)の三光国師(孤峰覚明(こほうかくみょう))に従っていた人物であるとし、円龕とともに耆闍崛を見た逆流は、この窟に聖像を造立することを発願し、七百余りの石造を刻んで安置し、そこを安心庵(あんしんあん)と名づけたとある。これが現在の羅漢寺の由来となっている五百羅漢であるとある。これは記録に残っており、明白な事実である記されている。無論、謂わずもがなであるが、「一夜の中〔うち〕、成就す」は伝承であるが、これは沾涼の本書全体に確立してある奇談性には必要不可欠であると言える)『という僧が来寺し、円龕昭覚とともにわずか』一『年で五百羅漢像を造立したという』。後に円龕は将軍足利義満から羅漢寺の寺号を与えられている。『寺は当初』、『臨済宗であったが』、慶長五(一六〇〇)年に鉄村玄鷟(てつそんげんさく)が『来寺してから』、『曹洞宗となった』とある。

「八町」八百七十三メートル弱。

「高香(かうかう)山」奈良県高市郡高取町壺阪香高山にある石造五百羅漢両界曼荼羅。壺阪寺(真言宗。正式には壺阪山南法華寺)の奥の院とされる。個人サイト仏」が画像も豊富で、よい。それによれば、この造立は慶長年間(一五九六年~一六一五年)と推定される。

「兩部の曼荼羅」蓮華によって表象される胎蔵界(密教で大日如来の理性面を指す。仏の菩提心が一切を包み、育成することを母胎にたとえたもの)曼荼羅と、内容を九つに区分するところから九会(くえ)曼荼羅とも称する金剛界(密教で大日如来の持つ。総ての煩悩を打ち破る強固な力を持つ智徳の面を指す。)曼荼羅の両曼荼羅。

「はりまの國龍野(りうの)の近所、蓑村・瓜生(うりう)村の間の谷に、石像の五百羅漢あり」現在の兵庫県相生市矢野町瓜生にある史跡「瓜生羅漢石仏」群。(グーグル・マップ・データ)。釈迦如来像を中心に脇侍として文殊・普賢両菩薩と十六羅漢像が左右に並んで彫られており、室町時代に彫刻されたものと推定されている。旅行サイトが写真もあり、よい。

「つくしのらかん」「筑紫の羅漢」。これは冒頭の羅漢寺のそれとも採れるが、北九州地区には多数の臼杵を始め、石仏羅漢群は多いから、広義のそれで私は採る。]

諸國里人談卷之一 善光寺如來

 

    ○善光寺如來

信州水内(みのち)郡芋井鄕(いもゐのがう)善光寺の本尊は、欽明天皇十三年、百濟國より渡り來るいへども[やぶちゃん注:ママ。「來る」と「いへども」の脱字であろう。]、いまだ信ぜず。推古天皇十年、草創して、伊奈郡【同國也。】宇沼(うぬま)村に寺を建(たつ)。其後、皇極天皇元年に、佛勅によつて水内郡に建立し給ふ。本願主は、本多善光。よつて寺號とす。

凡(およそ)、世に靈社靈佛多しといへども、他國遠境より信を發(おこ)して、態(わざわざ)に參詣するは、伊勢兩宮と當本尊のみなり。每日、旭(あさひ)の時と、日中に、兩度、御帳(みてう)を揭ぐ。時に大念佛す。參詣の輩(ともがら)、此時節にあふ事を矩模(きぼ)とせり。日每(ごと)に百人二百人の參詣、御堂に滿(みて)り。其地の人は稀にして、皆、旅人なり。かぞへがたき靈驗の中に、ちかきをいはゞ、享保年中、江戸深川の人、目を病(やみ)て盲(しい)たり。此本尊に祈誓して、四十八度、步みを運ぶ。願の發(おこ)す半過(なかばすぎ)て[やぶちゃん注:ママ。「發(おこ)」してより「半過(なかばすぎ)て」の謂い。]、兩眼、あきらかに開けたり。その持(もつ)所の杖、件(くだん)の趣意を記して繪馬にし、御堂に揭置(かゝげ〔おき〕)たり。每月參詣すれば、徃還(わうくわん)・驛(むまやぢ)の者、悉(ことごとく)、其人を知(しる)。

  諸國諸佛の靈驗多しといへども、事繁しげ)ければ、省ㇾ之(〔これを〕はぶく)。

[やぶちゃん注:本条は③に誤写ががあって、冒頭部分の一部が脱文しているため、①を底本に③と校合して翻刻した。本条は日本最古と伝わる一光三尊阿弥陀如来を本尊とする、現在の長野県長野市元善町(もとよしちょう)にある定額山(じょうがくざん)善光寺(ぜんこうじ)。本寺は、近世以来、無宗派の単立寺院で、天台宗の大勧進と浄土宗の大本願が管理してきている。住職は「大勧進貫主」と「大本願上人」の両名が務める。ウィキの「善光寺によれば、『善光寺聖の勧進や出開帳などによって、江戸時代末には、「一生に一度は善光寺詣り」と言われるようになった。今日では御開帳が行われる丑年と未年に、より多くの参拝者が訪れる』とあり、絶対秘仏とされる本尊は当寺の住職ですら見ることは出来ないとされており、数えで七年に一度の「本尊開帳」というのも、身代わりの前立本尊(レプリカ)によるものである。ここに書かれている毎日の開帳というのは、『朝の勤行や正午に行なわれる法要などの限られた時間に』、『金色に彩られた瑠璃壇の戸張が上がり、瑠璃壇と厨子までを拝することが通例とされる』とあるのを指している。

 本尊だけでなく、善光寺の歴史も不確かで、白雉五(六五四)年より『絶対秘仏とされている善光寺の本尊、「善光寺式阿弥陀三尊」は、天竺の月蓋長者が鋳写したものとされ、百済の聖王(聖明王)を経て、献呈されたか、難波の津に漂着されたものとされる。日本に来るも廃仏派の物部氏によって捨てられる(一説に和光寺)が、本田善光に拾われ、小山善光寺から信濃の元善光寺に、次いで現在地に遷座したと伝えられる。創建時期は不明だが、近江国周辺で見られる湖東式軒丸瓦が発掘されている』。『通説(公式HP)では、善光寺の由来は本田善光であり、本田善光が善光寺如来を信濃国に持ってきたとされているが、扶桑略記では或記(引用した)として、「秦巨勢大夫」とあり、伊呂波字類抄では「信濃国人若麻續東人」と相違がある』。『また、『四天王寺秘訣』には光坐寺や本善寺、『古今目録抄(太子伝)』には阿弥陀院、百済寺と多くある』。『また、天武天皇時に日本全国で造られた郡寺(郡家隣接寺院、水内郡は金刺舎人)の』一『つという指摘がある』。天平勝宝八(七五六)年、『唐の玄宗皇帝は楊貴妃の菩提を弔うため日本に使節を送り、信濃の善光寺に自筆の大般若経を奉納させたという伝承が残る』。『善光寺縁起は、扶桑略記で記されているのを始めに、時代を経るごとに追記や改変がされて』おり、『院政期に書かれたとされる『伊呂波字類抄』にその引用があり、その記述には日本の仏教公伝の旧説とされる』五五二年から丁度、五十年後の推古天皇一〇(六〇二)年に『若麻績東人』(わかをみのあずまびと)『(本田善光)が仏像を入手して信濃に持ち帰り、更に』百六十六年を経た神護景雲二(七六八)年に『至ったことが記されている』。この『『伊呂波字類抄』が参照した原典は』同神護景雲二年に『書かれた善光寺の「古縁起」であったと見られている。田島公は推古天皇の時代、信濃国の大部分はヤマト王権(大和朝廷)の支配下にあって他の東国諸国とともに貢納を行っていたと推定されること(「東国の調」)』、この七六八年前後には『称徳天皇・道鏡の下で仏教振興政策が取られており、既存寺院の把握も行われていたことから、本田善光の説話は全くの創作ではなく』、七六八年に『作成された善光寺の「古縁起」のモデルとなった伝承が存在したと』もされる。『善光寺のものと確証が得られている訳ではないが』、『境内の遺跡から古代寺院の古瓦が出土しており』、九『世紀の物と鑑定されている』とある。

「欽明天皇十三年」五五二年。本尊伝来として「善光寺縁起」にあり。

「推古天皇十年」六〇二年。本田善光が信濃に持ち帰った年として、前に出した「伊呂波字類抄」にあり。

「伊奈郡【同國也。】宇沼(うぬま)村」伊奈郡宇沼村麻績の里とする。現在の東筑摩郡麻績村(おみむら)か(善光寺の南西約二十三キロメートル)。(グーグル・マップ・データ)。しかし、ここは少なくとも近世の旧伊奈郡域ではない(同郡の北方)

「皇極天皇元年」六四二年。勅願により伽藍が造営されて本田善光の名を取って「善光寺」と名付けられた年として「善光寺縁起」にあり。

「本多善光」(ほんだよしみつ 生没年未詳)善光寺の名の由来となったとする飛鳥時代の人物。ウィキの「本多善光によれば、推古天皇八~十年に『大和の京に上る。その際の難波堀江で、厄落としとして打ち捨てられた尊仏を発見し、安置したい旨を願い出て勅許を蒙り、尊仏を伊奈郡若麻績里の自宅に移して拝』していたが、皇極天皇三(六四四)年(「善光寺縁起」とは二年のズレがある)、『善光寺の所在地となる同国水内郡芋井郷に尊仏を奉り、寺院建立の勅を蒙りて伽藍を建立。科野国(信濃国)伊那郡若麻績里に住んだことから、伊呂波字類抄では若麻績東人(わかをみのあずまこ)とも称される』。以下、「略縁起」の項に、欽明天皇一三(五五二)年(一説に宣化天皇三(五三八)年とも)、『百済(朝鮮半島南西部)の聖王(聖明王)が献上した天竺の月蓋長者造仏の阿弥陀如来像が、疫病流行のために物部氏によって難波の堀江(現在の大阪とも奈良県明日香村とも)に捨てられた』。その後、推古天皇八(六〇〇)年、『上洛していた本田善光がそこを通りかかると』、『その阿弥陀如来像(のちに長野市善光寺の古来から絶対秘仏として伝わる本尊となる)が水中から出現して背に乗った』。『信濃国に戻り』、『家に安置し、その後』、『阿弥陀如来の霊告で、信濃国水内郡芋井郷(現在の長野市)に移座し、如来堂を建立して祀ったという』とある。

「矩模(きぼ)」不詳。「本来の基本」或いは「切願の核心」の謂いか。

「ちかきをいはゞ」本書の刊行は寛保三(一七四三)年。

「享保年中」一七一六年から一七三六年まで。

「驛(むまやぢ)」ママ。読みの意味は不詳。「馬屋路」か。]

諸國里人談卷之一 嵯峨釋迦

 

    ○嵯峨(さがの)釋迦

山城嵯蛾、淸凉寺(せいりうじ[やぶちゃん注:ママ。])の釈迦如來は、一條院の御宇、東大寺の奝然法橋(しうねんほつきやう)、宋國に入(いり)て、聖禪院(しやうぜんゐん)におゐて、優填(うてん)第二の模像を礼し、乃〔すなはち〕、佛工張榮を雇(やとひ)て模刻して、これを得、鄭仁德(ていにんとく)が舩に乘(のり)て歸る。又、一切經五千四十人巻、十六羅漢の畫像を獲(ゑ)て連臺寺(れんだいじ)に至る。大臣・公卿、車を下りて、これを拜す。其(その)優填(うてん)の模像を見〔みる〕に、今、嵯峨の淸涼院にあり【「元亨釋書」。】。

大念佛 每年三月九日より十五日に至。弘安二年始(はじま)る。

御身拭(おみのごひ) 每年三月十九日。

當寺、舊(むかし)、融大臣(とほるのおとゞ)の山庄〔さんざう〕「棲霞觀(すいかくわん)」なり。貞觀年中に、改〔あらため)〕て、寺とし、空海に賜ふ。住持恒寂(こうじやく)を以〔もつて〕開祖とす。

[やぶちゃん注:「山城嵯蛾、淸凉寺(せいりうじ)の釈迦如來」現在の京都府京都市右京区嵯峨にある浄土宗五台山(ごだいさん)清凉寺(せいりょうじ/しょうりょうじ:現行も「凉」は(にすい))。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「清凉寺」によれば(下線太字やぶちゃん)、「嵯峨釈迦堂」の通名で知られ、中世以来の融通念仏の道場。初め華厳宗、後に浄土宗となった。『この寺の歴史には、阿弥陀三尊を本尊とする棲霞寺(せいかじ)と、釈迦如来を本尊とする清凉寺という』二『つの寺院が関係している。この地には、もともと、嵯峨天皇の皇子・左大臣源融』(弘仁一三(八二二)年~寛平七(八九五)年:従一位・左大臣。)『の別荘・栖霞観(せいかかん)があった。源融の一周忌に当たる』寛平八年、『融が生前に造立発願して果たせなかった阿弥陀三尊像を子息が造り、これを安置した阿弥陀堂を棲霞寺と号した。その後』、天慶八(九四五)年になって、『重明親王』(しげあきらしんのう 延喜六(九〇六)年~天暦八(九五四)年:醍醐天皇第四皇子)『妃が新堂を建て、等身大の釈迦像を安置した。一説では、「釈迦堂」の名の起こりは』、『この時であるという』。『棲霞寺草創から数十年後、当時の中国・宋に渡り、五台山(一名、清凉山)を巡礼した奝然』(ちょうねん 天慶元(九三八)年~長和五(一〇一六)年:平安中期の東大寺の僧。俗姓は秦氏。京都出身。東大寺の観理に三論教学を、近江国石山寺の元杲(げんごう)に真言密教を学んだ。早い時期から入宋を志し、永観元(九八三)年、宋に渡り、天台山を巡礼した後、汴京(べんけい)を経て、五台山を巡礼、太宗から大師号や「新印大蔵経」などを賜って、日本への帰途についたが、途中、インドの優填王(うでんおう)が造立したと言う釈迦如来立像を模刻させ、胎内に、その由来記などを納めて、寛和二(九八六)年に帰国した。翌年、請来した釈迦像は京都上品蓮台寺に安置された。同年、法橋に任ぜられ、永祚元(九八九)年から三年間、東大寺別当を務めている。ここはウィキの「奝然」に拠った)『という東大寺出身の僧がいた。奝然は、宋』からの帰途(九八五年)、『台州の開元寺で現地の仏師に命じて』、一『体の釈迦如来像を謹刻させた。その釈迦像は、古代インドの優填王』(うてんおう:ウダヤナ。インドのコーサンビー(憍賞弥国)の王。釈迦在世中、仏教を保護した王として知られる。漢字音写には他に「于闐(うでん)」「優陀延(うだえん)」がある)『が釈迦の在世中に栴檀の木で造らせたという由緒を持つ霊像を模刻したもので』、これはインド―中国―日本と伝来したことから、「三国伝来の釈迦像」、また、釈迦に生き写しとされるところから』「生きているお釈迦様」と呼ばれている。奝然は』、『日本に帰国後、京都の愛宕山を中国の五台山に見立て、愛宕山麓に』、『この釈迦如来立像』『を安置する寺を建立しようとした。奝然は、三国伝来の釈迦像をこの嵯峨の地に安置することで、南都系の旧仏教の都における中心地としようとしたものと思われる。すなわち、都の西北方にそびえる愛宕山麓の地に拠点となる清凉寺を建立することで、相対する都の東北方に位置する比叡山延暦寺と対抗しようとした、という意図が込められていたとされる。しかし、延暦寺の反対にあい、その願いを達しないまま』、長和五(一〇一六)年、奝然は没した。その後、程経ずして彼『遺志を継いだ弟子の盛算(じょうさん)が棲霞寺の境内に建立したのが、五台山清凉寺で』、やがて、清凉寺が栄えたので、棲霞寺はこれと合併した。但し、現存の建物は元禄期のものである。『融通念仏との結びつきができたのは』、弘安二(一二七九)年『以降のことで』、『この年、大念仏中興上人と呼ばれる円覚が、当寺で融通念仏を勤修している。その後、当寺で大念仏が盛んになり、融通念仏の道場となった。嵯峨大念仏が初めて執行されたのは、下って』嘉吉三(一四四三)年のこととされ』、『その後、応仁の乱で本寺の伽藍は焼失するが』、文明一三(一四八一)年に再興された。享禄三(一五三〇)年に『円誉が当寺に入り、初めて十二時の念仏を勤修してより、本寺は浄土宗の寺となる。釈迦堂(本堂)は』、慶長七(一六〇二)年に『豊臣秀頼によって寄進・造営されたが、その後、嵯峨の大火が類焼し、本堂以下の伽藍は被災し、また、大地震の被害もあり』、『伽藍の破損は甚大』であった。

 本尊木造釈迦如来立像は北宋の仏師張延皎及び張延襲の作で、像高は一メートル六十センチメートル、『伝承では赤栴檀というインドの香木で造られたとされるが、実際には魏氏桜桃という中国産のサクラ材で作られている。頭髪を縄目状に表現し、通肩(両肩を覆う)にまとった大衣に衣文線を同心円状に表すなど、当時の中国や日本の仏像とは異なった特色を示し、その様式は古代インドに源流をもつ中央アジア(西域)の仏像と共通性がみられる』。これは既に一部を述べたが、『当時、宋に滞在していた奝然』が九八四年に、『当時の都であった開封(汴京)』(調べて見たところ、本文に出る「聖禪院」、正しくは「啓聖禪院」に、その原型であるインド渡来の像があった)『で優填王造立という釈迦の霊像を拝して、その模刻を志し』、翌年、『台州開元寺で本像を作らせた。以上の造像経緯は像内に納入されていた「瑞像造立記」の記述から明らかであり、背板(内刳の蓋板)裏面には』上記二人の『仏師の名が刻まれている』。『この釈迦像の模造は、奈良・西大寺本尊像をはじめ、日本各地に』百『体近くあることが知られ、「清凉寺式釈迦像」と呼ばれる』。昭和二九(一九五四年に『本像の背面にある背板(内刳』(うちぐり)の部分『を蓋状に覆う板)をはずして調査したところ、内部から造像にまつわる文書、奝然の遺品、仏教版画など多くの「納入品」が発見され』ているが、そのうちの『「五臓六腑」(絹製の内臓の模型)は、現存する世界最古の内臓模型であり』、『医学史の資料としても注目される』。『本寺の釈迦像は、前述のとおり』、十『世紀に中国で制作されたものであるが』、本邦に伝来後、『中世頃から』、『模刻像ではなく、インドから将来された栴檀釈迦像そのものであると信じられるようになった』。『こうした信仰を受け』、元禄一三(一七〇〇)年より、『本尊の江戸に始まる各地への出開帳が始まる。また、徳川綱吉の母である桂昌院の発願で、伽藍の復興がおこなわれた。 このように、三国伝来の釈迦像は信仰を集め、清凉寺は「嵯峨の釈迦堂」と呼ばれて栄えた』とある。沾涼のこの叙述は寛保三(一七四三)年であるが、正確な事実経緯(一部に誤りはある)を伝えている点で評価出来る

