北條九代記 卷第十二 先帝船上皇居軍 付 赤松京都に寄す
○先帝船上皇居軍 付 赤松京都に寄す
正慶二年閏二月、隱岐判官淸高、近國の地頭・御家人等を催し、宮門を警固し、先帝後醍醐を嚴しく守護し奉る。同下旬、佐々木富士名(ふじなの)判官義高、竊(ひそか)に心を寄せ奉り、「楠正成、伊東〔の〕大和二郎・赤松圓心・土居・得能、皆、御味方に參り候。聖運(せいうん)の啓(ひら)けん事、近きにあり。君、願(ねがは)くは配所を忍び出で給ひて、千波湊(ちなみみなと)より御舟に召され、出雲・伯耆の方へ赴き給ひ、
然るべき武士を御賴(おんたのみ)あるべし。義綱も軈(やが)て御味方に參り候はん」と申す。是より、富士名、竊に鹽冶(えんやの)判官高貞・名和〔の〕太郎長年を語(かたら)ひ、
朝山(あさやまの)八郎が禁門の當番の夜(よ)、是に心を合せて忠顯(たゞあきの)卿に申入れ奉りければ、君、卽ち、忍びて配所を出(いで)給ひ、 千波湊より御舟に召して、伯老國名和湊に著きたまふ。六條少將忠顯一人、名和又太郎長年が館(たち)に行(ゆき)て、頼思召(たのみおぼしめ)す由を宣へば、一族二十餘人一同に御請(おう)け申して、御迎(おんむかひ)に參り、船上山(ふなのうへさん)へ入れ奉り、兵粮五千餘石を用意して、その勢、百五十騎にて、船上(ふなのうへ)の皇居を守護し參(まゐら)せけり。隱岐〔の〕判官淸高・佐々木彈正左衞門尉、三千餘騎にて押寄せ、一戰に利を失ひ、佐々木は射殺され、淸高は小舟に乘りて風に任せて、越前の敦賀に吹寄(ふきよ)せせられ、六波羅沒落の時に、江州番馬の辻堂にて自害したり。その後、鹽冶・富士名、一千餘騎、淺山二郎八百餘騎、金持(かなぢ)の一黨三百餘騎、大山(だいせん)の衆徒七百餘騎、其外、出雲・伯耆・因幡・石見・安藝・美作以下、四國・九州の軍兵、殘(のこり)なく馳付(はせつ)けけり。六渡羅には、是を聞きて、「さらば先(まづ)、赤松を退治せよ」とて、佐々木判官時信・常陸(ひたちの)前司時知(ときとも)に五千餘騎を差副(さしそ)へて、摩耶(まや)の城へ向けらる。求塚(もとめづか)・八幡林(やはたばやし)より押寄せけるが、城兵五百餘人、打て出でたるに追崩(おひくづ)され、僅(わづか)に、千騎計(ばかり)に討ちなされて、京都にぞ引返しける。六波羅より、又、一萬餘騎にて討手を向けらる。赤松城を出でて、久々知(くゝち)・酒部(さかべ)に出向ふ所に、尼ケ崎より、舟を上りける、阿波の小笠原が三千餘騎と、赤松、僅に五十騎にて戰ひて、父子六騎に打(うち)なされ、小屋野(こやの)の宿に控へたる味方三千餘騎が中に馳入り、虎口の死をぞ遁(のが)れける。六波羅勢は瀨河(せがは)の宿に陣を取る。赤松、三千餘騎が中より子息筑前守貞範以下、只、七騎にて南の山より、散々に射る。寄手、多く射落されて色めく所を、赤松が軍兵七百餘騎、掛出でて戰ふに、寄手、崩れて、大半、討たれ、僅に京都に引返す。赤松、追ひ縋(すが)うて攻上(せめのぼ)る。三月十二日、淀・赤井・山崎邊、三十餘ヶ所に火を懸けたり。兩六波羅、驚きて、隅田・高橋に左京の武士二萬餘騎を相副へ、西朱雀に向けらる。兩陣、桂川を隔てて、矢軍(やいくさ)に時を移す。赤松が子息帥律師則祐以下、只、五騎にて桂川を渡しければ、父圓心を初(はじめ)て、三千餘騎、打渡す。六波羅、勢氣を吞まれて、引立ちしかば、赤松が勢、追掛り、大宮・猪熊・七條邊に火を掛けたり。主上持明院殿は、六波羅へ臨幸なる。兩六波羅は七條河原に打出でて、敵を相待ち、隅田・高橋に三千餘騎を副へて、八條口へ向けらる。河野・陶山(すやま)は二千餘騎にて蓮花王院へ遣(つかは)す。赤松、前後の敵に揉合(もみあ)うて、備(そなへ)亂れて打負け、僅の勢に成りて、山崎へ引返す。同十五日、六波羅勢、五千餘騎にて山崎に差向ふ。赤松、三千餘騎を二手に分けて、善峯・岩倉に出向うて、散々に射る。向明神(むかうのみやうじん)の邊にて、赤松が軍勢百騎、二百騎前後より蒐出(かけい)でしに、京勢、捨鞭(すてむち)を打ちて、引返す。同四月三日、赤松、又、京都に押寄せしかども、一族郎從八百餘騎、討たれて、又、山崎へ引返す。
