諸國里人談卷之二 ㊃妖異部 成大會
㊃妖異(よういの)部
○成二大會一(たいゑをなす)
永承の頃、西塔(さいとう)の僧、京に出て、歸るに、東北院の北の大路にて、童部(わらんべ)ども、あつまり、古鳶(ふるとび)を縛りからめて、杖にて打〔うつ〕などしけり。此僧、慈悲を起して、扇などを童どもにやりて、鳶を乞(こひ)て、放しやりけり。その行先の藪の中より、異(こと)なる法師、出〔いで〕て、いふ。
「先ほどは、御憐(あはれみ)を以て、からき命をたすかり侍る。その禮を謝せん。」
となり。
僧、おもひよらず、
「さる事は侍らず。人や違ひ侍らん。」
「さこそはおほすらん、東北院の大路にて、うき事見たる古鳶なり。吾、神通(じんづう)を得たれば、此よろこびに、何事なりとも、御望みに任(まか)すべし。」
となり。
さては、たゞの鳶にてはあらざるをさとり、
「我、出家の事なれば、世に望む事なし。しかし、釈迦如來、靈山(りやうせん)にて說法し給ひし粧(よそほ)ひを見せ給へ。」
と云〔いふ〕に、
「いとやすき事なり。」
とて、下松(さがりまつ)のうへの山に具して登り、
「茲(こゝ)に目を閉(とぢ)て居給ひ、說法の御聲(みこへ[やぶちゃん注:ママ。])、きこえん時、ひらき給へ。かならずしも、『貴(たつと)し』と思ひ給ふまじ。信を起し玉はゞ、己(わ)がために、惡(あし)し。」
と云〔いひ〕て、去りぬ。
しばらくありて、御法(みのり)の聲、聞えければ、目をひらくに、山は、則(すなはち)、靈山となり、地は金瑠璃(こんるり)、草木は七重寶樹(しちぢうはふじゆ)となりて、釋尊、獅子の坐(ざ)にましまし、文殊・普賢、左右に座し、菩薩・聖衆(しやうじゆ)は雲霞のごとく、空より、四種(じゆ)の花ふり、芬芳(かんばしき)風、吹(ふい)て、天人、雲に列(つらなつ)て、微妙(みめう)の音樂を奏し、如來、甚深(たんしん)の法門を演說し給ふありさま、信、肝(きも)にめいじ、隨喜の淚をうかめ、渴仰(かつがう)の思ひ、骨に徹(とをり[やぶちゃん注:ママ。])、おもはず、掌(たなごゝろ)をあはせ、歸命頂禮(きめうてうらい)するほどに、山、鳴動して、ありつる大會(たいゑ)、かき消すごとくに失(うせ)て、たゞふかき山中也。
あるべきにあらねば、山に皈(かへ)るに、水飮(みづのみ)の程に、ありつる法師、來り、
「さばかり、『信を發(おこ)し給ふな』と契(ちぎ)りしに、その約、たがへ給ふにより、護法天童(ごほうてんどう)くだり給ひ、『斯(か)ばかりの信者を誑(たぶら)かすぞ』とて、われらを禁(いま)しめ給ふより、伴ふ小法師原(ばら)も迯(にげ)さりぬ。我もからきめにあひて、術(じゆつ)なし。」
といひて、去りぬ。【「本朝語園」。】
[やぶちゃん注:特異的に改行を施した。
「大會」一般には規模の大きい法会(ほうえ)を指すが、ここは特別に如来となった釈迦自身の説法を指している。
「永承」一〇四六年から一〇五二年まで。後冷泉天皇の御世。
「西塔(さいとう)」比叡山延暦寺の西塔地区のこと。転法輪堂(釈迦堂とも呼ぶ)を中心とした比叡山の主要な三地区の一つ(他は南直近の東塔と北方の横川(よかわ))。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「東北院の北の大路」「東北院」は現在、京都市左京区浄土寺真如町にある、時宗の雲水山東北院であるが、この当時は現在の京都市上京区荒神口通寺町東入の北側(現在の京都御所の東(大内裏直近外側の鴨川右岸縁)にあった天台宗法成寺(ほうじょうじ:平安中期に藤原道長によって創建された摂関期最大級の寺院であったが、鎌倉時代に荒廃し、現存しない)に付属する天台宗寺院であった。なお、この東北院は道長の娘で一条天皇中宮であった、かの上東門院彰子所縁の寺である。従って、この「北の大路」とは大内裏北端の一条大路から一本北へ下がった大路である土御門大路と考えられる。
「古鳶(ふるとび)」年老いたトビ。タカ目タカ科トビ属トビ Milvus migrans 。
