進化論講話 丘淺次郎 第十六章 遺傳性の研究(五) 五 突然變異説 / 第十六章 遺傳性の研究~了
五 突然變異説
親子兄弟の間でも幾らかの相違のあることは常であるが、稀には親とも兄弟とも飛び離れて著しく違つた者が生ずることがある。例へば普通の親から六本指の子供が出來るとか、普通の綠葉を持つた植物から白斑[やぶちゃん注:「しろふ」。]入りの變り物が出來るとかいふ類であるが、これ等は昔からたゞ變異中の特殊の場合と見倣すだけで、別に名稱も定めてなかつた。所が、ド・フリースは之に突然變異といふ新しい名を附け、性質が子孫に遺傳するのはこの類の變異のみであると論じ、之に依つて、生物各種の生じた原因を説明しようと試みた。突然變異説と呼ばれる今日名高い學説は卽ち之である。
[月見草 (右)原種(左)變種]
[やぶちゃん注:左の図が非常に暗いので、飛ぶほどに明るさを大きくした。種は段落末の後注参照。]
[羊齒の一種中に現れた著しい變異]
[やぶちゃん注:種は不明。]
[甲蟲の一種中に生ぜる最も著しい突然變異]
[やぶちゃん注:三図とも底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングし、補正して用いた(後の蝸牛も同じ)。昆虫は苦手なのだが、背部の独特の模様から見ると、甲虫(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目ハムシ(葉虫)上科ハムシ科レプチノタルサ属コロラドハムシ Leptinotarsa decemlineata か、その近縁種かなぁ?]
前にも述べた通りド・フリースは遺傳や變異のことを研究するに都合のよい植物を探して居るとき、不圖[やぶちゃん注:副詞「ふと」。]月見草の一種に面白い變異のあるものを見附け、早速之を大學の植物園に移して多年その研究に從事して居たが、突然變異説の根抵とする事實はこの間に得たことである。その大要を述べて見ると、澤山に植ゑた月見草の中から稀に一見して他と異なつたものが一二本生ずることがあり、これから種子を取つて蒔いて見ると、その性質が純粹に子孫に傳はつて、一の新しい品種を造ることが出來た。例へば葉の滑かなもの、雌蘂の殊に短いもの、莖が太くて節の短いもの、葉脈が紅色を帶びて居るもの、葉の色の薄いもの、全體に小形なものなど、樣樣な品種が出來たが、ド・フリースは、これから論を立てて、自然界に於ける生物各種の出來たのも、自然淘汰によつて長い年月の間に漸々變化して生じたのではなく、各種ともに初は月見草の各品種と同じく、一囘の突然變異で起つたものであると説いて居る。實はかやうな例は月見草で初めて知れた譯ではなく、ダーウィンの著書にも已に幾つか掲げてある。脚の短い羊や角のない牛の品種が、斯くして出來たことは、已に第三章に述べたが、その他にも上顎の短い牛、蹄の一つよりない豚など、飼養動物の方にも幾らかの例があり、また園藝植物の方には更に澤山ある。野生の動植物に於ける突然變異の例を一二擧げれば、羊齒類の一種には、上圖に示してあるやうな樣々の著しい變異を示すものがあり、アメリカに産する甲蟲の一種にも幾通りもの變異がある。その他探して見たら色々のものがあるに違ひない。然しながら概していふと、突然變異は比較的に甚だ稀なもので、ド・フリースも月見草を見附ける前に樣々の植物を培養して見たが、一つも著しい變異を生ずるものはなかつた。
[やぶちゃん注:「前にも述べた通り」「第十六章 遺傳性の研究(一) 序・メンデルとド、フリース」参照。そこで私はこの「月見草」をこの場合は、リンク先のド・フリースの前注で示した通り、フトモモ目アカバナ科
Onagroideae 亜科
Onagreae 連マツヨイグサ属マツヨイグサ Oenothera stricta に同定した。その後、マツヨイグサ類の品種改良史などを管見しても見ても、また、ここで改めて示された原種と変種の図を見ても、私は同定を変える必要はない、と考えている。挿絵の原種と変種の違いは、見る限りでは、草体上部に見られる花の蕾の形状に大きな違いが認められるようには思う。]
さてド・フリースは普通の變異のことを彷徨變異と名づけ、之と突然變異とは全く別種のものと見倣して、突然變異の方はその性質を子孫に遺傳するが、彷徨變異の方は決してその性質を子孫に傳へることはない。隨つて彷徨變異なるものは生物の進化には何等の關係もない。新しい種屬の起る源は、全く突然變異のみに限ると説いて居るが、多くの事實に照らし合せて見ると、之は餘程疑はしい。先づ第一に、所謂彷徨變異と突然變異との相違を考へて見ても、前者には極端から極端までの間に細かい移行があり、後者には全くかやうな移行がないといふが、之も材料を極めて多數に集めて見たらばどうであらうか。例へば月見草にしても、一植物園内だけから材料を取れば、葉の大小、莖の長短などの彷徨變異は、一本一本の間の相違は眞[やぶちゃん注:「まこと」。]