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2018/06/09

諸國里人談卷之二 殺生石

 

    ○殺生石(せつしやうせき)

下野國那須野にあり。方五間ばかりに、垣を圍む。毒石也。人、此石に觸(ふる)れば、則(すなはち)、死す。又、虫を捉(とらへ)て石上(せきしやう)に置(おか)ば、立所(たち〔どころ〕)に死すなり。此石の傍(かたはら)に小流(こながれ)あり。那可(なか)川といふ川へ落(おつ)るなり。此川を渡る人、水に溺(おぼれ)て死するもの、年々、あり。彼(かの)流(ながれ)の毒氣(どくき)にあたるゆへなりといふ。野干(やかん)玉藻が精靈(せいれい)、石と成り、玄翁(げんわう)和尚教化(きやうげ)の事、世の人の耳にとゞまる所也。砒石(ひせき)の類ひ、毒ある石は、まゝある事也。奧州會津の盤大(ばんだい)山にも毒石あつて、これに觸(ふる)る禽獸、皆、死(しす)といへり。一書、云〔はく〕、「野干の此石に成〔なり〕たるといふは甚(はなはだ)妄説也。」と云〔いふ〕。然(しか)れども、望夫石のごとく、人の精靈、石に成たるためしあれば、巫石(みこいし)・牛石(うしいし)・野干石(やかんせき)、あるまじきもあらず。

[やぶちゃん注:「殺生石」は現在の栃木県那須町の那須湯本温泉付近にある溶岩地帯で、硫化水素や亜硫酸ガスなどの火山性有毒ガスを噴出している。(グーグル・マップ・データ)。私は五年前の十月、目の前まで行きながら、連れの妻が足が悪いため、遂に見ずに去った。以下の「鹿の湯」を含め、僕と妻の那須路弥次喜多道中記を参照されたい。

「下野國那須野」那須ヶ原は狭義には現在の栃木県北部の那珂川(なかがわ)と箒(ほうき)川に挟まれた扇状地を指すが、殺生石はその北方で、ここは広く現在の那須高原域まで含んだ総称。

「方五間」九メートル九センチ四方。

「小流」湯川。低温から高温まで現在は男湯で六種の温度が配された強い硫黄泉「鹿の湯」で知られる。前の私の僕と妻の那須路弥次喜多道中記を参照されたい。

「野干(やかん)」「射干」とも書く。元来は中国に於ける想像上の悪獣の名で、狐に似た外見を成し、木登りが上手、狼に似た吠え方をするというが、本邦では狐(或いは妖狐)の別称として用いられる。

「玉藻」妖狐のチャンピオン。寵妃玉藻前(たまものまえ)に変じて鳥羽天皇を惑わし、下野国那須野原(現在の栃木県北部の那須町付近)で退治されて殺生石に変じた九尾狐。ウィキの「玉藻前」によれば、帝の病いの元凶を『陰陽師・安倍泰成(安倍泰親、安倍晴明とも)が玉藻前の仕業と見抜』き、『安倍が真言を唱えた事で玉藻前は変身を解かれ、白面金毛九尾の狐の姿で宮中を脱走し、行方を眩ました』。『その後、那須野(現在の栃木県那須郡周辺)で婦女子をさらうなどの行為が宮中へ伝わり、鳥羽上皇はかねてからの那須野領主須藤権守貞信の要請に応え、討伐軍を編成』、『三浦介義明、千葉介常胤、上総介広常を将軍に、陰陽師・安部泰成を軍師に任命し』、八万余りもの『軍勢を那須野へと派遣した』。『那須野で、既に九尾の狐と化した玉藻前を発見した討伐軍は』直ちに、『攻撃を仕掛けたが、九尾の狐の術などによって多くの戦力を失い、失敗に終わった。三浦介と上総介をはじめとする将兵は犬の尾を狐に見立てた犬追物で騎射を訓練し、再び攻撃を開始』、『対策を十分に練ったため、討伐軍は次第に九尾の狐を追い込んでいった。九尾の狐は貞信の夢に娘の姿で現れ許しを願ったが、貞信はこれを狐が弱っていると読み、最後の攻勢に出た。そして三浦介が放った二つの矢が脇腹と首筋を貫き、上総介の長刀が斬りつけたことで、九尾の狐は息絶えた』。しかし、『九尾の狐はその直後、巨大な毒石に変化し、近づく人間や動物等の命を奪った。そのため』、『村人は後にこの毒石を『殺生石』と名付けた。この殺生石は鳥羽上皇の死後も存在し、周囲の村人たちを恐れさせた。鎮魂のためにやって来た多くの高僧ですら、その毒気に次々と倒れたといわれている。南北朝時代、会津の元現寺を開いた玄翁和尚が殺生石を破壊し、破壊された殺生石は各地へと飛散したと伝わる』とある。

「玄翁(げんわう)和尚」源翁心昭(げんのうしんしょう 嘉暦四(一三二九)年~応永七(一四〇〇)年)は南北朝時代の曹洞宗の僧。ウィキの「源翁心昭によれば、『越後国の出身。号は空外』。『初め』、『越後国国上寺で出家したが』、十八『歳で曹洞宗に改宗し』、『總持寺の峨山韶碩に入門した』。『その後』、『伯耆国に退休寺を開創し、出羽国の永泉寺・下野国の泉渓寺などの住持となった』。建徳二/応安四(一三七一)年に『結城氏の招きにより』、『下総国に安隠寺を開創し』、その四年後には『陸奥国会津に赴き、真言宗の慈眼寺を曹洞宗に改宗して示現寺と改めている』。茨城県結城市に墓所がある』。『殺生石を退治する逸話は有名であり、大きな金槌の玄能・玄翁(げんのう)の由来となった。伝承によれば、玄翁が殺生石を退治したのは』至徳二(一三八五)年八月『のことであるという。この功績により翌年、後小松天皇より法王能昭禅師の号を賜ったという』。『この他、自らの因縁に苦しむ毒龍に引導を渡し』、『成仏させたという伝承もある』とある。なお、新編鎌倉志四」の「海藏寺」に「開山源翁禪師傳」(漢文)があり、私が訓読したものも附してある(簡単な注も附けてある)ので、興味のある方はお読みになられんことをお勧めする。しかし、ちょっと読めばそこには極端な時代錯誤が散見されるから、実録としては機能しないものである。「スピリッチャル・パワード・玄能」というアイテムを握った「ゴースト・バスター玄翁和尚」の、凡そ荒唐無稽な伝承として書かれている。これは、一説に、この源翁が知られた源翁心昭とは実は別人とも目される所以でもあるのであろうと私は思っている。

「教化(きやうげ)」ここは本来の意味よりも退治・調伏のニュアンスで使っていて、あまり正しい使用法とは思われない。

「砒石(ひせき)」主に砒素を含む有毒の鉱物。砒霜石。

「奧州會津の盤大(ばんだい)山」磐梯山。

「巫石(みこいし)・牛石(うしいし)」参照

「あるまじきもあらず」菊岡沾涼がこうした化生説(江戸時代の奥医師や一家を成した知られた本草学者でも信じている者は有意に多かったから、必ずしも不思議ではない)を始めとして、本書に語られるような種々の怪異を大真面目に信じていたことがよく判る。]

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