「異(こと)なる法師」甚だ異様な感じのする僧。後の原話で判るが、これは実は妖魔の天狗である。従がってここでの装束は高い確率で山伏姿と考えてよい。
「靈山(りやうせん)」「りやうぜん(りょうぜん)」とも読む。霊鷲山(りょうじゅせん)の略称。インドのビハール州のほぼ中央にあり、釈迦がここで「無量寿経」や「法華経」を説いたとされる。「鷲峰山(しゅうぶせん)」とも別称し、本邦に見られる同名・類似の山名はこれに擬えたものが多い。
「粧(よそほ)ひ」情景。
「下松(さがりまつ)のうへの山」これは「一乗寺下り松(いちじょうじさがりまつ)」のことであろう。現在、京都市左京区一乗寺花ノ木町にある(ここ(グーグル・マップ・データ))。平安の昔から、近江から京に通じる交通の要衝。「一乗寺」は平安中期から南北朝頃までこの地にあった一乗寺に因む。ここから東直近から東北の先の比叡山に向かっては、多数の「一乗寺」を冠した稜線や谷が多数連続する。
「己(わ)がため」後に見るように、この異形僧自身のため。
「御法(みのり)」説法の尊称。ここはまさに釈迦本人の声(と聴こえるだけだが)であるから、僧にとっては殊更に格別である。
「金瑠璃(こんるり)」色ではなく、仏教の七宝の一つ金緑石のこと。実在するラピスラズリ(lapis lazuli)とする説もある。
「七重寶樹(しちぢうはふじゆ)」歴史的仮名遣は正しくは「しちぢゆうほうじゆ」。極楽浄土にあるとされる金樹・銀樹・瑠璃樹・玻璃樹・珊瑚樹・瑪瑙樹・硨磲(しゃこ)樹が、七重にも並らび生えた宝樹林、又は、黄金の根・紫金(しこん)の茎・白銀の枝・瑪瑙の条・珊瑚の葉・白玉の花・真珠の果実から成った宝の木とも言われる。
「獅子の坐(ざ)」場の上座のこと。
「菩薩・聖衆(しやうじゆ)」諸菩薩及び声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)或いは比丘などの多くの修行者や聖者の集団を指す。
「四種(じゆ)の花」「四華・四花(しけ)」で、仏の説法などの際に、瑞兆 として天から降るとされる四種類の蓮 の花。白蓮華・大白蓮華・紅蓮華・大紅蓮華とされる。
「芬芳(かんばしき)」二字へのルビ。
「微妙(みめう)」すこぶる趣深く、非常に繊細であること。
「甚深(たんしん)」古くは「じんじん」とも読んだ。非常に奥が深いこと。意味や境地などが深遠であること。
「信、肝にめいじ」自身の「信」仰の正しさを確かにしっかりと受けとめ、それを「肝に銘じ」たのである。
「歸命頂禮(きめうてうらい)」頭を地につけて仏を礼拝し、帰依の気持ちを表わすこと。
「山」比叡山。
「皈(かへ)るに、水飮(みづのみ)の程に」舌っ足らずである。「皈(かへ)る」さ「に、水、飮」まんと休まんとせし「程に」、突如、である。
「ありつる法師」「ありつる」は連語(ラ変動詞「あり」連用形+完了の助動詞「つ」の連体形)で比較的近い過去にあったことを示す。さきほどの法師。
「さばかり」副詞。「それほど・その程度に」「たいそう・非常に」。ここは「あれほど」の意。
「護法天童(ごほうてんどう)」護法善神。仏法に帰依して三宝を守護する、主に天部の神々。のこと。しばしば童子姿で語られたり、造型されたりすることから、護法童子・護法天童などの呼び名で名指すことが多い。
「原(ばら)」複数を表わす接尾語。天狗の眷属。
「術(じゆつ)なし」どうしようもなく、困り果てている。
「本朝語園」筆者不詳の全十巻からなる随筆。宝永三(一七〇六)年板行。但し、ここに出る話は、鎌倉中期に成立した教訓説話集「十訓抄」の「第一 可定心操振舞事」(心の操(みさを)を定むべき振舞(ふるまひ)の事」の中の一条である。実は私は既に『柴田宵曲 續妖異博物館 「佛と魔」(その1)』の注で原典を電子化している(リンク先には宵曲の現代語訳が載る)が、煩を厭わず、以下、三種の諸本を参考に私が独自に読み易く操作したものを示す。
*
後冷泉院御位(みくらゐ)の時、天狗あれて、世の中さはがしかりけるころ、比叡山の西塔にすみける僧、あからさまに京に出でて歸りけるに、東北院の北大路に、わらはべ五六人あつまりて、古鳶(ふるとび)のよにおそろしげなるを、しばりからめて、棒もて打さいなみけり。
