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« 諸國里人談卷之三 雲仙嶽 | トップページ | 子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十五年 『獺祭書屋俳句帖抄』 »

2018/06/27

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十四年  馬鹿野郎糞野郎 / 明治三十四年~了

 

    馬鹿野郎糞野郎

 

 「仰臥漫録」は十月二十九日に至って一先ず絶え、三十五年三月に三日ほど記事があるだけで、六月以降は麻痺剤服用日記ということになっている。即ち三十四年九月初より十月末までを以て主要なる部分と見るべく、これまで世間に発表された『墨汁一滴』の類に此し、更に瑕瑜(かゆ)掩(おお)わざる居士の真面目が現れているのは、これが日記であり私記であったためで、「仰臥漫録」の貴重なる所以は第一にこの点にあるといって差支ない。

[やぶちゃん注:「麻痺剤」モルヒネ(morphine)。正岡子規のモルヒネ服用は主治医宮本仲(安政三(一八五六)年~昭和一一(一九三六)年)の処方によるもので、明治三二(一八九九)年夏以降の脊椎カリエスの重篤化に伴って始められたものであろう。明治三十五年の「病牀六尺」の「八十六」(文末丸括弧クレジット八月六日分)では(国立国会図書館デジタルコレクションのこの初出切貼帳の画像を視認して翻刻した。太字部は原文では傍点「◦」)、

   *

此のごろはモルヒ子を飮んでから寫生をやるのが何よりの樂みとなつて居る。けふは相變らずの雨天に頭がもやもやしてたまらん。朝はモルヒ子を飮んで蝦夷菊を寫生した。一つの花は非常な失敗であつたが、次に畫いた花は稍成功してうれしかつた。午後になつて頭は愈〻くしやくしやとしてたまらぬやうになり、終には餘りの苦しさに泣き叫ぶ程になつて來た。そこで服藥の時間は少くも八時間を隔てるといふ規定によると、まだ藥を飮む時刻には少し早いのであるが、餘り苦しいからとうとう二度目のモルヒ子を飮んだのが三時半であつた。それから復た寫生をしたくなつて忘れ草(萱草に非ず)といふ花を寫生した。この花は曼珠沙華のやうに葉がなしに突然と咲く花で、花の形は百合に似たやうなのが一本に六つばかりかたまつて咲いて居る。それをいきなり畫いたところが、大々失敗をやらかして頻りに紙の破れ盡す迄もと磨り消したがそれでも追付かぬ。甚だ氣合くそがわるくて堪らんので、また石竹を一輪畫いた。これも餘り善い成績ではなかつた。兎角こんなことして草花帖が段々に書き塞がれて行くのがうれしい。八月四日記。

   *

とあるから、既にこの死の凡そ一ヶ月前頃には服用の習慣性に加えて耐性的様態、常用によって鎮痛・鎮静が利かなくなっている事態が生じてしまっていることが判る。

「瑕瑜(かゆ)掩(おお)わざる」「礼記」の「聘義」に出る孔子の言葉の一節「瑕不掩瑜、瑜不掩瑕、忠也。」(瑕(か)は瑜(ゆ)を掩(おほ)はず、瑜は瑕を掩はざるは、忠なり)。瑕疵(かし:きず)があっても玉石はその美しい輝きを損なうものではなく、美事な光輝が玉石の傷を覆い隠さぬことこそは、曇りなき真心を示す「忠」そのものである、という言説を元とする。美徳と過失の双方を在るが儘に体現して決して隠さぬこと、それが「忠」というものの在り方であるという譬え。]

 

 「仰臥漫録」の初の方には画が多く、俳句も相当記されている。画は固より病牀に見得る範囲の写生であるが、句もまた即事即景を直叙して、淡々たる中に自在の趣を得たものが少くない。

[やぶちゃん注:以下は、「子規居士」で校合したが、そちらはひらがなはカタカナであり(但し、これが原表記)、そこは底本に従ってひらがなのママとした。]

 

 秋一室拂子(ほつす)の髯(ひげ)の動きけり

 病(やまひ)間(かん)あり秋の小庭の記を作る

 病牀のうめきに和して秋の蟬

 朝顏や繪の具にじんで繪を成さず

 秋風や絲瓜の花を吹き落す

   欲睡(ねむりをほつす)

 秋の蠅叩き殺せと命じけり

 臥(ふ)して見る秋海棠の木末かな

 西へまはる秋の日影や絲瓜棚

 筆も墨も溲瓶(しびん)も内に秋の蚊帳

 驚くや夕顏落ちし夜半(よは)の音

 

 人は容易に心の虚飾を去り得るものではない。豊富な天分の所有者が往々にして岐路に迷い、愚者の一道を守るに如かぬ点があるのはこのためである。「仰臥漫録」の句の及びがたいのは、すべてが朗然として一塵をとどめぬ居士の心胸の産物だからであろう。文字や技巧の上からのみ眺めて、平凡と評し去る者があるならば、それはこれらの句の真に蔵する醍醐味を味い得ぬために外ならぬのである。