「一條院の御宇」六十六代一条天皇(六十四円融天皇(六十三代冷泉天皇の弟)の子)の在位は寛和二(九八六)年六月から寛弘八(一〇一一)年で、奝然の渡宋は永観元(九八三)年、帰国は寛和二年で、謂いとしては正しいとは言えず、六十五代花山天皇(冷泉天皇の子)の御宇とするのが穏当(花山天皇は寛和二(九八六)年六月二十二日、突如、十九歳で宮中を出、剃髪、仏門に入って退位したため、一条天皇は僅か七歳で即位している。これが藤原道家の策謀として「栄花物語」「大鏡」に描かれていることは高校の古文の教科書にも載るのでよく知られている)。

「優填(うてん)第二の模像」二像を彫琢した、その二体目の謂いか。

「佛工張榮」先の引用には「張延皎」「張延襲」の二人の名が記されてある。

「鄭仁德」個人サイト『暗号「山上憶良」』の「宋の太宗への奝然の上奏文と献上品」に、台州寧海県の商人とある。

「連臺寺」京都市北区紫野十二坊町にある真言宗蓮華金宝山九品三昧院上品蓮台寺(じょうぼんれんだいじ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。確かに、ウィキの「上品蓮台寺」に『嵯峨清凉寺の本尊で、「三国伝来の霊像」として広く信仰を集めてきた釈迦如来像は、一時期、上品蓮台寺に安置されて』おり、「扶桑略記」によれば寛和三・永延元(九八七)年に『奝然が同釈迦像を宋から日本へ請来した際、一時この寺に安置し、後に清涼寺に移したという』とある。

「元亨釋書」虎関師錬(こかんしれん著になる鎌倉末期の仏教史書。三十巻。元亨二(一三二二)年成立。仏教の伝来から鎌倉末期までの七百年間の仏教史を記し、内容は「史記」及び中国の高僧伝に倣って、高僧四百余名の伝記と、周辺的史実とを漢文体で記したもの。特に禅僧の思想を知る上で貴重であるが、親鸞を除き、道元を軽視するなど、筆者の偏見があることが指摘されている(主に「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「大念佛 每年三月九日より十五日に至」嵯峨の大念仏(会(え))。陰暦三月六日から十五日までの十日間、人々が集まって念仏を唱えた行事(現在は三日間に短縮されている)。太鼓などを鳴らしては「ハハミタ」(「アーミダ」の祭儀伝承による特異転訛。以下の引用を見よ)と唱え、念仏後は仮面を被って町を歩いた。「WEB版浄土宗大辞典」の「嵯峨大念仏」によれば、『成立伝承によれば、十万は生き別れの母を求め法隆寺夢殿観音に祈願したところ、融通念仏をもって世の人びとを教化すれば願いがかなえられるという夢告をうけた。よって諸方に道場を設け融通念仏を弘め、夢告によって播磨国において参詣の群集の中の母に会うことができたという。したがって、この大念仏で唱える念仏は「アーミダ」と唱えるところを「ハハミタ」と唱えている。この大念仏は、もと一月・四月・涅槃会・盆・十夜に行われていたが、現在は四月一〇日より三日間』のみ『行われている。講員は嵯峨在住の人に限られ一〇人一組で組織されている。衣裳は常着の上に白袴、黒色の麻地の羽織(背中に大念仏と白く染め抜いたもの)を着て、肩ギヌ(赤白二色に染め分け)をつける。敲鉦たたきがね六、太鼓一、鰐口一の八人が仏前に向かって二列にならび、前列中央の者が導師となって句頭をつとめる。大念仏の式次第は、浄土宗の日常勤行式に準じて行われるが、摂益文の次に敲鉦・太鼓・鰐口による曲調のついた念仏を唱えて約三〇分で終わる。なおこの大念仏とともに無言狂言が行われる。これは壬生狂言と同じく十万の発願によるものといわれ、身振りだけの所作で大衆に仏教の教えを説くもので、演目は「釈迦如来」「しばり坊主」「時女」「釣狐」「花盗人」など二四種あるという。なお十三詣りの親子がこの狂言を見ると親子の縁がきれないとされる』とある。念仏よりも嵯峨大念仏狂言の方が有名になってしまっており、ネット検索を掛けても、やっと上記サイトで内容が腑に落ちた

「御身拭(おみのごひ) 每年三月十九日」本尊のそれ。現行は四月十九日に行われている。

「山庄〔さんざう〕」「山莊」。

「貞觀年中に、改〔あらため)〕て、寺とし、空海に賜ふ」貞観は八五九年から八七七年であるが、この叙述はおかしい。そもそもが、空海は宝亀五(七七四)年生まれで承和二(八三五)年に没しているので、空海が没した時、源融(弘仁一三(八二二)年~寛平七(八九五)年)は満十三歳だ。改めて天子が寺にして下賜しようがないぜよ!

「住持恒寂(こうじやく)」誤り。始祖(開基)は先の奝然である。恒寂とは淳和天皇の第二皇子で、一時、仁明天皇の皇太子となった(後に廃太子)恒貞親王(天長二(八二五)年~元慶八(八八四)年)の法名である。彼は清凉寺直近の嵯峨大覚寺の初祖であるから、混同したものか。]

2018/06/03

諸國里人談卷之一 大觀音 (江戸青山長谷寺(ちょうこくじ)(麻布大観音))

 

○武州江戸靑山笄橋(かうがいばし)、普陀山(ふださん)長谷寺〔ちやうこくじ〕【曹洞宗、大中寺末。】。本尊十一面觀音立像(りうぞう)、二丈六尺。御頭(みぐし)、和州長谷の本尊同作なり。はじめは竜雲院(りううんゐん)といふ。溜池(ためいけ)のうへにあり。天正十二年に遷(うつ)る。開山、門菴(もんあん)和尚なり。常に帳(ちやう)をひらきて、これを拜す。

佛工𥡴文會(けいぶんかい)、𥡴主勳は、兄弟なり。河内國春日(かすが)村の人なり。故(かるがゆへ)に世に春日の作と稱す。三尊ともに同作なり。

[やぶちゃん注:本条は項「○大觀音」の三番目(一番目が奈良長谷観音二番目鎌倉長谷観音)の条であるが、分離して示した。なお、この最後の寺は前二者と異なり、現行、「ちょうこくじ」と読んでいるので、ここではそう読みを私が歴史的仮名遣で振った

 これは現在の東京都港区西麻布二丁目にある曹洞宗補陀山(ほださん)長谷寺(ちょうこくじ)である((グーグル・マップ・データ))。ウィキの「長谷寺東京都港区によれば(下線太字やぶちゃん)、本尊は釈迦牟尼仏であるが、観音堂があり、そこに十一面観世音菩薩が奉安され、江戸三十三箇所観音霊場の第二十二番札所でもある。『現在地』は嘗て『下渋谷村に属して渋谷ヶ原と呼ばれ、奈良の長谷寺と同一の木材で造られたと伝えられる観音像を祀った』堂宇『があった。山口重政が』天正一九(一五九一)年、『徳川家康に招聘され』、『江戸に上った際、渋谷ヶ原に下屋敷を拝領し』、慶長三(一五九八)年、『この渋谷ヶ原観音堂を基に』、『補陀山長谷寺を創建し、菩提寺とした。開山は家康と親交があり、泉岳寺の開山でもある門庵宗関であった』(門庵宗関は本文の「門菴(もんあん)和尚」のことであるが、どうもこの名は「もんなん(そうかん)」と読むらしい。なお、また、彼は今川義元の孫であるらしい)。『その後、下野国大中寺末寺で』、天正一二(一五八四)年に溜池(現在の東京都港区赤坂にあった江戸城外濠周辺の一部地区に与えられた溜池町)に『あった普陀山瀧雲院と合寺し、寺格を高めた』。『現在は高樹町交差点方面が正面口だが、江戸時代には西麻布交差点方面へ東に延びる道が表参道であった。突き当たった通り沿いには』、天和元(一六八一)年に『門前町(渋谷長谷寺門前)が起立し、その向かい側に渋谷川の支流笄川が流れ、川の両側には原宿村字五反田の田地が広がっていた。現在』、『笄川は暗渠となっているとある。『寺の裏手、現在の根津美術館には日向国高鍋藩秋月家下屋敷があり、屋敷内の池から境内の脇を通って笄川に至る支流が存在した』。『寺の南側には広大な河内国丹南藩高木家屋敷や組屋敷が存在し、件の山口家下屋敷は高木家屋敷の南にあった』。宝永六(一七〇九)年、『現在の高樹町センタービル付近に渋谷御掃除町が成立したが、大部分は武家地であった』とある。『明治になると、渋谷長谷寺門前・渋谷御掃除町・周辺の組屋敷と共に麻布区笄町に編入され、渋谷ではなく』、『麻布地域に属することとなった』。昭和二〇(一九四五)年の『東京大空襲により本尊・寺もろとも焼失したが』昭和五二(一九七七)年に再興された、とある。

「二丈六尺」七メートル八十八センチメートル弱。

「佛工𥡴文會(けいぶんかい)、𥡴主勳は、兄弟なり。河内國春日(かすが)村の人なり。故(かるがゆへ)に世に春日の作と稱す」及びの本文と私の注を必ず参照されたい。]

諸國里人談卷之一 大觀音 (鎌倉長谷観音)

 

○相州鎌倉海光山長谷寺【淨土宗、光明寺末。】本尊十一面觀音立像二丈六尺二分。和州長谷寺の本尊の末木(すへき[やぶちゃん注:])を以て、佛師春日、造ㇾ之(これをつくる)なり。每年六月十七日會(ゑ)日、參詣、群集(ぐんしふ)す。坂東順禮四番。

常は堂の扉を閉(とぢ)て開(ひら)かず。よつて暗(くら)し。靑銅十疋(ぴき)を以〔もつて〕開帳す。于時(ときに)、燈篭(とうろう)に灯(ひ)を點じ、車を以〔もつて〕、御頭(みぐし)のうへまで引上て拜ㇾ之(これをはいす)。

[やぶちゃん注:本条は項「○大觀音」の二番目の条であるが、前条で述べた通り、分離して示す。なお、①②は冒頭の「長谷寺」には「てうこくじ」とルビするが、③にはルビはなく(ということは写した本人が正しく「はせでら」と読んでいると判断できる)、この「ちょうこくじ」という読みは次の江戸の「長谷寺」のそれとするのが正しく、鎌倉のこれはあくまで「はせでら」であるから、ここでは振らずにおいた

 これは神奈川県鎌倉市長谷にある現在は浄土宗の海光山慈照院長谷寺(はせでら)、通称「長谷観音」の記載。ウィキの「長谷寺(鎌倉市)」によれば、『長谷寺の創建は奈良時代とされているが、中世以前の沿革は明確でなく、創建の正確な時期や経緯についても解明されていない』。『寺伝によれば』天平八(七三六)年に、前条の『大和の長谷寺(奈良県桜井市)の開基である徳道を藤原房前』(ふささき:藤原不比等の次男で藤原北家の祖)『が招請し、十一面観音像を本尊として開山したという。この十一面観音像は、観音霊場として著名な大和の長谷寺の十一面観音像と同木から造られた』ものだとし、以下の壮大な伝承が残る。則ち、養老五(七二一)年に『徳道は』一本の『楠の大木から』二『体の十一面観音を造り、その』一体を『本尊としたのが』、『大和の長谷寺であり、もう』一体を『祈請の上』、『海に流したところ』が、それから十五年の『後に相模国の三浦半島に流れ着き、そちらを鎌倉に安置して開いたのが、鎌倉の長谷寺であると』いうのである。本尊木造十一面観音立像は、像高九・一メートルの『巨像で、木造の仏像としては日本有数のもの』である。残念なことに後世の修復部分が有意に多くの箇所に亙っており、『造立年代は定かでないが、室町時代頃の作と推定されている』。昭和三九(一九六四)年の調査により、文明一七(一四八五)年の『修理銘札が見出され』ており、また、延宝五(一六七七)年にも『修理が行われたことがわかっている。元の』木製の『光背は関東大震災による被害の後』、『取り外され』た(現在のものは『アルミ製で、平成三(一九九一)年、西村公朝の監修で造られたもの』)。『左手に水瓶、右手に数珠と地蔵菩薩の持つ錫杖を持ち、方形の磐石の上に立つ、いわゆる「長谷寺式十一面観音(長谷型観音)」様式を採る。左小指を立てているのも、本像の特徴』である。なお、長谷寺は奈良の長谷寺と同じく真言宗であったが、江戸初期の慶長一二(一六〇七)年に『徳川家康による伽藍修復を期に』、『浄土宗に改宗し』ている。

 さても、私は長谷観音と言えば、もう、あれを思い出さずにはいられない。

 小泉八雲の名品「知られぬ日本の面影」の「江ノ島巡礼」の中の長谷観音拝観のシークエンスである。私の注釈及び英語原文附きの『小泉八雲 落合貞三郎訳「知られぬ日本の面影」 第四章 江ノ島巡禮(一二)~(一五)』の「一二」を是非、読まれたい(「十三」も八雲が(正しくは、この“Glimpses of Unfamiliar Japan”執筆・刊行(明治二四(一八九六)年)時はまだ Patrick Lafcadio Hearn であった)前に出した伝承を彼らしい優しさで纏めた珠玉の伝承話で、こちらも是非、読まれたい)。因みに、ここで沾涼が説明している非常に印象的な観音の拝観方法――「燈篭(とうろう)に灯(ひ)を點じ、車」(滑車を用いた蠟燭の昇降機である)「を以〔もつて〕、御頭(みぐし)のうへまで引上ゲて拜ㇾ之(これをはいす)」――というのと全く同じ体験を八雲がして感銘を受けているさまが生(ナマ)で伝わってくるのである!!!

 また、本書刊行(寛保三(一七四三)年の五十八年前、貞亨二(一六八五)年に完成した、水戸光圀の「新編鎌倉志」の巻之五(私の電子化注)の「〇長谷觀音堂」も参照されたい。

「二丈六尺二分」七メートル八十八センチ四ミリ。ここも沾涼にしては珍しく過小表記である。

「佛師春日」彫った鶴に乗って去って帰らなかったという話のある伝説の仏師(例えば「河内飛鳥の伝説」の冒頭を参照)。さらに非常に興味深いのは先にも引いた水戸光圀の「新編鎌倉志」の巻之五のの「〇長谷觀音堂」の本文に長谷観音の作者を『春日(カスガ)が作』と記した後に割注で、『按ずるに、春日と云ふは佛師の名なり。佛像のみにあらず、樂(ガク)の假面にも春日が作數多(あまた)あり。舊記に、稽文會・稽主勳は、河内の國春日部の邑(むら)の人。兄弟共に佛師なりとあり。是を春日が作と云なり。浮屠附會の説に、春日大明神の作と云(いひ)て、世人を迷はせり。不可信(信ずべからず)』とあることである。稽文會・稽主勳は前条を参照されたい。彼等はまさに奈良の長谷観音の作者(いやいやここで同じ作者が彫ったと言っているのだから「まさに」でも「実は」でもないんだが)とされている仏工なのである。因みに、次の「普陀山長谷寺」(ふださんちょうこくじ)の条も必ず参照されたい。実は、私が注したのと、同んなじことが書かれているのである。

「六月十七日會(ゑ)日」「長谷寺」公式サイトの「年中行事」によれば、現行の鎌倉の長谷寺では、毎月十八日に本尊十一面観音菩薩の御縁日に因んで「観音会」が営まれているが、ここは現在、七月十八日に行われている法会「観音大施餓鬼会」(餓鬼道に落ちて苦しむ先祖や無縁の亡者のために行う法要)が当該する行事であろう。

「坂東順禮四番」坂東三十三箇所観音霊場巡礼の第四番札所。

「靑銅十疋(ぴき)」銭百文二千五百円ぐらいか。

「于時(ときに)」二字へのルビ。

諸國里人談卷之一 大觀音 (奈良長谷観音)

 

   ○大觀音

和州泊瀨(はつせ)山長谷寺の本尊は、十一面觀音立像(りうぞう)二丈六尺なり。方八尺の巖石を以〔もつて〕座とす。江州高島郡三尾(みを)山の靈木を以て、法道仙人と比丘道明(どうめい[やぶちゃん注:ママ。])、力を勠(あはて、これを建る。天平五年五月十八日、開眼。同十九年、堂、成就す。其後、數度、炎燒ありといへども、佛、恙なし。或は尊體は燒(やけ)る事ありといへども、御頭(みかしら)は山上に飛去(とびさつ)て燒けず、となり。佛工は𥡴文會(けいぶんかい)、𥡴主勳(けいしゆくん)なり。

開帳は黃金(わうごん)一枚、閉帳、又、黃金一枚也。一七日〔ひとなぬか〕の間、これを開く。尋常(よのつね)の開帳は、帳(ちやう)を下より卷(まく)なり。此(これ)は、上より卷おろし、半身(はんしん)を拜(はいす)。

[やぶちゃん注:本項は、これ以下、鎌倉の長谷寺の長谷観音と、江戸の長谷寺(ちょうこくじ)の十一面観世音菩薩(通称の「麻布大観音」は明治の地区変更以降のもの)が続くが、前の大仏と同様、分離して示す。

