子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治三十四年 古白曰来
古白曰来
十一月六日の夜、居士はロンドンの漱石氏宛に一書をしたためた。「僕はもーだめになってしまった。毎日訳もなく号泣しているような次第だ。それだから新聞建誌へも少しも書かぬ。手紙は一切廃止。それだから御無沙汰してすまぬ。今夜はふと思いついて特別に手紙をかく」という書出しで、この頃としてはやや長い文句をつらねた末、次のように記されている。
[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。校合には基本、「子規居士」を用いた。原典はひらがな部分はカタカナであるが、ここでは読み易さを考えて底本に従い、ひらがなとした。後の部分も同じ。]
鍊卿死に非風死に皆僕より先に死んでしまつた。
僕は迚も君に再會するヿは出來ぬと思ふ。萬一出來たとしても其時は話も出來なくなつてるであろー。實は僕は生きてゐるのが苦しいのだ。僕の日記には「古白曰來」の四字が特書してある處がある。
漱石氏がロンドンにおける動静その他をこまごまと報じて来た長文の手紙は、ひどく居士を喜ばした。「倫敦(ロンドン)消息」と題して二度『ホトトギス』に掲げた上、更に「もし書けるなら僕の目の明いてる内に今一便よこしてくれぬか」と申送ったのがこの手紙なのである。「僕の日記」というのは「仰臥漫録」のことで、「古白曰来」と特記したのは十月十三日の条であった。朝来(ちょうらい)恐しく降った雨がやんで、天気が直りかけた午後二時頃から、居士は俄に気持が変になって、「たまらんたまらんどーしようどーしよう」と連呼する。遂に四方太氏宛に「キテクレネギシ」と電信を打つこととし、母堂が頼信紙を持って車屋まで行かれる。令妹は風呂へ行って不在である。たった一人家の中に残された居士は、硯箱の中にある二寸ばかりの小刀と千枚通しとを見つめながら、頻に自殺することを考える。但(ただし)この錐(きり)と小刀では死ねそうもない。次の間へ行けば剃刀があるので、それさえあればわけなく死ねるのだけれども、そこまで匍(は)って行くことも出来ない。已むなくんば小刀か錐を用いるのだが、何分恐しさが先に立つ。死は恐しくないが苦(くるしみ)が恐しい。病苦でさえ堪えきれぬ上に、死損(しにそこな)って苦しんでは堪らない。小刀を手に取ろうか取るまいかという二つが、心の中で戦っているうちに、母堂はもう帰って来られた……。
居士はこの心理経過を詳細に記し、
逆上するから目があけられぬ、目があけられぬから新聞が讀めぬ、新聞が讀めぬから只考へる、只考へるから死の近きを知る、死の近きを知るからそれ迄に樂みをして見たくなる、樂みをして見たくなるから突飛な御馳走も食ふて見たくなる、突飛な御馳走も食ふて見たくなるから雜用(ざふよう)[やぶちゃん注:こまごましたものに係る費用。雑費。]がほしくなる、雜用がほしくなるから書物でも賣らうかといふことになる……………いやゝゝ書物は賣りたくない、さうなると困る、困るといよゝゝ逆上する。
という風に層々(そうそう)と書いて来て、最後に小刀と千枚通しの形を画き、上に「古白曰来」の四字を記したのである。黄泉(こうせん)に帰した知友が幾人もある中に、特に古白の名を挙げた理由は説明するまでもあるまい。
「仰臥漫録」の中にはまた次のような箇所がある。
[やぶちゃん注:一部の漢文部分は読み易さを考え、恣意的に字空けを施した。読みは岩波文庫版「仰臥漫録」を参考に歴史的仮名遣で附した。]
天下の人餘り氣長く優長に構へ居候はゞ後悔可致候。
天下の人あまり氣短く取いそぎ候はゞ大事出來申間敷候。
吾等も餘り取いそぎ候ため病氣にもなり不具にもなり思ふ事の百分一も出來不申候。
併し吾等の目よりは大方の人はあまりに氣長くと相見え申候。
貧乏村の小學校の先生とならんか日本中のはげ山に樹を植ゑんかと存候。
會計當而已(あたるのみ)矣 牛羊(ぎうやう)茁(さつとして)壯長而已(さうちやうするのみ)矣。この心持にて居らば成らぬと申事はあるまじく候。吾等も死に近き候今日に至りやうやう悟りかけ申候やう覺え候。瘦我慢の氣なしに門番關守夜廻りにても相つとめ可申候と存候。只時々の御慈悲には主人の殘肴(ざんかう)きたなきはかまはず肉多くうまさうな處をたまはりたく候。食氣(くひけ)ばかりはどこ迄も增長可致候。
