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2018/06/08

大和本草卷之八 草之四 水松(ミル)

 

水松 本草陶弘景曰狀如松采而可食頌曰生海

 水中順和名抄云水松如松而無葉和名美流

 又曰海松○性寒虛冷人不可食石花菜ヲミルト

 訓スルハ恐クハ非ナラン

 

○やぶちゃんの書き下し文

「水松(ミル)」 「本草」、『陶弘景曰はく、狀〔かたち〕、松のごとし。采〔(と)〕りて食ふべし。頌〔(しよう)〕曰はく、海水の中に生ず。」』〔と〕。順「和名抄」に云はく、『水松、松のごとくして、葉、無し。和名「美流(ミル)」、又、曰はく「海松」。』〔と〕。○性、寒。虛冷の人、食ふべからず。「石花菜」を「ミル」と訓ずるは、恐〔ら〕くは、非ならん。

 

[やぶちゃん注:緑藻植物門アオサ藻綱イワズタ目ミル科ミル属ミル Codium fragile。田中次郎著「日本の海藻 基本284」(二〇〇四年平凡社刊)によれば、属名は「羊毛状の」、種小名は「脆(もろ)い」。『本種は世界的に広く分布』し、直径五ミリメートルほどの『円柱状の枝が規則正しく二叉分枝をして、全体の形がマツの木のように末広がりになる』。『ビロードのような手触りで』、本邦では「万葉集」にも『ミルを題材にした歌が詠まれており、古代からよく知られている海藻である。日本固有の色に海松色とあるのは、この種の深緑色のことを指す』。『現在、一般的な食材とはいえないが、古くは献納品として朝廷などに供せられた。湯通しして酢の物や和え物にして食す。さらに淡水に浸して色を抜き、乾燥か塩蔵して保存する。韓国ではキムチを作る際に混ぜる食材である』とある。宮下章著「ものと人間の文化史 11・海藻」(一九七四年法政大学出版局刊)の「第二章 古代人の海藻」の「海松(ミル・ミルメ)」によれば、『ノリとならんで、伊勢神官では最も重視された海藻神饌である。延喜式によれば、ミルの貢納地は、伊勢神官と出雲大社の周辺の国々である。現存する数少ない風土記である、出雲、常陸、肥前の三カ国風土記も、申し合わせたようにこれをノリ、コルモハとともに海藻の三大重要産物としている。おそらく先史時代から大切にされたものに相違ないが、古代にもその貢納価値は第四位の高位にあった』。『支配階級にことのほか愛されたのは、その淡味もさることながら、詩歌管弦に明け暮れ、風雅な日々を送る余裕のあった彼等にとっては、その形状と美しい鮮線色に芸術が感じられたからではなかろうか。ミルを題材にした詩歌文学は、海藻中では最も多い』とされ、「万葉集」の「巻第二」の柿本人麻呂の妻恋いの長歌(一三五番。以下、「万葉集」和歌の一部は私がオリジナルに示したもので(参考底本は中西進氏の講談社文庫版)、宮下氏の表記とは一致しないことをお断りしておく)、

   *

つのさはふ 石見の海の 言(こと)さへく 韓(から)の崎なる 海石(いくり)にそ 深海松(ふかみる)生(お)ふる 荒磯(ありそ)にそ 玉藻は生ふる 玉藻なす 靡(なび)き寐し兒[やぶちゃん注:妻を指す。]を 深海松の 深めて思へど さ寐し夜は いくだもあらず 這ふ蔦の 別れし來れば 肝(きも)向かふ 心を痛み 思ひつつ かへり見すれど 大船の 渡りの山の 黃葉(もみちば)の 散りの亂(まが)ひに 妹が袖 さやにも見えず 嬬隱(つまごも)る 屋上(やがみ)の山の 雲間より 渡らふ月の 惜しけども 隱(かく)ろひ來れば[やぶちゃん注:妻のいる故里は見えなくなってしまったので。] 天(あま)つたふ 入日(いりひ)さしぬれ 丈夫(ますらを)と 思へるわれも 敷栲(しきたへ)の 衣(ころも)の袖は 通りて濡れぬ

