諸國里人談卷之三 ㊄山野部 富士
諸國里人談卷之三 菊岡米山翁著
㊄山野部(さんやのぶ)
○富士
駿河國富土山は、相傳ふ、孝靈帝五年に、一夜(や)に、地、坼(さけ)て、大湖(たいこ)となる。是、江州琵琶湖也。其土、大山(たいざん)となる。駿河の富士、是也。江州三上山(みかみやま)は、簣(あじか)より溢(〔あ〕ふれ)て成ル。故(かるがゆへ[やぶちゃん注:ママ。])に、其形、似たりと云々。每年六月、登山(とうさん)するに、百日の潔齋也。江州の人は七日の潔齋也と云。山の荒(ある)る時、近江の土を蒔(まけ)ば、則(すなはち)、鎭(しづま)るとなり。【當山の事、諸書に委〔くはし〕ければ略ㇾ之〔これをりやくす〕。】
[やぶちゃん注:以下の長歌部分は原典では全体が一字下げ。前後を一行空けた。清音は清音のままに表記した。後の二首も同じ処理をした。「万葉」「西行法師」は小さく書かれているが、同ポイントで示した。「西行法師」は下一字上げインデントであるが、引き上げてある。]
「万葉」
天地(あめつち)のわかれし時に神さひて高く導き駿河なるふしの高根を天(あま)の原(はら)ふりさけ見ればわたる日の影もかくろひてる月の光りも見えず白雲もいゆきはゝかり時しくそ雪は降(ふり)ける語りつきいひつきゆかんふしの高根を
秀吉公、朝鮮を征す時、加藤淸正、兀良哈(おらんかい)におゐて[やぶちゃん注:ママ。]、一人を捕(とら)ふ。名を「世琉兜宇須(せるとうす)」と云〔いふ〕。元、日本松前の人なり。風飄(ふうひやう)して、濟州(さいしう)にある事、二十年也。淸正、悦(よろこん)で導(みちびき)とす。改(あらため)て、後、「藤次郞」と号す。次郞が云〔いはく〕、「此地、天、晴(はる)る時は、富士を見るに、甚(はなはだ)ちかし」。
又、朝鮮人來朝の時、駿河にて富士をさして、「此山、我國に見ゆる」と云〔いふ〕。凡(およそ)、日本に富士にひとしき山、二ツあり。一ツは奧州津輕弘前(ひろさき)の南、岩城山(いはきやま)といふ高山あり。形、富士に違(たが)はず。
西行法師
ふし見てもふしとやいはんみちのくの岩城の山の雪のあけほの
又、薩州穎娃郡(ゑのゝこほり[やぶちゃん注:ママ。])に高山あり。「うつほ嶋」と云〔いふ〕。是、又、富士に同じ。
さつまかた穎娃(ゑの)の郡(こほり)のうつほ嶋これやつくしの富士といふらん
按(あんず)ルに、玆(こゝ)を以て見れば、朝鮮に見ゆるは「さつまふじ」なるべき歟〔か〕。
[やぶちゃん注:後に「富士山」とキャプションする本条の挿絵がある(①)。富士誕生伝承については、吉田信氏の論文「富士山と琵琶湖についての言い伝えをめぐって」(PDF)が非常に精緻で、必読。そこにしばしば引かれる江戸時代の文献として、浅井了意の「東海道名所記」(万治四・寛文元(一六六一)年頃刊)の一節が引かれてあるが、それを参考に漢字を正字化したりして示すと、
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諺(ことわざ)に、むかし、富士權現、近江(あふみ)の地をほりて、富士山をつくりたまひしに、一夜のうちに、つき給ヘり。夜、すでにあけゝれば、簣(もつこ)かたかたを、爰(ここ)にすて給ふ。これ、三上山なりといふ。さもこそあるらめ。いにしへ、孝靈(かうれい)天皇の御時に、此あふみの水うみ、一夜のうちに出(いで)きて、その夜に,富士山、わき出(いで)たり。その時しも、三上山も出來にけり。一夜の内に山の出(いで)き、淵(ふち)の出き、又は、山のうつりて、餘所(よそ)にゆく事、物しれる人々は、ふかき道理のある事也。故なきにはあらず、と申されし。