[やぶちゃん注:標題の「先帝船上皇居軍」は「せんてい ふなのうへくわうきよ いくさ」で「後醍醐天皇、船上山行在所に於ける戦さ」の意。清湯浅佳子氏の「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、ここは「太平記」の巻第七の六項目「先帝船上(ふなのうへへ)臨幸〔の〕事」から巻第八の六項目「四月三日合戰事 付 妻鹿(めが)孫三郎勇力事」に拠るとある。
「正慶二年」元弘三年。一三三三年。
「隱岐判官淸高」隠岐守護佐々木清高(永仁三(一二九五)年~元弘三/正慶二年五月九日(一三三三年六月二十日))。ウィキの「佐々木清高」によれば、『宇多源氏流佐々木氏の一族で父は佐々木宗清』。『治承・寿永の乱で源氏方として活躍した佐々木秀義の』五『男義清の末裔で、義清-泰清-時清-宗清-清高と至る。この家系は代々隠岐守護を相伝(世襲)する家柄であった。船上山の戦いで清高と敵対した塩冶高貞』(後注参照)『は、時清の兄弟である塩冶頼泰の孫であり、清高とは又従兄弟(はとこ)の関係にあたる。また、後の南北朝時代において婆沙羅大名として著名な佐々木道誉(高氏)をはじめとする京極氏一族や、室町時代に近江守護として君臨した六角氏一族は義清の兄定綱の末裔で清高と同族(遠戚関係)である』。『鎌倉幕府第』十四『代執権の北条高時が北条氏得宗家当主であった期間』(一三一一年~一三三三年)内の前半には『元服し、その高時と烏帽子親子関係を結んで偏諱(「高」の字)を受けた』『とみられている』。『父から受け継いで』、『隠岐守護、更には引付衆となり』、正中二(一三二五)年十二月には『幕府の使者として入京した』。元弘二/正慶元(一三三二)年、『鎌倉幕府転覆計画を企てた後醍醐天皇が捕らえられ』、『隠岐国に流されると(元弘の変)、同国守護をしていた清高』『は隠岐へ下向し』、『領内の黒木御所に天皇一行を幽閉した。当時は西日本を中心に悪党と呼ばれる武士達が反幕府活動を続けていたため、清高も有志による後醍醐天皇奪還を警戒し、御所を厳しく監視』したが、この時、『天皇一行は突如として黒木御所から姿を消し、隠岐を脱出してしまった』。『天皇は伯耆の武士名和長年一族に迎えられ、伯耆船上山にて挙兵』、『これに対し、焦った清高は隠岐の手勢を率いて船上山に攻め寄せ』、『長年らと戦うが、寄せ手の将佐々木昌綱が流れ矢を受け戦死し、同族(はとこ)で出雲守護の塩冶高貞が寝返って天皇方につくなど』、『悪条件が重なり、結局』、『攻めきれずに敗退してしまう(船上山の戦い)』。『その後、敗戦の責任から隠岐を追われ』、『海路で北国に逃れ』、『六波羅探題北条仲時の軍に合流し』、同年五月九日、『近江番場の蓮華寺にて仲時らと共に自害した』。享年三十九。『子の泰高も父と共に自害したと伝えられる』。
「佐々木富士名(ふじなの)判官義高」富士名雅清(永仁四(一二九六)年~建武三(一三三六)年)は若狭守護。ウィキの「富士名雅清」によれば、「太平記」では富士名義綱・富士名判官の古称で知られる。『富士名氏は佐々木氏から出た湯氏の支流で、出雲八束郡布志名(富士名)の地頭』であった。『後醍醐天皇が隠岐へ流刑とな』ると、『雅清は、北条氏の命により』、『後醍醐の警固役の一人となったが』、『翻意し、後醍醐の隠岐脱出を計画』(「太平記」巻第七「先帝船上臨幸事」)、『脱出に向けて雅清は、同族で出雲守護塩冶高貞の助力を請おうと出雲へ帰還するが、高貞により幽閉された』、しかし、翌年のこの時、『雅清の帰島を待たず』、『隠岐を脱出した後醍醐は、名和長年に迎えられ』、『船上山に築いた行宮へ入り、追跡してきた隠岐守護佐々木清高と交戦する(船上山の戦い)。