   *

の一部を引かれ、次に巻第十三の「相聞歌」の一首(三三〇一番)、

   *

神風(かむかぜ)の 伊勢の海の 朝凪ぎに 來寄る深海松(ふかみる) 夕凪ぎに來寄る俣海松(またみる) 深海松の 深めしわれを 俣海松の 復(また)往き還り 妻と言はじか 思はせる君

   *

の一部、さらに知られた卷第五に載る山上憶良の「貧窮問答歌」から、以下の引かれ、

……綿も無き 布肩衣(ぬのかたぎぬ)の海松(みる)の如(ごと) わわけさがれる……

『とあるが、この方は綿も入っていないぼろ切れのような肩衣(かたぎぬ)の表現に、干しミルのしなびて見るも哀れな様子が使われたのだから、あまり賞められたものではない』と附言されている。続いて、『ミルメを「見る限」にかけて平安朝の美女、小野小町は、

   みるめ刈る蜑(あま)の往き来の湊路は

      勿来(なこそ)の関もわが末なくに

と歌っている。古今集には、

   伊勢のあまの朝な夕なに潜くてう

      みるめに人を飽く由もがな

がある。鮮緑色を歌ったのには古今集に、

   この頃の南の風に濃きみるの

      ようよう涼しあしのやの里  定家

がある』と引かれる。小町の歌は「新勅撰和歌集」(六五二番。前書は「題しらず」)の形で、「小町集」では、

   對面しぬべくやとあれば

 みるめかる海人の行きかふ湊路(みなとぢ)になこその關も我はすゑぬを

であり、お逢いしないと決めたわけでもありませんという含みを持ったもの。二首目は、「古今和歌集」の巻十四「戀歌四」にあるもので(六八三番。「よみ人しらず」)

 伊勢の海人(あま)の朝な夕なに潛(かづ)くてふみるめに人を飽(あ)く由もがな

で、上の句は「みるめ」の序詞で海松を引き出し、「逢う」の意の「見る目」を掛けて転じたもの。定家のそれは、「拾遺愚草員外」所収だが、「日文研」の和歌データベースでみると、

 この頃の南の風にうきみるよるよる涼しあしのやの里

のようである(私は「拾遺愚草」の活字本を所持しないので指摘するに留める)。

 また、『ミルの美しさの故に、それを水盤に入れて鑑賞する奥ゆかしさを持つ婦人もいた。『今昔物語』に載る哀話がそれである』として、「今昔物語集」巻第三十の「品不賤人去妻後返棲語第十一」(品(しな)賤しからぬ人、妻(め)去りて後、返り棲(す)める語(こと)第十一)を現代語訳して載せておられる。ここでは原文を示す。

   *

 今昔、誰(たれ)とは云はず、品、賤しからぬ君達、受領(じゆりやう)の年若き有けり。心に情(なさけ)有りて、故々(ゆゑゆゑ)しくなむ有りける。

 其の人、年來(としごろ)、棲みける妻を去りて、今めかしき人に見移りにけり。然れば、本(もと)の所を忘れ畢(は)てぬ。今の所に住みければ、本の妻、

『心踈(う)し。』

と思ひて、いと心細くて過ぐしける。

 男、攝津の國に知る所有りければ、遊ばむが爲に下りけるに、難波(なには)邊(わたり)を過ぎける程に、濱邊のいと(おも)しろきを見行(みあるき)けるに[やぶちゃん注:「」=「言」+「慈」。国字。]、蛤の小(ちいさ)やかなるに、海松(みる)の房やかにて生出(おひいで)たりけるを見付けて、