 本条は現在の奈良県桜井市初瀬(はせ:古くは「はつせ」)にある真言宗豊山(ぶざん)神楽院(かぐらいん)長谷寺の本尊十一面観音の記載。ウィキの「長谷寺によれば(下線やぶちゃん)、『長谷寺の創建は奈良時代』、八『世紀前半と推定されるが、創建の詳しい時期や事情は不明である。寺伝によれば、天武朝の朱鳥元年』(六八六年)、『僧の道明』(どうみょう)が天武天皇のために『初瀬山の西の丘(現在、本長谷寺と呼ばれている場所)に三重塔を建立、続いて』神亀四(七二七)年、『僧の徳道が東の丘(現在の本堂の地)に本尊十一面観音像を祀って開山したというが、これらのことについては正史に見えず、伝承の域を出ない』。承和一四(八四七)年十二月二十一日に定額寺』(じょうがくじ:奈良・平安時代に官許の大寺院や国分寺(尼寺を含む)に次ぐ寺格を有した仏教寺院を指す)『に列せられ』、天安二(八五八)年五月十日に三綱(さんごう:仏教寺院に於いて寺院を管理・運営して僧尼を統括する、上座(じょうざ)・寺主(じしゅ)・都維那(維那)(ついな/いな)の三つの僧職の総称)が『置かれたことが記され』ているから、『長谷寺も』、『この時期に官寺と認定されて別当が設置されたとみられている』とある。本堂は、『本尊を安置する正堂(しょうどう)、相の間、礼堂(らいどう)から成る巨大な建築で、前面は京都の清水寺本堂と同じく懸造(かけづくり、舞台造とも)になっている。本堂は奈良時代の創建後、室町時代の』天文五(一五三六)年までに』、計七回、『焼失している』。七『回目の焼失後、本尊十一面観音像は』天正七(一五三八)年に再興。『本堂は豊臣秀長の援助で再建に着手し』、天正十六年に『新しい堂が竣工した。ただし、現存する本堂はこの天正再興時のものではなく、その後』、『さらに建て替えられたもの』。『現存の本堂は、徳川家光の寄進を得て』、正保二(一六四五)年から『工事に取り掛かり』、五年後の慶安三(一六五〇)年に落慶したもの。同年六月に『記された棟札によると、大工中井大和守を中心とする大工集団による施工であった。天正再興時の本堂は』元和四(一六一八)年には『雨漏りの生じていたことが記録されているが、わずか数十年後に』、『修理ではなく』、『全面再建とした理由は明らかでなく、背景に何らかの社会的意図があったとの指摘もある』。本尊十一面観音像は、『前述のとおり、天文』七『年に完成しており、慶安』三『年の新本堂建設工事は本尊を原位置から移動せずに行われた。そのため、本堂は内陣の中にさらに内々陣(本尊を安置)がある複雑な構成となっており、内々陣は巨大な厨子の役目をしている』とある。本尊木造十一面観音立像は、神亀年間(七二〇年代)、『近隣の初瀬川に流れ着いた巨大な神木が大いなる祟りを呼び、恐怖した村人の懇願を受けて』、『開祖徳道が祟りの根源である神木を観音菩薩像に作り替え、これを近くの初瀬山に祀ったという長谷寺開山の伝承がある。伝承の真偽はともかく、当初』の『像は「神木」等、何らかのいわれのある木材を用いて刻まれたものと思われる。現在の本尊像は』、『仏像彫刻衰退期の室町時代の作品だが』、十『メートルを超える巨像を破綻なく』、『まとめている。国宝・重要文化財指定の木造彫刻の中では最大のものである。本像は通常の十一面観音像と異なり、右手には数珠とともに、地蔵菩薩の持つような錫杖を持ち、方形の磐石の上に立つ姿である(左手には通常の十一面観音像と同じく水瓶を持つ)。伝承によれば、これは地蔵菩薩と同じく、自ら人間界に下りて衆生を救済して行脚する姿を表したものとされ、他の宗派(真言宗他派も含む)には見られない独特の形式である。この種の錫杖を持った十一面観音を「長谷寺式十一面観音(長谷型観音)」と呼称する』とある。なお、本条の挿絵「初瀨」が、ここの左上部に載る(リンク先は早稲田大学図書館古典総合データベースの画像)。

「二丈六尺」七メートル八十八センチ弱。沾涼にしては珍しく過小に記している。

「方八尺」約二メートル四十二センチ四方。

「江州高島郡三尾(みを)山」長谷寺」公式サイトに、朱鳥元年(六八六)年、『道明上人は、天武天皇の銅板法華説相図(千仏多宝仏塔)を西の岡に安置、のち』、神亀四(七二七)年『徳道上人は、聖武天皇の勅を奉じて、衆生のために東の岡に近江高島から流れ出でた霊木を使い、十一面観世音菩薩を』造ったとある。近江高島は現在の滋賀県高島市。(グーグル・マップ・データ)。「高島郡三尾(みを)山」は不詳。現在、そのような名の山はない。但し、地名としてなら、滋賀県高島市安曇川町三尾里がある。但し、(グーグル・マップ・データ)は琵琶湖中部西岸の平地であって山はない。この伝承には高島と長谷寺を結びつける、聴く者誰もが腑に落ちる何かが伝承の中にあったのではなかろうか? 私のような馬鹿には、でないと、長谷寺からこんなに離れた高島を登場させる意図が、まるで分らぬのである(後に引くように、これは「長谷寺縁起文」などに出る伝承らしい)。

「法道仙人」個人サイト「内丹園」によれば、『播磨の法華山一乗寺から、丹波篠山の五台山東窟寺に至る地域に、その開基が法道仙人と伝えられる寺院が多数存在する。 修験道本山派の伽耶院(旧名・大谿寺)も』、皇極天皇四・大化元(六四五)年の『伝・法道仙人開基であ』り、『この年、法道仙人は耶馬溪・羅漢寺の地』も『訪れ、さらに播磨・伽耶院の前身である勅願寺を創建したとされ』、六四九年には『播磨・法華山一乗寺を創建したとされる』とある。『仏教は』この六四五年の『大化改新で、大和政権によって正式に受容されることになり、 その時期に法道仙人の旧跡に仏教寺院が次々に創建されたのであろう。しかしながら、それまでは播磨や丹波で、仏教はさほど定着していなかったはずである』。『法道仙人は、中国の道教にまつわる牛頭天王(武塔天神)と共に渡来したとされる』。『「仙人」と呼ばれることからも、本来は仏教僧ではなく、山岳で修行する道教の道士であったと考えられ』、『渡来時期は』六『世紀に遡る可能性がある』。『伝説では、法道仙人は天竺から紫雲に乗って飛来したとい』われるとあるから、そうした妖術をも駆使出来る渡来した道士、或いは、後の修験道のルーツとなるような山岳信仰系の行者で、そうした人物から教えを受けた者のようにも思われる

「比丘道明(どうめい)」(どうみょう 生没年不詳)のルビは③も①も「どうめい」。「朝日日本歴史人物事典」の記載を引く。八世紀に生存した奈良弘福寺(川原寺)の僧侶で、奈良長谷寺の開祖。俗姓は六人部(むとべ/むとりべ)氏。伝説的な僧侶であるが、確実な史料として長谷寺所蔵の千仏多宝塔銅板の銘文に、道明が天武天皇のため豊山(初瀬)の地に多宝塔を敬造した、とある。但し、その時期については諸説がある。また、「日本三代実録」の貞観一八(八七六)年五月二十八日の条に『大和国長谷山寺。これ、長朗の先祖川原寺修行法師位道明、宝亀年中(七七〇年~七八〇年)、その同類を率いて国家の奉為建立するところなり」とみえる。道明の活動時期についても諸説あるが、八世紀初頭から後半頃とされる。「長谷寺縁起文」などによると、道明は沙弥徳道らを率いて、近江国(滋賀県)高嶋郡白蓮華谷にあった霊木を用いて十一面観音像を造立し、長谷寺を創建したと伝える。開眼供養には行基が関与したともいわれているが、疑わしい。創建時期は確定し難いが七二〇年代とされる、とある。

「勠(あはせ)て」勠(音「リク」)は「分散した力を一つに合わせる」(他に「殺戮」と同じく「ばらばらに切り殺す」の意もある)。

「天平五年五月十八日、開眼」七三三年。次の「同十九年」(七四七年)もそうだが、以上で見た辞書類や「長谷寺」公式サイトにも出現しないクレジット(しかも月日までしっかり記してある)で、沾涼が一体、何に拠ったのかもよく判らない、不審なものである。識者の御教授を乞う。

𥡴文會(けいぶんかい)」(生没年未詳:「けいもんえ」とも)は奈良時代の仏師。神亀四(七二七)年に供養が行われた大和長谷寺の十一面観音像をここに出る稽主勲とともにつくったとされる(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

𥡴主勳(けいしゆくん)」(生没年未詳)も奈良時代の仏師。一説に前の文会とは兄弟・父子の関係などとする。長谷寺以外にも法隆寺などの古刹本尊造立の伝承が多い人物で、長く実在が疑われていたが、名前からも唐から招聘された技術者集団と思われ、近年の研究では、その技術が飛騨匠らに継承された可能性が指摘されている。

「開帳は黃金(わうごん)一枚、閉帳、又、黃金一枚也」要は開帳に金一両、閉帳に金一両、結局、本尊を拝むには都合二両掛かるということであろう。或いは、以下に示される特殊な拝礼方法、開帳される期間が始まり(これが「開帳」)、それを拝観しようとする時には、実は簾が半分巻き下ろされて(「閉帳」して)下半身のみを拝むことから、特異な拝礼法にことよせて、暴利(江戸中期の二両は二十万円ぐらいの価値はあった)を貪っていたものかも知れない。]

諸國里人談卷之一 大佛 (その二 方広寺大仏)

 

○京都大佛殿方廣寺は、天正十四年、太閤秀吉公、建立あり。本尊釈迦の大像は、華嚴の説法方廣佛(せつぽうほうこうぶつ)の躰相(ていさう)をうつせりと。故(かるがゆへ[やぶちゃん注:ママ。])に方廣寺と号す。大德寺の古溪和尚をして、これに住せしむ。しかれども、寺、成就せずして遷化す。かるがゆへに、聖護院道澄(しやうごゐんどうりう[やぶちゃん注:ママ。])、別當職となる。慶長元年閏七月、大地震に、佛像、破壞(くゑ)す。秀吉公、いへらく、「佛の知見をもつて何ぞ其身の破壞(くゑ)をしらざるや。信ずるにたらず。」といひて、矢を以〔もつて〕これを射給ふ。然して後、信州善光寺の如來を請じて、此殿の本尊とす。時、方(まさ)に、殘暑酷烈なるに、俄に、飛雪、天に滿(みち)、寒氣、人を侵す。これ、如來の祟(たゝり)なりといふ。秀吉公、八月十八日に薨逝(こうせい)す。その前十七日、佛を善光寺へ還(かへ)さしむ。そのゝち、内大臣秀賴公、銅像を作らしめんとねがふ。慶長七年、鑄造(いぞう)の日、佛の腹の中より、火、出〔いで〕て、堂舎、燒失す。ふたゝび、堂を建(たて)むとおぼす。則(すなはち)、先(まづ)、大像を鑄て、後(のち)に堂を構へしむと云々。【「雍州府志」】

佛軀(ぶつたい)長十丈【但〔ただし〕、座壇とも。】

[やぶちゃん注:以下、底本では上下二段になっているが、ブラウザの不具合を考え、上下から左右の順に一段で示した。]

 面(おもて)長〔ながさ〕 一丈八尺

 眼 橫五尺五寸 竪二尺

 鼻 高〔たかさ〕五尺五寸 橫四尺

 鼻穴(はなのあな) 二尺

 口 橫八尺 堅二尺二寸

 耳 長さ一丈

 掌(たなごころ) 一丈二尺【指ノ端ニ至〔いたる〕。】

 拇(おやゆび) 周〔めぐり〕 六尺五寸

 膝 周 十三丈八尺

 羅※(らほつ) 数三百五十

           大二尺五寸

[やぶちゃん注:「※」=「享」+「力」。①・②・③、総てがこの字体。吉川弘文館随筆大成版では「勃」で翻刻し右にママ注記するが、私は従えない。無論、「螺髮」の誤りではある。]

 白毫(びやくがう) 徑〔わたり〕 二尺

 後光 高 十八間

    橫 九間

 蓮花壇(れんげだん) 各八尺

 堂棟(どうのむね) 高二十五間

 桁行(けたゆき) 四十五間二尺五寸

 梁間(はりま) 二十七間五尺五寸

 柱 九十二本 徑 五尺五寸

            四間隔立

[やぶちゃん注:前条の冒頭に注した通り、標題「大佛」の中の一条。所謂、現存しない「方広寺大仏」である。方広寺は現在の京都府京都市東山区にある天台宗の寺。以下、主にウィキの「京の大仏を元に記すと(下線太字はやぶちゃん)、方広寺が豊臣秀吉によって創建されたのは天正一四(一五八六)年で、前年の天正地震を受けて、奈良の東大寺に倣って、大仏の建立を計画、大仏殿と大仏の造営を始め、九年後の文禄四(一五九五)年、大仏殿がほぼ完成し、高さ約十九メートルの木製金漆塗坐像大仏(原型・初代が安置された。しかし、慶長元年(一五九六)年に発生した慶長伏見地震により、開眼前の大仏は倒壊し、この時、秀吉は大仏に対し激怒して、ここに記された罵倒を浴びせて大仏の眉間に矢を放ったと伝えられている。その僅か二年後の慶長三年に秀吉は死去してしまい、同年中に、大仏のない大仏殿で、ない大仏の開きようのない開眼法要が行われている。大仏殿は、高さ約四十九メートル、南北約八十八メートル、東西約五十四メートル『という壮大なものであり、また境内は、現在の方広寺境内のみならず、豊国神社、京都国立博物館、妙法院、智積院そして三十三間堂をも含む広大なものであった。大仏殿は、現在、豊国神社が建つ位置にあった』。『秀吉の子豊臣秀頼が遺志を継ぎ、片桐且元を中心に』、『今度は銅製で大仏の再建を行ったが』、慶長七(一六〇二)年十一月、鋳造作業中の『鋳物師(いもじ)の過失により』、『仏像が融解して出火』、大仏殿は炎上(第二次・未完してしまった(これには別に放火による慶長九(一六〇四)年の焼失とする異説もあるという)。慶長一三(一六〇八)年十月には、再び、『大仏および大仏殿の再建が企図され』、『大仏殿の創建は』慶長一五(一六一〇)年から開始された。『徳川家康も諸大名に負担その他を命じ、自身も米の供与や大工・中井正清を送っている。また、大仏に貼られる金の板金は江戸で鋳造されている』。同年六月には『地鎮祭が行われ、大仏殿と銅製の大仏は』慶長一七(一六一二)年に完成(第三次・二代目した。慶長一九(一六一四)年には、四月に梵鐘が完成、『南禅寺の禅僧文英清韓に命じて銘文を起草させ』、『落慶法要を行おうとしたところ』、鐘銘の「國家安康 君臣豐樂」の文句を徳川家康が「家」と「康」の字を分断しているのは徳川氏への呪いの文句であり、後者は暗に豊臣家の繁栄を言祝ぐものと曲解、大仏開眼を延期させて豊臣方を憤激させた。秀頼は片桐且元を遣わして誤解を解こうとしたが、最初から意図的な物言いであった家康に容れられず、豊臣方も硬化、且元も大坂を退城して慶長十九年十月の「大坂冬の陣」を引き起す原因となった。所謂、「方広寺鐘銘事件」である。その後、江戸時代に入って、寛文二(一六六二)年の地震によって大仏が『小破し、木造で造り直されることになった。この大仏は「都名所図会」によれば』、『高さは六丈三尺』(約十九メートル)と、「奈良の大仏」(十四メートル)よりも『かなり大きかった。大仏殿は「東西二十七間、南北四十五間」』(四十九×八十一メートル)と、これもまた、奈良東大寺の大仏殿(五十七×五十五メートル)を凌ぐものであったという第四次・三代目。★本書の刊行時(寛保三(一七四三)年)に現存していたのはこれ★)。『東海道中膝栗毛では弥次北が大仏を見物して威容に驚き』、『「手のひらに畳が八枚敷ける」「鼻の穴から、傘をさした人が出入りできる」とその巨大さを描写する。壊れた』二代目の『方の大仏の銅は寛永通宝の鋳造に用いられたといわれる』。しかし、この三代目の木造大仏も寛政一〇(一七九八)年七月に『大仏殿に雷が落ち、本堂・楼門が焼け、木造の大仏も灰燼』『に帰した。「京の
京の 大仏つぁんは 天火で焼けてな 三十三間堂が 焼け残った ありゃドンドンドン こりゃドンドンドン」という京のわらべ歌はこの時の火災のことを歌っている』とある。『その後は同様の規模の大仏および大仏殿が再建されることはなかったが、天保年間』(天保一四(一八四三)年頃か)『に現在の愛知県の有志が、旧大仏を縮小した肩より上のみの木造の大仏像と仮殿を造り、寄進した。しかしそれも』、昭和四八(一九七三)年三月二十八日深夜の火災によって焼失している』(第五次・第四代目。『大仏がかつてそこにあったことの名残として今日、鐘銘事件のもとになった梵鐘が吊られた鐘楼(明治再建)と、諸将の名が刻まれた石塁や石塔を見ることができる。大仏殿の台座があったと考えられる場所は、大仏殿跡緑地として整備されている』とある(私は行ったことがない)。

[やぶちゃん注:「本尊釈迦の大像は、華嚴の説法方廣佛(せつぽうほうこうぶつ)の躰相(ていさう)をうつせり」方広寺大仏は初代から一貫して毘盧遮那仏である。毘盧遮那仏は正しくは釈迦ではなく、宇宙の真理を全ての人に照らして悟りに導く仏(天台宗では「法身仏」、密教では大日如来と見做す)で、確かに「華嚴の説法」=「大方廣佛華嚴經」(略称「華厳経」)に詳しく説かれてはいる。「方廣佛」の「方広」は「方等(ほうどう)」と書き、「方正にして平等」の意の梵語の漢訳語で、通常は大乗の教えを指すが、ここは「大方広仏」=毘盧遮那仏=「時空間を超越した絶対的な存在としての仏」を指している。

