諸國里人談卷之二 水口石
○水口石(みなくちいし)
近江國石橋に「高嶋の大井子(〔おほゐ〕こ」と云〔いふ〕、隱れなき大力〔だいりき〕の女、ありける。田へ水を引〔ひく〕ころ、里人(さとびと)、水を論じ、大井子が田へは水を入ざりける。大井子、安からずおもひ、一夜(あるよ)、六、七尺ばかりの大き成(なる)石を持來(もち〔きた〕)り、水口(みなぐち)に置(をき[やぶちゃん注:ママ。])て、あらぬ所へ、水を流しける。明(あけ)の朝(あさ)、里人、これを見て、大きにおどろき、退(しりぞけん)とすれども、中々、百人ばかりにては、たやすく動かすべきにあらず。水下(みづしも)、おほくの田、水、涸(かれ)て、難儀に及びしかば、一同に降(かう)して、「今よりは、心のまゝに水をまかすべし」と也。「さこそ侍らん」と、件(くだん)の石を、くるしからぬ所へ、引退(ひきのけ)ける。是を「大井子が水口石」とて、今にあり。
[やぶちゃん注:これはまず、土地としては、女の呼称の頭の部分「高嶋」を含んで、現在の滋賀県高島市安曇川町(あどがわちょう)内で、同町の三尾里(みおさと)にある安閑(あんかん)神社(ここ(グーグル・マップ・データ))の境内に、大井子伝承の「力石(水口石」として現存している。而して、彼女は、実は「古今著聞集」の「卷第十 相撲强力(すまひがうりき)」の三七七話の「佐伯氏長、强力の女高島の大井子に遇ふ事 幷びに 大井子、水論にて初めて力を顯はす事」に登場する、古い、美しい怪力女なのであり、沾涼のこの記載も明らかに「古今著聞集」に依拠したものと思われる。以下に原文を出す(底本は新潮日本古典集成版を参考に、恣意的に漢字を正字化して示した)。
*
佐伯氏長[やぶちゃん注:伝未詳。]、はじめて相撲の節(せち)にめされて、越前國よりのぼりける時、近江國高島郡石橋を過ぎ侍りけるに、きよげなる女の、河の水を汲みて、みづからいたゞきて行く女ありけり。
氏長、きと[やぶちゃん注:ちらっと。]見るに、心うごきて、たゞにうち過ぐべき心ちせざりければ、馬より下りて、女の、桶とらへたるかひなのもとへ、手をさしやりたりけるに、女、うち咲(わら)ひて、すこしも、もてはなれたる[やぶちゃん注:嫌がって避ける。]けしきもなかりければ、いといと、わりなく覺えて、腕(かひな)を、ひしとにぎりたりける時、桶をば、はづして、氏長が手を、脇に、はさみてけり。
氏長、興ありておもふほどに、やや久しくなれども、いかにも、この手を、はなたざりけり。
ひきぬかんとすれば、いとゞつよくはさみて、すこしも、引きはなつべくもなければ、力をよばずして、おめおめと、女の行くにしたがひてゆくに、女、家に入りぬ。
水、うちをきてのち、手をはづして、うちわらひて、
「さるにても、いかなる人にて、かくは、したまへるぞ。」
といふ。
氣色・事がら、ちかまさりして、たへがたく覺えけり。
「われは越前國の者なり。相撲の節といふ事ありて、力つよきものを國々よりめさるる中に入りて、參るなり。」
とかたらふを聞きて、女うなづきて、
「あぶなき事にこそ侍るなれ。王城はひろければ、世にすぐれたらん大力も侍らん。御身も、いたくのかひなしにてはなけれども[やぶちゃん注:全くの弱虫ではないけれど。]、さほの大事に逢ふべき器(うつは)にはあらず。かく見參しそむるも[やぶちゃん注:このようにあなたにお逢いしたということも、これ。]、然るべき事なり。かの節の期(ご)、日、はるかならば[やぶちゃん注:節会の本番が未だ先のことであるのなら。]、こゝに、三七日(みなぬか)[やぶちゃん注:二十一日で「二十日ばかり」の意。]逗留し給へ。其程に、ちと、とりかひたてまつらむ[やぶちゃん注:「取り飼ふ」で「お世話して、力をつけて差し上げましょう」の意。]。」
