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2018/06/04

諸國里人談卷之一 石羅漢

 

    ○石羅漢(いしのらかん)

豐後國耆闍崛(きじやく)山羅漢寺は、曹洞宗にて、宇佐の八幡よりは西北にあたつて、五里がほど也。釋迦・文殊・普賢・五百羅漢・千體の地藏をはじめ、三千七百體の諸佛、皆、石佛なり。開山圓龕禪師(ゑんがんぜんじ)、是を彫る時に、逆流健順(ぎやくりうけんじゆん)といふ仙人、來〔きたり〕て、力を合〔あは〕せ、一夜の中〔うち〕、成就すと云〔いふ〕。

○又、大和國壺坂のひがし、八町がほどに、高香(かうかう)山あり。石に刻む所の五百羅漢【千体仏と云。】、兩部の曼荼羅等あり。奇異の巧(たくみ)にして、凡作にあらず。

○又、はりまの國龍野(りうの)の近所、蓑村・瓜生(うりう)村の間の谷に、石像の五百羅漢あり。是、「つくしのらかん」におなじ。

[やぶちゃん注:①では最後の条は「又」の後が割注形式になっているが、「又」のみを本文として、以下を割注とするのは、如何にもおかしく私には思われることから、ここは③の表記を採用した。

「豐後國耆闍崛(きじやく)山羅漢寺」現在の大分県中津市本耶馬渓町にある日本国内の羅漢寺の総本山である曹洞宗耆闍崛山(ぎじゃくっせん)羅漢寺。(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「羅漢寺(中津市)によれば、『羅漢山の中腹に位置する。岩壁に無数の洞窟があり、山門も本堂もその中に埋め込まれるように建築されている。洞窟の中に』は三千七百『体以上の石仏が安置されており、中でも無漏窟(むろくつ、無漏洞とも)の五百羅漢は五百羅漢としては日本最古のものである』。『伝承では大化元』(六四五)年、『法道仙人』(インドの仙人で、鉄の宝鉢を持っていたことから、「空鉢(くはつ)仙人」「仙人(からはちせんにん)」とも呼ばれる。六~七世紀頃に中国・朝鮮半島を経由して日本へと渡ってきたとされ、播磨国一帯の山岳などに開山・開基として名を遺す、数多くの勅願寺を含む所縁の寺がみられる。また、日本に渡る際、牛頭天王とともに渡ったとされ、その牛頭天王は姫路市にある広峰神社に祭られて、その後、現在は八坂神社中の座に祭られたとされている。法道仙人が六甲山雲ヶ岩(紫雲賀岩)で修業中、紫雲に乗って出現した毘沙門天を感得したとされ、雲ヶ岩・六甲比命大善神・心経岩を奥ノ院とする吉祥院多聞寺(神戸市北区唐櫃)を創建したとされる。関東でも、鉢山町や神泉町など、地名が法道由来とされる。ここはウィキの「に拠った)『の創建というが、伝説の域を出ない』。延元二(一三三七)年乃至延元三/暦応元(一三三八)年、円龕昭覚(えんがんしょうがく ?~至徳元/元中元(一三八四)年:臨済僧。鎌倉寿福寺の寂庵上昭の法を嗣ぐ)『が当地に十六羅漢を祀ったのが』、『実質的な開山である。この時の寺は、現羅漢寺の対岸の岩山にある「古羅漢」と呼ばれる場所にあったと推定されている』。翌年には『中国から』逆流建順(ぎゃくりゅうけんじゅん 生没年不詳:「耶馬溪風物館」で行われた羅漢寺耶馬溪パンフレットPDF)によれば、来朝は延文四(一三五九)年とし、彼は出雲国雲樹寺(うんじゅじ)の三光国師(孤峰覚明(こほうかくみょう))に従っていた人物であるとし、円龕とともに耆闍崛を見た逆流は、この窟に聖像を造立することを発願し、七百余りの石造を刻んで安置し、そこを安心庵(あんしんあん)と名づけたとある。これが現在の羅漢寺の由来となっている五百羅漢であるとある。これは記録に残っており、明白な事実である記されている。無論、謂わずもがなであるが、「一夜の中〔うち〕、成就す」は伝承であるが、これは沾涼の本書全体に確立してある奇談性には必要不可欠であると言える)『という僧が来寺し、円龕昭覚とともにわずか』一『年で五百羅漢像を造立したという』。後に円龕は将軍足利義満から羅漢寺の寺号を与えられている。『寺は当初』、『臨済宗であったが』、慶長五(一六〇〇)年に鉄村玄鷟(てつそんげんさく)が『来寺してから』、『曹洞宗となった』とある。

「八町」八百七十三メートル弱。

「高香(かうかう)山」奈良県高市郡高取町壺阪香高山にある石造五百羅漢両界曼荼羅。壺阪寺(真言宗。正式には壺阪山南法華寺)の奥の院とされる。個人サイト仏」が画像も豊富で、よい。それによれば、この造立は慶長年間(一五九六年~一六一五年)と推定される。

「兩部の曼荼羅」蓮華によって表象される胎蔵界(密教で大日如来の理性面を指す。仏の菩提心が一切を包み、育成することを母胎にたとえたもの)曼荼羅と、内容を九つに区分するところから九会(くえ)曼荼羅とも称する金剛界(密教で大日如来の持つ。総ての煩悩を打ち破る強固な力を持つ智徳の面を指す。)曼荼羅の両曼荼羅。

「はりまの國龍野(りうの)の近所、蓑村・瓜生(うりう)村の間の谷に、石像の五百羅漢あり」現在の兵庫県相生市矢野町瓜生にある史跡「瓜生羅漢石仏」群。(グーグル・マップ・データ)。釈迦如来像を中心に脇侍として文殊・普賢両菩薩と十六羅漢像が左右に並んで彫られており、室町時代に彫刻されたものと推定されている。旅行サイトが写真もあり、よい。

「つくしのらかん」「筑紫の羅漢」。これは冒頭の羅漢寺のそれとも採れるが、北九州地区には多数の臼杵を始め、石仏羅漢群は多いから、広義のそれで私は採る。]

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