「大德寺」現在の京都府京都市北区紫野大徳寺町にある臨済宗龍宝山大徳寺。開基は大燈国師宗峰妙超。正中二(一三二五)年を正式創立とする。

「古溪和尚」蒲庵古渓(ほあんこけい 天文元(一五三二)年~慶長二(一五九七)年)は臨済僧。俗姓は朝倉氏(戦国大名)。越前国出身。大慈応照禅師。古渓宗陳(こけいそうちん)とも呼ぶ。ウィキの「蒲庵古渓」によれば、『出家して下野国足利学校で修学し、その後』、『京都大徳寺の江隠宗顕に師事した。天正元年』(一五七三年)、『笑嶺宗訢(しゅうれいそうきん)の法を継ぐため、堺南宗寺から大徳寺の住持職となった。この際に堺時代に知り合った千利休から祝儀を受けている。同年、利休に「抛筌斎(ほうせんさい)」の号を授けた』。天正一〇(一五八二)年、『織田信長が本能寺の変で横死すると、利休らの依頼を受けて百ヶ日法要を行い、羽柴秀吉が信長の葬儀を行った際にも導師を務めた』。翌天正十一年、『大徳寺に総見院を開創し』、翌十二年に『秀吉が信長の菩提寺として天正寺の建立を企図したとき、建立事業を任された。しかし』天正一六(一五八八)年、『石田三成との衝突がきっかけ』となって『秀吉の勘気に触れ』、『九州博多に配流となった』。『その後、千利休の援助により京へ戻り』、天正一九(一五九一)年には『豊臣秀長の葬儀の導師を務め』ている。しかし、『この年に発生した利休の切腹事件に絡んで、事件の発端となった利休の木像が大徳寺山門にまつられていた事件の責任をとらされた。その際、いたく立腹した秀吉が大徳寺の破却を試みるが、古渓が使者の前に立ちはだかり』、『短刀で命を絶とうとしたため、秀吉は慌てて使者を引き上げさせたと言われている。晩年は洛北の市原にある常楽院に隠遁した』とある。ウィキの「方広寺」によれば、豊臣秀吉は東大寺大仏に代わる大仏の造立場所を、『当初は東山の東福寺南方にある遣迎院付近に造立する予定で、小早川隆景を普請奉行とし、大徳寺の古渓宗陳を開山に招請した』。しかし、『大仏と大仏殿の造立は』、一旦、中止され、』『遣迎院の移転も途中で中止(おかげで遣迎院は南北に分立』してしまう『)された』。後の天正一六(一五八八)年に、『場所を蓮華王院北側にあった浄土真宗佛光寺の敷地に変更して再開(佛光寺は秀吉の別荘「龍臥城」のあった現在地へ移転)した』とある。しかし、古溪和尚の遷化は慶長二(一五九七)年で、これは方広寺の大仏殿がほぼ完成して初代木製金漆塗坐像大仏が安置された文禄四(一五九五)年の二年後のことであり、ここで沾涼が「寺、成就せずして遷化す」というのとは齟齬する。開山は確かに古溪なのであるが、恐らくはこの初期のごたごた(これは禅僧とっては如何にも馬鹿馬鹿しい喧騒そのものでしかないと思う)中に、古溪は常楽院に隠棲してしまったのではなかろうか? そうした錯雑が後代にちゃんと伝えられなかった結果の誤りなのではないろうか? 識者の御教授を乞う。

「聖護院道澄(しやうごゐんどうりう)」「りう(りゅう)」は読みとしておかしい。また、吉川弘文館随筆大成版はこの本文を『道隆』としているのだが、従えない。①・②・③総てが「道澄」で「どうりう」とルビするからであり、これは戦国時代の僧で京都聖護院門跡であった道澄(どうちょう 天文一三(一五四四)年~慶長一三(一六〇八)年)のことしか思われないからである(聖護院道隆という人物はいない)。ウィキの「道澄」によれば、道澄は『関白太政大臣近衛稙家の子』で、『叔父の聖護院門跡道増に付いて得度し、園城寺長吏、熊野三山検校、大僧正、准三后を歴任』した。永禄三(一五六〇)年、『長尾景虎(上杉謙信)との約束に従って越後へ下向、翌年の景虎の関東出兵にも同道している。その後は織田信長、豊臣秀吉と親交を持ち、また和歌や連歌に通じた』。文禄四(一五九五)年、照高院を開基し』、『別當職となる』とある。どうも、ここも沾涼の叙述は微妙に変な感じを受ける。この沾涼の謂いが正しいとすると、この文禄四年に道澄は照高院(この寺は当時は方広寺の東直近にある東山妙法院にあった。後、「方広寺鐘銘事件」に関連して廃されている)を開基して別当職となると同時に、この方広寺の別当にも古溪和尚の後釜として就任したことになる。そういうことがないとは言わないが、大仏殿と大仏の造立を抱え、しかもごく近いとはいえ、別な寺の別当職も兼務するというのはどうか? やはりここも或いは伝聞情報の錯綜があるのかも知れないと思った。

「慶長元年閏七月、大地震」文禄五年閏七月十三日(一五九六年九月五日)慶長伏見地震。子の刻(午前零時頃)に発生し、京では伏見城天守(完成間近であったが、城内だけで六百人が圧死したとされる)・東寺・天龍寺・二尊院・大覚寺等が倒壊し、死者は一千人を超えた。現在の京都・伏見付近の有馬―高槻断層帯、及び六甲・淡路島断層帯を震源断層として発生したマグニチュード七・二五~七・七五程度と推定される内陸地殻内地震(直下型地震)。参照したウィキの「慶長伏見地震」によれば、『被害は京阪神・淡路島の広い地域に及び、大坂・堺・兵庫(現在の神戸)では家々が倒壊した。また、現在の香川県高松市でも強震を伴ったとされている』とある。

「信州善光寺の如來を請じて、此殿の本尊とす。……」ウィキの「方広寺」によれば、震災後、『秀吉は、夢のお告げと称して、倒壊した大仏に代わり、善光寺如来(阿弥陀三尊)(当時は甲斐に在り)を移座して本尊に迎えることを計画。木食応其』(もくじきおうご 天文五(一五三六)年~慶長一三(一六〇八)年:真言僧・出家前は六角氏に仕えた武将で、出家後は外交僧・勧進僧・連歌学者として活動した)『の尽力により』、慶長二年七月十八日(一五九七年八月三十日)に『善光寺如来が京に到着し、大仏殿に遷座された』。『これ以後』、『大仏殿は「善光寺如来堂」と呼ばれることになり』、『如来を一目拝もうとする人々が押し寄せるようになった』一方、『秀吉は翌慶長』三年に『病に臥し、これは善光寺如来の祟りではないかということで、同年』八月十七日、『善光寺如来は信濃の善光寺へ戻されることとなったが、秀吉は』、まさにその翌日に没してしまったのであった。

「時、方(まさ)に、殘暑酷烈なるに、俄に、飛雪、天に滿(みち)、寒氣、人を侵す」上に示した通り、グレゴリオ暦の八月三十日であるから、この異常気象は半端ない

「内大臣秀賴公、銅像を作らしめんとねがふ。慶長七年、鑄造(いぞう)の日、佛の腹の中より、火、出〔いで〕て、堂舎、燒失す」やはりウィキの「方広寺」から引いておく。『豊臣秀頼は』慶長四(一五九九)年、『木食応其に命じて大仏(銅造)の復興を図るが』、慶長七(一六〇二)年、『流し込んだ銅が漏れ出たため』、『火災が起き、造営中の大仏と秀吉が全国六十六州の巨木を集めて建立した大仏殿は烏有に帰した』。

「ふたゝび、堂を建(たて)むとおぼす」慶長一三(一六〇八)年から再建開始。慶長一七(千六百十二)年には大仏に金箔を押すところまで完成し、慶長十九年、梵鐘が完成して家康の承認を得て、開眼供養の日を待つばかりとなるも、かの「鐘銘事件」となるのである。

「雍州府志」江戸時代に刊行された山城国に関する最初の総合的地誌。著者は儒医黒川道祐(どうゆう)。全十巻。自序は天和二(一六八二)年と推定されるが、最終第十巻の板行は貞享三(一六八六)年。「大明一統志」に倣って、京都の所在する山城国を中国の雍州に擬し、まず、山城の地理・風土を概説、次いで神社門・寺院門・土産門・古迹門・陵墓門に分け、各部門ごとに山城八郡を順次、詳説している。特に特産物や商工業を記した土産門は資料として貴重である(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「佛軀(ぶつたい)長十丈【但〔ただし〕、座壇とも。】」これは無論、沾涼が本書を刊行した寛保三(一七四三)年当時に現存していた第四次・三代目の巨大な木造坐像の寸法である。この通りだと、座壇を含めた高さは約三十メートル三十センチとなるが、これは誇張も甚だしい。先に示した通り、この大仏の高さは六丈三尺で約十九メートルである。以下、比較数値資料を提示しようがないので、くれぐれも、眉唾、眉唾で見られたい

「面(おもて)長〔ながさ〕 一丈八尺」三メートル十五センチ。

「眼 橫五尺五寸 竪二尺」眼の横幅が一メートル六十六センチ七ミリほど。縦が(眼瞼間)一メートル二十一センチ。

「鼻 高五尺五寸 橫四尺」高さ(東大寺のケースと同じで突き出た鼻の高さととっておく)一メートル六十六センチ七ミリほどで、鼻の小鼻を含んだ横幅が約一メートル二十一センチ。

「鼻穴(はなのあな) 二尺」鼻の穴の直径が六十一センチ弱。先の引用に出た「東海道中膝栗毛」の弥次北の台詞。「鼻の穴から、傘をさした人が出入りできる」。

「口 橫八尺 堅二尺二寸」唇の幅が約二メートル四十二センチ、口唇の上端から下端までの縦の長さが六十七センチ弱。

「耳 長さ一丈」三・〇三メートル。

「掌(たなごころ) 一丈二尺【指ノ端ニ至〔いたる〕。】」手首から中指の先までであろう。三メートル六十四センチ弱。先の引用に出た「東海道中膝栗毛」の弥次北の台詞「手のひらに畳が八枚敷ける」。

「拇(おやゆび) 周〔めぐり〕 六尺五寸」約二メートル二十七センチ。

「膝 周 十三丈八尺」座位の膝の広さであろう。約四十一メートル六十三センチ。

「羅※(らほつ) 数三百五十」「大サ二尺五寸」(「※」=「享」+「力」

「螺髮」の大きさ(頭皮からの高さ)であろう。約六十センチ七ミリ。

「白毫(びやくがう) 徑 二尺」仏の眉間にある右巻きの白い旋毛で、光を放つとされる。彫刻では主に水晶玉を象嵌して表現する。直径六十センチ六ミリ。

「後光 高 十八間」「橫 九間」舟形後背の高さは約三十二メートル七十二センチ。最大長の横幅が約十六メートル三十六センチ。最初の仏像の体長に合わせるなら、これくらいにしないとおかしいわけだが、ね。

「蓮花壇(れんげだん) 各八尺」約二メートル四十二センチ。

「堂棟(どうのむね) 高二十五間」四十五メートル四十五センチ。

「桁行(けたゆき) 四十五間二尺五寸」八十二メートル五十七センチ。先に示した通り、大仏殿は「東西二十七間、南北四十五間」(四十九×八十一メートル)であったあら、これは、珍しく堂の南北の長さにごく近い。

「梁間(はりま) 二十七間五尺五寸」四十八メートル七十五センチ。同前。

「柱 九十二本 徑 五尺五寸」柱の直径は一メートル六十七センチ弱。

「四間隔立」柱と柱の間が七メートル二十七センチほど隔たっているということ。]

2018/06/02

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十二年 牡丹の前に死なんかな

 

     牡丹の前に死なんかな

 

 居士は和歌において曙覧を論ずるのと殆ど同時に、俳句の方面においては「俳人太祇(たいぎ)」を草して太祇の価値を宣揚した。大祇の句は曙覧の歌ほど世に知られなかったわけではないが、技倆(ぎりょう)に伴うだけの名声は得られなかった。天明に重きを置く居士の書いたものを見ても、これ以前には太祇の名はあまり見当らぬ。居士が太祇の特色の一として趣向の複雑ということを挙げた中に、「中には今日の新派と極めて似て居る者もある。今日新派の人も太祇の句を研究したといふではない、太祇のえらいといふ事を知ったのも去年位の事からであるから、特に大赦を學んだといふ譯は無いが、いはゞ太祇は新派の先鞭を著けて居たのである」ということが見えるから、明治になってからも久しく顧られなかったのである。畢竟その作品を纏めて見る機会が与えられなかったためであろう。

[やぶちゃん注:「俳人太祇」は原文を確認出来ないので、「子規居士」で訂した(後も同じ)。「太祇」は炭太祇(たん たいぎ 宝永六(一七〇九)年~明和八(一七七一)年)。江戸中期の俳人で江戸出身。ウィキの「炭太祇によれば、『江戸においては水国・慶紀逸に江戸座の俳諧を学ぶとともに、劇界や遊里の人々とも交流を持った』。『宝暦年間』(一七五一年~一七六四年)『には奥州・京都・九州などを巡った後、京都島原の遊郭内に不夜庵を営んだ』。『支持者である桔梗屋呑獅のほか、与謝蕪村とも交流があったという。また、太祇は島原の女性たちに俳諧や手習いの教授を行っていた』。『太祇の編んだ歳旦には』、『俳人や遊里の主人連中の他に、女性たちの名前が見える。それらの多くは島原遊里案内記』「一目千軒」『と照合が可能であり、実在の太夫や天神』(てんじん:官許の遊女又は芸妓の内、太夫(たゆう:松の位)に準ずる者への呼称)『たちである。彼女らの句には百人一首のパロディや地歌の曲名を読み込むものなど、趣向が凝らされている』。『また、秋の島原を舞台に灯籠を飾る行事を復活させたとされる』。『太祇は』『没するまで』、『島原に住まうことになるが、宝暦六』(一七五六)年(満四十七歳)『に一度、江戸への帰遊を果たしている。これは上洛していた五雲の帰江に誘われてのものであり、この江戸滞在』も、『五雲の住まいに仮寓した。そこで旧知の俳人たちと再会し』、『交流した太祇は、その秋には島原へ戻っている』。私の好きな俳人である。] 

 「俳人太祇」は太祇の句の特色を、各方面から一々実例について論じたので、居士一流の行届いた文章であるが、特にその見識を見るべきものは、絵括的に蕪村、太祇の比較を試みた一段と、いわゆる天明調の先駆者として移竹(いちく)の名を挙げている点とにある。今日になって見れば、太祇は実力相当の名声を得ているから、格別の事もないようなものの、「蕪村を除けば天下敵なし」の彼が蓼太(りょうた)、暁台(きょうたい)、闌更(らんこう)の下積(したづみ)になり、蒼虬(そうきゅう)、梅室(ばいしつ)よりも世人に知られておらぬ状態を見ては、慨然(がいぜん)[やぶちゃん注:憤り嘆くさま。]たらざるを得なかったであろう。居士が太祇の不遇に同情した最初の一節と、「長く地中に埋れて居た者が忽ち明るみに出た時には、其光が殊にく感ぜらる。吾々が今日太祇に對する感じはその通りであるが、若し世人が此と同じ感を起した時があつたら、其時が則ち太祇が眞成の名譽を得た時である」という結論とは、尋常研究者に求むべからざる熱を有している。居士は単に古人を紹介するの域にとどまらず、古人を活(いか)し得る人であった。

 居士が夜を徹して書いた「俳人太祇」は先ず三月の『ホトトギス』に載せられ、翌年二月『太祇全集』を「俳諧叢書」の一として出版するに当り、これを附録にした。『太祇全集』を読む者に取って、この一篇が何よりの解説になっていることはいうまでもない。

 四月の『ホトトギス』から居士は「随問随答」を連載しはじめた。松山発行時代に試みた「或問(わくもん)」を再興改題し、問の来るに従って明快な啓蒙的解答を与えようとしたのである。

 厄月の五月は今年は無事でなかった。五月頃から発熱が乱調子になり、三日も四日も睡ることが出来ず、腰痛もまた烈しい。一切の食物を廃して、牛乳と菓物(くだもの)だけを摂るという始末になった。九日になって把栗(はりつ)、鼠骨(そこつ)両氏が牡丹の鉢を持って見舞に来たので、この日から「牡丹句録」を草することにしたが、次の一節は十日の日に靑野左衛門氏をして筆記せしめたものである。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。これも原文当たることが出来ないので「子規居士」で訂した。] 

 

あまりの苦しさを思ふに、何んの爲にながらへてあるらん。死なんか死なんか、さらば藥を仰いで死なんと思ふに、今の苦しみにくらぶれば、我が命つゆ惜からず。いで一生の晴れに死別會(しべつゑ)といふを催すも興あらむ。試にいはゞ、日を限りて誰彼に其旨を通じ、參會者には香奠の代りに花又は菓(くだもの)を携へ來ることを命じ、やがて皆集りたる時、各〻死別の句をよみ、我は思ふまゝに菓したゝかに食ひ盡して腸に充つるを期とし、其儘花と菓の山の中に、快く藥を飮んですやすやと永き眠りに就くは、如何に嬉しかるべき。

 

 「林檎食ふて牡丹の前に死なんかな」の句はこの時に成ったので、この句を解するには死別会の事を考慮に入れる必要があろうと思う。

[やぶちゃん注:ある記事によれば、挙げた句の後に、

 牡丹ちる病の床の靜かさよ

 二片散つて牡丹の形變りけり

の二句が続いてあるとする。]

 牡丹は三日目の十一日に散ってしまった。「三日にして牡丹散りたる句錄かな」の一句を以て「牡丹句録」は了ったわけである。発熱の方はまだ続いていたが、二十日過にはなくなって食慾も殆ど平生に復するに至った。三十年の容体に似てはいても、今度はよほど軽くて済んだ。

 「牡丹句録」は六月の『ホトトギス』に掲げられた。この牡丹は別に八首の歌となって、少し後の『日本』に出てもいる。この病により居士は暫く筆硯を廃せざるを得なかったが、虚子氏が病気で入院したため、『ホトトギス』の原稿だけは、病をつとめて口授したりした。「小生病氣したら貴兄一人でやらねばならぬ、貴兄病氣したら小生一人でやらねばならぬ」という居士の懸念が忽ち実際に現れて来たので、両者同時に病むということは居士も予想の外だったかも知れぬ。漱石氏が「小説『エイルヰン』の批評」という長い原稿を熊本から寄せて、『ホトトギス』の巻頭を埋めたのはこの際の事であった。

[やぶちゃん注:「小生病氣したら貴兄一人でやらねばならぬ、貴兄病氣したら小生一人でやらねばならぬ」明治三十一年 『ホトトギス』東遷参照。

「小説『エイルヰン』の批評」明治三二(一八九九)年八月発行の『ほとゝぎす』に掲載。子規から以上のような状況から懇請されて投稿したもの。国立国会図書館デジタルコレクションの大正七(一九一八)年漱石全集刊行会刊「漱石全集」第十巻(初期の文章及詩歌俳句)ので読める。『エイルヰン』はイギリスの詩人・批評家・小説家のウォルター・セオドア・ウォッツ=ダントン(Walter Theodore Watts-Dunton 一八三二年~一九一四年:長年、事務弁護士を務めた後、一八七五年頃から文芸批評家に転じた。ロマ族(Roma:インド・中近東・ヨーロッパ・アメリカ合衆国などに住む少数民族。かつては「ジプシー」(Gypsy・Gipsy)と呼ばれた)の伝承や風習を研究、ロマの娘の登場する詩集「恋の到来」(The Coming of Love:一八九七年)を出した。ロマはこの小説「エイルウィン」(Aylwin:一八九八年)でも重要な役割(漱石は『シンフアイ』と音訳している)を演じていると参考にした「ブリタニカ国際大百科事典」にある。この小書評で興味深いのは漱石が、『「エイルヰンの父に「シユエデンボルグ」宜しくと云ふ神祕學者が居る』と説明しているところで、則ちこれは比喩形容で「この小説の主人公であるエイルウィンの父親として、かのスウェーデンボルグみたような神秘学者が出てくる」の謂いである。このスウェーデン王国出身の十八世紀の科学者にして、霊界透視や遠隔観応能力を持っていたとされる神秘主義思想家のチャンピオン、エマーヌエル・スヴェーデンボーリ(Emanuel Swedenborg 一六八八年~一七七二年)の名を記していることである。これから十五年後の『東京朝日新聞』大正三(一九一四)年七月十三日掲載の夏目漱石作「心」の「先生の遺書」の第八十一回で主人公『私』(=『先生』)とKとの会話の中にKが『シユエデンボルグが何うだとか斯うだとか云つて、無學な私を驚ろかせました』と登場することになることである(リンク先は私の初出復刻版のブログ版。サイト一括版の「心 先生の遺書(五十五)~(百十)」ははこちら(孰れもオリジナル注附き)。実は、それ以前、漱石は「三四郎」(発表は明治四一(一九〇八)年)の構想断片のメモの中に『Swedenborg』の名を記しているそうである(全集を持っているので確認しようと思ったが、面倒なので、二つの識者のネット記載を確認してかく記した。悪しからず)。]