に僅であるに反し、突然變異の方は他との相違が顯著であらうが、世界中の、月見草を殘らず比べて見たならば、所謂突然變異もやはり細かい移り行きの階段によつて原種と相繋がつて居るのではなからうか。また所謂彷徨變異の方でも個體の數の少い場合には、一個一個の間の相違はやはり幾分か一足飛びなるを免れず、時には相應に著しいこともあらう。突然變異といひ彷徨變異といふも、實は單に程度の問題で、程度の低い突然變異と極端な彷徨變異とは、到底區別が附くわけのものではない。また從來突然變異と名づけ來つたものの中には、無數に生じた變異を培養者が若干の組に分けて、その中から各組の模範と見倣すべきものを選り出して、互に最も相異の著しいものを竝べたやうな場合も少くない。前に例に擧げたアメリカ産の甲蟲なども之である。彷徨變異と突然變異とを嚴重に區別する人は、ダーウィンは突然變異を度外した如くに論ずるが、ダーウィンは變異といふ中に、無論所謂突然變異をも含ませて考へた、倂し突然變異なるものは生ずることが極めて稀であるから、人が特に之を保護して子孫を繼續させる場合の外は、恐らく忽ち他に壓倒せられて、その性質も後には殘らぬであらうから、生物種屬の進化には比較的重要なものでないと論じたのであつて、著者の意見は全く之と同じである。
[やぶちゃん注:「彷徨変異」(fluctuation)。環境変異(environmental variation)。或いは個体変異(差)。生育環境の差や発育の途上で起る偶然的要因などの影響により、同一生物集団内の個体間に生ずる量的変異。遺伝的変異と対する。一般に、変異の大きさは、ある値を中心に連続的に分布する。この変異は遺伝しない(以上は「岩波生物学辞典」)。以下、平凡社「マイペディア」の「彷徨変異」では、全く同じ遺伝子構成をもつ個体の集りの中で見られる形質の違い。一本の植物に実った種子の大小・軽重などが、その例であり、形質の変動は、ある値を中心として両側に次第に減少していく山形の曲線、所謂、正規分布を示す。山の両端、則ち、値の小さいもの、或いは、大きいものを採って、子孫の形質の変動を調べても、中心値は変わらず、再び、同様の曲線を示す。単一の遺伝子群が環境条件の影響のもとに生み出すところの表現型の確率論的な変異と解すべきもの。現在では、この語は、殆んど用いられない、とある。]
[蝸牛の變異]
また突然變異はその性質を子孫に遺傳するが、彷徨變異はその性質を遺傳せぬといふが、前にも述べた通り、低度の突然變異と極端の彷徨變異とは、區別が出來ぬのみならず、若し性質を子孫に遺傳する變異を總べて突然變異と見倣すならば、之と彷徨變異との區別は愈〻無くなつてしまふ。前にメンデルの分離の法則を述べるに當つて、例に擧げた蝸牛の二品種の如きも、彷徨變異の兩端に位するものであつた。卽ち圖に示す通り、樣々の移行の階段のある變異の中から最も相異なつたものを取つて、その間に雜種を造つて見たら、その殼の色、模樣などが、一定の規則に隨つて子孫に傳はつたのである。かやうな例は他にも素より澤山にあるが、之から推し考へると、所謂突然變異なるものは、變異中の極端な場合を指すのであつて、普通の變異とはたゞ程度が違ひ、種屬の平均の性質に比して相違が著しいだけに、その遺傳が培養者の目に觸れるのであらうと思はれる。
[やぶちゃん注:「前にメンデルの分離の法則を述べるに當つて、例に擧げた蝸牛の二品種の如き」こちらを参照。]
ド・フリースの説に對して、こゝに詳しい批評を試みることは出來ぬが、著者は決して全然之に反對するといふ譯ではない。突然變異が生物新種屬の生ずる原因と成ることも無論あるべき筈で、現に一囘の突然變異が基となつて、新しい品種の出來ることは、ド・フリースの實驗にもその他にも幾つも確な例がある。また天然に於ても、或る突然變異が生じた場合に、丁度それがその時の生活狀態に適し、且その性質が優勢を以て遺傳して、第二代以後に純粹な一變種を成すといふ如きことがないとは限らぬ。併しながら著者の考へによれば、たとひかやうな場合があるとしても、之はやはりダーウィンのいうた自然淘汰の中に當然含まるべきもので、決してその範圍以外の別種の現象とは見倣されぬ。同時に生じた多くの變異の中から、生存競爭の結果として、適者のみが生き殘ることを自然淘汰と名づけるのであるから、その變異が突然變異であらうとも、彷徨變異であらうとも、孰れも自然淘汰のために材料を供給するものなることに違ひはない。たゞ突然變異と彷徨變異とを強いて區別し、性質の遺傳するのは突然變異のみに限るといふ説に對しては、前に簡單に述ベた如き理由により、到底賛成を表することは出來ぬ。
[やぶちゃん注:現在でも突然変異を進化の原動力と考えている人がいるが、これは全くの誤りである。DNAやRNA上の塩基配列に変化が生ずる遺伝子突然変異や、染色体数や構造に変化が生ずる染色体突然変異は別だが、当たり前のことながら、多細胞生物の突然変異は生殖細胞で起こらない限りは遺伝はしない。]
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