「あらいとほし。などかくはするぞ。」
といへば、
「殺して、羽とらむ。」
と云ふ。この僧、慈悲をおこして、扇をとらせてこれをこひうけて、ときゆるしやりつ。
「ゆゆしき功德造行(くどくざふぎやう)。」
と思ひて行くほどに、切堤(きれつつみ)のほどに、いやうなる法師のあゆみいでて、おくれじと步みよりければ、けしきおぼえて、片方(かたへ)へたちよりて、過ぐさむとしけるとき、かの法師、ちかくよりていふやうは、
「御あはれみ蒙(かうぶ)りて、命生きてはべれば、その悦び、きこえむとてなん。」
など云ふ。たちかへりて、
「えこそおぼえね。誰人(たれひと)にか。」
と、とひければ、
「さぞおぼすらむ。東北院の北の大路にて、辛き目みて侍りつる老法師(らうはうし)に侍り。生きたるものは、いのちに過ぎたるものなし。とばかりの御心ざし、いかでか報じ申さざらん。しかれば、なにごとにても、懇ろなる御ねがひあらば、一事(ひとこと)叶へ奉らむ。小神通(せふじんつふ)をえたれば、なにかはかなへざらん。」
と云ふ。
「あさましく、めづらかなるわざかな。」
とむづかしくおもひながら、
「こまやかにいへば、やうこそあらめ。」
と思ひて、
「われはこの世の望み、さらになし。年七拾になれりたれば、名聞利養(めうもんりよふ)もあぢきなし。後世(のちのよ)こそおそろしけれど、それはいかでかかなへ給ふべき。されば申すにをよばず。但し、『釋迦如來の、靈山にて法をときたまひけむこそ、いかにめでたかりけめ』とおもひやられて、朝夕(あさゆふ)心にかけて見まほしくおぼゆれ。其ありさま、まなびて見せたまひてんや。」
といふ。此法師、
「いとやすき事也。さやうのものまねするを、おのれが德とせり。」
といひて、さがり松の上の山へぐしてのぼりぬ。
「ここにて目をふさぎてゐ給へ。佛の說法し給ひてん聲のきこえんとき、目をば見あけ給へ。但し、あなかしこ、貴(たふと)しとおぼすな。信(しん)だにも起こしたまはば、をのれがためあしかりなむ。」
といひて、山の峯のかたへのぼりぬ。とばかりして、法(のり)の御こゑきこゆれば、目を見あけたるに、地、紺瑠璃となりて、木は七重寶樹となりて、釋迦如來、獅子の座上(さしやう)におはします。普賢・文殊、左右に座したまへり。菩薩・聖衆、雲霞のごとく、帝釋・四王・龍神八部、掌(たなごころ)を合せて圍繞(いにやう)せり。迦葉・阿難等の大比丘衆一面に座せり。十六大國の王、玉冠を地に付けて恭敬(けうけい)し給へり。空より四種(ししゆ)の花降りて、かうばしき香四方にみちて、天人、空につらなりて、微妙(びめう)の音樂を奏す。如來、寶花(ほうげ)に座して、甚深(じんじん)の法門を宣りたまふ。そのこと、大かた、こころもことばも及びがたし。しばしこそ、
「いみじくまねび似せたるかな。」
と、興(けふ)ありて思ひけれ。さまざまの瑞相(ずいさう)を見るに、在世の說法の砌(みぎり)にのぞみたるがごとく、信心、忽ちに起こりて、隨喜のなみだに浮かび、渇仰(かつがう)の思ひ、骨にとをるあひだ、手を合せて心をひとつにして、
「南無歸命頂禮大恩敎主釋迦如來。」
と唱へて恭敬禮拜(らいはい)するほどに、山、おひただしくからめきさはぎて、ありつる大會(たいくわい)、かき消(け)つやうに失せぬ。夢のさめたるがごとし。
「こはいかにしつるぞ。」
と、あきれまどひて見まはせば、もとありつる山中の草深(くさふか)なり。あさましながら、さてあるべきならねば、山へのぼるに、水のみのほどにて、この法師、出で來て、
「さばかりちぎりたてまつりしことをたがへたまひて、いかで信をばおこし給へるにか。信力(しんりき)によりて、護法天童(ごはふてんどう)下り給ひて、『かばかりの信者をば、みだりにたぶろかす』とて、われら、さいなみ給へる間、雇ひ集めたりつる法師ばらも、からき肝つぶして逃げ去りぬ。をのれ、片羽(かたはね)がひ、打たれて、術(じゆつ)なし。」
といひて、失せにけり。
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