諸國里人談卷之一 大佛 (その一 奈良大仏)

    ○大佛

南都、東大寺は、聖武帝の御願なり。天平(てんぺい)十五年、近江國滋樂(しがらき)におゐて、大佛を造り、同十六年に、佛像、成就す。大寺を建(たて)て、安置す。天平十七年、南都にこれを遷(うつす)。

番匠(ばんじやう)【稻部百世〔いなべのももよ〕・益田繩手〔ますだのなはて〕。】 佛工【國公麿〔くにのきみまろ〕。】 冶工(いものし)【柿本男玉〔かきのもとのおだま〕・高市眞國〔たけちのおほくに〕・高市眞麿〔たけちのままろ〕。】

[やぶちゃん注:「麿」は原典では③も①も「广」の中に「呂」であるが、表記出来ないので「麿」とした。因みに吉川弘文館随筆大成版も『麿』である。]

開元(かいげん)道師 婆羅門僧正 咒願師(じゆぐわんじ) 行基僧正

天平勝宝四年四月九日供養 天子行幸

 道師 婆羅門〔ばらもん〕僧正 咒願師 道璿〔だうせん〕律師

[やぶちゃん注:「璿」は③も①も(つくり)の上部が崩しで判然としないため、漢字を確定出来ない。ここは仕方なく、吉川弘文館随筆大成版の字をそこに当てた。この僧の名前の漢字としてはこれで正しい。しかし、この字に似た字(異体字・別字を含む)はワンサカあり、この字で沾涼が本当に書いているのかどうかは、正直、判らぬと私は思う。]

大佛座像高 五丈三尺五寸

[やぶちゃん注:以下、底本では上下二段になっているが、ブラウザの不具合を考え、上下から左右の順に一段で示した。]

 面長(おもてさげ)一丈六尺【廣〔ひろさ〕九尺五寸】

 眉(まゆ) 五尺四寸五分

 目〔め〕長〔ながさ〕三尺九寸

 口 三尺七寸

 鼻(はな)長三尺【穴徑〔あなのわたり〕一尺】

 頸(うなじ) 二尺六寸五分

 耳(みゝ)長八尺五寸

 螺髮(らほつ) 九百六十六【高〔たかさ〕一尺】

 頤(おとがひ)長一尺六寸

 肩徑(かたのわたり) 二丈八尺七寸

 胸(むね)長二丈九尺

 腹(はら)長 一丈三尺

 肘(ひぢ)ヨリ腕(うで)一丈五尺

 臂(ひぢ) 一丈九尺

 掌長(たなごゝろ) 一丈三尺

 中指(なかゆび) 五尺【周〔めぐ〕り四尺五寸】

 脛(はぎ)長二丈三尺八寸

 膝厚(ひざのあつさ) 七尺

 膝前徑(ひざのまへのわたり)三丈九尺

 足裏(あしのうら)一丈三尺

土蓮花(れんげ)【周〔めぐり〕三十四丈七尺・高八尺】

 蓮花銅座【徑・六丈八尺 高・一丈】

花【二百八十枚・周二十一丈四尺】

 基(もと)周り二十三丈九尺

○治承四年十二月廿八日、平重衡(たひらのしげひら)の兵火(ひようくは[やぶちゃん注:ママ。])によつて灰燼となる。

後白河法皇、源賴朝公幷〔ならびに〕俊乘坊重源(しゆんじやうばうちやうげん)に勅して再興。重源、諸國を勸化(くわんげ)し、大佛殿本尊、悉(ことごとく)成

建久六年三月十二日、供養。

 道師 權僧正覚憲 咒願師 權僧正勝賢(しやうけん)

後鳥羽院、行幸。源賴朝上洛。

 番匠【物部爲里・櫻嶋國宗】 佛師【康慶・運慶・定覚・快慶】

 冶工(いものし)【宋ノ陳和桂・草部是助】

   佛を鑄(いる)金銅(こがねあかゞね)の入用

[やぶちゃん注:以下、底本では上下二段になっているが、ブラウザの不具合を考え、上下から左右の順に一段で示した。]

黃金(わうごん) 一万四百三十六兩

唐銅(からかね) 七十三萬九千五百六十斤

水銀(みづかね) 五万八千六百二十兩

白鑞(はくろう) 一万二千六百二十斤

金箔 十五万枚

炭  一萬六千六百五十六石

○永祿十年、松永彈正兵火によつて回祿して、御頭(みくび)、燒落(やけおち)たり。當國(とうごく)の畫工山田道安といふ者、財宝を抛(なげうち)て、これを補(おぎのう)。延宝の頃、當寺の僧、龍松院殿(りうしやうゐんでん)、造立(ざうりう)の大願をおこして、勅許、命(たいめい)を奉(うけたまは)り、諸國を勸進して堂を立(たつ)

釿始(てをのはじめ)、千僧供羪(くやう)。貞享五年四月二日、棟上(むねあげ)、宝永二年四月十日。堂供羪、宝永六年四月八日。

別號は城大寺(じやうだいじ) 大華嚴寺(だいけごんじ) 恆説華嚴寺(こうせつけごんじ) 國分寺 金光明四天王護國之寺(こんかうめうしてんおうごこく〔の〕てら)【三論華嚴八宗兼學。】

[やぶちゃん注:本「○大佛」の項は以上の奈良の東大寺の大仏の後に、今はない京都の方広寺大仏(本書刊行時の寛保三(一七四三)年には三代目の木造大仏があった)の条が続くしかし、それで終わりで、並んで然るべき鎌倉の大仏(現在の大異山高徳院清浄泉寺(しょうじょうせんじ)の阿弥陀如来坐像)が載っていないのは頗る不審が、ここではそれを分離して示した。なお、東大寺の大仏殿の図と思われる「大仏」の挿絵が、の左上部に載る(リンク先は早稲田大学図書館古典総合データベースの画像)。

「南都、東大寺は、聖武帝の御願なり」「東大寺」公式サイトの「東大寺の歴史」の記載によれば(下線やぶちゃん)、七~八『世紀の東洋の世界は、唐を中心に善隣友好の国際関係が昇華した時代であった。当時の唐朝は道教を信奉したが、同時に仏教も振興し、帰化僧による仏教聖典の漢訳の盛行もそのひとつの現れであり、各地で仏教寺院が建立され、それぞれの国家の安寧と隆昌を祈願させた』。『これらの政策が、わが国で聖武天皇が天平』一三(七四一)年に、『国分・国分尼寺建立の詔を発する範となったことは周知のところである』。『奈良時代は華やかな時代であると同時に、政変・』旱魃『・飢饉・凶作・大地震・天然痘の大流行などが相次ぎ、惨憺たる時代であった。このような混乱の中、神亀元年』(七二四年)『二月、聖武天皇が』二十四『歳で即位し、待ちのぞんでいた皇太子基親王が神亀四年』(七二七年)十月五日に誕生する。しかし、神亀五(七二八)年九月十三日、『基親王は一歳の誕生日を迎えずして夭折』してしまい、『聖武帝は、すぐに親王の菩提を追修するため』、『金鍾山寺を建立(同年』十一『月)し、良弁(のちの東大寺初代別当)を筆頭に智行僧九人を住持させた』。その十三年後の天平一三(七四一)年、『国分寺・国分尼寺(金光明寺・法華寺)建立の詔が発せられたのに伴い、この金鍾山寺が昇格して大和金光明寺となり、これが東大寺の前身寺院とされる』とある。

「天平(てんぺい)十五年、近江國滋樂(しがらき)におゐて、大佛を造り、同十六年に、佛像、成就す。大寺を建(たて)て、安置す。天平十七年、南都にこれを遷(うつす)」まず、同じく「東大寺」公式サイトの「東大寺の歴史」から引く(下線やぶちゃん)。天平一二(七四〇)年二月、『河内国知識寺に詣でた聖武天皇は』、「華厳経」の教えを依り所として『民間のちからで盧舎那仏が造立され』、『信仰されている姿を見て、盧舎那大仏造立を強く願われたという。とは言え、造立する前に『華厳経(大方広仏華厳経)』の教理の研究がまず必要であった』。「華厳経」の『研究(華厳経講説)は、金鍾山寺(羂索堂』(けんさくどう)『)において、大安寺の審祥大徳を講師として、当時の気鋭の学僧らを集め、良弁の主催で』三『カ年を要して』、天平一四(七四二)年に『終了し』、『この講説により、盧舎那仏の意味や『華厳経』の教えが研究され』て、天平一五(七四三)年十月十五日に『発せられた「大仏造顕の詔」に、その教理が示されたのであ』った。『もちろん、教理の研究と平行して』、『巨大な仏像の鋳造方法や相好なども研究された上でのことであったことは言うまでも無い』。天平勝宝四(七五二)年四月に「大仏開眼供養会」が盛大に厳修され、その後も』、『講堂・東西両塔・三面僧房などの諸堂の造営は』、延暦八(七八九)年三月の『造東大寺司の廃止まで続行された』。『盧舎那仏の名は、宇宙の真理を体得された釈迦如来の別名で、世界を照らす仏・ひかり輝く仏の意味。左手で宇宙の智慧を、右手に慈悲をあらわしながら、人々が思いやりの心でつながり、絆を深めることを願っておられる』とある。次に大仏の造立について、ウィキの「東大寺盧舎那仏像」から引く。『東大寺大仏は、聖武天皇により天平』『一五(七四三)年に『造像が発願された』が、『実際の造像は』二年後の天平一七(七四五)年から『準備が開始され、天平勝宝』四(七五二)年に『開眼供養会が実施された』。延べ二百六十万人が『工事に関わったとされ、関西大学の宮本勝浩教授らが平安時代の』「東大寺要録」を元に行った試算によれば、『創建当時の大仏と大仏殿の建造費は現在の価格にすると』、約四千六百五十七億円と『算出され』ている。なお、『大仏は当初、奈良ではなく、紫香楽宮の近くの甲賀寺(今の滋賀県甲賀市)に造られる計画であった。しかし、紫香楽宮の周辺で山火事が相次ぐなど』、『不穏な出来事があったために造立計画は中止され、都が平城京へ戻るとともに、現在、東大寺大仏殿がある位置での造立が開始された。制作に携わった技術者のうち、大仏師として国中連公麻呂(国公麻呂とも)、鋳師として高市大国(たけちのおおくに)、高市真麻呂(たけちのままろ)らの名が伝わっている。天平勝宝』四『年の開眼供養会には、聖武太上天皇(既に譲位していた)、光明皇太后、孝謙天皇を初めとする要人が列席し、参列者は』一『万数千人に及んだという。開眼導師はインド出身の僧・菩提僊那が担当した』とある。以下、同ウィキの年表をもとに抜粋すると、

   *

天平十五年 十月十五日(七四三年十一月五日)

聖武天皇が近江国紫香楽宮にて大仏造立の詔を発する。(「続日本紀」)

天平十六年十一月十三日(七四四年十二月二十一日)

紫香楽宮近くの甲賀寺に大仏の骨柱を立てる。(同前)

天平十七年(七四五)年

都が五年ぶりに平城京に戻り、旧暦八月二十三日(七四五年九月二十三日)、平城東山の山金里(今の東大寺の地)で改めて大仏造立が開始される。(碑文に拠る)

天平十八年十月六日(七四六年十一月二十三日)

聖武天皇は金鐘寺(東大寺の旧称)に行幸し、盧舎那仏の燃灯供養を行う(「続日本紀」)。これは、大仏鋳造のための原型が完成したことを意味すると解されている。

天平十九年九月二十九日(七四七年十一月六日)

大仏の鋳造開始。(碑文)

天平勝宝元年十月二十四日(七四九年十二月八日)

大仏の鋳造終了。(碑文)

天平勝宝四年四月九日(七五二年五月二十六日)

大仏開眼供養会が盛大に開催される。(「続日本紀」)この開眼供養会の時点で大仏本体の鋳造は基本的には完了していたが、細部の仕上げ・鍍金・光背の制作などは未完了であった。

   *

以上から、大仏造立の具体部分での沾凉の記載には重大な齟齬があるものの、流れとしては比較的しっかりと押さえていることが判る。

「番匠(ばんじやう)」大工の古名。元は唐代に中央官庁で使役された工匠のことであったが、本邦では、律令制時代、朝廷に交替(「番」は交代勤務の意)で勤務していた飛騨工 (ひだのたくみ) を「番匠」と称した。「大工(もく)」とも呼称した。鎌倉・室町になると、主に建築職人を指すようになり,「番匠大工」とも呼ばれた。彼らは京都・奈良・鎌倉などの都市に居住し、大きいな寺社に所属して、座を組んでいた者が多かった。江戸以降は一般の大工を指すようになった。

「稻部百世」生没年不詳・多くは猪名部百世(いなべのももよ)とする。講談社「日本人名大辞典」他によれば、造東大寺司(ぞうとうだいじし:太政官直轄の令外(りょうげ)の官名。七四八年頃、東大寺の前身である金光明(こんこうみょう)寺の造営機構が発展して成立。職掌は東大寺・大仏の造営、東大寺領の経営、写経事業、石山寺の造営など。写経所・造仏所ほか多くの所(ところ)で構成されており、職員は最盛期には長官(かみ)・次官(すけ)各一名、判官(じょう)・主典(さかん)各四名等を配し、四等官の位階も八省に匹敵した。七八九年に停廃されて東大寺造寺所となった)で大仏造立から開眼に従事した。木工寮(もくりょう)の長上工(ちょうじょうこう:常勤の技術監督官)となり、天平宝字二年の「大般若経」の写経にも関わった。神護景雲元(七六七)年、称徳天皇の東大寺行幸の時には、功労者として外従五位下(外位は「げい/がいい」と読み、馴染みの律令制の普通に目にする、主に都及び貴族の「位」=「内位」に対する格下の位階。五位から初位までの二十階があり、地方の豪族や俘囚の長など卑姓のものに与えられた。外位を与えられたものが、その後、功績を積んで内位に叙されることもあった。平安中期以降になくなっている)を授けられている。「東大寺要録」には、「大工(だいこう)」「従五(四)位下」で「伊勢守兼東大寺領掌使」とある。伊賀出身。氏は「猪(爲)奈部」とも書く、とある。

「益田繩手」(ますだのなわて 生没年不詳)「朝日日本歴史人物事典」他より引く。東大寺造営の技術者。大工。越前国足羽(あすわ)郡出身。足羽郡大領(郡の長官)の生江東人(いくえのあずまひと)や越前国の史生(ししょう:諸国の主典(さかん)の下に属し、公文書の書写や修理などに従った下級の書記官)、造東大寺司主典の安都雄足(あとのおたり)らの推挙によって、造東大寺司に勤めることになったと推察される。天平勝宝八(七五六)年二月に大仏殿院工事を担当する現場「造大殿所」の統率者である大工として従事し、翌年、正六位上から外従五位下となっている。天平宝字二(七五八)年に銭三百文を納めて、「大般若経」の書写に関わっている。同六年、木工の技術に優れていたため、石山寺(大津市)造営工事について意見を求められてもいる。同八年、従五位下、天平神護元(七六五)年、無姓であったのを連(むらじ)の姓を賜り、奈良西大寺の造営にも関与した。神護景雲三(七六九)年、従五位上に昇った。技術者で内位を授けられた特異な人物である、とある。

「國公麿」国中公麻呂(くになかのきみまろ ?~宝亀五(七七四)年)。ウィキの「国中公麻呂によれば、氏姓は無姓の「国」の後に「国中連(くになかのむらじ)」となった。名は「君麻呂」「公万呂」とも『記される。百済系渡来人である完了(徳率)・国骨富の孫とされる。官位は従四位下・造東大寺次官』。『祖父・国骨富』(くにのこつふ)『は徳率』(第四位の位階)『の位にまで昇った百済の高官であったが、天智天皇』二(六六三)年の白村江(はくすきのえ)の戦い」の後、まもなく、『百済が滅亡したため』、『日本に帰化した』。

天平一七(七四五)年、『正七位下より外従五位下に昇叙され』、翌天平十八年には『造仏長官に任ぜられ、東大寺盧遮那仏の造像と大仏殿建立の指揮を執』った。天平二十年、『従五位下、天平勝宝元年』(七四九年)には、『聖武天皇の大仏殿行幸に際して従五位上に昇叙され』ている。天平宝字二(七五八)年、『東大寺大仏殿竣工。大和国葛下郡国中村に居住していたことにより、国中連姓を賜与され』た。天平宝字五年、『正五位下・造東大寺次官に叙任され』、後、『法華寺浄土院・香山薬師寺・石山寺の造営に参画する。天平神護』三(七六七)年、『東大寺主要伽藍の完成を祝した称徳天皇の東大寺行幸に際して従四位下に叙され』、神護景雲二(七六八)年には『但馬員外介に転任』している。『最終官位は散位従四位下』(「散位」(さんみ/さんい)は、律令制下で、位階を持ちながら、官職に就いていない者の呼称。「散官」とも称する。もとは散位寮、後に式部省所轄とされ、臨時の諸使・諸役のために出勤したりした(但し、三位以上でありながら、摂関・大臣・大納言・中納言・参議の孰れにも就任していない者を指す場合もあるので注意が必要))。『確実な公麻呂作品は存在しないが、東大寺の大仏、戒壇院四天王、法華堂の諸造や、新薬師寺十二神将が公麻呂作品と推定されている』。『聖武天皇が作ろうとした盧舎那仏は高さ』五丈(約十五メートル)『と巨大なものであり、当時の鋳工たちの中で敢えて鋳造に挑む者はいなかったが、公麻呂は非常に優れた技術と思慮により、盧舎那仏の建造を成し遂げたという』とある。