この情勢を知り、腹を括った高貞は雅清と共に後醍醐の元へ馳せ参じた。その後も、後醍醐に随行し』、『上洛するなど』、『宮方として倒幕に貢献し』、『建武政権では若狭守護に補任された』。『南北朝の争乱が起こると、南朝側として足利尊氏ら北朝方と各地で戦い』、建武三(一三三六)年正月、『京都で二条師基軍の武将として北朝方と戦うも戦死した』。
「千波湊(ちなみみなと)」「ちぶりみなと」が正しい。隠岐諸島の南端にある知夫里島の、恐らくは、南側の現在の知夫漁港或いはその東の姫の浦港ではないかと推定するが、実際には後醍醐の行在所(配流場所)は島後の現在の西郷町池田にあった国分寺内であり、これは「太平記」による創作ではないかと思われる。
「鹽冶(えんやの)判官高貞」(?~興国二/暦応四(一三四一)年)は出雲守護。ウィキの「塩冶高貞」によれば、前の「隱岐判官淸高」の引用で見た通り、当初は幕府方に与しようとしたが、結局、時局を計って、『後醍醐天皇の挙兵に呼応し、鎌倉幕府との戦いに貢献する。建武の新政ののちは、足利尊氏に味方し、南朝方制圧に力を奮ったが』暦応四年三月、『京都を出奔』し、それを謀反とされて『北朝に追討され、同年翌月』、『出雲国で自害した』。『生誕年は不明だが、鎌倉幕府第』十四『代執権の北条高時が北条氏得宗家当主であった期間』(一三一一年~一三三三年)『内に元服』『して、高時と烏帽子親子関係を結んで』、『その偏諱(「高」の字)を受けた』『人物とみられる』。鎌倉幕府滅亡後、建武二(一三三五)年に起こった『中先代の乱後、関東で自立した足利尊氏を討つべく東国に向かう新田義貞が率いる軍に佐々木道誉と参陣』したが、『箱根竹ノ下の戦いでは道誉と共に新田軍から足利方に寝返り、室町幕府においては出雲国と隠岐国の守護となった』。しかし、『高師直の讒言』により、『謀反の疑いをかけられたため』、『ひそかに京都を出奔し』、『領国の出雲に向かうが、山名時氏らの追討を受けて、妻子らは播磨国蔭山』『で自害した。高貞は』辛うじて『出雲に帰りついたものの、家臣らに妻子の自害した旨を聞』いて、『出雲国宍道郷の佐々布山で自害』『したという。これにより、高貞の子弟殆ど』は『共に討ち取られるか』、『没落した』が、『息子の塩冶冬貞』『(ふゆさだ)が家督および出雲守護を引き継いだとされ』、『冬貞は足利直冬・山名時氏ら南朝勢力と結び(「冬」の字も直冬から偏諱を受けたものとみられる)、一時的に塩冶郷を支配する立場にあったが、叔父(高貞の弟)の時綱(ときつな)と家督を巡』っての抗争をしてから後は、『時綱およびその子孫が新たな惣領となった』。『この家系を後塩冶氏と呼ぶことがあり』、『将軍の近習として存続した』。なお、『出雲守護となった近江佐々木氏流の尼子経久は、時綱の子孫の貞慶(さだよし)を攻めて追放し、経久の三男興久に塩冶氏を継がせ』ている。因みに、「塩冶判官」というと、誰もが「仮名手本忠臣蔵」を思い出すが、あれは、赤穂事件を描きつつ、筋書きを「太平記」の世界に仮託することで、公儀の咎めを回避しているため、『播州赤穂藩主・浅野長矩は「塩谷判官」』『として(播州の名産品「赤穂の塩」からの連想)』あるのであり(『幕府高家肝煎吉良義央を「高師直」としたのは「高家」からの連想である)、『物語の発端が赤穂事件の実情とは異なる色恋沙汰となっているのも、塩冶判官の妻・顔世御前に対する師直の横恋慕という伝承を』、『そのまま』、『物語に取り入れているからである』とある。
