子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治三十三年 最後の写真撮影 / 明治三十三年~了
最後の写真撮影
『ホトトギス』はこの年十月を以て第四巻に達した。居士はこの雑誌に「『ホトトギス』第四巻第一号のはじめに」という一文を掲げ、その感想を述べている。その末段に東京の文学界は長く東京人の占むる所となっていることをいい、田舎から出て来た者が何年もかかって東京風俗を研究し、苦辛(くしん)して東京化して見たところが、畢竟第二流小説家となるに過ぎず、第一流は依然江戸児(えどっこ)の専有物になっている、文学界に東京閥が尊敬されることが久しいだけ、東京の文学がいよいよ腐敗して鼻持もならぬようになって来ることを論じた一節がある。
[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。「「子規居士」で校合した。]
兎に角我々の希望は都會の腐敗した空氣を一掃して、田舍の新鮮なる空氣を入れたいのである。東京言葉と衣服の流行が分らない者は小説家の資格が無いだの、戀でなければ文學でないだの、花は菫、蟲は蝶、此外には詩美を持つて居る花も蟲も無いだの、といふやうな、狹い、幼稚な不健全な思想を破つてしまひたい。流行は美でない、喝采は永久でない。我々は都會人士に媚びて新聞雜誌の上で賞められたくない。我々は斃(たふ)れて後に已(や)むの決心を以て進むばかりである。併しながら永く都會に住んで居ると自然と腐敗して來る事は世の中に實例が多い。萬一我々が都會の腐敗を一掃する前に軟化して勇氣が挫けたといふやうな事があつたら、其時には第二の田舍者が出て來て必ず我々の志を繼いでくれるであらうといふ事を信ずる。その第二の田舍者といふ奴は今頃何處かの山奧で高い木の上に上つて椎の實をゆすぶり落して居るかも知れない。
これは『ホトトギス』の使命を説くと共に、文学における居士の態度を闡明したものである。自己の病漸く篤きを知りながら、山の木に上って椎の実をゆすぶり落しているような継志者を思いやるあたりは、居士その人に触れるような気がする。
八月の喀血以前、居士は『ホトトギス』に掲げた「消息」で「小生近日元氣消耗甚しく候につき回復策として百二歳の賀筵(がえん)[やぶちゃん注:祝賀の宴席。]にても開かんかと存候。小生百二歳は明治百一年に當り候につき本年に繰上げ候はば六十八年前取りする譯に相成候。賀筵はまだ早退ぎると申す人も有之候へども小生は時期既におくれたりと存候。それにつき何か善き趣向もがなと考居候」といったことがある。百二歳賀筵の名は用いられなかったが、この年の誕生日(旧暦九月十七日)[やぶちゃん注:グレゴリオ暦では一九〇〇年十一月八日。子規は慶応三年九月十七日(一八六七年十月十四日)生まれ。]には碧梧桐、虚子、四方太、鼠骨の諸氏を招き、赤、青、黄、白、茶というような題を課して、各〻その色の食物か玩具を持寄る趣向とした。翌年の『仰臥漫録』にこの日の事を回顧して、
[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。「子規居士」で校合したが、そこではひらがながカタカナ表記で読み難いので、底本のひらがな表記を採用した。]
余は此日を非常に自分に取つて大切な日と思ふたので先づ魔の庭の木から松の木へ白木綿を張りなどした。これは前の小菊の色をうしろ側の雞頭の色が壓するから此白幕で雞頭を隱したのである。ところが暫くすると曇りが少し取れて日が赫(かつ)とさしたので、右の白幕へ五、六本の雞頭の影が高低に映つたのは實に妙であつた。
と書いてある。この会は非常に愉快であったらしい。
十一月以降、子規庵における和歌、俳句の例会は皆廃することになった。「なるべく靜養を旨としたる上にて病氣に多少の間あらば『日本』と『ホトトギス』との上に力を盡すべく、此新聞此処雜誌に小生の名現れ候間は六疊の病室に籠りてガラス越の日光を浴びつゝなほながらへ居候ものと御推察被下度候」などという「消息」を読むと、居士の身辺が俄に寂しくなったように思われるが、事実は必ずしもそうではない。日光へ紅葉を見に行った歌の仲間が、夜に入って二度まで居士を驚かしたようなこともあり、新嘗祭(にいなめさい)には雞頭闇汁会(やみじるかい)なるものが歌の方だけで催されてもいる。諸会廃するの後も『蕪村句集』輪講だけは隔月に子規庵で催すことになっていたし、少人数の山会(文章会)などは時に枕頭で開かれた。この年から病牀に煖炉(だんろ)を焚くことになったので、十一月三十日には煖炉据付祝(すえつけいわい)などということもあった。
[やぶちゃん注:「新嘗祭」本来は旧暦十一月二十三日に天皇が五穀の新穀を天神地祇に勧め、自らもこれを食して、その年の収穫に感謝する祭祀。神人共食の始まり。]
蕪村忌も例年通り催されたが、運座を廃することにした。写真撮影の際三十八人とあるから、前年よりやや少い勘定である。但(ただし)風が強かったため、居士は写真に加わることが出来ず、翌日単独に撮影した。現在最も広く行われている横向の写真がそれで、居士最後の写真となったわけである。
『寒玉集』及『寸紅集』が出版されたことも、この年掉尾(ちょうび)の出来事に数えなければなるまい。従来単行本になったものは、いずれも俳句方面のものに限られた。文章方面の収獲はこれを以て嚆矢とする。『寒玉集』の巻頭には『日本』に出た「叙事文」一篇が載せられた。
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