「柿本男玉」個人サイト内の「東大寺と柿本人麻呂の関係?」に「続日本紀」に『正六位上の柿本小玉(男玉)、従六位上の高市連真麻呂にそれぞれ外従五位上を授けた』(天平勝宝元年十二月二十七日条)とあるので、「かきのもとのおだま」と読むか。

「高市眞國」高市大國(たけちのおおくに 生没年不詳)のこと。「朝日日本歴史人物事典」に奈良時代の官人で、東大寺大仏鋳造作業の中心的人物。名は真国とも書く。大和国の人。大仏の鋳造に大鋳師として従事し、その功により、天平二〇(七四八)年には外従五位下に昇り、連姓を賜った。天平感宝元(七四九)年に外従五位上、次いで従五位上を賜り、同二年に正五位下と昇進している。これは大仏鋳造の節目ごとに、その中心として働いたことによって加階されたものと推定されている。「東大寺要録」は、最終的に従四位下まで昇って東大寺の領掌(支配人格)となり、河内守も兼ねたと記している、とある。

「高市眞麿」(たけち(「たかいち」とするものもある)のままろ 生没年未詳)は、個人ブログ「日朝文化交流史」の「奈良大仏造立に貢献した渡来人たち」によれば、先の国中公麻呂の副長官で鋳物師とし、さらに『渡来人の子孫』とする。

「開元(かいげん)道師」開眼(かいげん)導師(法会などの際に衆僧の首座として仏式を執り行なう僧)。

「婆羅門僧正」(ばらもんそうじょう ?~天平宝字四(七六〇)年)は日本に渡来したインドの仏教僧。バラモン階級のバーラドバージャ姓の出身で、名をボーディセーナいい、菩提僊那(ぼだいせんな)などと音写した。唐に滞在していた時、遣唐使の多治比広成(たじひのひろなり)らの要請を受けて、中国僧・ベトナム僧らとともに天平二(七三〇)年に中国を出帆、同八年に太宰府に到着した。行基とも会見し、天平勝宝二(七五〇)年に僧正となった。ここにある通り、東大寺の大仏開眼の法会では導師を務めている。「華厳経」に学殖の深い人であったらしく、また呪術的な面にも秀でていたとされる(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」及び講談社「日本人名大辞典」を参照した)。

「咒願師(じゆぐわんじ)」(「じゅがんし」とも読む)法会の際に呪願文(じゅがんぶん/しゅがんぶん:法会や食事の際に施主の願意を述べて幸福などを祈願した文章)を読む僧。七僧(法会の際に重要な役を勤める七人の僧。講師(こうじ:仏前の高座に上がって経文を講義する僧)・読師(どくし:高座で講師と対座して経題・経文を読み上げる僧)・呪願師・三礼師(さんらいし:読経に当たって三礼(三度の礼拝)の文を唱える僧)・唄師(ばいし:声明(しょうみょう)の一種である唄(ばい:漢語又は梵語で偈頌(げじゅ)を唱えるもの。短い詞章を、一音一音、長く引いて、節を多く付ける。如来唄・云何唄(うんがばい)などの種類がある)を唱える僧)・散花師(さんげし:仏前に紙の蓮片や樒 (しきみ) の葉などを散らして道場を清め、仏を賛美する僧)・堂達(どうだつ:法会の実務総指揮を担当する会行事(えぎょうじ)の下にあって、仏事を主催する導師に願文を、呪願師に呪願文を伝達する僧)の一つ。

「行基僧正」(天智七(六六八)年~天平勝宝元(七四九)年)は広汎な社会事業に尽力して仏教を全国に布教した法相宗の僧。「朝日日本歴史人物事典」から引く(一部の記号を変更した)。彼の『事跡は、「大僧上舎利瓶記」「続日本紀」「日本霊異記」「行基年譜」などから知ることができる。河内国(大阪府)大鳥郡蜂田郷(のち和泉国に属す)の生まれ。父は高志才智』(こしのさいち)、『母は蜂田古爾比売』(はちだのこにひめ)。『ともに中国系帰化人の氏族である』。天武一一(六八二)年十五歳で出家し、『「瑜伽師地論」「成唯識論」などの経典を学』んだが、それらをたちまちのうちに『理解したという』。八『世紀初めごろまでは』、『山林修行に力を注いだ。生馬仙房・隆福院など』、『彼の初期の院は』、『その伝統をひくものである。やがて広く各地を周遊し、布教活動を行って多くの信者を得た。しかし、養老元(七一七)年、『政府から名指しで糺弾された。指に火を灯し、皮膚を剥いで写経するといった活動が』、『異端的呪術とみなされ、また路上での布教活動がとがめられたと考えられる。しかし、このとき』、『還俗とか流刑といった具体的な刑罰は科されなかった。行基はこの弾圧に、呪術を穏当なものに変えるなどによって柔軟に応じ、それまでの路上活動から』、『院を中心とする活動に転換していった。同』七『年、三世一身法(田の開墾を奨励し、開墾者の私財権を一定期間保障した法)が発布されると、これに対応して池造りなど』、『灌漑事業に取り組み、また船息(港)・橋・布施屋(旅人の休息所)を多数』、『造立した。こうした活動は郡司クラスの地方豪族と結びついて広範に展開され、政府も容認し』、『登用するところであった。彼の集団に加わる信徒は』一千『人を数えたという。「日本霊異記」に描かれたような呪術も得意としたらしく、しばしば「霊異神験」を示したといい、行き通う人々は彼を礼拝したという。人々から「菩薩」と仰がれた。天平』三(七三一)『年には従う者のうち老齢者に官度が認められた。同』十五『年には東大寺大仏造立のため』の『勧進活動を行い、同』十七『年には大僧正に任じられ』、四百』人の官度』(官度僧:官庁の許可を得て得度した公的認定が与えられた僧)『が与えられた。没した時には大僧正で薬師寺の僧であった。『その道場は畿内に四十余所、行基四十九院と呼ばれている。畿外の諸道にも建立したらしいが』、『詳細は不明。著作はない。死後、行基信仰が発生した』。

「道璿(だうせん)律師」(どうせん 七〇二年~天平宝字四(七六〇)年)は唐から渡来した律宗僧。俗姓は衛。本邦の法相宗の僧栄叡(えいえい)・普照の要請を受けて、天平八(七三六)年に菩提僊那(ぼだいせんな)・仏哲らとともに来日し、大和の大安寺で律・禅・華厳を教え弘め、天平勝宝三(七五一)年、律師となった。同四年、東大寺大仏開眼供養の呪願師を務めた。

「大佛座像高 五丈三尺五寸」十六メートル二十一センチメートル弱。《十六メートル二十一センチメートル弱で、完全一致》(以下、最初の掲げるのは本文の寸法のメートル法換算値で、後に添えた《 》は東大寺公式サイトに載る現在の公式サイズ或いは私の比較解説である)。なお、サイト「東大寺・御朱印」の『奈良県・東大寺の大仏の大きさ(高さ・重さ)・名前・歴史・特徴」(画像・写真付き)』には、以前の原大仏に近いもの『奈良時代(鎌倉時代)』(このバカ長い併置はなんだか呆れる。一部が鎌倉時代のものということだろうど)の数値が対比して示されてある。但し、出典が全く示されていないので、これ、信用されるかどうかは、自己責任で参考にされたい(これを信ずるなら、座高・掌の長さ・中指の長さが現在より長いのを除くと、旧大仏は全体にややサイズが小さいことになる

「面長(おもてさげ)一丈六尺【廣九尺五寸】」約四メートル八十五センチ。《公式サイトには顔面長はなく、しかも髪の生え際から頤(左右の頬骨を結ん下唇の下端までの長さで顎の先の部分が含まれてない)の数値しか計算出来ず、それは四メートル十三センチメートルである。これから単純計算すると、下唇下端から頤先までが、八十二センチメートルとなる。事実、後の「頤(おとがひ)長一尺六寸」(四十八センチ五ミリ弱)と比べても倍弱となるので、この沾涼の示した数値は明らかにおかしいことになる》。

「眉(まゆ) 五尺四寸五分」約一メートル六十五センチ。《公式サイトには眉の長さは表示されていないが、次の現在の目幅と、眉の場合、測定位置の起点と終点をどこに置くかが難しいと思われるので、この数値もあまり不審ではない》。

「目長三尺九寸」約一メートル十二センチ。《目幅一メートル二センチ。》。

「口 三尺七寸」約一メートル十八センチ。《口幅一メートル三十三センチ。これも左右の端をどこで採るかで異なるので、十五センチの違いの違和感はない。》。

「鼻(はな)長三尺【穴徑一尺】」約九十一センチ弱。「長」は縦の長さであろう。《『鼻の高さ』として五十センチとあるが、この「高さ」は文字通り、顔面からの突き出た高さであるから、この数値とは違って当たり前である。》「穴徑」鼻の穴の直径。約三十センチメートル。《先の『奈良県・東大寺の大仏の「大きさ(高さ・重さ)・名前・歴史・特徴」(画像・写真付き)』のサイト主の感想の中に、大仏の『鼻の穴の大きさが、大仏殿の柱の穴の大きさ』(三十七センチ×三〇センチ)『と同じだと言うのには、少しし驚』くとあるから現在と合致していると言ってよかろう。》。

「頸(うなじ) 二尺六寸五分」約八十センチ。《公式サイトにないが、穏当な数値と思う。》。

「耳(みゝ)長八尺五寸」二メートル五十七センチ五ミリ。《二メートル五十四センチ。》。

「螺髮(らほつ) 九百六十六【高一尺】」「螺髮」は仏の三十二相(仏のみが備えているとされる三十二の優れた身体的特徴)一つで、肉髻(にっけい:頂髻と呼ぶ。頭の頂の部分が広汎に有意に盛り上がって髻(もとどり)のような形を作っていること。智慧の測り知れない深さを表わすとされる)とともに、仏の頭髪の特有な形式。右回りに螺旋状になっているものを指す。「一尺」は三十センチ三ミリ。《公式サイトになし。》。なお、「九百六十六」個あるというのは造立された奈良時代の原型の螺髪数であって、本記載の時制である江戸時代にはすでに違っている東大寺公式サイト内の質問「大仏さまの螺髪(らほつ)の数はいくつありますか?」によれば、京都大学生産技術研究所が行ったレーザ・スキャンによる東大寺大仏の三次元計測のデータにより、螺髪の数は、損壊して外れてしまっている螺髪も含めると、現在の大仏には四百九十二個の螺髪が取り付けられていたと推定されるという結果が得られたとあり、その内訳は現在も頭に付いているものが四百八十三個、落下するなどして外れてしまったと思われるものが九個ある、とある。

「頤(おとがひ)長一尺六寸」四十八センチ五ミリ弱。《数値なし。前の「面長」の私の注を参照。》。

「肩徑(かたのわたり) 二丈八尺七寸」八メートル六十五センチ五ミリ。《公式サイトになし。》。

「胸(むね)長二丈九尺」八メートル七十九センチ弱。《公式サイトになし。》。

「腹(はら)長 一丈三尺」約三メートル九十四センチメートル。《公式サイトになし。》。

「肘(ひぢ)ヨリ腕(うで)一丈五尺」四メートル五十四センチ五ミリ。《公式サイトになし。》。

「臂(ひぢ) 一丈九尺」五メートル七十六センチ弱。《公式サイトになし。》。

「掌長(たなごゝろ) 一丈三尺」約三メートル九十四センチメートル。《二メートル五十四センチ。現行のものは手首位置を大きく減じているのであろうか? にしても、この沾涼の示した数値の違いは誤差範囲内を越えていて、おかしい》。

「中指(なかゆび) 五尺【周〔めぐ〕り四尺五寸】」「五尺」は一メートル五十一センチ五ミリ。「四尺五寸」約一メートル二十七センチ。《中指の長さは一メートル八センチとするが、別に中指の付根から中指の先端(『但し、湾曲しているので、湾曲に沿って計測』と注がある)は約一メートル五十一センチとあるのと合致する。後の、中指の周りの長さは公式サイトにない。》。

「脛(はぎ)長二丈三尺八寸」七メートル二十一センチ。《公式サイトになし。》。

「膝厚(ひざのあつさ) 七尺」約二十一センチ。《二メートル二十三センチ。》。

「膝前徑(ひざのまへのわたり)三丈九尺」十一メートル八十二センチ弱。《両膝の幅十二メートル八センチ。》。

「足裏(あしのうら)一丈三尺」約三メートル九十四センチ。《公式サイトになし。》。

「土蓮花(れんげ)【周〔めぐり〕三十四丈七尺・高八尺】」「土蓮花」とは大仏の坐す蓮華座の下部を巡っている下方に向かって反転するように開いた花弁、「反花(かえりばな)」のことを指しているものと思う(その上に巡っている上を向いて花開いている花弁は「仰蓮(ぎょうれん)」(請花・受花(うけばな)とも称する)と言う。ともに二十八弁(大小各十四弁)の花弁を表わす)因みに、蓮華座に用いられるそれは、仏教で説くところの理想境阿耨達池(あのくだっち)に咲く蓮華の中でも最も高貴な種と名指される「プンダリーカ」で、反花のついたものは満開の花盛りのさまを示すものとされる。なお、ウィキの「東大寺盧舎那仏像」によれば、本大仏の仰蓮には、それぞれに鏨(たがね)で彫った線刻画があり、二度の兵火にも拘わらず、『台座蓮弁の線刻画にはかなり当初の部分が残り、奈良時代の絵画資料として貴重である』。『なお、現在、銅の蓮華座の下に石造の円形の台座があるが、創建当時の大仏の台座は銅の蓮華座の下にさらに石造の蓮華座があった』。「信貴山縁起絵巻」には治承四(一一八〇)年の『兵火で焼ける以前の大仏の姿が描写されているが、そこにも銅と石の二重の蓮華座が描写されている』とある。「周〔めぐり〕三十四丈七尺」は約百三メートル九十三センチ、「高八尺」は二メートル四十二センチ強。蓮華座の上段の外周は六十一メートルで、下段でも六十九メートル六十センチで、明らかにこの沾涼の示した数値は誤差の範囲を越えて誇大である。但し、この誇大表現は恐らくは沾涼に咎があるのではなく、前の齟齬するものも含めて、東大寺の僧が代々受け継いできた本「大仏」の誇張宣伝によるものであると私は考える。》。

「蓮花銅座【徑・六丈八尺 高・一丈】」こちらが仰蓮部であろう。直径が約二十メートル六十センチで、高さが三メートル三センチ。《蓮華座上段直径十八メートル三十センチから十八メートル四十センチメートルであるから、やや誇張表現。》。

「花【二百八十枚・周二十一丈四尺】」枚数は激しい誤り。前に述べた通り、反花と仰蓮それぞれ二十八枚であるから、計五十六枚のはずである。周囲は約六十四メートル五十三センチメートル。《公式サイトになし。》。

「基(もと)周り二十三丈九尺」台座基部の円周は九十六メートル三十九センチ弱。《既出であるが、下段の円周六十九メートル六十センチで、それを指すなら誇大も甚だしいことになるが、これはその下の、広義の台座を指しているのかも知れない。》。

「治承四年十二月廿八日、平重衡(たひらのしげひら)の兵火(ひようくは)によつて灰燼となる」治承四年十二月二十八日(ユリウス暦一一八一年一月十五日)に行われた南都焼討(やきうち)を指す。平清盛の命を受けた平重衡(保元二(一一五七)年~文治元(一一八五)年:清盛五男)ら平氏軍が、東大寺・興福寺など、奈良(南都)の仏教寺院を焼き討ちにした事件。ウィキの「南都焼討」によれば、『平氏政権に反抗的な態度を取り続けるこれらの寺社勢力に属する大衆(だいしゅ)の討伐を目的としており、治承・寿永の乱と呼ばれる一連の戦役の』一つであった。『特に東大寺は金堂(大仏殿)など主要建築物の殆どを失い、中心から離れた法華堂と二月堂・転害門・正倉院以外は全て灰燼に帰するなど』、『大打撃を蒙っ』ている。失火延焼説もあるが、当時の戦術から見ても『計画的放火であった』と考えられる。しかし、『大仏殿や興福寺まで焼き払うような大規模な延焼は、重衡の予想を上回るものであったと考えられ』ている。重衡は翌二十九日に『帰京し、この時』、『持ち帰られた南都大衆の首級四十九余り』は、『ことごとく』、『溝や堀にうち捨てられたという』。因みに、重衡はその後の「一ノ谷の戦い」で源氏の捕虜となり、鎌倉へ護送されたが、頼朝は彼の人物に感服、厚遇した。しかし、平氏滅亡後、南都衆徒の要求によって引き渡さざるを得なくなり、重衡は木津川畔で斬首された。