 十一月二十日になって居士は「命のあまり」というものを『日本』に掲げた。「墨汁一滴」の筆を擱いて以来、はじめての文章である。当時世間の大評判であった『一年有半』を評して平凡浅薄といい、余命一年半の宣告を受けながら、なおこの書を書き、いやしくも命ある間は天職を尽しているのは感ずべきだというような世評に対し、これは見当違いの褒辞で、病中筆を執ってものを書くのは一種のうさ晴しに過ぎぬ、天職を尽したのでも何でもないといったりしたため、一部読者の反感を買ったらしく、『日本』紙上にもそういう意味の投書が何度か現れた。居士の『一年有半』に対する感想は大体「仰臥漫録」に書いたところに尽きており、「命のあまり」はその意味を更に敷衍しようとしたものではないかと思われるが、当時居士の容体は甚だ悪く、「仰臥漫録」の筆さえ執り得ぬ状態であったから、遂に意の如く進行しなかった。ただ居士は前後三回で筆を按ずるに当り、投書に対しても次のように一矢(いっし)酬いている。

[やぶちゃん注:『居士の『一年有半』に対する感想は大体「仰臥漫録」に書いたところに尽きており』前章「古白曰来」を参照。

 以下は、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。校訂は「子規居士」を用いた。]

 

それから又「墨汁一滴」を讀んで同情を表したが、「命のあまり」を讀んであいそをつかしたといふやうな事が書いてあつたと思ふ。余が病氣であるについて同情を表せられる見ず知らずの人が澤山あつて、余は屢〻之が爲に感泣するのである。併しながら「墨汁一滴」を誤解して同情を表せられるやうなのは甚だ迷惑に感ずる。斯樣な同情は早く撤回せられたいものである。

又或人は『一年有半』の成功を余が羨んだとか妬んだとか言ふて居る。さう見られるなら仕方がない。要するに是等の誤解は余の文章の惡いといふよりも、寧ろ其人が余自身を誤解して居るのであらう。

 

誤解した同情は撤回してもらいたいというあたり、特に居士の面目躍如たるものがある。

[やぶちゃん注:大丈夫だ、子規君。私は君に一度として同情したことはないよ。]

 居士が『碧巌集』を読んで興味を感じたのは、三十四年後半の事ではないかと思われる。この年の蕪村忌は子規庵で催すことが出来ないので、道灌山胞衣神社に会場を持って行った。その時の写真を居士の許に齎(もたら)したら、居士は直に筆を執って裏面に次のような文句をしたためた。

[やぶちゃん注:「碧巌集」臨済宗の公案を集「碧巖錄」の別名。正しくは「佛果圜悟(えんご)禪師碧巖錄」。全十巻。宋の一一二五年に完成した。雪竇重顕(せっちょうじゅうけん)が「傳燈錄」千七百則の公案の中から、百則を撰び、それぞれに偈頌(げじゅ:経典等に於いて詩句形式を採って教理及び仏・菩薩を褒め讃える言葉。四字・五字・七字を以って一句と成し、四句から成るものが多い。単に「偈」「頌」とも呼ぶ)を加えて、さらにそれに対し、圜悟が各則毎に垂示(すいじ:序論的批評)・著語(じゃくご:部分的短評)・評唱(全体的評釈)を加えたもの。圜悟の弟子によって編集刊行された後、中国や日本で何度も刊行され、参禅弁道のための宗門第一の書として珍重されて続けている。

「蕪村忌」既出既注であるが、再掲しておく。与謝蕪村は享保元(一七一六)年生まれで、旧暦天明三年十二月二十五日(グレゴリオ暦一七八四年一月十七日)に亡くなっている(享年六十九)。過去の事例を見ると、子規らはグレゴリオ暦の十二月二十五日に合わせて蕪村忌を行っている。

「道灌山胞衣神社」現存しない。胞衣(胎児を包んでいた膜や胎盤など。後産(あとざん)として体外に排出されるが、これは古くから信仰の対象として丁重に扱われた)を祀るために明治二三(一八九〇)年に日本胞衣会社によって建てられた神社。ここにあった茶屋で正岡子規は高浜虚子に後継者になることを断られている。大正時代に入ると、神社はなくなり、鉄道官舎となった、とクバ氏のブログ「次回オフの見どころ」の日暮里、谷中見どころにある。虚子の拒絶に子規は激怒した。明治二八(一八九五)年十二月九日のことで、虚子は小説家に色気があったからである。場所からも、私は即座に大正一五(一九二六)年一月一日発行の雑誌『新潮』に芥川龍之介発表年末の一日秀抜なコーダを思い出す。