兆民居士の『一年有半』といふ書物世に出(いで)候よし新聞の評にて材料も大方分り申候。居士は咽喉(のど)に穴一ツあき候由、吾等は腹、背中、臀(しり)ともいはず蜂の巢の如く穴あき申候。一年有半の期限も大槪は似より候ことゝ存候。乍併(しかしながら)居士はまだ美といふ事少しも分らず、それだけ吾等に劣り可申候。理が分ればあきらめつき可申、美が分れば樂み出來可申候。杏(あんず)を買ふて來て細君と共に食ふは樂みに相違なけれどもどこかに一點の理がひそみ居候。燒くが如き晝の暑さ去りて夕顏の花の白きに夕風そよぐ處何の理窟か候べき。
左の一節もまた右と同じく、十月十五日に書かれたものらしい。
吾等なくなり候とも葬式の廣告など無用に候。家も町も狹き故二、三十人もつめかけ候はゞ柩(ひつぎ)の動きもとれまじく候。
何派の葬式をなすとも柩の前にて弔辭傳記の類(たぐひ)讀み上候事無用に候。
戒名といふもの用ゐ候事無用に候。曾て古人の年表など作り候時狹き紙面にいろいろ書き竝べ候にあたり戒名といふもの長たらしくて書込に困り申候。戒名などは無くもがなと存候。
自然石の石碑はいやな事に候。
柩の前にて通夜(つや)すること無用に候。通夜するとも代りあひて可致候。
柩の前にて空淚(そらなみだ)は無用に候。談笑平生の如くあるべく候。
晩年の居士の心持は大体ここに尽きているかと思う。瘦我慢の気なしに門番関守夜廻りでもつとめる、というところまで脱落[やぶちゃん注:脱線。]して、病に管しむ一面極めて平(たいら)かな心を推持し得た。変態奇矯に陥りがちな病人心理と同日の談ではない。「貧乏村の小學校の先生とならんか、日本中のはげ山に樹を植ゑんか」ということは、十月十九日に至り「今日余もし健康ならば何事を爲しつゝあるべきか」という問題となって再び出て来る。「幼稚園の先生もやつて見たしと思へど財産少しなくては余には出來ず。造林の事なども面白かるべきも其方の學問せざりし故今更山林の技師として雇はるゝの資格なし、自ら山を持つて造林せば更に妙なれど買山(ばいざん)の錢なきを奈何」というのである。明日を測られぬ病軀を抱いた居士の眼が、むしろ遠い世界を望んでいたことは、この一事からも想像することが出来る。
居士が身後の事について記したものは、この数箇条の外に見当らない。「死後」という文章の中に書いたところは、まだ多少の文学的空想が加味されていた。ここにいうところは皆端的である。これらの言は必ずしも遺言と見るべきではないが、この条々は大体歿後においても居士の意志を尊重されたように思われる。
[やぶちゃん注:思うところあって、注は最後に纏める。標題は「古白、曰く、『来(きた)れ』と」と読む。「古白」は俳人で作家、正岡子規の従弟で盟友でもあった幼馴染み藤井古白(明治四(一八七一)年~明治二八(一八九五)年)。既出既注であるが、再掲する。ウィキの「藤野古白」によれば、『本名、藤野潔。愛媛県、久万町に生まれた。母親の十重は子規の母、八重の妹で、古白は子規の』四歳年下。七『歳で母を失い』、九『歳で家族ととも東京に移った』。明治一六(一八八三)年に『子規が上京し、一年ほど子規は、古白の父、藤野漸の家に下宿した』、彼には生来、『神経症の症状があり』、明治二二(一八八九)年には『巣鴨病院に入院、退院後』、『松山で静養した』。この頃、『高浜虚子とも親しくなった』。明治二四(一八九一)年に『東京専門学校に入学し』、『文学を学んだ。初期には俳句に才能をみせたが、俳句を学ぶうち』、その価値を見限り、『小説、戯曲に転じ、戯曲「人柱築島由来」は』『早稲田文学』『に掲載されたが』、『世間の評価は得られなかった。戯曲発表の』一『ヶ月後に、「現世に生存のインテレストを喪ふに畢りぬ。」の遺書を残してピストル自殺し』て果てた。『河東碧梧桐の『子規を語る』には「古白の死」の一章が設けられ、古白の自殺前後の周辺の事情が回想されている。古白はよく死を口にしたが、その前日まで変事を予想させるようなことはなかった。以前から古白は知人がピストルをもっているのを聞いていて撃ちたがっていたが』、『知人はそれを許さなかった。自殺の前日の夜、銃を盗みだし』、四月七日に『前頭部、後頭部を撃った。病院に運ばれ、治療をうけ』たが、四月十二に絶命した。『碧梧桐らが看護にあたったが』、『言葉をきける状態ではなかった。当時』、『子規は日清戦争の従軍記者として広島で出発を待っている時で』死に目に逢えていない。子規の幻覚に彼が現われ、「来たれ」と呼びかけるのは、私は、彼が凄絶な衝動的自殺をしたことと、子規が彼の自死を国内にあって知りながら、大陸へ渡ったことに基づく、子規の強い心的複合(コンプレクス)によるもののように感じている。