「俊乘坊重源(しゆんじやうばうちやうげん)」(保安二(一一二一)年~建永元(一二〇六)年)鎌倉初期の浄土僧。「俊乘坊」は字(あざな)。号は南無阿弥陀仏。武士紀季重(きのすえしげ)の子で、俗名は刑部左衛門尉重定。出家し、醍醐寺で密教を学んだが、後、源空 (法然) から浄土宗を学んで、念仏の弘通(ぐつう:仏法を広めること)に畿内を遊行(ゆぎょう)、仁安二(一一六七)年から安元二(一一七六)年の間に実に三回も宋に留学したとされ、入宋中には、浄土教の知識を得たほか、阿育王山の舎利殿を建てた建築法を体得したともされる。但し、近来、重源の入宋を疑う説もある。治承四(一一八〇)年、東大寺が兵火に焼かれると、東大寺再建のため、造東大寺大勧進職となり、諸国を回って勧進に努めた。周防国が東大寺造営料国になると、同国司ともなっている。慈善救済事業も多く行っており、新たな開港や各地での架橋を行っている。ウィキの「重源」他によれば、『平重衡の南都焼討によって伽藍の大部分を焼失。大仏殿は数日にわたって燃え続け、大仏(盧舎那仏像)もほとんどが焼け落ちた。』『重源は被害状況を視察に来た後白河法皇の使者である藤原行隆に東大寺再建を進言し、それに賛意を示した行隆の推挙を受けて東大寺勧進職に就いた。当時、重源は齢』六十一『であった』。『東大寺の再建には財政的・技術的に多大な困難があった。周防国の税収を再建費用に当てることが許されたが、重源自らも勧進聖や勧進僧、土木建築や美術装飾に関わる技術者・職人を集めて組織し、勧進活動によって再興に必要な資金を集め、それを元手に技術者や職人が実際の再建事業に従事した。また、重源自身も京の後白河法皇や九条兼実』、『鎌倉の源頼朝などに浄財寄付を依頼し、それに成功している』。『重源自らも中国で建設技術・建築術を習得したといわれ、中国の技術者・陳和卿の協力を得て職人を指導した。自ら巨木を求めて周防国』『の杣(材木を切り出す山)に入り、佐波川上流の山奥(現在の滑山国有林』『付近)から道を切開き、川に堰を設ける』『などして長さ』十三丈(三十九メートル)・直径五尺三寸(一・六メートル)もの、『巨大な木材を奈良まで運び出したという』。『更に伊賀・紀伊・周防・備中・播磨・摂津に別所』(ある寺院の本拠地から離れた所に営まれた当該寺院の宗教関連施設)『を築き、信仰と造営事業の拠点とした』。『途中、いくつもの課題もあった。大きな問題に大仏殿の次にどの施設を再興するかという点で塔頭を再建したい重源と』、『僧たちの住まいである僧房すら失っていた大衆たちとの間に意見対立があり、重源はその調整に苦慮している。なお、重源は東大寺再建に際し、西行に奥羽への砂金勧進を依頼している。更に東大寺再建のためには』、『時には強引な手法も用い』ている。例えば、建久三(一一九二)年九月、『播磨国大部荘にて荘園経営の拠点となる別所(浄土寺)を造営した時』、『及び』、『周防国阿弥陀寺にて湯施行の施設を整備した時に』は、『関係者より勧進およびその関連事業への協力への誓約を取り付けたが、その際』、『協力の約束を違えれば』、『現世では』「白癩黒癩」(ハンセン病の症状別の旧異名)『の身を受け、来世では「無間地獄」に堕ちて脱出の期はないという恫喝的な文言を示している』。また、文治二(一一八六)年七月から閏七月に『かけての』、『大仏の発光現象など』、『大仏再建前後に発生した霊験譚を』、『重源あるいは』、『その側近たちによる創作・演出とする見方もある』という。『こうした幾多の困難を克服して、重源と彼が組織した人々の働きによって東大寺は再建された。文治元』八月二十八日(一一八五年九月二十三日)『には大仏の開眼供養が行われ』、建久六(一一九五)年には大仏殿を再建して落慶供養が行われた(本文の「建久六年三月十二日、供養」がそれ)。また、建仁三(一二〇三)年には、総供養が行われている。『以上の功績から重源は大和尚の称号を贈られている。また東大寺では毎年春の修二会(お水取り)の際、過去帳読踊において重源は「造東大寺勧進大和尚位南無阿弥陀仏」と文字数も長く読み上げられ、功績が際立って大きかった事が示されている』。『重源の死後は、臨済宗の開祖として知られる栄西が東大寺大勧進職を継いだ』とある。

「勸化(くわんげ)」この場合は、僧が仏寺・仏像を造営するために、信者に寄付を勧めて集めることで、「勧進」に同じい。

「覚憲」(天承元(一一三一)年~建暦二(一二一三)年)は法相宗の僧。父は藤原通憲(信西)。宝積院(ほうしゃくいん)僧正・壺坂僧正とも称される。興福寺に入り、蔵俊に師事して法相・唯識を学び、藤原頼長から将来を嘱望された。「平治の乱」の後、父に連座し、伊豆国(一説に伊予国)に配流となったが、安元元(一一七五)年には奈良大安寺の別当に任じられた。その後、治承四(一一八〇)年に興福寺権別当、文治五(一一八九)年に同寺別当に任ぜられ、南都焼討を受けた興福寺の復興に努めた。建久元(一一九〇)年に権僧正となり、東大寺大仏殿落慶供養の導師を務めている。同年、壺坂寺に隠棲した。唯識論の注釈に大きな功績を残した(辞書類及びウィキの「覚憲」に拠った)。

「勝賢(しやうけん)」(保延四(一一三八)年~建久七(一一九六)年)は真言宗の僧。東大寺八十七世座主で醍醐寺第十八・二十・二十二世座主。父は藤原通憲(信西)で覚憲の弟。初名は勝憲。侍従僧正・覚洞院権僧正とも呼ばれた。寛遍に師事し、保元三(一一五八)年、権律師に任ぜられる。翌保元四年、醍醐寺の実運に灌頂を受け、また、常喜院の心覚からも法を受けている。永暦元(一一六〇)年以降、醍醐寺座主に三度も任ぜられたが、一時期、同門の乗海の反対により、高野山へ逃れた時期もあった。父信西の関係から、後白河法皇との結びつきが強く、木曾義仲の上洛の際には、法皇の安穏と天下泰平を祈禱したり、祈雨の為に孔雀経法を修したりしている。東寺二長者・東大寺別当東大寺東南院院主を歴任、文治元(一一八五)年八月十日には権僧正に任じられた。弟子に仁和寺の守覚法親王がいる(ウィキの「勝賢」に拠った)。

「物部爲里」物部為里(もののべのためさと ?~建保元(一二一三)年頃)は鎌倉初期の番匠大工。東大寺大勧進俊乗坊重源に登用され、東大寺の伽藍再建に活躍した。大仏殿造営の功績により、従五位下・伊勢権守の位官を授けられた。文治二(一一八六)年から建久八(一一九七)年まで現役であったことが確認されている。建仁三(一二〇三)年の東大寺南大門仁王像の造像にも関係しており、晩年には重源への報恩として東大寺大湯屋(沐浴施設。東大寺のものは鉄製の釜ような湯桶で、現在は残っていない、と一部の古い事典にはあったが、ブログ「弥勒の道プロジェクト」の「東大寺大湯屋公開」に復元(重源が鋳造させた巨大な壺状の湯桶や一部の柱は鎌倉時代当時の実物)されたものが写真と図面で載る。それを見るに、この釜状のもので湯を沸かしたのではなく、別に湯を沸かしたものをこの湯桶に移して、それで垢を流したりはするものの、主体はその湯気を充満させた半サウナ的なもののようである。これは鎌倉時代の円覚寺門前に民衆のために置いたサウナ式の湯屋と同じで腑に落ちる)の湯田(この大湯屋の経営にかかる費用(湯料)を捻出するためだけの東大寺領の田)として私領田を寄進している。木工寮などの官工系の工匠であった可能性が高い。後の一二二〇年代から一二三〇年代に、高野山や京都の諸寺の造営・修理に名が見られる伊勢権大夫物部為国は為里の系類に属する番匠と推定されている(「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「櫻嶋國宗」(さくらじまくにむね 生没年未詳)鎌倉初期の番匠大工。東大寺大勧進俊乗坊重源の下で、物部為里とともに東大寺伽藍再建に活躍し、従五位下・駿河権守の位官を授けられた。建久八(一一九七)年には為里とともに戒壇院の造営を行い、その二年後には法華堂(三月堂)礼堂の造営を行っているが、それ以降の消息は明らかでない。後、建暦三(一二一三)年、栄西に従って京都の法勝寺九重塔を造営した大工駿河権守桜島国重は国宗の子であろう。桜島姓の番匠大工は史料上は、この二人だけである(「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「康慶」(生没年不詳)は平安末期から鎌倉初期の仏師で、運慶の父。平重衡の「南都焼討」後の復興造仏の中心人物として活躍し、慶派の基礎を築いたが、詳しい経歴には不明の部分が多い。詳しくは参照したウィキの「康慶」を見られたいが、そこに、この落慶供養の翌建久七(一一九六)年、『東大寺大仏殿の脇侍像・四天王像の造立に参加したのが史料上確認できる最後の事績であ』り、同年作の伎楽面も東大寺にあると書かれてある。

「運慶」(?~貞応二(一二二四)年)は鎌倉時代の造仏界を代表する慶派の名匠で七条仏所の総帥。堪慶の父。復古的傾向の中に写実的で剛健な新しい作風の運慶様式を完成させ、法印の位に昇った。ウィキの「運慶」の「東大寺での仕事」によれば、「南都焼討」の兵火で『主要伽藍を焼失した東大寺復興造仏には、康慶を中心とする奈良仏師が携わっている』。建久五(一一九四)年から『翌年にかけて、東大寺南中門二天像が造立されたが、このうち西方天担当の小仏師として「雲慶」の名が記録にみえる』。建久七(一一九六)年には『康慶の主導で、快慶、定覚らとともに東大寺大仏の両脇侍像(如意輪観音、虚空蔵菩薩)と大仏殿四隅に安置する約』十四『メートルに及ぶ四天王像の造立という大仕事に携わる。運慶は父康慶とともに虚空蔵菩薩像の大仏師を務め、四天王像のうち増長天の大仏師を担当している』。但し、『以上の諸像はその後』、『建物とともに焼失して現存しない(快慶作金剛峯寺像、海住山寺像をはじめ』、『大仏殿像の形式を模したといわれる四天王像が多く造られ、「大仏殿様四天王像」と称される)。現存するこの時期の作品としては』、建仁三(一二〇三)年『造立の東大寺南大門金剛力士(仁王)像がある。造高約』八・五『メートルに及ぶ巨像』二体は、一九八八年から一九九三年に『かけて解体修理が実施された』が、『その結果、阿形像の持物の金剛杵内面の墨書や吽形像の像内納入経巻の奥書から、運慶、快慶、定覚、湛慶(運慶の子)の』四『名が大仏師となり、小仏師多数を率いてわずか』二『か月で造立したものであることがあらためて裏付けられた』。四『人の大仏師の役割分担については諸説あるが、運慶が両像の制作の総指揮にあたったものと考えられている』。『この功績により、建仁』三(一二〇三)年『の東大寺総供養の際、運慶は僧綱の極位である法印に任ぜられた。これは奈良仏師系統の仏師として初めてのことであった』。承元二(一二〇八)年から建暦二(一二一二)年に『かけては、一門の仏師を率いて、興福寺北円堂の本尊弥勒仏以下の諸像を造っている』。『これらのうち』、『弥勒仏像、無著菩薩・世親菩薩像が北円堂に現存し、運慶晩年の完成様式を伝える。殊に無著・世親像は肖像彫刻として日本彫刻史上屈指の名作に数えられている』。『最晩年の運慶の仕事は、源実朝・北条政子・北条義時など、鎌倉幕府要人の関係に限られている。その中で』、建保四(一二一六)年には、『実朝の養育係であった大弐局が発願した、神奈川・称名寺光明院に現存する大威徳明王像を造った。更に、源実朝の持仏堂、北条義時の大倉薬師堂、北条政子の勝長寿院五大尊像などの諸像を手がけている』とある。

「定覚」(じょうかく 生没年未詳)は慶派の仏師。康慶の次男ともされ、これが正しいとするならば、運慶の弟に当たる。息子(又は弟子とも)に覚円がいる。建久五(一一九四)年、快慶とともに東大寺中門の二天像(持国天・多聞天:永禄一〇(一五六七)年、焼失)を造立している(定覚は西方の持国天像を担当した(「東大寺続要録」に拠る))。建久六(一一九五)年、東大寺大仏殿供養に際し、上記の功績により、法橋の位階を受ける。なお、この時、運慶は、康慶の譲りによって法橋より一つ上の法眼を受けた(この時、快慶も法橋を受けたが、彼はそれを運慶の嫡子湛慶に譲っている(「東大寺縁起絵詞」に拠る))。建久七(一一九六)年、康慶・運慶・快慶と共に東大寺大仏脇侍(如意輪観音像・虚空蔵菩薩像)と四天王像を造立した(定覚は如意輪観音像(快慶との共作)と、四天王の内の多聞天像を担当している(「東大寺続要録」に拠る)。建仁三(一二〇三)年、康慶・運慶・快慶とともに東大寺南大門金剛力士像を造立、後に吽形像の像内納入品の経巻奥書から、同像には湛慶と定覚が大仏師として造像に携わったことが判った。同年十一月の東大寺総供養の際には、褒美を覚円に譲り、彼を法橋にさせている。なお、建久七(一一九六)年の東大寺大仏殿四天王像は、像容・身色等を忠実に模した「大仏殿様四天王像」と称されるものが金剛峯寺・海住山寺などに現存する(ウィキの「定覚」に拠る)。

「快慶」(生没年不詳)は運慶とともに鎌倉時代を代表する仏師の一人。ウィキの「快慶」によれば、彼は『安阿弥陀仏とも称し、その理知的、絵画的で繊細な作風は「安阿弥様」(あんなみよう)と呼ばれる。三尺前後の阿弥陀如来像の作例が多く、在銘の現存作も多い』。『快慶は運慶とともに』「南都焼討」『で壊滅的な被害を受けた東大寺、興福寺など南都の大寺院の復興造仏事業にたずさわった』。建久五(一一九四)年には『東大寺中門の二天像のうち多聞天像を担当したが、これは現存しない』。建仁三(一二〇三)年には東大寺南大門の金剛力士(仁王)像の造営に運慶らとともに参加している。東大寺での修二会(お水取り)の際、過去帳において快慶は「大仏脇士観音並広目天大仏師快慶法眼」と文字数も長く読み上げられ、功績が際立って大きかった事が示されている』。『快慶は東大寺大仏再興の大勧進(総責任者)であった重源と関係が深く、東大寺の僧形八幡神坐像、同寺俊乗堂阿弥陀如来立像など、重源関係の造像が多い。三重・新大仏寺の如来像(もと阿弥陀三尊像だが、江戸時代の土砂崩れで脇侍が失われ、本尊も体部が大破したため、頭部をもとに盧舎那仏坐像に改造)、兵庫・浄土寺の阿弥陀三尊像なども、重源が設置した東大寺別所の造像である』。

「陳和桂」鎌倉時代の日本で活動した南宋出身の渡来工人で、実朝の大陸渡航騒動に関わった妖しい人物でもある陳和(ちんわけい/ちんなけい 生没年未詳)の誤りウィキの「陳和卿」によれば、平安時代末期(十二世紀末)に来日し、治承四(一一八〇)年の『東大寺焼失後、勧進上人の重源に従い、焼損した大仏の鋳造と大仏殿の再建に尽力』し、弟陳仏寿ら七名、及び、河内国の鋳師草部是助ら十四名と共同して作業を行って完成させた。建久六(一一九五)年三月一三日(東大寺の再建供養開始の翌日)、『源頼朝から面会を申し入れられたが、陳は「頼朝は平家と戦った時に多くの人の命を奪っており、罪業の深い人間であるので面会したくない」と回答して面会を辞退した。頼朝はその言葉に感涙を抑え、奥州合戦の際に使用した甲冑・鞍、馬』三『頭、金銀を陳に贈った。しかし陳は、甲冑は造営の釘にし、鞍は寺に寄進するために受け取ったが、それ以外の物は』、『全て』、『頼朝に返した』(ここは私の「北條九代記 南都大佛殿供養 付 賴朝卿上洛」を読まれたい)。『東大寺再建の功績によって、陳元卿は播磨国大部荘など』五『ヶ所の荘園を賜ったが、それらを重源の大勧進職に寄進して』、『彼はその経営に関与していた。ところが、東大寺の僧侶たちから』、『彼が材木を船を造るために流用して再建を妨害し、重源を裏切って』、『先に寄進した荘園を押領して』、『再び』、『自分のものにしようとしていると告発され』、元久三(一二〇六)年四月十五日には、『後鳥羽上皇より「宋人陳和卿濫妨停止下文」が出されて、当該荘園及び東大寺の再建事業から追放され』ている(「山城随心院文書」「鎌倉遺文」に拠る)。但し、『この告発は事実ではなく、外部の人間である重源や陳和卿によって』、『寺の再建の主導権を握られた東大寺の僧侶の反感によるものであったと』もされる。その十年後、彼の姿は突然、鎌倉に現われる。建保四(一二一六)年六月八日、彼は幕府の御所を訪れ、『「当将軍は権化の再誕であり、恩顔を拝みたい」と源実朝への拝謁を希望した。そして』六月十五日に『実朝に拝謁した際、実朝を三度拝み、泣き出した。実朝はその行動に辟易したが、陳は「貴方は昔宋朝医王山の長老であった。その時、我はその門弟に列していた」と述べた。それは実朝がこの』五年も前に『見た夢に出てきた高僧の言葉と同じであり、その夢のことを実朝は誰にも話していなかったため、実朝の信任を得た』。同年十一月二十四日、『渡宋を思い立った実朝に命じられて大船を建造し始める。翌年』四月十七日に『完成し、由比ヶ浜で曳航させたものの、船は海に浮かばず、砂浜で朽ち損じてしまった』(このブットビの一件は私のライフ・ワークの一つで、私の「北條九代記 宋人陳和卿實朝卿に謁す 付 相模守諌言 竝 唐船を造る」を読まれたいし、これは別に「★特別限定やぶちゃん現代語訳 北條九代記 宋人陳和卿實朝卿に謁す 付 相模守諫言 竝 唐船を造る」でオリジナル現代語訳もしているし、また、『やぶちゃんのトンデモ仮説「陳和卿唐船事件」の真相』も書いている。因みに、私の若書き(二十一歳)の駄小説「雪炎」にも登場させてある)。『その後は消息不明。経歴には不明な点が多い』。東大寺南大門の狛犬か彼の作である。

「草部是助」河内国の鋳物師で寿永二(一一八三)年から大仏鋳造に関わった。関わるや、まず、重源の命により、先に注で出した東大寺大湯屋の鉄製湯槽を鋳造、後に彼は東大寺大仏の頭部の鋳造を手掛けた。これは「京都市考古資料館文化財講座」二百六十回「シリーズ ―世界遺産を掘る――」第二回の京都市考古館館長梶川敏夫氏の「醍醐寺と重源」PDF)に拠った。

「一万四百三十六兩」三百九十一・三五キログラム。

「唐銅(からかね)」銅を主体とした錫・鉛の合金。

「七十三萬九千五百六十斤」四百四十三・七三六トン。

「水銀(みづかね)」水銀。現在の大仏は銅の錆である緑青色を呈しているが、創建・再建当時は全身が黄金に輝いていた。この金色仏は、金を大量の水銀に溶かしてアマルガムとし、それを塗布した後、火で炙ることによって水銀を蒸発させて金鍍金(きんメッキ)を施して作ったものであった