「名和〔の〕太郎長年」(?~延元元/建武三(一三三六)年)初名は長高。伯耆守。父行高の代までは伯耆国長田に居住して長田氏を名乗っていたが、長高の時、同国汗入(あせり)郡名和(鳥取県名和町)に移って名和氏を称した。良港名和湊を領有し、日本海沿岸の商業活動によって富を蓄えた。この時、後醍醐天皇が隠岐を脱出して伯耆に上陸すると、長高は天皇を迎えて船上山に布陣し、佐々木清高の率いる幕府軍の攻撃を退けた。この功により、天皇から「年」の字を与えられて、長年と改名、同時に家紋をも賜ったと伝えられている。同年五月二十三日、天皇が船上山を出発して京都に向かうと、長年も天皇軍に随従した。建武政権下では、記録所・雑訴決断所の寄人などに任命され、天皇の身辺警護に当たるなど栄耀を極め、世人はその栄華を「三木一草」(後醍醐の忠臣四人の称)と称して羨んでいる。子義高も戦功により肥後国八代荘を与えられた。建武元(一三三四)年十月、天皇の命令により、護良親王を清涼殿で捕縛し、鎌倉へと送った。建武の乱では、一旦、足利尊氏軍を破って九州へと敗走させたが、勢力を盛り返した尊氏軍が入京するや、天皇を奉じて叡山に避難した。建武三/延元元(一三三六)年六月三十日、京中へ打って出たものの、大宮通り一条の合戦(「梅松論」では「三条猪熊の合戦」とする)で戦死を遂げた(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。
「朝山(あさやまの)八郎」不詳。この名は「太平記」にも出ないようである。そもそも、後醍醐の隠岐脱出自体には、前に述べた通り、「太平記」でも義綱は関与出来なかった。以下に、後醍醐に与して馳せ参じた「淺山二郎」の同族か。
「六條少將忠顯」既出既注。
「船上山(ふなのうへさん)」現行では「せんじょうさん」と読み、鳥取県東伯郡琴浦町にある標高六百八十七メートルの山。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「佐々木彈正左衞門尉」「昌綱」とも。諸本、不詳とする。佐々木清高の一族であろう。
「江州番馬の辻堂」既出既注。現在の滋賀県米原市番場の蓮花寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「淺山二郎」新潮日本古典集成「太平記 一」の山下宏明氏の注によれば、『大伴氏の子孫で、現在の島根県出雲市朝山町に住んだ武士』とする。
「金持(かなぢ)」前掲書に、『島根県日野郡日野町金持(かもち)に住んだ武士』とある。
「大山(だいせん)の衆徒」鳥取県西伯郡大山町伯耆大山中腹にある天台宗角磐山(かくんばんざん)大山寺(だいせんじ)の僧兵。当時は修験道場として知られ、ここの『座主は比叡山から派遣され、ここでの任期を勤めた後、比叡山に戻って昇格するという、僧侶のキャリア形成の場』であった、とウィキの「大山寺」にある。
「佐々木判官時信」六角(佐々木)時信(徳治元(一三〇六)年~興国七/貞和二(一三四六)年)は近江国守護。佐々木氏嫡流六角氏第三代当主。ウィキの「六角時信」によれば、『佐々木頼綱(六角頼綱)の子として誕生』、『廃嫡された長兄・頼明や早世した他の兄達に代わって』、『嫡子となり』、延慶三(一三一一)年の父の死後、『家督を継ぎ、近江守護となった』。正和三(一三一四)年)に元服して『時信と名乗』る。『朝廷との関わりは深く』、元徳二(一三三〇)年の『後醍醐天皇の石清水行幸の際には橋渡を務めているが』、元弘元(一三三一)年の「元弘の乱」では『鎌倉幕府方につき』、同年八月の『近江唐崎にて後醍醐天皇に応じた延暦寺衆徒と戦い敗れる』『ものの、後醍醐天皇が内裏を脱出して笠置山に挙兵した際(笠置山の戦い)には鎮圧に加わり、六波羅探題軍に加勢して山門東坂本に攻め寄せた。戦後は、捕縛された尊良親王(後醍醐天皇の皇子)の身を預かっている』。