諸國里人談卷之二 鬼女
○鬼女
享保のはじめ、三河國保飯(ほいの)郡舞木(まひき)村、新七といふものゝ女房【「いわ」と云〔いふ〕。年、二十五。】、京都より具して來りけるが、常に心、尖(するど)にして、唯、狂人のごとくなるに、夫、これを倦(あき)て、出奔しけり。其跡をしたひ、遠州新井まで追來りけれども、御關所を通る事、あたはず、むなしく歸りしが、有し所に住(すん)で、益(ますます)、瞋恚(しんい)の焰(ほのを[やぶちゃん注:ママ。])、さかんにして、亂心のごとくなり、折節、隣家(りんか)に死せるものあり。田舍の習ひにて、あたり近き我(わが)林の中にして、火葬しける。彼(かの)女、此所に行〔ゆき〕て、半燒(なかばやけ)たる死人(しにん)を引出〔ひきいだ〕し、腹を裂(さき)、臟腑をつかみ出〔いだ〕し、飯子(めしつぎ)やうの器(うつは)に入〔いれ〕て、素麺(さうめん)などを喰(くふ)ごとくに喰ひ居〔を〕る所へ、施主のもの、火のありさまを見に來り、此躰(てい)を見て、大きに驚き、村中、棒・滕木(ちぎりき)にて、これを、追ふ。女、大〔おほき〕に怒(いか)り、「かほど、味(あぢは)ひよきもの、汝等もくらふべし」と、躍り狂ひて、蝶鳥(ちやうとり)のごとく翔翔(かけり)て、行方(ゆきかた)なくなりぬ。その夜、近き所の山寺に入〔いり〕て、例のごとく、持(もち)たる器(うつは)より、肉を出〔いだ〕して、喰(くら)ふ。僧侶、驚き騷ぎ、早鐘(はやがね)にて里へしらせければ、村民、翔(かけ)あつまる。彼女、此躰(てい)を見て、「また、爰(こゝ)もさはがし」とて、後〔うしろ〕の山の、道もなき所を、陸路(ろくち)を行〔ゆく〕ごとく缺登(かけのぼり)て、失(うせ)ぬ。生(いき)ながら、鬼女となりたる事、目代(もくだい)へ訴へければ、件(くだん)を事書(じしよ)にして、村々へ觸られけるなり。
[やぶちゃん注:「享保のはじめ」享保は一七一六年から一七三六年まで。
「三河國保飯(ほいの)郡舞木(まひき)村」「保飯郡」は八世紀の律令制以降は「寶飫(ほお)郡」であったが、これが「寶飯(ほい)郡」と誤記された。しかし「舞木村」は不詳。表記の誤りが疑われるが、事件が猟奇的なだけに、これ以上、探索するのはやめておく。
「遠州新井」現在の静岡県湖西市新居町。浜名湖海開部の西岸。ここ(グーグル・マップ・データ)。同地区内に「新居関跡」がある。ここ(グーグル・マップ・データ)。正式名称は「今切関所(いまぎれせきしょ)」。
「飯子(めしつぎ)」飯櫃(めしびつ)。おはち。
「滕木(ちぎりき)」ウィキの「契木術」によれば、『契木(ちぎりき)は、樫などの堅い木の棒に鉄製の石突と鎖分銅がついた武具・捕具で』、『鎖は、単に棒の先端に固定されているものと、棒の中の空洞に収まっていて振り出し式になっている振り杖と呼ばれるものがある。分銅で相手を打ったり、巻きつけて動きを封じるといった使用法がある』。『また、ほぼ胸の高さに達する長さ(ほぼ四尺:』一メートル二十センチ『前後)であることから「乳切木」とも表記される。「諍い果てての棒乳切木」という慣用句が示すように、かつての農村における喧嘩の道具としては』、『棒と並んで一般的なものであった。ただし、日常的には重い物の運搬時に肩にかける棒や』、『物の重さを計測するために使用される民具であり、鎖分銅を取り付けた「乳切木」は武芸に使用するために改造されたものである』。『武器として使用されるに至る歴史には不明な点が多く、特殊な武術といえる。鎖鎌と同じく一流派としては独立することなく、あくまでも総合武術の一部として取り入れられ、長さも使用者によりまちまちであった』とある。
「陸路(ろくち)」ここは平地の意味であろう。
「目代(もくだい)」代官。
「事書(じしよ)」要件を箇条書きにした文書。]