「此れ、極(いみ)じく興(きよう)有る物也。」

と思ひて、取りて、

「此れを我が去り難く思ふ人の許(もと)に遣りて、見せて興ぜさせむ。」

と思ひて、小舍人童(こどねりわらは)の然樣(さやう)の方(かた)に心得て仕(つか)ひけるを以つて、

「此れ、慥(たしか)に京に持て行きて、彼(かしこ)に奉れ。『此れが興有る物なれば、見せ奉らむとてなむ』と申せ。」

と云ひて遣(つかは)しければ、童、此れを持て行きて、思ひ違(たが)へて、今の所へは持(も)て行かずして、本の妻の家に持て行きて、

「此なむ。」

と云ひ入れたりければ、本の妻、いと思ひ懸けぬ程に、此く興有る物をさへ遣(おこ)せて、

「此れ、我が上(のぼ)るまで、失はで御覽ぜよ。」

と云ひ遣せたれば、

「殿は何(いづこ)に御(おはし)ますぞ。」

と問はすれば、童、

「攝津の國に御ますに候ふ。其れに、難波邊(わたり)にて、此れは御覽じ付けたる物を奉らせ給ひたる也。」

と云へば、本の妻、此く聞くに、怪しく、

『僻事(ひがごと)に所違へに持て來たるにや有らむ。』

と思へども、取り入れて、

「然(さ)承りぬ。」

と許(ばかり)云はせたれば、童、卽ち、走り返りて、攝津の國に行きて、主(あるじ)に、

「慥に承り候ひぬ。」

と云へば、主は、

「今の所に持て行きたるぞ。」

と知りて有けるに、彼の本の所には、此れを見るに、實(まこと)の興有る物なれば、盥(たらひ)に水を入れて前に竝べて、此れを入れて、興じ見居たりけり。

 而る間、男、十日許(ばかり)有りて、攝津の國より返り上りて、今の妻に、

「何(いつ)しか彼の奉りし物は侍りや。」

と、打ち咲(わら)ひて云ければ、妻、

「遣(おこせ)たり物やは有し。其れは何物ぞ。」

と云ければ、男、

「否や。小き蛤の可咲氣(をかしげ)なるに、海松の、房やかに生出たりしを、難波の濱邊にて見付けて見しに、興有る物也しかば、急ぎ奉りしは。」

と云へば、妻、

「更に然(さ)る物、見えず。誰を以つて遣(おこ)せ給ひしぞ。持て來たらましかば、蛤は燒きて食ひてまし、海松は酢に入れて食てまし。」

と云ふに、男、聞くに、思ひに違(たが)ひて、少し心月無(こころづきな)き樣(やう)也。

 然(さ)て、男、外に出て、遣(おこ)せし童を呼びて、

「汝は有し物をば、何(いづこ)に持て行きにしぞ。」

と問へば、童、思ひ違(たが)へて、本の所に持て行たる由を云へば、主、大きに嗔(いか)りて、

「速(すみや)かに、其れ、取り返して、只今、來(こ)。」

と責めれば、童、

「極(いみ)じき錯(あやま)ちをも、してけるかな。」

と思ひ驚きて、本の所に走り行きて、此の由を云ひ入れさせたりければ、本の人、

「然ればこそ、所違(ところたが)へ也けるにこそ。」

と思ひて、水に入れて見けるを、急ぎ取り上げて、陸奧紙(みちのくがみ[やぶちゃん注:上質の和紙。])に裹(つつ)みて返し遣りけるに、其の紙に、此くなむ、書きたりける。

  あまのつとおもはぬかたにありければ

       みるかひなくもかへしつるかな

と。

 童、此れを持て行きて、此く持て參りたる由を云ひければ、主、外に出でて、此れを取りて見るに、本の樣にて有れば、

「いと喜(うれ)しく失はずして有りける。」

と、心𢝴(こころにく)く思ひて、内に持て入りて披きて見れば、裹紙(つつみがみ)に此く書たり。

 男、此れを見るに、いと哀れに悲しくて、今の妻の、

「貝は燒て食てまし。海松は酢に入れて食てまし。」

と云ひし事、思ひ合はせられて、忽ちに心替りて、

『本の所に行きなむ。』

と思ふ心、付きにければ、やがて其の蛤を打ち具して行きにけり。

 定めて、其の今の妻の云ひし事、本の妻に語りける。

 然(さ)て、今の妻をば忘れて、本の所になむ住みける。

 情有ける人の心は、此(かく)なむ有りける。現(あらは)に今の妻の云ひけむ事、踈(うと)みてむかし。本の妻の情には、必ず、返り棲むべき事也けり、となむ語り傳へたるとや。