元弘三(一三三三)年の『後醍醐天皇流罪後も続いた反乱軍鎮圧では摂津国天王寺に参陣している。しかし、六波羅探題が宮方についた足利高氏(尊氏)によって陥落されると、探題北条仲時が近江で討死したという誤報を受けて宮方に投降した』。『幕府滅亡後の建武の新政では雑訴決断所の奉行人、南海道担当の七番局を務め、尊氏の新政離反にも従うが、室町幕府においては近江守護職を一時庶流の京極氏当主佐々木道誉に奪われるなど』、『不遇をかこつことになり、出家して家督を子・氏頼に譲り』、四十一『歳で死去したという』。
「常陸(ひたちの)前司時知(ときとも)」六波羅の頭人(とうにん)であった小田時知。サイト「南北朝列伝」によれば、『常陸国に拠点を置く小田一族の一人だが』、『傍流で』、『代々六波羅探題に勤めた系統である。父の知宗も弟の貞知も六波羅探題で引付頭人を務めている。名の「時」は得宗の北条貞時の一字を受けたとみられるが、「貞」字は弟が受けており、弟の方が嫡流とされていたようである』。『後醍醐天皇の討幕計画が発覚(正中の変)すると、時知は二階堂行兼と共に六波羅探題の使者として北山の西園寺邸を訪れ、事件の首謀者として日野資朝・日野俊基の二名を引き渡すよう朝廷に要請している』。元徳三(一三三一)年八月二十四日、『後醍醐が倒幕挙兵を決意して未明に宮中を脱出したが、その夜に時知が兵を率いて宮中の捜索、乱暴に騒ぎたてた様子が』「増鏡」に『描写されている』。二十七日には、『時知は貞知らと共に琵琶湖東岸の唐崎浜に出陣し、比叡山の僧兵と戦っている。その後の笠置攻撃にも参加し、後醍醐に同行して捕虜となった東大寺東南院の僧・聖尋の身柄を時知が預かり、のちに鎌倉に護送している』。本詩クエンス時(三月一日)には『時知は佐々木時信と共に六波羅勢を率いて、摂津の摩耶山にこもった赤松円心を討ったが』、『敗退』し、『勝ちに乗って京へ攻め込んできた赤松軍と京で攻防戦を繰り広げている』。『このように六波羅軍の主力として戦った時知だが、同年』五『月の六波羅勢の逃亡、近江番場での集団自決には同行しておらず、六波羅陥落前後に後醍醐方に投降したとみられる』とあり、さらに「尊卑分脈」の『小田氏系図を見ると時知の子・知貞の母について「実父大納言経継卿云々」と注があり、時知が公家の中御門経継の娘を妻に迎えていたことを推測させる。時知はあるいは』、『そのつてを頼って』、『後醍醐方に投降したのではないか』とサイト主は推理されておられる。事実、『建武政権では時知は弟の貞知と共に雑訴決断所の職員に名を連ねている』、但し、『その後の詳しい動向は不明である』とある。
「求塚(もとめづか)」現在の兵庫県神戸市灘区都通附近(グーグル・マップ・データ)。私の偏愛する、かの「菟原処女(うないおとめ)」の伝承が残る地である。
「八幡林」灘区八幡町附近。求塚の東北。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「久々知(くゝち)」尼崎市久々知(くぐち)。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「酒部(さかべ)」尼崎市上坂部(久々知の北に接する)・下坂部附近(久々知の北東に接する)。ここ(グーグル・マップ・データ)・
「阿波の小笠原」新潮日本古典集成「太平記 一」の山下宏明氏の注によれば、『清和源氏、甲斐長房(かいながふさ)が阿波の国(徳島県)守護に任じてから阿波の豪族となった』とする。
「父子六騎に打(うち)なされ」筆者は「太平記」をコンパクトに圧縮するあまり、ここではリズムが崩れている。この父子とは赤松円心とその子息則祐のことで、二人を含めて、たった六騎までに小笠原㔟に討たれて減ってしまったというのである。