「十一月六日の夜、居士はロンドンの漱石氏宛に一書をしたためた」宵曲は大部分を引いているが、ここで改めて全文を示す。ネットで発見したこちらの原書簡画像(個人ブログ「文学・歴史散歩」のもの)翻刻した。
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僕ハモーダメニナツテシマツタ、毎日訳モナク號泣シテ居ルヤウナ次第ダ、ソレダカラ新聞雜誌ヘモ少シモ書カヌ。手紙ハ一切廃止。ソレダカラ御無沙汰シテスマヌ。今夜ハフト思ヒツイテ特別ニ手帋[やぶちゃん注:「てがみ」。]ヲカク。イツカヨコシテクレタ君ノ手紙ハ非常ニ面白カツタ。近來僕ヲ喜バセタ者ノ隨一ダ。僕ガ昔カラ西洋ヲ見タガツテ居タノハ君モ知ツテルダロー。ソレガ病人ニナツテシマツタノダカラ残念デタマラナイノダガ、君ノ手紙ヲ見テ西洋ヘ徃タ[やぶちゃん注:「いつた」。]ヤウナ氣ニナツテ愉快デタマラヌ。若シ書ケルナラ僕ノ目ノ明イテル内ニ今一便ヨコシテクレヌカ(無理ナ注文ダガ)
画ハガキモ慥ニ受取タ。倫敦ノ焼芋焼ノ味ハドンナカ聞キタイ。
不折ハ今巴理[やぶちゃん注:巴里(パリ)。]ニ居テコーランノ処ヘ通フテ居ルサウヂヤ。君ニ逢フタラ鰹節一本贈ルナドヽイフテ居タガモーソンナ者ハ食フテシマツテアルマイ。
虚子ハ男子ヲ挙ゲタ。僕ガ年尾トツケテヤツタ。
鍊卿死ニ非風死ニ皆僕ヨリ先ニ死ンデシマツタ。
僕ハ迚モ君ニ再会スルヿハ出來ヌト思フ。万一出來タトシテモ其時ハ話モ出來ナクナツテルデアロー。[やぶちゃん注:ここに吹き出しで書き添えたもの(二字程。判読不能)を三重線で消してある。]實際ハ僕ハ生キテヰルノガ苦シイノダ。僕ノ日記ニハ「古白曰來」ノ四字ガ特書シテアル処ガアル。
書キタイヿハ多イガ苦シイカラ許シテクレ玉ヘ。
倫敦ニテ 明治卅四年十一月六日燈下ニ書ス
漱石兄 東京 子規拜
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「コーラン」は不折がフランスで、この頃、二番目に師事した、フランス人画家で優れた美術教師でもあったジャン=ポール・ローランス(Jean-Paul Laurens 一八三八年~一九二一年)の訛りであろう。因みに最後の「倫敦ニテ」というのは洒落のつもりだろうか。
「鍊卿」(れんきょう:現代仮名遣)は既出既注の竹村鍛(きたう 慶應元(一八六六)年~明治三四(一九〇一)年二月一日)の号。河東碧梧桐の兄(河東静渓(旧松山藩士で藩校明教館の教授であった河東坤(こん)の号)の第三子で、先に出た河東銓(静渓第四子)の兄)。帝国大学卒業後、神戸師範から東京府立中学教員を経て、冨山房で芳賀矢一らと辞書の編集に従事し、亡くなる前年、女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)教授となった。別号、黄塔。
「非風」既出既注の新海非風(にいみひふう 明治三(一八七〇)年~明治三四(一九〇一)年十月二十八日)は愛媛県出身の俳人。東京で正岡子規と知り合い、作句を始めた。後、結核のため、陸軍士官学校を退学、各種の職業を転々とした。
「倫敦消息」明治三十四年五月と六月の『ホトヽギス』に載った。「青空文庫」のこちらは新字新仮名で気持ちが悪い。国立国会図書館デジタルコレクションの昭和三(一九二八)年漱石全集刊行会刊「漱石全集」第十五巻(「初期の文章及詩歌俳句」)のこちらから正規表現で読める。
