進化論講話 丘淺次郎 第十六章 遺傳性の研究(三) 三 遺傳する性質の分離
三 遺傳する性質の分離
[豌豆の雜種]
[やぶちゃん注:図は底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングし、補正して用いた。後の「蝸牛の雜種」も同じ。]
メンデルが實驗研究によつて見出した最も大切なことは、雜種の第二代以後には兩親の相異なつた性質が再び分離することである。前に例に擧げた碗豆の實驗によると、黃色い豆のなる品種と靑い豆のなる品種との間の第一代雜種には、黃色の豆ばかりが出來たが、更に之を蒔いて第二代の雜種を造ると、この度は黃色い豆と靑い豆との兩方が出來る。然もその間には數の割合が略〻一定して、全體の數を出來るだけ多くして實驗して見ると、大抵黃色の豆三に對して靑い豆一の割合になつて居る。メンデル自身の行つた實驗に實際現れた數をいうて見ると、總數八千二十三粒の豆の中で、黃色いのが六千二十二粒、靑いのが二千一粒あつた。外見上は斯く二種類に分かれたやうであるが、之を蒔いて、更に第三代の雜種を造つて見ると、靑い豆からは、たゞ靑い豆ばかりが生ずるが、黃色い豆からは、黃色い豆だけのなるものと、黃色い豆と靑い豆とが、約三と一との割合に出來るものとの二種類が生れる。而してこの二種類の數の割合は、前のもの一に對して後のもの二に當る。かやうな結果から考へると、第二代雜種は實は三組に分れたのであつて、その中の二組が外見上區別が出來ぬために混同せられてあつたことが知れる。卽ち第二代雜種の總數の約四分の一は純粹な靑い豆、約四分の一は純粹な黃色い豆、而して殘り四分の二は第一代雜種と同樣な混合性のものである。第三代は前に述べた通りであるが、更に引き續いて雜種の第四代・第五代等を培養すると、靑い豆からは靑い豆のみが生じ、純粹の黃色の豆からは黃色の豆のみが生じ、混合性の黃色い豆からは黃色い豆と靑い豆とが三と一との割合に生ずる。それ故、一代每に初めの兩親と同じやうな純粹な黃色い豆と靑い豆との數が盛に殖え、混合性の黃色い豆は總數に比して著しく減じ、十代目には、純粹な黃豆・靑豆各數百粒に對して、混合性の黃豆が僅に一粒の割合、二十代目には、純粹な黃豆・靑豆各數十萬粒に對して、混合性の黃豆が僅に一粒の割合と成り、雜種の子孫も殆ど悉く初の[やぶちゃん注:ここは底本は「い」であるが、読めないので、学術文庫版で訂した。]兩親と同樣な純粹な二品種に分かれてしまふ。之がメンデルの所謂「分離の法則」である。
[やぶちゃん注:「分離の法則」(ドイツ語:Spaltungsregel, Spaltungsgesetz/英語:law of segregation)はメンデルの遺伝法則の一つで、最も基本的なもの。対立形質を支配する一対の対立遺伝子が、雑種第一代(F1)の個体で維持され、配偶子が形成される際、互いに分れて、別々の細胞に入ることを指す。より普遍的には、接合体に於いて、相同染色体上の同一遺伝子座を占める両親由来の二個の遺伝子は、配偶子が形成される時に、分離し、その結果、雑種第二代(F2)や、戻し交雑(最初の親の内の片方と再び交配させること)第一代(B1)で形質の分離が起ることを指す。以上は所持する「岩波 生物学辞典 第四版」に拠ったが、同辞典の「分離の歪み」(英語:segregation distortion)も引いておく。メンデル遺伝において、期待される分離比が得られない、則ち、「分離の法則」に従わない現象を「分離の歪み」と呼ぶ。メンデル遺伝では接合体中の相同遺伝子は配偶子に均等に分配される。しかし、この公平さを誤魔化す遺伝子が存在し、メンデル遺伝の歪みとして現われてくる。最もよく知られた例は、キイロショウジョウバエのSD因子(segregation distorter)で、SD/+ヘテロ接合体では+染色体を持つ精子の形成が阻害され、SD染色体を持つ精子が高率で形成される。その結果SD/+はSDホモ接合体のような分離比を示すケースである。この他にも、マウスのt遺伝子をはじめ,蚊やバッタ類、植物ではトウモロコシ・タバコ等でも類似の「誤魔化し遺伝子」が存在する、とある。]