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で、次に今一つ、吉田氏は大坂の医師寺島良安の百科事典「和漢三才図会」を現代語訳で引くが、ここは氏の訳された当該原典部分を私が翻刻して示し、訓点に従って書き下したものを添える(因みに、私は同書の水族関連の八巻の電子化注をサイトのこちらで完遂しており、このブログでも「蟲類」(完遂)や「禽類」(作業中)を手掛けている)。同書は約三十年の歳月をかけて正徳二(一七一二)年頃に完成したものである。
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相傳孝靈帝五年始見矣蓋一夜地坼爲大湖是江州琶湖也其土爲大山駿州富士也【國史等無其事亦非無疑】四時有雪絶頂有烟江州三上山自簣溢成故形畧似富士
○やぶちゃんの書き下し文
相ひ傳ふ、「孝靈帝五年、始めて見る、蓋し、一夜に、地、坼(さ)けて、大湖と爲(な)る。是れ、江州の琶-湖(みづうみ)なり。其の土、大山と爲る。駿州の富士なり【國史等、其の事、無し。亦、疑ひ無きに非ず。】。四時、雪、有り。絶頂に、烟、有り。江州三上山は簣(もつこ)より溢(こぼ)れ成れる故、形、畧(ほぼ)富士に似れり。」と。
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以下、吉田氏はこの伝承の文献上のルーツを遡ろうとされるのであるが、この濫觴探索はなかなか難しく、残念ながら、探しきってはおられない。ともかくも、同論文に引用されている、博学こだわり倶楽部編「あっぱれ!富士山
日本一の大雑学」(二〇一三年KAWADE夢文庫刊)からの引用の孫引きでここは終わりたい(コンマは読点に代えた)。『富士山成立に関する伝説「日本一の山と湖」ではつぎのとおり。その昔、日本の神々が集まって、日本一高い山と日本一大きい湖をつくることにした』。『神々は日本一高い山をつくる場所を駿河(するが)国、制限時間を』一『日と決め,力自慢の神々が近江(おうみ)国から掘った土をもっこ(土石運搬に用いる道具)に入れて駿河国に運んだ。その土を盛(も)って山をつくろうというのだ』。『夕方からはじまった山づくりの作業は、明け方近くになって、あとひともっこで山ができ上がるところまできた。しかし,最後のひともっこを時間内に積み上げられなかった。そのため、富士山の山頂は尖(とが)った形でなく平らになってしまった』。『いっぽう、近江国の土を掘った跡地には日本一大きな琵琶湖ができた。積み上げられなかった最後の一杯の土は、琵琶湖近くにこぼれて近江富士となった』――どんとはらい――
「孝靈帝五年」「古事記」「日本書紀」に第七代天皇と伝える。西暦への機械的換算では、これは紀元前二八六年。
「江州三上山(みかみやま)」滋賀県野洲市三上にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。標高四百三十二メートル。一般に「近江富士」の別名で知られる。
「簣(あじか)」「あじか」と読むと「竹で編んだ籠や笊」を指すが、ここはしかし、この漢字の第一義である、「土砂を運ぶための運搬用の箕(み)や籠」のもの、則ち、「畚(もっこ)」のことである。
「天地(あめつち)の……」は「万葉集」巻第三「雜歌」の山部赤人の長歌(三一七番)である。添えられた有名な短歌(三一八番)も添えて示す。
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山部宿禰赤人(やまべのすくねあかひと)の不盡山(ふじのやま)を望める歌一首幷(あは)せて短歌