「小屋野(こやの)の宿」現在の兵庫県伊丹市昆陽(こや)にあった山陽道の宿場町。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「瀨河(せがは)」現在の大阪府箕面瀬川。ここ(グーグル・マップ・データ)。昆陽の東北、猪名川を隔てた位置。
「子息筑前守貞範」(徳治元(一三〇六)年~文中三/応安七(一三七四)年)円心の次男。ウィキの「赤松貞範」によれば、嘉暦元(一三二六)年頃は『摂津国長洲荘の荘官を兄・範資と共に務め、父が後醍醐天皇の倒幕に参加した時は共に従った』。建武二(一三三五)年には『中先代の乱を平定するため』『、関東に向かう足利尊氏軍に加わり、戦後に尊氏が反新田義貞を主張して挙兵した時も従う。箱根・竹ノ下の戦いで竹ノ下に展開していた貞範の軍は』三百『騎で脇屋義助』七千『騎に突撃を敢行した。これを見て』、『義貞方の大友貞載』(さだとし/さだのり)『が寝返ったため』、『戦況が逆転し、尊氏軍が勝利した。この時の恩賞として丹波国春日部荘ほか』、『播磨国の所領を与えられたという』。『室町幕府の確立に尽力し』、正平元/貞和二(一三四六)年には『姫路城の基礎である城を築い』ている。正平六/観応二(一三五一)年に兄範資が『亡くなった時、弟・則祐が幕府から播磨と家督を安堵されたが、貞範が選ばれなかった理由は』、室町『幕府から疎まれていたためとされる』。正平一一/延文元(一三五六)年に『美作守護を任命されていた事があり、尊氏の庶長子・足利直冬と山名時氏が東上の構えを見せた際、貞範は出陣してこれを攻めた。しかし』、正平一八/貞治二(一三六三)年に『時氏が幕府に帰順すると』、『美作を時氏の末子・時義に交替させられ』ている。彼の『子孫は春日部荘を相続、足利将軍家の近習に選ばれた赤松持貞・赤松貞村を輩出した』。
「淀」新潮日本古典集成「太平記 一」の山下宏明氏の注によれば、『京都市伏見区淀。桂川・宇治川・木津川にのぞむ水郷』とある。この中央附近(グーグル・マップ・データ)。
「赤井」同前の山下氏注によれば、『淀から羽束師(はつかし)・樋爪(ひづめ)までの間、桂川にのぞむ地』とある。この桂川右岸辺り(グーグル・マップ・データ)。
「山崎」同前の山下氏注によれば、『淀・羽束師の西方一帯を指す』とあるから、現在の京都府乙訓(おとくに)郡大山崎町附近であろう(グーグル・マップ・データ)。
「隅田」隅田(すだ)通治。既出既注。
「高橋」未詳既出既注。
「大宮」大宮大路。朱雀大路の東の最初の南北に走る東大宮大路のこと。その南端で南北に走る、南から二本目(最南端が九条大路)の「七條」大路辺りまでの閉区間で火を放ったということであろう。次も同じ。
「猪熊」猪熊小路。東大宮大路の東の最初の小路。
「主上持明院殿」光厳天皇。
「河野」九郎左衛門尉通治(みちはる)か。
「陶山(すやま)」既出既注の陶山藤三義高であろう。或いは、その一族かも知れない。
「蓮花王院」所謂、三十三間堂の正式な寺名。なお、六波羅探題はここにあった(グーグル・マップ・データ)。
「善峯」新潮日本古典集成「太平記 一」の山下宏明氏の注によれば、『釈迦岳の支峰を善峰と言い、また中腹に善峰寺がある』と記す。寺は、ここ(グーグル・マップ・データ)。
「岩倉」新潮日本古典集成「太平記 一」の山下宏明氏の注によれば、『西京区大原野石作(いしづくり)町岩倉。金蔵寺の辺』とする。寺は、ここ(グーグル・マップ・データ)。
「向明神(むかうのみやうじん)」「向日明神」が正しい。新潮日本古典集成「太平記 一」の山下宏明氏の注によれば、『小塩山にある天台宗の金蔵寺の守護神』とあるから、前の注のリンク先附近。]
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