[蝸牛の雜種
圖中白色は黃色を表すまた第二段は第一代
雜種を表し以下順次第二代第三代を表す]
かやうなことは素より碗豆に限る譯ではなく、その他にも澤山な例がある。動物から一例を擧げて見るに、蝸牛の或る種類には樣々の變異があるが、その中で、殼が全部黃色で條の少しもないものと、五本の太い黑條のあるものとの間に、幾代も雜種を造つて見た所が、實驗の結果は全く碗豆の場合と同じく、黃色のものが優勢、黑條のある方が劣勢で、第一代雜種は悉く黃色のものばかりが出來、第二代雜種に至つて、黃色のもの約四分の三と黑條のあるもの約四分の一とに分れた。また蠶の白色のものと黑い橫條のあるものとの間では、蝸牛とは反對に、黑條のある方が優勢で、第一代雜種には悉く黑條が現れ、第二代雜種に至つて黑條のあるもの約四分の三と白色のもの約四分の一とに分れる。
[おしろい花の雜種]
[やぶちゃん注:下部の図の外に右下に、図中の「一」「二」「三」の記号について、
一 第一代雜種
中央下に、
二 第二代雜種
左下に、
三 第三代雜種
のキャプションがある。これも国立国会図書館デジタルコレクションの画像。講談社学術文庫版ではこの図はカットされて存在しない。]
前にも述べた通り、第一代雜種が一方の親のみに似ず兩親の中間の性質を現すことがある。例へば「おしろい花」の赤と白との間の雜種は、第一代には皆桃色であるが、これが第二代になると、赤と白と桃色との三種類に分れる、而してその數の割合は約赤一・白一に對して桃色二となるから、たゞ純粹の赤と混合性の桃色とが外見上明に區別せられ得るといふだけで、その他には何も碗豆の場合と違つた所はない。櫻草などの品種にもかやうな中間の性質を示す雜種を生ずるものがある。第一代雜種が丁度兩親の中間の性質を現すときは、雨親の相異なる性質の中、何れを優勢何れを劣勢と定めることは困難であるが、斯かる場合にでも第二代になると、明に兩親の性質が相分離する。アンダルーシャンといふ鷄の黑色の品種と白色の品種との間には、第一代雜種として黑白の極めて細かい霜降りのものが出來るが、鳥屋は從來之を「靑」と呼んで居る。所が、この「靑」の産んだ子、卽ち第二代雜種には如何なるものが出來るかといふと、決して「靑」のみが生れず、約白一・黑一・靑二の割合に三種類に分れてしまふ。されば「靑」といふ定まつた品種は、何時まで過ぎても出來ず、絶えず黑と白とを親鳥として新に造らなければ、「靑」の數は一代每に著しく減じて行く。この遺傳の仕方は前の「おしろい花」に於けると全く同樣である。
[やぶちゃん注:「アンダルーシャンといふ鷄の」「品種」不詳。識者の御教授を乞う。]
さて、かやうに雜種の第二代目以後に兩親の性質が再び分離するのは何故であるかとの問に對するメンデルの考は、略〻次の如くである。凡そ子の出來るのは動物でも植物でも、雄性と雌性との二種の生殖細胞が相合することが必要である。動物ならば精蟲と卵細胞、顯花植物ならば、雄蘂の先に出來る花粉と雌蘂の内部にある胚珠とが、合して初めて一個の新しい生物個體が生ずるのである。そこで黃色の豆のなる碗豆には豆を黃色ならしむる性質があつて、その生殖細胞には花粉にも胚珠にもこの性質が含まれてあり、また靑色の豆のなる碗豆には豆を靑からしむる性質があつて、その生殖細胞には花粉にも胚珠にもこの性質が含まれてある。それ故、孰れの花粉を孰れの花に附けて造つても、第一代雜種は皆黃の性質と靑の性質とを合せ具へ、黃が優勢ならば、外見上たゞ黃の性質のみを現すが、この代の碗豆が成長して花粉や胚珠を生ずるに當つては、黃と靑との性質は決して同一の生殖細胞内に雜居せず、相別れて、或る花粉と胚珠とには黃の性質のみが傳はり、他の花粉と胚珠とには靑の性質のみが傳はる。卽ち花粉も胚珠も黃性と靑性と二通りづつ出來る故、之が相合して子を生ずるものとすれば、黃性の花粉が黃性の胚珠に合する場合と、靑性の花粉が靑性の胚珠に合する場合と、花粉と胚珠との何れか一方が黃性で他方が靑性の場合と、都合三つの合し方があり、隨つて出來た子にも、純粹の黃色のもの、純粹の靑色のもの、及び混合性のものとの三種類が出來る筈で、若し黃色が優勢ならば混合性のものは外見上黃色のみを現すであらう。