 以下、底本では全体が、二字下げ。以下、同じ。「子規居士」で校合した。この部分に関してのみ(後の「題睡猫圖」以下は従わず、私の野狐禪で訓じた。因みに、私は九年前に無門関 全 淵藪野狐禅師訳注版などというものをももものしている)、底本の蜂屋邦夫氏の訓読文をそのまま採った。但し、ルビは歴史的仮名遣で(底本のそれは現代仮名遣)必要と判断したところにのみ振った。]

 

菩薩子喫飯來 (菩薩子(ぼさつし)よ 飯(めし)を喫(きつ)し來たれ)

オ前方腹ガヘツテ一句モ吐ケヌヂヤナイカ

不堪奪飢人之食盈儞空腹 (飢人(きじん)の食(し)を奪ひて儞(なんぢ)が空腹を盈(み)たすに堪へず)

コヽニ天王寺蕪(かぶら)ノ漬物ガアル、コレデモ食ヒ給へ

翻吾溲瓶灑儞頭上 (吾が溲瓶を翻して儞が頭上に灑(そそ)がん)

  咄(とつ)

道(い)へ奈良茶三石ハ蕪ノ漬物ニ イヅレゾ

  道ヒ得ズンバ三十棒

  道ヒ得テモ三十棒

 

[やぶちゃん注:「天王寺蕪(かぶら)」大阪府大阪市天王寺付近が発祥地と伝えられるカブ(双子葉植物綱フウチョウソウ目アブラナ科アブラナ属ラパ変種カブBrassica rapa var. glabra)の品種。この蕪村忌には、この天王寺蕪の「風呂吹き」が毎年、配られたらしい。

「咄(とつ)」は感動詞。「舌打ち」の音に由来するオノマトペイアから生まれたもの。原義は「激しく叱る際に発する語の「チョッ!」で、禪の公案のやり取りではよく用いられる。]

 

 次のも同じ湯合のものである。

 

 お前ひとりか連衆(れんじゆ)は無いか連衆あとから汽車で來る

 好箇侶伴(りよはん)待チ合セテ共ニ行ケ、謹ンデ懷中ヲスリ取ラルヽ莫(なか)レ、芭蕉蕉村是レ掏摸(すり)ノ親玉

 

 この種の文字は咄嗟の間に成るので、もともと何かに発表するために書くのでないから、どの位あるものかよくわからない。香取秀真氏蔵の左の一篇なども、日次はないけれども、あるいは同じ頃の作ではないかと想像される。

 

  題睡猫圖

金猫兒 飽膏梁

群鼠如盜任跳梁

水仙花下睡方熟

總不管

 滿洲風雲太匇忙

米相場

株相場

  咄

新橋別有相識子

任他妻奴嚙糟糠

 

   睡猫圖(すいべうず)に題す

 金猫兒(きんべうじ) 膏梁(こうりやう)に飽き

 群鼠 如(も)し 盜まば 跳梁に任(まか)す

 水仙の花の下 睡りて方(まさ)に熟す

 総て管(かまは)ず

 滿洲の風雲 太(はなは)だ匇忙(そうばう)なるも

 米相場(こめさうば)

 株相場

   咄

 新橋 別に相識(さうしき)の子(し) 有り

 任他(さもあらばあ)れ 妻奴(さいど) 糟糠(さうかう)を嚙む

 

[やぶちゃん注:「膏梁」肥えた肉と美味い穀物。

「睡りて方(まさ)に熟す」まっこと、今まさに深く熟睡している。

「匇忙」俄かなこと。

「新橋 別に相識(さうしき)の子(し)」新橋芸妓のことを夢想したのであろう。

 

 諷亭氏が三十五年の年頭に居士を訪ねたら、この頃は頻に偈(げ)を稽古しているが、うまくなった、何でも知っているやつを片端から引導渡してやろうと思う、この間花和尚魯智深にやったのがこうだといって、

 

馬鹿野郎糞野郎。一棒打盡金剛王。再過五臺山下道。野草花開風自涼。

 

 馬鹿野郎 糞野郎

 一捧打盡 金剛王

 再過(さいくわ)す 五臺山下(ごだいさんか)の道(みち)

 野草 花 開きて 風 自(おのづか)ら涼し

 

を示したそうである。これもまた三十四年末に成ったものに相違ない。

[やぶちゃん注:「花和尚魯智深」言わずもがな、「水滸傳」の百八人の頭目の一人。本名は魯達、智深は法名。花和尚(かおしょう)は綽名(あだな)。

「五臺山」山西省東北部の五台県にある、文殊菩薩の聖地として古くから信仰を集めている霊山。標高三千五十八メートル。ウィキの「魯智深によれば、魯智深はここの長老智真に見込まれ、師匠自らの一字を取った智深という戒名を授かるが、二度、禁酒の戒を破り、泥酔して寺に帰り、大暴れしたため、智真長老はやむなく破門し、兄弟弟子の智清禅師がいる東京開封府の大相国寺を紹介したが、この際に偈を授けている、とある。]

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