天地(あめつち)の 分(わか)れし時ゆ 神(かむ)さびて 高く貴(たふと)き 駿河なる 布士(ふじ)の高嶺(たかね)を 天(あま)の原 振(ふ)り放(さ)け見れば 渡る日の 影(かげ)も隱(かく)らひ 照る月の 光も見えず 白雲(しらくも)も い行きはばかり 時じくそ 雪は降りける 語り繼(つ)ぎ 言ひ繼ぎ行かむ 不盡(ふじ)の高嶺は
反歌
田子(たご)の浦ゆ打ち出いでて見れば真白にぞ不盡の高嶺に雪は降りける
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「い行き」の「い」は接頭語で、動詞に付いて意味を強める。悠々たるはずの白雲も高峰の富士の高嶺には流石に流れ泥(なず)んでしまい、の意。「時じくぞ」「時じ」で形容詞で「時を選ばない・時節にかまわない」の意。何時(いつ)と時を定めることなく、いつでも。
天地(あめつち)のわかれし時に神さひて高く導き駿河なるふしの高根を天(あま)の原(はら)ふりさけ見ればわたる日の影もかくろひてる月の光りも見えず白雲もいゆきはゝかり時しくそ雪は降(ふり)ける語りつきいひつきゆかんふしの高根を
「兀良哈(おらんかい)」後の旧満州、現在の中華人民共和国吉林省延辺朝鮮族自治州延吉市付近。ここ(グーグル・マップ・データ)。この元である「ウリャンカイ」(モンゴル高原北部周辺にいた民族集団の一つの呼び名)とは元来は興安嶺周辺の中国東北部北部からシベリア南部一帯の森林地帯に住んでいた狩猟民の総称であったと考えられ、現地のツングース語で「トナカイを飼育する民」を意味する発音などがモンゴル語風に訛ったものとも推測されており(ウィキの「ウリャンカイ」に拠る)、それに漢字を当てたものである。
「捕(とら)ふ」吉川弘文館随筆大成版は『捕ゆ』とする。採らない。
「世琉兜宇須(せるとうす)」この前後の話は、後、水戸藩の本草学者佐藤成裕(せいゆう 宝暦一二(一七六二)年~嘉永元(一八四八)年:号は中陵)が文政九(一八二六)年に書き上げた薬種物産を主としつつ、多様な実見記事を記録した見聞記「中陵漫録」の巻之三の「富士を望(のぞむ)」にも出る。吉川弘文館随筆大成版を参考に、恣意的に漢字を正字化し、読点を追加し、一部の歴史的仮名遣で読みを加えて示す。
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○富士を望
日本の高岳は富士より高大なるはなし。しかれども、是を望む事、二百里に過ず。奥州にては仙台の富の観音より、天晴を待(まち)て遙(はるか)に望む事、有り。故に此處を富と呼ぶ。此處を去(さり)て十里なれば、人の目、力及ばずして、望むと難(かたく)、見る事なし。西にては大阪より希に見る事、有り。大抵人の眼力にかぎりあればなり。然ども、濟州の世琉兜宇須は、本(も)と日本松前の人なり。彼(かの)國に至(いたり)て日本の富士を見る事、甚(はなはだ)近きに有(あり)と云ふ。此説、疑はし。若(もし)海を隔(へだて)て望めば、水氣に因(より)て見る事、有り。いまだ決しがたし。又、日本にても南部の富士、薩摩の富士、其外出羽の三山、鳥海山のごとき、富士に似たる高山、有り。此等を遠望して富士と見誤るか。異邦より望みし事は、甚だ疑はし。又、「五雑爼」に、天竺の雪山を見ると云ふ。雪山は二百里已外(いがい)に有りと見えたり。彼(かの)人の眼力も日本に相(あひ)同じ。甚だ遠ければ、絶(たえ)て見る事なし。此他、紀行の書にも、塞外の雪山、塞外の諸峰を見ると云説有り。此等も二百里已外と見えたり。
