諸國里人談卷之一 鬼押
○鬼押(おにおさへ)
勢州津の觀音堂に、每年二月朔日、修法(しゆほう)あつて、鬼押といふ事あり。此本尊は海中より出現の像なり。むかし竜神、これをおしみて、奪(うばひ)に來りしを、追〔おひ〕はらひける學びなりと云り。赤靑(しやくせい)の鬼の面(おもて)着〔つけ〕たるもの、二人、異形(いぎやう)の裝束を着〔き〕せ、左右に手引〔てびき〕とて、究竟(くつきやう)の力者(りきしや)、二人宛〔づつ〕、相從ひ、各〻手木(てぎ)を携へたり。後(うしろ)に、又、一人、褚熊(しやぐま)を被(き)たるもの、一人づゝ、帶にすがりて、兩鬼前後に連(つらな)り、堂の外を巡る事、三遍なり。浦方・濱方の者ども、數百人、樫(かし)の棒を、手〻〔てんで〕に持〔もち〕て、三度めぐるうちに、彼(か)の鬼を打〔うつ〕事也。左右の手引・尻付(しりつき)等(とう)は、敲(うつ)事をいましめ、鬼斗〔ばかり〕を敲(うつ)掟(おきて)也。左右の手引共〔ども〕、手木を以〔もつて〕、棒をはらひ、中々に打〔うた〕せざるなり。いかにもして此鬼を強く敲(うた)ば、其年、かならず、漁、おほし。打〔うち〕得ざれば、すくなし、といひつたへて、身命(しんみやう)をおしまず、打(うた)んずる事を、はかる。件(くだん)の鬼は、雇(やとは)れ人〔びと〕にて、もしは、打殺(〔うち〕ころ)されたりとも、違亂(いらん)あらざる極(きはめ)なりけり。同日、町中にては、浴衣(ゆかた)一衣(ゑ)に、髮を亂し、鉢卷をし、拔身(ぬきみ)の眞劔(しんけん)を持(もち)、十人、あるひは、二十人ほどづゝ、一むれ一むれに、「よいよい」といふて步行(あるく)なり。是もまた、龍神を追退(おいのけ[やぶちゃん注:ママ。])たる遺風也。俗に「觀音祭」と云ふ。
[やぶちゃん注:これは三重県津市大門にある津観音(つかんのん)(ここ(グーグル・マップ・データ))、正式には真言宗恵日山観音寺で嘗て行われていた「鬼押さえ」神事である。ここに記されたように、雇った鬼役を殺害しても問題としない暗黙の了解があったこと、初期には真剣が用いられ、実際に鬼役が殺されたこと、その後も死者が出たこと(後の引用参照)などを綜合すると、古形は豊漁を祈願するための、人身御供の原型を見てとることが可能である。ウィキの「津観音」によると、この寺は『伝承によれば、創建は奈良時代の初め』和銅二(七〇九)年)に『伊勢阿漕ヶ浦の漁夫の網に聖観音立像がかかり、これを本尊として開山したのが始まりであるとい』い、その陸揚げの際、『鬼が観音像を奪おうとした故事に由来する』神事であって、『観音像を奪いに来る鬼を』、『武士に扮した町役が刀等を持って退治する行事で、鬼をうまく追い払った年は、豊漁になるといわれたが、あまりの激しさに死傷者が出るほどであり、幕末に一時中止』され、明治四(一八七一)年には廃止されてしまった。昭和三十年代になって、「鬼押さえ豆まき」が行われるようになり、一九九七年になって「鬼押さえ行事」として復活、『現在は神刀に見立てた竹が使われている』とある。「倫理道徳に徹した美しき日本」なんぞを妄想する阿呆どもの中には私の見解に異論を挟む者もいるであろうが、例えば、この地元の「津観音」のパンフレット(PDF)には、『江戸時代に行われていた「鬼押さえ」という儀式』では、『境内に「鬼」(罪人)をはなして、武士に扮した浜の若者が真剣(刀)で切り付けるという残忍なものだったと』伝え、『あまりにヒドいということで、のちに真剣が青竹に代わり、罪人を境内に放つこともなくなったらしいが、「中止になったら不漁になった」ということで』(別資料によれば、事実、文政元(一八一八)年に当時の津藩第十代藩主藤堂高兌(たかさわ)により中止の命が下っている)、『復活』したとあり(別資料によれば、天保年間(一八三〇年~一八四三年に)復活している)、『ウソみたいだが、当時の絵「伊勢参宮名所図会」』(寛政九(一七九七)年刊)『にも描かれている』とあるのだ。嘘だと思うんなら、自分で調べてみな。ネットで簡単に手に入るぜ。
「手引〔てびき〕」鬼の配下役。
「究竟(くつきやう)」「屈強」。
「手木(てぎ)」短い棒。また、これは十手の異名でもあり、真剣を使った初期の祭事では鉄製のそれを持ったものかも知れない。
「褚熊(しやぐま)」吉川弘文館随筆大成版もこれで翻刻しており、ママ注記もないが、これはどう見ても、「赤熊・赭熊」(しゃぐま)の誤りであろう。例の兜の縅(おどし)や、能・歌舞伎で用いられる、赤く染めたヤクの尾の毛、或いは、それに似た赤い髪の毛の飾りカツラである。「褚」は「綿入れ」の意味しかないし、「褚熊」という熟語も私は見たことがない。
「帶にすがりて」鬼の垂らした帯にか。
「浦方・濱方」区別不詳。或いは前者を漁業従事者、後者を比較的海浜に近い地域に住む農業従事者でありながら、事実上は漁業による地域の権益を有意に得ていたそれらの民を指すか。
「左右の手引・尻付(しりつき)等(とう)は、敲(うつ)事をいましめ」やや表現に不全があるように思う。これは、もとは「左右の手引」や「尻付」の者たちは打ち込む民衆を誡(いまし)めて「打つな」と言ったり、打ち込むのを妨害する仕草をするか、或いは、鬼役がしょっぱなから深手を負わぬように(祭りの運営上という観点で安全保障ではない)することを言っているように私は読む。ところが、後の「鬼斗〔ばかり〕を敲(うつ)掟(おきて)也」から見ると、そこでは「鬼」以外の「左右の手引」や「尻付」の者たちは決して打たないように「いましめ」=禁じられており、の謂いにスライドしいるように読めてしまうからである。
「違亂(いらん)」「法に違反し、秩序を乱すこと」或いは「苦情を言うこと・反対すること」の意であるが、ここは一種の符牒で、「罪に問わないこと」の意である。
「極(きはめ)」暗黙の内の取り決め。これは雇った鬼役には、無論、伝えない。従がって、鬼役はこの「鬼押さえ神事」を知らない他国からの流れ者や浮浪民に限られるのである。これは、こうした生贄神事では極めて当り前の仕儀であり、近世まで、いろいろなところで実は普通に残っていて、行われていたのである。]