といへば、
「日數もありけり、くるしからじ。」
とおもひて、心のとどまるままに、いふにしたがひて、とどまりにけり。その夜より、こはき飯をおほくして、くはせけり。
女、みづから、其飯をにぎりてくはするに、すこしも、くひわられざりけり。
はじめの七日は、すべてゑくひわらざりけるが、次の七日よりは、やうやう、くひわられけり。
第三七日よりぞ、うるはしうはくひける。
かく三七日が間、よくいたはりやしなひて、
「いまはとくのぼり給へ。此うへは、『さりとも』とこそおぼゆれ[やぶちゃん注:ここまでなったからには、『もう、まず、負けることはない』と思いますから。]。」
といひて、のぼせけり。
いとめづらかなる事なりかし。
件(くだん)の「高島のおほゐ子」は、田など、おほく、もちたりけり。
田に水まかする比(ころ)、村人、水を論じて、とかくあらそひて、「おほゐ子」が田には、あてつけざりける時、「おほゐ子」、夜にかくれて、おもてのひろさ、六、七尺[やぶちゃん注:一メートル八二センチ~二メートル十二センチ。]ばかりなる石の、四方なるをもて來たりて、かの水口にをきて、人の田へ行く水をせきて、我が田へゆくやうに橫ざまに置きてければ、水、おもふさまにせかれて、田、うるおひにけり。その朝、村人ども、見て、驚きあさむ[やぶちゃん注:呆れる。]事、かぎりなし。石を引きのけむとすれば、百人ばかりしても、かなふべからず。
「させば[やぶちゃん注:そのように多くの人々を呼んで動かそうとしたなら。]、田、みな、ふみそむぜられぬべし[やぶちゃん注:結果、田は散々に踏み荒らされてしまうことになってしまうぞ。]。いかゞせむずる。」
とて、村人、おほゐ子に降(かう)をこいて[やぶちゃん注:降参を願い出て。]、
「今より後は、おぼしめさむ程、水をば、まかせ侍るべし。この石、退(の)け給へ。」
といひければ、
「さぞ、おぼゆる。」[やぶちゃん注:そう致しましょう。]
とて、又、夜にかくれて、引きのけてけり。
其後は、ながく、水論する事なくて、田、やくる事、なかりけり。
これぞ、大井子が力、あらはしそむる、はじめなりける。
件(くだん)の石、「おほゐこが水口石」とて、かの郡(こほり)に、いまだ、侍り。【私(わたくし)云(いふ)、この「大井子」は何樣(いかやう)なるものとも見えず。尋ぬべし。】
*
なお、しかし、最後に一言言っておくと、沾涼が不可解なのは、この安閑神社には現在、奇っ怪な解読不能の絵文字のような刻印のある、通称「神代文字の石」と呼ばれる、遙かにぶったまげに奇体な石があるのに、それを併記していない点である(今は「力石(水口石)」と並んでおて、遮蔽物なしに見られるようだが、或いは当時はまだこの「神代文字の石」なるものは別なところにあった(或いはまだ橋石だった)ものか)。「びわ湖高島観光協会」の「高島市観光情報」の「安閑神社」にある解説版画像(クリックで拡大される)を翻刻すると(この解説版の前の方は、この大井子の「力石(水口石)」の説明文である)、
*
神代文字の石
字とも文字とも判別のつかない陰刻がされた石である。元は知らないで橋に使われていたというが、一説には古墳の一部ではなかったか、とも言われる。この陰刻の解明は未だなされていないが、この種の記号文字は神代文字と呼ばれ、不思議な歴史の貴重な遺産である。
*
私は神代文字論者の諸説を孰れも全く認めないが、しかし、このペトログリフ(petroglyph)=岩絵、なかなかに魅力的ではあるぞ!]