「五万八千六百二十兩」三十五・一七二トン。

「白鑞(はくろう)」「しろめ」とも読み、「白目」とも書く。錫と鉛とをほぼ四対一で配合した合金。錫細工の接着や銅合金などに使う。

「一万二千六百二十斤」七・五七二トン。

「一萬六千六百五十六石」二百リットルのドラム缶約一万五千二十本分。

「永祿十年、松永彈正兵火によつて回祿して、御頭(みくび)、燒落(やけおち)たり」戦国時代の永禄一〇(一五六七)年四月十八日から十月十一日の凡そ半年間にも亙って、松永弾正久秀・三好義継と、三好三人衆(三好長逸(ながやす)・三好宗渭(そうい)・岩成友通(ともみち)。敵対する義継とは近親)・筒井順慶・池田勝正らが大和東大寺周辺で繰り広げた市街戦「東大寺大仏殿の戦い」の中の一戦闘による損壊。ウィキの「東大寺大仏殿の戦い」によれば、永禄十年十月十日に松永・三好連合軍が三人衆軍の本陣があった東大寺を奇襲したが、この時の状況は「多聞院日記」(奈良興福寺の塔頭多聞院で文明一〇(一四七八)年から元和四(一六一八)年にかけて百四十年もの間僧の英俊を始めとして三代の筆者によって書き継がれた日記)に、『今夜子之初点より、大仏の陣へ多聞城から討ち入って、数度におよぶ合戦をまじえた。穀屋の兵火が法花堂へ飛火し、それから大仏殿回廊へ延焼して、丑刻には大仏殿が焼失した。猛火天にみち、さながら落雷があったようで、ほとんど一瞬になくなった。釈迦像も焼けた。言語道断』『と記している。午後』十一『時に戦闘が開始され、戦闘中に穀屋から失火』、『法花堂』から『大仏殿回廊、そして日をまたいだ翌』十月十一日午前二時には、『大仏殿が焼失したようである』。また、『四ツ時分から、大仏中門堂へ松永軍が夜討、三人衆側も死力を尽くして戦ったが対抗できず、遂には中門堂と西の回廊に火を放たれて焼失した。この戦いで多くの者が討ち死にした』とも記しており、「東大寺雑集録」でも午後十時と『記載されているので、戦闘はこの時間帯から開始されたと思われている。十分な戦闘準備が整っていない三人衆軍の不意打ち狙いであり、東大寺は防備を目的とした砦でもなく、そのような中で懸命に防ごうとしたが』、『支えきれず、浮き足だって崩れ去っていったのではないかと思われる。この戦いで三人衆軍は討ち死にしたり、焼け死んだりした者が』三百『名を数えた』。なお、ルイス・フロイスの「日本史」では『違う内容で記載して』おり、『多聞山城を包囲した軍勢の大部分は、その大仏の寺院の内部と』、『この僧院のあらゆる場所に宿営した。その中には我らの同僚によく知られていた一人の勇敢な兵士もいたのであるが、我らは世界万物の創造者に対してのみ』、『ふさわしい礼拝と崇敬のことに熱心な、誰かある人にたきつけられたからというのではなく、夜分、自分が警護していた間に、ひそかにそれに火を放った。そこで同所にあったすべてのものは、はるか遠くはなれた第一の場所にあった一つの門、および既述の鐘以外は何も残らず』、『全焼してしまった』と記してある。『この文中にある「我ら」というのはイエズス会のことであり、三人衆軍の兵士でイエズス会に入信している誰かが放火したとして』いるのであり、「多聞院日記」や「東大寺雑集録」とは異なった『記載になっている。切羽詰った久秀が三人衆軍を大仏殿ごと焼き殺そうとした兵火説や、不意打ち狙いの夜襲のため』、『やむ得ず失火してしまった説、三人衆軍の一部の兵による放火説など、現在でも議論になっている』。『奈良の大仏を「戦国時代に仏頭は松永久秀の兵火によって焼き落とされ」と紹介されたり、織田信長が徳川家康に松永久秀を紹介する時に、三悪事の』一『つとして東大寺大仏を焼討したと紹介したので、久秀が焼討したと現在でも語られている。しかし、「大和軍記」には『「(三好軍の)思いがけず鉄砲の火薬に火が移り、」と記載されていたり』、「足利李世紀」には『「三好軍の小屋は大仏殿の周囲に薦(こも)を張って建っていた。誤って火が燃えつき、」と記載されている事から』、『最近の研究によると「戦の最中の不慮の失火説」が有力である』とある。『この時』、『焼失したのは、大仏の仏頭、伽監、念仏堂、大菩提院、唐弾院、四聖坊、安楽坊などであった。鐘楼堂も火がついたが』、『こちらは僧侶達の消火活動によって類焼を避けることができた。いずれにしてもこの火災で三人衆軍、池田軍は総崩れになり、摂津、山城に退いていった。また、滝山城の戦いで活躍した別所軍もいたようで』、五月十七日に『岩成友通隊が布陣していた氷室山法雲院にいたが、大仏殿が焼けるとみるや』、『自陣を焼いて播磨へ帰国した。一方の筒井軍は後方の大乗院山に布陣していたためか、大きな被害はでず筒井城に引き上げていったと思われている。また別の説では松永軍が次々と寺を焼き払うのを見かね、東大寺を主戦場とする三人衆と意見の相違があり、残留部隊のみを残し』、『早々に筒井城に引き上げていたという見解もある。しかし』、『この時の順慶の詳細な行動については記録がなく、詳しいことは解っていない』とある。

「山田道安」(?~天正元(一五七三)年)戦国から織豊時代の武将で画家。筒井氏の一族で、大和岩掛城主。名は順貞(としさだ)。通称は民部。豪放な水墨画で知られ、彫刻にも優れた。松永久秀の焼討によって損壊した東大寺大仏の修復に努めたことで著名(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

「延宝」一六七三年~一六八一年。徳川家綱・徳川綱吉の治世。

「當寺の僧、龍松院殿(りうしやうゐんでん)、造立(ざうりう)の大願をおこして」ここはやや表現がおかしいように思われる。「當寺の僧、龍松院殿(りうしやうゐんどの)、造立(ざうりう)の大願をおこして」か、或いは「當寺の龍松院殿(りうしやうゐんでん)の僧、造立(ざうりう)の大願をおこして」でなくては意味が通じない。まず、「龍松院」というのは東大寺の子院の一つの名である。実は、東大寺の大仏殿は三好・松永の「東大寺大仏殿の戦い」で焼けて以来、ずっと再建されず、鎌倉の大仏のように百三十年もの間、露座であった。そんな中、延宝年間に、この龍松院の住職であった公慶(慶安元(一六四八)年~宝永二(一七〇五)年:江戸前期の三論宗の僧。丹後国宮津(現在の京都府北部の宮津市)の生まれ)が徳川幕府に働きかけ、また、大勧進職として諸国を勧進して廻り、諸大名にも協力を仰いで、東大寺の再建造営に取り掛かったのであった。ウィキの「公慶によれば、貞享元(一六八四)年に『江戸幕府の許可を得て、「一紙半銭」を標語に全国に勧進を進め』、七年後には一万一千両に『まで達した。これは現在の貨幣価値に換算すると』、『およそ』十『億円にも及ぶ。徳川綱吉の援助もあり、元禄』五(一六九二)年に『大仏の修理が完成して開眼法要を行った。この功を認められて翌』元禄六年『には、護持院隆光の仲立ちにより』、第五『代将軍・徳川綱吉に拝謁している。その後も西国に勧進を継続したが』、公慶自身は『大仏殿の落慶を見ることはなく』、数え五十八で『江戸で客死した』。『遺骸は奈良へ運ばれ、東大寺の北にあり、東大寺復興の先人重源が建てた五劫院に埋葬された』。『大仏殿の落慶が成ったのは』それから四年後の宝永六(一七〇九)年であった。『現在の東大寺に見られる大仏殿と、中門・廻廊・東西楽門は』、『このときに再建されたもので』、『公慶の死の翌年、慶派仏師性慶と公慶の弟子即念によって製作された』「公慶上人像」『は、充血した左目やこけた顔、数多く刻まれた皺など写実性に富み、生涯を捧げ復興に東奔西走した公慶の辛苦を今に伝える。本像は勧進所内に建てられた御影堂にあり、志半ばで倒れた公慶が完成した大仏殿を常に見上げられるよう、東を向いて安置されている』とある。

「勅許」当時(延宝年間)は霊元天皇。

「台命(たいめい)」将軍又は三公・皇族などの命令。転じて貴人の命令を指すが、ここは前の「勅許」との並列なので、将軍徳川綱吉のそれ。

「釿始(てをのはじめ)」これで「てうなはじめ(ちょうなはじめ)」とも読み「木造始(こづくりはじめ)」とも称する。「釿」は「手斧」とも書き、読みも「ておの」の音変化したもの。大工道具の一つで、直角に曲がった大きな平鑿(ひらのみ)に木製の柄が付いた鍬(くわ)形をした斧のこと。木材を荒削りした後、平らにするのに用いる。「釿始」めは、建築儀礼の一つで、現在も建築物の起工式で行われる儀式。建築工事の初めに安全を祈願して行われるもので、一本の大きな材木を昔ながらの道具と手業と順序を以って截り、測り、削り、仕上げる一連の所作を行う。

「千僧供羪(くやう)」「供羪」の「羪」は「養」の異体字。

「貞享五年」一六八八年。

「宝永二年」一七〇五年。

「宝永六年」一七〇九年。

「三論華嚴八宗兼學」宗派八宗と区別するために、「三論華嚴」を頭に附したのであろう。教学八宗は既注であるが、再掲すると、三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・華厳宗・律宗(以上、南都六宗)・天台宗・真言宗を指す。]

2018/06/01

諸國里人談卷之一 ㊁釋教部 佛舎利

 

  ㊁釋教部(しやくけうのぶ)

   ○佛舎利

大和國平群郡(へぐりごうり)、法隆寺の佛舎利は、十五日まで、一つ宛(づゝ)、(ぶん)じ、また十六日より、一つ宛、減ず。每日、午時(ごじ)に七鐘にて、扉、ひらかれける。紫式部、此舎利をよめる、

 南無仏の舎利をいだせる七つかねむかしもさぞな今も双調(さうてう)

天竺(てんぢく)には米粒(べいりう)を舍利とす。佛舍利、又、米粒に似たり。故に舎利と云。

○慈恩上生經疏云、「舎利者稻穀也。駄都者體也。

 佛躰大小如稻穀。故以爲ㇾ名矣。」。

聖德太子御父用明帝、祈禱(いのり)のため、自(みづから)、藥師の像を彫(ほり)、寺を造り給ふ。然(しかれ)ども病(やまひ)、不癒(いへず)。崩御し給ふ。しかれども、止(やむ)事を得ず。推古天皇十五年に、寺院、悉(ことごとく)成就す。

當寺別號は 七德寺 聖國寺(しやうこくじ) 寶龍寺(ほうりうじ) 來立(らいりう)寺 徃生寺〔わうじやうじ〕 鳥路(てうろ)寺 法隆學問寺 等なり。【法相宗。八宗兼學。】

[やぶちゃん注:「舎」の字は③も①も総てこの字体である。この法隆寺の舎利は法隆寺の公式記載によれば、聖徳太子が二歳の春の二月十五日(釈迦涅槃の日。私の誕生日)、東に向かって「南無仏」と唱えた際、太子の掌に現れたという舎利一粒が東院舎利殿に伝えられており、この舎利を「南無仏の舎利」と呼ぶとあって、現在もこの舎利を奉出する際には現在も東院の梵鐘を七つ鳴らす仕来たりは守られているようである。なお、私が実際に間近に見た幾つかの仏舎利は悉く水晶や石英であった。しかし、考えて見たものである。過去の仏僧の中には釈迦の骨を食うことによって釈迦と一体と成れるというカニバリズム的認識がなかったと断定出来ようか? いや、寧ろ、そうした突き抜けた究極の信仰形態(古代の信仰形態にはそうしたカニバリズムはあったと私は考えており、それを異常で猟奇的な行為だとは私は必ずしも思わない人種である)はあっておかしくないと私は思う。されば、それこそ、それ、仏舎利がもし、ここに一説として語られるように、本物の米粒であったとしたなら、それは容易に食われ、容易に補給出来るものである。まさに以下に見るような増殖も容易である(その場合は無論、人為的にである)。少なくとも、得体の知れない獣の骨や古代生物の石灰化化石や翡翠や水晶や石英を無理して欠いて飲み下すよりは、罪悪感も減衰され、消化器にも優しかろう。仏の骨のカニバリズム――これは何と、不思議な幻想であろうか――

(ぶん)じ」生まれ。生じ。増殖するのである!

「每日、午時(ごじ)に七鐘にて、扉、ひらかれける」仏舎利塔は、毎日、正午に七つの鐘を以って、その扉が開かれる、の謂いであろう。

「南無仏の舎利をいだせる七つかねむかしもさぞな今も双調(さうてう)」これは和泉式部作ともされる、則ち、「紫式部集」にも「和泉式部集」にも載らない怪しげな歌である。双調は「さうでう(そうぢょう)」と濁るのが正しい。邦楽音階の十二律の一つで、基音である「壱越(いちこつ)」の音(洋楽の「d」・「ニ音」)から六律目の音で、洋楽の「g」・「ト音」とほぼ同じ高さの音。雅楽でこの音を主音とする調子も「双調」と称し、六調子の一つで呂(りょ)に属するとされる。

『慈恩上生經疏云、「舎利者稻穀也。駄都者體也。佛躰大小如稻穀故以爲ㇾ名矣。」。』ここの字配は原典の通りにしてある。先ず、訓読しておく。

 慈恩の「上生經疏(じやうしやうきやうそ)」に云はく、「舎利は稻穀(たうこく)なり。駄都(だと)は體(てい)なり。佛躰(ぶつたい)の大小、稻穀の量のごとくし。故(かれ)、以つて名と爲(な)す。」と。

「慈恩」は、唐代の僧で法相宗を起した基(き 六三二年~六八二年)長安出身。十七歳で出家し、かの玄奘三蔵に師事した。大慈恩寺に住したことから「慈恩大師」と尊称される。「上生經疏」とは弥勒菩薩について説いた「觀彌勒菩薩上生兜率天經(かんみろくぼさつじょうしょうとそつてんきょう)」の通称。「駄都(だと)は體(てい)なり」「駄都」は仏舎利を供養する際の密教の修法(ここの「體」はその具体的作法の謂いであろう)を指し、「光明の生活 真言宗 大覚寺派 光福寺 ―関東別院― オフィシャルブログ」のこちらの記事によれば、本邦の密教では現在でも『最極甚深の秘法として、「どんな願いも叶い、物質的な願いも精神的な悟りも達成される」「すべての成就は舎利供養によって達成される」と讃えられ』る『秘法として相伝されてきた』ものとある。

「聖德太子御父用明帝、祈禱(いのり)のため、自(みづから)、藥師の像を彫(ほり)、寺を造り給ふ。然(しかれ)ども病(やまひ)、不癒(いへず)。崩御し給ふ。しかれども、止(やむ)事を得ず」ウィキの「法隆寺」によれば、現在の『法隆寺のある斑鳩の地は、生駒山地の南端近くに位置し』、古代より『大和川を通じて』、『大和と河内とを結ぶ交通の要衝であった。付近には藤ノ木古墳を始めとする多くの古墳や古墳時代の遺跡が存在し、この地が古くから一つの文化圏を形成していたこと』が窺われる。『「日本書紀」によれば、聖徳太子こと厩戸皇子』(うまやどのみこ 敏達天皇三(五七四)年~推古天皇三〇(六二二)年))が推古九年(六〇一年)、『飛鳥から』、『この地に移ることを決意し、宮室(斑鳩宮)の建造に着手』し、四年後の推古十三年に『斑鳩宮に移り住んだという。法隆寺の東院の所在地が斑鳩宮の故地である。この斑鳩宮に接して建立されたのが斑鳩寺、すなわち法隆寺であった』とあり、現在の法隆寺『金堂の「東の間」に安置される銅造薬師如来坐像(国宝)の光背銘には「用明天皇』(聖徳太子=厩戸皇子の父用明天皇(?~用明天皇二(五八七)年))『が自らの病気平癒のため』、『伽藍建立を発願したが、用明天皇がほどなく亡くなったため、遺志を継いだ推古天皇と聖徳太子があらためて推古天皇』一五(六〇七)年、『像と寺を完成した」という趣旨の記述がある。しかし、正史である』「日本書紀」には、後の六七〇年の火災の記事は載るものの、『法隆寺の創建については何も書かれて』おらず、こ『の金堂薬師如来像については』、昭和八(一九三三)年、寺社建築に関する研究の第一人者である福山敏男氏によって、『像自体の様式や鋳造技法の面から、実際の製作は』七『世紀後半に下るとみられる』こと、六〇七年『当時、日本における薬師如来信仰の存在が疑問視される』こと、『銘文中の用語に疑問がもたれる』『という疑問が提出された。この説はおおむね』、『支持を得ており、薬師像は文字通り』、六〇七年まで『遡る製作とは見なされていない。また、金堂の中央に安置される本尊は』「六二三年に『聖徳太子の冥福のため止利が造った」という内容の光背銘をもつ釈迦三尊像であ』るが『、これより古い薬師如来像が「東の間」に安置されて』、『脇仏のような扱いをされている点も不審である』とある。

「推古天皇十五年に、寺院、悉(ことごとく)成就す」(推古天皇十五年は六〇七年に比定)前注も参照されたいが、同じくウィキの「法隆寺」によれば、以上の考証の他にも発掘調査等によって、『現存の法隆寺西院伽藍は聖徳太子在世時の建築ではなく、一度』、『焼亡した後に再建されたものであることが決定的となり、再建・非再建論争には終止符が打たれた。現存の西院伽藍については』、「法隆寺資財帳」の記載で、持統七(六九三)年に『法隆寺で仁王会が行われている』『ことから、少なくとも伽藍の中心である金堂は』、『この頃までに完成していたとみられ』、同じ「資財帳」によると、和銅四(七一一)年には『五重塔初層安置の塑像群や中門安置の金剛力士像が完成しているので、この頃までには五重塔、中門を含む西院伽藍全体が完成していたとみられ』ているとある。

「法相宗」(ほっそうしゅう:現代仮名遣)はインド瑜伽行(ゆがぎょう)派(唯識派)の思想を継承した中国唐時代に創始された大乗仏教宗派の一つ。六四五年にインドから玄奘が帰国、唯識説が伝えられ、その玄奘の弟子である先に注した慈恩大師基によって開かれた。七〇五年頃、華厳宗が隆盛になるに従って、宗派としては次第に衰えた。参照したウィキの「法相宗」によれば、日本仏教における法相宗は、玄奘に師事した道昭が法興寺で広め、南都六宗の一つとして』八~九『世紀に隆盛を極めた』。因みに、近代以降は、明治一八(一八八二)年に『興福寺、薬師寺、法隆寺の』三『寺が大本山となったが、第』二『次大戦後』、この『法隆寺は聖徳宗を名乗って離脱』(昭和二五(一九五〇)年)『し、また』、『京都の清水寺も』、『法隆寺と同様に北法相宗として独立』(昭和四〇(一九六五)年)してしまい、現在は『興福寺、薬師寺の』二『本山が統括するに』至っている。

「八宗兼學」この場合は、中世以降から現在まで続く宗派八宗(天台宗・真言宗・浄土宗・浄土真宗・時宗・臨済宗・曹洞宗・日蓮宗)の兼学ではなく、教学八宗の八つの宗学派の教義を併せて学ぶこと。教学八宗は三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・華厳宗・律宗(以上、南都六宗)・天台宗・真言宗を指す。]

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