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「二百里」七百八十五キロメートルであるが、これはあり得ない。富士を中心とした円の直径としても三百九十二・五キロメートル圏内で見えることになるが(「仙台の富の観音」がどこを指すか私には不明だが、地図上は圏内には入るが)、これも事実とは異なる(仙台では見えないと思う)。こことか、ここのサイトで富士山の見える範囲が示されているが、単純な数理計算によれば、半径二百二十キロメートル圏内、大気の光学上の屈折作用からはその辺縁外側でも見られるとあり、最北可視位置は福島県相馬郡飯舘村の花塚山で(ここ(グーグル・マップ・データ))、現行で最も遠い可視位置としては、南西の和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある色川富士見峠(標高約七百メートル)とされ、距離は約三百二十三キロメートルである。ここ(グーグル・マップ・データ)。
なお、井上泰至・金時徳共著「秀吉の対外戦争 変容する語りとイメージ 前近代日朝の言説空間」(二〇一一年笠間書院刊)の金時徳氏の「朝鮮で加藤清正言説はどのように享受されたか」に『済州に漂着した「日本人」世流兜宇須は誰か』という章があるらしい。いつか立ち読みしたら、追記する。
と云〔いふ〕。
「風飄(ふうひやう)して」海上で暴風に遭遇して朝鮮半島へ漂着したということらしい。
「濟州(さいしう)」山東省にも旧済州
はあるが、ここは大韓民国の南に浮かぶ済州(チェジュ)島のことか。
「岩城山」「津軽富士」とも呼ばれる。標高千六百二十五メートル。
「ふし見てもふしとやいはんみちのくの岩城の山の雪のあけほの」「西行法師」とあるが、彼の歌集にはなく、彼の歌とも思われない(どうも本書に西行の歌として出るぐらいらしい)。一応、整序しておくと、
富士見ても不二とや言はむ陸奥の岩城の山の雪の曙(あけぼの)
か。
「薩州穎娃郡(ゑのゝこほり)」通常は「頴娃(えい)」と読む。薩摩国及び旧鹿児島県薩摩半島先端の西南部分で、現在の指宿市の一部(開聞(かいもん)各町)と南九州市の一部(頴娃(えい)町各町)に当る。位置は参照したウィキの「頴娃郡」の地図を見られたい。
「うつほ嶋」標高九百二十四メートルの「薩摩富士」開聞岳の別称の一つ(「うつぼ嶋」「空穗島」)。この名は貞觀一六(八七四)年にこの山で発生した「貞観の噴火」によって山頂に空洞(うつぼ)が生じたことに由来するものとされる。私が結婚したばかりの新妻と二人で完全登攀した(私は普通の革靴だった)唯一の山である。
「さつまかた穎娃(ゑの)の郡(こほり)のうつほ嶋これやつくしの富士といふらん」これは安土桃山から江戸初期の公家近衛信伊(のぶただ 永禄八(一五六五)年~慶長一九(一六一四)年)の一首である。ウィキの「近衛信尹」によれば、初名を信基・信輔と称し、号は三藐院(さんみゃくいん)。天正五(一五七七)年に『元服。加冠の役をつとめたのが織田信長で、信長から一字を賜り』、『信基と名乗る』。天正八年に内大臣、天正十三年には『左大臣となる。関白の位をめぐり』、『二条昭実と口論(関白相論)となり、菊亭晴季の蠢動で、豊臣秀吉に関白就任の口実を与えた。秀吉が秀次に関白位を譲ったことに』、『内心』、『穏やかではなく、更に相論の原因を作り、一夜にして』七百『年続いた摂関家の伝統を潰した人物として公家社会から孤立を深め』、それに『苦悩した信輔は、次第に「心の病」に悩まされるようになり』、文禄元(一五九二)年正月、『左大臣を辞した』。