   *

宮下氏はこれに、『この当時、難波潟は清く美しい浜辺が続き、京の都から遊びに出かけ、貝拾いや海藻採りに打ち興じる者が多かったのである。ミルをとり、鑑賞する奥床しい人もいたが、『伊勢物語』に「家のめのこども出て、うき海松の波によせられたるひろひて、家のうちにもてきぬ。女がたより、そのみるをたかつきにもり、かしはをおほひて出し」たとあるように、高杯などに盛って出した生ミルを、酢の物にして食べていたのである。同書はさらに続けて、

  わだつ海のかざしにさすといはふもも

        君がためにはおしまざりけり

の歌を記している。古代の人々はミルの変らぬ色を愛し、それを高杯に盛り、それを水盤に入れて鑑賞し、髪にかざして祝にも使ったのであった』と当該項を終えておられる。「伊勢物語」のそれは、第八十七段のエンディングの部分である(アプローチが長いので引かない)。

 なお、私が以上で原作を多く途中に挟んだのは、衒学的目的ではなく、以上のような仕儀を施せば、著作権上の引用の許容足り得ると思ったからに過ぎない。当該書は海藻についての考証著作としては私は一番に推したいものである。是非、原典を御覧あれかし。

『「本草」、『陶弘景曰はく、狀〔かたち〕、松のごとし。采〔(と)〕りて食ふべし。頌〔(しよう)〕曰はく、海水の中に生ず。」』〔と〕』李時珍の「本草綱目」の巻十九の「草之八」のラストからなのだが、短いのに益軒はちゃんと引用していない。こういう態度は私はよろしくないと感ずる。

   *

水松【「綱目」】

集解弘景曰、「水松、狀、如松。」。頌曰、「出南海及交趾、生海水中。」。

氣味甘鹹、寒。無毒。

主治溪毒【弘景。】。水腫催生【藏器。】。

   *

「弘景」既出既注だが、再掲しておく。陶弘景(四五六年~五三六年)は六朝時代の道士で本草学者。道教茅山派開祖。漢方医学の基礎を築いた人物。前漢の頃に成立した中国最古の薬学書「神農本草経」を整序して五〇〇年頃に「本草経集注」を完成させた。この中で彼は薬物の数を七百三十種類と従来の二倍にし、薬物の性質などをもとに新たな分類法をも考案しており、この分類法は現在も使用されている(以上はウィキの「陶弘景」に拠った)。

「頌」既出既注だが、再掲しておく。蘇頌(一〇二〇年~一一〇一年)は宋代の科学者にして博物学者。一〇六二年に刊行された勅撰本草書「図経本草」の作者で、儀象台という時計台兼天体観察装置を作ったことでも知られる。

『順「和名抄」』既出既注だが、再掲しておく。平安中期に源順(したごう)によって編せられた辞書「倭名類聚鈔」。

「虛冷の人」既出既注だが、再掲しておく。虚弱体質、或いは、体温が有意に低下するような疾患に罹っている人、或いは、消化器系疾患等によって衰弱している人。

「石花菜」既に「大和本草卷之八 草之四 海藻類 心太 (ココロフト=トコロテン)」で述べた通り、天草(テングサ)類(紅色植物門紅藻綱テングサ目テングサ科 Gelidiaceae の総称であり、テングサという種は存在しない)やオゴノリ(於胡苔)類(紅藻綱オゴノリ目オゴノリ科Gracilariaceae 或いはオゴノリ属オゴノリ Gracilaria vermiculophylla)などの広汎な寒天原藻を指す漢語。『「石花菜」を「ミル」と訓ずるは、恐〔ら〕くは、非ならん』益軒先生、その通りです。]

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