子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治三十二年 歌会における調子論
歌会における調子論
歌会は引続き催され、その結果は常に『日本』に発表された。はじめは兼題の歌を持寄り、席題の歌と共に当日これを選んでいたのを、十方の歌会から兼題は俳句の十句集と同じく、廻送して互選するとにした。歌会記事の特色は悉く居士の筆に成ったことと、兼題乃至席上の歌に対し、居士の批評が加えてあることである。俳句会の場合においても席上では種々の批評があり、十句集などの句に居士が批評を加えるのは珍いことでもなかったが、そういう批評じゃ概ね世の中に発表されずにしまった。居士が歌会の場合に自ら記事を書き、批評を加えることを怠らなかったのは、研鑽の迹を記録するというだけでなしに、居士の歌に関する意見を実例について世に示す意図があったものであろう。
十二月の歌会の題に「帝国議会」というのがあり、和田不可得(わだふかとく)氏が「すめろぎのまけのまにまにかしこみて國はからずば此國をいかに」という歌を詠んだところ、居士はこの一首について従来にない長い批評を書いた。「抑(そもそ)も昨年和歌革新の聲起りしより今日に至る迄の有樣を見るに、幾多革新派の人が和歌に於て最(もつとも)多く革新の必要を感ぜしは想の上に在りて調の上に在らず」といい、「東に倒れし者を起さんとして又西に傾かしむるは勢の免(まぬか)れざる所、何事を爲すに初期に於て必ず此弊を見る。獨り和歌に於て咎むべきにあらず、否咎むべきにあらざるのみならず、寧ろ必要なりしなり。然れども彼等は只病(やまひ)を救ふに急なるがために卽ち新思想を入るゝに急なるがために、其新思想を如何なる調にて歌はゞ可なるべきかといふ問題には未だ觸著[やぶちゃん注:「そくぢやく(そくじゃく)」対象に直(じか)に初めて触れること。]せざるが如し。こは我最遺憾とする所なり。想と調と孰れか重くして孰れか輕き、そは我れ答へ能はず。輕重は答へ能はずといへども、兩者共に必要にして偏廢する能はざるは論を挨たず。既に歌の一要素として存する間は、其歌を作るに調をなほざりにして、只三十一文字に綴るを以て滿足するが如きは到底完全なる歌といふべからず。自ら新派と稱する人の作歌に調のとゝのひたる者甚だ少きを見て、新派もなほいまだ不具を免れずと思へり」というのである。調子に関してはしばしば説があったが、この時ほど多くの言辞を費したことはなかった。調子を解せざるが故に、曙覧(あけみ)を「完全なる歌人たる能はざりき」と評した居士は、同じ標準を以て自家陣営に臨む時、やはり同様の感なきを得ぬ。たまたま不可得氏の歌の如く「趣向尋常にして調のとゝのひし者」が歌会の高点を得るのを見て、その傾向をよろこんだ結果、如是(かくのごとき)の言を吐いたのであった。
[やぶちゃん注:「和田不可得」和田性海(しょうかい 明治一二(一八七九)年~昭和三七(一九六二)年)は兵庫県出身の真言宗の僧。哲学館(現在の東洋大学)卒。不可得は号。御室(おむろ)派の伝道部主任として雑誌『みのり』を発行、昭和九(一九三四)年に高野山大学長、昭和二四(一九四九)年には金剛峰寺座主・高野山真言宗管長、昭和三三(一九五八)年に布教研究所長となった(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。]
十一月十三日、居士は本郷金助町に岡麓氏の新築を訪い、同十六日小石川原町に香取秀真氏を訪うた。病臥以来、居士の訪問する先は大体限定された観があったが、ここに至って歌の方の人を訪うという事実が新(あらた)に起るのである。いずれも午後から出かけて、夜に入って帰っている。こう続けて車上出遊を試み得たのは、あまり寒気が加わらぬためもあるが、「遊びあるく病の神のお留守もり」という句を見てもわかるように、この時分比較的健康の工合がよかったからであろう。この二度の外出は「本郷まで」「小石川まで」という歌入の文章となって『日本』に現れた。麓氏の許で見た古人の筆蹟、秀真氏のところで見た鋳物(いもの)のくさぐさなど、共に居士をよろこばせた。帰来秀真氏に寄せた端書(はがき)の歌の中に「我口に觸れし器は湯をかけて灰すりつけてみがきたぶべし」というのがあり、特に圏点がつけてあったのは、はじめて訪問した家に対する居士の心遣いを見るべきものである。病人としての居士のこういう注意は、翌三十三年一月の『ホトトギス』の消息に、かなり委しく述べてある。
[やぶちゃん注:「本郷金助町」(きんすけちょう)は現在の文京区本郷三丁目内(この中央附近(グーグル・マップ・データ))。家康の入府後、御小人頭(おこびとがしら:雑役に従事した小者の統括者)として従ってきた牧野金助が元和四(一六一八)年に拝領した地であったことによる。
「岡麓」「明治三十二年 歌人来訪」で既出既注。
「香取秀真」同前。芥川龍之介の隣人になるのは、ここから田端に移ってから。
「本郷まで」「小石川まで」孰れも「国文学研究資料館所」の同館「蔵 日本叢書 子規言行録」(子規没後出版)で読める。]
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