『幼い頃から父』(関白近衛前久(天文五(一五三六)年~慶長一七(一六一二)年:彼は関白職にありながら、永禄三(一五六〇)年に越後に下向、更に永禄四(一五六一)年の初夏には越山し、景虎の関東平定を助けるため、上野・下総に赴くなど、公家らしからぬ行動力をみせた。景虎が越後に帰国した際も危険を覚悟の上で古河城に残り、情勢を逐一、越後に伝えるなど、大胆かつ豪胆な人物であった)『とともに地方で過ごし、帰京後も公家よりも信長の小姓らと仲良くする機会が多かったために武士に憧れていたという』。『秀吉が朝鮮出兵の兵を起こすと』、文禄元(一五九二)年十二月には、『自身も朝鮮半島に渡海するため』、『肥前国名護屋城に赴いた。後陽成天皇はこれを危惧し、勅書を秀吉に賜って』、『信尹の渡海をくい止めようと図った。廷臣としては余りに奔放な行動であり、更に菊亭晴季らが讒言』『したため』、『天皇や秀吉の怒りを買い』、文禄三年四月、『後陽成天皇の勅勘を蒙』り、信尹は薩摩国の坊津に、三年間もの間、配流となってしまう(『その間の事情は』日記「三藐院記」に詳述されている)。京より四十五人の『供を連れ、坊の御仮屋(現在の龍巌寺一帯)に滞在、諸所を散策、坊津八景(和歌に詠まれた双剣石一帯は国の名勝に指定』『)、枕崎・鹿籠八景等の和歌を詠んだ。地元に親しみ、書画を教え、豊祭殿』の秋祭(現在の坊津町坊八坂神社の秋祭り。「坊ほぜどん」と呼ばれ、毎年十月第三日曜日に行われる。小京都風の振袖姿で「サイセンバコ」と呼ばれる桶を頭に掲げた少女たちの「十二冠女(じゅうにかんめ)」の行列で知られる)や、『御所言葉、都の文化を伝播。鹿児島の代表的民謡』である「繁栄節(はんやぶし)」の『作者とも伝えられる。また』、『この時期』、『書道に開眼したとされる』。『配流中の世話役であった御仮屋守噯(あつかい)・宮田但馬守宗義の子孫は「信」を代々の通字としている』。『遠い薩摩の暮らしは心細くもあった一方、島津義久から厚遇を受け、京に戻る頃には、もう』一、二年いたい旨、『書状に残すほどであった』。慶長元(一五九六)年九月、勅許が下り、京都に戻ったが、慶長五年九月の『島津義弘の美濃・関ヶ原出陣に伴い、枕崎・鹿籠』七『代領主・喜入忠政(忠続・一所持格)も家臣を伴って従軍』するも、九月十五日に敗北、『撤退を余儀なくされる。そこで京の信尹は密かに忠政・家臣らを庇護したため、一行は無事』、『枕崎に戻ることができた。また』、『島津義弘譜代の家臣・押川公近も義弘に従って撤退中にはぐれてしまったが、信尹邸に逃げ込んでその庇護を得、無事』、『薩摩に帰国した』。『信尹の父・前久も薩摩下向を経験しており、関ヶ原で敗れた島津家と徳川家との交渉を仲介し』、『家康から所領安堵確約を取り付けた』。慶長六(一六〇一)年に『左大臣に復職』、慶長十年七月には『念願の関白となる』。翌年十一月には『関白を鷹司信房に譲り辞するが、この頻繁な関白交代は秀吉以降』、『滞った朝廷人事を回復させるためであった』慶長十九年より、『大酒を原因とする病に罹っていたが』、同年十一月二十五日に薨去、享年五十であった。
歌を整序してみると、
薩摩潟穎娃(ゑい)の郡(こほり)のうつぼ嶋是や筑紫の富士といふらん
であろうが、幾つかの資料を見ると、
薩摩がた波の上なるうつぼ島これや筑紫の富士といふらむ
の表記も見る。前の句形は文化三(一八〇六)年序の「薩藩名勝志」が出典であるようだ。これ以上の検証は私には出来ない。悪しからず。
「按(あんず)ルに、玆(こゝ)を以て見れば、朝鮮に見ゆるは、「さつまふじ」なるべき歟〔か〕」という認定が出来る根拠が私にはさっぱり判らぬ。何方か、私に御教授あられたい。]