「仰臥漫録」の『「古白曰来」と特記した』『十月十三日の条』「仰臥漫録一」の掉尾。私が若き日に読んで(見て)激しい衝撃を受けた箇所である。正字正仮名のそれを入手出来る目途がない今、この際、ここだけでも電子化して示したい。岩波文庫版(一九八三年改版)を参考に漢字を恣意的に正字化して示すこととする。最後のショッキングな(私には強烈だった)絵も添える。なお、底本の行末で改行している箇所で、連続性を疑う部分二箇所で空欄を恣意的に空けたことをお断りしておく。
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十月十三日 大雨恐ろしく降る 午後晴
今日も飯はうまくない 晝飯も過ぎて午後二時頃天氣は少し直りかける 律は風呂に行くとて出てしまうた 母は默つて枕元に坐つて居られる 余は俄に精神が變になつて來た 「さあたまらんたまらん」「どーしやうどーしやう」と苦しがつて少し煩悶を始める いよいよ例の如くなるか知らんと思ふと益(ますます)亂れ心地になりかけたから「たまらんたまらんどうしやうどうしやう」と連呼すると母は「しかたがない」と靜かな言葉、どうしてもたまらんので電話かけうと思ふて見ても電話かける處なし 遂に四方太にあてて電信を出す事とした 母は次の間から賴信紙を持つて來られ硯箱もよせられた 直(すぐ)に「キテクレネギシ」と書いて渡すと母はそれを疊んでおいて羽織を着られた「風呂に行くのを見合せたらよかつた」といひながら錢を出して來て「車屋に賴んでこう」といはれたから「なに同し事だ 向へまで往つておいでなさい五十步百步だ」といふた心の中はわれながら少し恐ろしかつた「それでも車屋の方が近いから早いだろ」といはれたから「それでも車屋ぢや分らんと困るから」と半ば無意識にいふた余の言葉を聞き棄てにして出て行かれた さあ靜かになつた この家には余一人となつたのである 余は左向に寐たまま前の硯箱を見ると四、五本の禿筆(ちびふで)一本の驗溫器の外に二寸ばかりの鈍い小刀(こがたな)と二寸ばかりの千枚通しの錐(きり)とはしかも筆の上にあらはれて居る さなくとも時々起らうとする自殺熱はむらむらと起つて來た 實は電信文を書くときにはやちらとしてゐたのだ しかしこの鈍刀や錐ではまさかに死ねぬ 次の間へ行けば剃刀(かみそり)があることは分つて居る その剃刀さへあれば咽喉(のど)を搔(か)く位はわけはないが悲しいことには今は匍匐(はらば)ふことも出來ぬ 已むなくんばこの小刀でものど笛を切斷出來ぬことはあるまい 錐で心臟に穴をあけても死ぬるに違ひないが長く苦しんでは困るから穴を三つか四つかあけたら直(すぐ)に死ぬるであらうかと色々に考へて見るが實は恐ろしさが勝つのでそれと決心することも出來ぬ 死は恐ろしくはないのであるが苦(くるしみ)が恐ろしいのだ 病苦でさへ堪へきれぬにこの上死にそこなふてはと思ふのが恐ろしい そればかりでない やはり刃物を見ると底の方から恐ろしさが湧いて出るやうな心持もする 今日もこの小刀を見たときにむらむらとして恐ろしくなつたからじつと見てゐるとともかくもこの小刀を手に持つて見ようとまで思ふた よつぽと[やぶちゃん注:ママ。]手で取らうとしたがいやいやここだと思ふてじつとこらえた心の中は取らうと取るまいとの二つが戰つて居る 考へて居る内にしやくりあげて泣き出した その内母は歸つて來られた 大變早かつたのは車屋まで往かれたきりなのであらう
逆上するから目があけられぬ 目があけられぬから新聞が讀めぬ 新聞が讀めぬからただ考へる ただ考へるから死の近きを知る 死の近きを知るからそれまでに樂(たのし)みをして見たくなる 樂みをして見たくなるから突飛な御馳走も食ふて見たくなる 突飛な御馳走も食ふて見たくなるから雜用(ざふよう)がほしくなる 雜用がほしくなるから書物でも賣らうかといふことになる………いやいや書物は賣りたくない さうなると困る 困るといよいよ逆上する
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「天下の人餘り氣長く優長に構へ居候はゞ後悔可致候。……」以下は「仰臥漫録二」の十月十五日の条であるが、候文で判る通り、これは松山の伯父に宛てた手紙である。
「會計當而已(あたるのみ)矣 牛羊(ぎうやう)茁(さつとして)壯長而已(さうちやうするのみ)矣」は「孟子」の「萬章章句下」の一節。