また若し花粉も胚珠も黃と靑とが同數であつたとすれば、以上三種類の子の數は、約一と一と二との割合に出來る筈であつて、若し混合性のものが純粹の黃色と少しも違はぬ場合には、靑一に對し黃三の割合となる。讐へていへば、こゝに男を千人集めて、五百人には黃札を渡し、五百人には靑札を渡し、別に女を千人集めて、これにも五百人に黃札、五百人に靑札を持たせ、互に札を見ずに勝手に配偶を求めしめたとすれば、恐らく男も女も黃札を持つて居るものが約二百五十組、男も女も靑札を持つて居るものが約二百五十組、黃札と靑札とか二枚づつ持つて居るものが約五百組出來る勘定である。而して黃札か二枚でも二枚でも持つて居る組と、靑札より外は持たぬ組とに分けて算へれば、黃組七百五十に對し、靑組は二百五十で、丁度その三分の一に當る。メンデルの考は概略これに似たもの故、兩親の相異なる性質が雜種の第二代目に至つて明に豫定の割合に分れる場合には、學説の豫期する所と實驗研究の結果とが、完全に一致したことに成る。されば、碗豆の雜種、蝸牛の雜種、その他これと同樣の場合には、メンデルの考へた説が事實に當て嵌まつて居ると認めるの外はない。
然し總べての雜種は第二代以後に至つて、段々初めの兩親の通りのものに分れるかといふと、實際に於てはなかなかさやうなわけではない。例へば人間の皮膚の色に就いていうても、日本人と西洋人との間の子[やぶちゃん注:「あいのこ」。多分に蔑称として用いられてきた経緯があるので今は使うべきではない。]が、同じ間の子と結婚したならば、その子は平均四人の中、一人は純日本人、一人は純西洋人で、殘り二人が間の子の色であるかといふと、決してさやうには行かぬ。南アメリカ邊では、黑人と白人との間の子が已に幾代となく繼續して居るが、たゞ色の稍〻黑い者や稍〻白い者などが樣々に生ずるだけで、決して黃色の碗豆と靑い碗豆との如くに速に分離しさうな傾[やぶちゃん注:「かたむき」。]は見えぬ。我が國の犬でもその通りで、初めは純粹な日本種ばかりの所へ純粹な西洋犬が入り込んで、盛に間の子が出來たのであらうが、その後今日に至るまで、種々の程度の雜種が跋扈するばかりで、純粹な日本犬の毛色も、純粹な西洋犬の毛色も、往來などでは殆ど見られぬやうになつた。また兩親の性質に優劣の差のある場合には、第二代に劣勢の性質を現して居るものは、悉く一方の親と同樣に純粹なもので、その子孫は總べてその通りの性質を示すべき理窟であるが、實際には之からまた相手の優勢の方の性質を現す子が生れることがある。例へば普通には眼の色の靑いことは劣勢の性質、鳶色は優勢の性質であるが、兩人ともに眼の靑い夫婦の間に往々鳶色の眼を持つた子供の出來ることがある。その他、第一代雜種は總べて性質が揃つて居ても、第二代になると種々雜多なものが出來て、殆ど類別するにも困るやうな場合がある。
斯くの如き次第故、雜種の第二代以後に兩親の性質が如何に遺傳するかは、決して何時でも一種の型に從ふものではない。卽ち兩親の性質が判然と相分れる場合もあれば、不完全に分れる場合もあり、また全く分れぬ場合もある。且判然と分れる場合にも、數の割合が丸で豫定と反對のこともあり、不完全に分れて樣々のものの生ずる場合などは、到底數の割合も一定せぬ。前の碗豆の例の如きは、その中で最も簡單な、最も規則正しい場合であつて、メンデルの「分離の法則」がそのまゝに當て嵌まるのはかやうなものだけである。その他の場合には餘程變更しなければ當て嵌まらぬものが多く、また如何に變更しても全く當て嵌まらぬものも少くない。一言でいへば、メンデルの所謂分離の法則は、遺傳の仕方に樣々の種類のある中の一つの型に過ぎぬ。素より、斯かる型のあることを發見したのは、メンデルの大なる功績で、遣傳の研究上に一新紀元を造つたことは疑ないが、今日はメンデル説全盛のため總べての遺傳はこの型に從ふべきものと見倣し、如何なる場合をもこの型に嵌め込んで説明せんと努める學者が多勢あり、その結果として澤山の眞[やぶちゃん注:「まこと」]らしからぬ假説が考へ出されて居るやうに見受ける。
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