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孔子嘗爲委吏矣。曰、會計當而已矣。嘗爲乘田矣。曰、牛羊茁壯長而已矣。
位卑而言高、罪也。立乎人之本朝、而道不行、恥也
○やぶちゃんの書き下し文
孔子、嘗つて、委吏(いり)と爲(な)る。曰く、「會計、當(あた)れるのみ。」と。嘗つて、乘田(じやうでん)と爲る。曰く、「牛羊、茁(さつ)として、壯長(さうちやう)さするのみ。」と。
位、卑しくして言高(げんたか)きは、罪なり。人の本朝に立ちて、道、行はれざるは、恥なり。
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「委吏」は穀物倉(ぐら)を管理する下級の村役人。「乘田」牧畜の実地管理をする下吏。「茁」順調に育つさま。「壯長」立派に成長すること。「人の本朝に立ちて」人民を正しく指南すべき朝廷に自ら立って居ながら。
「兆民居士の『一年有半』」自由民権運動の理論的指導者として知られる、思想家・ジャーナリストで政治家(衆議院議員)であった中江兆民(弘化四(一八四七)年~明治三四(一九〇一)年十二月十三日)の評論集。かの門弟幸徳秋水が編集し、明治三四(一九〇一)年九月、「生前の遺稿」と副題して博文館より刊行された。同年三月、兆民は喉頭癌のため、余命一年半と宣告された。それより書き始めたもので、書名はこれに由来する。「民権、是れ、至理なり、自由平等、是れ、大義なり」の理義を堅持して、帝国主義や明治国家体制を断罪するなど、政治・経済から思想・文学・科学・人物論に至るまで、『社会百般にわたっての透徹した批判は文明批評家兆民の面目躍如たるものがある。また随所に、進行する病状が淡々とした筆致で誌(しる)されており、「癌との闘いの記録」ともなっている。その病苦との闘いのなかで亡国と国民堕落の状を「国に哲学無き」ことによる』、『と喝破した兆民は、引き続き『続一年有半』を執筆、同年』十『月に刊行したが、「ナカヱニスムス」と自称した壮大な思想哲学大系の完成を後進に託しながら』、十二『月に衰弱のため』、『死去した。解剖の結果は食道癌であった』(以上は小学館「日本大百科全書」に拠る)。彼はまさに子規がかく書いた二ヶ月後に五十四歳で死去するのである。私は正直、こういう正岡子規の噛み付き方が嫌いである。その相手が二ヶ月後に衰弱死した報知を子規はどのような気持ちで聴いたのであろう。「先に死にやがったか、羨ましい」だったのか? 子規の精神不安の根底には、こうした自己中心的なディスクールに基づく潜在的自己呵責感があったのではないかとさえ思えてくる。だからこそ、古白の幻聴が聴こえてくるのではないか? いや、そうしたものが微塵もないと豪語するなら、私はそれこそ子規は人間として『劣り』たる輩と言わざるを得ないと言っておく。
『十月十九日に至り「今日余もし健康ならば何事を爲しつゝあるべきか」という問題となって再び出て来る』前と同様の仕儀で示す。
*
十月十九日 雨、便通、秀眞去る、また便通、繃帶取替、午飯、まぐろのさしみ、粥四わん、大はぜ三尾、りんご一つ
十六、七歳の頃余の希望は太政大臣となるにありき 上京後始めて哲學といふことを聞き哲學ほど高尚なる者は他になしと思ひ哲學者たらんことを思へり 後また文學の末技(まつぎ)に非るを知るや生來(せいらい)好めることとて文學に志すに至れり しかもこの間理論上大臣を輕視するにかかはらず感情上何となく大臣を無上の榮職の如く考へたり しかるに昨年以來この感情全くやみ大臣たるも村長たるも其處に安んじ公のために盡すにおいて一重の輕重なきを悟りたり
今日余もし健康ならば何事を爲しつつあるべきかは疑問なり 文學を以て目的となすとも飯食ふ道は必ずしもこれと關係なし もし文學上より米代を稼ぎ出だすこと能はずとせば今頃は何を爲しつつあるべきか
幼稚園の先生もやつて見たしと思へど財産少しなくては余には出來ず 造林の事なども面白かるべきもその方の學問せざりし故今更山林の技師として雇はるるの資格なし 自ら山を持つて造林せば更に妙なれど賣山の錢なきを奈何
晚飯さしみの殘りと裂き松蕈(まつたけ)
この日便通凡(およそ)五度、來客なし
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